🔯14」─3・A─善悪二元論は必ず間違える、「絶対正義」は存在しない、一神教より多神教。~No.46 

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 絶対真理を信仰する世界宗教において、日本神道など未開人の民族宗教邪教として滅ぼすべき敵であり、アフリカ人や日本人など異教徒の蛮族は奴隷・家畜・獣として扱う事は、全て「神の御名」によって許されていた。 
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 2023年12月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「戦争、暗殺の時代だからこそ寛容を語りたい~善悪二元論は必ず間違える、「絶対正義」は存在しない、一神教より多神教
 カエサルの名言
 写真提供: 現代ビジネス
 古代ローマの、ガイウス・ユリウス・カエサルは、
 「人は喜んで自己の望むものを信じるものだ」
 【写真】世界が「宗教紛争」に覆われる原因は何か~中東で紛争勃発の今こそ考える
 との名言を残している。
 例えば、一つの考えに囚われてしまうと、その考えを裏打ちするデータをひたすら集め、躍起になって自分の考えを「証明」しようとする人物がよくみられる。「都合の悪いデータ」を無視して、「都合の良いデータ」だけを集めているのだから、実はその行為は何も「証明」していなくて、ただ「信じている」だけだと言える。
 また同時に、
 「自分は自身の考えに忠実に生きたいと思う。他人も同様だろう。したがって、(私は)他人の生き方も認める。もしそのことによって、敵が私に再び刃を向けることになったとしても仕方がない。そのように生きることが私の願いだから」
 との言葉も残している。
 要するに、「自分の信念は確固たるものだから、簡単には曲げない。だから、他人がそうであることも認める」ということだ。
 古代ローマが発展したのは、特に帝国成立の初期に(戦争に勝った)「異民族」に寛容であり、同盟者として取り込んでいったことが大きな理由の一つであるとされる。
 特にローマの最強の敵であったともいえるカルタゴの名将ハンニバル・バルカに勝利できたのは、「異民族」がローマを支持したことが大きい。彼らが、強敵であるハンニバルの側についていれば、ローマはもしかしたらその時に滅亡していたかもしれない。
 カエサルは、歴戦を戦い抜いた猛将であるとともに、ローマの歴史を受け継ぐクレメンティア(寛容)の精神でも有名であったのだ。
 彼は、「ブルータスよ! お前もか!」という言葉で有名な暗殺事件でその生涯の幕を閉じた。この計画には、ブルータスだけではなく、おそらく元老院議員など80人以上が関わったと言われる。
 そして、カエサルの後を継いだアウグストゥスにより、ローマは(実質的に)共和制から帝政へと移行した。
 元老院議員たちは、カエサルが「皇帝」になって「元老院議員の特権」を脅かすことを恐れていたと言われるが、その後により「不寛容な皇帝」が続いたことは皮肉である。
 ちなみに、アウグストゥスの後は、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロである。特にカリグラとネロは、暴君として読者もよくご存じであろう。
 日本でも、11月15日「安倍晋三亡き後の岸田政権の『政党政治腐敗』は戦前のデジャブか?」で述べたように、安倍晋三氏が2022年8月7日に凶弾に倒れた(参照:「大原浩の逆説チャンネル<第2回・特別版>安倍元首相暗殺事件と迫りくるインフレ、年金・保険破綻」)。
 安倍氏に対しては、2020年5月22日公開「安倍首相を叩く『アベノセイダーズ』が、民主主義を捨て全体主義に走る理由」の「アベノセイダーズ」が、元老院と同じように既得権益を守るためなのか、執拗な攻撃を行っていた。このような行為は戦前のデジャヴであるだけでなく、ローマの共和制を崩壊させ帝政への流れをつくった「カエサル暗殺事件」をも彷彿とさせる。
 結局、「他人の考えが存在すること」を認めずに「暗殺」という手段で相手を「問答無用」で「黙らせる」のは「独裁・独善」である。
 他者(他神)を否定する一神教
 単なる偶然かもしれないが、帝政期のローマで「迫害されたキリスト教」(世界史の窓)が一転して、紀元(後)313年の「ミラノ勅令によって(キリスト教が)公認」されたことは興味深い。
 古代ローマの建国は紀元前753年とされる(伝承)が、それ以来、313年まで多神教が支配する国であったのだ。
 313年にキリスト教は「公認」されたが、他の宗教も依然「公認」された状態であり、最終的に392年にテオドシウス帝によってローマ帝国の「国教」とされた。
 そして、注目すべきは476年に「西ローマ帝国の滅亡 」(世界史の窓 )を迎えたことである。ちなみに、キリスト教が「国教」となった直後の5世紀初頭から、ゲルマン人などの侵攻に晒された西ローマ帝国は、すでに統治能力を失いつつあった。
 古代ローマの長大な歴史を考えれば、これらの時期は「最末期(滅亡期)」である。その「最末期」に、多様な神々を信仰する多神教ではなく、「他の神々を否定する一神教」がローマ帝国において強大な力を持つようになったのは果たして偶然だろうか。
 一神教をも包含するのが多神教である
 現在、世界最大の宗教勢力はキリスト教である。世界総人口のうちキリスト教徒が3割以上でトップ、次いでイスラム教徒が約25%で2位と見積もられる。この二つの一神教だけで過半数を越える。3位は約15%の多神教であるヒンズー教徒だが、上位2宗教に圧倒されている。また、我々になじみ深い仏教徒は7%程度と推計される。
 カトリック教会の異端審問・宗教裁判、さらには十字軍(イスラムから見れば強盗・殺人集団)に象徴されるように、キリスト教(カトリック教会)は他の宗教(さらには異端)を認めない姿勢を長年貫いてきた。欧米諸国の文化の根底にもこの「不寛容」な精神が流れていると考えるべきであろう。
 イスラム教においては「ジズヤ/人頭税」(世界史の窓)のように、「余分な税金を払えば『他の信仰』も認める」という寛容な政策を取ってきた。ただし、認められる『他の信仰』の対象は、基本的に「啓典の民」(世界史の窓)と呼ばれるユダヤ教徒イスラム教徒であったことには注意が必要だ。
 「ギャラリー:もう見られないバーミヤン大仏、破壊前の貴重な写真9点」で述べられている、2001年3月の(多神教である)仏教の貴重な遺産をタリバンが破壊した事件を覚えている方も多いだろう。
 それに対して、多神教は「他の宗教の神々を内包する寛容さ」を持っている。
 特に、「大原浩の逆説チャンネル<第12回 >苦しい時の神頼みが最高戦略、神は存在しないが宗教は重要だ」や、2020年6月10日公開「コロナ、暴動に満ちた今こそ『苦しい時の神頼み』の効用を見直そう」で述べた、「神社で七五三をし、教会で結婚式を挙げ、寺で葬儀を執り行い墓をつくる」というような「神仏(キリスト)習合」は素晴らしい。
 神道と仏教(さらにキリスト教など)を見事に融合した。「オンディマンド」という宗教観は、日本人の英知といえる。
 「あなたの神の言うことも、私の神の言うことも(少なくとも一部は)正しい」という姿勢は、果たして「不信心」なのであろうか? 長所を寄せ集めて、「より良いもの」を生み出すのは、優れた手法だと思う。
 「わかりやすい」ことは正しいとは限らない
 民主主義社会では、全体主義思想、独裁思想も完全否定はされない(拷問されたり、火あぶりにされたりしない)。だからこそ、民主主義なのだ。多神教も同じである。一神教を完全否定はしない。
 だが、そのことが民主主義や多神教をわかりにくくしている。
 例えば、勧善懲悪物語で「正義のヒーロー」が「悪人」をなぎ倒していくのは痛快だ。しかもわかりやすい。だから人々の人気を得ることができる。
 だが、「本当の世の中」は「夢の世界」とは異なる。現実の世界では「絶対真理」や「絶対正義」は存在しないと考えるべきだ。「生き物」である世の中は常に揺れ動くから、「相対的な最適解」しか見つけることができない。そして、その最適解は、基本的に中庸(コトバンク)にある。
 中庸は実は難しい。「中庸」(バランス)を維持するためには、微細なコントロールが要求される。
 それに対して、一神教は「神のみ心」=「神が定めた絶対真理」ですべてが解決されるからわかりやすい。世界的に一神教が広がったのは、そのわかりやすさ故だと思える。
 それに対して、私が執行パートナーを務める、人間経済科学研究所フェロー・沼田功の「一つの宗派だけではすべての人々を救うことはできない=神仏習合の意味。そして出会い」は非常に興味深い内容だ。
 屁理屈で論破することに意味は無い
 大事なのは、我々の生きる「現実の世界」である。「夢の国」のひと時は素晴らしいが、それだけでは(普通の)人間は生きていくことができない。
 ネット上で色々な議論が交わされるが、「現実に必要な『中庸』」を欠いた、「机上のクウロニスト」(机上の空論を述べる人)に価値は無い。重要なのは「真実」である。
 極論は確かにわかりやすいが、「真実」には近づけない。世の中は、線描で描かれているのではない。グラデーションによって、連続的に変化しているのだ。
 その濃淡をどのようにとらえるのかには様々な意見があり、「絶対真理」は無い。例えば虹の色を光の波長で考えればよくわかる。
 光の色に境目は無い
 人間環境大学「【心理学科コラム】虹の色は7色?」で述べられているように、日本人が7色と表現する虹の色は、米国では一般的に6色、ドイツでは5色とされる。さらには、3色、2色とする文化圏もあるようだ。
 実は、虹の色を構成する(人間に見える)「光の色」は、「東邦大学可視光線』」の図にあるように、ラジオ波から赤外線、紫外線、ガンマ線に至る極めて広い幅の波長の電磁波の中のごく一部に過ぎない。
 可視光線も電磁波の一種であるから、電磁波に色がついているのではなく「人間の脳が色として認識」しているだけなのだ。人間の脳は、文化圏の影響を大きく受けるし、個々人の差異も大きい。
 よく言われるように、だれかが「赤」として見ている色が、実は他の人にとっては「青」という可能性もあるのだ。つまり、「赤」と言っている色が、実は人によって脳の中では「青」「緑」「黄色」に見えるということがあり得る。しかしながら、それを確かめる手段が無い。
 このように、人間は「多種多様」であるし、だからこそ文明を発展させることができたのだと思う。金太郎飴を切ったような画一的な人間ばかりであれば、人類の発展は無かっただろう。
 だから「他人が自分と違って当たり前」である。カエサルの冒頭の二つの言葉が意味するものは極めて大きい。
 大原 浩(国際投資アナリスト)
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