🛲5」─2─イギリスの植民地インド。東条英機と藤原岩市少佐と独立急進派チャンドラ・ボース。~No.33No.34No.35 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本はアジアの希望の光で、昭和天皇は尊敬すべき偉大な君主である。
   ・   ・   ・   
 インドでは、靖国神社に祀られているA級戦犯東條英機は独立を支援してくれた感謝すべき英雄である。
 昭和天皇は、敬愛すべき偉大な君主である。
   ・   ・   ・   
 ガンジー「真の歴史は沈黙の中にある」
 本当の歴史を語っているのは、生きている者ではなく、死んでいる者である。
   ・   ・   ・   
 キップリング「東(インド)と西(イギリス)は宇宙の終わるまで永遠に交わらない」
   ・   ・   ・   
 日本人は、儒教国家中国よりも仏教発祥のインドに特別な感情を抱いていた。
 右翼・軍国主義者は、独立派インド人を支援していた。
 インド人は、イギリスの植民地として苦しみ、白人キリスト教からの独立を切望していた。
 独立派インド人の一部は、アジアで唯一自主独立を自力で守り白人大国と戦う孤独な軍国日本に期待を寄せていた。
 植民地で苦しめられていたアジア人は、軍国日本の進軍を心待ちに待っていた。
 植民地支配で利益を得ていたアジア人は、白人植民地支配者に協力して侵略してくる日本軍と戦った。
 軍国日本は、不戦条約に従い自衛行為を宣言し、次にアジアの解放を大義として侵略戦争を始めた。
   ・   ・   ・   
 インド人など多くのアジア人は、日露戦争で日本かロシア帝国に勝利した事に感動し、有色人種でも白人に勝てるという勇気を持った。
 その象徴が、日本海海戦である。
 (韓国は、2000年代に入るや、「日本海」を「東海」と改称し、「日本海海戦」を「東海海戦」と言い改めようとしている。一部の国は、韓国の主張に賛意を表明している。)
 欧米列強は、日露戦争が白人による世界支配崩壊の序章であるという歴史的事実が理解できず、依然として略奪型植民地支配を続けた。
 植民地支配されているアジア諸民族の独立派は、軍国日本の軍事支援で祖国独立を勝ち取る為に、日本の右翼や軍備に援助を求めた。
 アジアの植民地独立派は、日本天皇と軍部に期待した。
 抗日中国や反日朝鮮は、アジアの独立派とは逆に、植民地支配を維持しようとする欧米列強やキリスト教を布教させようとするキリスト教会の支援を受けて、天皇制度と軍国日本を打倒する為に暗躍していた。
 ラダビノート・パール「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦って遂に勝利を得たという報道は、我々の心を揺さぶった。私達は、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日の様に旗行列や提灯行列に参加した事を記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、戦慄く様な思いに胸が一杯であった。私はインドの独立について思いをいたす様になった」
   ・   ・   ・   
 パンディット夫人(ネルーの妹。元国連総長)「日本を辱めようとする内外の歴史家や自虐史観に立つ人達は、これまで太平洋戦争がもたらしたアジアの民族主義へも影響をことさら無視し続け、あるいは『過小評価』してきました」
   ・   ・   ・   
 ガンジー「貴方がする事のほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうした事をするのは世界を変える為ではなく、世界によって自分が変えられない様にする為である」
   ・   ・   ・   
 軍国日本の侵略とインドそしてイギリス。チャンドラ・ボース
 ガンディーは政治家で、チャンドラ・ボースは革命家であった。
 インドは、白人支配に挑戦して参戦した軍国日本に驚き、イギリス軍を撃破して快進撃する日本軍に感嘆した。
 イギリスは、駐屯する連合軍への物資や食糧の調達を命じた為に、インドの物価は高騰し、庶民の生活が苦しくなって不満が高まった。
 日本軍に敗れインドに敗走してくるイギリス軍兵士が増えるや、インドで反英独立気運が高まった。 
 1937年 インド各州の自治を認める州議会選挙我行われ、国民会議派が勝利を収めた。
 独立運動勢力は、議会が開会されるや、イギリスとの妥協で自治権の拡大して独立を勝ち取るべく、積極的独立運動方針を放棄した。
 さらに。ヒンドゥー教徒は多数派で、イスラムは少数派となり、両派は対立した。
 ガンジーは、国民会議派を分裂させないようにしながら、インドの独立の為にイギリスと交渉していた。
 1939年9月 第二次世界大戦が勃発。
 ガンジー国民会議派は、第一次世界大戦の苦い経験かから、イギリスの甘い言葉に騙されてファシストとの戦争に協力する気はなかった。
 イギリスは、戦争に勝っても負けても衰退するからそれまで動かないという、時期尚早論を唱えた。
   ・   ・   ・   
 1941年 チャンドラ・ボースは、ドイツ軍に追い詰められたイギリスは敗北すると分析し、ヒトラーの支援を求める為にインドを密かに脱出した。
 人種差別主義者のヒトラーは、非白人の日本人もインド人も信用せず、チャンドラ・ボース独立運動を支援する気はなかった。
 ヒトラーは、内心、ソ連を攻撃する為にイギリスとの戦争を取り止め、アメリカとの戦争を避けるようにドイツ軍に厳命していた。
 戦争を、ファシズムと自由・民主主義の戦いではなく、ファシスト共産主義の戦争にしたかった。
 8月 大西洋憲章
 アメリカとイギリスは、白色人種の民族主義を認めたが、白人植民地の非白人民族の自治権を認めなかった。
 チャーチルは、インドの独立を認める気はなかった。
 9月 藤原岩市少佐は、マレー方面で情報戦・謀略戦を行う為にバンコクに赴任した。
 インド独立に重要な働きをした、藤原機関(F機関)の誕生である。
藤原機関は、シンガポール及びマレー方面のイギリス軍情報を得る為にインド人兵士に接近した。
 藤原岩市は、密かに、イギリス軍内のインド人兵士に同じアジア人としての連帯を訴え、反英運動を行うインド独立派への接触を試みた。
 独立派マレー人は、祖国をイギリスの植民地から解放する為に、イギリスの監視の目を盗んで日本軍に協力した。
 東南アジアの富裕層として経済を独占していた華人・華僑は、軍国日本からアジアを守る為に反日抵抗団体を結成して武装した。
 12月8日 イギリス軍は、マレーからシンガポールにかけて堅固の防衛陣地を重層に築き、約10万人(イギリス兵士5万人、インド兵士5万人)の大兵力を配置していた。
 イギリス軍内の人種差別は厳格で、兵を率いる士官の大半がイギリス人で、インド人は下士官以下でイギリス人の弾よけに使われていた。
 これまで。インド人兵士は、イギリス国王とイギリス国家に忠誠を誓い、イギリス軍の一員として勇猛果敢に戦ってきた。
 インド人は、朝鮮人に比べて死を恐れない勇士であった。
 軍事専門家は、兵力と装備に劣る日本軍がまともに戦えば日本軍は敗北すると分析していた。
 藤原岩市ら機関員は、イギリス軍陣地を無力化する為に、インド兵士に対して戦争が始まれば投降する様に呼びかけた。
 イギリス軍陣地にいたインド兵士は、日本軍が進撃してくるや、戦わず武器を置いて続々と降伏した。
 イギリス軍は、自軍のインド兵士が戦闘放棄して日本軍に投降した為に、陣地を放棄してシンガポールに敗走した。
 残って日本軍と戦うのは、中国人兵士や反日華僑・華人市民団体の有志のみであった。
 日本軍は、「アジアを白人植民地支配から解放する」という大義を掲げて、インド人兵士を捕虜ではなく友人として暖かく迎え入れ、イギリス兵士捕虜と分けて捕虜収容所に収容した。
 藤原岩市は、インド独立の為の軍隊をつくるようインド兵士捕虜に訴えた。
 同じアジア人でも、華僑・華人反日として徹底抗戦したが、インド人やマレー人は親日として日本軍に協力した。
 12月31日 イギリス・インド軍(英印)軍下級将校モン・シンは、日本軍の捕虜になっているインド兵士を集めてインド国民軍(INA)を創設した。
 藤原機関の工作によって、イギリス軍内のインド兵士達の大量降伏で防衛線は崩壊し、イギリス軍は防戦でき陣地を放棄してシンガポールへと退却した。
 イギリス軍司令部は、日本軍に駆け込んで降伏するインド人兵士の急増から、陣地内のインド兵士への不信を募らせシンガポール防衛は不可能と判断した。
 如何なる強大な国家であれ、如何に勇猛果敢な軍隊であれ、内部の裏切り、敵への内通者、私的利益の為の利敵行為者によって、いとも簡単に崩壊し滅亡する。
   ・   ・   ・   
 マレー半島のイギリス植民地で暮らしていた華人・華僑は、過酷な植民地支配に協力する事で特権的地位を与えられ、富の分配を得て裕福な生活をしていた。
 イギリス軍は、日本軍の侵略に備えて、華人・華僑からなる遊撃隊を組織した。
 遊撃隊は、ゲリラとなって日本軍を襲い、シンガポール陥落後はパルチザンとなってシンガポール市内で破壊活動を行っていた。
 日本軍は、各地で掃討戦を行い、逮捕したその場で処刑した。
   ・   ・   ・  
 戦後。イギリスは、B級C級戦犯として、チャンギ刑務所で137人を処刑した。
   ・   ・   ・   
 1942年2月15日 シンガポール陥落。イギリス軍にいたインド兵約4万5,000人は、日本軍の捕虜となった。
 日本軍は、ビルマ侵攻の為にインド兵捕虜を味方に付ける事にし、インド人に信用がある藤原岩市少佐に説得を命じた。
 藤原岩市少佐は、ファラ・パーク競技場に収容されているインド兵捕虜の前で演説を行った。
 藤原岩市「日本軍は、インド兵諸君を捕虜という概念ではみていない。日本軍は、インド兵士諸君を兄弟の情愛をもって見ているのである。……日本軍は、インド兵士諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いの為に忠誠を誓い、INAに参加するにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである」
 インド兵士捕虜の多くは、藤原岩市の人格を信用しその呼びかけに応えてインド国民軍に参加した。
 シンガポールインド国民軍記念碑「英国からインドを解放する為、日本軍の支援を受けて創設された」
 陸軍は、対印工作を強化するべく予算と人員を増やし、F機関長に藤原岩市少佐に代えて岩畔豪雄大佐を送り込んだ。
 岩畔豪雄大佐は、INAを日本軍の下部組織として日本軍の侵攻作戦に組み込もうとした反発された為に、シン司令官を罷免した。
 東条英機首相ら陸軍首脳部は、対印工作の中心に日本在住のラスビハリ・ボースを考えていた為に、「チャンドラ・ボーズをINAの指揮官にすべ」しという藤原岩市の意見具申を退けた。
 机上で作戦を立案するエリート軍人官僚は、インド、ビルマ、マレーなどの現地の事情を無視し、インド兵士を消耗品と考え使い捨てにできる便利な駒として作戦に組み込んでいた。
 インド兵士は、日本軍の手のひらを返した様な傲慢な態度に嫌気をさして非協力的となった。
 日本軍とINAの関係は急速に悪化した。
 日本人の中にもいろんな日本人がいた。
 アジア人など他人の為に進んで犠牲になろうとした日本人がいれば、自分の為にアジア人など他人を踏みつけにした日本人もいた。
 軍国日本の「アジアを解放する」という理想がまやかしと知ったインド人やマレー人達は、日本軍の情報をイギリス軍に流し始めた。

 4月29日 インド国民会議派は、アラハバートで会議を開き、インドはイギリスの戦争に全面的に協力する事を拒否するという執行委員会が作成した草案を可決した。「日本とインドとの間に闘争はない」「インド人は、日本人に敵愾心はない」「インドが戦争に参戦しているがインド代表は同意していない」
 ネルーは、現実主義から、イギリスに協力しないと軍国日本に利するのみとして反対した。
 ガンディーは、親日的発言として、インドの独立、イギリス軍の撤退、インド国内での日英遼軍の戦闘でイギリス軍に協力しないという提案をし、アメリカ軍の駐留に反対した。
 6月 ミッドウェー海戦
 7月18日 ガンディーは、平和主義から、全ての日本人における戦争は侵略であるとみなし、枢軸国との同盟を批判した。
 8月8日 インド国民会議派は、日本軍の猛攻で敗走するイギリス軍を目の当たりにし、ベルリンから呼びかけるチャンドラ・ボースの「今が独立のチャンス」というラジオ放送を受けて行動を起こして、「イギリスは、インドから撤退せよ」との決議を行った。
 ガンジーは、党員に向かって「独立か、死か」の一つを選べと訴えた。
 独立を求めるインド国民の熱気は、インド全土に広がった。
 日本軍の快進撃という情報が流れるや、インド国内での独立運動が否が応でも盛り上がった。
 8月9日 インド国民会議派は、ガンディーの名で、イギリスに対して即時独立要求を突き付け、受け入れられれば連合国側に味方するが、拒否されれば断固非暴力大衆闘争を始めると脅した。
 インド総督は、インド独立運動が巻き起こる事は日本との戦争に悪影響を及ぼすと恐れて、独立派への大弾圧を命じた。
 ガンジーはもとより、後にジャワハルラル(賢者)と呼ばれるネルーやアザット・バテルら主要幹部が根刮ぎ逮捕された。
 ガンジーは、非暴力無抵抗主義で逮捕され、2年間の拘留生活が始まった。
 国民会議派は、イギリスの弾圧政策に抗議する為に、全国民に不服従運動を支持した。
 ニューデリーカルカッタボンベイなど主要都市や港湾都市で、商店は店を閉め、学生はデモを行い大混乱に陥った。
 日本軍占領下で。ビバリー・ボースやモハンシン大尉らは、抗議デモを指揮していたが指導力不足を実感し、ベルリンのチャンドラ・ボースに軍国日本に来るように懇願した。
チャンドラ・ボースは、ヒトラーゲルマン人至上主義で有色人種を差別している事に嫌気をさし、ナチス・ドイツを期待してもインド独立は不可能と見切りを付けて日本行きを決断した。
 インド独立への、偉大なる一歩であった。
 だが。軍国日本の国力では、連合国はもちろんイギリスにさえ勝てないであろうと考えていた。
 9月 日本軍は、インド国内の独立運動を利用する為に、東南アジア各地に住むインド人約200万人に対して反英大会開催に協力した。
 日本の右翼の支援を受けていたビハリー・ボースは、日本軍の協力を得て、各地でインド独立大会を開き、在外インド人の支持を広げていた。 
   ・   ・   ・   
 1943年 軍部は、戦局悪化を打開する為に、INAとの関係を修復すべくナチス・ドイツにいたチャンドラ・ボーズをINAの指導者に招聘する事を決めた。
 4月28日 マダガスカル沖合で。チャンドラ・ボーズは、日本に向かう為にドイツ海軍のUボートから日本海軍の伊号潜水艦に乗り移った。
 5月16日 チャンドラ・ボーズは、軍国日本の支援を受けるべく東京に到着した。
 6月10日 東条英機首相は、チャンドラ・ボーズと会談し、その人格・見識・知恵に魅了され、軍国日本はインド独立に全面協力する事を約束した。
 悪名高いインパール作戦は、東条英機の心変わりで動き始めた。
 6月16日 東条英機首相は、チャンドラ・ボーズが傍聴する帝国議会で、戦争完勝によってアジアを白人支配から解放するとの施政方針演説を行った。
 「帝国はインド民衆の敵たる米英の勢力を、インドより駆逐し、真に独立インドの完成の為あらゆる手段を尽くすき牢固たる決意を持っている」  
 立憲君主制と国民選挙による議会民主主義を建前とする帝国議会は、東条英機首相のインド独立支援宣言を戦争の大義として容認した。
 国民に選ばれた代議士・政治家は、インド独立の為に日本人を犠牲にするという東条英機首相の決意と軍事行動を認めた。
 インパール作戦の悲惨の責任は、軍部だけではなく議会にもある。
 6月19日 帝国ホテルで。チャンドラ・ボースは、東條英機首相からインド独立の為に無条件で全面的援助を行うという確約を得た事を発表した。
 だが。独立インドは自主独立国としてプライドを持ち、軍国日本の属国あるいは保護国にはならないし、軍国日本に迎合はせず、独自の民族国家を建国するとの決意を表明した。
 ハーバード大学教授スガタ「ボースにとって意味を持っていたのは、東南アジアやその他の欧米植民地支配を根底から覆した事であった」
 6月27日 チャンドラ・ボースは、日本軍の軍用機でシンガポール到着した。
 出迎えたのは、F機関の藤原岩市機関長とインド国民軍のモハンシン大尉であった。
 7月4日 チャンドラ・ボーズは、昭南(日本名シンガポール)に飛んで、ラスビハリ・ボースからインド独立連盟指導者の地位の委譲を受けた。
 7月5日 チャンドラ・ボーズは、INA最高司令官に就任し、インド独立の指導者としてシンガポールでINAの大閲兵分列式に臨んだ。
 チャンドラ・ボーズは、マハトマ・ガンジーの非暴力・無抵抗主義による平和的な話し合いによるインド独立ではなく、暴力で祖国を解放するという独立戦争を目指した。
 インドと韓国・北朝鮮の違いは、ここにある。
 10月 チャンドラ・ボーズは、日本軍支配地で樹立した自由インド仮政府の首班に選出されるや、英米に宣戦布告した。
 国際情勢に精通していたチャンドラ・ボーズは、国力の脆弱な軍国日本が世界戦争で戦争に勝てない事を知っていたが、軍国日本が敗北する前に独立して諸外国に承認されたとうい既成事実をつくる事が最大の眼目であった。 
 その為にも、日本軍をインド侵攻作戦・インパール作戦を無理承知で強行させる必要があった。
 INAは、日本軍をインドに誘い込む為の呼び水にするべく、インド防衛の任に当たっているイギリス軍内のインド兵に対して寝返る様に勧誘を行っていた。
 イギリス軍は、インド人兵士のINAへの投降はインド防衛を弱体化さ、植民地インドを失う恐れがあるとして警戒した。
 インド人は、植民地支配を続けるイギリスに協力するか、インド独立を掲げる自由インド仮政府・INAに参加するか、二者択一を迫られていた。
 永年植民地支配されてきたインド人は、小国・軍国日本が幾ら頑張っても大国・イギリスには勝てない事は知っていた為に、インド独立の為にINAを支援しても軍国日本に協力する気はなかった。
 10月21日 チャンドラ・ポースは、自由インド仮政府樹立を宣言し、主席・軍事・外務大臣を兼務してネタージ(総領)と呼ばれた。
 「インド独立政府は成功への諸条件を獲得した。いまや最終的闘争決行のみが残された問題である。それは国民軍がインド国境を越えて、デリーへの歴史的進撃に乗り出す時に始まり、独立旗がニュ−デリーの総督官邸の上に掲揚される時に終わる」
 現代のインド国会議事堂のメモリアル・ホールに、マハトマ・ガンジー、ジャワルラル・ネルーと共にネタージ・チャンドラ・ボースの遺影が掲げられている。
 チャンドラ・ボースは、インド国民軍(1万3,000人)を強化する為に、在外インド人やインド人兵士捕虜に参加をを呼びかけ、正規兵3万人、義勇軍2万人に増員した。武器弾薬は、日本軍からを受けた。
 女医のラクシュミは、新たに創設されたインド義勇軍女性部隊の隊長に就任した。
 インド国民軍は、チャンドラ・ボースの「チェロ・デリー(征け、デリーへ)」の呼びかけに奮い立ち、インドの独立の為に日本軍隊式の厳しい軍事教練に耐えた。
 チャンドラ・ボースは、日本軍に対してボンベイ上陸作戦を提案した。
 日本は、ナチス・ドイツとの戦闘区域に関する約束に拘ってインド上陸作戦案を黙殺した。
   ・   ・   ・   
 43年当時。 東インドで大凶作が発生し、飢餓地帯にビルマからコメを移送していたが、日本軍によってビルマを占領された為にそれが不可能となった。
 チャーチルは、インドの独立を認める意思はなく、戦争の勝利の為には如何なる犠牲も厭わなかった。
 インド総督府は、インド国内産業を民需から軍需に切り替え、インド農村で食料を兵糧として強制的に徴発していた。
 インド国内の食料が不足して価格が高騰し、貧困階級は食べ物を購入できなくなった。
 飢えたインド人は、食料収奪政策に激怒して、各地にある米穀配給所を襲撃した。
 インド総督府は、武力でインド人暴徒を鎮圧し、多くの犠牲者を出した。
 ベンガル地方の飢餓は深刻となり、300万人以上が餓死した。
   ・   ・   ・    
 10月23日 軍国日本は、自由インド仮政府を承認し、真に独立を勝ち取るまで全面支援する事を再約束した。
 自由インド仮政府は、軍国日本からの支援を得るが、インド独立が叶い正統政府になったあかつきには全てを返済すると約束した。
 プライド高いインド人は、他国からの支援は感謝し借金は必ず返済すると申し出た。
 10月24日 自由インド政府は、軍国日本に味方して米・英に宣戦布告した。
 チャンドラ・ボース「仮政府は、この自由の為に戦闘を開始遂行するのに必要な機関のみをもって構成される」
 インド人は、インド独立という「正義の戦争」を始めた。
 11月5日 日本政府は、アジアの解放を宣言するために大東亜会議を開催した。
 戦時中であった為に、軍国日本が全ての面で指導的立場をとった。
 一部のアジア人は、日本支配への反発から宗主国の軍隊が帰還する事を期待して連合軍に味方した。
 軍国日本は、侵略者として孤立化し始めた。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、アジア各地の住民が日本軍の侵略で覚醒し、日本に味方する事を恐れた。
   ・   ・   ・  
 ラジャ・ダト・ノンチック(マレーシア上院議員)「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。永い間眠っていた『自分達の祖国を自分達の国にしよう』という心を目覚めさてくれたのです」



   ・   ・   ・