☭34」─1─共産主義の終末論的楽観論。ブルガリアとルーマニアは日本の身代わりにされた。~No.115 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ソ連スターリン中国共産党毛沢東、そしてナチス・ドイツヒトラーは似ている。
 3人に共通する点は、天皇制度日本を滅ぼそうとしたアメリカとユダヤ系国際資本と世界的軍需産業死の商人)が初期の段階で支援していた。
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 軍国日本は、江戸時代後期以来、積極的自衛戦争戦略でロシアそしてソ連と一人孤独な戦争を戦って、最終的には敗れて滅んだ。
 が、昭和天皇の決断で、日本はソ連・ロシアによる軍事占領を免れ、殺人鬼的共産主義に暴力と死による恐怖支配を避ける事ができた。
 その象徴が、靖国神社であった。
 それ故に、中国共産党北朝鮮・韓国は靖国神社問題を声高に叫んで日本を非難する。
 現代日本マルクス主義系エセ保守とリベラル左派は、天皇制度廃絶の32年テーゼを継承し実行しようとしている。
 現代日本のメディア業界で教育現場には、「テロ支援者」が潜んでいる。
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 2023年12月12日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「1000万人を処刑したロシアの「大粛清」――なぜ人びとは無実の罪を認め、許しを請うて処刑されたのか
 スターリンの「大粛清」の始まりは1930年代後半
 およそ1000万人が処刑されたというロシアの「大粛清」。ソ連の最高指導者スターリンにパージされた人びとの多くは、不思議なことに、無実の罪を認め、そして許しを請うて処刑されという。
 【写真を見る】処刑された人々を弔う墓碑
 なぜ人びとは犯してもない罪を認め、許しを請うたのか――その背景には、共産主義特有の「終末論的楽観論」がある。戦後日本を代表する国際政治学者・高坂正堯(1934~1996年)氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介しよう。
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 許しを請うて処刑された人々
 スターリンの「大粛清」の始まりは1930年代後半でした。十分な裁判なしに反対派が有罪となり、犠牲者は大きな見積りでは1000万人とも言われています。1930年代終わりまでにスターリンの政敵は「国家および共産党を裏切った」罪で全員粛清されますが、そのときに不思議な現象が起こります。
 パージされた人々は罪を認め、そして、許しを請うて処刑されるのです。許しを請うて命が助かるならば、信じていないのにそう言うかもしれません。また、処刑された人々はどう考えても、ソ連邦に反逆したり共産党を裏切ったりしてはいなかったのですから、彼らが宣告された罪はまったく嘘。しかも、この嘘の自白は薬物で正気を失わせ過酷な拷問をしたから引き出せたのかもしれませんが、当時の記録を読むとそれだけではないようです。処刑された当人たちはやはり心から許しを請うているのです。
 そうなると、ありもしない罪を問われ死刑になることがわかりながら、最後は「自分が悪いことをした。あの世から共産主義の未来を祈っています」と言って死んで行った人間の心境はどんなものだったのでしょうか。
 これは特筆すべき現象です。革命を進めた人々が殺されるケースは歴史的に少なくない。「革命は自らの子を貪り食う」という、フランス革命のときの有名な言葉もあります。初めは王党派、その後、革命派で仲間割れが起こり、負けた方がギロチンにかかります。右派のダントン、そして山岳派ロベスピエールや、サン・ジュストもギロチン台の露と消えます。
 ところがフランス革命ソ連の粛清は異なっている点があります。ダントンは「俺のやっていることは正しいんだ。俺をギロチンにかけるやつは間違っている」と言って処刑されます。ところが、ソ連の場合、「私は悪いことをいたしました。悔い改めます」と告白しながら死刑にされるわけです。ユダヤ人でドイツからアメリカに亡命した思想家のハンナ・アレントはこのことを重要視し、なぜフランス革命ソ連革命は処刑される人の心持ちがこれほどまで違うのかを論じています。
 後者の場合、処刑をされても共産主義者であり続けたく、共産主義は最終的に勝利すると考えている。宗教を否定した無神論者である彼らは「あの世」を信じてはいないのですが、神様を信じている人であっても殺されるとなったら相手を呪うはずなのに、この人たちは神様を信じていないのに、相手を呪わないで「私はこんな悪いことをしたから殺されて当然です」と死を前にして打ち明ける。
 しかも、やってないことをやりましたと言うのですから、これは大変なことです。これはかなり特異な精神の持ち主であるに違いない。それだけ、共産主義に対する信念、未来に対する信念があったと考えるべきでしょう。当事者も自分を処刑する共産主義にゾッコンで参っていたという事実を知っておかなければなりません。
 終末論的楽観論の極致
 「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一】 『歴史としての二十世紀』(新潮選書)
 共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現れていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。
 その萌芽はマルクスの著書にあります。『経済学・哲学草稿』『経済学批判』『資本論』などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。
 資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。
 ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また、生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。
 この図式に「終末論的楽観論」が存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた19世紀はまさにそんな時代でした。
 マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのプロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。
 世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし「人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義にある」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。
 ※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
 デイリー新潮編集部
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 2023年11月30日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「いい人」
 ベートマン・ホルヴェーク独首相、グレイ英外相
 左からベートマン・ホルヴェーク独首相、エドワード・グレイ英外相(他の写真を見る)
 戦争というものは、ヒトラーのような悪人が始めるものだと、多くの人は考えているのではないか。しかし、戦後の国際政治学をリードした高坂正堯(1934~1996年)氏は、むしろ善人が戦争を起こす危険性について警鐘を鳴らしていた。
 なぜ「いい人」が戦争を始めるのか――高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。
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「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一
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 誰が世界大戦を始めたのか
 注目すべきことは、第1次世界大戦を始めた政治家たちはどちらかというと、いい部類の人間なのです。私は個人的に、第2次世界大戦を指導した政治家よりも、好感が持てます。我々に近い感じもする。どこが近いところかというと、ヒトラースターリンのように強い権力意識を感じさせない。並外れていいこともしそうにないが、ものすごく悪いこともしない感じが、割と普通の人間並みなのです。だからこそ、そんな彼らが第1次世界大戦を始めてしまった点に、着目しなければいけません。
 ここで二人の人物をご紹介します。一人はテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク。当時のドイツ帝国宰相です。7月30日、戦争が始まって2日後、自分の秘書官リーツラに対して「我々は正義を失った。地滑りが始まった。もうどうしようもない」と漏らしています。こんな怖しい事態をまねいた人物が、「外交的な動きが自動的に起こってしまい、制御不能になって、各国が戦争に突っ込んだ」と、告白しているわけですから、なんと気の弱い人なのでしょうか。
 その後、ベルンハルト・フォン・ビューローという、ベートマン・ホルヴェークの前の首相が、「一体どうしてこんなことになったのかを話してくれ」と、彼のところに行きます。それに対してベートマン・ホルヴェークは、「誰にわかるものか」と、なんとも頼りなく答えています。
 ベルンハルト・フォン・ビューロー独首相
 高坂氏が“第1次世界大戦を起こした一番悪い人間”と示したベルンハルト・フォン・ビューロー独首相 (出典:Bundesarchiv, Bild 146-2004-0098 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)(他の写真を見る)
 付言すると、第1次世界大戦を起こした一番悪い人間は誰かといえば、おそらくこのビューローでしょう。ドイツ帝国の世界政策を推し進めるため軍事力増強を試みたものの、それに失敗して首相をやめたという経緯もあり、つまりはマッチポンプで、焚きつけておきながら「なぜこんなことになったのか」と訊きに行く人物です。現首相にしてみれば、「誰にもわかるものか」と、言い返したのかもしれませんが、それは呻くようだったといわれていますから、本心から「なんでこんなことになったんだろう」と思ったんでしょう。
 同じことは、もうひとり、イギリスの外務大臣エドワード・グレイにも見られます。グレイは8月3日、ドイツと戦う必要性を議会で演説します。その結果、翌日、対独宣戦布告が行われますが、その後、「戦争は嫌だ、戦争は嫌だ」と、彼は発言するのです。なんとも頼りないですが、人間ってこんなものだと思います。そして、彼らのことを私は嫌いではありません。
 権力に対する意識の欠如
 ベートマン・ホルヴェークに行政能力はありました。しかし、ある人の言葉を借りれば、彼は「権力に対する意識を欠いていた」「権力に対する完全に安定した本能を欠いていた」「権力を有することの喜びを感じることができなかった」というのです。
 自分にはたまたま能力があり、他になり手がないので、彼なりの責任感からドイツ帝国宰相の地位を引き受けたと。これをやらなければならない、という強い意志を持った人間ではなかったようなのです。その結果、想定外の事態が起こると、このような人物は往々にして無力になってしまう。また、危機に際しては運命論に打ち負かされやすかったようです。
 小市民的であったのはグレイも同様で、彼の趣味はバードウォッチング。週末にロンドンから田舎の家に戻って、鳥を観察するのをなによりの幸せとしていました。彼とて、英国紳士ですからたまには策略もこらし、平時ではしたたかな政治家でもあったようです。しかし、本当に困難な事例に直面すると平常心を失い、精神がおかしくなるような傾向もあったという記録もあります。
 第1次世界大戦を始めてしまった政治家が、気の小さい、どこにでもいる人間であったことが重要なのです。
 以上、私が申し上げたかった二つは、まず兵器の技術が進歩し強大な軍事力を使う立場の軍人は、第1次大戦に際して自信満々だったということ。そして、政治家はそれ以前に稀に見るような平和な時代が続き、なんとも平凡な人間ばかりになってしまっていたこと、なのです。
 19世紀は貴族社会が次第に崩壊して中産階級が力を持ってくる時期です。中産階級というのは、どういう人たちかといえば、我々の周りにもいるような普通の人間です。他方、正直言って、ヨーロッパ貴族の話を聞くと、私も自分があのようになれたらと憧れるところがあります。うんと無駄遣いをしても平気。他人が死んでもそう涙を流しませんが、親友が死んだら悲しむ。そのような気高い生き方もあるのです。
 ただし、それが無理なくできる人とできない人があって、生まれたときから、お前は貴族で庶民と関係がないという教育を受けたら話は別ですが、生まれたときから人間みんな一緒と育てられたら、貴族としての威厳や誇りを持った高貴な心の持ち主になりません。つまり、平和と平等の時代がもたらした政治家が、グレイや、ベートマン・ホルヴェークなのです。
 いずれにせよ、軍人と政治家、民衆、各々に事情はありましたが、戦闘がヨーロッパ全土に広がってしまった最大の理由は、政治家の責任放棄にあるように思われます。
 ※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
 「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一
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 デイリー新潮編集部
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 2018年9月6日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「「日本の身代わり」で東欧2カ国がソ連に支配されていた! 終戦後に日本が分割占領されなかった理由
 ヨシフ・スターリン
 ヨシフ・スターリン(他の写真を見る)
 日本を怖れたスターリン
 第2次世界大戦の終了後、日本はなぜ事実上ほぼアメリカ1国の占領下に置かれたのだろうか。なぜドイツのように、アメリカとソ連をはじめとする連合国の分割占領とならなかったのだろうか。
 いまだ返還されない北方領土や、南北に分断された朝鮮半島を思えば、日本の占領からソ連の影響力を排除できたことは、われわれ日本人にとって僥倖であったのは間違いない。
 あまり知られていないことだが、日本がアメリカによる「単独占領」に置かれた背景には、日本の「身代わり」として、ブルガリアルーマニアの東欧2カ国がソ連に差し出されたという歴史的事実がある。
 国際政治学者の細谷雄一慶應義塾大学教授は、近著『戦後史の解放II 自主独立とは何か』において、アメリカとソ連の取引によって、日本と東欧2カ国が「交換」されたことを明らかにしている(以下、引用は同書より)
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 終戦後、ソ連の指導者スターリンは、「負かされても、日本人のような民族は必ず立ち上がってくる」と、日本に対して強い恐怖心を抱いていたという。そのことを細谷教授は次のように指摘している。
「ロシア人は半世紀の間に、日露戦争、シベリア出兵、そしてノモンハン戦争と、強大な日本軍の侵攻を、3度も経験していた。その強大な軍事力による侵略を受けた記憶からも、日本の将来について、ロシア人は根強い恐怖心と不安を抱いていたのだ。それは簡単に払拭できるものではなかった。言い換えれば、規律正しく、組織的で効率的な日本国民が持つ潜在的な資質に対して、ロシア人は畏怖を感じていたともいえる。」
 そしてスターリンは、日本が二度と立ち上がれないようにするために、過酷な占領政策を行うべきだと考えていたという。だが一方でスターリンは、アメリカの原子爆弾に対して、より大きな恐怖を覚えていた。スターリンソ連国内の原爆開発担当者に次のように言った。
 「ヒロシマは世界全体を揺るがした。バランスが崩壊したのだ。爆弾を開発せよ。それによって、われわれは巨大な危険から解放されるであろう」
 広島に投下された原爆のキノコ雲
 『自主独立とは何か 前編』
 細谷, 雄一, 1971-
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 核兵器開発とウラン
 しかし、ソ連が自前で核兵器を開発するには、大きな難問が立ちはだかっていた。ソ連国内で核兵器を作るために十分な量のウランが見つかっていなかったのである。そこでスターリンは、日本占領よりも、高品質のウラン鉱石が埋蔵されているブルガリアルーマニアを勢力圏に組み入れることを優先して考えるようになる。
 1945年10月、スターリンアメリカのハリマン駐ソ大使と会談し、アメリカが対日占領で優越的な地位を独占するのを認めるかわりに、ソ連ブルガリアおよびルーマニアとの戦後処理で優越的な地位を独占すること認めるよう、「交換取引」を持ちかける。米ソの利害が一致した結果、日本と東欧2カ国の「交換」は1945年12月のモスクワ外相理事会で外交的合意として成立する。
 冷戦終了後になって明らかになったこの「取引」を、細谷教授は著書の中で次のように振り返っている。
 「この1945年12月のモスクワ外相理事会では、ソ連ルーマニアおよびブルガリア支配を承認するという対価を払って、アメリカは日本の実質上の単独占領の権利を確保する。これは通常われわれ日本人は意識していないことであるが、戦後日本の再出発は東欧諸国のソ連による支配という犠牲の上に成り立っていたといえるのかもしれない」
 国際政治学者で慶應義塾大学法学部教授の細谷雄一氏と、インターネット配信番組「国際政治チャンネル」でともに活動する篠田英朗氏のトークイベントが、9月27日(木)19時より、東京・神楽坂にあるキュレーションストア〈la kagu〉にて開催される。詳しくは
 https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01cfmdzqbh2i.html
 デイリー新潮編集部 2018年9月6日掲載
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 2018年4月12日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「スターリンは、4000万人のソ連国民を殺した
 スターリンは、4000万人のソ連国民を殺した
 (C)AFP=時事(他の写真を見る)
 1937年から、ヨシフ・スターリンによる大粛清が荒れ狂った。
 反対派は「見せしめ裁判」と呼ばれる公開裁判(「モスクワ裁判」)において、「反革命活動」を「自供」させられたうえで、処刑された。ニコライ・ブハーリン、グリゴリー・ジノヴィエフ、レフ・カーメネフなど、かつてレフ・トロツキーと敵対した中央委員会の多数派もその中に含まれていた。
 1937年から1938年までに、134万人以上が即決裁判で有罪にされ、68万人以上が死刑判決を受けた。そして、63万人以上が強制収容所に送られた。旧指導層は、ごく一部を除いて絶滅した。1934年の第17回党大会における1966人の代議員中1108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。中央委員会メンバー139人のうち、110人が処刑されるか、自殺に追い込まれた。赤軍の5人の元帥のうち3人、そして最高軍事会議のメンバー80人のうち75人が、粛清された(「ウイキペディア」による)。
 内戦時代の英雄ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー元帥(1893年~1937年)は、「ナチスのスパイ」として逮捕された。サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』(白水社)によれば、彼は赤軍きっての有能な将軍で、貴族のようにハンサム。愚鈍な相手に媚びるような人物ではなかった。颯爽として力に満ち、カリスマ的魅力に溢れていた。1920年代においてすでに戦車と飛行機の時代が来ることを理解しており、赤軍の機械化・近代化を指導していた。スパイ容疑は、アドルフ・ヒットラーの策略によると言われる。激しい拷問を受け、スパイであることを自白させられて、銃殺された。この処刑は世界に衝撃を与えた。
 収容所は全国で少なくとも500以上あった。収容された人は、全労働力人口の1割以上を占めたとも言われる。累計で数千万人に上ったとの説もある。
 アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』(新潮文庫)によると、零下50度の酷寒でも労働が可能とされた。休みとなったのは、零下55度以下の日だけだった。
 第1次5カ年計画の重要プロジェクトである白海バルト海運河は、強制労働によるおびただしい数の犠牲者を出しつつ、2年間で作られた。他の公共事業も、無実の囚人の命と引き換えに完成した。当時のソ連は、政治犯の奴隷労働に依存していたのだ。ソ連は、近代において奴隷制を有する唯一の国家になった。
 マーティン・メイリアは、『ソヴィエトの悲劇』(草思社)の中で、スターリン時代を通じての政治的原因による死者を、合計2000万人と推計している。内訳は、強制収容所での死者1200万人(収容所に常時800万人の囚人がおり、その1割が毎年死んだとして、1936年から1950年までの累計)、1937年から1939年の間の粛清による処刑者100万人、農村集団化の犠牲者600万人、である。
 ノーマン・M・ネイマーク『スターリンのジェノサイド』(みすず書房)は、これらの他に、ウクライナ大飢饉の犠牲者、ポーランドとバルト3国での犠牲者、少数民族の虐殺と処刑による犠牲者がいると指摘する。そして、1930年代のスターリンによる大量殺人を「ジェノサイド」と定義すべきだと主張している。
 2000万人は、第2次世界大戦におけるソ連の死亡者と同じだ。つまり、合計すれば、4000万人の人々が犠牲になったわけだ
 しかし、国外にもたらされるソ連の情報は極端に少なく、5カ年計画の成果だけが宣伝された。世界の労働運動家や民族運動家にとって、ソ連ユートピアだった。
 秘密警察は、第4次産業であった
 恐怖政治のためには、秘密警察が不可欠だ。名称がたびたび変わったので、文献を読んでいると、混乱する。
 まず、「チェーカー」が、ウラジーミル・レーニンによって10月革命直後の1917年12月に設立された。内戦が終結した1922年2月、GPU(国家政治保安部)と改名し、1934年にNKVD(内務人民委員部)の一局となった。スターリンの死後は、1954年に再び独立して、KGB(国家保安委員会)として存続した。
 エマニュエル・トッド『最後の転落』(藤原書店)によれば、ソ連においては、労働人口の5ないし10%が、警察的監視という非生産的職務についていた。彼は言う。
 「中央集権は無秩序を分泌する。労働者の生産性は低い。ソ連国民所得のかなり大きな部分が、軍備で飛んでしまう。しかし、この3つの要因だけでは、ソ連の生活水準の恐るべき低さを説明するには十分ではない。これらの要因に、100人に5人ないし10人の労働者が、生産部門から引き抜かれて警察で用いられているという事実を加えるなら、中央集権、軍備、KGB、奴隷状態の地位から誘発される低い生産性と言う具合に、貧窮を説明するための十分な数の要因が出揃うことになる。このように、貧窮はもはや経済的な謎ではない。『ソ連モデル』は完全に一貫性があり、そして完全にバカげたものなのである」
 「KGBを他とは異なる特殊な行政機関と考えるべきではない。経済の1部門と考えるべきである。ロシアには、第1次産業(鉱業、農業)、第2次産業(工業)、第3次産業(サービス)、そして第4次産業(抑圧)が存在するわけである」
 野口悠紀雄
 1940年東京生まれ。東京大学工学部卒業後、大蔵省入省。1972年エール大学Ph.D.(経済学博士号)取得。一橋大学教授、東京大学教授などを経て、現在、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論。1992年に『バブルの経済学』(日本経済新聞社)で吉野作造賞。ミリオンセラーとなった『「超」整理法』(中公新書)ほか『戦後日本経済史』(新潮社)、『数字は武器になる』(同)、『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞社)など著書多数。公式ホームページ『野口悠紀雄Online』【http://www.noguchi.co.jp
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