🔯38」─1─ヨーロッパはフランク王国とアングロサクソン人、ノルマン人、デーン人、ジュート人。768年。~No.130No.131No.132 @ ⑰ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ゲルマン族の西欧は、古代ローマギリシャとのつながりは遮断さ、多神教で多種多様な文化や芸能を正統に引き継いではいない。
 人類の貴重な遺産であるローマ・ギリシャの古典は、ヨーロッパからアラビアに移って温存された。
 その古典が、キリスト教が支配するヨーロッパに逆輸入されてルネッサンスが起き、中世が始まった。
   ・   ・   ・   
「愛」のキリスト教会は、奴隷の宗教から王侯の宗教になるべく、十字軍による異端者と異教徒の大虐殺を祝福した。
   ・   ・   ・   
 西ヨーロッパにおける地中海文明圏の崩壊で、文字を読めるのは聖職者と一部の者しかいなり、一般民衆は文盲として文化を失った。
 信仰は、キリスト教を土台に地域の土着宗教や迷信が加わって数多くの信仰が生まれた。
 ローマ・カトリック教会は、宗教権威を衰退させていた為に異端として排除せず、攻め滅ぼすだけの力を回復するまでは寛容さを示して共存は図った。
   ・   ・   ・   
フランク王国カロリング王朝)
 768年 フランコ族のカール1世(大帝、〜814年)は、全フランク王国を統一した。
 カール大帝は、スペインの一部と北イタリアとオーデル川以西とドナウ川中流域までを支配下に入れて大帝国を建設した。
 アルプスの北は、地中海沿岸に比べてに文化度は著しく低く貧しい荒涼とした内陸であった。
 ローマ・カトリック教会は、新たに誕生したフランク王国を有力な庇護者にするべく接近した。
 文字が読めなかったカール大帝は、領土を拡大するにつれて統治を行う為には文字の必要からローマ・カトリック教会の協力を仰ぐ事にした。
 だが、部下や領民が文字を知る事は叛逆の原因になるとして、文字を読む事も書く事も一切禁止し、特定の臣下だけに特権として許した。
 統治の大原則は、教育の制限であった。
 この為、中世ヨーロッパは庶民文化はないに等しかった。
 それに比べて、イスラム教世界は高度な文化が花開いていた。
 イスラムは、文化のないヨーロッパを未開の蛮族の地と軽蔑していた。
 西洋が文明をちり戻すのは、イスラムからギリシャ・ローマ文化を逆輸入したルネッサンスからである。
 786年 カール大帝は、ヨーロッパの支配者となる為にキリスト教会の承認を得る必要から、ドイツ西部のアーヘンに大聖堂を建設する様に命じた。
 800年 教皇レオ3世は、カール大帝ローマ皇帝の冠を授与して、西ローマ帝国の復活を宣言した。
 833年 イスラム教徒は、ユダヤ人が医者になる事を禁じた。
 840年 二代目皇帝ルイ1世が死亡するや、フランク王国は三つに分割された。
 西フランクは、現在のフランス領土を。
 中部フランクは、オランダからイタリア中部までの中央部を。
 東フランクは、現代のドイツからオーストリアにかけてを。
 フランク王国時代は、西欧は一つの国であった。
   ・   ・   ・   
 中世ヨーロッパ時代は、ローマ・キリスト教会の聖職者や修道士らがヘブライ語原典を訳したラテン語訳聖書を持って、ゲルマン・ノルマン民族居住地域に赴いて伝道活動を行った頃から始まった。
 司教区は、ローマ帝国の行政区分を踏襲して教区とした。
 聖職者達は、異民族への布教に置いて、絶対神の隣人愛信仰ではなく現世利益的信仰を利用した。
 異教徒は、伝道初期の時は民族・部族宗教を守る為に聖職者を殺害した。
 聖職者達は、殺されても殉教として恐れず、伝道活動を止めなかった。
 異教徒達は、殺されても恐れる事なくやってくる彼らに関心を抱き、次第に改宗する者が増えた。
 異民族の領主達は、領民支配の為にキリスト教を利用するべく改宗した。
 聖職者達は、異教徒からの攻撃を防ぐ為に信仰心に厚い領主を騎士に任命し、騎士団に対してキリスト教文明圏の外にある悪魔的忌むべき異教徒の世界を攻撃するように命じた。
 キリスト教会は、改宗者であれば犯罪者であろうと誰であろうと無条件に保護したが、改宗しない者は女子供であれ切り捨て騎士団の好きにさせた。
 聖職者が求めた平和主義や隣人愛信仰は、絶対神秘蹟を信じて洗礼を受けたキリスト教徒に対してであって、絶対神の恩寵を否定する異教徒にではなかった。
 犯罪者達や下層階級者達は、異教徒の戦場で強姦や略奪が「絶対神の名」で許されるとあって、身分を偽って騎士団に参加した。
 宗教的騎士階級(ミレス)が固定化されるや、庶民による騎士階級への昇格は戦場で目覚ましい働きをして武勲を立てない限り認められなくなった。
 領主達は領地を拡大する為に戦争を繰り返し、ヨーロッパ世界はローマ世界の姿を捨てて新たな形を生まれ変わっていった。
 戦争と果てしない殺戮の中から、今日のヨーロッパ諸国が誕生して行った。
 ゆえに、ヨーロッパ人気質は平和的ではなく好戦的であった。
 領地を巡って戦争を繰り返しながら、強力な軍事力と優れた戦略を持った少数の領主が勝者となって国境を定めて国家を樹立した。
 国境を持った国家の誕生によって、戦乱と殺戮の混沌とした世界は君主が定めた法の下で秩序を取り戻し、統一言語としての国語を定めた。
 君主の座は絶対ではなく、衰えた君主は野心で戦略に長けた優れた家臣に殺され、一族は皆殺しにされ、全財産は奪われた。
 キリスト教会は、宗教権威として政治権力から距離を置いて中立を守りながら、信仰を通じて教勢を拡大するべく政治を陰で利用していた。
 政治と宗教の関係は、フランス革命まで続いた。
 日本に伝来した初期のキリスト教は、こうした排他的な中世的キリスト教であった。
 世界は戦略思考の中世的キリスト教に飲み込まれたが、戦術思考の日本だけは中世的キリスト教を拒絶した。
 そして、中世的キリスト教の戦略は、日本の戦術に敗北して撤退した。
 同じ戦略思考のキリスト教イスラム教は、神学的な教義を巡って激しく対立したが、世俗的な金銭関係では良好な関係を保っていた。
 キリスト教イスラム教は個別の異なった宗教ではなく、排他的な一神教ユダヤ教から発生して分かれた基は同じ宗教である。
 一神教は、変化の乏しい単調な自然環境で生まれ、誰でも分かり易く親しみが持てる単純明快な単純思考の普遍的宗教である。
 自然が目まぐるしく絶えず変化する自然災害多発地帯で生き残ってきた複雑思考の日本人にとっては、どう考えても理解できなず馴染みきれない不可解な宗教であった。
 イスラム教は、中東からアフリカ北部にまたがって広大な地域に広がり、雑多なな人種・民族・宗教・文化・言語を抱え込んだ為に多様な価値観を持ち、他者を認め受け入れるという柔軟な対応を見せた。
 キリスト教は、長くヨーロッパ世界に閉じこもり、兄弟言語の西洋語で似通った価値観を共有しながら力を蓄えていった。
   ・   ・   ・   
*十字軍
 十字軍の軍馬は、重装備の兵士を乗せて戦闘ができる体力のあるオス馬であった。
 イスラム軍の軍馬は、扱いやすく温和しいメス馬で、体力がない為に兵士は軽装備であった。
 第一回十字軍遠征
 フランスの聖職者「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。これは当然の報いだ。神の裁きは正しく、称賛すべきだ」
 汚れた商売と嫌われていた娼婦達も、十字軍に協力すれば救われると教えられて、売春婦十字軍なるものを作って十字軍の後を追ってエルサレムに向かい、慰安婦として野営で兵士の相手をしていた。
 1066年 ユダヤ人は、スペインのグラナダから追放され、スペイン領ネーデルラント地方に移り住み、アムステルダムなどを建設した。
 ネーデルラントは、各国を追放されたユダヤ人が逃げ込む避難地となった。
 ポーランド王国は、国を豊かにする為にユダヤ人の移住を奨励していた。
 1077年 中世キリスト教会は、「カノッサの屈辱」で世俗権力の政治を宗教権力で支配するや、ヨーロッパ世界の外への教会圏拡大を王侯貴族達に求めた。
 生と悪、善と邪の二元論で、殺す事で異教徒の魂を救済する事は聖なる行為とし、多くの汚れた魂を救済する事は自分がこれまで犯してきた罪の免罪符になると説いた。
 1,イスラエル奪還という十字軍。
 2,ポーランドからエストニアへの東方への拡大。
 3,イベリア半島失地回復運動(レコンキスタ)。
 4,大航海時代
 1095年 教皇ウルバヌス2世は、クレルモン公会議で聖地エルサレム回復の十字軍を宣言した。
 「キリスト教徒が聖地エルサレムの奪還を行う事は神の望みであり、この戦いに参加した人は、罪が許されるだろう」
 当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。
 1096(〜99)年8月 第1回十字軍は、イエス・キリスト死後1000年が過ぎたという終末論にともなう世界の破局最後の審判エルサレムで迎え、絶対神の許しを得て神の国・至福1000年王国の民になりたいと羨望する10万人の群衆で組織された。
 宗教の魔力に取り憑かれた太群衆は、出会った異教徒を皆殺しにしながら聖都・エルサレムへ進軍した。
 庶民達による大規模な聖地巡礼運動。
 民衆十字軍。
 農民十字軍。
 庶民十字軍。
 貧者十字軍。
 十字軍は、兵士と同じ数だけの売春婦を連れて聖都エルサレムに向かって進軍した。
 1098年 十字軍は、シリア北部のマアッラを攻撃してイスラム教徒を大虐殺した。
 1099年 十字軍は、約1ヶ月間の攻防の末にエルサレムに入城し、城内のイスラム教徒約7万人を皆殺しにした。
 さらに、ユダヤ人を神殺しの極悪人と断罪して、エルサレム在住のユダヤ人を女子供に関係なくシナゴーグに押し込めて焼き殺し、財産を略奪した。
 十字軍運動は、東方キリスト教徒、ユダヤ教徒イスラム教徒など数百万人の犠牲者を出して終熄した。
 十字軍に参加した諸侯は、信仰の為ではなく戦利品が目的であった。
 イスラム圏に攻め込んだキリスト教徒は、ローマ教皇が異教徒を殺せば罪が許され神の国に行けると保証した為に、女子供でも容赦なく虐殺した。
 1147(48)年 第2回十字軍。
 1189(〜92)年 第3回十字軍。
   ・   ・   ・   
 1202(〜04)年 第4回十字軍。最も悪名の高い十字軍である。
 フランスの諸侯は、エジプトを攻撃する為に十字軍を編制し、海上輸送をヴェネチアに依頼した。
 ヴェネチアの元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロは、依頼を受ける代わりに見返りに、王の年収を超える金額と征服地の半分を要求した。
 ヴェネチアは約束の大船団を用意したが、フランスの諸侯は予定した軍団の3分の1しか用意が出来なかった。
 ヴェネチアは、貿易相手のエジプトを救うべく、通商にとって絶対に必要な中継港であるアドリア海にあるキリスト教国ザーラ攻略を提案した。
 フランスの諸侯は、提案を受け入れ、連合してザーラを攻撃して征服した。
 ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の前皇帝の長男は、叔父に奪われた皇位を奪い返す為に、ザーラに駐屯している第四回十字軍に協力を要請し、多額の報酬を約束した。
 ヴェネチア側は賛成し、フランスの諸侯は最初は戸惑ったが報酬に目が眩んで引き受けた。
 第四回十字軍は、コンスタンティノポリスコンスタンティノープル・現イスタンブル)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くした。
 フランスの諸侯は、交易路を確保して新たな冨を創り出すという思想を持たなかった為に、ビザンチン帝国の国庫を開き巨万の富を山分けし、新たな領地を得て満足した。
 ヴェネチアは、国を豊かにする事のみに拘り、競争相手のピサやジェノバを出し抜くべく、海洋貿易に必要なアドリア海の中継港とクレタ島など地中海各地を獲得した。
 イタリア各都市国家は、ヴェネチアのように領土拡大ではなく海外交易で冨を集めるという通商国家を目指し、海外で領土を拡大する事に興味を示さなかった。
 イタリア各都市国家が交易で繁栄し、商人が冨を蓄積する事によって、ヨーロッパは中世から脱却してルネッサンスを生み出した。
 キリスト教会は、実利万能主義で同じキリスト教国を滅ぼしたヴェネチアの行為に激怒し、キリスト教徒を金も魔力で堕落させたのはユダヤ人だと邪推した。
   ・   ・   ・   
 1209年 イノケンティウス3世は、ローマ・カトリック教会の教義に異を唱えるカタリ派を異端派と告発し、悔い改めて改宗する様に残虐非道な拷問にかけるよう命じた。
 南フランスのベジェやイタリアのアルビは、アルビジョワ十字軍に襲撃され、異端カタリ派(アルビ派)は大虐殺された。
 約100万人のカタリ派キリスト教徒市民が、ローマ・カトリック教会の「絶対神の御名」によって酷たらしく虐殺された。
 アルノー「全部殺してしまえ! 見分けるのは神だから」
 イノケンティウス3世(在位 1198〜1216年)は、十字軍に参加する者には免責が与えられ永遠の救済が約束されると宣言した。
   ・   ・   ・   
 1212年 少年十字軍。神の啓示を受けたとする少年エティエンヌの呼びかけにより、フランスやドイツにおいて少年・少女が中心となって十字軍が結成された。
 フランス少年十字軍は、聖地奪還に向かう途中、船を斡旋した商人の陰謀によりアレクサンドリアで奴隷として売り飛ばされた。
   ・   ・   ・   
キリスト教は、未開の民族宗教を殲滅する為の聖戦を始める。 
 日本民族日本人には、キリスト教徒によるユダヤ人虐殺が理解できない。
   ・   ・   ・   
 普遍宗教の絶対神は、「寛容な神」として信仰を契約した者のみが地上に満ちあふれる事を認めたが、同時に「不寛容な神」として信仰を拒否する異教徒の生存は認めなかった。
 バチカンは、唯一の創造主が7日間で創りたもうた全てを白人キリスト教徒の所有物とする為に、スペインとポルトガルが締結した1494年のトルデシリャス条約と1529年のサラゴサ条約を認めた。
 キリスト教価値観を持つ白人至上主義の彼らは、神に似せて創られたという絶対的優越感のもと、白色人種以外の有色人種を反抗しない家畜として動物同様に扱った。
 絶対神が認めた神聖にして絶対不変の差別的階級が、唯一の秩序として全世界を支配した。
 そして、1648年に、「先占の原則」と「内政介入の原則」などを持ったウェストファリア条約が結ばれた。
 戦争は、人間の営みの一つである以上、善悪では判断できないとされた。
 そこで、民衆の保護ではなく国家の存続の為に、平和を求めるという理想の追求ではなく戦争のルールとして国際法が作られた。
 普遍宗教キリスト教による、陰湿で陰惨な暗黒時代の始まりである。
 マルクスユダヤ人)「宗教はアヘン」
 レーニン(母方はユダヤ人)「宗教は、民衆のアヘンである」
 「集団」ではなく「個」を大事にする大陸の世界史は、憎悪の中から高度な精神文化を生み、殺し合いの中から洗練された哲学や思想を模索し、自然環境と社会の破壊から新たな科学と技術を発明し、キリスト教徒白色人種(神に愛された本当の人間)とそれ以外の対象(食べられる動物とその同類の人間・有色人種)による地球規模の黄金時代を築いた。
   ・   ・   ・   
*東アジア世界では、社会に害をなす宗教を大弾圧するのが常識であった。
 マルクス「ドイツ人、中国人そしてユダヤ人は行商人や小売店主と同じに見なされるべきだ」「明らかにこれは、幾つかの弱い国家を押し潰す事なしには満たされないだろう。しかし歴史上、暴力と無慈悲なしには何事も獲得できない」
 後年、中国で起きたプロテスタントキリスト教徒中国人の反乱である太平天国の乱(1851〜64年)では、人口約4億3,000万人中1億6,000万人以上が殺害されたという。大陸世界では、宗教を巡る戦争や暴動が絶えず、信仰をめぐる殺戮に次ぐ殺戮が繰り返されていた。
 ちなみに、中国ほど宗教に関する内戦・反乱・暴動が多発した国はなく、全てに共通するのは数百万人数千万人規模の大虐殺を持って収束した。
 数多くの王朝や王国は不寛容な宗教戦争の中で滅亡し、権力者一族は宗教への徹底を欠いた妥協的政策の失敗ゆえに死滅した。
 中国は、世界一の犯罪が多発する無法地帯であり、その殆どが残虐で陰惨な凶悪犯罪であった。
 日本とは違って血筋や血統を神聖視せず、個人の実力や能力を重要視して行動した為に、日本以上の大流血を伴う大虐殺を平然と行っていた。
 朝鮮も、実力至上主義として中国に近い行動をとっていた。高麗は新羅人を、李氏朝鮮は高麗人を、同じ民族にもかかわらず勝者は敗者を大虐殺した。その残忍な民族性は、中国同様に、現代にも受け継がれている。
 清王朝(1616年〜1912年)後期だけでも、仏教系白蓮教徒の乱(1796年〜1804年)では600万人以上が、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)・イスラム教(回教)徒の反乱(1864年〜1878年)では1,000万人以上が大虐殺された。
 チベットなどの民族悲願である分離独立運動も、中国人から大弾圧を受け続け、度重なる大虐殺の末に人口を減らして少数民族に転落した。
 漢族化・同化を拒否し、臣下の身分となる事を拒絶し、正統派儒教の中国人独裁体制に逆らう者は容赦なく殺した。
 中国の歴史においては、身分・上下関係による「人」差別は当然の事であり、それ故に人道も人権も、道徳も良心も、そして普遍的な自己犠牲的「愛」という概念も存在しない。
 中国民族は、正統派儒教価値観により世界一猜疑心の強い人間不信の病的自己中心主義者である為に、「利」を離れたところでの他人を思いやる気持ちは微塵も無かった。
 よって、敵と見なした相手には、他民族はもちろん自民族でも平然と数百万人数千万人と大虐殺し、暴力的に略奪し、女性を慰安婦として強制連行した。
 上下関係を無視した対等な関係での、約束や契約を守るという概念も存在しなかった。
 歴代王朝は、大地が有る限り全てを我が領土として中国化する事を天命とし、周辺諸国への侵略を繰り返して、抵抗する者は容赦なく猟奇的に虐殺した。
 歴史上の中国帝国とは世界一の植民地大帝国であり、中国軍が侵略し略奪した後には死体の山と破壊された自然・大地のみが無残に残った。「中国は、攻撃には強いが、守りには弱かった」。
 歴代の帝国は、領土を拡大する時は自信満々に輝いていたが、膨張が止まり守勢に入った瞬間から意気消沈して衰退し滅亡した。
 中国の面子とは、こうした面子である。


   ・   ・   ・