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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
1838年、天保9年。
1940~42年 アヘン戦争。
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地球規模の日本人奴隷交易とアフリカ人奴隷交易は、西洋キリスト教文明諸国で国際問題となっていた。
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日本人奴隷交易を止めさせたのは、豊臣秀吉と徳川家康。
日本人を奴隷から救ったのは、徳川幕府の世界7大帝国としての軍事力、動員力、輸送力、兵器生産技術力であった。
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アフリカ人奴隷交易が続いたのは、それを阻止する強力な軍事力を持った国家がなかったからである。
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ユダヤ人をホロコーストから救えなかったのも、軍事力を持ったユダ人国家がなかったからである。
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AFP BBNews
奴隷子孫への償い、米ジョージタウン大の学生らが基金設立へ
2019年4月14日 14:10 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 米国 北米 ]
・米首都ワシントン郊外にあるジョージタウン大学のキャンパス(2018年8月19日撮影、資料写真)。(c)Daniel SLIM / AFP
【4月14日 AFP】米名門ジョージタウン大学(Georgetown University)で11日、同大を設立したカトリックのイエズス会に売られた奴隷たちの子孫に対する償いを目的とした基金の設立が、学生協会の投票で承認された。ジョージタウン大学学生協会(GUSA)によると、投票結果は賛成2541票、反対1304票。この種の基金の設立は米国で初めて。
首都ワシントン近郊のジョージタウン地区にある同大は1789年にイエズス会によって設立されたが、イエズス会は1838年、借金を返済するために奴隷272人を売却した。基金は、この272人の子孫の教育支援や慈善活動などを目的とし、ジョージタウン大の学生と奴隷の子孫たちで構成された理事会が運営する。資金は学期ごとに学生1人から27ドル20セント(約3050円)を徴収して賄う。
大学側は学生投票の結果に拘束される義務はないが、トッド・オルソン(Todd Olson)副学長(学務担当)は「本学の学生による合意を尊重する」と述べた。
ジョージタウン大には学部生7000人以上が在籍。学部生の2019会計年度の授業料は、5万3520ドル(約600万円)となっている。
■奴隷子孫への賠償、大統領選で論点となる可能性も
奴隷の子孫であるアフリカ系米国人たちへの賠償をめぐっては、2020年米大統領選に向けた民主党予備選の候補者たちの間でも議論が展開されている。
米国初の黒人大統領となったバラク・オバマ(Barack Obama)氏や16年の米大統領選で民主党候補に指名されたヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)元国務長官は、奴隷子孫への賠償について支持を示さなかった。だが、20年大統領選の民主党予備選候補者では、マサチューセッツ州のエリザベス・ウォーレン(Elizabeth Warren)上院議員やテキサス州サンアントニオ(San Antonio)のフリアン・カストロ(Julian Castro)元市長らが、奴隷子孫への賠償を強く支持すると表明している。(c)AFP
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ウィキペディア
ジョージタウン大学(Georgetown University)は、アメリカ合衆国の私立大学である。ワシントンD.C.の近郊、ジョージタウンに位置する。
ヒドゥン・アイビーに数えられる。政治や国際関係などの学問に関しては世界屈指の大学であり、各国の首脳の他、合衆国大統領であるビル・クリントン、合衆国最高裁判所判事であるアントニン・スカリアが卒業生に名を連ねる。現在のアメリカ合衆国議会においては、下院議員16名及び、上院議員6名が当大学の卒業生である。アメリカ合衆国における初のローマ・カトリック系大学である。
概略
ジョン・キャロル大司教像
1634年に起源を持ち、ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に就任した1789年1月23日にイエズス会のジョン・キャロル(John Caroll)大司教によって創設された。
アメリカ合衆国におけるカトリック教会及びイエズス会創設の大学としては、最古の歴史を持つ。ジョージタウン大学は、イエズス会大学協会の所属機関であり、ジョージタウン大学学長及び理事会と一体化している。
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JORNALニッケイ新聞
陸か?!=連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易
2009年4月15日
ニッケイ新聞 2009年4月15日付け
十六世紀当時、世界地図をポルトガル中心に見た時、日本とブラジルには奇妙な類似点がある。両国は世界の両端だった。世界の西端がブラジル、東端が日本だった。
堕落したカトリックを救済・再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊型組織を持つ布教の〃先兵〃として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向かった。その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。
一五四九年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したのと同じ年に、ブラジルには総督府制がしかれ、初代総督トメ・デ・ソウザが赴任しているが、初代教区長として同行したのがイエズス会のマノエル・ダ・ノブレガだ。
今では世界最大のカトリック人口を誇るブラジルと、人口の一%未満しかキリスト教徒のいない日本は、布教開始は同期生だった。
中隅さんは『入門』で「日本とブラジルは、カトリック布教ということでは、同時に出発したということになる。とはいえ、イエズス会の布教にかける情熱、使命感ということでは、圧倒的に日本に比重がかかっていた。大航海時代の海外進出は、貿易と布教がセットになっているのだが、貿易でも布教でも、未開のブラジルと日本では比較にならなかった」(百六十六頁)と書く。
大航海時代に「無敵艦隊」を誇り、世界を制覇したスペインと、最大のライバルだったカトリック兄弟国ポルトガル。競い合って世界の果てであるアジア、アフリカ、南米への探検隊や宣教師を派遣した時代だった。
十四世紀半ばのペスト大流行で欧州人口の三分の一が亡くなり、英仏は百年戦争(一三三七~一四五一年)で疲弊しきっていたのを尻目に、ポルトガルはインド航路発見により、アジアの香料貿易を独占した。
スペイン王室の支援でコロンブスが北米大陸に到来したのは一四九二年。一五〇〇年にはポルトガル人貴族のペドロ・アルバレス・カブラルが、インドに行く途中でブラジルを見つけたが、あくまで視線は利益の多い東方貿易に向いていた。
ポルトガルは一五〇三年にインド東岸カルカッタを占領、一五一〇年にゴアを、一五一一年マラッカを支配下においた。これら拠点から、香料、絹、茶、象牙、宝石などの莫大な富が本国王室にもたらされた。
一五一七年には広東まで進出し、シナ貿易を始めた。二世ジャーナリストの先駆者、山城ジョゼーは『Choque luso no Japao dos seculos XVI e XVII』(十六~十七世紀の日本に於けるポルトガルの影響、一九八九年)でも「日本人奴隷」という一項を設け、かなり詳述をしている。
それによれば一五二〇年ごろに最初にポルトガル人によって売買されたアジア人は「無数の中国人奴隷だった」(百一頁)という。
一五四三年に商人フェルナン・メンデス・ピントが種子島に火縄銃(鉄砲)を伝えた。日本にとっては、西洋社会との突然の初接触だった。
ポルトガル人からするとブラジルは偶然発見された場所だが、日本は何十年がかりの大冒険の果てに、ようやく辿りついた最終目的地だった。
一五四九年八月にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが訪日し、南蛮貿易が始まった。このすぐ後から、日本人奴隷も運びだされるようになったようだ。
アンドウの『ブラジル史』には、ポルトガルの歴史家ルシオ・デ・アゼヴェード著『Epoca de Portugal Economico』からの引用があり、「インド貿易の全盛期には、ブラジルのインディオをはじめインド人・シナ人・ジャワ人、さらに日本人までも奴隷として輸入していた」(四十九頁)とある。
十六世紀末には、日本も海外拡張を目指していた。豊臣秀吉は明の征服を目論んで朝鮮出兵(一五九二、一五九八年)をした。この時、日本に連れてこられた朝鮮人が奴隷としてポルトガル商人に売られていったとの記述もある。
つまり日本人同様、アジア各地の人々が南米にまで来ていてもおかしくない。(つづく、深沢正雪記者)
写真=ブラジルの古地図
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YAHOO!JAPANニュース「 【戦国こぼれ話】日本人奴隷は世界を駆け回っていた!?あまりに無慈悲な奴隷正当化の論理!
渡邊大門 | 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
2020/11/23(月) 10:05
鎖につながれた奴隷。(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)
■許されない奴隷制
現在、奴隷制度を公然と許している国は、ほぼないはずである(非合法的に行っているところはあるかもしれないが)。しかし、かつては当たり前のことだった。
日本の戦国時代には、日本人奴隷が海外に連行されることがあった。その背景を探ることにしよう。
■日本人奴隷を生んだ南蛮貿易
キリスト教の布教と同時に活発になったのが、南蛮貿易である。天文12年(1543)にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を活発化させた。
ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ生糸など多くの物資がもたらされた。逆に日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。
これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。
ムーア人とは現在のモロッコやモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取った。
このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵攻し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。
■奴隷制は宗教的に問題がなかったのか
これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外――主にアフリカ――から調達することにより、復活を遂げることになったのである。奴隷制度は、宗教的に問題はなかったのだろうか。
1454年、アフリカら奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次のとおりである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。
神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。
文中の「その国民」と「彼らは」とは、アフリカから連行された奴隷たちである。彼らの多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の恩寵」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。
そして、彼らの魂はキリストの利益になると曲解し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリシタンにとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。
■伸びる魔の手
当初、アフリカがヨーロッパに近かったという理由から、日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、その魔の手は着々と伸びていたのである。
この問題に関しては、岡本良知氏の名著『十六世紀日欧交通史の研究』に詳しいので、以下、同書により考えてみたい。
日本でイエズス会が布教以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次のとおりである。
(1)ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。
(2)買い取った日本人奴隷を解放すること。
(3)禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。
当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。
■無視された命令
安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見たとおりである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね2つに集約することができよう。
1つ目の理由は、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジアの諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。
植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのであった。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。
もう1つの理由は、イエズス会とポルトガル商人に関わるものであるが、こちらは機会を改めて論じることにしよう。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。十六世紀史研究学会代表。千葉県市川市在住。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演活動に従事する。主要著書に『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(光文社・知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』 (朝日新書)『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)など多数。」
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論 文 の 和 文 要 旨
論文題目 近世日本における奴隷問題とイエズス会
氏名 Rômulo da Silva Ehalt (ダ シルバ エハルト、ホムロ)
鉄砲伝来から17世紀半ばまで、日本人が奴隷化されて海外に連れて行かれたという研究が近年注目を浴びるようになった。2007年以降、このテーマはいくつかの研究者に取り扱われるようになった。近年の研究でポルトガルなどからの外国商人は日本人の所従、下人、年季奉公人を海外に連行しているが、それらの人々は植民地社会では奴隷と認識されたということも分かっている。しかも、奴隷化された日本人がペルー、メキシコ、ポルトガル、スペイン、イタリアなど世界各地に点在していたことを証明する数々の史料が紹介されてきている。日本人召使いを買い求めた外国人の仲介役を果たしたイエズス会は、日本の奴隷貿易に主要な担い手となったと明らかになっている。つまり、そういった研究の焦点は簡単に言うと、日本人奴隷貿易の構㐀とその地理的な範囲という二点に当てられている。
ここまでの研究で分かったのは、1590年代までにイエズス会が日本の奴隷貿易に対して肯定的な姿勢を見せていたが、1598年長崎で開かれた会議によってその態度がからりと変わって日本のイエズス会士が日本人奴隷貿易を非難するようになったということである。しかし、イエズス会が日本人の奴隷化を如何に正当化したのかという問題はいまだ解決していません。本論文は、イエズス会の召使にあたる人々に対する規則や、日本人奴隷化に対する神学的な解釈を分析し、日本人奴隷史を思想史として再設定する。言い換えると論文の本題は、イエズス会が日本人の奴隷化を支持するいかなる神学的や法的な理念を整備したのか、そして、いかにそれらの理念を廃棄して16世紀末にそれらの行動を非難するようになったのかということである。
今までの研究で分かってきたことをまとめると、1550年代からポルトガル人は中国人と日本人を九州で購入していた。イエズス会士は㏿やかにその貿易の仲介者になって、奴隷を買うことを許可する公認証のようなものをポルトガル人に発行するようになったことが明らかにされている。豊臣秀吉は奴隷貿易の実態を知り、1587年にそれを禁止した。イエズス会は1596年になって初めて日本において奴隷取引する者をキリスト教から破門とすることを定めた。司教の死後に破門令が無効になり、1598年新司教が破門令を再び制定した。その後、日本人の奴隷化を禁止するようポルトガル国王に働きかけるが、インドのポルトガル人が反対して、その策略は失敗に終わったとされている。
本論文は問題として提示したいのは、日本のイエズス会が日本人の奴隷化を神学的な理念を適用して弁解したことである。そのため、日本人奴隷史にとって『正当性』(Justification)という点はとても重要な歴史的なテーマになる。本題に入る前に近世の『奴隷』(英:early modern slavery)という概念の歴史的な変化、そして近世奴隷の正当性の歴史を分析した。近世奴隷史の研究は、奴隷制の合法化と正戦論(Just War Theory)との関係性を重視するが、その関係性が妥当なものではないと指摘した。奴隷の正当化の理由として正戦論を使用することは、13世紀に始まってヨーロッパ諸勢力のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突から生まれた捕虜の奴隷化から始まった歴史的なプロセスである。16世紀には、奴隷の合法性(Legitimacy)を決める権力は神学者にあった。ポルトガルが支配していたアジア各地においては、イエズス会士こそが戦争と奴隷化の正当性を決める責任者になって、重大な役を果たしたのである。
先行研究では、奴隷という意味のポルトガル語 escravo とスペイン語の esclavoという語は所従、下人、年季奉公人などをさすことが分かるが、いつからその関連性が生じられたのかがいまだ不明である。本論文では、日本への上陸以降ヨーロッパ商人は日本に存在していた「不自由的な労使関係」のことを奴隷と呼ぶようになったことが分かった。従って、日本人奴隷というのは、日本にあった不自由的な労使関係をヨーロッパ人たちが自分の基準からそれらの労使関係を解釈して生まれた概念である。しかし、この論文で指摘するように、日本人奴隷貿易の初期からイエズス会はこの概念的な奴隷化に対して抵抗した。当時の状況を考えると、宣教師は日本のキリシタンたちを奴隷という汚名から守ろうとしたのではないかと考えた。
このころ、アジア生まれの人々の奴隷化の正当性が疑われ始めた。1550年ゴアの宣教師がイエズス会創立者のロヨラに、アジア生まれの奴隷化の正当性を訴えた。ロヨラは、その解決をインド在住のイエズス会に任せると返答した。当時、神学者たちは Tutiorism(安全採用説)といえる考え方の基に真偽のあいまいな問題に取り組んでいた。キリスト教の教義にたいして違犯の可能性があったときは、宣教師たちは倫理神学手引書や決議論の手引書の条文を厳粛的に従って問題を解決するときに最も安全な答えでなくてはならないという時代であった。それゆえに、奴隷の正当性に関して疑問があると奴隷の解放を促すべきであったという考えが主流であった。しかし、当時ヨーロッパのイエズス会幹部たちにとって経済的や政治的にアジアの植民地の奴隷の正当性を疑問に思えば解放しろということをいうのがとても困難であったので、ロヨラは現地のイエズス会士たちにその結論を任せたと指摘したいである。結果的に、あいまいな奴隷化を黙認することになった。
1567年に、ポルトガル領インドのゴアでは、第一回地方公会議(PrimeiroConcílio Provincial)が行われ、ポルトガル領の中の奴隷の合法性を改めて定義した。会議は中世的な定義を改めてポルトガル領域以外の地域の法律が正当な場合奴隷の合法性を認めた。つまり、ポルトガルの管轄域の外で行われる奴隷化の正当性が正式にポルトガル勢力に認められている。
先行研究では、1570〜71年ポルトガル王様セバスティアンが、奴隷化されていた日本人のことをかわいそうと思い、奴隷化を禁止したというように説明されている。本論文では、こういった法律の制定によって日本のイエズス会士は有利な立場に立つようになったと指摘した。しかも、先行研究はセバスティアン国王の法令を失敗としてみなしてきたが、本研究ではその法令が日本におけるイエズス会が有利的な立場を確保するように寄与したことを明らかにした。
1560年代初頭にさかのぼると日本のイエズス会士は、ポルトガル人たちに奴隷購入の許可証を発行し始めた。先行研究ではその実態は指摘されているが、本論文では、制度化した慣習であったこと、そして計画的に行われていたことであったと指摘した。それで、イエズス会の許可証制度は、ポルトガル人と九州の豊後国の日本人との間の貿易を仲介するために始まったものであると分かった。先行研究によると、この頃の豊後の国の大友家は、東南アジアの国々との外交関係の上日本人の女性を海外に送ったりしていたとわかっている。そのため、おそらくポルトガル人との奴隷貿易はこういった習慣の延長として生まれたのではないかと本論文で指摘した。
次は、日本人奴隷に対するイエズス会士の神学上の解釈を紹介した。そういった点に触れる文書が数少ないが、一つの大きな鍵になったのがラテン語であった。教会の公用語であったため、ラテン語で日本の不自由的な労使関係は如何に解釈や翻訳されていたのかがとても重要なポイントである。従って、そういった関係に陥っていた労働者に対して宣教師たちが二つの解釈を取り入れたことを本論文で確認できた。簡単にまとめると、日本社会における召使いのことをラテン語で famuli と呼び、そして海外に連れて行かれた日本人を servi と呼ぶようになっている。ローマ法の伝統を基にしてできたカノン法上では、前者は正式に奴隷になることなく、自由人と同様に扱われる。後者は法律的に奴隷となっていた。当時の解釈では、たとえ解放されたとしても奴隷であったという汚名を一生抱えることになっている。法律上では、そういった人は ingenuitas という自由人の性質を無くして、カノン法と法律では自由人と別の扱い方されていた。
日本のイエズス会は日本から海外への日本人奴隷の売買を支え続けたが、マカオ在住宣教師が1570年頃にゴア在住のイエズス会神学者ロドリゲスにその状況を訴えた。ロドリゲスは、日本イエズス会が整備していた許可証制度に問題点の可能性があると認めるが、現地日本にいる宣教師たちが自分より状況を把握しているはずなので決定を避ける。その結果、日本国外では日本人奴隷化問題が完全に現地の宣教師たちに任されて、黙認の状況が生じられたと指摘した。
史料の整理によって、1587年以降豊臣秀吉が数々の法令によると日本人奴隷化問題に対する対策をとり、イエズス会が許可証制度を改めて考えるようになったことが分かった。来日したヴァリニャーノ巡察師は日本人の奴隷化に対する許容的な姿勢を疑いはじめ。ここで、『デ・サンデ天正遣欧使節記』が重要な文書となる。そこでは、日本人の奴隷化に対する非難が見えるが、ヴァリニャーノは二種類の奴隷がいるということを説明する:悲しき隷属関係(tristemservitutem)の黒人奴隷と、ポジティブな側面もあった日本人奴隷である。本論文では、こういった関係を容認可奴隷関係(tolerable slavery)と呼んだ。
日本人奴隷化の容認の裏に、二つの理念が採用されていたということが分かった:占有する主人(この場合は奴隷の主人)の権利を優先してもよいという原則の possidentis と、害を及ぼすつもりがない当事者がとった行動を許してもよいという概念の bona fides である。従って、日本人が日本の慣習に基づいて作った隷属的な関係はイエズス会によって正当化されることができた。こういった理念の適用は、蓋然論(Probabilism)がイエズス会士の間に採用されて普遍的になっていたことを反映している。
しかし、1598年日本司教が日本からマカオに戻って、日本人の奴隷化に関わる商人に対する破門令を制定したが数日後無効になった。司教の後継者が同じ1598年来日し、会議を催してこの問題を議論し、奴隷化を支持する神学的な理念を放棄するようになった。結果的に、宣教師たちは日本奴隷化問題から離れることを決めた。それから、この問題を世俗的な司法(Secular law、若しくはForo secular)に任せることにしたと本論文が指摘した。
1598年以後イエズス会は日本人の奴隷化問題を避け続けた。1612年、伝道団の副管区長が会の施設のルールを変更し、奴隷の正当性に関する問題には宣教師が干潮しないようと定められた。それにしても、Manuel de Sá の『金言集』が日本で出版されていたことから考えると、日本で合法的に奴隷を手に入れるやり方があったのかもしれないと指摘した。1614年、イエズス会は幕府に追放され、キリシタン信徒組織を通して日本人の奴隷化に対して抵抗し続けた。
本論文で示されているように、日本のイエズス会が使用していた理念は、他の地域の宣教師らが使用していた理念との共通点が明らかになった。これによって、これから日本の宣教師と他の地域との宣教師との共通点が明らかにすることが可能となった。しかも、日本イエズス会が直面した理念的・方法論的な問題に対する新しい側面の検討が可能となると考えている。思想史として再設定された日本の奴隷貿易はイエズス会が日本で布教活動を展開していた最中に様々な神学的な課題をもたらせたと分かった。結論として言うと、イエズス会士は日本人の奴隷化という歴史的な現象が、日本の不自由な労働者とポルトガル人の主人の間に労使関係を成立させた結果だという解釈を行なっている。次は、日本の宣教師はこの不自由な労使関係に対して奴隷という概念の使用を制限して、こういった日本国内の主従関係がアフリカの黒人奴隷と性質的に違うものであると主張した。さらに、ローマ法の伝統から受け継がれた自由人と奴隷という二分法的な社会分類を日本に適応することが困難であった。そのため、イエズス会が国内の労使関係と奴隷の概念を別のものとして解釈を行なった結果、日本人の奴隷化が外国の商人に売却されて国外に連れて行かれるときに限るというように理解したことが分かった。
本論文が日本人奴隷史に貢献できるのは、日本人奴隷化問題に対するイエズス会の関わり方の裏には慎重な考慮があったことである。1590年代以前に、日本人の奴隷化を認めていた裏には神学的な理念を使用していたことも、1598年以降奴隷化を非難するようになってからその理念が放棄されたときでも、どちらも蓋然論の出現と論争の影で行われている。しかも、本論文のもっとも大きな貢献は、日本人奴隷史を思想史として再設定することにより当時のイエズス会の考えや行動を理解するには神学との関係を考えることによって新たな側面が明らかにすることが可能であるということである。日本のイエズス会の行動と歴史を考える時には、宣教師と神学との歴史的な関係を考えることの重要性を示したと思う。
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