🛲2」─3─インドネシア独立戦争と旧日本陸軍。インドネシア人による中国系住民大虐殺。~No.8 * ① 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本陸軍は、良い事もしていた。
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 軍国日本は、アジアの希望の光であった。
 旧日本陸軍の残留日本人兵士は、アジアの植民地解放戦争に参加し勝利をもたらしていた。
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 華僑や華人などの中国系住民は、西欧列強の植民地支配を守るべく植民地軍に協力して独立派を弾圧していた。
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 中国共産党は、アジアを共産主義化する為に、アメリカが進めたの平和を破壊し、地域の発展を阻害した。
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 1991年 エドゥアルト・ヴァン・ティン(アムステルダム市長)「あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族にたいへん迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の善い事をしたのです。なぜなら貴方の国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先の事のみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪い事をしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見詰める必要があるでしょう」
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 中国共産党政府は、北朝鮮軍が国連軍の反撃で中朝国境まで後退し始めた為に、自国防衛を理由にして軍事介入した。
 これ以降。国連軍は、韓国を侵略した北朝鮮軍と中国共産党軍と泥沼の消耗戦を戦い、夥しい犠牲者を出す事になった。
 中国共産党は、1950年代から60年代にかけて、共産主義アメリカ・国連を中心とした戦後国際秩序を打倒する為に、アジア各国に「革命の輸出」を行っていた。 
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 CIAは、インドネシアから共産主義勢力を排除する為に、シグ・片山ら日系アメリカ人を貿易会社社員として押し込み反共勢力にクーデターを起こさせるべく中古兵器をタダ同然で輸出していた。
 アメリカ軍のCIC(対敵諜報部隊)やGHQ内のG2(参謀第二部)も、白人のアメリカ人が表立つて動いては目立つ為に、日系アメリカ人や東南アジアに通じた日本人を利用した。
 アメリカは、ソ連との冷戦が激しくなるにつれて、日本国内と東南アジアの共産主義化(赤化)を阻止するべく、信頼できる現地の協力者(アセット)をスカウトし、彼らを指揮・監督する為に日系アメリカ人から優秀な工作官(コントローラー)を送り込んでいた。
 東南アジアに人々は、日系アメリカ人や日本人工作官を利用した。
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 1945年5月 スカルノは、全地域の代表者を集めて独立準備調査会を結成し、日本軍から徐々に行政権を引き継ぎ、独自の政策を立案し実行し始めた。
 8月15日 軍国日本が敗れて降伏するや、日本軍による軍政も終了して。
 8月16日午後11時 前田精海軍少将は、インドネシア独立の為に、スカルノとハッタら独立準備委員会約50名を公邸に集めて独立宣言文起草を勧めた。
 後に。インドネシア政府は、独立を支援してくれたこの時の恩に報いるべく、1977年に前田精元少将に建国功労賞を授与した。
 8月17日午前10時 スカルノは、自宅にインドネシアの国旗と定めた「メラ・プティ」を掲揚し、民族自決など大東亜共栄圏の理念を取り入れたインドネシア憲法を起草して、独立を宣言した
 「我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
 権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
 ジャカルタ 17ー8−05
 インドネシア民族の名に於いて」
 インドネシアの独立が軍国日本の指導と支援で行われた事を示す為に、西暦ではなく、皇紀2605年の日付が加えられた。
 武装放棄して降伏を表明した日本軍は、連合軍の処罰される危険を冒してまで東南アジア諸国の独立を急いだ。
 そして、多くの日本軍将兵インドネシア独立戦争に参加した。 
 国土防衛の為に、ペタ(PETA。郷土防衛義勇軍)を中心とした人民治安団を結成した。
 インドネシアは独立を宣言したが、オランダは独立を認めず軍隊を派遣して独立派を弾圧した。
 地獄の様な戦闘が続く独立戦争の勃発である。
 独立軍は、日本軍の教練で鍛えられた強かった。
 日本人軍国主義者は、インドネシアの独立の為に参加してオランダ軍と戦った。
 オランダ軍は、独立派を殲滅する為に各地で虐殺を行っていた。
 男は惨殺され、女はレイプされたのちに殺された。
 宗教的人種差別主義者は、女子供に関係なくインドネシア人を虐殺した。
 9月30日 9・30事件。インドネシア共産党による軍事クーデターで、約80万人が犠牲となった。
 アジア地域の平和と発展を攪乱し戦乱を引き起こす諸悪の根源は、中国共産党であった。
 10月 人民治安団は、独立戦争に備えて人民治安軍を創設し、旧日本軍から密かに武器弾薬を得ていた。
 10月1日 クリスティソン・イギリス陸軍中将は、英・蘭印連合軍(AFNEI)の司令部をジャカルタに開設した。
 10月末 英・蘭印連合軍司令部は、英印軍第23師団の一個旅団をジャカルタ、バンドン、スラバヤに配置した。
 イギリス軍は、女性収容所のオランダ人女性や子供がインドネシア人に襲われないように、日本人兵士捕虜に女性収容所の警備とオランダ人の安全を命じた。
 12月 人民治安軍の初代司令官にスディルマン将軍が就任したが、武器弾薬は欠乏し、武器を持てない者には竹槍や刃物が渡された。
 インドシナに侵攻してきたのは、近代装備をしたオランダ・イギリス連合軍約12万人であった。
 対する、人民治安軍は約3万3,000人であった。
 旧日本軍兵士の中からも、インドネシア独立の為に人民治安軍に参加する者がいた。
 バンバン・プルノモ「私は心から平和を愛しています。しかし、その平和を実現する為に、武器を持って戦わねばならなかった。さもなければ、また植民地化され、奴隷として扱われるかもしれなかったのです」
 「私達は自分さえ良ければいいという心を捨てて、家族の為、仲間の為、国家の為に尽くす精神、公の為に命を懸けて戦うという武士道精神を日本人から学びました。私達はその精神でオランダと戦ったのです」
 インドネシア人は、日本軍から叩き込まれた「サンパイ・マティ(死ぬまでやる)」精神で血みどろの悲惨な独立戦争を戦い、夥しい犠牲を払って勝利した。
 若し、日本軍の軍政がなければインドネシアの独立はなかった。
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 今村均は、オースラトリア軍による裁判で、ラバウル時代の第8方面軍司令官における戦争犯罪で死刑判決を受けたが、現地島民らが助命証言を行った為に禁固11年の刑が確定した。
 オランダ軍の戦犯裁判所は、第16軍司令官として蘭印攻略した戦争犯罪から死刑にしたかったが、インドネシア人の人気があまりにも高かった為に無罪判決を下した。その分、無罪の反証がしづらいB・C戦犯を報復的に有罪として処刑した。
 オランダは、植民地支配を崩壊させられた憎悪から、今村均ら戦犯を地獄のような収容所といわれるチピナン収容所に収容した。
 「蘭印関係戦犯者は各地軍事法廷より逐次本所に集結させられたのであるが、初期の間はまるで褌生活であった。常夏とは云え雨季の間は朝夕相当の冷気を感じるが、朝の出勤時には廻廊に褌一つで列を作る。まさに褌部隊である。……
 いちいち検査を受けて工場へ入るのに、震えながらお互いに鳥肌の躰を摩擦しつつ順番を待つのである。ひどい時には褌すら外され、局部を露出したままで往復せられたこともあった」
 白人至上の人種差別が常識であった当時。白人キリスト教徒は、日本人を人権を持った人とは認めず、戦争捕虜を保護するというジュネーブ条約の対象外として獣或いは害虫のように扱った。
 日本人捕虜に対する非人道的な扱いは、イギリス軍やオーストラリア軍などの収容所でも変わりなかった。
 各地で行われた戦犯裁判所は、戦時国際法に基づいた司法裁判ではなく、軍事委員会が行う占領地での軍法会議であった。
 判事、検察、弁護の全てが敵軍であった軍人であり、裁判は最初から「有罪判決」ありきで、日本人戦犯を公平に裁く意思は少なかった。
 今村均は、地獄のようなチピナン収容所から巣鴨拘置所に移されたが、チピナン収容所の部下と苦楽を共にする為に転送を希望した。
 マッカーサーは、見苦しい言い訳で責任逃れをせず全責任を引き受け、自分の安楽より部下との苦楽を共にする事を希望する今村均に、無私無欲の立場に立とする昭和天皇同様に感銘を受け、本人の希望に従ってニューギニアのマウス島にある刑務所に護送した。
 「真の武士道に触れた」
 如何なる苦難にもめげる事なく直に受け入れ、自信を消失して諦めず、明日を信じて立ち向かう事ができた精神的強さの源泉は、微動だにしない「強い歴史」を持っていたからである。
 中国や韓国・朝鮮のような見せ掛けで作られた虚勢を張った空虚な「弱い歴史」では、日本民族日本人は消滅していた。
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 1948年9月25日 オランダ軍司令官F・チィウォン大佐は、海軍落下傘部隊元隊長堀内大佐を「日本人だから」との理由で、戦犯として報復処刑した。
 高松宮は、ユリアナ女王に、如何なる戦争犯罪も犯していないとして助命を乞うたが拒否された。
 オランダは、連合国軍の中で最多のの226人を戦犯として報復処刑した。
 戦争犯罪裁判は、弁護士が無罪の証拠として提出された証拠ではなく、検察官が提出して伝聞や憶測の証拠で、裁判長が裁量して検察の求刑より重い刑を言い渡した。
 つまり、「日本人は全て有罪である」と。
 それは、法の正義ではなくリンチであった。
 多くの収容所で、日本人は非人道的な扱いを受け、虐待や拷問は日常的に行われ、、栄養価の乏しい食事で奴隷的重労働が課せられた。
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 オランダ政府は、賠償金放棄を公言しながら、日本から36億円を受け取った。
 1989年 オランダ王室は、昭和天皇の大葬の儀式に欠席した。
 1991年 アトリクス女王は、訪日し「日本には賠償金を払う義務がある」と発言した。
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 1949年12月 インドネシアは、旧日本軍脱走兵の協力を得て、15万以上の犠牲者を出し、旧宗主国オランダとイギリス連合軍と血みどろの戦争に勝利して独立を勝ち取った。
 植民地支配された諸民族は、夥しい犠牲者を出しながら、独立戦争という「正義の戦争」に勝利して自由を勝ち取った。
 独立後の国家運営に必要な人材がなく、経済においても華僑支配を破壊していた為に財政が破綻していた。
 初代大統領スカルノは、頼みとした軍国日本は敗戦で崩壊し、白人のオランダやイギリスに支援を求める事を嫌って中国に接近した。
 中国共産党は、アジアに共産革命を輸出する為に、インドネシア共産党武装するべく工作員を派遣し資金と武器を提供した。
 インドネシア共産党は、急速に党勢を拡大し、瞬く間に党員を300万人に増やした。
 軍国日本が支配していた間に、裕福な家庭のインテリ層を中にマルクス主義に染まっていた。
 中国共産党政府は、アジアの平和に貢献する意思はなく、中国支配の確立のみを神聖な使命としていた。
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 「正義の戦争」を否定するのは、現代日本反戦平和市民団体である。
 戦争や闘争もせずに、植民地支配から解放されて自由を得たのは韓国など数カ国だけである。
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 毛沢東中国共産党の究極の目標は、中国が世界の『覇書』となる事」
 三国志を愛読していた毛沢東は、力を隠し、人目を惑わし、時が来るまで味方を増やしてまつと言う持久戦を得意としていた。
 中国人は、孫子などの古典軍略書を読んで交渉力を付け、情報戦・謀略戦・情報戦を展開した。
 日本人は、戦争を考えると戦争が起きると確信し、平和教育一辺倒で戦争に関する一切の学問を封印し、外交能力を劣化させた。
 賢い中国人に対して、無能な日本人。
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 1950(〜60)年 中国共産党は、前年に中華人民共和国を建国するや、アジア各地に共産主義革命を輸出し始めた。
 各国の共産党は、中国共産党の支援を得て暴動を起こして社会を不安に陥れ、共産主義革命の成功の為の必要な犠牲として殺害を繰り返していた。
 アジアを支配するという中国共産党の陰謀によって、アジアは騒乱の渦に飲み込まれた。
 中国共産党政府は、戦後復興支援として、東南アジア諸国の港湾や道路などのインフラ建設に膨大な建設資材と大量の労働者を提供した。
 だが。中国共産党の真の目的は、共産主義革命の輸出であった。
 中国人労働者の中に革命工作員を潜ませ、建設資材の中に武器弾薬を紛れ込ませていた。
 革命工作員は、地元の華僑・華人や反体制派の地元住民を味方にして親中国派、毛沢東主義者を増やして、共産主義革命の好機を窺った。
 中国共産党は、中国特有の徹頭徹尾自己中心から、自分の利益を最優先として相手の利益など歯牙にもかけなかった。
 奪えない時は我慢するが、奪えるとなれば根刮ぎ全て奪う。
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 1955年 第一回バンドン会議。同会議に、周恩来スカルノネルー、ナセルなどアジアやアフリカの首脳達が出席した。
 日本政府は会議に参加するに当たり、アメリカへの気兼ねと、太平洋戦争で侵略したアジア地域の首脳から激しい非難を浴びるのではないかと心配した。
 だが。アジア各国の指導者達は、日本代表団を熱烈に歓迎し、白人による植民地支配からの解放の為に犠牲になってくれた事に感謝の言葉を述べた。
 アジア諸国は、日本を侵略国家とは見ていなかった。
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 1965年10月1日(〜66年) 9・30事件。インドネシアにおける中国系住民大虐殺。
 スカルノ大統領は、国家建設の為に中国共産党政府の支援を受けるべく、インドネシア共産党と共謀し、空軍の協力を得てクーデターを実行起こそうと為た。
 中国共産党政府は、ソ連に倣って周辺諸国を衛星国にするべく、各国のマルクス主義者を利用して毛沢東主義革命を輸出し始めていた。
 スカルノ大統領は、中国共産党に支援でインドネシアを共産化する事に猛反対する陸軍幹部将校6名を処刑し、クーデターを未然に防いだ。
 インドネシア陸軍の前身であるインドネシア郷土防衛義勇軍は、旧日本軍によって訓練されていた為に右派が主導権を持ち反共産主義色が強かった。
 スハルト将軍は、陸軍部隊を指揮してクーデターを起こして空軍部隊を駆逐し、政府内の親中国派を排除して、東南アジア最大のインドネシア共産党を非合法組織とした。
 だが、独立と建国の英雄であるスカルノ大統領の罪を問う事は避けた。
 軍部と右派勢力は、イスラム教信者を中心としたインドネシア国民をそそのかし、反宗教無神論マルクス主義政策を採用しようとしたスカルノ大統領の辞任を要求するデモを煽った。
 スハルト将軍は、反共デモの盛り上がりをもってスカルノ大統領に辞任を求めた。
 スカルノ大統領は、軍部と右派勢力の圧力に屈して辞任し、全権をスハルト将軍に譲った。
 スハルト新大統領は、スカルノの全ての役職を剥奪し、反共勢力を結集して軍事独裁政権を樹立した。
 軍部指導の反動政権は、中国共産党政府と断交して、国内の左派勢力を徹底的に弾圧した。
 インドネシア共産党残党は、国内各地に潜伏し、反政府ゲリラとして抵抗を続けた。
 中国共産党政府は、アジアの共産主義化の為に、毛沢東派反政府ゲリラを極秘で支援した。 
 インドネシア軍は、中国系市民50万人〜100万人を共産主義者として虐殺した。
 サルウォ・エヂィ・ウィボウォ特殊部隊司令官は、虐殺対象者は300万人以上であったと証言した。
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 インドネシアでも、ベトナムでも、カンボジアでも、戦後の独立戦争において中国系住民の大虐殺が起きていた。
 マレーシアは、価値観が異なる中国系住民の多くをシンガポールに追放した。
 タイ王国は、寛容で中国系住民を帰化させタイに受け入れたが、帰化しなかったタイ在住中国人の増大が社会不安となり、政治の混乱をもたらしていた。
 東南アジアでは、中国系住人(華人・華僑)は憎悪の対象であった。
 なぜ、中国系住民が地元住民から殺されるほどに憎まれていたのかと言えば、中国系住民が白人植民地支配に協力し、地元での搾取から多額の利益を受けていたからである。
 中国系住民は、儒教価値観から地元住民を人間以下の獣と軽蔑し差別していたからである。
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 インドネシア独立記念日である8月17日の式典では、日本陸軍への感謝を込めて日本軍歌を日本語で歌っている。
 東南アジアでは、今も軍国日本を解放者とする日本陸軍神話が生きている。
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 1973年 日本外務省は、インドネシアで映画「ロームシャ」の放映を差し止めるように求めた。
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 1988年8月17日 スカルノ大統領は、インドネシアの独立に尽力してくれた旧日本陸軍軍人ら6名に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与して、今は無き日本陸軍に感謝した。
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 1992年7月 日本政府は、韓国の従軍慰安婦問題が東南アジアに拡大する事を恐れて聞き取り調査を止め、インドネシアなどに韓国に同調しないように圧力を加えた。
 インドネシア政府は、日本からの途上国援助(ODA)を得る為に、戦争被害を公表せず、従軍慰安婦問題で日本を非難する事を控えた。
 日本は、金を積んで東南アジアの批判を封じた。 
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 1993年 駐インドネシア日本公使は、表現の自由を侵害してでも、地元作家・プラムディア氏が従軍慰安婦に関した本を出版しないように、発禁を求めた。
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 1994年1月24日 オランダ政府は、インドネシアスマラン慰安所事件を再調査し、慰安婦になった女性は日本軍に強制されてはいなかったと報告書を作成した。
 日本軍関係で200〜300人のオランダ系女性が働き、内65人が売春を強いられていたが、大多数が強制ではなく自由意志であったとされた。 
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 1995年 日本武道館でアジアの戦没者を悼み、日本とアジアの将来を考える「アジア共生の祭典」が開催された。
 サイデマン・スリヨハディプロジョ(インドネシア外務省上級大使)「第二次大戦中、あるいはその直後、植民地独立の為に外国の人々が力を貸してくれるという事が見られました。私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年達がインドネシアを自由にする為に、独立の闘士達と肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の青年がその為に命を捧げてくれました。今日、このアジア共生の祭典において、私達の独立の為に命を捧げてくれた、これら全ての若者達を偲びたいと思います」
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 1996年10月 インドネシアジャカルタ郊外で。地元民間団体は、人権派反日的日本人の協力を得て、日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされた女性による日本政府への賠償要求を行う為の登録作業が行われた。
 集まった群衆は、「反天皇制」や「国連平和維持活動ノー」などの垂れ幕を掲げて気勢を上げていた。
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 1998年 ジャカルタ大暴動。華人は、総人口の1%であったが経済を支配し大富豪として、政界上層部や軍部中枢部に賄賂を贈り癒着していた。
 貧困にある多数派のインドネシア人は、少数派で富を独占する客家の血を引く中国系インドネシア人への抗議デモを全土に拡大させた。
 インドネシアの政情不安定は、少数派キリスト教徒と多数派イスラム教徒、穏健派イスラム団体と強硬派イスラム団体の宗教問題と、少数派の華人と多数派のインドネシア人の人種問題が原因であった。
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 ニューギニア東部戦線で、日本軍16万人が、アメリカ・オーストリア連合軍1万4,000人が戦死した。
 靖国神社に祀られた日本軍兵士は、何の為に戦い、そして死んだのか。
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 週刊朝日は、1997(平成9)年10月17日号で、「ニューギニアで旧日本兵が行った残虐」という日本を貶める目的の真っ赤な嘘のスクープルポを掲載した。
 「数え切れない日本兵と性交渉をさせられた」
 「母親が日本兵にレイプされ、食べられた現場を見た」
 昭和19年8月のアイタペ決戦から終戦までに、日本軍は合計6万4,812人の地元民を何らかの陰惨な手段で虐殺したと告発した。
 平成10年7月 インドネシアのガブリエル・ラクパプアニューギニア民間代表)は、日本軍による戦争被害の究明と日本政府に対する補償問題の為に来日し、日本を貶めようとしている反日的日本人の支援を受けて活動を行った。
 朝日新聞は、ラク氏らの活動を好意的に報じた。
 8月3日夕刊「パプアニューギニアで進んでいる被害調査の最新データだった。犠牲者と生存者、遺族合わせて被害者が約9万5,000人にのぼり、人肉食の被害が2,300余人、約6,500人が強姦殺人……として驚くべき具体的な数字を次々と提示して、政府側に補償を迫った」
 提示された被害と被害者数は、中立的な公式機関による現地調査ではなかった。
 ニューギニアに送られた朝鮮人従軍慰安婦は、週刊朝日は1万2,718人、朝日新聞は1万6,000人以上と報じた。
 だが。制海権も制空権も失ってから東部ニューギニア方面に投入された日本軍には、連合軍の反撃に備えての陣地構築で慰安婦と愉しむ余裕はなかった。
 連合軍の攻撃で補給路が断たれていた為に、敵の攻撃を受ける前から、日本軍兵士の多くが真面な食事が取れず栄養失調であり、マラリア赤痢に苦しめられていた。
 つまり。ニューギニア方面には、反日的日本人や反日派韓国人が提出した従軍慰安婦などは一人もいなかった。
 さらに。白人は、植民地が経済的に豊かにならないようにする為に、物々交換をさせ貨幣の使用を禁止していた。
 よって。日本軍兵士が、金・軍票を使って現地人女性と遊ぶ事は有り得なかった。
 長い植民地支配の中で白人と地元民との混血児が多く見られたが、強姦したという日本軍との間の混血児は一人もいない。


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