🛲2」─2─独立派インドネシア人と日本軍。駆逐艦「雷」、敵兵を助けた日本軍。ジャワ島攻防戦。スマラン事件。~No.5No.6No.7 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本がアジアの光である。
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 ブン・トモ「あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに全て日本に背負わせ、日本を破壊する寸前まで追い込んでしまった」
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 日本軍は、武器を持って攻撃してくる敵は、兵士であれ、女性でも子供でも殺した。
 武器を持たない者は、殺さず見逃した。
 ただし、スパイ、テロリスト、ゲリラ、レジスタンス、便衣隊らを容赦なく見つけ出して処罰した。
 だが、国際司法機関は戦時国際法に基づき日本軍の行動を全て戦争犯罪と裁定している。
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 武士の情けには二種類あり、1つ目が瀕死の重傷で助かる見込みのない敵軍兵士をこれ以上長時間苦しまないように止めを刺す事、2つ目が戦闘終了後に戦場に置き去りにされた敵軍兵士の負傷者や病人を収容して治療する事である。
 世界は、日本軍が日清戦争日露戦争第一次世界大戦・シベリア派兵などの対外戦争時において敵軍兵士捕虜を国際法に基づいて手厚く保護した事を知っていた。
 日本軍は、日本人兵士に対して捕虜になる事を厳しく禁じたが、敵軍兵士を捕虜にする時は武人として遇しその名誉を守った。
 敵軍兵士捕虜に対する厚遇は、天皇・皇室が望んだことである。
 敵軍兵士捕虜の負傷者や病人の治療・看病・看護に当たったのは、皇后を名誉総裁とする日本赤十字社であった。
 皇軍である日本軍は、天皇・皇后・皇室には絶対服従として逆らう事ができなかった。
 が、天皇・皇后・皇室の御威光に逆らい敵軍兵士捕虜を虐待し殺す不忠な日本人兵士は少なからずいた。
 ゆえに、日本軍兵士による敵軍兵士捕虜虐待というB級C級の戦争犯罪は絶えなかった。 
 日本は数多くの人道貢献で国際的信用を得て、世界五大国の一つと認められ、国際連盟常任理事国に推挙され就任した。
 対して、中国軍は敵軍兵士捕虜に対する残虐極まりない非人道行為で嫌われていた。
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*日本軍は、神話に出て来る白馬に跨がった神兵であった。
 軍国日本の侵略とインドネシアそしてオランダ。
 オランダは、インドネシアを植民地とし、華僑を使ってインドシナ人を奴隷として扱き使い、富を搾取していた。
 白人キリスト教徒は、異教徒のインドネシア人を獣として扱い、そして虐殺していた。
 白人の植民地は、地元人にとって生き地獄であった。
 中国人は、金儲けの為に、白人に忠誠を誓って植民地支配に積極的に協力していた。
 正統派儒教は、中華思想における華夷秩序に基づく上下関係から、儒教を知らない現地人を教養無き小人と馬鹿にし差別し虐待し、良心がない為に殺しても恥とは思わなかった。
 中国人は、白人の植民地支配を守る為にオランダ人と共に日本軍と戦った。
 インドネシア人は、オランダ人と同様に中国人を憎んでいた。
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 1927年 スカルノは、インドネシア国民党を結成して独立を訴え、蘭印総督府から反逆罪で逮捕され投獄された。
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 日本海軍艦艇に於いて、菊の徽章がある戦艦や空母は「艦長」であるが、徽章のない駆逐かんんあどは差別して「長」である。
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 イギリス海軍の規定においては、危険海域における溺者救助活動は「たとえ友軍であっても義務はない」としていた。
 1942年2月28日 スラバヤ沖海戦の掃討戦。日本海軍艦艇22隻、連合国軍艦艇14隻。
 被害、日本海駆逐艦1隻損害。
 イギリス海軍駆逐艦2隻、オランダ海軍経巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、沈没。
 第三艦隊司令長官高橋伊望中将は、艦隊所属の全艦艇に対して、海戦後の海上に漂流する敵兵を「全員救助すべし」と下命した。
 重巡洋艦「羽黒」(艦長・森友一大佐)は、敵旗艦経巡洋艦「デ・ロイテル」の生存者20名を救助した。
 3月1日 第六駆逐隊の「電(いなずま)」駆逐艦長竹内一少佐は、重巡洋艦エクセター」の乗組員376人をを救助した。
 沈没していくエクセターのイギリス人水兵達は、日本海軍艦艇に救助を求めて海に飛び込み、電を目指して泳いだ。
 エクセターに乗船していたグレム・アレン大尉は、上官から「万が一の場合は、日本の艦艇に向かって泳げ、必ず救助してくれる」と聞かされていた。
 駆逐艦「江風」は、オランダ海軍巡洋艦「ジャワ」の生存者37人を救助した。
 駆逐艦「山風」は、「エクセクー」の生存者67人を救助した。、
 3月2日午前10時 「雷(いかずち)」駆逐艦長工藤俊作少佐(乗組員220人)は、漂流中の駆逐艦「エンカウンター」の乗組員422人を発見するや艦隊司令部に「我、ただ今より、敵漂流将兵多数を救助する」との飛電を打った。
 「雷」の水兵達は、漂流中の疲労で力尽きて沈み行く敵兵を目撃するや飛び込み、海中に潜って彼らを救助した。
 漂流していた「エンカウンター」の乗員は、約20時間後に救助された。
 救助した敵兵士と献身的に看護する日本兵士で甲板は埋め尽くされ、砲塔の旋回を邪魔をして戦闘不能の状態となっていた。
 戦闘海域で停船する事は、敵潜水艦の雷撃を受け撃沈される恐れがあった。
 工藤艦長は、周辺海域に敵潜水艦がいない事を確認するや、「敵兵を救助する」事を命じて停船させた。
 マストには、「救難活動中」の国際信号旗を掲げた。
 乗組員らは、何時攻撃されるかわからない戦場での無謀な行為であり、ましてや味方ではなく敵兵を救助する事に不満の声を上げた。
 工藤艦長は、部下の批判を気にしない所か、一番砲に配置した水兵以外で手の空いている乗組員は武器を置いて敵溺者の救助を命じた。
 乗組員達は、戦争中である事を忘れて、全ての敵兵を艦上に引き揚げた。
 駆逐艦「雷」は、発進と停船を繰り返しながら貴重な燃料と時間を無駄に消費してまで、周辺海域を探査し、発見した敵漂流者を全て救助した。
 工藤艦長は、「諸君は果敢に戦われた。いま諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私は、英国海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実に愚かである」
 「あなた方は勇敢に戦われました。今ヤあなた方は日本帝国海軍のゲストです」
 濡れた衣服で衰弱しているイギリス人救助者に対し、貴重な真水で身体を洗わせ、乾いた衣服を提供し、温かい栄養がある食事を与え、体力・気力を取り戻す為にゆっくりと休ませた。
 高橋伊望中将は、敵兵を救助して帰投した艦艇を満足そうに見詰めた。
 戦う時は全力で戦うが、戦いが終われば勝者も敗者もなくお互いの健闘を讃え合い、そして両軍の負傷兵を差別せず分け隔てなく救助して手当てをし看護した。
 それが、サムライの武士道であり、日本軍の軍人精神・大和魂であった。
 3月3日 工藤艦長は、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に救助した敵兵士捕虜全員を引き渡した。
 8月 工藤俊作は、駆逐艦「響」艦長に就任し、11月に海軍中佐に昇進した。
 駆逐艦「雷」は、1944年4月13日に敵潜水艦の攻撃を受けて撃沈され、艦長生永邦雄少佐以下238人全員が戦死した。
 潜水艦「ハーダー」艦長 サミュエル・D・ディーレイ少佐「4本の魚雷とジャップの駆逐艦を消費した!」
 救助活動に加わった乗組員の大半が戦死し、戦死者は例外なく「靖国神社の軍神」として祀られた。
 靖国神社は、日本民族とって大事な神社である。
 サムエル・フォール卿は、工藤俊作艦長と駆逐艦「雷」の救助活動を自伝『マイ・ラッキーライフ』に書き記し、1996年に出版した。
 「自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。1日として彼の事を忘れた事はありません」
 工藤俊作は、昭和54年1月12日で永眠した。
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 3月1日 バタビヤ沖海戦。日本海護衛艦隊17隻、連合国軍艦隊3隻。
 被害、掃海艇1隻、輸送船1隻、沈没。輸送船3隻大破。
 アメリカ海軍重巡洋艦「ヒューストン」、オーストラリア海軍経巡洋艦「パース」、オランダ海軍駆逐艦、撃沈。
 日本海軍艦艇は、救助できる敵兵を助けた。
 救助された人数は、「ヒューストン」の368人と「パース」の329人であった。
 日本軍人は、敵兵を命の危険を顧みず、戦闘に支障をきたす恐れがある事を承知で、救助して献身的に看護したが、誰もその事を自慢せず沈黙を守って死んでいった。
 日本軍人は、戦場に取り残されていた負傷した敵兵を助ける事は、日本民族の心として「当然の事」として行動していた。
 サムライは、快楽的な無益な殺生はしなかった。
 日本軍人は、目的のない無駄な殺戮をしなかった。
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 連合国兵士は、戦時国際法に従い、捕虜となった以上は反抗も抵抗もせず日本軍兵士の指示に従った。
 日本軍兵士も、連合国兵士捕虜が戦時国際法を遵守し、暴動も反乱も起こさず柔順に指示に従う事を知っていた。
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 1942年3月9日 ジャワ島攻防戦。バンドン要塞のオランダ軍主力約8万人は、日本軍一個大隊700人の1週間にわたる猛攻に耐えられなくなって降伏した。
 現地司令官は、オランダ軍のF・ティウォン大佐であった。
 日本軍は、約10日で、抵抗らしい抵抗も受けず蘭印攻略を完了した。
 インドネシアのオランダ・連合軍は降伏した。
 物資不足に苦しむ日本軍は、シンガポールでイギリス軍10万人、インドネシアでオランダ軍8万人、フィリピンでアメリカ軍3万人、全ての前線を加えれば推定25万人前後の捕虜を抱えていた。
 連合軍捕虜達は、ジュネーブ条約に従って、ヨーロッパの捕虜収容所同様の人間的な捕虜収容所生活を要求した。
 つまり、日本軍兵士より豪華な食事と快適な宿舎を求めていた。
 東條英機首相は、到底受け入れられないとして拒否したが、出来る限りの配慮をする事を約束した。
 飲まず食わずで飢えと風土病に苦しみながら戦っている日本兵には、栄養豊富な食事をたらふく食べ消毒されたベットで快適な収容所生活をしている連合軍兵士捕虜への不満が燻っていた。
 軍部は、戦争の大義昭和天皇の名誉を守るべく、乏しい食糧や医薬品から割けるだけ割いて捕虜収容所に送り、餓死者や病死者を出さないように気を付けた。
 と同時に、不満を抱きながら戦闘を続ける日本兵を宥める為に、連合軍兵士捕虜達に日本軍兵士の目の前で重労働を課した。
 ジュネーブ条約は、捕虜となった将校に対する強制的重労働を禁止していた。
 こうした行為が捕虜虐待と認定され、多くの日本人がB級・C級戦争犯罪者として報復処刑された。
 日本兵の死は、戦死以上に餓死や病死が多かった。
 高松宮「割が合わない」
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 落下傘降下でセレベス島を制圧した堀内豊秋大佐は、BC級戦犯として処刑された。
 弁護士は、罪もないのになぜ死刑にするのかと問うた。
 裁判官であるティウォン大佐は、「なぜなら彼は日本人だからだ」と答えた。
 高松宮は、オランダのユリアナ女王に助命を嘆願した。
 だが、ユリアナ女王は無視した。
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 日本軍は、オランダの軍人約4万人と民間人約9万人を収容所に収容した。
 抑留施設に収容されたのは白人だけで、オランダ人男性が現地の女性に産ませた混血児(ハーフカス)は収容されなかった。
 R・カウスブルック「虐待と感じる半分は黄色い曲がり脚の猿に指図される白人意識にあった」(『西欧の植民地喪失と日本』)
 白人は、白人を全力で保護したが、混血児は見捨てられた。
 日本人の軍人や軍属が相手にしたのは、白人女性ではなくハーフカス女性であった。
 ハーフカス女性と日本人男性は、恋に陥り、結婚したり同棲した。
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 戦争は始まったばかりで、進撃する日本軍にとって後方の兵站基地の安全確保が急務であった。
 占領地に兵士を割くゆとりがなかった為に、少数の軍人と行財政を行う軍属を残して軍政を敷いた。
 日本軍は、インドネシア独立派の協力を得て蘭印を占領し、監獄や流刑地政治犯を解放した。
 原住民の反感を買い連合軍に内通して反日活動を起こさない為に、懐柔策を採った。
 先ず、軍政を行う為に公用語として日本語を教えたが、民族としての共通語としてインドネシア語の普及に努めた。
 日本人は、インドネシア人などアジア人に対し、白人は非白人に負ける事があることを知らせる為に、オランダ総督官邸に日章旗「日の丸」を掲げ、オランダ人をインドネシア人同様に配給の列に並ばせた。
 オランダ植民地支配に協力して搾取し、インドシナ人から賄賂を取り、インドネシア経済を支配して暴利を得ていた華僑に対しては、一部の私財を半強制的に社会に還元させた。
 インドネシア人同様に貧しい環境で育った日本人は、都市部の金持ちへの敵意から、金持ちは奉仕として私財の一部を貧しい民衆の為に使うべきであるとして強要した。
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 裕福な生活を享受していた華僑や華人は、表面的には和やかに日本軍の要請を受け入れて私財の一部を提供したが、内面的では日本軍への憎悪をたぎらせて反日として連合軍に内通した。
 所詮、華人・華僑には、根無し草として、利益を上げる事を優先して地元への愛着はなく、地元人への親近感もなかった。
 中国人の客家の強みとは、ユダヤ人商人同様に其処にある。
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 オランダは、愚民化政策と民族分断政策で、共通言語を禁止して320種以上の部族言語のまま放置し、島から島への自由な移動を禁止し、一切の集会や路上で3人で立ち話も禁止して、禁止を犯す者は「反逆罪」として処罰していた。
 キリスト教的白人至上主義社会では、非キリスト教非白人は獣として扱われ、奴隷的に使役されていた。
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 ジャワ派遣軍司令官原田熊吉中将は、インドネシアを独立国家として運営するには少なくとも10万人の知識人が必要であるとして、大本営に莫大な資金と有能な専門家の派遣を要請した。
 東條内閣は、日本軍の補助兵力とする為に、インドネシア防衛義勇軍結成と合わせて臨時軍事予算を付けた。
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 今村均中将は、戦争遂行の為にこそインドネシア人との良好な関係を築くべきであるとして、強圧方針を唱える軍政担当者を説得した。
 日本の方針は、八紘一宇に基ずく、人類みな家族・兄弟という大家族主義であった。
 布告第一号
 1,日本人とインドネシア人は同祖同族である。
 2,日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする。
 3,同一家族、同胞主義に則って軍政を実施する。
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 日本軍は、オランダ植民地インドネシアを独立派の協力を得て占領し、刑務所に収監されている独立派を解放して軍政を敷いた。
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 スカルノらは、軍国日本を真似て国政としての近代的議会政治から庶民生活としての青年団隣組まで、国家建設と運営の知識を日本から学んだ。
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 日本軍は、独立国家建設支援の為に、軍隊組織と同時に政治組織と民間組織の形成に全面協力した。
 教育水準を上げる為に、初等教育を奨励し、さらに官史養成学校、師範学校、農林・商業・工業・商船の各種専門学校を開校し、男性だけではなく女性にまで教育を受ける自由をあたえた。
 共通言語として、インドネシア語の普及に努めた。
 同時に、日本語も教えた。
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 マラリアコレラそして風土病を克服する為に、医学や衛生学の学校を開校し、主要な島に衛生研究所を開設した。
 軍部は、要請のあった日本人専門家を各施設に派遣して栄養及ぶ衛生の指導や健康管理を行い、インドネシア人達を感染症などの病魔から助けた。
 3年半の日本軍政下で、10万人以上が近代的教育を受けた。
 インドネシア人達は、日本軍国主義の日本人教師から自主独立や自由を学んだ。
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 日本軍は、「祖国の独立と自由は自分で武器を取って戦って手にすべきである」との原則から、インドネシア義勇軍を組織して約3万人に日本軍隊式軍事教練を施した。
 オランダが再占領してきたときに、祖国独立に為の戦争が出来るように希望する少年少女にも容赦なく厳しい訓練を行った。
 日本軍は、愛国心と忠誠心と奉仕の精神で、死を恐れず、民族は団結し共に武器を取って戦うというサムライ的日本精神を叩き込んだ。
 独立派は、日本軍からムルテガ(独立)精神を学び、朝鮮人とは違って植民地解放の為の激しい軍事訓練を我慢して受けた。
 日本軍は、インドネシア占領政策としてインドネシア人の武装化を決定したが、大戦中である為に必要数の武器弾薬を渡せなかった。
 如何に苦戦し敗走を続けても、軍命令としてインドネシア義勇軍を日本の為の戦争に動員す事はなかった。
 だが。泰緬鉄道建設の為に多くの労務者をビルマに送って死に追い遣った。
 ズルキフリ・ルビス「日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれた事です。我々と苦楽を共にし、農作業や各種技術の初歩を教えてくれ、軍事訓練まで施してくれた」
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 軍政で最も神経を使ったのは、宗教政策であった。
 原則として、信仰の自由を認めた。
 宗教を敵に回すと手こずし、国際世論から激しい抗議を受ける事を、歴史の教訓として知っていた。
 日本人が行く所には必ず神社を創建したが、参拝は儀礼的な礼拝だけで信仰を強要するものではなく、当然布教活動はなかった。
 祖先神・氏神の人神信仰には、布教して他人に信仰を強制する事はありえない。
 国家神道とは、宗教ではなかった。
 布教活動を行ったのは、従軍僧である仏教僧であった。
 オランダが支配階級だけ許していたキリスト教はもちろん、被支配階級である民衆の間で広く信仰されていたイスラム教も平等に尊重し、どの宗教を信仰するも本人の自由とした。
 日本軍は占領地で、信仰の自由を認め、宗教弾圧を行わなかった。
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 ズルキフリ・ルビス(1990年12月のインタビュー)「(日本人へのメッセージ)当時の日本人はトータルで見れば、軍人が最も真面目熱心で、インドネシア人の心をとらえました。……所が、現在のインドネシアには、確かに沢山の日本商品が氾濫しています、優秀な日本の商社員もたくさん来ています。しかし彼らは、華僑と結託して金儲けに奔走するだけで、インドネシア人との間に心の交流がありません。海外で働く日本人に心の教育をして欲しいと思います」
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 現代日本人が東南アジアに出掛けて地元の人間と親しむのは、教養のある裕福な華僑か華人あって、教育が受けられない貧しい純粋な非中国系地元住民ではない。
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 アラムシャ「日本軍の与えた良い点は、軍事に関する科学と武器の使用方法を教えてくれた事、またアジア人に『ヨーロッパに負けないぞ』という敢闘精神を植え付けてくれた事です。この二つから得られたものは、勇気と自信でした」
 ハラハップ「オランダ時代の350年間は、我々インドネシア民族は何度も叛乱を起こしたが、全て失敗し、一度も独立に結びつかなかった。その理由は、軍事知識をマスターした国民がいなかったし、中学校以上で軍事教練をしなかったからである。PETAの3万8,000人は、対オランダ独立戦争の主力であった。日本軍のジャワ進駐がなかったら独立は非常に遅れていたに違いない」
 民族主義者シャフリル「植民地行政にあたっている経験豊かな年配のインドネシア人官吏は、自分達の上に座った日本の政治的音痴達に対しては、ただ軽蔑の念を覚えるだけであった。……このような野蛮人に今までの植民地権力の代わりができるのだとしたら、そのような権力がなぜ必要だったのか? 代わりにどうして政治を自分達の手に握らなかったのか?」
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 1942年3月2日夕刻 「ゼロ戦」と「隼」を操縦する加藤建夫少佐は、お互いを敵機と誤認して空中戦を行った。
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 軍部は、優勢の間は独立を目指し学校教育でインドネシア語の普及に努めインフラ整備に力を入れたが、連合軍の攻勢で劣勢に立たされるや、戦争勝利を最優先として軍政を制限しインドネシア人を労務者として過酷な鉄道敷設現場や鉱山に狩り出した。
 某軍政関係者の回顧録「場所により重労働、労務傷害の多発など労働条件の悪化が伴った」
 インドネシア人の多くは、他民族宥和の非戦争的軍政から戦争勝利の占領政策に切り替えを裏切り行為として反発し、戦争協力として重労働を強制した事に対して反感を持ち反日活動を始めた。
 高校2年用歴史教科書「多くの人が労務者になり、飢えや病気で犠牲になった」「ファシスト日本は彼らの文化を植え付けようとした。太陽の昇る方角へ敬意を払い、天皇に敬意を示させた」
 特にイスラム教徒は、現人神とされた昭和天皇を崇拝する事は自分の信仰にに反する冒涜行為として反発した。
 宗教意識の薄い日本人は、イスラム教などの異文化や地元住民の生活習慣に無理解な為に、日本人のように規律を持って自分の仕事に打ち込まない者を怠け者と見なして殴る蹴るの制裁を加えた。
 インドネシア人達は、暴力を持って強制労働させる日本人に対する敵意を増した。
 スマトラ島のプカンバル労働英雄公園の看板「鉄道建設に10万人が携わり、日本軍が与えた苦痛に苦しんだ」
 日本軍が他民族宥和を捨て戦争勝利を優先してインドネシアを犠牲にした為に、インドネシア人の間に反日感情が根付いた。
 戦争勝利を優先して反日感情を生み出したという現象は、ビルマでも、ベトナムでも、フィリピンでも、同じであった。
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 昭和17年11月 ラバウルに第18軍が新設され、安達二十三中将が司令官となる。
 昭和18年初頭 第18軍は、東部ニューギニアのラエ・サラモア地区強化の為にワウを攻撃するべく第51師団を投入した。
 海軍第二特別根拠地隊は、ウエワクに上陸した。
 第20、41師団は、無傷でウエワクに上陸した。
 3月 81号作戦。ダンピールの悲劇。
 東部ニューギニアへの輸送は途絶え、援軍は望めなくなった。
 ニューギニア戦線は、「喰うに食なく、撃つに彈ない地獄の戦場」となっていた。
 孤立無援となった日本軍は、生きる望みのないジャングルで、祖国日本と愛する家族を守る為に最後の力を振り絞り、飢餓に耐えマラリアに苦しみながら幽鬼のように東へ敗走しながら、そして圧倒的な兵力を持つ連合軍と戦った。
 日本軍兵士にとって、現地民は命綱であった。
 連合軍は、進撃を優先して、身動きできず倒れている日本軍兵士を捕虜を取らず見捨て、日本軍野戦病院を攻撃し戦勝病患者を火炎放射器で生きたまま焼き殺した。
 連合軍は、負傷した味方の兵士を保護したが、日本軍兵士負傷者は穴の中に落として生き埋めにして処分した。
 現地民は、長年、宗教的人種差別の白人から虐げられ搾取されていた怨念から日本人に共感し、日本軍に協力したり、味方しなくても敵対せず中立を保っていた。
 さらに、戦死した日本兵だけではなく敵のオーストラリア兵士をも区別なく丁重に埋葬する日本軍の行為に感動していた。
 劣勢で戦う日本軍は、地元民が味方してくれなくとも敵になる事を恐れていた為に、地元民を刺激しないように放置し、攻撃はしなかったし、強姦し殺害などするはずがなかった。
 ウエワク一帯を支配するカラオ大酋長は、白人と戦う日本軍兵士の勇気に感動して終戦まで日本軍に協力した。
 だが、連合軍に協力する地元民は土民兵として、オーストラリア軍の命令で夜陰に紛れて日本軍陣地を奇襲し、音もなく近づいて油断している日本兵を殺害していた。
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 1944年 インドネシアの日本軍は、バンダ・アチェ日本海軍渋谷部隊の慰霊碑と現地人労務者の為の慰霊碑を建立した。
 2月 スマラン事件(白馬事件)。日本人将兵慰安婦経営者らは、ジャワ島に収容されていたオランダ人女性十数人を強制連行して売春をさせた。
 収容所のオランダ人達は、オランダ人女性が連行された為に暴動を起こした。
 日本軍は、慰安所において軍紀違反があったとして、2〜ヶ月で4ヶ所の慰安所を閉鎖し、責任者を処罰した。
 日本軍は、私兵的な中国軍とは違って、天皇の軍隊・皇軍としての名誉を守る必要がった。
 連合軍の攻勢によって各地で玉砕し始めていた為に、後方で暴動を起こす事は避けねばならないし、インドネシア仏印の住民の協力をえる必要があった。
 日本軍は、反日運動を武力を用いずに鎮め反感を買わないようにする為に、規律を厳しくし徹底し、日本軍将兵の行動を取り締まった。
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 1948年2月 バタビア臨時軍法会議は、スマラン強姦事件の実行犯と関係者を裁き、首謀者として少佐1名を処刑し、11人の将校と慰安所経営の日本人軍属を共犯者として禁固刑を言い渡した。
 この局地的強姦事件は国家犯罪・天皇犯罪である従軍慰安婦問題の一例とされ、2007年にオランダ下院は日本政府に対して謝罪と賠償を求める決議を全会一致で可決した。
 白人を白馬にたとえた。
 1994年 オランダ政府は、政府所蔵文書を調査し、約300人のオランダ人女性が慰安所で労働させられ、内65人が強制売春を強いられたとの調査報告を発表した。
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 1944年9月7日 小磯国昭内閣は、大東亜会議の決議に基ずく、インドネシアの独立を決定した。
 小磯国昭は、A級戦犯である。
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 日本軍は東部ニューギニア戦線に約16万人の兵員を投入したが、生還者は約1万人だけであった。 
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 昭和19年秋 ウエワク方面の地区司令官川久保鎮馬中将は、解散命令と「自活せよ」との命令を受け取った。
 川久保中将は、柴田幸雄らに地元住民への宣撫工作を命じた。
 「私たちは今カナカ達の貴重な食糧を分けて頂いて生きているのだよ。その恩返しに何ができるのかね。私は強いカナカになる力を与えてやる事だと思う。強いカナカとは団結と教育によってもたらされるものだと思う」
 日本軍は、パプアニューギニアには800近い言語があった為に、ピジン語を共通語として教育を行い、「国家」というものを教えた。
 日本軍による学校は、、コープ、カラウ、ムリックの3ヶ所に開校していた。
 12月 チンブンケ事件。
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 1945年1月〜6月 ボルネオ島。日本軍は、連合軍の上陸に備えて、サンダカン捕虜収容所のオーストラリア人とイギリス人の捕虜約2,700人をラナウ捕虜収容所に移動させる事にした。
 サンダカンからラナウまでの距離は約260キロで、短期間で行う必要があった。
 日本軍には、食料や医薬品の補給がなく、有ったとしても大半は前線に送られ捕虜収容所にはほんの僅かしか届けられなかった。
 日本軍兵士の多くが餓死や病死で被害を拡大している時に、敵軍捕虜に回す余裕は皆無であった。
 連合軍兵士捕虜達は、栄養失調と病気で体力が弱っている所、数日分の食べ物だけを持たされて「死の行進」をさせられた。
 移動日数は約26日間。
 多くの連合軍兵士捕虜は、体力が尽きて倒れ込んだ。
 日本軍は、脱落した敵軍捕虜を介抱せず、その場で射殺するか置き去りにした。
 オーストリア人で、この死の行進から生還した者は6人だけと言われてる。
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 昭和20年8月9日 ルニキ事件。
 ニューギニア方面の日本軍は、毒ガスなどの化学兵器を持ってはいなかった。
 日本軍の汚点として、人肉食事件があったとされている。
 戦後の戦犯裁判は、オーストラリア軍側の調査で30人の日本兵が処刑された。


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