✱271」─2─アメリカ国務長官は地方政治家に中国外交官の諜報活動を警告した。〜No.709 ㉖ 

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 一般中国人と中国共産党員・中国軍人・武装警察・民兵・海民兵とは別の中国人である。
 警戒すべきは、中国共産党員・中国軍人・武装警察・民兵・海民兵であって、一般中国人ではない。
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 2020年9月24日04:47 Microsoft News Reuters/Jason Lee「米地方政治家、諜報活動関与の中国外交官に警戒必要=国務長官
 © Reuters/Jason Lee 米地方政治家、諜報活動関与の中国外交官に警戒必要=国務長官
[ワシントン 23日 ロイター] - ポンペオ米国務長官は23日、米国の地方の政治家に対し、中国のスパイ活動に関与している可能性のある同国の外交官に対し警戒するよう呼び掛けた。
 ポンペオ長官は訪問先のウイスコンシン州で、中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)と関連している米中友好協会と中国和平統一促進会が、米国の学校や企業グループのほか、地元政治家に影響を及ぼそうとしていないか、国務省は活動を監視していると表明。
 「中国の外交官から接触があった場合、協力や友好の精神に基づくものではないと知っておく必要がある」とし、中国共産党は地方レベルでもスパイ活動を行っている恐れがあるとして警戒を呼び掛けた。
 ポンペオ氏は2024年の米大統領選挙への出馬を目指しているとみられている。」
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🎪71」─2─フランス系スウェーデン王家。中立国の軍隊と武器輸出産業そしてノーベル賞。~No.201No.202 

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 大陸王国では、他国の人間が高位王女と結婚すると自動的に王位継承権を得て国王に即位した。
 王女が恋して結婚する男には、出身国、出自(家柄・血筋)、王族・貴族・騎士、階級・身分、職業は関係なかった。
 王位継承権において、王統と血統は別物で無関係であった。
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 大陸の王家は開けていた為に、他国出身の身分低い浮浪者が一夜で国王に即位して王国を統治した。
 国王の正統性は、キリスト教会が授けていた。
 法律の正当性は、国王が自ら裁可した家法・憲法で認定された。
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 理想的平和主義の現代日本人には、世界史的な中立国、中立宣言、平和宣言、非武装平和都市宣言などを理解できない。
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 2016年11月3日号 週刊新潮「国際問題 鳥の目 虫の目 魚の目 宮家邦彦
 スウェーデン『高度福祉平和中立国家』の真実
 毎年、今頃になるとストックホルムに世界の注目が集まる。もちろん、お目当てはノーベル賞だが、平和賞だけはスウェーデンではなく、ノルウェーが授与するのは何故だろう。
 スウェーデンといえば、人権、中立、高負担・高福祉の平和国家というイメージが強いが、この国がNATO非加盟の武器輸出大国である理由は何だろう。
 ストックホルムに着いて驚くのは、この首都が島々から成ることと、ブダペストと同様、古い街並みが残っていることだ。当然である。スウェーデン最後の戦争は、1814年の対ナポレオン戦。つまり過去200年以上戦っていないのだが、一体、何故そんなことが可能なのか。
 まずは地政学から始めよう。スウェーデンスカンジナビア半島の東側に位置し、西側のノルウェーと長い国境線で結ばれる。北部でフィンランドと国境を接し、南部でデンマークに近接するスウェーデンバルト海の大国でもある。17世紀、フィンランドエストニアラトビアの一部はその支配下にあった。当時、バルト海スウェーデンの海だった。
 1809年、スウェーデンは12世紀から保持していたフィンランドをロシアに奪われた。ナポレオン戦争後はノルウェー連合王国を形成し、20世紀初頭の1905年まで維持した。ちなみに、ノーベル賞の創設は連合王国時代の1901年だから、ノルウェーが賞の一部を授与しても何ら不思議はないのだ。
 続いて、スウェーデン軍事産業について一言。この国が200年も平和だった理由の一つは、強力な軍隊の存在だ。人権保護や平和構築など良いイメージがあるが、同時に世界第11位の武器輸出国でもあり、小型で高速道路からも離着陸できるグリペン戦闘機など高性能兵器を開発、輸出する。驚くなかれ、日本の自衛隊スウェーデン製の無反動砲や潜水艦推進機関を使っている。ちなみにグリペン戦闘機を開発したのは、日本でも自動車で有名だったサーブ社だ。
 このスウェーデン軍が最近ロシアの動きを警戒し、バルト海沖に浮かぶゴットランド島に150名の部隊を常駐させた。19世紀以降、スウェーデンにとって最大の脅威はロシア・ソ連だったが、そのロシアが再びバルト海方面戻ってくると判断なのだろう。
 スウェーデンの対露戦略は実に見事だ。もちろん、一国ではロシアに太刀打ちできない。そこで北欧全体で考えた。スウェーデンフィンランドともNATO非加盟、EU加盟の国であり、フィンランドはユーロも導入している。逆に、ノルウェーNATO加盟だがEUは非加盟、ユーロも導入していない。この一見、バラバラの北欧3国が長期間平和を維持した最大の理由は、瞠目すべき戦略的分業に成功したからだ。
 具体的には、ロシアと直接国境を接するフィンランドに勇猛果敢な陸軍を、スウェーデンにあ強力な迎撃能力を誇る空軍を置き、ノルウェーNATOの援軍を受け入れる。これで北欧の平和と安全を守ってきたのだ。分業を可能とした理由は3国の同質性と地政学的共通利益もあろうが、より重要な点は『平和を守るために戦争の準備をする』という、彼らのごく当たり前の発想だ。……」
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 ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。
 経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としているが、一般には「ノーベル賞の一部門」として扱われることが多い。
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 スウェーデン王国
 スカンディナヴィアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していた。
 スウェーデン王は、ヴァイキングの部族を起源とし、初期はデンマークノルウェーの君主を兼ねていた。
 カルマル同盟では、デンマークとの同君連合及びウップランド貴族のヴァーサ王朝を経てドイツ系の王朝に引き継がれた。
 ナポレオン戦争時代に、フランス人ジャン=バティスト・ベルナドット元帥が、デンマーク王女と結婚しカール14世ヨハンとして国王に即位した。
 女系継承を認めれば、スウェーデン王家はスウェーデン人ではなくフランス人となる。
 1980年 憲法改正により、王位継承は最長子相続制となった。
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 ヨーロッパの王侯貴族は例外なく血縁関係にあり、王侯貴族は他国の王位継承権を持ちっている。
 そして、王位継承は厳格なキリスト教教義に従って男系相続である。
 いまだかって女系相続による王侯貴族は存在せず、女系相続を採用した王国や王家は王朝は全て滅亡した。
 ヨーロッパの王位は、キリスト教会が絶対親の御名によって正統性の証を授けている。
 キリスト教会の戴冠式をえない国王は、認められない。
 国王であり元首は、俗世の憲法に従って即位しても、神聖な信仰を誓わなければ承認されない。
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 古今東西で、全ての王侯貴族は男系のみで女系は存在しない。
 キリスト教儒教と同様に、男系原理主義である。
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 反宗教無神論共産主義は、王権も教会の権威も完全否定している。 
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 第二次世界大戦の教訓から、中立政策と軽武装では祖国防衛は不可能であるとして、全ての政党・党派は独自の兵器体系と強力な軍隊を持つ事に賛成した。
 専守防衛を鉄壁にする為に、軍装備を旧式のローテク兵器から最新鋭のハイテク兵器にかえた。
 ハイテク兵器は高度な専門知識と熟練した技能が求められ為に、徴兵制による兵士では使いもにならないとして、2010年7月1日に徴兵制度は正式に廃止された。
 さらに、三軍に準じていた郷土防衛隊も廃止された。
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 高度な最新科学機術による軍需産業に力を入れる国家は先進国として富み栄える。
 大金を軍需製品開発に投じない国の産業は、衰退産業として消滅する。
 スウェーデンは国民1人当たりの武器輸出量は、イスラエルとロシアに次ぐ世界第3位であった。
 軍需産業の好景気が、国民生活を潤し、高福祉の平和国家を支えた。
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 軍事力を伴わない中立は、無意味であった。
 中立を保てるのは、強力な軍隊を保持した武装中立のみであった。
 反戦平和都市宣言も、不武装都市宣言も、無意味であった。
 日本の反戦平和団体が求める世界・社会は、地球上には存在しない。
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 立憲君主制国家・スウェーデン王国

 フランス系ベルナドッテ王朝(Bernadotte )は、1818年から現在まで続くスウェーデンの王朝である。ポンテコルヴォ王朝とも呼ばれる。
 スウェーデンホルシュタイン=ゴットルプ王朝のカール13世(在位:1809年 - 1918年)には世継ぎが生まれなかったため、スウェーデン国民議会は、当時ヨーロッパの覇権を握っていたナポレオン・ボナパルト配下の将軍ジャン=バティスト・ベルナドット(スウェーデン語名ベナドット)を王位後継者に推戴した。ベルナドットは南フランスのベアルン州ポー出身で兵卒として軍に入り士官へと昇進し、さらにフランス革命後の動乱の中でフランス元帥、ポンテコルヴォ大公にまで出世していた。ポンテコルヴォ王朝の名はこの時期の称号に由来する。

 国民
 詳細は「スウェーデン人」、「w:Swedes」、および「スウェーデンの人口統計」を参照
 民族構成(スウェーデン
 スウェーデン人 85%
 フィンランド人 5%
 その他 10%
 スウェーデンの人口推移(1961年-2008年)
 スウェーデンは一人の高齢者(65歳以上)を3.1人の生産世代(20-64歳)が支える少子高齢化社会であるが、しかし総人口は増え続けている。合計特殊出生率は1.94人であるが、一方で純移動率は6.75人と流入超過であり、出産ではなく移民によって人口が増加している。
 スウェーデン人(典: svenskar)とは、スウェーデン王国の国民、または、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称。

 移民問題
 カール16世グスタフ「私も移民の子孫ですよ」(シルヴィア王妃はドイツ生まれのブラジル育ちで、ドイツ人の父とブラジル人の母を両親に持つ)
 スウェーデンでは次世代先進国のモデルとして「高福祉高負担」の社会モデルが注目されていたが、その影には移民政策による歪みが拡大している。
 移民排斥を唱える右翼政党のスウェーデン民主党が、反移民の空気の広がりを追い風にして2010年9月のスウェーデン総選挙で初めて国政に進出し20議席を獲得した。党首のジミー・オーケソンは「わが国の移民政策は失敗だった」と述べ、スウェーデン社会にとけ込まない移民に対する不満が右派政党躍進の背後にあったとみられている。
 2013年5月中旬、警察による男性射殺事件に端を発した抗議暴動は瞬く間に拡大し、ストックホルム市内とその周辺では車や学校への放火が相次いだ。警察署や学校が襲撃され、22日には一晩で90件の火事が発生した。これに関連しラインフェルト首相は、移民の社会統合の失敗がストックホルムにある諸問題の一因であることを認めており、拡大し続ける移民問題のひずみにどう対処するのか、スウェーデンの今後の社会動向が注目されている。

 言語
 2009年7月からスウェーデン語 (svenska) が正式な公用語に制定された。そのほか、フィンランド語、メアンキエリ、ロマ語、サーミ語、イディッシュ語を話す者も少数いる。スウェーデン語は隣国のノルウェー語、デンマーク語と類縁関係にあり、スウェーデン語話者とノルウェー語話者は相互に意思疎通ができる会話程度は可能であると言われる。
 テレビ番組に米国製番組の字幕版が多いといった文化面の影響もあり、英国の方が近いにもかかわらず、英国英語でなくてアメリカ英語で話す人たちもいる。
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 スウェーデンにおける人類の痕跡は、紀元前1万年頃。
 紀元前3000年頃には農業を営み、青銅器を使用していた。
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 古王。
 ユングリング朝 975年頃〜1060年。
 ステンキル朝 1060年〜1125年。
 エストリズセン朝 1125年〜1130年。
 スヴェルケル朝及びエリク朝 1130年〜1160年。
 エストリズセン朝 1160年〜1161年。
 スヴェルケル朝及びエリク朝 1161年〜1250年。
 ビェルボ(フォルクング)朝 1250年〜1364年。
 メクレンブルク朝 1364年〜1389年。
 カルマル同盟 1389年〜1523年。
 現スウェーデン王国 
 ドイツ系ヴァーサ朝 1523年〜1654年。
 プファルツ朝 1654年〜1720年。
 ヘッセン朝 1720年〜1751年。
 ホルシュタイン=ゴットルプ朝 1751年〜1818年。
 フランス系ベルナドッテ朝 1818年〜
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 世界ランキング統計局
 SIPRIによると、武器輸出国の上位5ヶ国は、アメリカ(87億6,000万ドル)、ロシア(80億300万ドル)、中国(17億8,300万ドル)、ウクライナ(13億4,400万ドル)、ドイツ(11億9,300万ドル)。
 前年と比較すると、中国が4位から3位に、ウクライナは12位から4位に順位を上げている。
 特に中国の輸出額は近年右肩上がりで増加している。中国兵器の主な輸出先は、中国と関係が深いパキスタンミャンマーバングラデシュベネズエラなど。

 武器輸入国の上位5ヶ国は、インド(47億6,400万ドル)、中国(16億8,900万ドル)、アメリカ(12億9,700万ドル)、トルコ(12億6,900万ドル)、パキスタン(12億4,400万ドル)と、アメリカ以外はアジアの国が占めている。さらに上位10ヶ国にはアラブ首長国連邦や韓国、サウジアラビアも入るなど、アジア各国の存在が目立っている。

 一方、日本は武器輸出三原則の方針を踏襲しているため、武器輸出額は名目上ゼロとなっているが、輸入額では世界31位の2億3,900万ドル(約227億円)となっている。

 武器の輸出額 国別ランキング TOP30(2012年)

 順位:輸出国:輸出額(2012年):USドル(単位:100万ドル):日本円換算
($1 = ¥95)
 1,アメリカ:8,760:8,322億円 
 2,ロシア:8,003:7,603億円 
 3,中国:1,783:1,694億円 
 4,ウクライナ:1,344:1,277億円 
 5,ドイツ:1,193:1,133億円 
 6,フランス:1,139:1,083億円 
 7,イギリス:863:820億円 
 8,イタリア:847:805億円 
 9.オランダ:760:722億円 
 10,スペイン:720:684億円 
 11,イスラエル:533:506億円 
 12,スウェーデン:496:471億円 
 13,カナダ:276:262億円 
 14,スイス:210:200億円 
 15,韓国:183:174億円 
 16,ノルウェー:169:161億円 
 17,南アフリカ:145:138億円 
 18,ポーランド:140:133億円 
 19,ルーマニア:108:103億円 
 20,シンガポール:76:72億円 
 21、ニュージーランド:75:71億円 
 21,オーストラリア:75:71億円 
 23,フィンランド:62:59億円 
 24,トルコ:53:50億円 
 25.ブラジル:32:30億円 
 26,アイルランド:25:24億円 
 27、デンマーク:23:22億円 
 28,ベルギー:21:20億円 
 29,不明(Unknown country):16:15億円 
 30,ヨルダン:12:11億円 

 武器の輸入額 国別ランキング TOP40(2012年)

 順位:輸入国:輸入額(2012年):USドル(単位:100万ドル):日本円換算
($1 =¥95)
 1,インド:4,764:4,526億円 
 2,中国:1,689:1,605億円 
 3,アメリカ:1,297:1,232億円 
 4,トルコ:1,269:1,206億円 
 5,パキスタン:1,244:1,182億円 
 6,アラブ首長国連邦:1,094:1,039億円 
 7,韓国:1,078:1,024億円 
 8,サウジアラビア:923:877億円 
 9,オーストラリア:889:845億円 
 10,モロッコ:790:751億円 
 11,アルジェリア:650:618億円 
 12,ベネズエラ:643:611億円 
 13,シンガポール:627:600億円 
 14,ミャンマー:619:588億円 
 15,イギリス:598:568億円 
 16,アフガニスタン:576:547億円 
 17,イラク:415:394億円 
 18,台湾:412:391億円 
 19,ブラジル:410:390億円 
 20,イスラエル:387:368億円 
 21,ベトナム:364:346億円 
 22,シリア:376:357億円 
 23,ウガンダ:342:325億円 
 24,バングラデシュ:325:309億円 
 25,カタール:316:300億円 
 26,タイ:297:282億円 
 27,コロンビア:279:265億円 
 28,メキシコ:267:254億円 
 29,オランダ:260:247億円 
 30,スペイン:256:243億円 
 31,日本:239:227億円 
 32,スウェーデン:228:217億円 
 33,エジプト:226:215億円 
 34,イタリア:215:204億円 
 35,カナダ:188:179億円 
 35,インドネシア:188:179億円 
 37,ドイツ:183:174億円 
 38,ポーランド:182:173億円 
 39,ノルウェー:163:155億円 
 40,アゼルバイジャン:158:150億円 
 40,ヨルダン:158:150億円 
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✞176」─1─スウェーデン赤十字社とデンマーク政府によるユダヤ人救出の白バス計画。1945年。~No.535No.536 

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 スウェーデンはスカンディナヴィア半島東部に位置する南北に長い国土を有する国である。同じ北ヨーロッパに属するデンマークノルウェーフィンランドのみならずバルト三国、ロシア、ポーランドにさらにドイツとの間でも戦争や外交が展開された歴史を持つ。また近代においては武装中立を国是とし、世界有数の福祉国家を建設したことも注目すべき点であろう。

 スウェーデンの近代
 1905年には平和裏にノルウェーの独立を認め、さらに第一次世界大戦(1914年にスウェーデンノルウェーデンマークの北欧3国王は、マルメにおいて中立宣言を行った(三国国王会議)、第二次世界大戦ではナチス・ドイツの侵攻の危機にさらされたが、ヘルマン・ゲーリングの執り成しによって中立を維持することに成功した。第二次大戦中には、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力したラウル・ワレンバーグや、1945年の春にスウェーデン赤十字社デンマーク政府が協力して強制収容所から助け出されたユダヤ人を中立国のスウェーデンへ脱出させる白バス計画が実施された。
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 フォルケ・ベルナドッテ、伝説的な意志力を備えた人道主義者 
 【ルンドIDN=ジョナサン・パワー】
 ブダペスト駐留のスウェーデン人外交官で、ナチス・ドイツ占領軍の手を逃れてスウェーデンに逃れられるよう、少なくとも6000人のユダヤ人に「保護証書」を発行したラウル・ワレンバーグ氏についてはよく知られている。ワレンバーグ氏はユダヤ人虐殺計画を察知し、責任者の将校と交渉して阻止することにも成功した人物であり、米国は同氏に史上2番目(第一号はウィンストン・チャーチル英首相)の名誉市民権を付与している。
 また、ナチス・ドイツ占領下にあった多くのデンマーク人が、小舟を使って約7000人のユダヤ人を、海峡を越えて当時中立国であったスウェーデンに入国させた素晴らしい取り組みについてもよく知られている。
 また、ドイツ人ビジネスマンのオスカー・シンドラー氏についても、のちにスティーヴン・スピルバーグ監督による名作「シンドラーのリスト」で有名になった。映画では、シンドラー氏が、いかにしてポーランドの工場を利用して数千人におよぶユダヤ人を保護したかが描かれている。
 一方で、ウィンストン・チャーチル首相が、ナチス・ドイツ強制収容所の存在について、実態を知りたくはないと語ったとされる大戦末期に、そうした収容所から人々を救うために多大な尽力をしたスウェーデン人貴族、フォルケ・ベルナドッテ伯については、どれほど多くの人が知っているだろうか。
 シェリー・エムリンク氏は、最近出版したベルナドッテ伯の伝記のなかで、これまで謎だった多くの部分に光を当て、同氏の生涯を鮮明に蘇らせている。
 Map of Swedenゆうまでもなく、スウェーデンにおいてベルナデット伯は、ワレンバーグ氏のように人々の記憶に残る歴史上の人物である。彼はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの幕僚の一人でスウェーデン議会の招きで王位を継いだジャン=バティスト・ジュール・ベルナドッテ元帥(カール14世ヨハン)の子孫である。カール14世ヨハンは国民に人気の君主で、それまでデンマーク領だったノルウェーを併合して同君連合(スカンジナビア半島の統一)を実現した功績を残している。
 スウェーデンによる対外戦争はこの時のデンマークとの戦争が最後となった。1814年以来、スウェーデンは平和主義とはいわないまでも、一貫して中立の立場を堅持してきた歴史がある。後に、フォルケ・ベルナドッテ伯が、当時ヒトラー政権の第二の実力者であったハインリッヒ・ヒムラーへの定期的なアクセスを確保し、次々と大規模な囚人の解放を交渉できた背景には、こうしたスウェーデンの歴史がある。
 元将校でもあったベルナドッテ伯も、この王家の理想主義を受け継いでいた。彼はかつて「私たちがこの世に生まれてきたのは、自身が幸せになるためではなく、他者を幸せにするためだ。」と記している。
 ナチス・ドイツによる絶滅計画は、ユダヤ人のみならず、ロマ、同性愛者、共産主義者、売春婦、ドイツ人と結婚した外国人女性、反体制派として起訴されたドイツ人女性が対象とされ、ヒムラー指揮下の親衛隊将校アドルフ・アイヒマンが実行にあたっていた。
 ベルナドッテ伯はヒムラーとの会談を画策し、3度にわたる会談を実現した。交渉は難航したが、デンマーク人とノルウェー人の囚人をスウェーデン赤十字の保護下に置けるよう一か所の収容所に集めることに同意させるなど、少しづつ譲歩を獲得していった。
 ヒムラーは、1944年までに、ドイツの敗北を予感するようになっていた。ベルナドッテ伯は、ヒムラーの弱みに付け入ることで、ヒムラーが連合軍に絶滅収容所の証拠が発見されないように焼却炉の破壊や生き残ったユダヤ人を皆殺しにする計画を未然に防ぐ決意を固めた。彼はヒムラーに対して、ドイツが連合軍に敗北した際に自身をアドルフ・ヒトラー総統よりも良く見せる工夫をすべきだと説得を試みた。
 しかし、ヒムラーはベルナドッテ伯との協力関係が知られればヒトラーの逆鱗に触れることを恐れており、ベルナドッテ伯に対する譲歩は遅々として進まなかった。
 結局、ヒムラーは譲歩の第一弾として、1000人のユダヤ人を含む約7500人の女性の囚人をラーフェンスブリュック強制収容所から解放することに同意した。ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のバスが強制収容所の入り口までくることを認めたのだ。ベルナドッテ伯は、ソ連軍が収容所に先に到着すれば女性たちが凌辱されることを恐れ、急いで救出作戦を進めていった。その後もあらゆる手段を講じて、終戦までにさらに30000人の救出に成功している。
 ヒムラーはベルナドッテ伯との最後の会談で、ある取引をもちかけた。内容は、もしベルナドッテ伯がスウェーデン政府を通じて連合軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー将軍に対して、「ドイツはソ連の前進を食い止める協力をする用意がある」というヒムラーのメッセージを伝えるならば、すべての強制収容所の囚人を解放するというものであった。
 ベルナドッテ伯にとってヒムラーの提案を本国政府に伝えること自体、なんのリスクを伴うものでもなかったが、この機会を利用してヒムラーからさらなる譲歩を引き出すことに成功した。デンマークノルウェーに駐留していたドイツ軍の降伏を認めさせたのである。
 エムリンク氏の伝記には、その際、ベルナデット伯が発揮した行動力、狡猾さ、説得力の強さが余すところなく描写されている。こうした情熱は戦後に国連に請われて調整官としてパレスチナに赴任した際にも発揮された。しかし、ベルナドッテ伯は、エルサレムイスラエルの首都であると当時に新生パレスチナの首都とすべきという考えを支持したために、武装シオニストの過激派分子の標的となり殺害されてしまった。この事件は、20世紀における大いなる運命の皮肉の1つに数えられている。後にイスラエルの首相をつとめたイツハク・シャミル氏は、ベルナドッテ暗殺を立案した人物だった。
 ベルナドッテ伯は享年54歳だった。彼が襲撃を生き延びていたらどのような功績を残しただろうかについては、推測することしかできない。恐らく、念願だった2国家共存解決案をイスラエルに受け入れされるべく説得工作を試みただろう。ベルナドッテ伯の意志の力は伝説的なものであった。(原文へ)
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 白バスは、スウェーデン赤十字社デンマーク政府により1945年春に実施された強制収容所の収容者をナチス支配地域から中立国のスウェーデンへ救出する計画に関する事項である。当初、この計画はスカンジナビア諸国の民間人を対象としていたが、直ぐに拡大されて他の国々の民間人もその対象に加えられた。
 この計画で総計1万5,345名の収容者が収容所の致命的な危機から助け出されたと言われ、そのうち7,795名がスカンジナビア諸国民で7,550名が非スカンジナビア人(ポーランド、フランス等々)であった。
 元々「白バス」という用語は、軍用車輌と見誤られないように白く塗装され赤十字をつけたバスから由来している。
 この計画に喚起されノルウェー白バス財団(the Norwegian White Buses Foundation)では、実際の目撃者や生存者たちと共にザクセンハウゼンやその他の強制収容所を見学する学生の修学旅行を運営している。
 ドイツ国内のスカンジナビア人収容者
 デンマークノルウェーは1940年4月9日にナチス・ドイツにより侵略された。すぐさま多数のノルウェー人が逮捕され、2カ月後には占領軍が最初の収容所をベルゲン郊外のウルヴェン(Ulven)に設立した。
 ナチス当局とノルウェーレジスタンス(resistance)との間の緊張が高まると次第により多くのノルウェー人が逮捕され、最初はノルウェー国内の刑務所や収容所に拘留されたが逮捕者が増えるに連れドイツの収容所に移送された。1940年8月29日に最初のノルウェー人がザクセンハウゼン強制収容所に到着したが、釈放され1940年12月には家に送還された。1941年春にノルウェーからの定期移送が開始された。
 デンマークでの逮捕は、1943年8月29日に連立政府が辞職すると共に始まった。
 ドイツ国内のスカンジナビア人収容者は、個人としての生活とある程度の自由が認められた所謂抑留民間人から死ぬまで労働を強いられる運命にある「夜と霧」の囚人まで様々に分類されていた。スカンジナビア人収容者の数が増えると、彼らを援助する様々なグループが組織された。在ハンブルクノルウェー船員の司祭のアルネ・ベルゲ(Arne Berge)とコンラート・フォクト=スヴェンソン(Conrad Vogt-Svendsen)は、収容者を見舞い食べ物を差し入れ、ノルウェーデンマークに居る彼らの家族へ手紙を届けた。フォクト=スヴェンソンは「グロス・クロイツ」("Gross Kreutz")の抑留民間人のノルウェー人一家のヨルト(Hjort)やサイプ(Seip)とも連絡を取った。他のスカンジナビア人達と共にグロス・クロイツのグループは、収容者とその所在地の膨大なリストを作成し、その後そのリストはベルリンのスウェーデン大使館経由でロンドンのノルウェー亡命政府へ届けられた。ストックホルムではノルウェーの外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフ(Niels Christian Ditleff)がスカンジナビア人の運命に濃密に関わっていた。1944年末の時点でドイツ国内には約8,000名のノルウェー人収容者とそれに加えて1,125名のノルウェー兵戦争捕虜がいた。
 デンマーク側ではカール・ハンメリク(Carl Hammerich)提督がドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人を救い出す「ユランズ軍団」(Jyllandskorps)というコードネームを与えられた秘密の遠征計画に長い期間携わっていた。ハンメリクはノルウェー船員の司祭、グロス・クロイツのグループとストックホルムのニールス・クリスティアン・ディトレフの何れとも良好な関係を築いていた。1945年初めの時点でドイツには約6,000名のデンマーク人収容者がいた。1944年中にデンマーク人達は収容者達がデンマークに無事たどり着いた場合に備えて、収容者の登録、輸送手段の手配、食料品や避難所の用意、収容者のための検疫といった広範囲な計画を練っていた。ハンメリクは、1944年2月、4月と7月にストックホルムを訪問しディトレフと計画について討議した。

 最後の引き揚げ者
 4月28日に国際赤十字から派遣された輸送隊がアンカークローナ(Ankarcrona)大尉に率いられノイブランデンブルクの収容所へやってきた。この輸送隊は前進してくるソ連軍をやり過ごし、200名の行進させられていた女性収容者を収容しリューベックへ連れ帰った。ドイツ側のゲシュタポ連絡将校のフランツ・ゲーリングは、2,000名(ユダヤ人960名、ポーランド人790名、フランス人250名)の女性収容者を移送するためにハンブルク発の輸送列車を調達し、この列車は5月2日にパドボーに到着した。この列車輸送はスウェーデン赤十字社の救出した収容者には勘定されていないが、この輸送は「白バス」と関連付けて言及されることが適切であるかもしれない。
 4月30日に223名の女性収容者を乗せた「マグダレーナ」と225名の女性収容者を乗せた「リリー・マティエッセン」の2隻のスウェーデン船がリューベックを出港した。この輸送はスウェーデン人医師のハンス・アーノルドション(Hans Arnoldsson)がビョルン・ヘガー(Bjørn Heger)の協力で手配したものであった。彼らは数隻の船に分乗した数千の収容者を後に残していかねばならず、これらは5月3日に英軍機に攻撃されカップ・アルコナの惨事となった。コペンハーゲンからマルメへのフェリーによる女性収容者グループの最後の輸送は5月4日に行われた。
 受け入れと評価
 デンマークの主要な受け入れ拠点はドイツ国境の街パドボーにあり、コペンハーゲンまでデンマーク国内を移動する前に食料と医療手当てを受けた。スウェーデンのマルメまではフェリーで運ばれ、そこで行政局(Länsstyrelsen)と民間防衛(Civilförsvaret)が引き受けた。伝染病の蔓延を防ぐために到着した者の誰もが検疫所に収容された。これら検疫所は11,000床を備える23箇所の営舎にあり、そのほとんどはメルメフス・レン(Malmöhus län)にあった。ほとんどがノルウェー人とデンマーク人医師と看護婦(彼ら自身が避難者であった)で運営する移動医療センターが収容者の介護を行ったが、収容者の中には手遅れの者もおり110名がスウェーデン到着後に死亡した。死亡者の大部分はポーランド人であった。
 スウェーデン赤十字によると合計15,345の収容者が救出され、内7,795名がスカンジナビア人で7,550名が他国の者であった。約1,500名のドイツ系スウェーデン人がスウェーデンへ移送された。合計2,000名の収容者がスカンジナビア人収容者のための余地を空けるためにノイエンガンメから他の収容所へ移送された。400名のフランス人収容者は、フロッセンブルクの収容所へ移送されることなくテレージエンシュタットに置き去りにされた。
 「白バス」遠征隊は国家に対する多大な好感を築き上げたスウェーデンの勝利であり、デンマークを通って帰還する遠征隊は狂喜する群集に迎えられた。ノルウェー独立記念日(Norwegian Constitution Day)である5月17日にはフォルケ・ベルナドッテ伯はノルウェー皇太子と共にオスロの王宮のバルコニーに立っていた。戦争中、ストックホルムに駐在していた英国の外交官ペーター・テナント(Peter Tennant)は、こう記している。
 "戦時中と戦後のスウェーデンによる人道主義への尽力は、戦時中にスウェーデンが行った日和見的な中立政策という不名誉を拭い去った。"

 後日の議論
 多数の収容者が生き延びた結果、第二次世界大戦後に「白バス」遠征隊のことは広く知られることとなった。しかし年月と共にスカンジナビア人収容者に与えられた優先度について疑問が持ち上がり始め、その中に歴史家のイングリッド・ロムフォルス(Ingrid Lomfors)著の「死角」(Blind Fläck)があった。スウェーデンノルウェー両国の新聞紙上で議論が交わされた。ノルウェーの新聞「アフテンポステン」紙(Aftenposten)の2005年2月14日付に掲載された投書で幾人かの元政治犯収容者がロムフォルスに対し非常に手厳しい批評をした後でこう結んでいる。
 "スウェーデン政府を代表してフォルケ・ベルナドッテと「白バス」の隊員たちは第二次世界大戦中にスウェーデンが行った中でも最大の人道的行為を実行した。スウェーデン政府はでき得る限り早急にこの遠征隊を顕彰する記念碑を建立すべきである。イングリッド・ロムフォルス氏はスウェーデン赤十字社と自らの命を懸けて任務を遂行した「白バス」の隊員たちに謝罪するべきである。
 ザクセンハウゼンにいた元政治犯のベルント・H・ルンド(Bernt H. Lund)は、収容者が経験したモラルのジレンマの暴露には肯定的であった。「アフテンポステン」紙(2005年8月20日付)の記事中で多くのスカンジナビア人収容者の特権的立場や恵まれた扱いを享受したことを恥じる思いについて広範囲に記し、記事の最後にこう記した。
 しかしながらこのことに陽の光が当てられたことは正しかったと感じる。スウェーデンの解放者のためだけでなくあの困難な状況下で彼らを手助けした我々にとっても、適切なやり方で死角を取り除いてくれたイングリッド・ロムフォルス氏に多大なる感謝を表する。
 親衛隊のために行った輸送に関して、スウェーデン赤十字社により集められた収容者は救出されたと信じたが似たようなあるいは更に劣悪な環境の中に「投げ捨てられた」ときにショックを受け裏切られたと感じた。スウェーデン人の運転手はこの仕事で強い心理的打撃を受けた。ヨースタ・ハルクウィスト(Gösta Hallquist)中尉は日記にこう記した。
 "病気で飢えた収容者(ポーランド人、フランス人、ベルギー人)は総じて無関心のように見え、通常は10人乗りのバスに50人が乗れるほど痩せ細っていた。"
 "私の次に指揮を執りトルガウの収容所から帰ったペール(Per)は、ひどくふさぎ込み泣いていた。私は彼を慰めた。輸送中に3名の収容者が死亡し、1名は死ぬまでライフルの銃床で殴られたということだった。"
 ノイエンガンメに留まっていれば更に多くの収容者が生き延びられたかどうかは定かではない。何故ならばノイエンガンメに居た多くの収容者が乗った船は英軍の飛行機に爆撃され沈没したからである。しかし、全ての収容者に公平な扱いをするという赤十字金科玉条はこの親衛隊との抜け目ない取引により破られたことは間違いない。
 これらの元収容者の幾人かと彼らの多くの孫子が今もスウェーデン南部で生活している。収容者の多くが最初に到着したスウェーデンの地であるマルメの街に数多くの関係者が現存している。
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 カップ・アルコナ (Cap Arcona) は、ドイツのクルーズ客船でハンブルク南アメリカ航路に就航していた。1945年にイギリス空軍により沈められた。本船にはドイツの収容所に収容されていた人が乗っており、多くが犠牲となった。
 船歴
 27,500総トンのカップ・アルコナは、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるリューゲン島のアルコナ岬から命名され、1927年に進水した。当時、最も美しい船の一つとされていたカップ・アルコナは、ハンブルク南アメリカライン(Hamburg Südamerikanische Dampfschifffahrts-Gesellschaft, ハンブルク・スッド、2017年にマースクラインにより買収)の船団の旗艦として、ハンブルクブエノスアイレス航路に就航し、上流階級の旅行者やsteerage-class(最下等船室)の移民を、主に南アメリカへ運んでいた。
 1940年、カップ・アルコナはドイツ海軍に接収され、バルト海のゴーテンハーフェンの岸壁で宿泊艦として使用された。1942年、ナチス・ドイツ製作の映画『タイタニック』において、タイタニックの代役として使用された。1944年終わり、カップ・アルコナは東プロイセンからドイツ西部への避難民の輸送に使われた。
 沈没
 ヨーロッパでの戦争の最後の数週間、スウェーデンの外交官で赤十字社副総裁のフォルケ・ベルナドッテは、ドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人の収容者を中立国スウェーデンへ移送していた。この計画は「白バス」として知られる。実際はこの計画には他の国の人も含まれていた。
 1945年4月26日、カップ・アルコナハンブルク付近のノイエンガンメ強制収容所から収容者を乗せ、二隻の小型船Athenとティールベクと共にリューベック湾へ移動した。
 1945年4月30日、二隻のスウェーデン船MagdalenaとLillie Matthiessenが収容者を乗せてリューベック湾を発った。
 1945年5月3日、カップ・アルコナティールベクと病院船に改装された客船ドイッチュラントがイギリス軍機によって沈められた。沈められた三隻には7千から8千人の収容者が乗っていた。半数はロシア人とポーランド人捕虜で、他はフランス、デンマーク、オランダなど24カ国の人であった。岸にたどり着いた生存者は親衛隊に射殺されたが、350人が逃げ延びた。約490名の乗員や親衛隊員がドイツの船に救助された。
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✞183」─3─スウェーデン外交官ワレンバーグは約10万人のハンガリー・ユダヤ人を救った。1944年。~No.521No.522No.523No.524  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 スウェーデン王国は、軍国日本と同様にユダヤ人難民を助けていた。
 スウェーデンは称賛を浴び、日本は貶された。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、ユダヤ人難民救済には一切関係していない。
   ・   ・   ・   
 民間人は、無償で救済した日本人とは違って、逃げる手引きの報酬として多額の金銭を要求した。
   ・   ・   ・   
 全ての国際的ユダヤ系財閥は、反天皇反日派として、天皇が支配する軍国日本と戦う全ての国家・政府・団体・組織に対して戦費・軍需物資・傭兵を提供し全面支援していた。
 ユダヤ人と昭和天皇・軍国日本は敵対関係にあった。
 それ故に、ユダヤ人は、スウェーデンの人道貢献を認め讃えたが、昭和天皇と軍国日本の人道貢献は否定し歴史の闇へと捨て去った。
 軍国日本と表面的に戦ったユダヤ人は、上海のサッスーン財閥であった。
 サッスーン財閥は、イギリスのロスチャイルド金融財閥のアジア・中国地区代表であった。
   ・   ・   ・   
 ユダヤ人難民を助けた人々の多くは、ユダヤ人難民から報酬の金を得ていた。
 無報酬でユダヤ人難民を助けた人は、少数であった。
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 ルドルフ・カストナー(Rudolf Israel Kastner、Rezső Kasztner、表記の揺れ:ルドルフ・ケストナー1906年 - 1957年3月15日)は、ユダヤハンガリー人ジャーナリスト、法律家である。第二次世界大戦中、ハンガリー国内のユダヤ人難民を逃がすシオニズム組織(Va'adat Ha-Ezrah ve-ha-Hatzalah be-Budapesht)のリーダーの一人。
 ホロコーストが起きていたヨーロッパで、ホロコーストを指揮していたナチスの将校アドルフ・アイヒマンと金品を引き換えに、カストナー列車でアウシュビッツに行くはずだった1,684人のユダヤ人をスイスへ逃がす秘密取引を行った。戦後、イスラエルの裁判所からナチスに協力したと告発された後、1957年に暗殺された。
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 2016年3月30日 産経ニュース「10万人のユダヤ人を救った「スウェーデン杉原千畝」 71年前に消息絶った外交官の死亡認定へ
 ラウル・ワレンバーグ氏(AP)
 【ロンドン=岡部伸】ロイター通信によると、スウェーデンの税務当局は29日、第2次大戦中に多くのユダヤ人をナチス・ドイツの迫害から救い、約71年前に行方不明となったスウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ氏について、財産管理人から死亡認定申請があり、半年後の今秋にも死亡が確認される可能性があることを明らかにした。
 ワレンバーグ氏は1912年8月生まれ。ナチス・ドイツが占領していたハンガリーに44年、臨時外交官として派遣され、中立国スウェーデンの「保護証書」を発行し、強制収容所に送られるユダヤ人を釈放させた。救出したユダヤ人は10万人に上るとされる。
 45年1月、ハンガリーに進攻したソ連軍幹部に会見を求めて司令部へ向かったまま消息を絶った。その後の生死は不明で、「墓場なき英雄」と称されている。
 ワレンバーグに救われたユダヤ人らが戦後、「国際ワレンバーグ協会」を設立して手掛かりを求めた。57年にソ連のグロムイコ外務次官(当時)は、「47年にモスクワのソ連国家保安委員会(KGB)管轄のルビャンカ収容所で心筋梗塞で死亡した」と述べたが、根拠は示されなかった。
 一方、79年にイスラエルで顕彰碑が造られ、96年にはイスラエル政府がユダヤ人を救済した功績をたたえて、日本人外交官、杉原千畝と同じくヤド・ヴァシェム賞を贈った。」
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 11月1日 産経ニュース「「命のパスポート」のスウェーデン外交官、ワレンバーグ氏の死亡認定、10万人のユダヤ人救った「墓場なき英雄」
 ラウル・ワレンバーグ氏(AP=共同)
 【ロンドン=岡部伸】英BBC放送によると、スウェーデンの税務当局は、第二次大戦中に多くのユダヤ人をナチス・ドイツの迫害から救い、旧ソ連軍に連行されて71年以上前に行方不明となっていたスウェーデンの外交官、ラウル・ワレンバーグ氏について、正式に死亡を認定した。
 ワレンバーグ氏は1912年8月生まれ。ナチス・ドイツが占領していたハンガリーに44年、臨時外交官として派遣され、「命のパスポート」といえる中立国スウェーデンの「保護証書」を大量に発行し、強制収容所に送られる前のユダヤ人約10万人を外交官特権で釈放させた。
 同氏は45年1月、ハンガリーに侵攻したソ連軍幹部と面会しようと司令部に向かったまま消息を絶った。その後の生死は不明で、「墓場なき英雄」と称されている。大戦後、ワレンバーグ氏に命を救われたユダヤ人らが「国際ワレンバーグ協会」を設立し、捜索を行ったが発見されていない。
 スウェーデン税務当局はワレンバーグ氏の財産管理人からの死亡認定申請を受け、10月26日付で死亡を認定。税務当局は「52年に39歳で死亡したとみられる」としたが、具体的な状況は明らかでないという。」
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 11月1日 AFP「「スウェーデンシンドラー」死亡認定 ユダヤ人10万人救う
 発信地:ストックホルム/スウェーデン [ ヨーロッパ スウェーデン ]
 スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ氏の写真。スウェーデンストックホルム近郊で(2015年1月13日撮影、資料写真)。(c)AFP/JONATHAN NACKSTRAND
 【11月1日 AFP】第2次世界大戦(World War II)中に数多くのユダヤ人の命を救ったものの、旧ソビエト連邦(Soviet Union)に身柄を拘束され、行方が分からなくなったスウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg)氏をめぐり、スウェーデン政府は10月31日、正式に死亡を認定した。行方不明となってから70年以上が経過してからの認定となった。
 「スウェーデンシンドラー(Swedish Schindler)」と呼ばれる同氏の消息については、冷戦時代最大の謎の一つとされてきたが、その遺体の行方はいまだに分からないことから、今回の発表は謎の一部を明らかにしたにすぎない。
 ワレンバーグ氏は、ナチス・ドイツ(Nazi)の占領下にあったハンガリーで、スウェーデンの保護証書を発行し、何万人ものユダヤ人を逃がした。
 しかし終戦の数か月前になって旧ソ連軍がブダペスト(Budapest)に侵攻し、同氏は1945年1月、司令部に呼び出されたのを最後に行方不明となった。
そしてこのたび、出生や死亡の登録を行うスウェーデン税務当局が、ワレンバーグ氏の公式の死亡日を1952年7月31日と発表。行方不明となってから最低5年が経過した後に初めて死亡と認められるため、この日付となった。1947年7月末までは、生存していた形跡があるとされている。
 今回の決定の前には、ワレンバーグ氏の遺族の代理人スウェーデン政府に対し死亡証明書の発行を求めていた。政府は同氏の捜索通知を発行したが、所在についての新たな情報は入手できていなかった。
 遺族がAFPに宛てた昨年の声明には、「(ワレンバーグ氏の)死亡宣告は、われわれがこれまで背負ってきたトラウマを癒やす手段で、先に進むための一つの区切りとなる」と書かれていた。
 行方が分からなくなった当時、ワレンバーグ氏は32歳だった。同氏がブダペストで組織した救出作戦により迫害を免れたユダヤ人の数は約10万人と推定されている。(c)AFP
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 2013年8月13日 AFP「ハンガリーナチス大物戦犯が死亡、ユダヤ人強制移送に関与
 発信地:ブダペスト/ハンガリー [ ヨーロッパ ハンガリー ]
 ハンガリーの首都ブダペスト(Budapest)の裁判所を後にするラスロ・チャタリ(Laszlo Csatari)被告(2012年7月18日撮影)。(c)AFP/ATTILA KISBENEDEK
 8月13日 AFP】第2次世界大戦(World War II)中にナチス・ドイツが行った戦争犯罪に加担したとされ、存命する重要戦犯リストのトップに名が挙げられていたハンガリー人のラスロ・チャタリ(Laszlo Csatari)被告(98)が10日朝、入院先の病院で死亡した。被告は約1万2000人のユダヤ人をナチス強制収容所に移送した罪で今年6月に起訴されていたが、結審を迎えることはなかった。
 チャタリ被告の弁護士が12日、AFPに語ったところによると、被告はしばらくの間、健康問題を抱えて治療を受けていたが、肺炎を発症して死亡したという。
チャタリ被告の罪を裁判で問う努力は、被告が逮捕され自宅軟禁に置かれていたハンガリーと、犯罪の舞台となったとされるスロバキアの2か国で数年にわたり続けられてきたが、被告の死亡によって幕が引かれることとなった。
 米国を拠点とするユダヤ人権利擁護団体「サイモン・ウィーゼンタール・センターSimon Wiesenthal Center)」によると、現在はコシツェ(Kosice)の名で知られるスロバキアの町カッシャ(Kassa)のユダヤ人ゲットー(隔離居住区)を管轄する警察幹部だったチャタリ被告は、1944年の強制収容所へのユダヤ人大量移送に関与したとされる。
 チャタリ被告をナチス戦犯リストのトップに挙げる同センターは、被告の協力によって1万6000人近くのユダヤ人がアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に送られたと主張している。一方、ハンガリー検察は、被告が収容所に送ったユダヤ人の数を約1万2000人としている。
1948年には旧チェコスロバキアの裁判所がチャタリ被告に対し、欠席裁判で死刑判決を言い渡したが、被告はカナダに逃れ、美術商として暮らしていた。しかし1990年代にカナダ市民権を剥奪され、ハンガリーに帰国。それより15年間は実名のまま不自由なく暮らしていたが、2011年になってウィーゼンタール・センターからの情報提供に基づきハンガリー検察が捜査を開始し、2012年7月に自宅軟禁下に置かれた。
今年6月、被告を戦争犯罪者として起訴した検察は、チャタリ被告がカッシャ・ゲットーのユダヤ人招集・移送施設の指令役として、1944年のユダヤ人強制移送に「積極的に関与・協力していた」と主張していた。(c)AFP/Peter MURPHY」
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 ウィキペディア
 ラウル・グスタフ・ワレンバーグ(Raoul Gustaf Wallenberg, [ˌɹɑːʊl ˈvalːənbæɹʝ] スウェーデン語読みではラオル・グスタフ・ヴァッレンベリ、1912年8月4日 - 1947年7月17日?)は、スウェーデンの外交官、実業家。第二次世界大戦末期のハンガリーで、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力した。外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功した。しかし、ドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍に拉致されて行方不明となった。ワレンバーグの捜索は現代に至るまで続けられている。彼の曾祖父のグスタフ・オスカー・ワレンバーグ(スウェーデン語版)は初代駐日公使として日本で働いた。
 生涯
 生い立ち
 青年時代のワレンバーグ
 ストックホルムの東にあるリーディング島で1912年8月4日に生まれた。父親のラウル(1888〜1912)は息子が生まれる数ヶ月前になくなったため、母のマイ(1891〜1979)はその名前を息子に与えた。彼の一族は有名な銀行家一家であり、ラウルはやり手だった祖父グスタフ(1863〜1937)の薫陶を受けて育った。
 ラウルは高校を首席で卒業し、兵役をすますと、アメリカ合衆国ミシガン大学へ留学した。建築学をおさめてスウェーデンに帰国すると、世界を見てほしいという祖父の願いに答えて南アフリカパレスティナで貿易商、銀行家として働いた。そこでナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちに出会ったことが後の彼の運命を決めることになる。1938年、ユダヤハンガリー人貿易商コロマン・ラウアー(ラウエル・カールマーン)に見出されてその右腕となると、ヨーロッパの各地で活躍した。
 ナチスユダヤ
 当時のヨーロッパはナチス・ドイツによって席巻されていた。ナチスは1942年に悪名高い「ユダヤ人問題の最終的解決」計画を打ち出し、各地の強制収容所ユダヤ人を送り込んで絶滅させようとした。ユダヤ人はこれに対して世界に救済を呼びかけたが、相手にされなかった。わずかにデンマークブルガリアナチスの言いなりにならなかった為ユダヤ人たちは迫害を免れたが、世界の国々は事実上ユダヤ人の訴えを黙殺していた。しかし、徐々にナチスの残虐行為の実体があきらかになると世論は変化し、1944年に入ると再選を目指した米国のルーズベルト大統領がユダヤ人ロビーを無視できなくなってナチスユダヤ人政策を激しく批判し始めた。その一環として「戦時亡命者委員会」がつくられ、ついにアメリカ合衆国ユダヤ人保護にのりだした。
 1944年3月、マルガレーテI作戦によりハンガリー王国はドイツ軍の占領下に置かれた。親独派の首相ストーヤイ・デメはドイツ国内へのユダヤ人移送を始めるなど、ハンガリー国内のユダヤ人に危機が迫っていた。「戦時亡命者委員会」はハンガリーへ派遣できる人材を探しはじめ、中立国スウェーデンに打診。スウェーデン側がハンガリーユダヤ人社会の代表たちの意見を聞いた。そのなかにコロマン・ラウアーがいたため、ワレンバーグに白羽の矢がたった。
 ワレンバーグの活躍
 テルアビブにあるワレンバーグの銅像
 ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件にこれを受諾、危険を承知の上で1944年7月ハンガリーブダペストに赴いた。
 ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。
 他にもセーフハウスといわれる家を各地に設置して、そこをスウェーデンの外交官特権で保護し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、保護証書を大量に印刷してはユダヤ人に配布し、ナチスの兵隊たちの前でも一歩も退かなかった。あるとき、多くのユダヤ人が貨物列車につめられてブダペスト駅から国境へ送られると聞くと、駅へ急行し、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、ついには列車の屋根に上って多くのユダヤ人に保護証書を渡した。そしてハンガリー国境を出る前に、外交官の権利によって多くのユダヤ人を解放することに成功した。
 1944年10月、ハンガリーではドイツ軍によって政府が倒され(パンツァーファウスト作戦)、反ユダヤ主義の「矢十字党」が政権を握った(国民統一政府)。ドイツはさらなるユダヤ人迫害を実行するため、アドルフ・アイヒマンハンガリーに送り込んだ。矢十字党政府と占領者のドイツ軍によってユダヤ人迫害は本格化された。その中で十万人近いユダヤ人たちをハンガリー国境まで歩いて移動させ、そこから収容所へ送るという「死の行進」が実行された。道中で多くのユダヤ人が倒れたが、ワレンバーグはそこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてそれをとめさせることに成功した。さらにブダペストからの撤退するドイツ軍がユダヤ人をゲットーに閉じ込めて皆殺しする計画を建てていたことを知り、責任者である将校に直接交渉してこれを阻止している。ドイツ側にとってワレンバーグは邪魔者であり、彼の身にはたびたび危険が迫った。
 失踪、その後
 ロンドンにあるラウル・ワレンバーグ記念碑
 1945年1月、ナチスを追い払ってソ連軍がブダペストへやってきた。1月17日、ついに肩の荷がおりたと感じたワレンバーグは、今後のユダヤ人の保護のあり方についてソ連軍指導部と会見すべく司令部へ向かった。ワレンバーグの仲間たちは止めたが、彼は笑顔で出て行った。これがワレンバーグの最後の姿となった。
 そのまま、ワレンバーグは消息を絶った。実際にはヴィクトル・アバクーモフ配下のソ連秘密警察により「アメリカのスパイ」容疑で逮捕され、強制収容所へ送られた説がある。これに関しては、アメリOSS内部でワレンバーグをさして、「最高のスパイマスターになれる人物」と誤解を招くような評価がなされていたことも一因と思われる。ワレンバーグに救われたユダヤ人たちを中心に「国際ワレンバーグ協会」が設置され捜索が続けられたが、現在に至るまで発見されていない。
 1957年、当時のソ連外務次官グロムイコは、ワレンバーグがソ連国家保安委員会の刑務所で心筋梗塞のため死亡したと、スウェーデン大使に公式に通知したが、この際、いかなる証拠も示されなかった。
 1979年にはイスラエルでワレンバーグの顕彰碑がつくられ、1986年にイスラエルで初めての名誉国民に選ばれた。アメリカ合衆国でも1981年にワレンバーグに名誉市民権が与えられた。これはそれまでウィンストン・チャーチルにしか与えられていなかったものである。現在ではブダペストにも記念碑がたてられている。1996年にはイスラエル政府はユダヤ人救済の功績をたたえてワレンバーグにヤド・ヴァシェム賞を贈り、「諸国民の中の正義の人」とした。
 1986年に始まったゴルバチョフ政権のグラスノスチによって多くの機密資料が解禁され、その中にワレンバーグが1947年7月に収容所で病死したとする資料が発見された。1989年、ソ連政府は、ワレンバーグの遺族をモスクワに招待し、彼の遺品を遺族に返還した。1991年、ソ連スウェーデン共同の調査委員会が設置され、1993年にはワレンバーグの逮捕及びモスクワへの移送に関するソ連国防人民委員ニコライ・ブルガーニンの第2ウクライナ戦線司令官ロディオン・マリノフスキー宛の命令が、スウェーデンの新聞紙上に掲載された。2000年12月、ロシア検察総庁はワレンバーグの名誉回復手続に着手し、2001年1月、名誉回復の文書がスウェーデン大使とハンガリー大使に手渡された。
 ワレンバーグの消息については1947年以降の目撃情報も伝えられているため、調査が続けられている。2010年4月1日、ロシア・セキリュティー・サービスの資料室から、ワレンバーグが死亡したとソ連当局が発表した6日後に行われた「囚人第7番」と呼ばれる男の尋問録が見つかり、この人物がワレンバーグと同一人物である可能性が高いとされ、今後の調査が待たれる。
 ワレンバーグの遺族代理人スウェーデン政府に対して死亡証明書の発行を要望していた。2016年10月31日、スウェーデン政府はワレンバーグの死亡を正式に認定し、公式の死亡年月日を1952年7月31日とした。
 ワレンバーグの功績は世界中で評価され、世界各国で学校名に使用されている。また1981年にはアメリカにてラウル・ウォーレンバーグ委員会が設立され、ミシガン大学では人権、人道を表彰するワレンバーグ勲章(Wallenberg Medal)を1990年から贈っている。ブダペストのゲットー地区であったドハーニ街シナゴーグにはラウル・ワレンバーグ ホロコースト記念公園がある。
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✠158」─1─イギリスのシンドラー。1939年。~No.457No.458 

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 YAHOO!JAPANニュース「Google「イギリスのシンドラー」ニコラス・ウィントン氏 111回目の誕生日を祝してDoodleに
 佐藤仁 | 学術研究員
 5/19(火) 19:00
 ニコラス・ウィントン氏(写真:ロイター/アフロ)
 Googleでは検索サイトのロゴを祝日や記念日、有名人の生誕などを祝うために独自のデザインでアレンジしている、いわゆるDoodle(ドゥードゥル)が日本でもお馴染みだ。5月19日はニコラス・ウィントン氏の111回目の誕生日を祝したDoodleが掲載されている。
 ニコラス・ウィントン氏といっても日本では全く知らない人の方が多いかもしれない。1909年5月19日にイギリスで生まれたニコラス・ウィントン氏は第2次大戦がはじまる直前の1938年から1939年にチェコプラハナチスドイツによる占領でユダヤ人の差別と迫害、いわゆるホロコーストによって強制収容所に移送されそうになっていた子供たち669人を救出してイギリスに避難させた人物。子供たちの大量輸送で「キンダー・トランスポート」と呼ばれており、1939年3月に第1弾の子供たちがイギリスに避難。1939年9月1日に第2次大戦が勃発すると、ユダヤ人の子供たちの脱出は不可能となってしまい、逃れることができなかった約6000人以上の子供たちはテレジエンシュタットのゲットーを経由してアウシュビッツなど絶滅収容所で殺害されてしまった。
 1988年にニコラス・ウィントン氏の妻が当時のスクラップブックを発見して、彼の功績に注目が集まった。その後、イギリスのテレビ番組の企画で彼が救った子供たちと再会を果たしている。
 GoogleのDoodleはイギリスの駅に到着した時のユダヤ人の子供たちの様子を描いたもの。ニコラス・ウィントン氏は「イギリスのシンドラー」と称されることもあり、救出された子供には映画監督のカレル・ライス氏らもいる。過去に映画やドキュメンタリー番組などでも多く取り上げられ、欧州では有名な存在。
▼ニコラス・ウィントン氏が死去した際に彼の功績を伝えるBBC(2015年7月2日)
▼ニコラス・ウィントン氏の生涯を描いたドキュメンタリー「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」オフィシャルトレーラー(2013年)
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 佐藤仁 学術研究員
 グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割などに関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらはグローバルガバナンスの中でどのような位置付けにあり、国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。修士国際政治学)、修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)、「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)、「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。」
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 映画ナタリー
 669人救った“イギリスのシンドラー”ニコラス・ウィントンに迫る記録映画公開
 2016年11月21日 8:35 40
 「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」が、11月26日より東京・YEBISU GARDEN CINEMAほか全国で順次公開される。
 本作は、“イギリスのシンドラー”と呼ばれるニコラス・ウィントンの生涯と活動を追った記録映画。ウィントンは1939年、ナチスの脅威にさらされたチェコスロバキアから、669人の子供たちをイギリスへ逃がすことに成功した。今作には、それから約50年後にウィントンが彼らと再会する様子や、そこに至るまでのドラマチックな経緯が収められている。
 監督を務めたのは、ホロコーストを生き延びた女性カメラマンのドキュメンタリー「Through the Eyes of the Photographer(英題)」などを手がけるマテイ・ミナーチュ。ミナーチュは「過去の悲劇的な出来事を世界に伝えることによって、その驚くべき物語が必ずや今を生きる人々が未来を築くための助けになると確信していたのです」と語っている。」
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 TVLIFE
 “イギリスのシンドラー”をめぐる驚きと感動の実話「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」DVD 6・21発売
 エンタメ総合2017年04月19日
 ナチスの脅威から数多くの子供たちの命を救った人物の足跡と、彼に救われた人々の人生をめぐる驚きと感動のドキュメンタリー映画「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」のDVDが、6月21日(水)に発売されることが決定した。
 本作は、“イギリスのシンドラー”と呼ばれ、ノーベル平和賞候補にもたびたび挙げられたニコラス・ウィントンの驚くべき活動の足跡と、彼に救われた人々の人生をたどる感動作。モントリオール世界映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭観客賞をはじめ、世界各国の数多くの映画賞に輝き、日本では「文部科学省選定(一般非劇映画・青年向き・成人向き・家庭向き)」「厚生労働省社会福祉審議会特別推薦」「平成29年度児童福祉文化賞推薦作品」となっている。
 DVDには特典映像として、予告編を収録、初回限定封入特典としてブックレットが封入される予定。
 <ストーリー>
 1938年、第二次大戦開戦前夜のチェコスロヴァキア。イギリスのビジネスマン、ニコラス・ウィントンはナチス・ドイツによる迫害の危機にさらされていたユダヤ人の子供たちを救うため、<キンダートランスポート>を実行し、チェコにおけるその中心人物となる。
 しかし、彼らの行動に世界は冷たく、多くの国々が協力を拒否し、門戸を閉ざした。唯一子供たちの入国を受け入れたのは、彼の母国イギリス。ニコラスはイギリスで里親を探し、書類を偽造して、子供たちを次々と列車で出国させていく。しかしその活動は1939年9月1日の第二次世界大戦勃発によって中止を余儀なくされてしまう。
 それから50年、発見された一冊のスクラップブックが彼の偉業を明らかにし、ニコラスと既に高齢となった子供たちの奇跡の再会が実現する。
 しかし、本当の感動の物語はそこから始まる――。
 <キャスト>
 ニコラス・ウィントン、ヴェラ・ギッシング、アリス・マスターズ、ベン・アベレス、クラーラ・イソヴァー、エリ・ヴィーゼルダライ・ラマ14世
 ジョー・シュレシンジャー(ナレーション)
 <スタッフ>
 製作・監督・脚本:マテイ・ミナーチュ
 製作・脚本:パトリック・パッシュ
 音楽:ヤヌシュ・ストクロ
 「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」
 6月21日(水)発売
 DVD ¥3,800+税
 収録時間:本編101分+特典映像
 <特典映像>(予定)
 予告編
 発売元:エデン、ポニーキャニオン東急レクリエーション、パイオニア映画シネマデスク
 販売元:ポニーキャニオン
 ©TRIGON PRODUCTION s.r.o. W.I.P.s.r.o. J&T Finance Group,a.s. CZECH TELEVISION SLOVAK TELEVISION 2011
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 ウィキペディア
 サー・ニコラス・ジョージ・ウィントン(Sir Nicholas George Winton、1909年5月19日 - 2015年7月1日[1])は、イギリスの人道活動家で、大英帝国勲章(MBE)の叙勲者。
 第二次世界大戦がはじまる直前、ナチスドイツによるユダヤ強制収容所に送られようとしていたチェコユダヤ人の子どもたちおよそ669人を救出し、イギリスに避難させるという活動、別名チェコ・キンダートランスポートという活動を組織したイギリス人。当事の新聞記事に、ウィントンがイギリスに送られる孤児を胸に抱いた写真が、「勇敢なる笛吹き男」の名で掲載されたことがあるが、近年では「イギリスのシンドラー」ともいわれる。
 業績
 彼は、ロンドンに住むドイツ系ユダヤ人の両親のもとに生まれる。両親ともキリスト教で受洗、非宗教的な家庭に育つ。彼は株式仲買人の仕事をしていて、労働党左派の活動家と親交があり、早くからヒトラーの政策の行く末に疑問を抱いていた。
 1938年のクリスマス休暇に彼はスイスにスキーに行く予定をしていたが、イギリスのチェコ難民委員会の女性から、ドイツのチェコ進攻の予想とそれに対する難民の救出活動で人手が足らないという連絡を受けた。スイス行きを取りやめてプラハに向かった彼は、成人の救出で手いっぱいで子どもの救出に手が回っていないことを知るや、イギリスにとって返し、内務省の許可を得て、イギリスで子どもたちの里親や身元引受人を探し、子どもたちをイギリスに避難させる一大キャンペーン活動を開始した。イギリス政府が行ったドイツからのキンダートランスポートと比べて、このチェコからのものは、組織的な資金が得られず、そのため公的な機関であるかのような団体名を名乗ったり、危ないこともして、時には子どもの出生日時を偽装するようなこともして子どもたちの救出のために奔走した。1939年3月14日から8月2日までの間に、669名の子どもたちをチェコから脱出させることに成功し、9月3日にも最大規模となる250名の子どもたちの脱出が予定されていた。しかし9月1日に第二次世界大戦が勃発したため、この子どもたちは出国できず、これ以降チェコからの子どもの脱出は不可能となる。この事はウィントンを失望させ、長きに亘る沈黙の原因となった。
 ウィントンのリストに記載された脱出予定の子どもたちはおよそ6000名。脱出が不可能となりチェコに残留したユダヤ人児童は、この後大人とともにテレージエンシュタットに収容される。テレジン絶滅収容所ではなかったが、劣悪な環境の下で子どもたちは衰弱し、労働に従事できなくなったものは次々にアウシュビッツへと移送された。テレジンに収容されたユダヤ人児童は15000人。最終的には全ての児童がアウシュビッツへ移送され、その大半は即日ガス室送りとなった。収容を経て生還したチェコユダヤ人児童は僅かに100名に過ぎない。
 開戦後は、ウィントンは赤十字に参加し、フランス国内で難民支援の仕事に携わりキンダートランスポートとの関わりはなくなった。
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 トップ イギリスにおける反ユダヤ主義
 イギリスにおける反ユダヤ主義, ジョージ・オーウェル
 イギリスにおける反ユダヤ主義
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 イギリスには約四十万人のユダヤ人がいることが以前から知られているが、それに加え一九三四年以来、二、三千から最大で一万人弱のユダヤ人難民がこの国に入国している。ユダヤ系人口のほとんど全ては六つの大都市に集中し、その多くは食品、衣類、家具の仕事に就いている。ICIのような巨大独占企業のいくつかと一つ二つの有力新聞社、それに少なくとも一つの巨大デパートチェーンはユダヤ人に所有されているか、部分的にユダヤ人の資本が入っているがイギリスの経済活動がユダヤ人によって支配されているというのは事実とはほど遠いと言えるだろう。それどころかユダヤ人たちは巨大合併へと向かう現代の動きについていけず、伝統的な方法で小規模にしかおこなえない商売を続けているように見える。
 見識ある人であれば誰しもすでに知っている背景の説明から始めたのはイングランドには現実的なユダヤ人「問題」など存在しないことを強調するためだ。ユダヤ人は数が多いわけでも十分な権力を持っているわけでもなく、なにがしかの目に見える影響力があるのはおおまかに「知識人界隈」と呼ばれている世界でだけだ。だが反ユダヤ主義が勢いを増しているのは広く認められることで今回の戦争でそれはさらに激しさを増している。人道的で見識ある人々も無縁ではない。暴力的な形で現れているわけではないが(イギリスの人々はたいていは穏やかで遵法精神に富んでいる)、それが十分にたちの悪いものであることは確かで環境さえ整えば政治的な結果につながる恐れもある。ここ一、二年の間に私が耳にした反ユダヤ主義的発言の例をいくつか挙げよう。
 中年の会社員:「普段はバスで通勤しています。時間はかかりますが最近はゴルダーズ・グリーンからの地下鉄には乗る気になれないんですよ。あの路線にはあの選ばれし民が大勢乗っているんでね」
 たばこ屋(女性):「マッチはありません。通りのむこうの彼女に聞いてみないと。彼女はいつもマッチを持ってるんです。ほら、あの選ばれし民の一人なんですよ」
 共産主義者かそれに近い若い知識人:「ユダヤ人は好きじゃないです。このことを隠したことは一度もありません。彼らには耐えられません。念のために言っておきますが、もちろん私は反ユダヤ主義じゃないですよ」
 中流階級の女性:「ええ、誰も私を反ユダヤ主義とは呼ばないでしょうが、あのユダヤ人たちの行いは本当にひどいものだと思います。行列の先頭に割り込むとかそういったことです。ひどく自分勝手なんです。彼らの身に起きたことの多くは身から出たさびだと思いますね」
 牛乳の配達人:「ユダヤ人も仕事をしないわけじゃない。イギリスの人間とはやり方が違うんだ。やつらは賢すぎるんだな。俺たちはこいつで働く」(二頭筋を示す)「あいつらはこいつで働くんだ」(自分の額を叩いてみせる)
 左派的傾向の知識人である公認会計士:「あのいまいましいイディッシュ野郎どもはみんなドイツの味方です。もしナチスがここに攻め込んできたら明日にでも寝返るでしょう。仕事であいつらを大勢見てきました。やつらは心の底ではヒトラーを称賛しているんです。自分たちを蹴りつける相手にはそれが誰であろうと取り入ろうとするんですよ」
 反ユダヤ主義とドイツの残虐行為についての本を見せられた知識人の女性:「それをしまって。お願いだから私の目にはいらない所にやってしまって。そんなものを見てもユダヤ人への憎しみが募るだけだわ」
 似たような発言でページを埋めることもできるが今は話を続けよう。これらの発言から二つのことがわかる。ひとつ……非常に重要で、あとで改めて検討する事柄だ……は上記のある程度の知的水準の人々は反ユダヤ主義を恥ずかしいことだと考え、注意深く「反ユダヤ主義」と「ユダヤ人嫌い」を区別しているということだ。もう一つは反ユダヤ主義が理不尽なものであるということだ。それぞれの者が強く感じている特定の不品行(例えば配給の列を乱す行為)についてユダヤ人は非難されているが、これらの非難が何かしらの根深い偏見によるこじつけであることは明らかだ。事実と統計データでこれらの非難に反論を試みても無意味だし、場合によってはさらに状況を悪くさせるだけである。ちょうど上記で引用した発言の最後のものが示すように人々は反ユダヤ主義のままか、少なくともユダヤ人嫌いのままだろう。それは自分の見解が正当化不可能であると完全に理解している場合であっても変わらない。誰かを嫌っている場合、嫌っているということで話は終わってしまう。そこで相手の美点を説いたところでその気持ちが変わることはないのだ。
 反ユダヤ主義が広まるのを助け、多くの普通の人々にそれを正当化する口実を与えたのは今回の戦争である。始めに言っておくとユダヤ人は連合国側の勝利によって利益を得る者の一人であり、これはまず疑いようのないことだ。従って「これはユダヤ人の戦争である」という理屈はそれなりにもっともらしく聞こえる。そしてそれゆえにいっそうユダヤ人による戦争への貢献が正当な評価を得ることは少なくなるのだ。イギリス帝国は相互の合意によってつなぎ合わされた巨大な異種混合の組織であり、信頼の乏しい構成要素を持ち上げるためにより忠誠心の強い構成要素をなおざりにすることがままある。ユダヤ人兵士の功績を広く宣伝すること、さらに言えば中東のユダヤ人による巨大な軍隊の存在を容認して南アフリカアラブ諸国やその他の地域からか敵意を抱かれること、それに比べれば問題の全てを無視し、通りを行く人にユダヤ人は兵役を避けることに関して並外れた知能を持つと考えさせておいた方がずっと簡単だ。そしてまた戦時下の市民から反感を買わざるを得ないような業種でユダヤ人が働いていることも事実だ。ユダヤ人のほとんどは食品、衣類、家具、そしてたばこの販売で生計をたてている……それらは慢性的に不足している生活必需品であり、そのために価格の高騰や闇市場、人々の欲求と深く結びついている。また空襲の時のユダヤ人の行動が並外れて臆病なものだったというよく聞かれる非難のかなりの部分は一九四〇年の大空襲によるものだ。ホワイトチャペルのユダヤ人街は当時、最初にひどく空襲された地区のひとつだった。自然な成り行きとしてユダヤ人の一群はロンドン全体に散らばるようにして難を逃れることになったのだ。これら戦時下の出来事だけから判断すれば反ユダヤ主義は誤った前提を元にした上っ面な考えだということが簡単に想像できるだろう。もちろん反ユダヤ主義者は自身の考えには根拠があると思っている。私が新聞記事でこの問題を取り上げると必ず大量の「反論」が返ってくる。そして決まってその中には特にこれといった経済的不満もない中庸で中流階級の人々……例えば医者……からのものがあるのだ。そういった人々は決まって(ヒトラーがわが闘争で述べたのと同じように)自分たちには反ユダヤ的な偏見などないが事実にもとづく観察から現在の立場に至ったのだと主張する。だが反ユダヤ主義者の特徴のひとつは絶対にありえないような話を信じこむその能力なのだ。一九四二年にロンドンで起きた奇妙な事故にその例を見ることができる。近くで爆発した爆弾に驚いた群衆が地下鉄の入り口に殺到し、百人を超える人々が圧死したのだ。日が変わるか変わらないうちにロンドン中で「ユダヤ人のせいだ」という声が繰り返し聞こえるようになった。人々がこの種のものを信じるのだとすれば彼らと言い争っても無意味であることは明らかだ。できることがあるとすればそれはなぜ彼らがそんな馬鹿げたことを鵜呑みにし、一方でそれ以外の物事に関しては正常な判断を保つことができるのかを解明することだけだろう。
 だが今は先に言及した点に戻ろう……反ユダヤ主義的感情が広がっているということ、そしてそうした考えを抱いていると認めたがらない傾向が広く存在していることについてだ。教育ある人々にとって反ユダヤ主義は許されざる罪であり、それは他の人種的偏見とは全く異なるカテゴリーに分類される。人々は自分たちが反ユダヤ主義でないことを長々と証明しようとするだろう。例をあげよう。一九四三年にセント・ジョンズ・ウッドにあるシナゴーグポーランドユダヤ人のために祈りを捧げる礼拝がおこなわれた。地域の当局はそれへの参加意思を表明し、礼拝には正装した市長や全ての教会の代表、そしてイギリス空軍や郷土防衛隊、看護師会、ボーイスカウトといった団体からの使者が参加した。表面的にはこれは苦しむユダヤ人との連帯を示すものに思われる。だが礼儀にかなったその振る舞いのためにはたいそう努力が必要だったことだろう。多くの場面で参加者たちの主観的感覚は礼拝の時とはまったく異なるものだったのだ。ロンドンのその地区の一部にはユダヤ人が住み、そこでは反ユダヤ主義がはびこっていた。そして私の知るかぎりではシナゴーグで私の周りに座る人々の一部はその傾向を帯びていた。郷土防衛隊の私が属する小隊の隊長は間違いなく元はモズレーの黒シャツ隊のメンバーだった。彼は私たちがその礼拝で「立派に振る舞う」前にひときわ大げさに涙を流してみせた。この感情の分断が存在するあいだはイングランドにおいてユダヤ人に対する集団的な暴力が許容されたり、もっと重要なこととしては反ユダヤ主義的な法律が作られたりすることはないだろう。確かに今のところは反ユダヤ主義が社会的に正当化されることは不可能である。だがその優位は目に見えているより少ない。
 ドイツでの迫害行為の影響の一つは反ユダヤ主義に対する真剣な研究が阻害されるようになったことだ。イングランドでは一、二年前に簡素で十分とはいえない調査が世論調査局によっておこなわれたが、もしこの問題についてそれ以外の調査があったとしても結果は厳重な秘密にされたままだろう。そしてまた思慮深い者は誰しもがユダヤ人の感情を害するような行為を意識的に避けている。一九三四年以来、ユダヤ人ジョークはまるで魔法のようにポストカードや雑誌、大衆劇場の舞台から消え、小説や短編に冷酷なユダヤ人を登場させる行為は反ユダヤ主義であると見なされるようになった。パレスチナ問題についてもユダヤ人による主張を受け入れ、アラブ人による主張の精査を避けるのが見識ある人々の間では適切な振る舞いとなっている……問題自体からすればそれは正しいのかもしれないが、その決定はまず第一にユダヤ人は困難に見舞われているのだから非難すべきでないという思いからなされているのだ。つまりヒトラーのおかげで報道機関はユダヤ人を支持するよう事実上の検閲を行い、その一方でプライベートな場面においては反ユダヤ主義が思いやりと知性ある人々の間ですらある程度増加しているという状況が生まれているのだ。そういった傾向が特に顕著だったのは一九四〇年、難民の抑留がおこなわれた時だった。当然のごとく思慮ある人々はみんな不運な外国人に対するその大規模な拘留に対して抗議の声を上げるのが自らの責務であると感じた。難民の大半はヒトラーに反対しているためイングランドにしかいられないのだ。だがその裏では全く異なる意見が表明されていた。難民のうちのごく一部は飛び抜けて無思慮な行動をとり、その多くがユダヤ人だったために彼らに向けられた感情は必然的に反ユダヤ主義への底流となった。労働党のある非常に著名な人物……名前は挙げないが彼はイングランドにおいてもっとも尊敬に値する人物の一人だ……は非常に強い調子で私にこう言った。「この国に来てくれと頼んだことは一度もない。ここに来たのは彼らの選択によるものなのだからその結果に対する責任は彼らが負うべきだ」。だがもちろんこの男性は外国人抑留に反対する請願や声明に対しては賛同の声を上げるだろう。反ユダヤ主義は邪悪で恥ずべきものであるという感情や、教養ある人間であればそんなものに影響されたりはしないのだという考えは科学的なアプローチにとっては好ましいものではない。この問題に深く斬りこむような調査に対して多くの人が恐怖を覚えることは間違いない。彼らが恐れているのは反ユダヤ主義が広がっているということだけでなく、自分自身がそれに感染しているのではないかということなのだ。
 その視点からここ二、三十年を振り返ってみよう。ヒトラーが無名の失業中のペンキ塗りだった時代だ。現在も反ユダヤ主義は十分に見て取れるがイングランドにおいては三十年前よりもそれが落ち着いていることがわかるだろう。イングランドでは反ユダヤ主義が人種や宗教に基づく確固とした信条として流行ることは二度とないと言っていい。異民族間の結婚やユダヤ人が社会で重要な役割を担うことに対する反感といったものは比較的少ない。一方、三十年前には多かれ少なかれユダヤ人は……知性においては卓越しているにしても……おかしな人間で少しばかり「品」にかけるのが普通であると考えられていた。理屈上は個々のユダヤ人にそのための法的能力が欠けているためとされていたが、事実上、彼らは特定の職種から排除されていた。例えば海軍の将校や軍隊における「高級」連隊にユダヤ人が受け入れられたことはおそらくないだろう。私立学校のユダヤ人少年のほとんどは決まって居心地の悪い思いをしていた。もちろん人間的魅力や運動能力が並外れている場合にはユダヤ人であることは問題にされなくなるが、それはどもり症や生まれつきのあざのような先天的な障害なのだ。裕福なユダヤ人はイングランドスコットランドの貴族階級の名前で自らを隠すことが多い。平均的な人間からすれば彼らがそうせざるを得ないのはごく自然なことのように思われる。可能なときには犯罪者が身分を偽るのと同じようなものだ。二十年ほど前、私がラングーンで友人の一人とタクシーに乗ろうとした時の話をしよう。みすぼらしい格好をしているが顔立ちの整った小柄な少年が私たちのところに駆けてきてコロンボから船で来たのだが金を取り戻したいというやけに入り組んだ話を始めた。その立ち居振る舞いや姿がどうにも「腑」に落ちなかったので私は彼に尋ねた。
 「ずいぶん英語が流暢だな。何人なんだ?」
 彼はインド訛りのアクセントで熱心に答えた。「ユダヤジンです。旦那様!」
 自分が連れに振り返って半ば冗談を言うように「堂々と認めたぞ」と言ったことを憶えている。その当時、私が出会ったことのあるユダヤ人はみんな自分がユダヤ人であることを恥じている者ばかりだったし、そうでなくとも自分の家系については語りたがらなかったものだ。彼らはもしどうしてもそうしなければならないときには「ヘブライ人」という言葉を使っていた。
 労働者階級の態度も同じだ。ホワイトチャペルで育ったユダヤ人は自分たちが近隣のキリスト教徒のスラム地区に踏み込んだ時には攻撃されたり、良くても囃し立てられたりすることを当然のように受け止めたし、大衆劇場やマンガ雑誌の「ユダヤ人ジョーク」はいつも変わらず意地の悪いものだった[段落の終わりに注記]。また文学にもユダヤ人への迫害が見られた。ベロックやチェスタートンの著作、それに彼らの模倣者たちの下劣さは大陸でのそれとほとんど変わらなかった。それよりはいくぶん穏やかなやり方ではあったが非カトリックの作家もまたときに同じ罪を犯した。チョーサー以来、イギリス文学にはかなりの反ユダヤ主義的傾向が存在し続けている。今テーブルから立ち上がって文献を参照するまでもなく、もし現在書かれていれば反ユダヤ主義の烙印を押されるであろう文章をシェイクスピア、スモレット、サッカレーバーナード・ショーH・G・ウェルズ、T・S・エリオット、オルダス・ハクスリーといった人々の作品から挙げることができる。その一方でヒトラーの台頭以前で明確にユダヤ人を支持する努力をした英語圏の作家は今、私が思いつく限りではディケンズとチャールズ・リードだけだ。そして平均的な知識人でベロックやチェスタートンの意見に頷く者は少ないにも関わらず、彼らに対して実際に非難の声が上がることはないのだ。薄っぺらい理屈で書かれた物語やエッセイに差し込まれたチェスタートンによる止むことのないユダヤ人への攻撃演説によって彼が窮地に追い込まれたことは一度もない……実際のところチェスタートンはイギリス文学界でもっとも尊敬を集める人物の一人だったのだ。もし現在そういった傾向のものを書けばそれが誰であろうと罵りの嵐に襲われるだろうし、それ以前にその作品を出版することさえ不可能だろう。
 [注記:「ユダヤ人ジョーク」と大衆劇場の他の演し物である「スコットランド人ジョーク」との比較は興味深い。後者は一見して前者によく似ている。ときには両方の人種を同じように扱う話(例えばユダヤ人とスコットランド人が一緒にパブに行き、両方が渇き死にするといったもの)もあるが、一般にユダヤ人はたんに狡猾で強欲に描かれるのに対してスコットランド人はそれに加えて肉体的な豪胆さを取り上げられることが多い。例えば無料の謳い文句の集会にユダヤ人とスコットランド人が一緒に出かける話がそうだ。予期せず支払いを求められるとユダヤ人は気絶し、スコットランド人が彼を運び出す。そこでスコットランド人は連れを運ぶという強健な仕事をして見せるのだ。もしこの立場が逆であればなんとも座りの悪いものに思えるだろう(原著者脚注)]
 すでに示してみせたようにもしユダヤ人に対する偏見がイングランドで広範囲に広がっているとして、ヒトラーによってそれが弱められたのだと考える理由はない。彼はただ、今はユダヤ人に石を投げている場合ではないとわかっている政治意識のある人々と戦争による緊張状態から生来の反ユダヤ主義的気質を肥大させている無自覚な人々の間の境界をはっきりさせただけだ。言いかえれば反ユダヤ主義的感情を認めず否定するであろう多くの人々は密かにその傾向を抱いているのだ。反ユダヤ主義は本質的には神経症であると私が考えていることはすでに述べたとおりだが、もちろん心から信じられているものであれ、部分的なものであれ、反ユダヤ主義に対する理由づけの弁は存在する。一般の人々がよく挙げるのは、ユダヤ人は人々を食い物にしているというものだ。これを部分的に正当化するのがイングランドにおいてユダヤ人は一般に小事業の経営者……つまり銀行や保険会社といったものよりもわかりやすく、露骨に略奪的な振る舞いをする人物であることが多いという事実だ。もう少し知的になるとユダヤ人は不信を広げて国民の士気を弱めるという弁で反ユダヤ主義は理由づけされる。これに対しても再びいくつかの浅薄な正当化がおこなわれている。過去二十五年の間、「知性的」と呼ばれるような活動の大部分は有害なものだった。もしこの「知識人」たちがもう少し徹底してその作業をおこなっていたら一九四〇年にイギリスは降伏することになっていたと言っても過言ではないと私は思っている。だがその不満を抱く知識人には疑いなくかなりの数のユダヤ人が含まれるのだ。ユダヤ人は私たち独自の文化と国民の士気に対する敵なのだということも、さももっともらしく言われている。注意深く考えればこの主張は馬鹿げているとわかるが常にその論を裏付けるかのような著名な人物が少数、現れる。過去数年、レフトブッククラブといった組織に代表されるこの十年流行している非常に底の浅い左派主義に対する反撃と見られる動きがある。この反撃(例えばアーノルド・リュタンのザ・グッド・ゴリラやイーヴリン・ウォーのもっと旗をといった書籍)には反ユダヤ主義的傾向がある。もし題材としているテーマがもっと穏健なものであればそれはより際立ったことだろう。たまたまここ数十年の間、イギリスには騒ぎ立てるだけの価値があるナショナリスティックな知識人がいなかったということなのだろう。だがイギリスのナショナリズム、つまり知識人階級のナショナリズムは復活するかもしれないし、もしイギリスが現在の戦争によって大きく弱体化すればそうなる確率は高い。一九五〇年の若い知識人たちはおそらく一九一四年の知識人がそうであったように無邪気に愛国心を謳うだろう。もしそうなればフランスでの反ドレフュス[25]支持派を下地に広がった反ユダヤ主義的なもの、チェスタートンとベロックがこの国に導き入れようとしているものはその足場を得ることになる。
 反ユダヤ主義の起源については確かなことは言えない。主におこなわれる二つの説明、つまり経済的理由とする説と中世の遺産とする説だけでは十分でないように私には思われるが一方でその二つを組み合わせれば起きている事実を全て説明可能であるということは認めよう。
 私が自信を持って言えるのは、反ユダヤ主義ナショナリズムという大きな問題の一部であるということだけだ。これはいまだ真剣に検討されていないことである。ユダヤ人がスケープゴートにされていることは明らかだが、彼らが何に対するスケープゴートなのかをいまだに私たちは理解できていないのだ。このエッセイでの私の論拠はほとんどすべて限られた自身の経験だけであり、おそらく私が至った結論のすべては他の観察者からは否定されるようなものだ。この問題に関してはほとんどデータがないというのが実際のところなのだ。だが私の意見を要約しておこう。その価値はあるはずだ。要約すれば結局のところ次のようになる:
 私たちが考えている以上にイングランドには反ユダヤ主義が広がっていて戦争によってそれは加速されている。だが数年ではなく数十年という期間で考えた場合にはそれが増加しているかどうかは定かで無い。
 今のところ反ユダヤ主義はあからさまな迫害行為にはつながっていないが、他の国のユダヤ人の苦難に対する人々の冷淡さには寄与している。
 反ユダヤ主義は根本的に不条理なものであり、議論によって打ち伏せることはできないだろう。
 ドイツでの迫害行為によって反ユダヤ主義的感情はよりいっそう隠蔽され、それによって全体像が見えづらくなっている。
 この問題は真剣に研究される必要がある。
 最後の点については詳しく説明する価値がある。どのような問題であっても科学的な研究をおこなうには中立な態度が必要になる。研究者の利益や感情が深く関わる場合、これが困難なことは明らかだ。ウニや二の平方根についてなら客観的な態度をとることができる多くの人が自分の収入源のこととなると支離滅裂になってしまう。反ユダヤ主義について書かれたもののほとんどは著者の頭のなかにある自分だけはそういったものに影響されていないという思い込みによって損なわれている。「自分は反ユダヤ主義が不条理なものであるとわかっている」著者は書く。「従ってそれに影響されてはいない」。そして著者は研究を多少なりとも信頼できる証拠を手に入れられそうなただ一つの場所……つまり自らの頭の中から始めるという失敗を犯すのだ。
 漠然とナショナリズムと呼ばれている病が今、世界のほとんどを覆っているという仮定は確かなもののように私には思われる。反ユダヤ主義ナショナリズムの現れの一つに過ぎず、全員がそれと同じ形態の病にかかるわけではない。例えばユダヤ人が反ユダヤ主義になることはないだろう。しかし多くのシオニストユダヤ人は私にはたんに反ユダヤ主義者を反転したもののように見える。それはちょうど多くのインド人や黒人に反転された形で見られる皮膚の色による偏見と同じだ。重要なのは何か精神的なビタミンのようなものが現代の文明社会には欠けているということだ。その結果、ある人種全体が不可思議にも善であり、ある人種全体が不可思議にも悪であると信じるこの狂気に私たちは多かれ少なかれ取り憑かれているのだ。なんらかのナショナリスティックな忠誠心や憎悪を抱かずに誠実で事細かく自らを省みることができる知識人が現代にいるとは私には思われない。そうした感情に引きずられながらもなおユダヤ人たちを公平に見ることができるということ、それこそがその人物を知識人たらしめるのだ。従って反ユダヤ主義の研究の開始地点は「なぜこのように明らかに不合理な信念を他の者は抱くのだろう?」ではなく「なぜ私は反ユダヤ主義なのか? そのどの部分を私は真実であると感じるのだろうか?」でなければならない。もしこのように自問すれば少なくともその者自身の理由を理解することができるし、おそらくはその底に何が横たわっているかを見つけ出すことができるだろう。反ユダヤ主義は研究されるべきである……反ユダヤ主義者だけにそうしろと言うつもりはない。多少なりともその種の感情から逃れられていない自覚がある者はそうすべきだ。ヒトラーがいなくなった時こそその問題に対する真の探求が可能になるだろう。おそらくそれは反ユダヤ主義の誤りを暴くことによってではなく、自分自身や他の者たちの頭の中から見つけ出すことのできる反ユダヤ主義に対する正当化の全てをまとめ、整理することによって開始されるべきだ。その方法によってこそ、その精神的根源へと続く手がかりを得ることができるだろう。しかしより大きな病であるナショナリズムを治癒することなく反ユダヤ主義を治癒できるとは思えない。
 1945年4月
 Contemporary Jewish Record
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✞182」─4─イタリアのシンドラー。ローマ・ユダヤ人を救った架空のK症候群。~No.513No.514No.515 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 世界は、ユダヤ人をホロコーストから救った各国のシンドラーに関心があり、歴史に埋もれた功績を発掘して公表している。
 が、現代日本は人種差別・反ユダヤ、他人の命より自分の命が大事として、命を捨ててもユダヤ人をホロコーストから助けた物語には無関心である。
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 NHK
 BS世界のドキュメンタリー
知られざる世界の今を 独自の視点で リアルな息づかいとともに ー 世界の優れたドキュメンタリーを厳選。国際社会のさまざまな現実と向き合う人々や社会の深層に、各国の制作者が真摯に向き合って切り取った物語。熱いメッセージが、画面の向こうに新たな地平線を開くでしょう。
 「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症
 ナチスが占領したローマ。ユダヤ人の間で謎の感染症“K”が広まり、バチカン近くの病院に収容された。しかし、すべては強制収容所送りから救うための偽装工作だった…。
 第二次世界大戦末期のテベネフラテッリ病院。ユダヤ人居住区から多くの住民がホロコースト送りとなる中、イタリア人や若いユダヤ人の医師団が「K症候群」という謎の感染症をでっちあげ、ドイツ軍のガサ入れから収容者を守った。ヒトラーに“そんたく”を続けた時のローマ教皇の姿も交えた、奇想天外な歴史の一幕を、再現ドラマやアニメを交えた演出で。    原題:Syndrome K(2020年 アメリカ・イタリア)
 (C)Fatebenefratelli Hospital(C)Insanely Practical Productions(C)AP photo
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 AFP BB NEWS
 ニュース 戦争・紛争
 「イタリアのシンドラー」、実はナチス協力者だった?
 2013年6月21日 20:03 発信地:ニューヨーク/米国 [ 北米 米国 ]
 イスラエルエルサレム(Jerusalem)のホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」で、「イタリアのシンドラー」とされるジョバンニ・パラトゥッチ(Giovanni Palatucci)氏の表彰式で演説するジュゼッペ・ピザヌ(Giuseppe Pisanu)伊内相(当時、2005年2月10日撮影)。(c)AFP/GALI TIBBON
 【6月21日 AFP】第2次世界大戦中にナチス・ドイツ(Nazi)によるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)から5000人のユダヤ人を救ったとしてこれまで英雄視されてきたイタリア人警察署長が、実はナチスの協力者だったとする研究結果を、ユダヤ系イタリア人に関する研究機関「セントロ・プリーモ・レーヴィ(Centro Primo Levi)」が20日、発表した。
 1945年にドイツ南部のダッハウ(Dachau)強制収容所で36歳で死亡したイタリア人のジョバンニ・パラトゥッチ(Giovanni Palatucci)氏は、アドリア海に面した街フィウーメ(Fiume、現在はクロアチアの都市リエカ、Rijeka)で警察署長を務めていた当時、5000人のユダヤ人を救ったとされてきた。
 このためパラトゥッチ氏は、ユダヤ人労働者数千人をホロコーストから救ったとされるドイツ人実業家オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)氏のイタリア版とみなされ、ピザから通りまでイタリア中のあらゆるものにその名を冠されてきた。先週末も中部のポリーノ(Polino)の公共広場にパラトゥッチ氏の名前がつけられたばかりだ。
 イスラエル政府のホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」もパラトゥッチ氏を表彰。ローマ・カトリック教会の故ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)は同氏を殉教者として、聖人に次ぐ福者に列した。
■警察署長ですらなかった?
 しかし、米ニューヨーク(New York)を拠点とするセントロ・プリーモ・レーヴィは、最新調査の結果「パラトゥッチ氏がナチスの下で働いており、フィウーメに住んでいた少数のユダヤ人の情報を提供していた」ことが明らかになったと発表した。
 この発表を受け、米ワシントンD.C.(Washington D.C.)のホロコースト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)は、今夏の企画展「Some Were Neighbors: Collaboration and Complicity in the Holocaust(隣人だった者たち:ホロコースト下の協力と共謀)」からパラトゥッチ氏に関する資料の展示を外し、公式ウェブサイトからも同氏に関する事例研究を取り下げた。
 セントロ・プリーモ・レーヴィのナタリア・インドリミ(Natalia Indrimi)所長が6月7日付でホロコースト記念博物館に送った書簡によると、パラトゥッチ氏がフィウーメの警察署長だったことはなく、また当時フィウーメにいたユダヤ人は500人程度で、その8割はポーランドアウシュビッツ(Auschwitz)にあった強制収容所送りとなっていたという。
 また従来説では、パラトゥッチ氏は大勢のユダヤ人を、自分の叔父がカトリック教会の主教として影響力を持っていたイタリア南部カンパーニャ(Campagna)州に送って保護させたとされていたが、そのような事実はなかったという。書簡は「イタリアに抑留されたユダヤ人のデータベースによれば、カンパーニャへ送られたユダや人はわずか40人で、それはパラトゥッチ氏の命令によるものではなかった」と指摘している。
 パラトゥッチ氏がフィウーメに住むユダヤ人に関する書類を破棄し、強制収容所へ送られることがないよう配慮したという説もインドリミ氏は否定。「それらの書類こそ、過去5年間の歴史家たちの主要な情報源となっている。全てリエカのクロアチア政府公文書館で閲覧可能で、関心のある歴史家なら誰でも参照できる」と述べている。
 インドリミ氏はパラトゥッチ氏について、「ユダヤ人迫害というシステムの歯車として働いた公務員の1人」に過ぎず、イタリア・ファシスト政権の人種差別的な政策の「自発的な執行者」として独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)に忠誠を誓いナチスに協力した人物だと述べている。(c)AFP/Brigitte Dusseau
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 岩波書店
 イタリア・ユダヤ人の風景
 苦難に生き,闘い,斃れたイタリア・ユダヤ人の足跡をローマ・ヴェネツィアなど4都市に訪ねる.
 イタリア・ユダヤ人の風景
 著者 河島 英昭 著
 ャンル 書籍 > 単行本 > 文学・文学論
 刊行日 2004/12/10
 ISBN 9784000221450
 Cコード 0097
 体裁 四六 ・ 上製 ・ 382頁
 在庫 品切れ
 第2次大戦下のイタリア.ファシズムとナチズムが交錯する都市の片隅で,戦火とは異なる暴力が多くの命を奪おうとしていた.どんな運命がイタリアのユダヤ人たちを待ちうけ,何が彼らの命運を分けたのか.苦難に生き,闘い,斃れた彼らの声を沈黙する街路から聞き取るために,ローマ,ヴェネツィアトリエステ,フェッラーラを訪ねる.
■著者からのメッセージ
 前著『ローマ散策』(岩波新書,2000年11月刊)は,小著とはいえ,積年の旅の経験をそのなかに注ぎ込んで,《永遠の都》ローマの魅惑の秘密をほぼ明るみに出すことができた.安堵の胸を撫でおろすとともに,他方で新書の制約上,どうしても盛りきれなかった項目がいくつかあり,心が落ち着かなかった.そのひとつが,イタリア半島における古くからのユダヤ人問題であり変貌するゲットーの現在であった.
 2001年9月11日,ニューヨークで事件は起こった.背後にユダヤ人国家イスラエルの問題が蟠っていることは明らかであろう.目を閉じれば,巨大なビル爆破の残映が生々しく浮かんでくる身を,座席にゆだねながら,私は成田空港を飛び立ち,ローマへ向かった.そしてたちまちにユダヤ人街区の外れに赴き,古代ローマの廃墟に近い草むらの前に佇んだ.あの日,家畜の群れのようにそこに集められた,1000名以上のユダヤ人のなかの,10歳の子供のひとりの気持になって,それからは列車に揺られながら,私は半島の鉄路を北上した.
 ヴェネツィアトリエステ,またフェッラーラの各都市で,ユダヤ人街区の小路の奥に私が見届けた彼らや彼女らの現在は,そして幻影のように浮かび上がってきた私の思念のうちの彼女らや彼らの過去は,どのように読者に伝えられたのであろうか.
 (「あとがき」より)
■編集部からのメッセージ
 〈シンドラーのリスト〉〈戦場のピアニスト〉など映像作品からも明らかなように,ホロコーストは今も世界的に大きなテーマであり続けています.それはなぜでしょうか.ナチスの人種絶滅政策という時間的にも空間的にも特殊限定的に見えるこのテーマの投げかけるものが,宗教や民族といったいわば大上段の問いだけでなく,嫌悪や差別,裏切りや密告,あるいは犠牲的精神や連帯,個人の信念や家族愛など,人間の本質的なありようを映しだす強烈な鏡だからではないでしょうか.本書は,ホロコーストとは一見無縁に思いがちなイタリアの四都市への旅を通じて,ゲットーの歴史や大戦下イタリアの姿と今日の日常風景とを見事に重ねあわせ,「生還者」やパルチザンの証言,ナチス側の記録,市民の記憶にさまざまな文学作品も加えて,もう一つのイタリアを立体的に描き出す,稀有な作品です.ユダヤ人非ユダヤ人を問わず,また歴史であろうと文学であろうと,「過去」とどう向き合い,どのように自身の生を生き続けていくか.多くの登場人物の生と死から浮かび上がるこうした人間の営みへと向かう強烈な意志が,厖大な資料と長年格闘しつづけてきた著者の奥行きある文章とともに鮮やかに甦り,読む者の胸を打ちます.
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 NewSphere
 Society
 ユダヤ人を救った架空の感染症「シンドロームK」
 Sep 10 2020
 ファーテベネフラテッリ病院|leventina / Shutterstock.com
 独裁者ヒットラー率いるナチスは欧州各地でユダヤ人を迫害、虐殺したが、イタリアのローマのユダヤ人コミュニティもその標的となった。ユダヤ人たちを救うため、ローマのある病院の医師とスタッフが偽の感染症「シンドロームK(K症候群)」を作り出した。数々のユダヤ人を救った逸話の一つだが、コロナ禍のいま再注目されている。
ナチス占領下のローマ、ユダヤ人が連れていかれる
 科学・理系サイトのIFLサイエンスは「シンドロームK」の背景を説明している。1943年の7月、イタリアではファシズムによる独裁を行っていたムッソリーニ政権が倒れた。新イタリア政府は連合国側と協力し、以前の同盟国であったナチスドイツに宣戦布告したが、国の北部と首都ローマはイタリア社会共和国として、ナチス支配下にあった。
 反ユダヤ主義1920年代にムッソリーニが政権を取って以来、国中に広がっていたが、ドイツの占領下で激しさを増した。当時ナチスの支配とホロコーストの恐怖はほぼ欧州全土に広がっており、1943年10月16日にはローマのユダヤ人コミュニティへのナチスによる手入れが始まり、数百人がアウシュヴィッツに送られたという。
 恐怖を感じた一握りのユダヤ人家族たちが、自分たちの居住区に近いローマのティベリナ島にあるカトリック系のファーテベネフラテッリ病院に助けを求めた。そこで医師たちとスタッフは、彼らを患者として受け入れた。そして実在しない感染症「シンドロームK」を病名として彼らのカルテに記し、特別病棟を作ってユダヤ人を保護した。
◆実在しない病名 ドイツ人を騙せ
 ヒストリー・トゥデイ誌によれば、「シンドロームK」は、医師であり反ファシスト活動家のジョバンニ・ボッロメオ氏によって名づけられた。本物の患者と隠れているユダヤ人を区別するための暗号名で、Kはドイツ軍のイタリア戦線司令官だったアルベルト・ケッセルリンクと、ナチスローマ警察長だったヘルベルト・カプラーを意味したとされる。2人は後に戦犯として裁かれ、有罪となっている。
 いかにして医師たちがユダヤ人をかくまったかには諸説あるが、ボッロメオ医師の息子によれば、10月終わりにナチスがファーテベネフラテッリ病院にユダヤ人と反ファシストを探しにやってきたという。ボッロメオ医師は「シンドロームK」の患者を収容していた病棟に一行を案内し、いかに恐ろしい病気であるかを説明したあと、病棟内の捜索を許可した。しかし一行は、中に入ることを拒否し、それ以上何も尋ねず去って行ったという。IFLサイエンスは、「シンドロームK」がドイツ人将校たちに「コッホ病」とも呼ばれた結核を想像させたせいもあると見ている。
 ユダヤ人をかくまった医師の一人であるVittorio Sacerdoti氏は、2004年のBBCのインタビューで、偽の患者たちはナチスが来たら、咳をたくさんするようにと教えられていたと話した。恐ろしい病気をうつされたくないので、病棟には入ってこないと読んだからだという。案の定、ナチス一行はウサギのように逃げていったと当時を回想している。
◆医師たちはヒーロー 嘘が支えた善
 その後もナチスの病院捜索はあったようだが、1944年6月5日に連合国軍がローマを解放し、ナチスによる迫害は終わった。「シンドロームK」のおかげで助かったユダヤ人の数は、十数人から数百人とされ、正確にはわかっていない。しかしファーテベネフラテッリ病院の役割と医師たちの機転はナチスの恐怖に対する勇敢な行為として高く評価されている。2019年には、ドキュメンタリー映画『Syndrome K』が製作され、2020年1月に公開された。最近NHK BS1でも放送されており、コロナ禍で再び注目が高まっているようだ。
 一方で、この事件はファシズムのもとでのカトリック教会のあいまいな役割を示すことになったとヒストリー・トゥデイ誌は指摘する。当時の教皇ピウス12世はナチスユダヤ人迫害に対し明確な非難をしておらず、戦後も批判を受けてきたという事実がある。同誌はまた、ナチスの将校たちは「シンドロームK」が架空の病気とは気づかなかったとし、偽りの情報、恐怖、無知が善のための力になることもあると指摘している。
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 ウィキペディア
 ピウス12世(Pius PP. XII、1876年3月2日 - 1958年10月9日)はローマ教皇(在位:1939年3月2日 - 1958年10月9日)、第260代ローマ教皇。本名はエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli)。ピオ12世とも表記される。
 第二次世界大戦期の教皇
 「第二次世界大戦下のバチカン(英語版)」および「ピウス12世と反ナチ運動(英語版)」も参照
 欧州大戦の危機迫る1939年3月2日、パチェッリは教皇に選出され、「ピウス12世」を名乗った。戦争が始まると、第一次世界大戦時のベネディクトゥス15世のやり方に倣って、バチカンは「不偏」を主張した。しかし、バチカンナチス・ドイツユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判されることになる。 一方でナチス政権下で行われた障害者安楽死政策「T4作戦」には「自然道徳律に反し、また、神の掟にも反するからである」と度々非難を行っている。

 ナチスユダヤ人迫害への対応
 「ピウス12世とホロコースト」も参照
 バチカンの戦争中のユダヤ人への対応については賛否両論がある。
 賛同者はピウス12世は積極的にユダヤ人を保護していたという。実際、イタリアの降伏(1943年)に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができた。これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っている。ヒトラーカトリック教会やピウス12世を快く思っていなかった。イタリアの降伏後、ヒトラーはピウス12世の拉致を計画したが、イタリアに進駐していた親衛隊大将カール・ヴォルフは悪影響が大きすぎるとして実行しなかった。
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 ヒュー・オフラハーティ(Hugh O'Flaherty、1898年2月28日 - 1963年10月30日)は、アイルランド出身のカトリック教会の司祭。教皇庁職員として、第二次世界大戦中に4000人のユダヤ人および連合軍兵士をドイツ軍の手から守り、命を助けたことで知られる。大英帝国勲章(CBE)など多くの賞を受け、その活躍はグレゴリー・ペック主演の『赤と黒の十字架』で映画化されている。
 第二次世界大戦
 第二次世界大戦が勃発すると、オフラハーティはピウス12世の命を受けてドイツ軍が管理していた北イタリアの捕虜収容所をめぐり、戦死とされていた連合軍捕虜がいないか調べて回った。実際に「戦死」扱いされていた捕虜が生きていることを発見すると、バチカン放送を通じて生存を知らせ、家族を安堵させた。
 イタリアが1943年に降伏すると、数千人のイギリス人戦争捕虜が解放された。彼らは収容所をまわっていたオフラハーティの姿を忘れず、ローマへやってきて彼に助けを求めた。ほかにアイルランド大使館を訪れた者も多かった。それは、当時ローマで開いていた英語圏の大使館が、中立国のアイルランドしかなかったからである。当時のアイルランド大使の妻だったデリア・マーフィーは、オフラハーティの活動を助けた。当時のローマにはドイツ軍が駐屯し、ユダヤ人を捕らえては収容所へ移送していた。また逃走中の連合軍捕虜も、つかまれば収容所へ送られた。
 ユダヤ人や捕虜を助けるオフラハーティの活動は、ドイツ軍への敵対行為であったため、上長の許可を待たずに行動することも多かった。彼は司祭や一般市民の中から協力者をスカウトした。オフラハーティの運動を支え、主導的立場を果たしたのはフランス大使のフランソワ・ド・ヴィアル卿、スイス公使のサルフィールド・サラザール公爵と駐バチカン英国大使のダーシー・オズボーン卿、そしてオズボーンの執事であったジョン・メイであった。ほかにも英軍のサム・デリー(Sam Derry)大佐もオフラハーティの協力者として影から支えた。オフラハーティは協力者たちと共に、4000人以上の連合国捕虜およびユダヤ人を、ローマ周辺の農場や修道院などにかくまった。隠れ家の中には、ナチス親衛隊本部の近くにあるものさえあった。これらの隠れ家をオフラハーティは変装してまめにまわっていた。
 多くの司祭や修道者、一般信徒たちもオフラハーティに協力し、自らの住居に避難民をかくまった。その中にはマルタ出身のアウグスティノ会司祭エディジオ・ガレア、アウレリオ・ボルグ、ウゴリーノ・ガットおよびロバート修道士がおり、さらに一般女性のチェッタ・チェバリエも逃亡者たちを自宅にかくまい、ドイツ軍の探索を免れた。ユダヤ人のためにユダヤ教の儀式がひそかにサン・クレメンテ大聖堂のトビアスの絵の元で行われていた。同聖堂はアイルランド大使館の保護下に置かれていた。
 ローマ駐留のドイツ軍は当然、オフラハーティの動きを快く思わず、彼こそがドイツ軍の目をあざむくネットワークの中心人物であることまでつきとめた。特に親衛隊中佐でローマのゲシュタポ長官であったヘルベルト・カプラーは地下組織の摘発に本腰を入れており、その冷酷さゆえに人々から恐れられていた。カプラーはかつてベニート・ムッソリーニ救出作戦にも携わり、イタリアのユダヤ人を捕らえて収容所に送っていた辣腕の軍人であった。カプラーは幾度かオフラハーティその人を確保しようかとも考えたが、さすがにバチカンの中で教皇庁の司祭を捕らえることができなかった。1943年3月23日、パルチザンによってドイツ軍兵士が殺害されると、カプラーは報復として翌24日に335人ものイタリア市民を殺害した(アルディアティーネ虐殺)。その中には司祭やオフラハーティの重要な協力者も含まれていた。オフラハーティはカプラーが自分をマークしており、危険が迫っていることに気づいていたが、それでもバチカンに逃げ込むユダヤ人や捕虜たちにすぐ対応できるよう、サン・ピエトロ大聖堂前の階段に立つのをやめなかった。
 1944年6月4日、ドイツ軍はローマを撤退し、後を追うように連合軍が入城した。こうして助かった避難民は3925人に上った。オフラハーティは南アフリカへわたってイタリア人捕虜に会い、エルサレムではユダヤ人難民に対面した。ローマにいたユダヤ人9700人のうち1007人がアウシュビッツ強制収容所に送られたが、それ以外の者が各地でかくまわれた。教会当局が保護したのが5000人、そのうちカステル・ガンドルフォの教皇別荘にかくまわれたのが3000人、200から400人がパラティーノ宮殿の「衛兵」としてかくまわれ、1500人が修道院や大学にかくまわれた。残りの3700人は個人の住居にかくまわれていた。
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🐉121』─10・B─中国海軍は質・量共にアメリカ海軍を抜いて世界最強の海軍となる。その時日本は?~No.401 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年9月10日11:04 産経新聞尖閣周辺に中国船 4日連続
 尖閣諸島。手前から南小島、北小島、魚釣島沖縄県石垣市鈴木健児撮影) 
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で10日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは4日連続。」
   ・   ・   ・   
 現代日本は、昔の日本とは違って勝てない相手とは戦わない。
 現代の日本人は、武士・サムライでもなければ百姓でもないので、自分より強い相手に対して名誉・体面・意地、志・矜持を守る為に喧嘩はしないし、賢いだけに命を失うようなバカな事はしない。
 日本国憲法は、戦争を禁じている。
 戦前の日本は、大国アメリカと戦争しても勝てない事が分かっていても、天皇と国家と民族・国民の名誉・体面を守り意地・志・矜持を貫く為に「死を覚悟」してアメリカに宣戦布告して戦争を始めた。
 それが、真珠湾奇襲攻撃であった。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は昔の日本人とは違い、戦争しない、戦わない、争わない。
 戦争するを好戦的な日本人は2割、戦争に反対する平和愛好の日本人(利敵者)は3割、戦わず泣き叫びながら逃げ惑うか高みの見物で傍観する我関せずの日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 日本の、親中国派・媚中派、反米派、反日米安保派、自衛隊反対派、護憲派人権派反戦平和団体、反天皇反日的日本人、左翼・左派・ネットサハ。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、尖閣諸島・沖縄、沖ノ鳥島、北海道を日本から強奪しようとしている。
   ・   ・   ・   
 9月10日06:00 Microsoft News JBpress「中国海軍に追い抜かれる!」米国がついに認める
 北村 淳
 中国海軍の新鋭055型駆逐艦は最先端装備満載のうえ米海軍巡洋艦よりも大型艦である© JBpress 提供 中国海軍の新鋭055型駆逐艦は最先端装備満載のうえ米海軍巡洋艦よりも大型艦である
 (北村 淳:軍事社会学者)
 8月下旬に米連邦議会調査局が公表したレポート「中国海軍力の近代化」および9月初旬に米国防総省が公表したレポート「中華人民共和国の軍事ならびに安全保障の進展─2020年度版」では、中国海軍の強大化に関して深刻な警鐘を鳴らしている。
 わずか20年足らずで・・・
 先月(8月)28日、艦齢およそ30年の中国海軍051G型駆逐艦「湛江」と「珠海」が退役した。これら2隻の駆逐艦は、1968年から1991年にかけて幾度かの改良を加えながら建造された中国海軍051型(旅大型)駆逐艦の最後の退役艦となった。
 051型駆逐艦は、それまで中国沿海域しか活動できなかった中国海軍が初めて外洋に乗り出すことが可能な軍艦を手にするために建造された。中国は西側諸国はもちろんソ連との関係も悪かったため、この中国初の近代的駆逐艦を、かつてソ連から手に入れていた軍艦を参考に独自に造り出すことになった。
 051型一番艦である「済南」は1971年末に就役したものの、建艦技術だけでなく、操艦技術や海戦能力をはじめとする海軍自体の練度も極めて低かった。そのため、外洋に051型駆逐艦を展開させるには長い年月を要した(一般的に、海軍建設には少なくとも25年以上は必要と言われているので決して特別なことではない)。
 幾度かの改造を繰り返して、051型16番艦と17番艦である051G型の「湛江」と「珠海」が就役したのは91年であった。そして97年2月から5月にかけて、「珠海」は93年に就役した当時の中国海軍にとっては最新鋭駆逐艦であった「哈爾浜」(052A型駆逐艦)とともに、アメリカ、メキシコ、チリやペルーなどの中南米諸国、そしてオーストラリアを親善訪問する遠洋航海を実施した。これが中国海軍にとって初の太平洋横断大航海であった。
 それから23年経った現在、中国海軍は米国防総省や米連邦議会調査局のレポートが指摘するように、アメリカ海軍を凌駕しつつある大海軍へと成長してしまったのだ。
 中国に先を越された350隻艦隊
 トランプ大統領は2016年の大統領選挙期間中から350隻艦隊建設(あるいは355隻、トランプ自身、350隻と言ったり355隻と言ったりしている)すなわち大海軍建設による 「偉大なアメリカの再現」を公約としている。
 大統領就任後、355隻艦隊の建設は法制化されて、2017年当時280隻ほどであった米海軍戦闘部隊編成用艦艇を355隻に増強することは、海軍や国防総省、そして予算を決定する連邦議会にとっての義務ということになった。
 もちろん軍艦の建造は数カ月で完成するような事業ではないため、それから3年経った現在、莫大な軍艦建造費が投入され始めているとはいっても、アメリカ海軍が保有している戦闘用艦艇戦力は296隻(米海軍公表9月3日現在:戦略原潜14隻、攻撃原潜54隻、空母11隻、強襲揚陸艦10隻、巡洋艦22隻、駆逐艦69隻、沿海域戦闘艦22隻、輸送揚陸艦23隻、掃海艦8隻、戦闘補給艦30隻、その他の支援艦艇33隻、ただし上記国防総省レポートの集計時点では293隻とされている)に留まっている。
 軍艦建造に携わる造船メーカーは、新造艦の建設以外にも大がかりな修理やメンテナンスなどもこなさなければならない上、造船所施設の老朽化や熟練技術者の減少などの問題に直面している。それに加えて、新型コロナウイルス感染の拡大により、造船所のフル操業も困難となってしまっている。
 そのため、トランプ大統領が主導する現在のようなペースで建造を続けていくことができたとしても、退役する軍艦の数を計算に入れると、アメリカ海軍が355隻艦隊を手にするのは2050年を待たねばならないとも言われているのが現状だ。
 「質・量」共に世界最強に躍り出る中国海軍
 一方の中国海軍は、アメリカ海軍の分類に従うと、すでに350~360隻艦隊を達成していることになる。そのため国防総省のレポートでも「中国海軍は、隻数においては、世界最大の海軍である」と指摘している。
 艦艇の総トン数で比較するならば、超大型空母や強襲揚陸艦、それに巡洋艦駆逐艦など比較的大型の軍艦を多数保有しているアメリカ海軍のほうがいまだ中国海軍を上回っている。とはいっても、めざましい勢いで大型駆逐艦を生み出し、空母や強襲揚陸艦も続々建造中の中国海軍に、総トン数においてもアメリカ海軍が追い抜かれるのは時間の問題である。
 アメリカ海軍にとって、そして当然のことながら日本にとっても、隻数や総トン数以上に深刻な問題は中国新鋭艦艇の戦闘能力の飛躍的向上である。
 上記の国防総省と議会調査局のレポートでも詳細に指摘しているとおり、中国海軍艦艇には米海軍や海上自衛隊艦艇よりも強力な各種ミサイルが積載されている。中国海軍がまさに「質・量」共に世界最強の海軍の座をアメリカ海軍から奪う日が迫りつつあるのだ。
それでも「張り子の虎」と見くびり続けるのか
 中国では、鄧小平の経済近代化路線を軍事面でバックアップするために、1980年代中頃から海軍力の近代化が開始された。その進捗状況や中国海軍戦略の内容などを分析することで「いずれ中国海軍が恐るべき存在になりかねない」と推測する者は、すでに20年ほど前からアメリカ海軍内部や海軍関係者の中にも存在していた。
 そして、オバマ政権下で海軍を含めた軍事予算が大幅に削減されると、近い将来にはアメリカ海軍を凌駕しかねない中国海軍の増強を尻目にアメリカの海洋戦力増強を鈍らせるとは何事か、といった危機感を表明する海軍将校も少なくなかった。
 しかしながら、オバマ政権はもとより、東アジア方面には関心の薄い米海軍首脳主流や国防総省首脳たちは、そのような警鐘に耳を貸そうとはしなかった(それどころか、筆者の友人である、中国警戒派の急先鋒であった海軍情報局大佐などは退役に追い込まれてしまった)。
 ことここに至って、ようやく米国防総省も米連邦議会調査局も、中国海軍にアメリカ海軍が追い抜かれる現状を明確に表明した。しかしながら、いまだに中国海軍力に対して「数だけ多くても仕方がない」「高性能は見かけ倒し」「みかけは虚仮威しで実際は張り子の虎にすぎない」といった見方をする勢力がアメリカにも日本にも少なくない。
 とりわけ中国海軍と東シナ海で直接領域問題で対峙しており、南シナ海では海上航路帯が中国海軍の脅威を受けている日本にとって、交渉を有利に進めるにせよ、軍事衝突に勝利するにせよ、いずれにしても中国海軍の現状を直視することを絶対に回避してはならない。」
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