🎄22」─1─1920年代初頭のロシアにおける飢饉と乳幼児の生存・養育環境。~No.77No.78No.79 

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 1920年代初頭のロシアにおける飢饉と
 乳幼児の生存・養育環境
 村 知 稔 三
 〔キーワード〕 子ども生活史, 飢餓, ヨーロッパ=ロシア部, 1912~1922年
 「僕らは死にかけている。人々は行き倒れ,家は閉められ,作物はみな枯れて,食べ物もなく,僕らは取り残された。僕らの嘆きを聞いてくれるのは誰?悲しみを受けとめてくれるのは誰? 苦しみをわかってくれるのは誰? あなたはどう?」(浮浪児を収容した児童ホームで 1921年に流行した。
 はじめに
 本稿は,近現代ロシアにおける乳幼児の生活史研究の一環として,その出生と生存,養育と保育のあり方に大きく影響した 1921~1922年の飢饉について考える。
 飢餓や飢饉は現在の日本人には遠い世界のことと感じられがちである。だが,第二次世界大戦直後の事態を思い出すまでもなく,飢餓の恐怖は日本列島の住民にとり長いあいだ日常的なものであった。しかも,その恐怖から脱しかけた 1961年に 76%だった穀物自給率は,2005年に 28%(推計値)まで低下しており,世界とりわけ米国や中国などの情勢しだいで食糧不足の状態に再び陥る危険性が潜んでい3)る。
 飢饉時にその直接の最大の影響を受ける存在のひとつが乳幼児である。1920年代初頭に,ロシアのヨーロッパ部(欧露部)の中央を流れるヴォルガ川の沿岸を中心に発生した飢饉の際も,少なくとも 100万人ほどの死者のなかに相当数の乳幼児が含まれていた。
 従来のロシア保育史研究はこの飢饉についてあまり論じてこなかった。同時代の文献をみると,モスクワの保育活動を概観した 1927年の論文が「飢饉のために保育をめぐる事態は破局を迎え,親は保育者を信頼しなくなった」と述べ,1928年刊の保育者向けの便覧が「戦争・崩壊・飢饉の連続で幼児の身体形成がとくに心配な状態にある」という教育人民委員部(文部省に相当)の1924年の決定を収めている程度であ5)る。この状況は,1991年のソ連崩壊後にロシアや米国で公表された保育関係の学位請求論文でもあまり変わらない。日本のロシア教育史研究では 1931年の英語文献を紹介した 1980年の福田論文や,飢饉などによって生まれた浮浪児の教育について論じた 1987年の桑原論文がある。だが,先駆的な前者は,福田がいうように,大雑把な叙述に留まっており,後者は飢饉下の子どもの実態を主題としていない。
 視野をロシア史研究全般に広げると,以上とは異なる状況がみえてくる。1917年の(十月)革命とその直後の内戦(対ソ干渉戦争)により,いわば世界の目を釘づけにしていたロシアで生じた飢饉だけに,同時代人による記録がロシアの内外で残されている。こうした公刊資料を駆使した 1970年の米国の学位請求論文はこの飢饉の全体像を再現しようとし9)た。ただし,そこでは冷戦下の敵国研究という意識が強いためか,飢饉の規模を大きめに推計する傾向がめだつ。スターリン体制の成立した 1930年代以降は隠されがちだった 1920年代初頭の飢饉に関する未公刊の資料がソ連崩壊前後より公開され始めた。それにもとづいて、旧ソ連の研究者らがいち早く成果を公表したり、米国の歴史家ボールが飢饉時に大量に生まれた浮浪児について論じたり,豪州の歴史人口学者ウィートクロフトが飢饉時の栄養摂取量の変化を詳述したり,内戦期研究者の梶川が飢饉に関する未定稿を著わしたりしている。ただし,これらの著作は飢饉全般を論じるものであり,乳幼児の問題に多くのページを割いていない。
 このように,1920年代初頭の飢饉時における乳幼児の状態の解明は,ロシア・英語圏・日本などの研究において基本的に未解明の課題として残されている。
 なお、ロシアにおける最新の研究動向として注目すべきは、1998年に刊行が始まった『社会史年報』の第4号に、今回の飢饉と子どもの関係を論じた2つの論文が掲載されていることである。とくに,飢饉開始期とほぼ重なる1921年2月に,ロシア共和国の最高権力機関である全ロシア中央執行委員会に付設され,飢餓児童の救済に一定の役割を果たした児童生活改善委員会( 通称「子ども委員会」)の活動を論じたスミルノーヴァ論文は,乳幼児を含む子どもを対象に,飢饉下のその実態について詳述しており,有益である。
 あらかじめ断っておくべき本稿の制約は,第1に,今回の飢饉の全体像を少ない紙幅で描こうとしているため,飢饉の程度が地域ごとに異なり,乳幼児の生存や養育に与える飢饉の影響が彼の属する民族や宗教・階級・階層などに媒介される点を描写できていないことである。第2に,近年の飢饉研究で重要な前提とされる A.K.セン(1998年のノーベル経済学賞の受賞者)の権原(entitlement)理論 飢餓とは食糧などの財・サービスを用いて達成される「十分な栄養を得る」という基礎的潜在能力が剥奪された状況である を踏まえておらず,彼が批判する「食糧供給量の減少ゆえに飢饉が生じる」という常識的な Food Availability Declineアプローチに立っている点である。
 以下,第 1節では,1920年代初頭の飢饉をロシアの飢饉史上に位置づけ,その原因や規模などを概観する。第 2節では,乳幼児への飢饉の影響を軽減するために行なわれた配給・給食・疎開の実際や,通園型の保育施設と収容(生活)型の児童ホームの実態にふれる。
 1 ロシアの飢饉史と 1920年代初頭の飢饉の特徴
 (1)飢饉の歴史と一般的要因
 9世紀後半に国家的形態をとり始めたロシアで最初の飢饉は 1024年のものとされている。それから 19世紀前半までに 130回の飢饉が記録されているので,約 6年に 1回の割合で飢饉が生じたことになる。その後も飢饉は頻発した。主なものをあげると,1867~1868年,1872~1873年,1877年,1884年,1891~1892年,1897~1899年,1901年,1905~1907年,1911~1912年,1915年,1921~1922年,1932~1933年,1946~1947年の飢饉である。
 その規模は概して大きく,1891年以降の飢饉の大半が 100万人以上の住民を飢餓に直面させた。とりわけ 1920年代初頭以降の 3度の飢饉は大規模だった。
 ロシアで大飢饉が頻繁にみられたのには次の一般的要因があった。
 ①自然条件・気候条件が農業に不適だった。戸外で農作業ができるのは 4月中旬~9月中旬のうちで 125~130日間と少ないため,安定した収穫を見込みにくかっ13)た。
 ②施肥が少なく,農業生産性が全般に低かった。主食のライ麦や小麦についてみれば,1粒を蒔いて 3~ 4粒を収穫するというのが 18世紀~20世紀前半の平均水準だった。この程度の収穫量では早ければ年内に食い尽くしてしまうため,わずかな天候不順が飢餓につながりやすかった。
 ③土地不足と過剰人口という農村の構造的な問題が 1861年農奴解放のあと顕在化した。農村の人口は 1870年の 5859万人から 1900年の 9130万人へと毎年 100万人以上のテンポで,農民総数は 1929年まで年 1.5%以上の割合で増え続けた。並行して農民家族の分割が進み,欧露部の世帯数は 1877/78年度の800万戸から 1929年の 2500万戸に激増した。
 ④とくに飢饉が頻発したヴォルガ流域には特有な問題があった。そこでは農家が千戸を超える巨大な村落がめだった。そのために宅地から 50km余り離れた耕作地が生まれ,放置されやすかった。かわりに休閑地にソバなどが多く作付けされたり,ライ麦が同一区画地に連作されたりした。こうした輪作体系のない雑圃制などによって旱魃に弱い地域が生まれた。
 (2)1920年代初頭の飢饉の概要
 1914年 7月に始まった世界大戦でロシアは約 1430万~1760万人の兵士を前線に送り,負傷・戦死・捕虜・行方不明などで,その 3分の 1ほどを喪失した。兵士と民間人の死亡数は 365万人にのぼった。民衆の不満は高揚し,300年余り続いたロマノフ朝は 1917年 2月に崩壊した。さらに 10月には臨時政府が瓦解し,レーニンを首班とする新政権が成立した。
 同政権が最初にとった施策のひとつが大戦からの離脱だった。それによってロシアは対外的に孤立し,国内でも種々の対立を抱えることになった一方,平和を取り戻した。しかし,それは長く続かず,上記の孤立と対立などを背景に,1918年 5月から内戦=干渉戦争(最大時の 1919年 2月に 14か国が約 13万人を派兵)が始まった。兵士だけで 250万~330万人という死者を出して1920年秋までにほぼ終結した内戦では,ロシアの穀倉地帯である欧露部の南半分が前線となった。そこでは新政権とそれに敵対する側の双方が強権的に食糧を徴発したので,農民の反発をよんだ。
 長期間の戦争により穀物の播種面積や家畜の頭数が減少した。1916年と1921年の全国値を比べると,播種面積は 31%減り,とくに春蒔のライ麦・小麦などは 4割以上の減少となった。また,家畜は平均 40%減り,ヴォルガ下流域では馬と牛が半減し,豚が 4分の 1に減った。播種面積の縮小には,大戦が総力戦だったために農機具が減少したことも関係していた。金属製の犂の生産量は 1921年に 1913年比の 13%まで低下した。
 こうしたなか,降雨量の減少と気温の上昇が 1920年春から全土で目立ち始めた。4~7月の降雨量は平年の 7%以下に留まり,気温は 16度から 23度に,土中の温度は 11度から 18度に上昇した。秋と冬も雨が少なく,翌年も春の降雨量がわずかなまま,暑い夏が再来した。
 その影響を最も強く受け,旱魃が著しかったヴォルガ中・下流域やウクライナ南部は,ロシアの重要な穀倉地帯だった。逆にいえば,穀倉地帯のうちで今回の飢饉に見舞われなかったのは中央農業地帯の一部などに限られた。そこで全国の食糧供給がそれらの地域に期待された。しかし,同地域における食糧生産量は大戦前の半分の水準まで低下していた。
 全国的な食糧不足に輪をかけたのが,第 1に,食糧の搬送手段とりわけ鉄道の機能低下だった。機関車と貨物車の稼働率は 1913年の 86%と 95%から 1921年の 40%と 70%に下がった。第 2に,新政権が内戦期に採った戦時共産主義政策の中心をなしていた食糧徴発制度の廃止と食糧税への移行が 1921年 2月に決定され,残った農産物の自由な売買が認められようになった。その結果,大半の住民が私的な市場に食糧を求めざるをえなくなり,食糧価格は 4月から急騰し始めた。その上昇を待つ小売商の投機的な姿勢などが少ない食糧の偏在を促進した。
 新政権の飢饉への対応は事態の進行に遅れがちだった。1920年夏にはモスクワ県の南や南西に位置する 5県で飢饉が生じ,9月 21日に人民委員会議(政府に相当)はこれらの地域の飢餓住民への援助を決定し,ほぼ同時にシベリアと北カフカースでの穀物調達と搬出作業の強化を指令した。11月にはレーニンが全国的な食糧不足の進行を指摘し,12月 22~29日の第 8回全ロシア・ソビエト大会の論議を農業問題に集中させた。しかし,飢饉についての公式見解がロシア共産党機関紙『プラウダ』に載ったのは,それから半年後の 1921年6月 30日のことだった。こうした遅れは,内戦の終結に新政権が手間どったうえに,戦時共産主義的な考えが内戦後も政権内などに残っていたためである。さらに,飢饉救済にとりくむ国内諸組織の間に混乱が生じていた。
 これらの事情が重なり,飢饉の規模は従来を著しく上回った。上記の 1921年6月末の公式見解によれば,その地理的範囲(飢饉地域)は欧露部で南北1300km弱,東西 560kmとされた。数か月後にそれは拡大し,日本の現国土の 9倍弱にあたる 330万 km워となった。そこには,ヴォルガ流域とウクライナ南部にくわえ,ウラル山麓のペルミ,ヴャートカ,ウファー諸県,北カフカースのスターヴロポリ県などが入った。さらにシベリアや中央アジア部などを含めると,全国 74県のうちの 20~34県が飢饉に襲われたことになる。
 (3)飢餓人口と死亡数
 広大な飢饉地域で飢えていた住民の数は確定しておらず,従来は約 2200万~3350万人の間で推計されてきた。論者により飢餓の基準が異なるうえに,時期や地域の違う資料にもとづいていたからである。たとえば,1921年 7月に新政権が創設した飢餓住民救済中央委員会(通称「ポムゴール」)の公式数値は委員長の カリーニン(1875~1946年)が同年 12月にあげた「2200万人以上」だった。ただし,彼自身はそれに 500万人ほどを上積みした「2700万~2800万人」が適切だと考えていた。1922年に国際連盟は「3003万人」,ロシア赤十字社は「3350万人(うち都市で 500万人)」とみなした。20世紀のロシア人口史を見直す近年の研究は,これまで洩れていた地域を考慮して,飢餓人口を「3500万人(うち都市で 500万人以下)」と推定している。これは1922年末に成立したソ連の総人口の 4分の 1にあたる数値である。
 14歳までの子どもに注目すると,①ヴォルガ流域と黒海沿岸のクリミアで 3割以上の子どもが飢餓と疫病(伝染病)で死亡したという調査,② 1921/22年の冬にウクライナ南部で「膨大な数」の子どもが死亡し,その記録はどこにもないとする著書,③飢饉地域の大半を対象とした 1922年 5月の資料で 1018〔1069〕万人の子どもの 66〔68〕%にあたる 673〔725〕万人が飢えていたという統計などが紹介されている。また,④ 1923年の公式統計誌に掲載された論稿によれば,1922年 8月にロシアの 21県とキルギスタンウクライナの各 5県の計 31県に 1795万人の子どもがおり,その 61%にあたる 1100万人が飢餓状態にあった。⑤『飢餓住民救済中央委員会ビュレティン』1922年 5-7合併
号によれば,1922年の 23県などの飢餓児童数は年頭までの 640万人から4月
の 857万人,8月の 989万人へと増えたという
 乳幼児については,飢餓住民 2603万人(ウクライナを除く)のうち,年齢が判明している 2013万人の 27%にあたる 539万人が乳幼児だった,とするロシア赤十字社の 1922年の統計がある。誕生まもない数百万の生命がその存続の危機に直面していたことがわかる。
 飢餓人口の確定以上に難しいのは飢饉による死亡数の推計である。一般に,近世以降の社会では栄養不良や栄養失調が直接的な死因となる餓死は例外的であり,赤痢発疹チフスなどの疫病が飢饉時の主な死因であることが多い。
 少雨あるいは多雨と冷夏が収穫不良や飢饉に直結し,飢餓のために住民の(一人一日平均)カロリー摂取量が低下し,体力の弱ったところで翌夏の暑さにより疫病が蔓延し,死亡率を上昇させる という関係が 1920年代初頭のロシアの飢饉でも認められた。たとえば,ヴォルガ下流域のサラートフ県では,1920年に収穫が不良になり,1921年から食糧供給量が急減し,2月の農民のカロリー摂取量は前年同月の約 7割まで低下した。さらに 1922年にかけて飢餓が深刻化し,同年 2月のカロリー摂取量は,平常値に回復する翌 1923年 2月の 45%にすぎなかった。他方,サラートフ市の死亡率は 1921年 6月に169‰(千分の一の単位「パーミル」),1922年 2~ 4月に 147‰と急騰し,その大半をコレラ発疹チフスなどによる上昇分が占めていた。
 飢饉と死亡のやや複雑な関係にくわえ,飢饉地域を網羅する統計の欠如から,この時期の餓死者・病死者の総数は論者によって異なる。たとえば,ロシア救済国際委員会はそれを「125万~200万人」,同委員長の F.ナンセン(1861~1930年)は「300万人」とし,1970年の米国の学位請求論文は「餓死者のみで 1000万人以上」とする。他方,ロシアの最近の研究では 1922年 5月までの餓死者・病死者数を「約 100万人」とみなす。ただし,これらのいずれもが乳幼児の死亡数は特定しておらず,「飢餓と病気によって 3歳未満児の 90~95%と年長児〔3~ 7歳児〕の約 3分の 1が死亡した」という少し極端な記述がみられるだけである。
 そこで,その代わりに,飢饉時に上昇しがちな(普通)死亡率(人口千人あたりの死亡数)と,逆に急激に低下しやすい(普通)出生率(人口千人あたりの出生数)の推移をここで瞥見しておこう。
 20世紀前半のロシアの死亡や出生の動向にみられる最大の特徴は,多産多死段階から少産少死段階への転換過程にあたる多産少死段階に位置したという点である。そのため,19世紀後半に 50‰前後と高水準にあった欧露部の出生率は,世紀転換期頃から,多少の上下を繰り返して,低下し始めた。1915~1922年に出生率は 40‰を割ったあと,1923~1928年に再び 40‰を超えた。このように戦争や飢饉などは出生率を急落させ,人口を潜在的に喪失させた。これらの情勢の影響は,世紀転換期になお 30‰を超えていたロシアの高い死亡率の漸減傾向を中断し,ときに再び 30‰以上に急騰させた点にも認められ る。
 飢饉時には乳児死亡率(出生数千人あたりの生後 1年未満の死亡数)も上昇した。ロシアのこの値は大戦前夜まで主要国のなかで異例に高く,出生児 4人(184)のうち 1人余りが誕生日を一度も迎えられずに死亡していた。1920~1922年の水準もほぼ同じで,232~251‰の間にあった。それが,飢饉後には,1923年に 230‰を,1925年に 220‰を,1926年に 200‰を割るというように低下する。
 地域別の乳児死亡率については,飢饉地域の値を見出していないので,大都市の事例をみよう。モスクワ市の場合,内戦期の食糧不足から 1919年に 332‰に急騰していた値は 1921年に 206‰まで低下した。それが 1922年には 247‰へ再上昇し,1923年には 144‰に落ち着き,1920年代後半は 130‰前後を推移した。ペトログラード市の場合も,水準は少し異なるものの,ほぼ同じ軌跡をたどった。両市ともに内戦と飢饉が乳児死亡率の上昇に影響していたことがわかる。
 飢饉は子どもの死とともに,その浮浪化を招いた。浮浪児数の確定も難しいので,ボールの著書からロシアの概数を拾うと,1921年に 450万人,1922年に 500万~750万人,1923年に 100万~400万人,1924年春に 100万人以上となる。 1927年に総数の 15%を 3~ 7歳児が占めていたので,この比率を単純に当てはめれば,飢饉時には数十万ないし百万人以上の幼児が浮浪状態にあったことになる。
 2 飢饉対策としての配給・給食・疎開と保育施設の実態
 (1)配給と給食の実施
飢饉対策で優先されたのは食糧の配給と(公共)食堂や各種施設での給食実施である。

 (3)疎開の実施
 子どもを児童ホームに収容する政策から飢饉地域の外に疎開させる政策への比重の転換が 1921年中頃になされた。月間の疎開児数は 9月と 10月の各 1.4万人から 11月と 12月の各 2.8万人に倍増し,その総計は翌年の夏ないし年末までに 15万~25万人にのぼった。疎開先はシベリア,中央アジア,北カフカースウクライナ北部,ペトログラードなどだった。
 ただし,多くの疎開はあまり準備されたものでなかった。たとえば,1921年11月に子ども委員会は飢餓住民救済委員会や国際赤十字と連携して,ヴォルガ流域の 1600人の子どもをチェコスロバキア疎開させるため,まずモスクワに移したところ,そこには十分な宿舎が確保されていなかった。さらに,ようやく目的地に着いた子どもの教育に新政権の敵対勢力が関わっていることが翌年の秋にわかると,子ども委員会は疎開児をヴォルガに戻すことにした。場当たり的な政策が事態をさらに混乱させた。
 ……
 しかし,それは守られず,幼児を含む子どもの 1~ 2割が疎開中に死亡した。この高い死亡率は,ときに 400km以上もの長距離をすし詰めの列車や船で,満足に食事をとることもできないままに移動する心身の負担からだけでなく,病気になった疎開者が狭い室内に長時間ともにいるために疫病が拡大したからでもあった。移動途中に生き延び,目的地に着いた者のなかにも患者はおり,それが疎開先に疫病をもたらした。そのため,疎開者の受け入れを渋るところもあった。子どもを対象とした大規模な疎開は最終的に 1924年に中止される。
 (4)カニバリズム(人肉喰い)
 最後に,以上の諸施策で救われなかった子どものうちで最も深刻な事例を紹介しよう。
 飢饉地域のバズルク市で救済活動にとりくんでいたある人物は 1921/22年の冬につぎの電報を発信した。
 当市では凍りついた子どもの死体が路上に文字どおりゴロゴロしており,3000人以上の赤ちゃんが捨てられている。われわれは 3万 8000人の子どもを至急に救い出す必要がある。さもないと町は捨て子でいっぱいになる。他方,村では乳の出なくなった母親や疲れ果てた父親の腕に乳幼児が抱かれたまま亡くなっている。
 また,「子どもが蠅のようにバタバタと死んでいた」というサマーラ県などでは同じ冬につぎの事態が観察された。
 何よりも悲惨なのは飢餓の苦しみだった。まず頬が落ち込み,顎がせりだし,眼が濁り,しだいに手と足,顔が痛みをともなって腫れ始め,さらに全身に浮腫みがくると,もう死が近づいていた。飢えに極端に苦しむ者は死体さえ食べた。死んだ夫の肉体が内臓まで取り出され,妻はそのすべてを貪った。この女の話では,夫自身が生前に墓場から死体を運び出して食べていた。老婆が夫を殺して食し,若い母親が親戚の子どもを殺して食したという事実もあった。人肉喰いが露見した者は濁った眼と死にかけた全身腫れあがった姿で町に連行された。その大半は,年頃の娘から老女にいたる女性だった。
 こうした行為の最初の標的になったのが子ども,とくに幼児だったことは,これもまたロシア史上で最大級となった 1932~1933年の飢饉(死者数は 720万~1080万人)の際の人肉喰いに関する警察記録で,対象者の年齢が 2~8歳に集中している事例から推測できよう。
 実際,1920年代初頭の飢饉時にも教育人民委員部は「飢えに苦しむ子どもたちが互いにかじりあうので,母親が子ども同士を離して縛りつけておかなければならない」という報告を受けていた。また,バシキール自治共和国の指導部は「人肉喰いについて」という特別決定を 1922年4月に採択して,死体を食べることや人肉を売り買いすることの一掃をよびかける必要性に迫られていた。
 カニバリズム以外にも,飢えで衰弱していく子どもを見かねて殺した母親や,ヴォルガ川に赤ちゃんを投げ入れた母親,一家ぐるみの焼身自殺などの事例が飢饉地域では希でなかった。
 おわりに
 最後に,本稿で明らかになった点を要約しておこう。
 ロシアの厳しい自然条件や農業生産性の低さ,農村人口の急増などを遠因として,また 1914年後半からの長期間の戦争を背景に,さらに 1920年春に始まった旱魃が近因となって,同年の夏に一部の県で飢饉が発生した。翌年になると飢饉の規模は拡大し,最大時の 1921/22年の冬には,ヴォルガ中・下流域,ウクライナ南部,ウラル山麓,北カフカースといった欧露部の東・南東・南の地域の 330万 km워にくわえて,シベリアや中央アジア部までを飢饉は呑みこみ,その範囲は全国 74県のうち 20~34県におよんだ。
 これらの飢饉地域における飢餓者の総数はこれまで 2200万~3350万人の間で推計されてきた。だが,近年の研究ではソ連の総人口の 4分の 1にあたる3500万人とみなされている。その 3分の 1ほどの 1100万人が 14歳までの子どもであり,7歳までの乳幼児はロシアだけで少なくとも 539万人を数えた。
 飢餓住民は 1921年にカロリー摂取量が低下し,体力の弱ったところで翌年の夏の暑さで蔓延した疫病のために多くが死亡し,一部が飢餓のために亡くなった。病死者・餓死者数の従来の推計は 125万~1000万人と開きが大きく,上記の近年の研究は約 100万人としている。そのうち子どもや乳幼児の数は未確定であり,確認できるのは,1920~1922年に欧露部の死亡率と乳児死亡率が再上昇し,出生率が急激に低下するほど多くの生命が失われたり,誕生しなかったりしたという点である。
 1920年末から 1921年春にかけて内戦がほぼ終結し,存亡の危機を乗り越えた新政権は,飢饉の発生を公認した6月末の直後から飢餓救済の活動に本格的にとりくみ始めた。他方,対ソ干渉戦争に派兵した日欧米の諸国とくに欧米諸国は,ロシアとの関係改善の好機という判断などから,この活動に積極的な姿勢をとった。
 ロシア内外の諸組織が救済活動で優先したのは食糧の配給と公共食堂や各種施設での給食の実施だった。しかし,配給が届いたのは 1922年 8月の時点で飢餓人口の半数ほどだった。また,同年 7月に 3万か所まで増大した公共食堂では一日に 1250万食が提供されたものの,その恩恵を受けられた飢餓児童は全体の 1割にすぎなかった。
 1921年春に市場経済化の原理を部分的に導入する新経済政策の採用が決定された結果,国家予算に占める教育予算の比率が急落し,保育施設は 1921年から 1923年にかけて 7割以上も削減された。他方,内戦と飢饉により 1921~1922年に生まれた 500万人前後の浮浪児を受け入れる児童ホームは同じ期間に 1.6倍に増えた。だが,入所児数がそれ以上に増加したことなどから,児童ホームでは大半の入所児が死亡するという事態が頻繁にみられた。
 1921年中頃から飢饉地域の子どもの非飢饉地域への疎開が活発になり,翌年の夏ないし年末までに 15万~25万人の子どもが移送された。飢饉地域の広大さから移動距離は数百キロメートルにもなり,途中で 1~ 2割の子どもが死亡した。また,疎開の結果,飢饉地域で流行していた疫病が疎開先に広まることになった。子どもの疎開1924年に中止された。
 飢饉地域にいるのも,そこから移動するのも「地獄」という状態が 2年ほど続いた。その最悪の結果は人肉喰いとなって現われ,幼児はその犠牲となりやすかった。しかも、つぎの大きな飢饉が 1930年代前半にロシアを襲うまでの間の 1924~1925年や 1928年~1929年にも各地の農村では飢饉の様相を呈したり,飢饉と呼ばれたりするような状況にあった。
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🐖55」─3─アリババ物流拠点が中国のスパイ拠点に? ベルギーが懸念。~No.269 ㉕ 

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2021年5月8日 MicrosoftNews AFPBB News「アリババ物流拠点が中国のスパイ拠点に? ベルギーが懸念
 © GREG BAKER / AFP 中国の電子商取引(EC)大手アリババ(阿里巴巴)のロゴ、中国・北京で(2021年4月13日撮影、資料写真)。
 【AFP=時事】中国の電子商取引(EC)大手アリババ(Alibaba、阿里巴巴)がベルギーに建設中の巨大な物流拠点について、ベルギー当局は、中国の情報機関に利用される恐れがあると懸念している。
 ベルギーのリエージュ空港(Liege Airport)に隣接して建設中の物流センターは、アリババの世界の物流網の一角として、西欧全域をカバーする。
 リエージュを含む南部ワロン(Wallonia)地域の当局者らは、経済的な利益につながるとして歓迎しているが、中国との外交関係の緊張が高まる中、連邦政府当局は懸念を抱いている。
 フィンセント・ファンクイッケンボルヌ(Vincent Van Quickenborne)司法相は今週、中国は法律でアリババを含むすべての民間企業に国の情報機関に協力することを義務付けていると議会で述べた。
 同氏は議会委員会からの質問に答える形で、「アリババのような企業は、情報機関の工作員のためのポストを社内に用意することが求められている」と発言。「実際問題として、空港の機密エリアや保安エリア、あるいはアリババが保有する商用データや個人データにアクセスできる可能性がある」と警告した。
 さらに、ファンクイッケンボルヌ氏によると、ベルギーの情報機関である国家保安庁は、中国が経済力を政治的影響力として利用する危険性を警告しているという。
 【翻訳編集】AFPBB News
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🐖目次」ー11ー孔子学院。ネット監視。移民政策。中国経済の内需。中国軍。~No.1  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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中国共産党の正統性は抗日戦争勝利というウソ。
2017-12-13
🐖2」─1─中国共産党政府の抗日戦争勝利70周年記念式典に参加した韓国・ロシア・国連及び国際諸機関。~No.2No.3No.4・ @ 
2019-04-04
🐖2」─2─上海交通大学反日目的で「東京裁判記念館」の建設計画を進めている。〜No.5No.6No.7・ * 
2019-04-06
🐖2」─3─中国共産党マルクス生誕200周年記念大会。〜No.8No.9No.10 * 
2020-09-04
🐖2」─4─習近平氏「日本は侵略の歴史反省を」、抗日戦勝記念式典で献花。~No.11No.12No.13・ ①
   ・   ・   ・   
映画・漫画・文化
2017-12-12
🐖3」─1─中国マネーによるアメリカ映画支配。~No.14No.15No.16・ @ 
2021-02-04
🐖3」─2─中国で海賊版サイト摘発、ドラマや映画2万本…知財重視アピールか。~No.17No.18No.19・ 
2018-06-29
🐖3」─3─“媚中”ハリウッド苦渋、中国と険悪…習主席が外国映画を党の管理下に置いた狙い。~No.20No.21No.22・ @ 
2020-07-20
🐖3」─4─米司法長官は映画産業やIT企業の親中姿勢を批判。~No.23 
2021-04-01
🐖3」─5─『アフリカン・カンフー・ナチス』劇場公開決定~No.24No.25 ② 
   ・   ・   ・  
男尊女卑。
2018-01-02
🐖4」─1─中国経済での児童の悲惨。儒教は、女児を人間扱いしない。中国共産主義体制の現状。~No.26No.27No.28・ @ 
2018-01-23
🐖4」─2─中国の猟奇殺人は今も残る風習「陰婚」が原因だった。女性の遺体を取引する闇のビジネス。~No.29No.30No.31・ @ ③
   ・   ・   ・   
一人っ子政策の失敗。
2018-01-19
🐖5」─1─中国の共産主義的産児統制の失敗。一人っ子政策負の遺産。闇っ子。独身村。失独老人。~No.32No.33No.34・ @ 
2019-08-01
🐖5」─2─中国の人口を微増させる3人っ子政策。~No.35・
2021-04-21
🐖5」─3─少子高齢化急加速-出産制限の撤廃を人民銀が呼び掛け。~No.36No.37No.38 ④ 

   ・   ・   ・   
老人大国。
2018-07-06
🐖6」7」─1─2050年の中国は、人類未体験の高齢社会となり微笑みの老人大国となる。~No.39No.40No.41No.42No.43No.44・ @ ⑤
   ・   ・   ・   
犯罪集団。
2018-01-22
🐖8」─1─中国人が移住した国・地域で中国マフィアが増える。~No.45No.46No.47・ 
2018-05-08
🐖8」─2─中国の闇ビジネス。世界に蔓延する中国系麻薬ビジネス。~No.48No.49No.50・ ⑥
   ・   ・   ・   
孔子学院。
2018-02-07
🐖9」─1─孔子学院。~No.51No.52No.53No.54・ @ 
2019-02-13
🐖9」─2─大学・専門学校の国際化とは中国化である。国家情報法と中国人の留学生や職員。孔子学院。~No.55No.56No.57・ 
2019-03-20
🐖9」─3─中国共産党は、「強国路線」のツールとして孔子学院を日本を含む諸外国に増設している。~No.58No.59No.60・ * 
2019-10-31
🐖9」─4─ベルギーは、スパイ容疑で孔子学院院長の再入国を禁止。~No.61No.62No.63・ 
2020-08-16
🐖9」─5─国務省、米国内の孔子学院の統括組織を「外国公館」に指定。~No.64No.65No.66・ 
2020-10-17
🐖9」─6─中国、米の孔子学院閉鎖に報復措置を示唆。~No.67・ 
2021-02-26
🐖9」─7─CIA長官に指名されたバーンズ元国務副長官、孔子学院にも警戒感。~No.58No.69No.70 ⑦ 
   ・   ・   ・   
中国人研究者によるデータ流出。知的財産
2018-08-10
🐖10」─1─中国人留学生による技術持ち出し懸念。米、ビザ発給厳格化。~No.71No.72No.73・ @ 
2019-06-05
🐖10」─2─中国、米国での就学の「リスク」を警告 ~No.74No.75No.76・ 
2019-06-28
🐖10」─3─米エネルギー省、知的財産を守るべく中国人研究者招致計画参加を禁止。~No.77No.78No.79・ 
2020-06-02
🐖10」─4─アメリカは、中国人研究者の入国を制限すると発表した。~No.80No.81No.82・ 
2020-06-02
🐖10」─5─中国は「第1段階」通商合意の知財保護果たさず、米報告書。~No.81No.82 ⑧
   ・   ・   ・   
中国ITとサイバー攻撃
2020-05-05
🐖11」─1─中国共産党新型コロナウイルス便乗。欧州の病院・研究機関にサイバー攻撃が続出。~No.83No.84No.85・ 
2020-08-02
🐖11」─2─アメリカはデータ流出を防ぐ為に中国ITを締め出し始めた。~No.86No.87No.88No.89・ ⑨
   ・   ・   ・   
中国工作員。スパイ。
2018-08-14
🐖12」─1─中国共産党は、アメリカ議会を反日にするべく工作員を送り込んでいる。~No.90No.91No.92・ @ 
2020-12-17
🐖12」─2─アメリカの民主党下院議員は中国の女性スパイに籠絡され情報収集に協力か。~No.94No.95No.96・ ⑩
   ・   ・   ・   
インド太平洋戦略。
2018-11-10
🐖13」─1─アメリカは中国共産党の世界制覇を砕くインド太平洋戦略。~No.97No.98No.99・ @ 
2020-02-14
🐖13」─2─中国、太平洋地域の安定を脅かしている=米軍司令官 ~No.100No.101No.102・ ⑪
   ・   ・   ・   
中国包囲網。
2019-02-27
🐖14」─1─中国共産党政府は日本とインドとの対中連携を嘲う。 ~No.103No.104No.104・ * 
2020-11-14
🐖14」─2─中国は「自由で開かれたインド太平洋」阻止に躍起~No.381No.382・ 
2020-06-18
🐖14」─3─中国軍は新型コロナウイルス感染蔓延のインドを攻撃した。~No.105No.106No.107・ 
2019-07-15
🐖15」16」─1─南西太平洋の中央部・オセアニア。日米豪がフィジー軍支援で連携。〜No.108No.109No.110No.111No.112No.113・ 
2021-02-16
🐖17」18」─1─カナダ主導約60カ国、他国民の恣意的拘禁に反対の国際宣言。中国は強い不満。~No.114No.115No.116No.117No.118No.120・ ⑫
   ・   ・   ・   
チャイナマネー
アジアインフラ投資銀行(AIIB)。
2018-12-01
🐖19」─1─存在感高めるAIIB。日本は参加に慎重。~No.121No.122No.123・ @ 
2019-07-14
🐖19」─2─アジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加承認の国・地域が100。〜No.124No.125No.126・ 
2020-01-16
🐖19」─3─AIIB開業4年 加盟100カ国超え 影響力拡大には人材不足の指摘も〜No.127No.128No.129・ 
2020-02-13
🐖19」─4─米中貿易戦争で影薄まるAIIB 虎視眈々と勢力拡大中。〜No.130No.131No.132・ 
  ・  ・  
上海協力機構
2018-06-11
🐖20」21」─1─中国共産党上海協力機構。~No.133No.134No.135No.136No.137No.138・ 
  ・  ・  
2018-01-03
🐖22」23」─1─中国マネーが、海外の不動産を買い漁っている。~No.139No.140No.141No.142No.143No.144・ @ 
  ・  ・  
2019-03-18
🐖24」25」─1─中国が狙う「金融強国」、日本に危機。~No.145No.146No.147No.148No/149No.50・ 
   ・   ・ 
2018-03-14
🐖26」─1─中国の信用は、人の誠実ではなく金と利権で買う。南シナ海。モンゴル。ミャンマー。~No.151No.152No.153・ ⑬
    ・   ・   ・   
反日勢力。
2018-04-18
🐖27」28」─1─カナダ国内で力を増す反日派勢力。トロントバンクーバー。~No.154No.155No.156No.157No.158No.159・ ⑭
   ・   ・   ・   
中国共産党評価。
2018-01-29
🐖29」─1─AIは、法治・自由・民主主義・人権・平等の世界常識から中国共産党政府を否定・批判した。~No.160No.161No.162・ ⑮
   ・   ・   ・  
中国マナー
2018-01-21
🐖30」─1─中国共産党の目指す強国策は中国のルールやマナーを唯一の世界基準に据えること。~No.163No.164No.165・ ⑯
   ・   ・   ・    
北朝鮮
2018-01-25
🐖31」─1─中国共産党独裁政府は脱北者北朝鮮へ強制送還している。~No.166No.167No.168・ ⑰
   ・   ・   ・   
企業支配。
2018-01-30
🐖32」33」─1─中国企業や在中外国企業に広がる中国共産党支配。~No.169No.170No.171No.172No.173No.174・ ⑱
   ・   ・   ・   
中国軍軍拡。
強軍。
2021-03-07
🐖34」35」─1─習国家主席「強軍」継続=カギ握る経済成長。~No.175No.176No.177No.178No.178No.179・ 
  ・  ・  
軍事費。
2018-08-28
🐖36」─1─2018年度国防費、中国共産党政府18兆4,000億円。中国海軍の空母。~No.180No.181No.182・ 
2021-03-05
🐖36」─2─中国国防費6.8%増の約22兆6千億円。アメリカの軍事費増額。~No.183No.184No.185・ 
  ・  ・  
中国軍増強。
2018-01-20
🐖37」─1─中国共産党の覇権は、陸の次が海で、空、さらには宇宙へと果てしがない。~No.186・ 
  ・  ・  
中国宇宙軍。
2021-05-05
🐖38」─1─中国宇宙ステーション建設へ 施設打ち上げ。~No.187No.188 
  ・  ・  
核兵器
2020-04-16
🐖40」41」─1─中国、低出力核実験か 米国務省が懸念表明。~No.189No.190No.191No.192No.193No.194・ ⑲
  ・  ・  
中国海軍。
2018-05-13
🐖42」─1─中国共産党政府は覇権国として海洋強国を目指している。中国国産空母。~No.195No.196o.197・ 
2019-04-18
🐖42」─2─中国軍事強国と対日戦略。空母大国〜No.198No.199No.200・ * 
2020-01-12
🐖42」─3─中国、新型駆逐艦就役 1万トン級「南昌」、青島。〜No.201・ 
2021-03-14
🐖42」─4─中国、初の原子力空母を検討か…香港紙報道。〜No.202No.203 
   ・  ・  
対米。太平洋。
2020-09-05
🐖43」─1─中国艦隊は第3列島線に接近しハワイ沖で軍事訓練。~No.204No.205No.206・ 
2020-09-10
🐖43」─2─中国海軍は質・量共にアメリカ海軍を抜いて世界最強の海軍となる。その時日本は?~No.207No.208No.209・ 
2020-09-25
🐖43」─3─中国空軍がグアムの米軍基地模した目標を攻撃するプロパガンダ動画を公開。~No.210No.211No.212・ 
  ・  ・  
武器輸出国。
2019-04-17
🐖44」45」─1─中国共産党国家は、世界第3位の武器輸出国家・死の商人国家である。国際武器市場。〜No.213No.214No.215・ * 
  ・  ・  
AI軍事強国政策。
2019-04-20
🐖46」─1─中国共産党政府のAI軍事強国政策は日本の脅威。〜No.216No.217No.218・ * 
  ・  ・  
軍産学複合体。
2020-04-12
🐖47」48」─1─中国共産党支配下の軍産学複合体。超限戦、生物兵器化学兵器。〜No.219No.220No.221・ 
  ・  ・  
中国の造船業
2021-04-22
🐖49」50」─1─中国の造船業は世界の4割を受注している。~No.222No.223No.224No.225No.226No.227 ⑲
   ・   ・   ・   
監視 ファーウェイ。
2019-01-17
🐖49」─1─世界中に広まるスパイ疑惑中国企業ファーウェイの排除。国家情報法。~No.228No.229No.230・ @ 
2019-05-07
🐖49」─2─中国共産党とファーウェイの反撃。~No.231No.232No.233・
2020-05-24
🐖49」─3─中国式新型インフラ整備に潜む監視網強化促進。~No.234No.235No.236・ 
2020-06-03
🐖49」─4─ファーウェイは米制裁で安価な5Gスマホで独自サービス。~No.237No.238No.239・ 
2020-06-19
🐖49」─5─元グーグルCEOはファーウェイ通信機器を通じ中国へ情報流出を認めた。~No.240No.241No.242・ 
2020-07-19
🐖49」─6─EU諸国におけるファーウェイの5G排除。イギリス、フランス。~No.243No.244No.245・ ⑳
   ・   ・   ・   
インターネット監視。
2018-02-10
🐖50」─1─中国共産党による最先端監視体制。合法的見守りシステム。~No.246No.247No.248・ 
2019-05-16
🐖50」─2─中国共産党は一帯一路構想を利用して顔認証監視システムを輸出する。~No.249No.250No.251・ 
2020-07-17
🐖50」─3─ネットに潜む中国共産党の監視。危険な中国製アプリ。~No.252No.253No.254・ 
2021-03-28
🐖50」─4─中国の監視国家モデル、世界に拡散させてはならない。~No.253No.254 ㉑ 
   ・   ・   ・   
ハッカー
2021-03-09
🐖51」52」─1─米国の2万超の組織に侵入か 中国系ハッカー集団、MS攻撃。~No.255No.256No.257No.258No.259No.260・ ㉒
   ・   ・   ・   
世論調査
2019-02-28
🐖53」─1─中国の世論調査中国共産党によって意図的に操作されている。~No.261No.262No.263・ * ㉓
   ・   ・   ・   
情報操作。
2019-04-05
🐖54」─1─中国共産党による偽情報・プロパガンダによる情報操作。欧州におけるトロイの木馬。〜No.264No.265No.266・ ㉔
   ・   ・   ・   
情報収集。
2019-05-21
🐖55」─1─米国土安全保障省は中国製ドローンが情報を収集していると警告を発した。~No.267No.268No.269・ 
2021-03-22
🐖55」─2─日本人個人情報がLINEで中国に流出。警視庁は中国と北朝鮮のスパイ対策を強化。~No.268 
2021-05-09
🐖55」─3─アリババ物流拠点が中国のスパイ拠点に? ベルギーが懸念。~No.269 ㉕ 
   ・   ・   ・   
メディア戦争。
2019-11-17
🐖56」─1─中国共産党・中国資本は、アメリカなどの各国メディアを買収している。~No.270No.271No.272・ 
2020-11-20
🐖56」─2─中国共産党のメディア戦争。アフリカで進む放送局支配。~No.273No.274No.275・ ㉖
   ・   ・   ・   
中国国営テレビ。
2021-02-22
🐖57」─1─中国国営テレビは、英国で免許取り消され、フランスで許可を求めた。~No.276No.277No.278・ ㉗
   ・   ・   ・   
プロパガンダ
2019-12-15
🐖58」─1─中国共産党の大プロパガンダ、大外宣の実態。~No.279No.280No.281・ ㉘
   ・   ・   ・   
千人計画。
2020-06-08
🐖59」─1─「千人計画」。中国共産党に祖国を売る人びと。~No.282・ 
2021-03-23
🐖59」─2─中国共産党、科学者招請「千人計画」組織変更に着手。~No.283 
2021-04-02
🐖59」─3─日本で就職できない貧しい若手研究者が「千人計画」に参加する現実。~No.284 ㉙ 
   ・   ・   ・   
中国の原子力発電
2020-06-11
🐖60」─1─中国、多くの原発で廃棄物放置 処分体制整わず5年の期限超過。~No.285No.286No.287・ ㉚
   ・   ・   ・   
中国人の外国人虐待。
インドネシア
2020-07-10
🐖61」─1─中国漁船冷凍庫に船員遺体 インドネシア人を虐待疑い。~No.288No.289No.290・ ㉛
   ・   ・   ・   
パクリ商法
2020-07-28
🐖62」─1─地球を紅に染める中国の「パクリ商法」~No.291No.292No.293・ ㉜
   ・   ・   ・   
中国の産業展示会.
2020-09-07
🐖63」─1─中国、コロナ後初の産業展示会…医療用AIや「5G」利用した「試着」も~No.294No.295No.296・ ㉝
   ・   ・   ・    
中国経済内需
2020-11-19
🐖64」─1─14億人の中流階級内需として中国経済を支える。独身の日に爆買い12兆円。~No.297No.298No.299・ 
2020-12-28
🐖64」─2─2028年に中国経済は世界一経済大国、日本は4位転落。英シンクタンク。~No.300No301No.302・ ㉞
   ・   ・   ・   
TPP対応。
2020-11-22
🐖65」─1─中国共産党のTPP参加検討は、アジア盟主をめぐる米中攻防での対米牽制である。~No.303No.304No.304・ ㉟
   ・   ・   ・   
レアアース戦略。
2021-03-01
🐖66」─1─レアアース「中国は政治カードとして使っている」~No.305No.306No.307・ ㊱ 

   ・   ・   ・   

🛳32」─1─G7、台湾問題で中国けん制する異例の共同声明。中国の反発。~No.223No.224No.225 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中国共産党に同情して味方になろうとする日本人達。
   ・   ・   ・    
 2021年5月6日10:36 MicrosoftNews KYODO 共同通信「G7、台湾問題の平和的解決を 異例の共同声明で中国けん制
 © KYODONEWS 5日、ロンドンで開かれたG7外相会合に臨む各国外相ら(AP=共同)
 【ロンドン共同】ロンドンで開かれた先進7カ国(G7)外相会合は5日、「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調し、(中国と台湾の)両岸問題の平和的解決を促す」とする共同声明を発表した。人権問題や東・南シナ海情勢にも深い懸念を表明し、中国を強くけん制した。法の支配や民主的価値に基づく「自由で開かれたインド太平洋」の維持も確認。3日間の日程を終え、閉幕した。
 台湾の世界保健機関(WHO)総会への参加も支持した。日本外務省によると、G7首脳や外相の共同声明で台湾問題に言及するのは確認できた限り2006年以降で初めて。台湾を「内政問題」とする中国が反発するのは必至だ。
   ・   ・   ・   
 5月6日19:35 MicrosoftNews NNN24G7共同声明 中国「主権への干渉だ」反発
 G7(=主要7か国)の外相が台湾問題の平和的解決などを求める共同声明を発表したことに対し、中国政府は6日、「中国の主権への干渉だ」と強く反発しました。
 中国外務省の報道官は6日、台湾問題の「平和的解決を促す」などとしたG7外相の共同声明について、「中国の主権に対する乱暴な干渉であり、国際関係のルールを破壊するものだ」と強く非難しました。
 また、台湾がWHO(=世界保健機関)の総会などに参加することをG7外相が支持したことについて、「国際機関の活動への参加は一つの中国の原則に基づいて処理されなければならない」と述べ、断固反対する考えを示しました。
   ・   ・   ・   
 5月6日12:33 MicrosoftNews FNNプライムオンライン「G7共同声明で中国けん制 「ふさわしい責任を」
 © FNNプライムオンライン
 イギリス・ロンドンで行われていたG7(主要7カ国)外相会合は、台湾海峡の平和と安定の重要性を明記するなど、中国をけん制する内容を盛り込んだ共同声明を発表し、閉幕した。
 茂木外相「G7として、中国に対して自らの経済的規模、役割にふさわしい責任を果たすよう求めていくことで一致しました」
 共同声明では、中国に対して、新疆ウイグル自治区などでの人権侵害や、香港に関する懸念を表明したほか、東シナ海南シナ海での一方的行動への強い反対や、台湾海峡の平和と安定の重要性が強調された。
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 5月7日06:54 MicrosoftNews 共同通信「仏、中国の攻撃的姿勢懸念 日米と訓練、作戦関係強化
 【パリ共同】フランス国防省のリュック・ドランクール国際関係・戦略総局副局長は6日、同国のインド太平洋戦略を巡る記者会見で「中国の姿勢が次第に攻撃的になっており、懸念の種だ」と述べた。今月に日本で行われる日米仏3カ国の合同訓練は「作戦面での関係強化」に向け、良い機会となると指摘した。
 南太平洋のフランス領ポリネシアやインド洋のレユニオンなどの海外領土を持つフランスは2018年、中国の地域での台頭を念頭にインド太平洋戦略を打ち出した。歴史的な同盟国の米国に加え、日本、オーストラリア、インドを重要な協力国と位置づけた。
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 5月7日11:21 MicrosoftNews 時事通信「豪州との戦略・経済対話停止=圧力強化が狙いか―中国
 【北京時事】中国国家発展改革委員会は6日、オーストラリアとの戦略・経済対話に関する全ての活動を無期限に停止すると発表した。中国は巨大経済圏構想「一帯一路」や中国企業をめぐる豪州の対応に不満を強めており、同国への圧力を強化する狙いがあるとみられる。
 発展改革委は声明で「豪政府の一部高官は冷戦思考とイデオロギー的な偏見に基づき、両国の正常な交流や協力を妨害・破壊する一連の措置を打ち出した」として、停止を決めたと説明した。詳細には触れなかった。 
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 5月7日21:24 MicrosoftNews KYODO 共同通信「外相会合、国際秩序維持で一致 中国にらみ東欧4カ国と
 © KYODONEWS 東欧4カ国の外相と、記念撮影に応じる茂木外相(左から2人目)=7日、ポーランド(外務省提供)
 茂木敏充外相は7日午前(日本時間同日午後)、ポーランドの首都ワルシャワで、東欧4カ国の外相との会合を開いた。東欧への影響力を拡大する中国をにらみ、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持が重要だとの認識で一致。経済や科学技術など幅広い分野で協力を継続する方針も確認した。
 ポーランドは現在、ハンガリースロバキアチェコによる東欧4カ国の地域枠組み(V4)の議長国を務める。いずれも中国の巨大経済圏構想「一帯一路」に参加するなど、中国と経済連携を進める一方、多くの日本企業が各国に進出している。
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🐖38」─1─中国宇宙ステーション建設へ 施設打ち上げ。宇宙ゴミ。~No.187No.188 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年4月29日16:06 MicrosoftNews 日テレNEWS24「中国宇宙ステーション建設へ 施設打ち上げ
 中国独自の宇宙ステーション建設に向けて、中心となる施設が29日、打ち上げられ、地球の周回軌道への投入に成功しました。
 中国は、来年中に有人宇宙ステーションの運用開始を目指していますが、今回、打ち上げられたのは、宇宙飛行士などが生活や作業を行う施設で、正午過ぎ、中国・海南島の発射場から打ち上げられました。施設はその後、地球の周回軌道への投入に成功したということです。
 今後は、宇宙空間で実験を行う施設など次々と打ち上げ、ドッキングさせていく計画です。習近平指導部は中国の宇宙開発を、アメリカに並ぶ水準に押し上げることを目指しており、習主席は打ち上げ成功を受けて「宇宙強国建設をリードする重要なプロジェクトだ」と述べ、祝意を示しました。」
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 5月6日 MicrosoftNews 朝日新聞社「中国ロケットの残骸「ほぼ完全な形で落下」か 米が追跡
 © 朝日新聞社 4月29日、宇宙ステーションの中核部分となる「天和」を搭載し、打ち上げられた大型ロケット「長征5号」=ロイター
 中国が4月29日に打ち上げた大型ロケット「長征5号」の残骸が大気圏に再突入し、地球上に落下することが懸念されている。米国防総省は5日、ロケットの行方を追跡していることを明かした。今月8日前後に落下すると予測されるが、現時点では落下地点はまだ特定できていない。海上に落下する可能性が高いとみられている。
 「長征5号」は中国独自の宇宙ステーションの中核部分となる「天和」を搭載し、中国南部の海南島から打ち上げられた。米国防総省のカービー報道官は、ロケットの残骸について米宇宙軍が追跡しているとした上で、「ロケットはほぼ完全な形で落下してくると理解している」と話した。
 落下は8日ごろと予測しているが、大気圏に再突入する地点については数時間前にならないと特定できないという。落下してきたロケットの残骸を迎撃するなどの対応をとる可能性について、カービー報道官は「対応策を探るには、まだ早すぎる」と明言を避けた。
 最新の追跡情報は、ホームページ上で公開している。ロイター通信は、残骸は大気圏で燃え尽きずに落下するとみられるが、海上に落ちる可能性が高いという専門家の見方を報じている。(ワシントン=高野遼)」
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🐊2」─1・A─オーストラリアで起きた集団捕虜脱走“カウラ事件”の真相。~No.2No.3No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年5月3日 MicrosoftNews ORICON NEWS「オーストラリアで起きた集団捕虜脱走“カウラ事件”の真相に迫るドキュメンタリー
 © 瀬戸内海放送 ドキュメンタリー映画『カウラは忘れない』2021年夏、ポレポレ東中野ほか全国で順次公開
 『クワイ河に虹をかけた男』(2016年)で旧日本軍の贖罪と和解に生涯を捧げた永瀬隆を20年にわたって取材し続けた満田康弘のライフワークともいうべき題材を取り上げた渾身の第2作、1944年のオーストラリアで起こった史上最多の集団捕虜脱走“カウラ事件”の真相に迫る『カウラは忘れない』が、本作製作の瀬戸内海放送の地元、岡山シネマ・クレールで7月2日から、香川ソレイユ・2で7月9日から先行ロードショーが決定。今夏、ポレポレ東中野ほか全国で順次公開される。ティザービジュアルに写っているのは、集団脱走を試みた捕虜たちが使っていたグローブだ。
 太平洋戦争中の1944年8月、オーストラリアの田舎町カウラにあった捕虜収容所で近代戦史上最大といわれる捕虜脱走事件が起こった。日本人捕虜234人、オーストラリア人の監視兵ら4人が死亡。カウラ事件である。正確に言えば「脱走」ではない。日本人捕虜の目的は「死」だった。事件はなぜ起きたのか? 「戦陣訓」に象徴される「捕虜を恥」とする旧日本軍の教義、当時の日本の「空気」がその背景にはあった。
 一方、収容所で手厚い保護を受けた生活を送るうち、捕虜たちの間には生への執着が確実に芽生えていた。“生きられれば生きたい”事件の生存者は正直な心理を吐露する。だが、その思いはある捕虜のひと言でかき消されてしまった。「貴様らそれでも帝国軍人か!」。決行か否か、捕虜たちが選んだのは全員による投票だった。その結果は――。同じ状況に置かれたとき、あなたは大きな声にあらがうことができるか? 生存者たちに今なお残る悔恨、その思いを受け止めようとする若者や演劇人、事件を教訓に和解への道を歩んできたカウラの人々――。事件がコロナの時代を生きる我々に問いかけるものは何か。
 満田監督は「『クワイ河』が捕虜問題のコインの表とすると『カウラ』は裏。戦陣訓に象徴される捕虜の人権無視が泰緬鉄道などでは捕虜虐待に、カウラでは絶望的な脱走を生みました。加えてカウラ事件はその決行へ至る経緯で極めて日本人的な心理が働いています。同調圧力と空気に支配された先の悲劇は、現代の日本人に重い教訓を発しています」。
 “カウラ事件”を題材にした公演をオーストラリアで実現させ、本作の製作にも大きくかかわった坂手洋二氏(Theater company RINKOGUN 燐光群)は「オーストラリアで『戦争の狂気』といえば、誰もが真っ先に『カウラ事件』を思い浮かべる。まわりに何もない大陸の真ん中から、1000人の捕虜たちが、いったいどこへ脱走するというのか。なんという絶望と自己否定の強さ。その後『カウラの班長会議』という劇を作り、大脱走から70周年の記念行事で上演し、その歴史を抱いたカウラの人たちと交流できたことは忘れがたい。そして今この国で、平和憲法があるという安心感の脆弱さを思う」と、コメントしている。」
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WAR OF THE SUN  カウラ事件―太陽への脱出 [DVD]
カウラ脱走事件 60周年記念 平和への強い願いを込めたイベントを完全収録
学生が聞いた カウラ捕虜収容所日本兵脱走事件 (いのちをみつめる叢書)
生きて虜囚の辱めを受けず―カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走
あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走- ノーカット完全版 [DVD]

💥9」─2─ケニア大虐殺。ルワンダ大虐殺。スーダン大虐殺。グアテマラ大虐殺。1991年~No.24No.25No.26 @ ⑤

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 ケニア虐殺。
 1942年 ケニアのキクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族などの諸部族は、イギリスの支配から独立する為に秘密裏に結束し、マウマウ運動を始めた。
 1952年 ケニア最大民族であるキクユ族を中心とする急進派は、過激なマウマウ運動を展開し、ケニア・アフリカ同盟(KAU)から離脱してケニア土地自由軍(KLFA)を結成した。
 KLFAは、ケニア独立の為に、各地の白人農場、警察署、政府軍用地と親植民地派アフリカ人を襲撃した。
 10月20日 イギリス側は、マウマウ運動弾圧に乗り出し、KAUのジョモ・ケニヤッタとKLFAの指導者ら逮捕し、暴動扇動者として裁判にかけた。
 マウマウ叛乱が拡大し暴動化した為に、イギリス軍はケニアを緊急事態下におき数千人を投獄した。
 59年12月迄に イギリス軍は5万人の兵力と戦車や爆撃機などを投入し、ナイロビで2万7,000人、農村で107万人を反乱支持者として逮捕した。
 逮捕された者は、地獄の様な拷問を受け、見せしめ的に殺害された。
 女性は、強姦され、暴行を受けた。
 植民地政府司法長官エリック・グリフィス-ジョーンズは、虐待を完全に隠蔽する事を条件で、非人道的行為を許可した。
 「罪を犯すのであれば、我々は黙って犯さねばならない」
 イギリス本国も、弾圧の事実を知りながら黙認した。
 拷問被害者の中に、バラクフセインオバマ大統領の祖父フセイン・オニャンゴ・バラクが含まれていた。
 キリスト教徒白人至上主義者は、人種差別として、アフリカ人を人間とは認めていなかった。
 キリスト教会は、目の前の蛮行から目を逸らして、ひたすら全知全能の神に祈り、空しく「隣人愛の信仰」を説いていた。
 キクユ族の叛乱は、他の諸民族をも巻き込み、山野でゲリラ戦を仕掛けて頑強に抵抗した。
 1953年 ジョモ・ケニヤッタは、マウマウ運動を指揮したとして7年間の投獄という判決を受けた。
 イギリス軍の猛攻で3万人以上が死んだと言われているが、混乱に次ぐ混乱で正確な数字は不明である。
 1954年 イギリス当局は、世界的な独立運動に伴いアフリカ人の政治過程への参加が拡大した為に、三つの人種(ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送る事を許した。
 1956年 ニエリ方面でゲリラを指導していたデダン・キマジ・ワキウリが逮捕されて、マウマウ叛乱は鎮圧された。
 植民地主義者は、独立運動の中心的指導者であるデダン・キマチを犯罪者として絞首刑に処した。
 マウマウ運動によるケニア人死者数は、1万1,503人であった。
 イギリス側の死者数は、白人入植者95人、親植民地派アフリカ人1,920人だった。 イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされた。
 1957年 ケニア議会に直接選挙で当選したアフリカ人議員の多くが、独立運動の指導者ジョモ・ケニヤッタの釈放を要求する民衆運動を扇動した。
 1962年 イギリス当局は、民衆運動が叛乱に暴発する事を恐れてケニヤッタを釈放した。
 1963、ケニア・アフリカ同盟(KAU)を中心として、ケニア・アフリカ民族同盟(KAUN)が結成された。
 12月12日 ケニアは、多くの犠牲者と大量の血を流して独立を勝ち取った。
 1964年 ケニアは共和国として建国された。
 ジョモ・ケニヤッタは、初代首相に就任し、初代大統領になった。
 ケニア共和国は、独立闘争における苦難を歴史として封じ込めて、政治判断として英連邦に加盟した。
 1997年 アメリカ議会は、近代法の不遡久原則を無視して、テロ犯罪を裁く法律がなかった過去に遡り、十分な証拠がなくても大凡の状況からテロ国家がテロ犯罪に関与した事が分かれば告訴できるというテロ国家訴追法案(アリッサ・フラトー法)を成立させた。
 アメリカは、他国の内政問題が原因で、アメリカの国益アメリカ企業及びアメリカ国民が不利益を被り被害を受ける危険があると判断されるとき、賠償請求する権利があるとの法解釈していた。
 賠償を請求する当人はもとより、アメリカとは直接取引していなくとも当人と取引して利益を得ている第三者まで共謀罪でも賠償請求可能とした。
 外国公務員に対する贈賄を罰する法。
 アメリカの法律は、アメリカの国益を損ねない事を第一原則のように存在し、アメリカの国家と国民の利益になるのであれば相手国の主権を侵害し相手国の国民が不利益を被る事も気にはしまい。
 ジョン・K・フェアバンク(ハーバード大学教授)「アメリカは黒人奴隷、アヘン貿易、苦力貿易など他所がやる以外に汚い手を使いながら、自らを道徳的な高みに置いて国際社会に説教したがる癖がある」
 2009年 拷問を受けたケニア人被害者は、イギリスの植民地支配における国家犯罪を訴えた。
 イギリスは、賠償を求める訴訟の出訴期限は過ぎており、全ての賠償責任は独立と共にケニアに引き継がれており、訴えはイギリスではなくケニア政府にすべきであると主張した。
 イギリス外務省は、謝罪外交を行う日本政府とは違って、同様の被害賠償請求訴訟が他の元植民地に広がる事を恐れ、罪を認めず政府が関与した証拠は存在しないと門前払いした。
 2011年1月 イギリスが、独立前に秘密裏に運び出した大量の書類の中から拷問に関する詳細を記録が発見された。
 裁判所は、イギリス外務省に対して、1952〜61年の独立闘争時代に起きた人権侵害に関する証拠を全て提出するように命じた。
 イギリス政府は、罪を認めて和解に応じ、植民地時代のケニアで行った拷問などの人権侵害への補償として計1990万ポンド(約30億円)を支払うと発表した。
 賠償金を支払う対象者は、被害が認められた5,228人であると公表した。
 ウィリアム・ヘイグ外相「イギリス政府は当時行われた人権侵害と、ケニアの独立への歩みを妨げたことを心から遺憾に思う」
 被害者側の某弁護士「高齢の拷問被害者はついに、長年求めてきた認知と正義を手にした。被害者にとって、この瞬間の重要性はどれだけ強調してもしすぎる事はない」
 各地の植民地は、如何なる犠牲も厭わず戦って独立した。
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 1990年8月2日 イラク軍は、クウェートに侵攻した。
 1991年1月 湾岸戦争アメリカを中心とした多国籍軍約96万人は、イラク軍約54万人を攻撃した。
 アメリカ軍は、劣化ウラン弾など最新兵器を実践で使用して、その威力を調べた。
 戦争後。イランに於いて、明らかに使用された兵器による影響と見られる白血病や癌、遺伝子汚染による先天性奇形児が急増した。
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 1992年5月 タイで大規模な騒乱が発生した。
 華僑系タイ人(コンチン)のスチンダ首相は、中国共産党政府との関係強化を図るべく、友好の証として国防を中国軍式に切り替え、中国製武器を購入し、中国人軍事顧問を受け入れた。
 王党派タイ人(コンタイ)とタイ派華僑は、タイが中国共産党政府の属国となるとの危機感から反スチンダとして大規模な倒閣デモを起こした。
 中国人軍事顧問は、警察力ではデモを鎮圧できないと判断し、軍隊に武力鎮圧を命じた。
 タイ軍は、上官の命令に従い、同胞に向けて発砲して46名を殺し、多くの負傷者を出した。
 プミポン国王は、タイ人同士が殺しあうという最悪な事態を収拾するべく、スチンダを暴動と流血の責任で追放した。
 王党派が、政権を奪い、政府内から華僑系を排除し、タイ軍をタイ人の手取り戻すべく中国人軍人顧問を追い出した。
 華僑派は、資金が豊富なだけに社会で差別されている貧困層を味方に付けて、復権を目指した。
 王党派(黒シャツ党)と華僑派(赤シャツ党)の対立は、収束するどころか激しさを増した。
 さらに、半島部でイスラム国マレーシアとの国境地帯に住んでいたイスラム教徒の過激な分離独立派は、国内が二派に分裂して混乱し始めるや、タイからの独立を求めてテロ活動を活発化させた。
 タイ政府は、宗教対立を回避する為に信教の自由を認めていたが、宗教対立によって国家分裂の危機が増大したとしてイスラム過激派の取り締まりを強化した。
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 1993年4月19日 ウェーコ事件。アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局は、テキサス州ウェーコ近郊で宗教団体ブランチ・デビィアンの建物を包囲し攻撃するが火災が発生して多くの住民に犠牲者が出た。
 1994年 アメリカ、メーガン法成立。
 1994年(〜1997年) 宗教団体太陽寺院事件。約74人の集団自殺
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 1994年4月6日(〜7月) ルワンダ大虐殺。多数派である農耕民・フツ族出身のジュベナール・ハビャリマナ大統領が乗った飛行機が、何者かによって撃墜された。
 フツ族は、犯行は少数派である遊牧民ツチ族の仕業と決めつけ、かって一緒に住んでいた隣人のツチ族を襲撃して虐殺を行った。
 女子供に関係なく、80万人以上が惨殺された。
 ツチ族キリスト教徒は、キリスト教会の建物に逃げ込めば助かると信じて助かると信じて礼拝堂に集まった。
 フツ族の殺戮者は、多くの女子供が逃げ込んだキリスト教会の中に、手榴弾を投げ込み、機関銃を撃つ込み、ガソリンを流し込んで焼き払った。
 相手を殺す事を決意した殺戮者にとって、たとえ相手が、隣人愛の信仰を持っていようと徳があって善行を行っていようと関係なかった。
 生き残るには、如何なる犠牲を出そうとも一致団結して武器を取って殺しに来た過激派を撃退するか、大勢で一緒になって不毛な土地に逃げて避難生活をするか、の2つしか選択肢しかない。
 非暴力無抵抗主義者は、独善的な善意を振りかざして虐殺を手助けする幇助者である。
 非暴力無抵抗を唱える者は殺戮者の味方として助けられ、非暴力無抵抗を信じた者は全て殺される。
 其れが、大陸史であり、世界史である。
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 2021年4月30日 MicrosoftNews イチオシ「実話映画『ホテル ルワンダ』から見えてくる世界の本質とは
 © All About, Inc. 行き場のない多くのツチ族が最後の望みを託して駆け込んだ実在のホテル
 1994年に起きた「ルワンダ大虐殺」をテーマにした映画のなかでも、最も有名なもののひとつが『ホテル ルワンダ』です。首都・キガリにあるホテル「ミル コリンズ」に押し寄せたたくさんの避難民を、支配人である主人公がギリギリの死線をさまよいながら匿い続けていくという感動の実話です。
 極限の状況のなかでの家族や同胞の絆というミクロの視点で観ても十分感動できるのですが、マクロの視点を意識して背後にある「国際社会の駆け引き」という要素を踏まえて観てみると、平和に浸った日本(日本人)が忘れていることを思い出させてくれるような気がします。
 ナチスホロコーストと並ぶ20世紀の大虐殺(ジェノサイド)
 大統領の暗殺をきっかけに始まったフツ族によるツチ族の虐殺は約100日にわたり、その犠牲者はおよそ80万人とも100万人とも(人口のおよそ10~15%)といわれています。ナチスのような軍隊とは違い、ラジオの煽動によって一般の民兵がナタやカマで次々と隣人を殺していったところに特徴があり、国土のいたるところが無残な死体で埋め尽くされました。
 映画の中盤、虐殺の嵐が吹き荒れるなかやっと欧州の軍隊が到着し、ホテルの避難民たちは一様に安堵の表情を浮かべます。しかし、国連平和維持軍の大佐はベレー帽を地面に叩きつけて猛抗議。軍隊は虐殺を止めるためではなく、ルワンダからの撤退と外国人救出のためにやって来たのでした。
 映画では明確に描かれていませんが、外国の軍隊が警護していた他の避難施設からも次々に軍は撤収していきました。飢えたライオンたちの前で檻を開けてあげたのです。
 そのひとつが今はムランビ虐殺記念館となっているムランビ技術学校です。ここだけで4万5000人の犠牲者が出ています。私も訪問しましたが、無数の遺体が保存されており、何日も眠れなくなるような場所です。
 世界は実益で動く
 世界はルワンダを見殺しにしました。これは人類史に残る事実です。もちろん私にそれを批判する資格があるとは思いませんが、自国の若い兵士の命を危険に晒してまで、遠いアフリカの小さな内陸国の部族紛争に介入する政治的リスクを、大国と呼ばれる国の指導者たちは取れなかった(そのメリットもなかった)ということでしょう。
 当時、私はまだ学生でしたが、ルワンダの危機を前にして、頑なに「ジェノサイド的行為」という言葉を使って歯がゆい答弁をする国連や大国の報道官の姿を今でも覚えています。「ジェノサイド」という言葉を使ってしまうと、ジェノサイド条約によりその阻止のための行動を起こさなくてはならなくなるためです。
 © All About, Inc. 「千の丘の国」と呼ばれるルワンダ独特の国土が被害者たちの逃げ場を奪っていったのかもしれない
 ルワンダ虐殺から5年後、アメリカを中心とするNATOユーゴスラビアコソボの紛争を「ジェノサイドである」として、「人道」を正当化の根拠に用いて空爆を行いました。今度はメリットがあったということでしょうか。その後、かつてはソ連の縄張りであった東欧で、NATOはさらに存在感を増していきます。
 人類は賢くなったけど……
 ローマのコロッセオで奴隷を闘わせていた2000年前から、魔女狩り、奴隷狩りの時代を経て、人類は「人権」という考え方によって、この約1世紀で飛躍的にスマートになったと思います。それでも、「人類愛」とでもいうべき博愛精神が人間の行動原理になるところにまでは達していません。
 私が世界各国を旅して思うのは、今でもこの世界の本質は、結局は有限の資源の国と国との奪い合いだ、ということです。そのためには少々口汚い言説を使ってでも相手を辱め、貶める。それに完全に目をつぶったら、平和ボケと言われてしまいます。
 戦争や虐殺はこれからも起こるでしょう。そのとき頼れるのは、結局のところ同胞であり、家族であり、最後には自分自身しかいないということが、この映画でよくわかります。
 © All About, Inc. 人々の表情は穏やかながら、どこかに悪夢の面影を残す首都・キガリ中心部のビジネス街
 映画のなかで、虐殺の現場を撮影したヨーロッパ人ジャーナリストが語りかけるシーンがあります。
 「この映像を見た世界の人々はどうするか」
 彼が続けた言葉はどちらだと思いますか?
1、 世界の人々が連帯して虐殺阻止のために動き出す
2、「怖いね」と言いながらディナーを続ける
 正解は映画のなかで。
 DATA ホテル ルワンダ
 監督:テリー・ジョージ
 公開:2004年
 時間:122分」
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 1996年 グアテマラ大虐殺。政府軍と左翼ゲリラとの内戦で20万人以上の死者・行方不明者を出した。
 リオス・モント元将軍の軍政下で大量虐殺が行われ、7万5000人が殺害された。
 犠牲者の83%がマヤ民族だった。
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 1997年3月26日 宗教団体ヘヴンズ・ゲートの39人の信者が、カリフォルニア州サンディエゴに隣接するランチョ・サンタフェ集団自殺を遂げた。
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 2000年3月17日 ウガンダの宗教団体神の十戒の復活を求める運動で、信者778人が死亡した。
 2001年10月 アメリカは、対テロ作戦を実行するにあたって中国共産党政府にイスラム過激派アルカイダアフガニスタンタリバン政権の情報提供を要請した。
 その見返りとして、対中警戒戦略を転換し、台湾への武器輸出の制限、産業発展の為の最新技術提供、経済発展の為の資本投資等を呑んだ。
 中国共産党政府は、アメリカからの技術と資金を利用して、表面的に平和的な経済大国建設を表面的に見せながら、その裏で領土拡大の為の軍事大国建設を急いだ。
 アメリカの対中戦略に於いては、長期戦略は存在せず、あるのは短中期戦略であり、その為に絶えず揺れ動いている。
 2003年2月 スーダン共和国ダルフール紛争で、200万人が虐殺され、現在も紛争は続いている。
 アラブ系政府軍と民兵ジャンジャウィード)は、ジェノサイド(民族浄化)として、反政府勢力である非アラブ系黒人の村を無差別に襲撃して虐殺を行っている。
 先住民であった非アラブ系黒人の土地に、アラブ系民族が移り住んだ事で民族衝突が起きた。
 国連安保理は、2006年に約1万7,000人の平和維持軍を派遣する事を採択した。
 国際刑事裁判所は、2009年にバシール大統領に刑事責任があるとして、逮捕状を発行した。
 スーダン政府は、中国共産党政府の支援を受けて強く反発した。
   ・   ・   ・   
 2004年 アブグレイブ刑務所における、アメリカ軍のイラク人捕虜に対する非人道的虐待行為。
   ・   ・   ・   
 2006年 メキシコ政府と麻薬カルテルによる麻薬戦争が始まり、2015年までに政府側、麻薬カルテル側、一般住民あわせて推定10万人以上が死亡した。
 麻薬カルテルの拠点があるメキシコ西部ミチョアカ州では、住民達が自警団を結成して地元麻薬カルテルテンプル騎士団との抗争を繰り返していた。
 自警団員は7,000人に膨れ上がり、テンプル騎士団を多数の犠牲を出しながら拠点となっていた町から追放した。
 メキシコ政府は、治安を回復する名目で警官と兵士合計3,000人をミチョアカ州に派遣し、自警団に対して新設の警察隊に合流する武器を置いて帰農するように命じた。
 汚職警官達は、麻薬カルテルにかわって州を支配し麻薬の密売を始め、、逆らう者は逮捕した。
 自警団は、壊滅した。
 麻薬組織は、汚職警官と結託して勢力を盛り返し、政府軍との戦闘を継続した。
 被害を受けるのは、罪もない貧しい民衆であった。
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 2008年6月 アメリカ連邦最高裁判所は、合衆国憲法が定める国民の権利として「個人の武器保持の権利」を認めた。
 修正第二条「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」


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おめでたい日本人に教える虐殺の歴史
グアテマラ虐殺の記憶―真実と和解を求めて
ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実