💟5¦─1─アメリカ人兵士は日本人を皆殺しにする敵であるとの教育を受けていた。ガダルカナル攻防戦。~No.14No.15No.16 * 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・  
 宗教的人種差別主義者のアメリカ人は、日本人を人間ではなく全滅させするべき害虫であるとの洗脳教育を受けていた。
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 太平洋戦線における孤島での攻防戦で、欧州戦線の戦略拠点攻防戦とは違い、敵軍兵士を捕虜にする事は絶対にあり得ない。
 まして、制海権・制空権を失い補給がない日本軍守備隊には、敵軍捕虜を収容する場所も監視させる兵士もそして食わせるだけの食糧もなかった。
 玉砕戦・絶滅戦を強いられていた日本軍守備隊による、捕虜の虐待及び処刑はやむをえない事であった。
 つまり、敗北し敗走する敗軍は、戦勝軍の掃討から命からがら逃げ回る為、捕らえた敵軍兵士捕虜を解放すると言うよりは処刑する事がままある。
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 攻撃するアメリカ軍(連合軍)は、逃げ隠れする必要がない為に、堂々と火をたいて温かい食事を食べていた。
 防戦する日本軍は、逃げ隠れする為に火を起こす事ができず、こそこそと冷たい食事を食べていた。
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 日本人将兵は、勝利し生きて帰国できない事を口に出さなくても感じていた為に、なぜ戦い戦死しなければならないか、という戦争目的(何のために戦うのか)をウソでも信じ切ろうと心の中で葛藤していた。
 日本人将兵は、架空の夢物語「戦死したら靖国神社の桜として咲き誇る」を信じて戦った。
 靖国神社とは、そういう神社である。
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 2018年9月号 中央公論「日本軍兵士の真実
 どのような敵と戦っていたのか
 太平洋戦線の米軍兵士たち  河野仁
 『これを見てみろ。日本兵に銃剣で刺された傷痕だ』。フレッド・ヒッツマン氏は、おもむろに着ていたシャツをまくりあげ、背中に深く残る複数の傷痕を見せてくれた。
 ……同氏は、ガダルカナル島ブーゲンビル島で戦闘体験を重ね、複数回の白兵戦闘を経験した。白兵戦で受けた傷は銃剣創だけでなく、狙撃兵の銃撃で小銃弾も受けた。日本兵に小銃の銃尾で殴られた際に顎骨にひびが入り、歯が折れ、その後、顎骨骨髄炎となり、顎骨を削って金属プレートを埋める手術も経験した。腕にも深い切り傷がある。片目は失明し、もう一方の目も網膜剥離で視力が低下。復員後も戦闘体験に起因する身体障害は残っていたが、傷痍軍人年金は請求せず、戦後も陸軍に残り、1980年に中佐で退官した。
 ドイツからヘッセン人傭兵としてアメリカにやってきた祖先以来、独立戦争から南北戦争、二度の大戦、ベトナム戦争など、ほぼすべての戦争にヒッツマン家の子孫が参加してきた。ヒッツマン氏が、イリノイ州兵(太平洋戦争時は米陸軍アメリカル師団歩兵第132連隊)に志願したのは1936年である。インタビューの後には、太平洋戦線で使っていたというナタも見せられた。何人の日本兵の血を吸ったナタだろうと思った記憶がある。
 ヒッツマン氏の戦闘体験を含めて、日米両軍の兵士がガダルカナル戦を始め、その他の太平洋戦線あるいは中国戦線でどのような戦闘体験をしたのかについては、すでに拙著『〈玉砕〉の軍隊、〈生還の軍隊〉』(講談社、2001年/講談社学術文庫、2013年)で論じた通りである。
 1941年12月の真珠湾攻撃以降、日本軍の太平洋戦域での攻撃作戦が進んでいたあ、1942年8月のガダルカナル侵攻作戦により、米軍の反攻作戦が開始された。
 本格的な陸上反攻作戦の端緒となったガダルカナル作戦では約六万の米陸軍と海兵隊が動員され、戦死1,600名、戦傷4,200名を数えた。特に、上陸侵攻作戦を実施した第一海兵師団は戦死774名、戦傷1,962名、米陸軍アメリカル師団は戦死334名、戦傷850名の死傷者を記録した。第一海兵師団と交代した第二海兵師団も戦死268名、戦傷932名と、アメリカル師団とほぼ同等の死傷者を数えた。米陸軍第25師団も戦死216名、戦傷439名の死傷者を記録している。(米陸軍戦史センター刊、米陸軍公刊戦史……)。別の米陸軍の統計資料によれば、太平洋戦線での戦死者数の合計は約3万3,000、戦病死や非戦闘を含む死者数の合計は約5万、戦傷者約9万5,000、捕虜約2万7,000となっている。なお、欧州戦線での戦死者数は、太平洋戦線の約4倍である。
 本稿では、四半世紀前に行った米軍兵士への聞き取り調査の記録を参考に、『人間としての米軍兵士』の側面や深層心理にも光をあてて、彼らが何を思い何を感じながら日本と戦っていたのかを振り返ってみた。米陸軍アメリカル師団歩兵第164連隊(ノース・ダコタ州兵)、同第132連隊(イリノイ州兵)、海兵隊第2,第4師団に所属していた元米軍兵士たちが調査対象である。なお、紹介する人物名はすべて実名である。
 発砲しない兵士たち
 第二次世界大戦時に、欧州戦線や太平洋戦線での米軍兵士の戦闘行動を詳しく調べた米陸軍の歴史家S・L・A・マーシャルは、実際に交戦中に敵兵に向かって発砲する兵士の割合を示す『発砲率』は、せいぜい15%から最大限に見積もっても25%でると推測し、米陸軍に衝撃を与えた(Men Against Fire、1947)。5人に4人にのぼる『発砲しない米軍兵士』を、どうしたら発砲させることができるのかが新たな研究課題となった。『なぜ兵士は戦うのか』という『戦闘意欲』の問題は、この時期から幾多の研究者が取り組む課題となった。後年の研究で、マーシャルの発砲率の推測については、疑義が示されているとはいえ、『発砲しない兵士』が一定数存在することを明らかにしたことは重要である。日本軍側にはそうした調査結果は存在しないが、敵弾の集中を避けるために、あえて発砲しない兵士の存在は十分あり得ることである。
 戦場心理を研究したデーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫、2004年)には、南北戦争の古戦場で発見される小銃の多くに複数の銃弾が詰められていたことが紹介されている。前装銃の弾込めをするふりをしながら、『発砲しなかった兵士』が存在したことの証左である。
 なぜ軍に入隊したのか
 では、なぜ発砲しない兵士が存在するのかを考える前に、なぜそもそも軍隊に入ったのか、という入隊動機について、いくつかの事例を見てみよう。
 前述のヒッツマン氏は、まだ大恐慌後の不況が続いていた1936年に15歳で自発的にイリノイ州兵に志願した。当時は、週一回の訓練(半日程度)に参加すると1ドルが支給された。夏には15日間の訓練があった。日中は紅茶製造工場で働き、時給7.5セント、1日十数時間働いても75セントしかもらえなかった。第一次世界大戦一等兵として米陸軍に従軍した経験を持つ電気技師の父親からは、『正直、実直、勤勉に生きよ』と言われていただけだった。『手に職をつけよう』と陸軍に入隊したヒットマン氏は、はじめから戦争に行きたくて州兵を志願したわけではなかった。
 ヒッツマン氏のように、1930年代後半以降、州兵に志願した米軍兵士の多くは、大恐慌後の経済不況の中で、『1日1ドル』の訓練手当を目当てに、経済的理由から軍に入隊した。米国の1933年の失業率は約25%にのぼり、1940年になっても約15%という状況だった。
 1939年6月、14歳でノース・ダコタ州兵に志願したジェームズ・フェネロン氏も、ヒッツマン氏と同じく、経済的理由で志願した。5人兄弟(4男1女)の長男だったフェネロン氏は、家計を少しでも助けようと『1日1ドル』の訓練手当を目当てに志願した。ただ、彼の父親も第一次世界大戦への従軍歴があり、元陸軍軍曹だった父は、毒ガス攻撃で負傷した経験の持ち主である。また、フェネロン氏は、愛国心も強く、将来的には米国陸軍士官学校(ウエストポイント)に入校することを夢見ており、高校ではアメリカン・フットボールの選手だった。アメフト部のコーチも、州兵の将校だった。
 ところで、米国では、1940年に『選抜訓練徴兵法』が制定された。米国史上初の平時徴兵制である。第一次世界大戦時には、総動員兵力400万のうち約3分の2にあたる280万人が徴兵だったが、第二次世界大戦で徴兵された兵力は約1,200万の総動員兵力のうち、約1,000万にのぼった。
 1940年に徴兵登録し、1941年5月に1年間の予定で徴兵されたジャック・ロス氏は、その1,000万人のうちの1人である。1918年にミネソタ州の小さな町に生まれたロス氏は、彼が1歳の時に父と離婚した母と二人暮らしで、地元の大学を1年で中退した後、小さなガソリンスタンドを経営していた。1年間の予定で入隊したが、同年12月の日本軍による真珠湾攻撃により、太平洋戦争終結まで引き続き従軍することになった。終戦時には、米陸軍アメリカル師団歩兵164連隊(ノース・ダコタ州兵)の軍曹となっていた。
 徴兵登録した人物が、実際に徴兵されるかどうかは、登録番号によるくじ引きで決められた。1918年、イリノイ州シカゴ生まれのロバート・マニング元陸軍大尉は、1941年4月に徴兵された。軍人になりたいと思ったことはなく、自分の徴兵登録番号がくじ引きで当たったため『1年だけだ』と思って入隊した。高卒後、不動産関係の会社で働いていた彼は、軍隊生活は市民生活の中断だと感じていた。マニング氏は、イリノイ州内で入隊後、適性検査(一種の知能検査)を受けた結果、『将校適格』に相当する高得点をマークした。サウスカロライナ州で13週間の新兵訓練を受けた後、歩兵第132連隊(イリノイ州兵)に配属されニューカレドニアで少尉に任官した。入隊時、1年後にさっさと除隊したいと考えていたマニング氏だったが、真珠湾攻撃により考えが変わった。
 『真珠湾攻撃』が理由で入隊を志願するパターンは海兵隊員に多い。
 戦後、第四海兵師団戦友会の全米会長を務めたこともあるジョージ・マザラコス氏が17歳で高校を中退し、海兵隊に志願したのは1942年7月のことであった。志願理由は。前年12月の真珠湾攻撃。当時は、真珠湾がどこにあるのかさえよく知らなかったが、『とにかく軍隊に志願しなくちゃ』という気持ちになり、多くの友人たちも同様に高校を中退して軍隊に志願したという。マザラコス氏が選んだのは海兵隊である。『海兵隊は、米軍の中で最も最強で、男の中の男』というイメージがあったからだ。『戦争をするなら海兵隊、次に陸軍で、そのあとが海軍』だと考えていた。入隊後、マザラコス氏は戦車隊に所属し、サイパン上陸作戦にも参加した。
 同じく真珠湾攻撃後に、14歳であるにもかかわらず、18歳だと年齢を偽って海兵隊に志願したアンソニー・マスカレラ氏(元上等兵)は、カリフォルニア州北部出身。母を早くに亡くし、彼と双子の妹を育ててくれた父親も、列車事故により海兵隊志願の一ヵ月前に他界したばかりだった。一緒に暮らしている妹に引き止められないよう黙って家を出て、海兵隊の募集事務所までヒッチハイクで移動した。
 硫黄島では、日本軍兵士との白兵戦も経験し、戦後しばらくの間は、現代ではPTCD(心的外傷後ストレス障害)とみなされるような悪夢や白昼夢などに悩まされた。暗闇のなかで日本刀を振りかざして自分に襲いかかろうとする日本兵の姿が、戦後数十年たっても瞼に焼きついて離れないのだった。1946年から1991年までの45年間、彼は長距離トラックの運転手として、全米を走り続けた。自ら『孤独』を求め、閉鎖的空間より開放的な空間で仕事をしたかったからだ。周囲から戦争体験を聞かせてくれと言われても、断り続けた。自分の妻にも戦闘体験は話さない。この点は、日本軍兵士にも共通する。壮絶な戦闘体験をした兵士ほど、そのことについては無口になる。
 なぜ米軍兵士は戦うのか
 第二次世界大戦時に大量に動員された米軍兵士を対象に、大規模な社会科学的調査研究が実施された。その成果がThe Americam Soldier(『アメリカの兵士』Vvo1.1&2,1949)である。兵士の戦闘への動機づけや恐怖心への対処、リーダーシップ、組織内の人間関係や敵兵観など、広範なトピックに関する量的データが収集・分析された。米国では、社会科学研究における多変量解析の方法論的発展に寄与した業績としてよく知られている。
 この調査結果によれば、米陸軍兵士の戦闘への動機づけ要因は、欧州戦線の師団の下士官の場合、『任務遂行』が39%で最も多く、ついで『連帯感』(14%)、『家族や恋人への思い』(10%)、『義務感と自尊心』(9%)となっている。将校に対しては、『激戦中、何があなたの部下を戦闘へと動機づける要因だと思いますか』という若干異なった質問をしているが、その回答は『統率と規律』が19%で最も多く、ついで『連帯感』(15%)、『義務感と自尊心』(15%)、『任務完遂』(14%)、『復讐心』(12%)となっている。この『復讐心』は太平洋戦線では18%となっており、欧州戦線の約1.5倍の値となっている。
 さらに興味深い結果は、欧州戦線で従軍した兵士に日本軍兵士とドイツ軍兵士を殺す意識を調査したもので、『日本兵を殺してやりたい』と答えた兵士がおよそ40%であったのに対して、『ドイツ兵を殺してやりたい』と答えた兵士は10%以下であった。また、『任務とはいえ、日本兵を殺すことに罪悪感を覚える』と答えた兵士は20%以下であるのに対し、『任務とはいえ、ドイツ兵を殺すことには罪悪感を覚える』と答えた兵士は40%近くにのぼる。さらに、『戦争目的が不明確』であったことが兵士の戦闘行動に悪影響を及ぼしたと答えた将校の割合が、太平洋戦線では8%であるのに対して、欧州戦線では22%と倍以上となっていることも、日本軍兵士に対する米軍兵士の対敵感情を示す指標として興味深い。
 とはいえ、日本軍兵士に対する偏見は、米国本土で訓練を受けている兵士に強く、太平洋戦線で実際に日本軍と対戦した米軍兵士の間では、次第にその見方が変わっていくことも確かである。本国や欧州戦線にいる兵士よりも、太平洋戦線にいる兵士の方が、日本人に対する見方により寛容になる傾向にあり、下士官兵よりも将校の方がその傾向が強い。
 イリノイ州兵の歩兵第132連隊の兵士たちは、日本人は人種的に劣り、装備も貧弱、日本兵は臆病者ばかりだと本土で教えられてきたが、ガダルカナル島での実戦経験を通じて、卓越した戦闘技術を持つ兵士であり、決してあなどってはならない敵であることを改めて認識した。
 第132連隊の元軍曹リチャード・キャスパー氏は、米国本土での訓練で教えられたこともないジャングルでの戦闘を太平洋の孤島で経験したことを振り返り、『いつもびしょ濡れで、哀れなものだったよ』『初めて敵の小銃弾を浴びたのはジャングルの中で、パトロール中のことだった。銃声は聞こえるが何も見えない。12人の部下たちは指示を求めて私のほうを見てる。本当に自分の目では何も見えなくて、その時初めて失禁したんだ。失禁したのは後にも先にもその時だけだが』と語った。
 別の第132連隊の元軍曹は『15分の実戦は15年以上の訓練に相当する』と断言する。『実戦に勝る訓練なし』である。米軍兵士は、実戦を経験したことがない兵士が実際に敵弾にさらされることを『血に染まる』と表現する。ガダルカナル戦で、米軍兵士たちは『血に染まり』ながら、『戦友(部下)を守る』ための戦闘技能を身につけていった。S・L・A・マーシャルは、米軍兵士が戦闘へと動機づけられる最大の要因は『戦友の存在』であるとした。この戦友同士の『連帯感』こそが、米軍兵士を戦闘へと動機づける要因となった。第4海兵師団のマザラコス元伍長は、お互いの命を守り合っている戦友同士の間柄は『兄弟以上の仲』だと言う。日本兵にも共通する感覚である。
 戦場心理と恐怖心への対応
 ヒッツマン氏は、ガダルカナル島で初めて日本兵と遭遇した時の模様を、次のように語る。『最初に日本兵が視界に入った時、引き金がどうしても引けなかった。相手は人間だ。そんなことできなかった』。このように、実戦において、初めて敵兵と遭遇した際に、小銃兵が引き金を引くことを一瞬ためらう現象を米軍兵士は『バック・フィーバー(buckfever)』と呼んでいた。狩猟の初心者が、初めて獲物を仕留めようとする瞬間に、猟銃の引き金を引くのをためらうことを指す言葉からきている。そんなヒッツマン氏の日本兵に対する人間的な感情を完全に喪失させたのが、ガダルカナル島で行方不明になった二人の友軍兵士を発見した時の戦慄である。ジャングル内の木に磔(はりつけ)にされ、拷問された後があった。『それが私の、戦闘への動機づけの最大要因だったと思う』と彼は振り返る。その若い兵士たちを数年前からよく知っていた彼の『仕返しをしたい』という復讐心が、その後の彼を人間的感情のない『殺戮機械』に変えた。同じような体験は、他の米軍兵士からも聞かされた。日本兵による米軍兵士の虐待や残虐な殺戮、死体損壊行為が米軍兵士の『復讐心』を煽ったことは確かである。
 一方、ヒッツマン氏は、戦場で恐怖心を感じたことはあまりなかったという。これは、米軍兵士として少数派に属するが、むしろ日本兵の恐怖心の対処法に近い。『運命論だよ。あれこれ考えてもしょうがないんだ。自分の番が来たら、その時はその時と考えるだけだよ』と彼は言う。一種の諦観でもある。米軍では、訓練中から、戦闘において恐怖心を感じることは正常な反応であり、むしろ恐怖心が戦闘行動を阻害しないようにいかにコントロールするかが重要だと教えられる。第164連隊のフェネロン氏は、『戦場での恐怖心は常にある』と言う。『怖いけど、自分の任務を全うし、戦友を失わない』ように行動することを心がけていた。ただ、艦砲射撃や空爆迫撃砲弾など小銃兵では対処しようがない状況もある。怖くて仕方がない時には、ロザリオを取り出して『どうかこのまま生き続けて任務が達成できますように』と神様に祈った。『米軍兵士でお祈りをしたことがないなんて奴はウソつきだ』と言う。キャスパー元軍曹のように、恐怖心のあまり失禁した経験を素直に話す米軍兵士も珍しくない。
 フェネロン氏の証言を裏づけるデータがある。前掲の『アメリカの兵士』(第二巻)には、激戦時にどんなことが役に立ったかを尋ねた質問がある。その結果を示したのが図1である。

 図1 激戦時に何を考えることが役立ったか A 下士官兵 B 将校
 ・お祈り 
  A 70% B 62%
 ・戦友を守る(連帯感)
  A 61% B 85%
 ・任務完遂して帰国
  A 42% B 53%
 ・敵への憎悪
  A 38% B 46%
 ・戦争目的
  A 34% B 28%

 これを見ると、太平洋戦線で戦った下士官兵では『お祈り』が『とても役立った』と答えた者が最も多く70%、ついで『戦友を守る(連帯感)』(61%)、『任務完遂して帰国』(61%)、『敵への憎悪』(38%)、『戦争目的(何のために戦っているのか)』(34%)と続いている。一方将校では一位と二位が入れ替わっており、『戦友(部下)を守る』が85%で首位、ついで『お祈り』(62%)となっており、以下の順位は下士官兵と同じである。
 また、同じく『アメリカの兵士』(第二巻)には、『戦闘を重ねると、恐怖心は軽減されるか』と尋ねた質問もある。その結果、『より軽減される』と答えた者の割合は、下士官兵・将校ともに、太平洋戦線の方が欧州戦線よりもかなり多く、それぞれ32%(下士官兵)と65%(将校)であった。
 過酷な戦場──米軍兵士の苦悩
 ヒッツマン氏は、ガダルカナル島で偵察隊を率いていた折に日本兵の狙撃を受けた。偵察部隊の前半にいた部下は銃撃を受けて死傷し、後半部分の部下はそれ以上前進できなかった。彼は、残りの部下に『後退』を命じ、自身は日本軍陣地側に7日間残り続けた。彼自身は負傷しておらず、7日後に海岸から沖へ泳ぎ出て米軍陣地側に無事帰着した。その間、携帯食糧もなく植物を食べてしのいだ。もともと、米軍兵士にも豊富に食糧があったわけではなく、通常でも『1日にサンドイッチ半分』で飢えをしのいでいたという。
 第132連隊と同時期にガダルカナル島に上陸した第二海兵師団の兵士は、糧食の乏しい時には1日に一つの缶詰を4人で分け合って食べたという。ガダルカナル島での米軍は、補給不足に苦しみながらも、1日2回、朝食としてホットケーキとコーヒー、夕食は暖かい缶詰(Cレーション)と携帯口糧(Kレーション)が支給されており、日本軍と比べればかなり恵まれていたといえるが、それでも前述のように末端の部隊まで行き渡っていたわけではなかった。『アメリカの兵士』に記載されている1943年時点の調査結果によれば、太平洋戦線の43%(欧州戦線では36%)の兵士が『兵士の食糧、衣服、装備不足』しており部隊に悪影響を及ぼしていたと回答している。
 ガダルカナル島では、米軍兵士たちは恒常的な睡眠不足にも悩まされた。第二海兵師団のライル・シーツ元軍曹は、『ガダルカナルにいる間、屋根の下で寝たことはない』と語る。上陸期間が雨季にあたっており、一晩中、雨の中でも壕内にじっとしていることを強いられた。米軍の場合、通常は二人用の壕で、二時間交代で仮眠をとる。夜間行動は禁止され、暗闇で動いている者は敵兵とみなし、問答無用で射殺可とされた。実際に、友軍兵士に射殺された事例もある。そのため、壕から這い出して、用足しをすることもままならなかった。
 ある米陸軍下士官の述懐
 第164連隊の軍曹ジョン・スタナード氏は、1938年に16歳でノース・ダコタ州兵第164連隊E中隊に入隊した。高校時代はアメフト部で、州の代表選手にも選ばれた。1942年11月13日のガダルカナル島における戦闘で顔面を負傷。至近距離にある日本軍の軽機関銃陣地に自ら歩み寄り、銃撃を誘発しようとした。幸い貫通銃創で致命傷には至らず、しばらくガダルカナル島野戦病院で入院加療後、翌年7月に米国陸軍士官学校に入学、3年後に卒業して少尉に任官。空挺師団と歩兵師団勤務を経て、朝鮮戦争ベトナム戦争にも従軍したのち、NATO司令部や国防省勤務を経験し、陸軍准将として退官した。スタナード氏は、『戦闘が好きだった』と語った数少ない人物のうちのひとりである。アメフトの試合と同じで、『アドレナリンが噴出する感覚が何ともたまらない』のだと言う。その彼が、インタビューの最後に漏らした一言が、いまだに脳裏に残っている。『私は日本兵を尊敬している。これまで対戦した相手の中で、日本兵がベストだった』『できることなら日本兵を指揮してみたい。ただし、自分なりのやり方でね』。
   ◆   
 筆者がインタビューした米軍兵士の多くが、ガダルカナル戦では『五分五分の勝負』と思っていたと語った。スタナード元准将の述懐が米軍兵士側の日本軍兵士に対するそうした印象を代表している。本稿で紹介した米軍兵士の事例は、筆者が直接話を聞くことができた兵士にかぎられている。特に、『州兵』という米国独特の予備兵力を構成する部隊の兵士が中心であり、偏りがあることは否めない。しかしながら、米国の民兵制の伝統を受け継いでいるのも彼らである。ガダルカナル島では、海兵隊員らから『弱兵』と偏見の目で見られながらも、戦闘経験のない彼らは日本兵との交戦を通じて『血に染まり』ながら実戦能力を高めていった。このことは、おそらく太平洋戦争に動員された幾多の米軍兵士にも共通する体験であろう」
   ・   ・   ・   
 最前線で戦った日本人兵士の大半は、戦争体験を語らずに死んでいった。
 加害者責任を痛感する一部の日本人兵士と被害者意識のある朝鮮人や中国人は、PTSDの影響が少なく、戦争体験を淀みなく克明に語っている。
 朝鮮人や中国人の被害者としての戦争体験は、全てが 反日派敵日派であり、日本・日本人との親友・戦友の証言と言った親日派知日派は絶無である。
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 日本とアメリカは同盟国となり、日本人とアメリカ人は友人となり、そして多分戦友になることができる。
 日本と中国共産党・韓国そして北朝鮮とは、隣国として表面的な友好関係を持つ事はできるが、更に踏み込んで深い所では結びつく事はできない。
 日本人と中国人・韓国人・朝鮮人とは、上辺だけの軽い友人にはなれるが、心を開いた信頼し信用しあう親友にはなれないし、共の戦う戦友には絶対的になれない。
 日本と中国・韓国・北朝鮮との間に、友好の橋を無理して築いたとしても数年から数十年しかもたない。
 いずれにせよ、日本と中国・朝鮮の間には友好など存在せず、埋める事が絶対に不可能な溝・海が存在する。
 同様に、ロシアも友人にも同盟国にもならない。
 日本にとっての、友人、同盟国は、アングロ・サクソンアメリカとイギリスしか存在しない。
 日本人にとって日本人以外で戦友と言えたのは、親日派知日派の台湾人・朝鮮人満州人・モンゴル人など極少数の人々だけであった。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺害しようとしていた。
 日本人にとって、白人であるアメリカ人やイギリス人と違って、同じアジア人でも中国人や朝鮮人はどこから撃ってくるか分からない不気味な人間でった。
 何故か、アメリカ人やイギリス人は、国際法を遵守し、世界のルールや規則に従い、約束や契約、ましてや国家間での条約や協定そして合意を取り交わしたら多少の不利があっても守るからである。
 中国や韓国・北朝鮮そしてロシアは、自分勝手に歪曲し、自分に都合よく破って守らない事が多いからである。
 そんな相手が、友人であろうはずがなく、まして戦友などにはなりえない。
 中国でも、中国共産党はその最たる者である。
 全ての共産主義者マルクス主義者)にもその事が言える。
 キリスト教徒は、3分の2がそうで、残りの3分の1は友人にも戦友にもなってくれていた。
 事実、帝国軍軍人として、天皇の為、国の為に、民族の為に、戦ったキリスト教徒がいた。
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 共に、確実に戦死する事が分かっている地獄のような戦場で戦ってくれるのが、友人、真の友人であり、戦友である。
 共に戦うのを拒否しして、自分1人が助かりたいが為に仲間を裏切り、仲間を見捨てる者は、戦友でもないし友人でもなかった。
 それが、共産主義者マルクス主義者)の真の姿であった。
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 日本が必ず負けるという絶望的な戦争を続け、日本人が生きて帰れない地獄のような戦闘を繰り返している時、彼ら(共産主義者)は何処にいたのか、そして何をしていたのか、である。
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 重要なのは、口先だけの綺麗事か、泥臭い行動か、の違いである。
 言霊信仰を持つ日本民族日本人が重視したのは、口先だけの綺麗事ではなく泥臭い行動である。
 それが、日本の「覚悟の文化」である「不言実行」である。
 言わなくても分かり合える、日本心・大和心である。
 言わないと分からないのが、中華(中国・朝鮮)の唐心・漢心であった。
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 現代日本には、上っ面だけの、薄っぺらな、見せかけの、心ここにあらずのニセ友人が溢れかえっている。
 生死を共にする、共に戦うという、深い心での友情、真の友人、助け合う庇い合う戦友は、現代の日本から消え失せている。
   ・   ・   ・   
 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺しようとして付け狙っていた。
 戦後。敗戦で混乱する日本国内で、暴れる朝鮮人による凶悪犯罪が続発し、夥しい日本人被害者が生み出されていた。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、日本にとって中国・朝鮮は敵国であって友好国ではなかった。
 日本と中国・朝鮮との間には友好関係などなかった。
 日本は、その環境の中でアメリカ・イギリスなどの連合国と一カ国のみで孤独に戦っていた。
 ナチス・ドイツは、孤独ではなく、周辺諸国に作った傀儡国家、親ドイツ国家、ファシスト勢力と同盟を組み協力して戦っていた。
 ドイツ軍にとってそれらの国と地域の諸国民は、共に戦う戦友でった。
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 日本軍は、良い事(人道貢献)もしたが悪い事(戦争犯罪)もした。
 だが、日本軍は組織として人道貢献をしたが戦争犯罪はしていない。
 戦争犯罪を行ったのは、軍国日本・日本軍、不特定多数ではなく特定少数、つまり誰と誰であると分かっている個人である。
 戦争犯罪を行った個人は、戦後、戦時国際法に基ずく軍事法廷でBC級戦犯として有罪判決を受け、悪質な個人は縛り首で処刑された。
 つまり、戦争犯罪は個人の犯罪として国際司法において結審しいて終了し、諸問題は完結している。
   ・   ・   ・   
 世界は、軍国日本・日本軍が組織として行った幾つかの人道貢献を認めないし、ましてや日本軍兵士が個人として行った戦闘後の敵軍兵士の救助・保護・救護などには見向きもしない。
   ・   ・   ・   
 日本軍の捕虜虐待も関東大震災朝鮮人虐殺も、日本の歴史上、その一つしか存在しない。
 それ以外には、見つからない。
 中華(中国・朝鮮)はおろか、西洋でも、別の処でも、大陸の至る所、全ての国々と全ての民族で同じような行為が数限りなく存在する。
 人類史・世界史・大陸史では、ありふれた行為として存在する。
 存在しないのは、日本の歴史だけである。
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 世界は、国際司法・戦時国際法は、敗戦国の犯罪は細大漏らさず洗いざらい掘り起こして有罪判決を下し、一切の情状酌量の余地を見せず容赦なく処刑した。
 が、戦勝国の犯罪は一切罪に問わず無罪とした。
 オーストリアのウェッブ裁判長は、極東国際軍事裁判東京裁判)は敗戦国日本が犯した戦争犯罪を裁く場であって戦勝国(連合国=国際連合)の戦争犯罪を問う場ではない、と公式見解を述べている。
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 戦勝国では、国家・軍隊の組織から一兵士の個人にいたるまで数多くの戦争犯罪を行ったが、人道貢献は少ない。
 特に、ソ連のロシア人兵士や中国共産党など共産主義者が行った戦争犯罪は、人類の悍ましい汚点として歴史に明記すべきである。
 ロシア人兵士や中国共産党など共産主義者が行った行為の中で、人道貢献は皆無と言っていいほどない。
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 東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯達は、戦争を始めた「平和に対する罪」で裁かれた。
 だが、彼らは同時に人類史・世界史に名を残すような人道貢献も行った。
 数万人のポーランドユダヤ人難民達の保護。黄河決壊による洪水で数百万人を救助。河南省大飢餓で1,000万人以上の救護。
 天皇戦争犯罪天皇の戦争責任を問われている昭和天皇も、人道貢献に関与していた。
 天皇家・皇室、皇族は日本赤十字を通じて、捕虜収容所内で、敵軍兵士捕虜の怪我や病気の治療に当たっていた。
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 戦死した日本軍兵士の3分の2は、補給がなく餓死か病死であった。
 戦前の日本兵には、補充兵や武器弾薬・食糧・医薬品の補給はなく、当然増援もなく、撤退の術もなく倒れ、ジャングルや洞窟・洞穴の中で朽ち果てていった。
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 太平洋にある絶海の孤島に配備された日本軍守備隊は、制海権・制空権を失えば全滅するしかなかった。
 つまり、太平洋島嶼に送り込まれ日本軍は、島に上陸したその時に見捨てられてたのである。
 太平洋戦争は、ヨーロッパ戦線とは違い、玉砕が定められた絶望的な地獄の戦争であった。
 その象徴的死闘がサイパン攻防戦であり、一般市民がアメリカ軍への投降を拒否して集団自決したのも絶望からである。
 日本人は、日本人移民を人間以下の家畜として差別し迫害した人種差別主義者のアメリカ人を信用できなかった。
 日本人が自決したのは、軍部に騙されたのではなく、宗教的白人至上主義のアメリカが助けてくれるとは到底信用できなかったのである。
 日本人の集団自決は、日本人が命を粗末にしたからではなく、アメリカ人の偏狭的人種差別が原因であった。
 追い詰められた日本人が最後に選べる選択肢は、自決以外になかった。
 手を挙げてアメリカ軍に投降すれば助かる、という保証はなかったどころか、信じ切れなかった。
 アメリカの人種差別による日本人移民排斥運動は、それ程日本人に深刻な影響を与えていた。
 日本人は死の美学から死に急いだのではなく、アメリカ人の日本人に対する悪意によって死に追い込まれていたのである。
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 生きる為の投降をせず集団自決という死を選んだのは、戦前の命軽視の愛国教育が原因であったとして厳しく非難する日本人教育者がいるが、彼らには事実が見えない。
 彼らは自分が信じたい真実しか見えないし、それ以外は全て真実ではないとして排除している。
 彼らの主張を聞いて真に受けると、本当の事実が見えなくなる。
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 戦陣訓「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」が、玉砕・全滅や集団自決の原因であったというのは、嘘である。
 日本民族日本人ほど死ぬ事を恐れ、生きる為に一目散と逃げ出そうとする気弱な人間はいない。
 逃げられない所まで追い詰められた時、これ以上は逃げられない助からないという所に追い込まれた時、九死に一生を得る為、死中に活を求める為、「窮鼠猫を噛む」的に、肉を切らせて骨を断つ的に攻撃性を発揮するのが日本民族日本人である。
 日本民族日本人は、理不尽に絶体絶命的に追い詰められた時に、起死回生として予想も付かない手段で行動を起こす。
 それが、日中戦争であり、太平洋戦争であった。
 万歳突撃、玉砕、集団自決、そしてカミカゼ特攻である。
 それゆえに、非人道的犯罪である自爆テロとは違うのである。
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 日本民族日本人は、全員が善人とは言わないが、全員が悪人でもない。
 日本人の中で犯罪を犯す悪人は確かにいたが、その人数は、中国やソ連に比べればはるかに少なかった。
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 軍国日本は無謀な戦争を始めたが、国家として政府として、アメリカやソ連中国共産党に比べて非人道的行為は行っていないし命じてはいない。
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 国家元首である昭和天皇は、ルーズベルトスターリンチャーチル毛沢東に比べれば冷静で真面であった。
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 日本はおろか如何なる国においても、兵士になって最も危険な戦場に送られるのは貧しい家の子供で、権力に近い家や金持ちの家の子供は兵役が免除されるか、兵士となっても後方の安全な部署に配属される。
 それは、何時の時代でもかわりない。
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 貧富の格差は、日本よりアメリカの方が大きかった、というより日本は総じて貧しかった。
 アメリカの貧富の格差が天と地の開きととするなら、日本の貧富の格差は富士山の頂上と裾野のくらいの開きに過ぎない。
 そして、人種差別は、アメリカでは超えられない壁であったが、日本ではそれ程の壁ではなかった。
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 しょせん、裕福な家庭で育ったマルクス主義者(共産主義者)には、貧者の苦労は分かりようがなかった。
 マルクスの「資本論」や「共産党宣言」、レーニンの著書が読めるのは、高学歴出身知的エリートのみであって、貧しい低学歴出身労働者ではない。 

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