🛲4」─2─アメリカの傀儡国家フィリピン。本間雅晴中将のコレヒドール攻略とバターン死の行進。~No.19No.20No.21 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アメリカ軍は、反米の独立派フィリピン人数十万人を残虐な方法で拷問し、陰惨は方法で虐殺していた。
 アメリカの宗教的人種差別主義者は、アジア地域で非白人の人権を認めず奴隷の如く酷使していた。
 自由と平等と博愛は、白人の独占的特権で有り、非白人には認められなかった。
 キリスト教会は、フィリピン人を半強制的に改宗させ、地元言語ではなく英語を教えた。
 キリスト教に改宗し、英語を身に付け、アメリカ化したフィリピン人を支配階級とした。
 民族宗教に拘り、英語を拒否し、アメリカ化を受け入れない民族主義者は、犯罪者として弾圧され、逮捕され、非人道的拷問を受け、そして処刑された。 
 フィリピンはアメリカ化すると共に、英語が公用語となり、キリスト教が国教化された。
 島々にあった部族語や土着信仰は、急速に消滅していった。
 英語を話すフィリピン人キリスト教徒は、アメリカから植民地支配の協力者として、天国のような快適な生活を与えられていた。
 キリスト教を嫌い英語を話せないフィリピン人は、アメリカから植民地の搾取される土民として、地獄のような悲惨な生活が強いられていた。
 キリスト教会は、絶対神の救済と死後の世界での永遠の命を信じて、白人支配を絶対神尊い摂理として享受し耐え忍んで生きるように説いていた。
 フィリピンは多様性を失い、アメリカ化で画一された。
 フィリピン人は、アメリカの熾烈な支配に苦しんでいた。
 明治以来。日本陸軍諜報部や右翼は、アジア主義を掲げて、反米独立派フィリピン人組織を支援していた。
 アメリカは、フィリピンの植民地支配を維持する為に、民族主義を徹底的に弾圧した。
 反米独立派フィリピン人は、アメリカの植民地支配から解放される為に、日本に期待し、アメリカ軍を攻撃する日本軍に協力していた。
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 独立派指導者のアギナルド将軍は、親日派であり、スペイン人と華僑の混血児でアメリカの植民地からの独立支援を日本に要請していた。
 白人ではないフィリピンの特権階級は、フィリピン人ではなく、スペイン人と華僑のハーフであった。
 後に大統領となるマニュエル・ロハスエルピディオ・キリノらも、スペイン人と華僑の混血児で、親米派反日派であった。
 軍国日本は、同じアジア人として、生粋のフィリピン人を支援した。
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 1565年 スペインは、「東洋の真珠」と言われたフィリピンを植民地として併呑し、土人である現地人を奴隷として使役し、搾取を始め、逆らえば捕らえて拷問し、命令に従わない者は処刑した。
 アンドレス・ブニファシオは、フィリピン独立の為に秘密結社「カティプナン」を結成し、独立戦争を開始した。
 フィリピン独立派は、スペイン植民地支配に対して大きな反乱だけで合計72回、4年半に一度の割合で大規模な蜂起を決行していた。
 スペインのフィリピン植民地総督は、反乱分子を国王に対する反逆者として大弾圧し、反乱分子に手を貸したり匿った者は反逆者として容赦なく虐殺した。
 西洋諸国に植民地にされたアジア・アフリカ地域の先住民は、例外なく、独立の為に熾烈な戦争を仕掛け数多くの犠牲者を出したが、奴隷として生き長らえるよりも自由民として死ぬ事を選んだ。
 戦争には、正義の戦争も正しい戦争も存在する。
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 1900年 アメリカの医師は、フィリピンで人体実験を行い、多数の囚人にペストを伝染させ研究を行った。
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*軍国日本とフィリピンそしてアメリカ。バターン死の行進
 アメリカ軍の日本殲滅最終兵器は、空飛ぶ要塞B17であった。
 B17は、最強の軍用機として撃墜されないという確信があった。
 1941年12月8日午前3時過ぎ マッカーサーは、マニラホテルの宿舎で側近からの緊急電話で真珠湾攻撃を知り、米軍極東軍司令部に急行した。
 極東航空軍司令官ブレリトン少将は、台湾の日本軍基地への先制攻撃を具申した。
 午前5時 陸軍極東航空軍司令官ルイス・ブレアント准将は、指令がない為に、マッカーサーに攻撃される前に先手を打って台湾の日本軍航空基地を強襲する提案を行った。
 クラーク航空基地では、B17爆撃機35機は出撃準備を急いでいた。
 アメリカ軍は、日本人は肉体的欠陥から戦闘機などの航空機を操縦できず、日本軍には台湾を飛び立ってフィリピンを空爆する爆撃機はないと、分析していた。
 よって、日本軍航空部隊の攻撃を警戒していなかった。
 マッカーサーは陸軍将校の本能として、日本軍の上陸に気をとられ、安全と信じた航空部隊の事には関心を示さなかった。
 アメリカ軍のフィリピン防衛計画「レインボー5」は、上陸して来る日本軍を水際で米比連合陸上部隊アメリカ陸軍航空部隊が共同作戦で撃退する。もし上陸され防衛戦を突破されたら、バターン半島に後退して防衛戦を敷き、6ヶ月間コレヒドール要塞に籠もって太平洋艦隊と救援部隊を待つと言うものであった。
 準備ができたB17は、離陸し、基地上空で出撃命令を待った。
 夜明け ブレアント准将は、再度、台湾爆撃を提案したが許可が得られなかった。
 昼過ぎ マッカーサーは、ようやく台湾爆撃を許可した。
 クラーク航空基地上空で待機していたB17は、燃料を補給する為に着陸し、3機は偵察に飛び立った。
 第11航空艦隊の攻撃機群190機(陸攻106機、零戦84機)の大編隊は、クラークフィールド(200機)等の空軍基地を空襲し、アメリカ軍機249機の大半を破壊した。
 日本海攻撃機部隊は、クラーク航空基地を強襲し出撃準備中であった18機のB17と53機のP40を含む104機を破壊した。
 アメリカ極東航空軍は、開戦初日で空軍力の過半を破戒さ、制空権を失った。
 台湾の日本海軍航空隊によるフィリピン爆撃は、世界の非常識とされた。
 世界の軍事専門家や航空機専門家は、日本の技術力及び工業力では欧米諸国に勝る航空機は開発製造できない、日本人は軍用機に乗っても真面に飛ばせない、と確信していた。
 軍用機は最先端技術の塊であり、軍用機を造れる国は少なく、日本の軍用機にまさる軍用機をなかった。
 午後3時50分 セイヤー高等弁務官は、マッカーサーの執務室を訪ね、マッカーサーの狼狽え振りを「彼は部屋の中を行ったり来たり」と書き記した。
 マッカーサーは、航空力喪失の責任としてブレアント准将をジャワに転属させ、後にイギリス空軍に配属させセイロンからニューデリー、そしてカイロへと飛ばした。
 欧州戦域では最強の爆撃機として恐れられていたB17が、開戦二日目に、ゼロ戦に撃墜された。
 アメリカ陸軍航空部隊は、空飛ぶ要塞であるB17が撃墜されたという報告を信用しなかった。
 数日後。ボルネオ上空で、二機のB17がまたしても撃墜され、絶対に撃墜されないという神話は崩壊した。
 半年後。ニューギニア・ラエ上空で、5機のB17編隊が9機のゼロ戦によって全機墜落した。
 アメリカ陸軍航空部隊は、不敗のプライドを日本航空部隊によってズタズタにされ、航空機産業に対して日本の戦闘機に撃墜されない巨大爆撃機の開発を急がせた。
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 アメリカ軍は、白人兵士を中央に集め、フィリピン兵士を最前線に配置し、黒人兵士を後詰めとして殿(しんがり)を命じた。
 部隊に対して、退却中に発見したフィリピン人を日本人として射殺する許可を与えた。
 アレクシ・トクビル「白人と有色人種の関係は、人間と動物の関係に似ている。動物は白人のために働き、邪魔になれば殺してもいい」
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 本間雅晴中将(キリスト教徒)率いる第14軍は、リンガエン湾に上陸してマニラ攻略に向かった。
 マッカーサーは、アメリカ本国からの援軍を待つ為に、全軍をバターン半島と要塞島コレヒドール集結させ強固な防衛線を築く事を命じた。
 バターン半島には、アメリカ軍2万人とフィリピン人部隊12万人の計14万人が防塁に籠もった。。
 コレヒドール島要塞には、アメリカ軍1万とフィリピン人部隊6万人の計7万人が立て籠もった。
 アメリカ軍は、アメリカ本国から援軍が到着するまで長期戦を戦う戦略であった。
マッカーサーは、家族と一緒にコレヒドール要塞に入った。
 フィリピン傀儡政府のケソン大統領など多くのフィリピン人難民も、バターン半島の山中に逃げ込んだ。
 アメリカ軍は、日本軍に利用される恐れがあるとして、鉄道及び車両を破壊し、橋を爆破し、残ったジープやトラックなども全て破壊した。
 戦闘に邪魔になる非戦闘員を含む約10万人を、戦闘地域のジャングルから進撃してくる日本軍の方へと追い出した。
 撤退するアメリカ軍兵士は、見えない日本軍に怯え、目の前に現れたフィリピン人を日本兵と思い込んで射殺し、日本兵が先回りして潜んでいると思われる部落を攻撃して住民を全員射殺した。
 レスター・テニー「日本兵との区別がつかない。だから出会った現地人は皆殺しにしてバターンに向かった」
 アメリカ軍による虐殺の人数は、不明である。
 アメリカ軍が計画していた人数以上の将兵や難民が大量に避難した為に、備蓄していた食糧や医薬品は瞬く間に消耗し、日本軍の攻撃と共に飢えと疫病が彼等を襲った。
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 生粋のスペイン人であるマニュエル・ケソン大統領は、マッカーサーに対して、フィリピン人に犠牲者を出さない為に停戦を要請した。
 「フィリピン政府は、日本と停戦する。日米の戦争は他所でやってくれ」
 マッカーサーは、ケソン大統領の要請は利敵行為の裏切りであり、傀儡国家の大統領風情が宗主国アメリカに指図する事は不遜であるとして激怒し、ケソンをフィリピンに留める事は好ましくないと判断すた。
 アメリカは、フィリピンのスペイン人、華僑、スペイン人と華僑の混血児(メスチノ)は親米反日として味方してくれるが、生粋のフィリピン人が従うか疑心暗鬼となっていた。
 アメリカ軍兵士は、疑わしい行動をとるフィリピン人を日本軍に協力するスパイとして殺害した。、
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 12月24日 マッカーサーは、マニラ無防備都市宣言を布告した。
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 日本軍部は、全将兵にポケットサイズの『陸軍刑法 陸軍懲罰令』「第88条 前2条の罪を犯す者人を傷つけたるときは無期又は7年以上の懲役に処し死に到したるときは死刑又は無期懲役に処す」を携行させた。
 敵による南京事件捏造報道を教訓として、軍規を遵守するよう命じた。
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 1942年1月2日午後 日本軍は、リンガエン湾上陸からわずか11日でマニラを占領した。
 本間雅晴中将は、戦時国際法を遵守し、マニラ無防備都市宣言を受け入れマニラ無血占領した。
 各部隊の主立った将校800名を集め、「焼くな。犯すな。奪うな。」違反した者は将校・兵士に関係なく厳罰に処すと訓示を行った。
 将校達は、各部隊に戻り、兵士達に軍司令官の訓示を伝え、治安維持を厳命した。
 本間雅晴は、キリスト教徒として、戦闘後の占領地での人心を掌握する為に日本兵士による不法行為を厳しく取り締まった。
 マニラ市民は、攻撃しなかった日本軍を歓迎して迎えた。
 2月 ルーズベルトは、シンガポールが陥落しイギリス軍司令官パーシバルが日本軍の捕虜になるや、アメリカ軍司令官であるマッカーサーも日本軍の捕虜にする事は白人連合の立場を傷付けるとして、マッカーサーに対してコレヒドール脱出してオーストラリアへ向かうように命じた。
 同時に、傀儡政権のケソン大統領が日本軍に捕まって利用される事を避ける為に、オーストリアに移すように命じた。
 有色人種蔑視のルーズベルトは、ケソン大統領救出はフィリピンへの友好的な配慮ではなく、傀儡国家フィリピンを守る事は対日戦争を人種間戦争にしないという基本戦略からにすぎなかった。
 マッカーサーは、ケソン大統領に恫喝して「面倒を見た謝礼として50万ドル」を要求した。 
 2月15日 ケソン大統領は、ニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府口座からケミカル・ナショナル銀行に50万ドルを振り込んだ。
 ケソン大統領は、、土壇場でフィリピン脱出を拒否し、ルーズベルト大統領に対して「この戦争は日本とアメリカの戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米は、フィリピンの中立を承認してほしい」との電報を打った。
 ルーズベルトは、傀儡政権のケソン大統領に不快感を表して国外に連れ出すように命じた。
 シンガポール占領。イギリス・インド連合軍約13万人が捕虜となる。
 3月11日 マッカーサーは、ルーズベルトの命令に従って、家族と腹心の幕僚を伴ってオーストラリアに脱出した。
 アメリカ軍は、国外に持ち出せなかった20万ドル相当の金を隠した。
 当初の予定では安全な潜水艦での脱出であったが、閉所恐怖症のマッカーサーに配慮して魚雷艇での脱出となった。
 ケソン大統領は、強制連行するように潜水艦に押し込めてオーストラリアに送り出した。
 アメリカ政府は、土壇場で裏切ったケソン大統領を危険人物として監視付きの軟禁状態において、生前での帰国を許さなかった。
 3月20日 マッカーサーは、「アイシャルリターン」(私は必ず戻る)というスピーチを行い、南西太平洋地域の連合軍最高司令官に就任した。
 アメリカは、マッカーサーを英雄に仕立てるための英雄談を創作して流し、同時に日本軍の残虐行為を捏造して流布させた。
 クレア・ルース「彼には不愉快な噂しかなかった。それを伏せたのは極東全域でのアメリカ軍の士気が彼の軍事的、個人的威信と切り離さなくなったからだ」
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 アリゾナ大学教授マイケル・シャラーは、『マッカーサーの時代』の著書で、マッカーサーは閉所恐怖症で、臆病で、戦略も展望も持っていない、実にくだらない男と酷評している。
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 アメリカ軍は、コレヒドール要塞建設の為に、約300人の囚人に重労働を課して数年かけて完成させた。
 要塞の機密を守る為に、囚人を一人ずつ油断させて射殺した。
 二人の囚人は逃げ出した。
 人種差別のアメリカ軍は、フィリピン人を下等人種として人間とは認めず、人道を無視して殺害していた。
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 コレヒドール要塞攻略の主力部隊である第16師団は、本間雅晴軍司令官の意向に従い、「捕虜取り扱い要領」を作成して前線部隊に徹底通知した。
 「敵の軍人、軍属で我が軍の手中に入った者は、国際法上の捕虜である。捕虜は戦時国際法と陸軍の規定に従って取り扱われなければならない。捕虜を捕らえたら直ちに上級部隊に報告し勝手に処分してはならない。必要な尋問が終わったら、軍司令部に開設された捕虜収容所に護送しなければならない。捕虜の給養は我が国の給養と原則として同一であるべき事、捕虜の労役の制限、特に我が軍の作戦に協力する事を強要してはならない。捕虜の処罰は、法令に基づき、我が軍の軍法会議又は罰権を有する将校により行われるものであるから、私的制裁は許されない」
 日本軍将兵は、上官の命令を天皇の命令として厳守した。
 もし。敵軍捕虜に対する非人道的行為があったとすれば、それは天皇の命令に背く反逆行為であった。
 捕虜虐待があったとすれば、皇軍である日本部隊は公然と天皇の命令に背いていた事になる。
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 フィリピンは3月から5月にかけて猛暑で、日中、炎天下を歩くのは大変な季節であった。
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バターン死の行進」(デスマーチ・オブ・バターン)の始まり。
 アメリカ軍の怠慢から、バターン半島及びコレヒドール要塞には充分な食糧や医薬品がなく、長期戦は不可能になっていた。
 4月3日 日本軍は、第二次バターン半島攻略戦作戦を開始した。
 4月9日 バターン軍司令官キング少将と比島軍司令官フランシスコ少将らは、マッカーサーの徹底抗戦・降伏は不可の命令に従い、マッカーサーが援軍を率いて来る事を信じて抵抗したが、補給がなく物資が尽きた為に止むなく降伏した。
 4月12日 日本軍は、バターン半島を完全に制圧した。
 5月29日 日本軍(約3万人)は、コレヒドール島のコレヒドール要塞(約7万人)に猛攻撃を始めた。
 5月7日 米比軍総司令官ウェーンライト中将は、日本軍に降伏し、フィリピンにいる全ての軍に降伏を命じた。
 バタアンカブガエ飛行場で行われた降伏交渉の場では、勝者である本間軍司令官は相手を気遣って控え目に話したが、敗者のウェーンライト司令官は人種差別的に日本軍を見下すようなふてぶてし話し方をして威圧をかけていた。
 日本軍、4万3,110人。戦死者、4,130人。行方不明、287人。戦負傷者、6,808人。
 アメリカ陸軍、3万1,095人。アメリ海兵隊、1,440人。フィリピン軍、12万人。戦死者2万5,000人。戦負傷者、2万1,000人。捕虜、8万3,631人。
 日本軍が予想し用意していた敵軍捕虜の人数は、約2万5,000人であった。
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 捕虜となったアメリカ兵1万2,000人とフィリピン兵7万6,000人、そして民間人避難民2万人以上であった。
 コレヒドール要塞をそのまま捕虜収容所として利用するには、破壊が甚だしい建物群に加え、熱帯雨林という厳しい自然環境ゆえに不可能であった。
 劣悪環境のジャングルの中に放置も出来ず、戦場の後方約40キロ離れた東海岸のバランガまで強制的に歩かせれた。
 多くの将兵が3ヶ月の激しい籠城戦で負傷し、食糧も不足して栄養失調で体力を消耗していた。
 医薬品も欠乏していた為に、マラリアチフスデング熱赤痢などの熱帯病に罹っていた。
 物資不足で戦っている日本軍としても、捕虜に回すだけの水や食料や医薬品もなかった。
 参謀本部辻政信作戦班長は、飲まず食わずの物資のない日本軍には、30万人以上の捕虜を養う能力はないとして、各現地軍に対して全てを適切に処分する様に口頭で命令した。
 だが、現地軍の大半が軍中央の「捕虜殺害」命令を無視した。
 当時、日本軍も多大なる犠牲を払い、後方には多くの負傷兵や病人を抱えて治療に当たっていた。
 日本から運び込まれていた食糧や医薬品などは、自国兵士に優先的に回され、捕虜は二の次に置かれてわずかしか支給しなかった。
 各前線には、大量の捕虜を輸送するトラックとガソリンがなかった。
 第十四軍は、戦争捕虜は2万5,000人と予想して食糧と医薬品を用意していたが、想定外の捕虜の人数に食料や医薬品は不足した。
 本間雅晴司令官は、キリスト教徒の博愛精神と天皇の御稜威と皇道の八紘一宇から、全軍に、敵軍兵士捕虜やフィリピン人難民への救済を命じた。
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 サムライは、捕虜になる事を嫌ったが、卑怯な振る舞いをせず、最後の最後まで死力を尽くして戦った敵には敬意を持って遇した。
 敵の大将一人に全ての責任を持たせて切腹させたが、その家族や敵兵や領民は全て解放した。
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 日本軍が用意していた捕虜輸送用トラックは、女性や子供そして負傷者や重病人に使用した。
 ジープやトラックを破壊せず所有していたアメリカ軍部隊に対しては、それを自分達で運転して収容所もで行かせた。
 トラックやジープを破壊したアメリカ軍部隊は、やむなく銃剣で脅しながら無理矢理に歩かせた。
 連合国軍兵士捕虜7万人以上は、飢えと病気で衰弱していたが、日本軍に銃殺されたり銃剣で突き刺されたり軍刀で首をはねられる恐怖から、約60キロ離れたサン・フェルナンド駅まで約6日間かけて炎天下の下を死ぬ思いで歩いた。
 捕虜となったアメリカ兵やフィピン兵士は、60キロを2日かけての地獄の様な強行軍であった。
 武装解除された捕虜は軽装で、銃を持った重装備の日本軍の監視下で、フラフラよろめきながら歩かされた。
 それにしても、護送する日本軍兵士より連合軍兵士捕虜の方が圧倒的に多かった。
 正規軍やゲリラとの戦闘継続中の為に、監視用に出せる日本軍兵士には限りがあった。その為に数十キロの重装備の日本軍兵士ひとりで、水筒など軽装の捕虜100名から150名を銃剣で威嚇しながら追い立てた。強行軍をさせる為に、歩行の自由を奪う足枷や手枷をしなかった。
 列車では。囲いが壊れた動物用貨物車両に押し込まれ、40キロを炎天下の下を眠ることも出来ず揺られながら運ばれた。
 激戦の後の捕虜虐待的な強行軍である為に、疲労困憊の日本軍兵士以上に連合軍兵士捕虜の体力消耗が激しく、移動途中でアメリカ兵士1,200人とフィリピン兵士1万6,000人が日本人兵士によって虐殺されたと言われている。
 本間雅晴司令官は、一人でも生きて収容所に移送し、病人が治療を受けられる様に、最善の処置をとるように命じた。
 日本軍は、押収したコンデンスミルクで粥を配給して。
 衰弱したアメリカ兵やフィリピン人兵士の為に、途中に幾つかの救護所を設けて休息を取らせた。
 地元住民を総動員して、1日約21万個のお握りを用意した。
 アメリカ兵は、お握りを嫌ってパンを要求した。
 物資の乏しい日本軍は、アメリカ兵の要求を拒否してお握りを食べる事を強要した。
 この米食の強要が、捕虜虐待とされた。
 日本軍は、フィリピン人兵士は地元住民に紛れて逃亡したが、捕虜収容所における収容人数が減る事になるので見逃し、むしろ歓迎した。
 中国戦線にでも。他の南方戦線でも、日本軍は敵兵士捕虜を減らす為に地元人兵士は解放していた。
 溝口郁夫『絵具と戦争』
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 60キロの道のりを、日中は暑い為に昼間は休息をとり、早朝や夕方に行進した。
 その為に、全ての捕虜を収容するのに4.5日もかかった。
 だが、それでも数多くのアメリカ人兵士捕虜やフィリピン兵士捕虜が死亡した。
 サン・フェルナルド駅からオードネル捕虜収容所までは、何とか走る古ぼけた機関車を利用し、天上も側壁も破損し、扉のない粗末な貨車に押し込めて移送した。その為に、多くのフィリピン人が脱走したといわれている。
 収容所に収用されたアメリカ兵やフィリピン人兵士らは、監視の目をかい潜って脱走し、地元民の協力を得てゲリラ活動を行った。
 日本軍は、抵抗するゲリラは掃討したが、投降する者は捕らえて収容所に送った。
 ゲリラの処刑も、日本の戦争犯罪とされている。
 ゲリラが、アメリカ人であろうと中国人やフィリピン人でも関係なく、処刑した事が戦争犯罪とされた。
 戦前の日本人の宗教観から、神がおわす神聖な大地を、人はもちろん如何なる生物だっても血を流して穢し、その死体を放置して腐敗させる事を嫌った。
 農耕漁労民族にとっては大地や河川は、命ある全てのモノが生きる為に、欠かす事の出来ない大事な農産物を授けてくれる神聖な自然であった。
 それを、穢す事は全てのモノの命を脅かす行為と最も嫌った。
 「血を不浄」と嫌う民族宗教神道には、普遍宗教の様な「血の生け贄」は存在しない。
 だが、現代の日本人にはそうした素朴な宗教観や自然観は消失している。
 憲兵隊は、全ての戦場で、敵味方の死体を区別することなく懇ろに埋葬した。
 日本軍は、如何なる戦場でも戦死した敵味方に関係なく全兵士の霊魂を祀り、従軍僧による慰霊祭を執り行って冥福を祈った。
 ただし、日本軍が勝利した戦場においてであり、日本軍が負け敗走した戦場では慰霊祭を行わなかった。
 盛大な慰霊祭を行って有名になったのが、南京を攻略した松井石根軍司令官であった。
 従軍した神主は、仏教僧よりもはるかに少なかった。戦争に協力したのは、日本独自の神道ではなく、外来宗教である普遍宗教の仏教であった。
 慰霊祭の後は、戦死した全ての兵士を神として祀る為に神社や祠を建てた。それが国家神道による戦争犯罪とされた、宗教侵略目的の植民地神社である。
 戦争は始まったばかりで、ガソリンを含む全ての物資が不足していた日本軍は、各地で潤沢な物資を持つ連合軍と熾烈な戦いを繰り返していた。
 日本軍は、数少ないトラックと僅かなガソリンで、激戦が続く戦場に食糧と武器弾薬を送り、戦場から負傷者を後方の野戦病院に送っていた。
 戦争は始まったばかりであり、各地で戦闘が続いていた。
 各地の日本軍にはまともな輸送手段がなかった為に、動ける兵士には数十キロの重装備で歩いて戦場まで行軍させた
 コレヒドール島要塞の捕虜は、マニラまで輸送船で運び、そこから列車で直接収容所に送った。
 フィリピン人兵士捕虜の脱走はここでも絶えず、日本軍は今後のフィリピン占領への配慮として見逃した。
 捕虜の大半が栄養失調気味の上に、マラリアデング熱アメーバ赤痢に感染して半病人であった。
 想定して用意していた食糧や医薬品は不足していた為に、多くのアメリカ人兵士やフィリピン人兵士が死亡した。
 この不手際が、戦争犯罪バターン死の行進」大虐殺とされた。
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 日本軍は、マニラ占領後、敵性外国人であるアメリカやイギリスの民間人3,700人を、市内のサント・トーマス収容所に押し込めた。
 収容所が劣悪な環境であった為に、日本の犯罪とされ、多くの日本人兵士が保護義務違反として処刑された。
 捕虜にならず逃走したフィリピン兵は、民間人に紛れ込み、ケソン派の協力を得て日本軍の情報収集や後方攪乱などを行った。
 マッカーサーは、フィリピン進攻まで抗日ゲリラを支援した。
 日本軍は、抗日ゲリラの破壊活動に悩まされていた。憲兵隊は、不信者をゲリラとして逮捕し、拷問にかけて仲間を聞き出そうとした。その手口が強引であった為に反感を買い、フィリピン人の多くが反日感情を抱いた。
 フィリピンは、同じアジア人より日本よりも、宗主国である大国アメリカを選んでいた。
 本間雅晴中将は、全軍に、今後の占領を円滑にしアメリカ軍の反撃に備える為に、戦闘で巻き添えになった多くのフィリピン人難民に食糧や水を分け与え、難民の中で怪我や病気をしている者の治療に当たるように命じた。
 アメリカ軍や多数派の反日的フィリピン人からは、バターン死の行進の責任者として処刑されるほど憎まれていた。
 だが、極一部の、少数派の親日的フィリピン人からは尊敬され慕われて、フィリピン総督として残る様に嘆願された。
 戦闘経験者であるレスター・テニーは、自己の経験や戦友の話を基にして『バターン─遠い道のりのさきに』を書き上げて発表した。WS(バイリンガル・ウェッブサイト)の日本人スタッフは、同書を翻訳し、その用語説明を乗せた。
 WSの代表には、日本の国会議員と著名な評論家や学者が名を連ね、隠れた日本の戦争犯罪を掘り起こして公開している反戦平和団体である。
 「バターン半島の南端から、捕獲した推定70,000人のアメリカ及びフィリピンの捕虜を北へ60マイルの地点にあるサン・フェルナンドの列車の駅まで、強制的に歩かせた行進を指す言葉。1942年4月9日に降伏の後、マラリアと激しく減らされた食糧割り当てとで、すでに弱っていた推定1,200人のアメリカ及び10,000人のフィリピンの兵士は虐待と意図的な殺人で命を落とした。捕獲された地点から捕虜達は最高で六日間、ほとんど休憩もなしに行進させられた。食糧や水の給与を拒絶され、彼らは疲労で倒れ、その場で銃殺されたり、銃剣で突き刺されたり、または首を刎ねられたりした」
 戦後。日本に対して賠償金を要求し、昭和天皇戦争犯罪者として裁く事を求めた。
 国際世論は、昭和天皇の処刑を求めていた。
 フィリピンは、何時の時代でも、オーストラリアと共に反天皇反日の急先鋒であった。両国の共通点は、反神道キリスト教である。
 彼らの反天皇活動を支援していたのが、ユダヤ系国際金融資本であった。
 戦後、「バターン死の行進」は捕虜虐待の犯罪行為とされた。当時の軍司令官本間雅晴中将は、攻撃部隊の最高指揮官としての義務を怠ったとして銃殺刑に処せられた。
 戦時国際法は、人道上の理由により、「戦争の勝利」よりも「捕虜の保護」を優先すべきであると判決した。
 つまり、戦闘を止め、銃を置き、傷ついた敵兵士の救護を行うべきであったと。
 その結果、日本軍が負けても、人道的にはやむおえない事であると。
 何れの戦犯法廷でも、大半の日本人兵士戦犯にはまともな弁護士がつかず、法的手続きに基づいた審理も受けられず、一方的なリンチ的裁判で有罪となった。
 処刑は、見せしめ的にいたぶり、苦しめられるだけ苦しませてなぶり殺した。
 戦前の教養を持つ日本人は、彼らの悲惨な最後に涙し、軍神として靖国神社に祀った。
 だが、靖国神社は戦争賛美の神社であるとして、日本軍の被害を受けたアジア諸国から憎悪の的となっている。
 日本を弁護するアジアの国は、存在しない。
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 和知鷹二(比島軍参謀長)「捕虜の護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃を担いで歩いた。全行程約六十数キロあまり、それを4〜5日がかりで歩いたのだから、牛の歩くに似た行軍であった。疲れ切っていたからである。南国とは言え夜になると肌寒くなうので、日本兵が焚き火をし、炊き出しをして彼等に食事を与え、それから自分らも食べた。道中でバタバタと彼等は倒れた。それはしかし、マラリア患者が大部分だった」
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 連合国は、軍国日本に対して、中立国を通じて捕虜虐待について抗議を繰り返していた。
 軍国日本は、追い詰められると捕虜の待遇どころではなくなった。
 連合国の報道機関は、日本軍による捕虜虐待についてある事ない事を誇張して報道した。
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 日本軍は、終戦まで占領地の捕虜収容所でジュネーブ条約を準用し、連合軍兵士捕虜への家族からの手紙や差し入れ品や医薬品などを取り次いでいた。
 其れは日本軍が優位にある占領地の例であって、敵軍の包囲下で防戦に追い詰められた戦場であったり、補給路を遮断された状況下ではその限りではなかった。
 それでも。日本軍は、サムライの心得として、自国軍兵士が餓死し病死しても、敵兵士捕虜が病気に罹り飢えても餓死しないように最大限の配慮はしていた。


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