🗽23」─1─宣教師の子弟は、ハワイを白人キリスト教徒の島にするべく、ハワイ王家を改宗させ、ハワイ民族の宗教と文化と伝統を破壊した。1819年~No.88 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 オーストラリアのゴールド・ラッシュが終わると、アメリカにおけるフロンティアも終了した。
 西部にやって来た一攫千金を夢見た荒くれ者達は、新たなフロンティアを求めてハワイを経由してオーストラリア・中国・日本に渡っていった。
   ・   ・   ・   
 ハワイ王国の繁栄と滅亡は、ハワイ人が外国人勢力が支援してくれた恩義に感謝して領土の一部を明け渡した事による。
 外国勢力の力を借りて野望を遂げようとする者は、自国を滅ぼす。
 国を亡ぼすのは、外国の侵略ではなく、自国民の裏切りである。
 国家は、内部から滅亡する。
 ハワイ王国を滅亡させたのは、アメリカではなく、皆殺しにされようとも武器を取って自国を守ろうとしかかったハワイ人の勇気のなさに原因があった。
 自国を守るのは、他国の支援ではなく、戦争をする勇気である。
 その意味で、「正しい戦争」あるいは「聖戦」は存在する。 
   ・   ・   ・   
 イギリスは、産業革命で競争力を増した自国製品を、安価なで大量に国際市場に売り出すべく、低率関税のイギリス型自由主義貿易思想を世界交易システムに押し込もうとしていた。
 アメリカは、競争力の脆弱な自国産業を保護する為に、高率関税のアメリカ型保護貿易主義で抵抗していた。
 南部諸州は、綿栽培を単一作物とする奴隷プランテーションイを基幹産業とし、生産した綿花をイギリスに輸出していた関係からイギリス型自由貿易思想を支持していた。
 北部諸州は、輸出する農産物が栽培できない為に製造業に力を入れたが、安いイギリス製品が輸入さ太刀打ちできないので、産業保護の為に関税の引き上げを求めていた。
 アメリカを工業立国として国際交易で発展させる為には、イギリスのユダヤ系国際金融資本に支配されず、独自に資金を調達できる様に銀行制度の改革を連邦政府に求めた。
 北部諸州選出議員は、旧宗主国・イギリスに負けない国力を持った国家を建設する為に、連邦政府に中央主権的な権限を持たせ、大統領に専制君主的な強力な権限を与えるべきであると主張した。
 それは、合衆国憲法精神に違反する主張であった。
 南部諸州は、輸入品に高関税をかける事は、イギリスによる報復関税を受ける危険性があるとして猛反対した。
 南部諸州選出議員は、専制君主の圧政を嫌い自由を求めて移住民してきた祖先の精神を受け継ぐべきであるとして、各州政府の自由裁量権を持たせる為にも多くの権限を連邦政府から移すべきであると主張した。
   ・   ・   ・   
 アメリカとイギリスは、南アフリカ廻りでインド洋を越して中国に行くよりも北太平洋航路を利用した方が近い為に、商船を派遣して優位を競い合っていた。
 両国の目の前に浮かんでいたのが、ハワイ王国であった。
 アメリカは、イギリスより先んじて太平洋を「内海」とするべく、強引な手段でハワイ王国に侵入していた。
   ・   ・   ・   
 藤川隆雄(大阪大学大学院教授)「産業革命によって資本主義が世界を覆い始めると、地球規模で身分・職業・居住地などが流動化。それまでの身分差別や奴隷差別は『人種差別』に転換されていった」
 「弱肉強食の新自由主義経済は差別を見えにくくしています。貧困理由が人種や性など従来の差別に起因していいても、自己責任として突き放されてしまう」(『人種差別の世界史』)
   ・   ・   ・    
 1779年 イギリス人探検家キャプテン゠クックは、ハワイ島ケラケクア湾の原住民との紛争で殺害された。゠
 クック探検隊の一部は、当て所のない海上生活に飽きてハワイに定住する事を希望した。
 1784年 ハワイ島の一部族長であったカメハメハは、定住した白人の協力を得てハワイ統一戦争を開始した。
 1790年 ハワイ島キラウエア山頂火口で、有史最大のマグマ水蒸気噴火が起き、火砕流が発生し80人が犠牲となった。
 1810年 カメハメハは、ハワイを統一して王国を建国して、初代カメハメハ1世(大王)に即位した。
 イギリスやアメリカ人の商船は、統一国家が成立して安定して治安が良くなるや、中国との中継地として入港し始めた。
 スペイン商船に替わってアメリカやイギリスの商船が、ハワイ王国のホノルル港に入港し、多くの外国人船員や中国商人が上陸した。
 アメリカ商船は、アメリカから毛皮や生活用品を持ち込んで売り、ハワイで香木になる白檀を購入して中国に運んで利益を得ていた。
 外国人が大挙して上陸するや、インフルエンザや風疹や性病などの伝染疾患が蔓延してハワイ人の多くが病死した。
 同様に。白人が上陸した太平洋諸島でも、大陸の疫病が流行して多くの島民が死亡していた。
 遠洋航海する捕鯨船は、食糧にする為に生きた家畜家禽を船に積んでいた。
 山羊やヒツジは、食用というだけではなく、性的欲求不満を解消する為に利用された。
 つまり、獣姦である。
   ・   ・   ・   
 1819年 ハワイ国王カメハメハ1世は死亡し、リホリホ王子が即位した。第二代国王カメハメハ2世の誕生である。
 カメハメハ2世は、宣教師の子供らの甘い言葉に魅せられて、民族宗教による伝統的宗教行事を廃止した。
 ニューイングランド宣教師団は、ハワイの精神的空白を絶対神の信仰で埋め、ハワイ人をキリスト教化する為に上陸した。
 ハワイ王家は、白人商人や宣教師の子供の中から有能な者を顧問として雇った。
 数人のハワイ王女は、白人顧問の容姿端麗さ憧れてキリスト教会で結婚しを上げた。
 1820年 アメリカの捕鯨船や中国貿易との商船が、ハワイ王国のホノルル港に入港し、多くのアメリカ人船員が上陸した。
 イギリス人やフランス人らも、ハワイに上陸した。 
 ニューイングランド宣教師団は、ハワイをキリスト教化する為に上陸した。
 ハワイ王家は、上陸した白人の中から有能な者を顧問として雇った。
 数人のハワイ王女は、白人顧問とキリスト教会で結婚した。
 1825年 カメハメハ2世が死亡して、カメハメハ3世が即位する。
   ・   ・   ・   
 1835年 ハワイの白檀が濫伐で減少するや、中国との香木交易は衰退した。
 アメリカのラッド・カンパニーは、ハワイのカウアイ島にサトウキビ・プランテーション(単一農作物による大規模農業)を切り開き、ハワイ人を安い賃金で働かせた。
 これ以降。サトウキビとタロー芋栽培が主要産業となり、サトウキビから作る粗糖をアメリカへの唯一の輸出品とし、タロ芋を主食とした。
 サトウキビ産業が盛んになるや、アメリカ人が農園主や貿易商として大量に移住為てきた。
 プロテスタント各派宣教師は、ハワイを神の王国に生まれ変わらせる為に家族と共に移住して来た。
 宣教師の子供達で、聖職を志さない者は、王国の高級官吏に採用されて内政や外交を指導し、アメリカへの依存を高める事でハワイを文明国に改造しようとした。
 アメリカ人移住者が、政府の高官となり、ハワイ経済を支配する事で、自然と英語が公用語化された。
 キリスト教価値観とアメリカ式生活様式を身に付ける事が国際化とされ、ハワイの民族性は次第に薄れていった。
 経済発展により、ハワイのアメリカ化が加速していった。
   ・   ・   ・   
 1840年 ハワイ王国は、自主独立国として承認される為に、白人入植者の助言を得て憲法を制定し公布した。
 カメハメハ3世は、ハワイ王国立憲君主制である事を宣言した。
 カルビン派宣教師は、ハワイ民族の伝統や文化や宗教に一切価値を認めず、ハワイ人の子供を文明人に生まれ変わらせるべく英語と宗教の教育を行い、裸に近い土着風習を洋服を着た西洋式生活に改めさせた。
 王制廃止論者であるカルビン派は、絶対神の上に人間(特に非白人は)は立てないという信念から、ハワイ人の子供に自国国王より天上の絶対神に忠誠を誓う様に教えた。
 ハワイ人の民族性は、急速に消滅していった。
   ・   ・   ・   
 鯨油の需要が高まるや、捕鯨船がハワイに入港する様になった。
 商船の船員に比べて捕鯨船の船員は、無法者の様に気が荒く不潔であった。
 アメリカの捕鯨船は、鯨を発見するや見境なく殺し、金になる油だけを取って肉や骨は捨てた。
 狩猟民族の彼等は、動物に対する思い入れはなく、その命にも価値を見出さなかった。
 農作漁労の日本人は、食糧や薬にする為に必要最低限の鯨などの動物を殺してが、奪った命を人間の祖先神・氏神と同等の神として祀り、その魂を人の魂と分け隔てなく懇ろに弔った。
 捕鯨船の入港が増えるや、ハワイ王室の資産は増えたが、酒場や娼婦館が建ち並んで治安が悪くなった。
  ・   ・   ・   
 1841年 ロシア・アメリカ会社は、カリフォルニアでの乱獲でラッコが減少した為に、フォート・ロス砦をスイス出身でメキシコ政府のカリフォルニア総督アルヴァラードの支援を受けたジョン・オーガスタ・サッターに売却して、カリフォルニアから撤退した。
   ・   ・   ・   
 1843年 ジョージ・ポーレット卿は、ハワイ王国の一部をイギリスに割譲させるべく、軍艦をホノルル港に入港させて威嚇した。
 カメハメハ3世は、武力に屈し、屈辱的な暫定条約に署名した。
 イギリスは、リチャード・トマス提督を派遣して暫定条約の正当性を調査し、ポートレット卿の要求は不当であるとして暫定条約を破棄した。
   ・   ・   ・   
 1844年 ハワイ王国は、外国人に土地を奪われない為に、祖国に愛着を抱いている全のハワイ人に土地を再配分した。
   ・   ・   ・   
 1845年 カメハメハ3世は、アメリカやイギリスなどの欧米列強がハワイを狙っている事に危機感を感じて第一回ハワイ議会を召集した。
 宗教的人種差別のアメリカ人は、ハワイ人を差別し、ハワイ王国の占領を狙っていた。
   ・   ・   ・   
 アメリカは、テキサス共和国の住民が合併を希望した為に併合した。
 テキサス型解決策(テキサス・ソリューション)である。
 全住民の過半数を占めたところで、1846年にオレゴン・ワシントン・オレゴン諸州を、1848年にカリフォルニア・ネヴァダ・ユタ・アリゾナ諸州を、多数意見を理由にしてアメリカ領であると宣言した。
 この手法は、ハワイ王国簒奪でも使用された。
 国際常識では、土地の人口比率でその土地の所有が決められた。
 つまり、日本国内で特定の外国人移住者が日本人よりも多数を占めたとき、その地域は日本ではなくその外国人の国の土地とされた。
 中国が版図を拡大して大国となったのは、中国人の海外移住による。それが、世界の中国化である。
 ジョン・オサリバン「我が国の住民を西へと動かしていく一般的法則の避ける事のでない実現のプロセスで、100年以内に2億5,000万人もの人口に達するアメリカが、アメリカ大陸を占有するのは明白な神意、神の意志なのだ」
 カトリック教会のアイルランド人ユージーン・マクナマラ神父は、カリフォルニアにプロテスタントのメソジスト教徒の入植者が増える事の危機感を抱き、アイルランド人家族2,000世帯約1万人の入植を計画した。
 カトリック教会とプロテスタント各派は、非キリスト教地帯での信者獲得の為に熾烈な布教競争を繰り広げ、それが原因で植民地戦争が各地で起きていた。
   ・   ・   ・    
 1849年 フランスのホノルル領事ギョーム・ディヨンは、ハワイ在住のフランス人12名を保護する名目で、フランス軍艦から海兵隊を上陸させてハワイ政府の建物を占拠した。
 カメハメハ3世は、使節団をパリに送り、ルイ・ナポレオン皇帝に軍隊の撤退を懇願した。
 外交関係の長官であるアメリカ人のゲリット・ジャッドは、フランスに圧力をかける為にアメリカとイギリスを動かした。
 人種差別のアメリカ人は、ハワイ人を差別した。
 アメリカは、ハワイ王国の占領を狙っていた。
 ハワイ王国は、アメリカの野望を警戒し、文明人の一員となって祖国を守るべく古来からの宗教的風習を捨ててキリスト教を受け入れた。
   ・   ・   ・
 1850年 ハワイ王国は、「多くの欧米人が上陸して生活すれば亡国の危険が回避できる」としいう白人顧問の助言に従って、ハワイ人しか認められていなかった土地所有を全ての外国人に認めた。
 アメリカ人は、各島で大量の土地を購入して大地主となってサトウキビ農園を開き、土地を失った多くのハワイ人を農業労働者として雇った。
 欧米人の土地所有が拡大されるにつれて、ハワイ王国は滅びへの道を転げ落ち始めた。
 少数の白人はハワイ王国の為に献身的に働いたが、多くの白人はハワイ王国を潰す為に陰謀をめぐらしていた。
 ハワイ王家は、キリスト教会の庇護を受けるべく改宗した。
 キリスト教会は、改宗したハワイ王家を庇護したが、ハワイ王国そのものは見捨てた。
   ・   ・   ・   
 1852年 アメリカ人農園主は、土地を購入して大規模サトウキビ農場を造るが、人口減少したハワイ人だけでは労働力不足の為に、中国人苦力152名を連れてきた。
 外国人が大挙して上陸するや、疫病が蔓延して、多くのハワイ人が病死した。
 白人が上陸した太平洋諸島では、同様に疫病が流行して多くの島民が死亡していた。
 5月 ニューヨーク・タイムズ紙「現在南部にいる黒人奴隷200万人は、苦力(中国人出稼ぎ労働者)で置き換える事ができる。200万は大きな数字に思われるが、およそ2億5,000万人の支那の人口からすれば真に微々たる数字である」
   ・   ・   ・   
 1854年 カメハメハ3世が死亡して、カメハメハ4世が即位する。
   ・   ・   ・   
 1856年 アロー号事件 
 1858年 天津条約。イギリスとフランスは、アフリカ系の奴隷貿易が禁止となって大金を稼げなくなった為に、中国人(漢族)を新たな奴隷として売買するべくアロー号事件で清国に中国人の海外渡航を認めさせた。
 清国は、支配階級である満州族モンゴル族の特権と行動の自由を認めていたが、被支配階級の中国人の自由を制限し、長城を越えて満州やモンゴルに移住する事も海外に出る事も禁じていた。
 新興移民国家のアメリカとオーストラリアは、アフリカ系奴隷を輸入できなくなって労働力不足に悩んでいた為に、中国人を合法的な苦力(クーリー)として輸入した。 オーストラリアは、約十年間で約8万人の中国人を購入したが、アフリカ系奴隷に比べて礼儀知らずで自堕落な為に労働者として使う事に辟易した。
 増えすぎた中国人がアヘン密売・売春業・高利貸しなど反社会的商売で狡賢く金儲けをして私腹を肥やしている事に危機感を抱き、1877年に支那人排斥の州法を制定した。 アメリカでも、利己主義で金稼ぎにあくどい中国人への嫌悪感から支那人排斥運動が起きた。
   ・   ・   ・   
 1860年 ポーハタン号に乗船した江戸幕府使節団は、修好通商条約批准の為にハワイに立ち寄った。
 カメハメハ4世は、上陸した礼儀正しいサムライ日本人を目の当たりにして、サムライ日本人が白人でない事に感動し、サムライ日本に関心を抱いた。
 ハワイ人は、傲慢で不潔な中国人を嫌悪したが、清潔で礼儀正しいサムライ日本人には好感を抱いた。
 秋 清国の攘夷派は、イギリスの横暴に激怒して、一時ハリー・パークスら外交団を人質に取る事件を起こした。
  ・   ・   ・    
 1863年 カメハメハ4世(29歳)が死亡して、カメハメハ5世が即位する。
 6月24日(文久3年5月9日)早朝 長州藩久坂玄瑞靖国神社)ら勤皇派は、攘夷決行の先駆けとして、下関海峡を通過する為に潮目が変わるのを待っていたアメリカ商船ペンブローク号を砲撃した。ペンブローク号は、豊後水道方面に逃げた。
 知らせを受けたアメリカ公使ロバート・ブルインは、直ちに、幕府に抗議して善処を求めた。
 幕府としては、孝明天皇に攘夷決行を約束した手前、事態の収拾に苦慮して混乱した。
 7月13日 ワイオミング号艦長マクデュガーは、知らせを受けるや、独断で報復する為に下関に向かった。
 7月16日 ワイオミング号は、下関砲台を砲撃し、長州藩の帆走戦艦二隻を撃沈し一隻を大破させた。
   ・   ・   ・   
 1864年 ハワイ王国は、アメリカ人農園主の民間主導の移民では王国の危機につながるとして、国家指導による移民政策を推し進めるべく移民局を設置した。
 初代移民局長ウィリアム・ヒレプンドは、香港や日本などを回ってハワイへの移民を勧誘した。
 11月29日 アンド・クリーク準州プロテスタント牧師のジョン・シヴィングトン大佐は、民兵1,000人を率いて、休戦協定を無視してシャイアン族の女子供しかいない野営地を襲った。
 アメリカ人兵士は、酷たらしい方法でシャイアン族の女子供を150人を虐殺し、剥ぎ取った頭皮50枚を戦利品として持ち帰り、デンバーで展示した。
 シヴィングトン「もっとインディアンを殺せ!」
 白人キリスト教徒は、宗教的人種差別主義者として、異教徒のインディアンを人間以下の獣とみなして殺害し、その死体をモノとして扱って陵辱した。
 1865年秋 香港から中国人移民521人が移住してきたが、ハワイ人は傍若無人で不潔で騒々しい中国人を嫌悪した。
 徳川幕府は、ハワイ王国の要請に従って149人を送った。
 ハワイ人は、清潔で礼儀正しく物静かなサムライ日本人には好感を抱いた。
 ハワイ王家は、アメリカ人の力が増し始めた事に危機感を抱き、王国をアメリカ人から守る為にサムライ日本人との提携を希望した。
 アメリカ人農園主は、日本人や中国人を奴隷の如く扱った。
 日本人移民は、騙されたと憤り帰国を希望した。
 後に。明治政府は、詐欺師的誘拐であるとして希望者を帰国させた。
 日本人移民の内、100人がハワイに残った。
   ・   ・   ・   
 1867年 アメリアは、ミッドウェー島を領有した。
   ・   ・   ・   
 1868年 駐日ハワイ総領事ヴァン・リードは、日本の国禁を犯して153名日本人をハワイに移住させた。
 カメハメハ5世は、サムライ日本人への好印象から、労働力不足を補う為に日本人の移住を歓迎した。
 上陸してきた日本人を見た、その見窄らしさに愕然とした。
 日本人移住者は、白人所有のサトウキビ畑で奴隷的重労働を強いられた。
 日本の明治政府は、同胞を奴隷的境遇から救い出す為に使節を送り、希望する者40名を連れ帰った。
   ・   ・   ・   
 1869年 イギリスは、ハワイ王国との良好な関係を築く為にエディンバラ公ルフレッド王子をホノルルに派遣した。
 ハワイ王国は、イギリス贔屓であった。
   ・   ・   ・   
 1869年 スエズ運河が開通し蒸気船が海運業の主役になるまで、対中貿易でアメリカはイギリスよりも優位に立っていた。
 ヨーロッパとアメリ東海岸から中国に至る航路は、南アフリカ喜望峰廻りでインド洋を越えて中国に達する航路であった。
 その航路では、アメリカはイギリスよりも近かった。
 そして。アメリカ大陸横断鉄道が完成すれば、太平洋航路と組み合わるとさらに優位に立てた。
 イギリスも、カナダを経由して太平洋航路に参加しようとしたが、旧フランス領との調整で出遅れていた。
 イギリスは、大英帝国の威信に賭けて、インド・アジア市場をロシアと争い、中国市場ではアメリカと競っていた。
 両国のアジア市場独占戦略として、日本は重要な意味を持っていた。
 アメリカは、イギリスのアジア植民地支配とアジア市場独占を打ち壊す為ために日本を利用した。
 イギリスは、アジア植民地支配をロシアとアメリカから守る為に日本を利用した。
 日本が国力を付け独自の行動を取り始めた時、両国は協力して日本を潰しにかかり、そこで利用したのが中国であった。
 日本の明治維新から太平洋戦争敗北までの国際情勢は、アジア市場独占をめぐる米英対立構図であった。
 日本は、両国の近代化への協力を、文化度の低い未開国を文化度の高い文明国への温かい支援と勘違いした。
 1914年 アメリカは、パナマ運河を開通さ、日英同盟を結んだ日本を敵国と定め対日戦に備えて海軍力を増強した。
 日米戦争は、この時点から不可避となった。




   ・   ・   ・