💟9¦─1─アメリカ強制収容所、日系人の射殺から80年追悼の石碑、保存のあり方を模索。~No.32No.33No.34 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦時中、アメリカ国内の在米日系人強制収容所では、敵性日本人やアメリカ国籍日本人に対する尋問と称する拷問が日常的に行われ、怪我や病気は死ぬん任せて放置され、非人道的に扱われ、抗議する日系人は反逆的暴動として暴力的に鎮圧され射殺された。
 日本軍の連合国軍捕虜に対する暴力は戦争犯罪とされたが、連合軍の日本人兵士捕虜やアメリカの強制収容所における拷問や射殺は合法とされた。
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 宗教的人種差主義および科学的優生学アメリカ人にとって、非キリスト教非白人の日本人は「イエロー・モンキー」であり、殺して当然の「獣」であり、殺しても罪の意識を持つ必要のない「害虫」であった。
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 2023年6月1日 朝日新聞デジタル記事「米収容所、日系人の射殺から80年 追悼の石碑、保存のあり方を模索
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 米ユタ州デルタ=五十嵐大介
 ワカサさんが住んでいた収容所の住居跡から射殺された現場まで歩く追悼式典の参加者ら=2023年4月22日、米ユタ州デルタ、五十嵐大介撮影
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
 第2次世界大戦中、米西部ユタ州の収容所で日系人男性が射殺された。それから80年が経ち、元収容者と地元住民らが現地で追悼式典を開いた。長く埋もれていた事件や、収容者らの苦難を刻んだ石碑をどう後世に伝えるか、人々の模索が続いている。
 あの日、日系人収容所で起きた悲劇 「無実」で銃殺のワカサを追って
 米収容所で銃殺の「ワカサ」は何者か 外務省文書に記載でも深まる謎
 地面が乾いてひび割れた荒野の奥に、雪で覆われた山々がみえる。州都ソルトレークシティーから車で約2時間の場所に、トパーズ日系人収容所跡地がある。この地で射殺されたジェームズ・ハツアキ・ワカサさん(米国側記録に基づく氏名、当時63歳)の追悼式が、4月下旬に開かれた。
 ワカサさんが住んでいたバラックの跡地から射殺された現場まで、参加者たちは10分ほどかけて歩いた。
 石川県の小学生らが託した花
 「彼の追悼のために多くの人…
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 2024年4月28日 YAHOO!JAPANニュース 朝日新聞デジタル「日系米国人の強制収容施設跡地で恒例の「巡礼」 今年で55回目
 第2次世界大戦中、日系米国人が強制収容された施設跡地への「巡礼」で、盆踊りをする参加者=2024年4月27日、カリフォルニア州マンザナール、中井大助撮影
 第2次世界大戦中、米国で日本人や日系米国人が強制収容された施設跡地の一つ、カリフォルニア州マンザナールで27日、恒例の「巡礼」があった。収容経験者やその子孫らが戦中の記憶をつなぐために続けており、今年で55回目。参加者からは「米国や世界の民主主義の将来が心配な時だからこそ、巡礼の意義がある」との声が出た。
 【写真】第2次世界大戦中、日系米国人が強制収容された施設跡地への「巡礼」で、盆踊りをする参加者=2024年4月27日、カリフォルニア州マンザナール、中井大助撮影
 米国では1942年、主に西海岸周辺に住んでいた約12万人の日本人や日系人が、「安全保障上の脅威」という理由で、大統領令によって自宅などから立ち退かされ、強制収容施設に移住させられた。
 施設の多くは人里離れた場所に作られた。ロサンゼルスから北に約300キロの砂漠地帯にあるマンザナールもそうだ。戦中は鉄条網で囲まれたバラック小屋が並び、兵士が警備に立っていた。
 戦後にバラック小屋などは解体され、強制収容を経験した人の多くは「米国に同化しよう」と体験について語らなかった。しかし、「記憶をつなぐべきだ」という運動が起き、マンザナールでは69年に「巡礼」が始まった。跡地は92年に国定史跡に指定された。米政府も88年に日系人らに謝罪し、補償を支払った。
 朝日新聞社
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