🔯39」─3─十字軍の失敗では東方貿易が活発化しヨーロッパ都市が発展しました。~No.139No.140No.141 ⑱ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 人類のルールは、宗教・哲学・思想で如何に粉飾しようとも生物生存競争の原則である「強者必勝、弱者必滅」で成り立っている。
 そして、弱者には強者から逃げるか強者の奴隷になるかの二者択一しかない。
   ・   ・   ・   
 キリスト教は、最初は弱者として強者の奴隷となったが、後に力を付けて強者をのみ込んで強者となった。
   ・   ・   ・   
 現代日本がもし歴史的現実の世界で生きようとすれば、数年とも持たずに皆殺しに遭って滅亡する。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は国際力や歴史力などの総合力がない為に、英語や中国語などの外国語会話を学んでも、歴史、政治・軍事、文化・風習・習慣、宗教、思想・哲学・イデオロギーなど深部まで理解する事ができない。
   ・   ・   ・   
 宗教が、教団・教会・組織を形成して排他的宗教権威を振りかざし、政治・経済・軍事と結びつくと地上は神聖な地獄となる。
 それは、反宗教無神論マルクス主義共産主義)も同じである。
   ・   ・   ・   
 宗教的白人至上主義。
 絶対神は自らに似せて白人を創られ、白人を愛し祝福し恩寵・恵を与え奇跡をあらわした。
   ・   ・   ・   
 十字軍の戦いは、キリスト教勢力にいてもイスラム教勢力にしても正しい戦争・正義の戦争・聖戦であった。
   ・   ・   ・   
 「インノケンティウス3世は1215年、ラテラン公会議で『教皇は太陽、皇帝は月』と演説しています。月が太陽の光を受けて輝くが如く、皇帝などの世俗君主は教皇の威光の輝きを受けて存在しているとして、教会権力の優越を示したのです。」
 絶対神は、全知全能にして全てを声を発し思いのままに創った創造主で、信仰を契約する者に対してのみ奇跡や恩寵や癒しを施す。
 イエス・キリストは、太陽や月の上に存在する神の子として、信仰を誓う者を導く救世主である。
 中世ヨーロッパとは、キリスト教会が絶対神の御名、信仰、福音、十戒などの戒めで統治する神聖不可侵の「神の王国」であった。
   ・   ・   ・   
 2020年9月号 歴史街道「10分でわかる『十字軍の200年史』
 教皇、諸侯、それぞれの目的から〝聖戦〟の舞台裏まで
 11世紀から13世紀にかけて、『十字軍』が繰り返し聖地イェルサレムへ派遣された。
 それは200年という長きにわたった断続的に行われ、目的も、戦う相手も変わるなど、複雑な様相を呈した。十字軍はヨーロッパの歴史に、どんな影響を与えたのか。
 宇山卓栄
 遠征は『聖なる戦い』ではなかった!?
 十字軍は、教会勢力の政治的な思惑によって、形成されていきました。
 当時、キリスト教は西の総本山と東の総本山に分かれ、同じキリスト教でも宗派が異なり、対立していました。西側はローマ教会のカトリックで、東側はビザンツ帝国におけるコンスタンティノープル教会の東方正教会ギリシア正教)です。1054年、ローマ教会とコンスタンティノープル教会はお互いに破門し合い、対立を深めていきました。
 当時、ビザンツ帝国イスラム教勢力のセルジューク朝に侵攻され、危機的な状況に陥(おちい)っていました。ビザンツ帝国は背は腹に代えられぬと西側に助けを求め、これに応(こた)える形で、西側のローマ教皇が十字軍を派遣するのです。ローマ教皇ビザンツ帝国を助けることで、東西に分離した教会を再統合し、ローマ教会の主導権を回復しようと考えていました。
 聖地イェルサレムイスラム教徒に占領されましたが、同地はイエスが処刑された場所で、キリスト教徒にとおって重要な意味を持ちます。聖地イェルサレムイスラム教徒から奪還することが、十字軍の目的として掲げられました。
 イェルサレムは一方で、イスラム教徒にとっても重要な聖地です。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地で、預言者ムハンマドが天馬に乗って昇天(しょうてん)したとされる場所に、『岩のドーム』と呼ばれる神殿が建っています。
 主導権の回復意外に、ローマ教皇には別の狙いもありました。
 絶大な力を持つローマ教皇を頂点とするカトリック教会は、ヨーロッパ各地の教区における行政権や徴税権を握り、政治を牛耳(ぎゅうじ)っていました。カトリック教会はこの十字軍によってさらに、軍事力を有している諸侯たちをも管理下に置き、政治的権限を拡大するため、ローマ教皇のウルバヌス2世が聖地奪還を提唱しました。
 諸侯とは、日本でいうところの地方の豪族や藩主のような存在で、広大な領地を持ち、貧者を雇い入れるなどして、自らの軍隊を持っていた。
 11世紀、イタリア商人たちはレヴァントン貿易(東方貿易)と呼ばれるイスラム商人との遠隔地交易で香辛料・宝石・絹織物などの奢侈(しゃし)品を扱い、莫大な富を得ていました。
 地代を収入源にしていた諸侯たちは、こうした経済発展の恩恵を被(こうむる)ることはなく、一攫千金を夢見て十字軍に協力します。
 この時代において、十字軍に参加したフランス王やイギリス王、またドイツ(当時は神聖ローマ帝国)皇帝などはその実力において、諸侯たちと大差ありませんでした。王や皇帝は国を統一しておらず、群雄割拠の一勢力として、諸侯たちと並び立っていたに過ぎません。
 一攫千金を目論む王や皇帝を含む諸侯たちの勢力を、十字軍の旗のもとに集結させて、東方に遠征させることで、自らの権限を強化するとともに、支配領域を拡大する、これが十字軍が始められる際の構図でした。イスラム教徒に奪われた聖地イェルサレムの奪還は、単なる名目として掲げられていたに過ぎません。
 では、参加した兵士たちにはどのような思惑があったのか。
 『東方に行けば儲かる』、人々はこのような期待を抱いて、十字軍に参加したと思われます。中世を彩(いろど)る十字軍とイスラム教勢力の戦いは、信仰心に燃える両者の『聖なる戦い』というよりはむしろ、世俗的な利益に翻弄されたものでした。
 イタリア商人たちの成功は、ヨーロッパ人にとっての羨望(せんぼう)の的(まと)となっていました。レヴァント貿易の発展とともに、ヨーロッパ経済は躍進しましたが、貧富の格差も拡がりました。一般の人々は経済発展の恩恵をほとんど被ることがなく、不満が鬱積していたのです。
 当時、三圃制(さんぽせい)農業(耕地を3分して一つを休閑{きゅうかん}とし、異なる作物で輪作{りんさく}する)の普及などで、農業生産力の向上が見られ、人口も増加しました。
 しかし、全ての人々に肥沃(ひよく)な地が行き渡ったわけではなく、持たざる者たちは新天地を求め、積極的に十字軍の東方遠征に加わりました。そうした背景もあって十字軍は実際には、ならず者たちの集まりで、強奪や狼藉の限りを尽くしたことで知られています。
 教皇使節アデマールの見事な働き
 諸侯勢力や彼らの配下になっていた兵士たちをまとめ上げるには、単に、聖地奪還という十字軍の理想を掲げるだけでは不充分でした。十字軍に参加することで、現世利益を得ることができるという確証を与えなければなりません。
 教皇ウルバヌス2世はカリスマ性のある人物で、1095年、フランス中部の都市クレルモンで開催された公会議において、大演説を行ない、人々を熱狂させました。
 『あなた方がいま住んでいる土地は決して広くはなく、豊かでもない。そのため、人々がいがみ合い、争っているではないか。乳と蜜(みつ)の流れる国カナンへ向かえ。そこは神があなた方に与えたもう地である』と呼び掛けます。すると人々は、『神の御心のままに!』と叫んだといいます。
 『カナン』とはイェルサレムを含むパレスティナ地方一帯の古代名で、イスラム勢力が支配しています。
 ウルバヌス2世は持たざる者たちに、豊かな東方へ遠征し、そこで富を享受(きょうじゅ)せよと教えたのです。彼らは、東方と取引をしていた富裕なイタリア人商人たちの成功を見ていたので、東方に行けば、自分たちも豊かになれると信じました。
 しかし、現世利益で諸侯や兵士たちを繫ぎ止めらとしても、出身や身分も考え方も異なる彼らを、簡単にまとめることはできません。いったい誰が彼らを指揮するかが問題になりました。ウルバヌス2世は、司教のアデマール・ド・モンティユを教皇使節に任命し、十字軍の事実上の指揮官にします。
 アデマールは極めて有能な人物で、二代前の教皇グレゴリウス7世の教会改革を支持し、彼のために働くことで出世を遂げた人物です。クレルモン演説の以前から、教皇とともに諸侯たちを訪ねて回り、十字軍に参加するように説得し、事前調整をしていました。こうした彼の調整能力が買われたのです。
 十字軍の遠征先では案の定(じょう)、諸侯や兵士たちが内輪もめを繰り返しました。アデマールが常に彼らの利害を調整しながら、仲を取り持ち、まとめていました。
 諸侯らの部隊がイスラム軍に包囲されて苦境に陥った時には、常にアデマールは自らが兵を率いて救援に駆け付けたので、諸侯から信頼されていました。また、兵糧が不足すると自ら断食して見せるなどして、兵士を鼓舞しました。
 ……
 8ヵ月続いたアンティオキア攻囲戦は苦闘の末、十字軍がイスラム軍に勝利し、イェルサレムの攻略への足場を確保しました。
 しかし、その直後の1098年8月、アデマールは病没します。彼の死後、諸侯たちの内輪もめが再燃しました。それでも、十字軍は何とかイェルサレムに向けて行軍します。
 そして、イェルサレム攻囲戦。ここで、ある兵士が『アデマールの霊が現れ「城壁をよく見て回れ」と自分に告げられた』と言います。偵察兵に城壁をよく探らせるとその弱点を発見し、城壁を突破することができました。恐らく、これはアデマールが死の直前に授けた策であったろうと思われます。
 商人たちに担がれたリーダー
 十字軍は勝利しましたが、諸侯の内輪もめは止まりませんでした。そのため、彼らが占領したエリアは一つにまとまらず、諸侯たちによって分割統治されます。
 ……
 1144年、エデッサ伯国イスラム勢力により攻撃されます。そこで、フランス王やドイツ王らが第2回の十字軍を率いて遠征します。しかし、彼らはイスラム軍に敗れ、あえなく撤退しました。
 十字軍とイスラム軍との死闘とは反対に、ヨーロッパとイスラム地域の経済的な交流はますます強まり、両者の交易が空前の好景気をもたらします。
 エジプト・シリアはアラブ系、イラン系、トルコ系、アフリカ系などの様々な人種が行き交い、活気に溢れました。商人たちは、商取引をスムーズに行うための法体系の整備、貨幣やマーケットの統一などを求め、イスラムをまとめることのできる強いリーダーを欲するようになります。
 リーダーとして担がれたのはサラディン(サラーフ・アッディーン)。クルド人というアラブ系の武装少数民族出身の人物です。クルド人は古来、戦闘のプロで、屈強な兵士の集団として知られ、特にサラディンはその中でも天才的な戦略家でした。
 商人たちの期待に応えて、バラバラだったエジプト・シリアを統一したサラディンは、1169年、アイユーブ朝を建国します。アイユーブ朝はカイロを首都として、地中海交易を保護し、それによってもたらされる利益を財源として、発展しました。
 統一を果たしたサラディンは、シリアに進出していた十字軍勢力と戦います。1187年以降、十字軍勢力が占領していたシリアの沿岸部都市を、次々と攻略していきます。
 信仰のためか、経済のためか
 イスラムキリスト教のヨーロッパ圏と貿易取引をしながら、シリアのキリスト教勢力と戦っています。これは一見、矛盾しているように見えますが、実は、同じイスラムの中でも、商人たちとサラディンのような政治指導者は考え方が異なっていたのです。
 商人達はキリスト教徒との交易を続けることが最優先であり、彼らがシリア地方の聖地を侵略しているとはいえ、彼らとの取引が途絶えることは避けなければなりませんでした。
 しかし、サラディンにとって、キリスト教徒は不倶戴天の敵です。異教徒の侵略を許し、そのことにより、弱い指導者のイメージが先行すれば、求心力を失い、政権の崩壊に繋がります。
 エジプトとシリアの統一を実現するため、イスラム商人は強い指導者サラディンを支援しました。しかし、統一後、更(さら)なる戦いを求め、十字軍と本格対決しようとしたサラディンに対して、イスラム商人は反発するようになります。
 サラディンに反撃するため、第3回目の十字軍の派遣が1189年、決定されました。この十字軍には、ドイツ皇帝やフランス王が加わっていましたが、実質的な指導者はイギリス王のリチャード1世でした。ドイツ皇帝は遠征の途中で陣没し、フランス王は途中で帰国しています。
 リチャード1世は勇猛で戦(いくさ)上手でした。サラディンリチャード1世との戦いに、のめり込んでいきました。ヨーロッパと取引していたイスラム商人にとって、十字軍との全面戦争は取引の破談を意味します。
 イスラム商人たちはサラディンの対決姿勢に付いて行けず、彼への財政支援を打ち切ります。困窮したサラディン軍の士気が下がりはじめます。
 ……
 サラディン軍は敗退し、シリア沿岸のほとんどを十字軍が領有することを認める和平条約を、1192年に結びました。これにより、キリスト教巡礼者のイェルサレム入城が許可されました(同地を奪還したわけではない)。失意のサラディンは和平の翌年、死去します。
 勝利したリチャード1世は『信仰を貫いた聖騎士』と讃(たた)えられますが、サラディンとの和平交渉の席上で、リチャードは自分の妹を、サラディンの弟で名将のアル・アーディルに嫁(とつ)がせる提案をしています。そして、アル・アーディルがキリスト教徒に改宗すればよいと発言し、サラディンたちに呆(あき)れられたと伝えられます。
 リチャードにとって、信仰というものは政治的な都合で、簡単に変えられることができるものだったようです。
 『聖地奪還』の目的が変わった第4回遠征
 十字軍の成功で、教皇の権威も高まりました。教皇インノケンティウス3世はさらに成果を上げるべく、1202年、第4回十字軍を派遣します。
 フランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯たちが、この十字軍に参加しました。この十字軍はイスラム勢力と戦うことなく、コンスタンティノープルを占領します。
 コンスタンティノープルビザンツ帝国東ローマ帝国)の首都で、100万の人口を誇り、東西交易で繁栄していた都市でした。
 元々、十字軍はイスラム勢力に苦しめられていたビザンツ帝国から、援軍派遣の要請を受けて組織されたものでしたが、教皇や諸侯たちは弱体化するビザンツ帝国を隙(すき)あらば征服してやろうという野心を、潜在的に有していました。
 第3回十字軍でも、リチャード1世ビザンツ帝国領のキプロス島を占領しています。ビザンツ帝国を助けるというのは建前に過ぎません。
 第4回十字軍に協力していたヴェネツィア商人たちが有していた艦隊は、最初からコンスタンティノープル攻略を想定して、攻城兵器を準備していました。
 ヴェネツィア商人たちは十字軍の軍団輸送を請け負っており、十字軍がその運賃を払えなかったため、ヴェネツィア商人の要求に応じて、仕方なくコンスタンティノープルを攻めたと一般的には解説されてますが、最初からそれが狙いだったのです。
 当然、教皇インノケンティウス3世も、事前にこうした狙いを理解していたと考えられます。彼にとって、東西教会の統一は達成すべき使命でした。
 十字軍がコンスタンティノープルを占領したことに対して、インノケンティウス3世は激怒して十字軍を破門した、とされますが、これは正確ではありません。教皇が十字軍を破門した本当の理由は、彼らがザダル(現在のクロアチア港湾都市)を攻略したからです。
 この都市はハンガリー王の支配下にありました。ハンガリー王は教皇に忠実なカトリック君主であったにもかかわず、十字軍は教皇の意に逆らい、ザダルを占領したため、教皇の怒りを買ったのです。
 その後、十字軍がコンスタンティノープルを占領した時、インノケンティウス3世は念願の東西教会統一を達成できたと喜び、十字軍の破門を解き、祝福しています。彼らが新たに建国したラテン帝国も承認しています。
 インノケンティウス3世が十字軍のコンスタンティノープル占領に激怒して破門したというのは当時、建前で使われた方便であり、実態ではありませんでした。
 こうした方便は教皇への非難をかわす目的でも使われたと考えられます。占領時、十字軍は強奪、強姦、虐殺、破壊、放火などのあらゆる蛮行を行っていました。ビザンツ帝国の歴史家は、異教徒のイスラム教徒でさえこんな蛮行はしなかったと非難しました。
 さらに、その後、教皇は再び、破門しています。これは彼らがビザンツ帝国勢力の反乱鎮圧に手こずり、イスラム教徒との戦いになかなか向かわなず、教皇の怒りを買ったからです。
 いずれにしても、東西教会が統一され、教皇の権威は高まりました。
 インノケンティウス3世は1215年、ラテラン公会議で『教皇は太陽、皇帝は月』と演説しています。月が太陽の光を受けて輝くが如く、皇帝などの世俗君主は教皇の威光の輝きを受けて存在しているとして、教会権力の優越を示したのです。
 十字軍の失敗が時代を動かした
 教皇は宗教世界の指導者とされますが、この時代、世俗世界をも支配し、皇帝や王、諸侯を屈服させ、十字軍をはじめとする軍隊をコントロールしました。
 神が絶対であった中世において、神の威光を背景にした聖職者の判断が尊重され、信用されました。あらゆる分野において、聖職者が認めたもののみが正当性を持ち、それを中心として物事が回りました。
 人間の叡智よりも神の叡智が優先され、神学上の解釈は法をはじめ、政治制度、商習慣など、あらゆる分野に大きな影響を与えました。
 例えば、ある一つの民事上の争いを裁くにあたり、聖書には、どう書かれているかを参考にして、法解釈をしていくといった具合です。つまり、聖職者や神学者は法を司(つかさど)る裁判官でもあつたのです。
 一方、王や皇帝などの国家の君主は、名ばかりのものでしかありませんでした。国家の存在やその意識が希薄で、中央集権的な国家は生まれず、代わりにキリスト教が国家や民族を超えて、連帯への意識の中核となっていました。
 教皇は強大な権力を持ち、ヨーロッパの隅々にまで息のかかった聖職者を送り込み、教皇連合体を形成していました。こうした宗教連合体制の中で、中世の都市が育ちました。
 教会は都市の行政権や徴税権を握り、行政機能や秩序維持の中心的な役割を担います。そのため、教会を中心に取り囲むようにして、都市が形成されました。ヨーロッパでは、どのような小さな街にも教会があります。今日(こんにち)でも、教区が行政の単位として使われています。
 十字軍の遠征は、ヨーロッパ世界にイスラム・東方への接触の機会を豊富に与え、都市の更なる発展にも寄与しました。
 しかし、その後の十字軍は失敗が続き、それとともに、教皇の権威も失墜していきます。
 十字軍の建国したラテン帝国は約半世紀の間、コンスタンティノープルを支配しましたが、旧ビザンツ帝国の勢力が盛り返し、1261年、ビザンツ帝国が復活します。結局、東西教会の統一は長く続きませんでした。
 その後も、十字軍は第7回まで派遣されますが、成果を上げることができていません。
 十字軍は結局、失敗に終わり、イェルサレム問題や中東和平問題など、今日に繋がる諸課題の遠因(えんいん)となります。一方、経済的には、東方貿易が活発化し、ヴェネツィアなどの北イタリアの諸都市をはじめ、ヨーロッパ都市が発展しました。
 14世紀になると、教皇の力が失われ、代わって、人間世界(俗権)の代表者である王が力を持ちはじめます。また、それまで、教皇に付き従っていた各地の諸侯や都市商業勢力も、教皇から離れていきます。
 教皇を頂点とする神や教会の時代であった中世が終わり、人間の時代である近世ルネッサンスが幕を開けることになるのです。」
   ・   ・   ・   
 日本民族心神話、高天原神話、天孫降臨神話では、太陽は最高神の女性神天照大神である。
 天皇の正統性とは、天照大神からの万世一系の血統・血筋・皇統の男系父系相続にあり、女系母系にはない。
 女系母系にあるのは、神聖不可侵の血筋的正統性ではなく変更可能な非血筋の便宜的正当性だけである。
 現代の日本は昔の日本とは違い、血筋に対する考え方や想いが違い、愛おしさや愛着は薄れてきている。
 日本天皇の統治は、日本民族が住む日本列島の中だけで、朝鮮半島や中国大陸に及ばなかった。
 それが、八紘一宇である。
   ・   ・   ・   
 儒教は天・天帝とは、宇宙の万物を支配する唯一の絶対上帝としたが神・創り主とはしていない。
 天帝は、漢族中国人や蛮族異民族に関係なく人の中で最も徳に優れた者を我が子として正統な中華皇帝と認め、人が住む地上の全ての統治権を与えた。
 それ故に、中華皇帝は天子と呼ばれた。
   ・   ・   ・   
 1095年 教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で十字軍を提唱し、翌年に第1回十字軍が組織された。
   ・   ・   ・   
 源頼朝は、1185年に鎌倉幕府を開き、1192年に征夷大将軍に任命される。
 1221年 承久の乱。  
   ・   ・   ・   
 1115年 満州女真(じょしん)族完顔(わんやん)部の首長・阿骨打(アクダ)は女真族を統一して、契丹族遼王朝を滅ぼし、満州内モンゴルを征服して金王朝を建国した。
 1127年 金軍は、中国を侵攻して宋軍を破り華北を占領した。
 宋の王族(漢族系中国人)は、江南(揚子江流域)に逃れ南宋王朝を再興し、都を臨安(杭州)に定め、金に対抗する為に隣国の倭国=日本との交易を盛んに行った。
   ・   ・   ・   
 朝鮮半島には、仏教国の高麗王朝(936年~1392年)が存在していた。
 1019年 刀伊の入寇。大陸の女真人海賊が、高麗人を語って筑前壱岐対馬を襲撃し、殺戮・強奪・日本人強制連行を行った。
 日本朝廷は、高麗からの国交開設要請を拒絶した。
   ・   ・   ・   
 キリスト教会は、絶対神への信仰を契約し洗礼を受けてキリシタンは助けたが、洗礼を拒否した異教徒イスラムは殺した。
 イスラム教勢力も、イスラムに改宗すれば助け、改宗しない異教徒は殺した。
 キリスト教勢力とイスラム教勢力が熾烈な殺し合いをしている時、第3勢力であったユダヤ教徒ユダヤ人達は中立を保ち両陣営に税金・軍資金を納め智慧と度胸と行動で地中海交易を続けて荒稼ぎしていた。
 国際商人にとって、戦争の方が平和よりも数十倍も儲けていた。
 戦争は金になった。
 キリスト教イスラム教は、信仰の為に戦争を続けた。
 ユダヤ教は、信仰の為に金儲けを続けた。
 ユダヤ人の智慧とはそういう事である。
   ・   ・   ・   
 世界の富はビザンツ帝国に集中していた。
 中世ヨーロッパにおける貧富の格差は歴然で、西欧・北欧・東欧は貧しく、イスラム教の中近東との交易を行ってい南欧はわりかし裕福であった。
 人類・人間は、儲かるか儲からないか、金になるか金にならないか、の、欲得で行動する。
   ・   ・   ・   
 十字軍での熱烈にして敬虔なキリスト教徒は、絶対神への信仰と教会への忠誠を誓う聖騎士団の少数派で、多数派は個人の欲得で動く世俗集団であった。
 各地の王侯貴族・諸侯の信仰心は、俗的打算を伴った政治的で、利益の為となれば捨てる可能性があった。
 ローマ・カトリック教会バチカン)は、キリスト教の神聖な絶対的宗教権威を揺らぎないものする為に、民衆に「原罪意識」を刷り込み救済・奇跡・恩寵を受ける為のさらなる信仰心を求め、王侯貴族・諸侯に対してキリスト教会の影響力を強めようとした。
 ローマ教皇は、東西に分裂したキリスト教世界の再統一を目指した。
   ・   ・   ・   
  476年 西ローマ帝国滅亡。
 7世紀初め 預言者マホメットムハンマド)がイスラム教を広めた。
 711年 イスラム勢力は、ヨーロッパを侵略してイベリア半島南部を占領した。
   ・   ・   ・   
 世界は日本と違って、古い事に価値を置かない。
 新しいモノにこそが時代の最先端として価値がある、である。
 つまり、人類史・世界史・大陸史において「日本天皇家は世界最古の王家である」は無意味で、単なる愚か者の戯言にすぎなかった。
   ・   ・   ・   
 11世紀~13世紀 十字軍は、キリスト教世界のイスラム教世界への反撃。
 ローマ・カトリック教会は、絶対神の信仰で政治・社会・経済・軍事を支配する完全無欠の宗教帝国を築こうとした。
 キリスト教陣営もイスラム教陣営も、捕らえた異教徒の敵兵士を奴隷として売り、それぞれの家族は奴隷となった身内を大金を出して買い戻した。
 十字軍が、失敗する事で中世ヨーロッパの終焉が始まった。
   ・   ・   ・   
 13世紀以降 異端審問・宗教裁判。キリスト教に改宗したと偽る隠れユダヤ教徒ユダヤ人とローマ・カトリック教会が公認する唯一の教義に異を唱える異端派に対する弾圧。
 異端者は、生きたまま公開で焼き殺した。
 絶対神の敵・異教徒に対する敵意より、絶対神への裏切り・異端者への憎悪の方が激しかった。
 13世紀~18世紀 魔女狩りキリスト教に関係しない古代ヨーロッパの土着神信仰や精霊などの民間伝承を信じる女性を魔女とし、男性は悪魔の使いとして、見付け次第、生きたまま焼き殺した。
   ・   ・   ・   
 14世紀~16世紀 ペストの大流行とイスラム教勢力圏からキリスト教以前の古代ギリシア・ローマの知識が大量に流入する事で、イタリアを中心にルネッサンスが始まり、やがて全ヨーロッパに広まった。
 人間中心の近世ルネッサンス
   ・   ・   ・   
 14世紀 モンゴル持ち込んだ中国産ペスト(黒死病)が全ヨーロッパに蔓延し、総人口の3分の1近くが死亡した。
 キリスト教会の存在意義を脅かされる深刻な事態に追い込まれた。
 絶対神への敬虔な信仰を持てば、ペストに罹らず、感染しても奇跡が起き癒され健康になると説いたが、現実は、ペストは敬虔な僧侶も熱心な信者も感染すれば多くが死に絶対神も信仰も無力であった。
 その意味において、宗教が感染症蔓延を助長した。
 宗教・信仰は、疫病に負けたのである。
 キリスト教会は、信仰の信頼を回復し信者を繫ぎ止める為に敵をつくった、信仰を妨げる罪深き悪人にイエス・キリストを死に追いやったユダヤ人を当て、ユダヤ人が毒を撒いたと告発し、ユダヤ人弾圧を正当化した。
 不寛容な宗教的狂気の始まり、それが反ユダヤ主義であった。
 キリスト教会は、隣人愛の信仰から、ユダヤ人がユダヤ教を捨ててキリスト教の洗礼を受ければ罪は許され救われるとした。
 ユダヤ人達は、反ユダヤからのがれる為に、ヨーロッパ人風に創氏改名し、キリスト教に改宗し、キリスト教会の保護を受けた。
   ・   ・   ・   
 15世紀~17世紀 大航海時代。スペインやポルトガルの隠れユダヤ教徒ユダヤ人や改宗ユダヤ人は反ユダヤ主義に染まったヨーロッパから逃げるように海に乗り出した。
 植民地獲得競争の始まり。
 極貧の中世ヨーロッパは、植民地の金銀財宝を強奪して富を蓄え、急速に進歩・発展を遂げ始めた。
 進歩・発展の原動力は、敵を打ち破り富を強奪してくる軍事力、海外で強奪した富を安全に輸送する海軍力であった。
 つまり、戦争は進歩・発展を、平和は滅亡をもたらした。
 15世紀~19世紀 アフリカ黒人の奴隷貿易
 15世紀末 ローマ・カトリック教会による免罪符販売。
 スペイン王国は、イベリア半島からイスラム教勢力を駆逐して統一した。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会は、異教徒の王・日本天皇を殺して文明なき野蛮な日本国を滅ぼし、聖王が統治するキリスト教王国に生まれ変わらせる事を神聖な使命としていた。
 日本人奴隷売買。
 バチカンは、スペインとポルトガルに日本を植民地化する事を認めた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による、日本人奴隷交易が始まる。
 日本人奴隷は、隣人愛の信仰に目覚め、改宗してキリシタンとなれば自由の身となれた。
 祖先を切り捨て改宗し自由の身分を手に入れるか、祖先に義理たてして異教徒のまま奴隷を続けるか、であった。
 日本人の間で急速にキリシタンが急増した。
 日本で、キリスト教は禁教となり、キリシタン弾圧が始まった。
 キリシタン弾圧で、信仰より命を優先するキリシタンの多くは棄教したが、信仰を貫くキリシタンは棄教を拒否し殉教を選び処刑された。
 日本民族にとっての宗教や信仰とは、普段着のように自由に着替えられる身軽なものであった。
 日本民族無宗教とは、変幻自在・融通無碍で、相対的の多元、多種多様であった。
 キリスト教会が実現しようとした世界の平和と個人の幸福と死後の天国はキリシタンの為の理想であって、日本のパラダイスではなかった。
 それ故に、豊臣秀吉徳川家康徳川幕府キリスト教邪教として日本から排除した。
 が、豊臣秀吉徳川家康徳川幕府は石見産銀と日本製武器の輸出で西洋の政治・経済・軍事に関与し、輸出品は後に日本産工芸品や浮世絵・絵画などの日本文化に変わって西洋文化に「日本好み」を生み出し影響を与えた。
 歴史力のない現代日本人には、ダイナミックな歴史の流れ・動きは理解できない。
 明治維新は、西洋列強の軍事侵略から日本国を守る為ではなく、キリスト教の宗教侵略から日本天皇を守る為に始まった。
   ・   ・   ・   
 16世紀 キリスト教会内の宗教改革。正統派カトリック教会と異端派プロテスタントによる不毛にして残虐で陰惨な宗教戦争が始まった。
 絶対に譲れない教義を持つ宗教は、話し合いによる妥協は不可能であるとして諦め、武力による正邪の決着を目指した。
 勝てば正しい教え・教義として残り、敗れれば正しくない教え・教義として根絶させられた。
 これ以降の、宗教問題の解決は暴力的に死をもたらす事で行われた。
   ・   ・   ・   
 1648年 ウエストファリア条約によって三十年戦争終結し、万国公法(国際法)が成立した。
 ヨーロッパの戦争の原因は、宗教から政治・経済(領土)に変わり、そしてイデオロギーに発展していく。
 新たな時代の幕開けであった。
   ・   ・   ・   

🐼10」─1・A─ローマ教皇の「ウイグル族迫害」言及。1942年、バチカンはホロコーストを黙認していた。〜No.16 ⑨ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年11月24日 産経新聞「「ウイグル族迫害」と懸念 ローマ教皇、中国は反発
 2019年11月、長崎市の爆心地公園で演説し、核廃絶の必要性を訴えるローマ教皇フランシスコ
 ローマ教皇フランシスコが12月1日に発売される本の中で、中国新疆ウイグル自治区少数民族ウイグル族について「迫害されている」と言及していることが24日までに分かった。ロイター通信が報じた。教皇によるウイグル自治区の人権状況への懸念表明は初めてとみられる。中国外務省は「全く根拠がない」と反発した。
 教皇は「私はよく迫害されている人々のことを考える」と述べ、ミャンマーイスラム教徒少数民族ロヒンギャイラククルド民族少数派ヤジド教徒と併せ、ウイグル族を例として挙げたという。
 ローマ教皇庁バチカン)は10月に中国との司教任命問題をめぐる暫定合意を延長したばかり。教皇は香港情勢への言及を避けるなど、中国への弱腰な態度が批判されている。(共同)」
   ・   ・   ・   
 親ユダヤ派の昭和天皇は、ヒトラーから逃げてくるユダヤ人難民の救済を希望していた。
 東条英機板垣征四郎A級戦犯は、陸軍を使ってナチス・ドイツから逃げてきたポーランドユダヤ人難民数万人を受け入れ助けた。
 満鉄は、松岡洋右の命を受けてポーランドユダヤ人難民らを温かく迎えた。
  ・  ・  
 日本に逃げて来たユダヤ人難民の交通費や宿泊費などの旅行費と生活費は、ニューヨークのユダヤ人団体から送られていた。
 戦時中。東條内閣は、人道的見地から、ユダヤ人難民を助けるべく敵国アメリカからの送金を認めた。
 ホワイト・ハウスは、送金した金が軍国日本に強奪されるのではないかと警戒していた。
  ・  ・  
 1942年 上海ホロコースト未遂事件。ゲシュタポは、親ドイツ派や反ユダヤ派の右翼・右派の協力を得て日本陸軍が管理する上海ゲットーのユダヤ人難民数万人を虐殺する計画を進めていた。
 松岡洋右満州派は、松井石根ら陸軍の協力を得て同盟国ナチス・ドイツの外圧を拒否しユダヤ人虐殺計画を阻止した。
  ・  ・  
 昭和天皇A級戦犯達、軍国日本、陸軍は、自己犠牲として歴史的人道貢献を行っていた。
    ・   ・   ・   
 アメリカ、イギリス、カナダ、ソ連など連合国は、戦争の勝利を優先してユダヤ人救出を後回しにした。
   ・   ・   ・   
 キリスト教会は、人種や民族に関係なく助けたが、唯一の条件は信仰を持っているかどうかで、改宗ユダヤ人=キリスト教ユダヤ人は助けたが、異教徒ユダヤ人=ユダヤ教徒ユダヤ人は見捨てた。
 「絶対神は、信仰を誓い従う事を契約したキリシタンを信仰を持たない異教徒の中かすくい取って助ける。」
 「父なる神は、自分を助ける者を助ける。」
   ・   ・   ・   
 1942年
 ドイツ軍の占領下にあった欧州諸国の警察は政府の命令に従って、ゲシュタポユダヤ人狩りに協力していた。
 8月2日 ゲシュタポは、オランダ人支援者の協力を得て、カトリック教徒のユダヤ系オランダ人達を逮捕して、アウシュビッツ絶滅収容所に送り込んだ。 
 教皇ピウス12世は、勇気ある司教等がナチス批判した為に多くの改宗ユダヤ人が犠牲になった事を知り、自分の発言でさらに多くの者が犠牲になる事を恐れて沈黙を決意した。
 ピウス12世「オランダの司教のナチ批判が、4万人のユダヤ人の生命を犠牲にした事を思うと、教皇である私のナチス弾劾が、20万人のユダヤ人の命を奪う事になる。その様な重大な責任ある発言は出来ない。私は、公には沈黙を守ろう」
 イギリスのオズボーン大使「全世界からの良心の声に直面した今、なお沈黙を続ける事は、キリスト教の人道・モラルの権威としての教皇教皇庁の権威を失墜させる事は必至である」
 スターリンは、一人の兵士も持たない無力な教皇の公式発言は無意味であり、何を言っても武力を持たない言葉には効果は無いとあざ笑った。
 共産主義者は、反宗教無視論者であるだけに、全てを破壊する軍事力のみが全てを決定し、信仰などは無能な者の言い訳にすぎないと軽蔑した。
 ヨーロッパ各地のキリスト教会は、自国の改宗ユダヤ人をホロコーストから救う為に、ユダヤ教徒ユダヤ人や他国からの不法入国者であっる無国籍者ユダヤ人を、ゲシュタポや地元警察に突き出した。
 法治国家においては、無国籍者の密入国者は無条件で犯罪者とされた。
 キリスト教会が言う「神に愛された人」とは、悔い改め神への信仰に目覚めたキリスト教徒のみ事であり、異教徒は「神に愛された正しい人」とは認めず人として救済する事はなかった。
  ・  ・  
 9月19日 アメリカのマイロン・テイラー特使は、ピウス12世やマリョーネ枢機卿バチカンの要人達に、ヒトラーユダヤ人絶滅政策を糾弾する声明を出す様に要請した。
 だが、キリスト教会は原則として中立を守るとの返答しか得られなかった。
 各地の教会や修道院ワルシャワユダヤ人ゲットーで大量の虐殺が行われていると伝えても、バチカンは事実から目を反らし全ての訴えから耳を塞いだ。
 キリスト教会の情報網は、如何なる国の情報機関よりも優れていて、全ての事を知っていた。
  ・  ・  
 タルディーニ外務局長「教皇がナチズムを非難できるなら、何度だってやるだろう」
 秋。赤十字国際委員会は、ヒトラーユダヤ人強制移送を知っていたが、中立の立場を堅持して非難声明を出すのを控えた。
 連合国は、ドイツのユダヤ人虐殺を犯罪として裁く為に戦争犯罪委員会を設置した。
   ・   ・   ・   
 11月 アメリカのカトリック司教団は、「戦争と平和」の声明を出し、世界大戦が軍事の戦いであると共に宗教戦争であると訴えた。1945年までに、カトリック信者400万人以上が教会の説教に従って戦場に赴き、司祭5,000人以上が従軍して戦争を祝福した。ニューヨークのスペルマン大司教は、世界中の前線基地に赴いて神の道を説き、そして神の為に戦う様に説教して回った。キリスト教会は、世界をキリスト教化する為に、戦争に積極的に関与した。キリスト教ほど、戦争に協力した普遍宗教は他にはない。
 11月25日・26日 ニューヨーク・タイムズ紙(ユダヤ系新聞)は、ポーランド人外交官ヤン・カルスキのもたらしたユダヤ人虐殺報告を二日に分けて報道した。ロンドンのタイムズ紙も、同年12月7日にカルスキ報告を掲載した。
 カルスキは、翌43年7月にアメリカに渡り、直接ルーズベルトと全米ユダヤ人代表のフランクフルター最高裁判事ユダヤ人有力者にポーランドユダヤ人の惨状を訴え、即時救済を求めた。
 アメリカは、ユダヤ人の誇大宣伝として完全無視した。
  ・  ・  
 アメリカ政府に行われた、ホロコーストに関する公式報告は、ジュネーヴの世界ユダヤ人連盟のリーグナー・レポートとされている。
 国務省は、ユダヤ人の隠謀で根も葉もない噂として取り上げなかった。
 アメリカは、真実から目を反らして、ユダヤ人の虐殺を黙認した。
 アメリカ・ユダヤ会議議長ラビ・ワイズ博士は、ドイツ人実業家シュルチの情報に従って、ルーズベルトに書状を送った。
 「ユダヤ人の史上類のない圧倒的な災厄が、ヒトラーの大虐殺という形をもってユダヤ人の上に落ちかかりました」
 ロング国務副長官「ラビ=スティーヴン・ワイズを中心とする一派が行動を求めていた。我々にとって危険なのは、彼等の行動によって、ヒトラー批判の声が歪められる心配がある事だ。我々がこの戦争をユダヤ人市民の為に、彼等に心を動かされ、彼等の指示を受けて戦っていたと。そうすると、我々の戦争努力はあっさり損なわれる」
 ルーズベルトアメリカ国民は、ヨーロッパの少数のユダヤ人になどにたいして関心を抱いていない」
 OSSのドノヴァン局長は、シュルチ情報は有害であるとし、如何なる情報もワイズ博士に伝えない様に国務省に指示した。
 国務省サウジアラビア石油資源開発は、大きな国益の観点で評価すべきだと確信する」
  ・  ・  
 12月18日 オズボーン大使は、知り得た限りでのユダヤ人虐殺情報をバチカンに報告し、全世界の信者に対するピウス12世のクリスマス・メッセージに期待した。「バチカンは、ローマの爆撃の事ばかり心配せず、ユダヤ人の絶滅戦略というヒトラーの人類に対する前例のない犯罪を前に果たすべき義務について、真剣に考えるべきである」
 12月24日 ピウス12世は、ラジオで、「神の法に従って争い止め、一刻も早く混乱した世界が秩序を取り戻す様に」との、平和へのメッセージを放送した。
 だが、ユダヤ人に加えられている蛮行を非難する言葉はなかった。
 ティットマン臨時代理大使「クリスマスの教皇のメッセージは、明確な公言を期待していた人々を失望させた」
 オズボーン大使「バチカン駐在の外交官達は大いに失望した。しかし教皇は自分がついに、明確に遺漏なく、なすべき発言をしたと思い込んでいる」
 コーンウェル「ホロコーストの現実に直面してのパチェリの沈黙は、単に個人的の無能さを意味するものではなく、制度としての教皇教皇によって造り出されたカトリシズム文化の弱い側面と無能さを意味している」
   ・   ・   ・   

🛳18」─2・B─歌舞伎町を作った台湾人達。台湾人は日本の恩人である。~No.115No.116No.117 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本を復興させ、日本の新生を作った親日派知日派台湾人達。
   ・   ・   ・   
 日本の存立にとって重要な外国は、次いで台湾であって、軍事圧力を強化している中国共産党政府ではない。
   ・   ・   ・   
 台湾人と言っても、親日派本省人・台湾人と外省人反日派の外省人・大陸系漢族は別人である。
 日本は、大陸の中国共産党政府に配慮して台湾人には冷たい。
   ・   ・   ・   
 大陸の漢族中国人犯罪者達が、池袋に次いで夜の歌舞伎町に勢力を拡大し始めている。
   ・   ・   ・   
 日本人には、台湾人も漢族中国人も見分けがつかないし、多数派である一般の中国人と少数派である犯罪者や中国共産党・中国軍の中国人の見分けができない。
 人間観察が苦手な日本人は、面倒臭い為に糞も味噌も一緒で、中国人全員を好い人・善人として付き合っている。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、大陸中国との経済関係を重視し、台湾との友好関係を軽視している。
 親中国派・媚中派は、中国共産党に媚びを売るように忖度し、台湾を軽蔑し冷たく遇う。
 台湾軽視は、保守派の中にも存在する。
   ・   ・   ・   
 2017年11月号 新潮45「BOOK 山村沓樹
 『台湾人の歌舞伎町 新宿 もうひとつの戦後史』 稲葉慧子、青池憲司
 名曲喫茶、キャバレー・・・彼らがもたらしたもの
 赤裸々な欲望が渦巻き、様々な人種が群れ集う、猥雑で時に危うさを漂わせる街──。新宿・歌舞伎町については多くの著書が書かれているが、本書は、今まで書かれることのなかった視点から描かれた〝もうひとつの歌舞伎町〟である。昭和20(1945)年4月と5月の空襲で、新宿駅から歌舞伎町(当時の名称は角筈1丁目)にかけての一帯は焼き尽くされた。焼け残ったのは、『二幸』『高野』『三越』『伊勢丹』などのわずかな建物だけ。しかし、敗戦後わずか5日目に、関東尾津組が、この焼け跡に『光は新宿から』のスローガンを掲げて『新宿マーケット』を開設したことはよく知られている。それに続いて新宿駅西口に『新宿西口マーケット』が登場した。ここに集まったのが、若い台湾人留学生たちである。昭和20年には累計20万人を超えていたという彼らの一部は、戦後も日本に残り、〝解放国民〟としての特権を生かして闇市で活躍した。
 パチンコ店から焼酎バー、焼き鳥バーと業態を変えながらしぶとく生き抜いた彼らは、更なる飛躍を求めて歌舞伎町に進出する。新宿西口で大規模再開発事業が進められ、立ち退きを迫られたため新天地が必要だったからである。
 角筈1丁目が歌舞伎町という名称に代わったのは昭和23(1948)年4月。敗戦後、いち早く構想された復興計画で、この地に歌舞伎劇場を建てる予定だったためこの町名が選ばれた。しかし、建設制限や物資不足などで計画案は停滞し、歌舞伎座建築は見送られ、一帯はラブホテルが乱立する青線地帯と化していた。
 この歌舞伎町に、昭和28(1953)年から翌年にかけて、『でんえん』と『スカラ座』の二つの名曲喫茶が開店。さらに、歌声喫茶『カチューシャ』がオープンした。いずれも台湾人の留学生兄弟がオーナーだった。
 昭和31(1956)年12月、東宝小林一三新宿コマ劇場を建てた頃から、折からの映画ブームもあり、歌舞伎町は若者が集まる一大興行街としての地位を確立していった。そして、この街に若い台湾人たちが、次々に娯楽施設を開設していくのである。『風林会館』『クラブ・リー』『キャバレー・女王蜂』『アシベ会館』『地球会館』・・・。喫茶店も『上高地』『シオン』『ぶるんねん』などが加わった。歌舞伎町に通ったことのある人には、いずれも懐かしい店ではないだろうか。
 台湾人たちは強い同胞ネットワークを持ち、『無尽』による資金調達と独自の金融組織で新事業に挑戦していった。しかし、歌舞伎町の発展を支えた一世たちも、次々と世を去り、今では彼らの証言を聞くことは難しくなっている。本書は、忘れ去られつつある彼らの足跡を、辛うじて書き留めた貴重な記録と言える」
   ・   ・   ・  
 朝鮮人・韓国人は、反日派・敵日派として、GHQから与えられた第三国人という特権から、日本国内で殺人・強姦・強奪などの凶悪犯罪を繰り返し、東京・神戸・大阪などで暴動を起こしていた。
 GHQは、神戸・大阪での朝鮮人暴動に対して戒厳令を発動して鎮圧した。
 李承晩は、竹島を強奪し、日本漁船を拿捕し、日本人漁民を射殺し、強制収容所で非人道的虐待をして惨殺していた。
 GHQは、日本国内の朝鮮人・韓国人合計200万人以上を即刻、朝鮮半島に帰還させるように日本政府に命じた。
 日本政府も、友人でも親友でも戦友でもない朝鮮人・韓国人を喜んで帰還させるべく、アメリカ軍に輸送船の拝借を申し込んだ。
   ・   ・   ・   
 中国人=漢族といっても、台湾人(台湾系漢族)と中国人(大陸系漢族)とは違う。
 台湾人は、親日派知日派が多い。
 中国人は、反日派や敵日派が多い。
 日本人は、孫文中国国民党には
 日本人は、1972年9月の日中共同声明中華人民共和国中国共産党政府)を唯一の正統政府と承認し台湾との友好関係を断つまでは、日本人は孫文が起こした中国国民党ファシスト中国)に毛沢東中国共産党よりも強い親近感を持っていた。
   ・   ・    ・   
 親日派知日派の台湾人は、朝鮮人とは違って戦友として日本人と共に戦い、戦後は反日朝鮮人のような殺人・強姦・強盗などの犯罪行為や暴動・騒乱を起こさなかった。
   ・   ・    ・   
 1978年の日中平和友好条約以前に日本に誕生した旧チャイナタウンは、親日知日派台湾人が造った中国人街であった。
 2010年代以降に日本で生まれようとしている新チャイナタウンは、反日中国共産党・中国軍とつながりのある大陸系中国人達が主体である。
   ・   ・   ・   
 日本は、エコノミック・アニマルの本心を隠す事なく、中国大陸での金儲けの為に台湾との信義を捨てた。
 更なる金儲けを求める日本人は、日本国土さえ中国資本に売っても恥じない。
 そうした日本人が、1980年代を境に、2010年頃から増え始めている。
 日本人は、法律や規則を遵守し、信用・信頼を重んじ、約束や契約を守るとは、嘘である。
 もし信義を重んじるのなら、台湾を見捨てる事なく中国共産党政府との国交回復を拒絶してはずである。
 日本人の本性とは、その程度のもので、自惚れるほど優れてはいない。
   ・   ・   ・   
 軍国日本が戦った相手は、蒋介石ファシスト中国(中国国民党)であったが、蒋介石の後ろに隠れていたスターリンソ連毛沢東中国共産党が真の敵であった。
 中国共産党は、軍国日本を滅ぼせというソ連コミンテルンの指示に従い、謀略で日中戦争を引き起こし日本の和平工作を全て潰していた。
 中国共産党ほど腹黒い人間・陰険な組織は存在しない。
   ・   ・   ・   
 焦土と化した日本の混乱期・復興期・経済成長期で、ヤミ市から商店街へそして繁華街ヘと発展させたのはヤクザや在日台湾人・在日朝鮮人達であった。
 正直者で真面目な日本人は、家族を養い、家庭を取り戻す為に、世間に恥じない合法的な仕事をする事し頭になかった。
 自分の意思で日本に残った台湾人や朝鮮人・韓国人達は、日本人の差別で最下層の生活を強いられてきた足枷が敗戦で外され、日本人のような家庭・家族や会社・社会というしがらみが一切ない分、己が才能・才覚で自由に活動した。
 日本人は、個人的な富よりも家族や会社を優先した為に貧しく、在日台湾人や在日朝鮮人・韓国人のような野心を膨らませて富を築く事はなかった。
   ・   ・   ・   
 当時のヤクザは、「強くを挫き・弱きを助ける」「(日本人の)世の為人の為」「素人に迷惑を賭けない、素人を巻き込まない」という任侠道の博徒であって、アメリカのマフィアの様に覚醒剤や売春を行う現代の反社会的凶悪な暴力団とは違っていた。
 1995年1月17日の阪神淡路大震災頃までは、戦前の任侠道的気質が存在し、炊き出しなどで被災者を助けていた。


   ・   ・   ・   

🛳18」─1・B─旧日本陸軍の軍事顧問団「白団」は中国共産党軍の侵略から台湾を救った。1945年~1969年。~No.112No.113No.114 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 恩義を利益で天秤にかける現実主義の中国人に、相手に善かれと思って配慮して行った事に対して感謝の言葉を期待してはならない。
 中国人は、心の底から感謝の言葉を述べる事はない。
 日本人と中国人の考え方は、正反対に近いほど異なる。 
   ・   ・   ・   
 昭和9年12月 親英米派の安藤利吉は、英国大使館付駐在武官の任務を終えて帰国し、陸軍参謀総長上原勇作に『英国在勤最終報告書』を提出して、日本が採用すべきは「英米との提携」であると意見具申した。
 「私は日米英の世界平和の為の提携を最も緊要適切と信じる者であります」
 「強国相手に国の全能力を挙げて行う近代戦は残忍酷薄、一旦負ければ国家としても民族としても永遠に旧態の回復を予想し得ない様な深刻な打撃を免れ得ない」
 「戦は勝手も国家的民族的に大損失を免れ得ない。万一負けでもしたらならば再起絶望と覚悟せねばならぬ。故に戦争は極力避けねばならぬ」
 1945年5月31日 台北大空襲。
 6月23日 沖縄陥落。
 8月15日 台湾総督兼第10方面軍司令官・安藤利吉大将は、台湾軍に対して「承詔必謹(しょうしょうひつきん)、ここに戦いを収める」と訓令し、一般市民には「軽挙妄動せずに冷静沈着に生業に励め」との論告を出した。
 8月22日 台湾人の名望家らは、安藤総督を訪ね、台湾はこのまま国家として独立したい旨を伝え、日本軍が所有する武器を「必要な時に提供して欲しい」と申し込んだ。
 だが。安藤総督は、独立運動の為に武器を供与して欲しいという申し込みを拒否し、台湾人の主体的独立運動であっても連合軍は日本軍の策謀と勘ぐって認めるわけはなく、台湾が戦場となり台湾人が弾圧される恐れがあるから中止すべきであると諭し、それでも独立運動を行うというのなら日本軍が討伐すると言い切った。
 「皆さんの衷情はよく分かるが、世界の大局を見て独立運動は止める事をお勧めしたい」
 ポツダム宣言で、台湾が中国に返還される事が決まっていたい以上、連合国は台湾の独立を認めず、中国軍は武力を用いて鎮圧したであろう。
 そして、GHQによる日本占領統治にも悪影響が出て、ソ連が要求した北海道東半分割譲と蒋介石が求めた沖縄と九州の一部が中国領となったかもしれない。
 天皇を中心とした国體と日本国土を守る為には、台湾の独立を許す事はできなかった。
 10月25日 台北市西部の繁華街、西門町にある台北公会堂(現・中山堂)で、日本軍の降伏式が行われた。
 中華民国台湾行政長官公署の署長・陳儀は、安藤利吉が署名・捺印した調印文書を台湾軍参謀長・諫山春樹中将から受け取るや日本側代表団に退場を命じた。
 降伏式は、5分で終わった。
 これ以降、安藤利吉は台湾地区日本官兵善後連絡部長として、日本軍の武装解除と約40万人の日本人の引き揚げ業務の責任者となった。
 1946年1月 アメリカ軍は、安藤利吉を戦犯指定した旨を公表した。
 容疑は、台湾を空爆しに来た爆撃機を撃墜し、降下した搭乗員14名を捕らえて銃殺した事件での、台湾軍の最高責任者としての罪であった。
 4月12日 台湾警備総司令部は、日本人第一次帰還者の引き揚げが一段落するのを見計らって、アメリカ軍の要請に従って安藤利吉を逮捕した。
 4月15日 安藤利吉被告は、アメリカ軍が開廷した上海の特別法廷で裁かれる為に、上海市北東部の提藍橋監獄の独房に収監された。
 4月19日夜 安藤利吉被告は、妻・栄子、士官学校同期の親友・岡村寧次、部下宛の遺言を書き終えて、青酸カリを飲んで自決した。  ・   ・   ・    ・   ・   ・     
 1945年8月19日 ソ連軍は、内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に侵攻してきた。
 ソ連軍は、白旗を揚げ両手を挙げ武器解除しても、自分が欲しいモノを手に入れるまでは戦闘を続行した。
 よって。日本が降伏を受け容れた8月15日は終戦記念日でも停戦記念日でもなく、依然として戦闘続行中で目の前にいる日本人を殺し回っていた。
 そして、一般の非戦闘員も虐殺されていた。
 世界の戦争に於いて、白旗を掲げ、両手を挙げ、武器を手放しても、戦闘が終わった事にはならない。
 そrを、ロシア兵が実証して見せた。
 それを理解できなかった日本軍は、世界規模の戦争をする資格がなかった。
 駐蒙軍司令官根本博陸軍中将は、蒙古聯合自治政府内の張家口付近で生活していた日本人居留民約4万人を守るべく、終戦詔勅を無視して戦い、3日3晩ソ連軍と八路軍の攻撃を撃退した。
 日本軍の活躍によって、内蒙古にいた日本人居留民は満州のような悲惨な状況に陥る事なく、全員がロシア兵や中国人暴徒に襲われる事なく天津に辿り着いた。
 ロシア人兵士や中国人暴徒に捕まれば、女子供に関係なく虐殺され、女性は強姦されて惨殺された。
 日本人居留民は、引き揚げ船に乗船するまで日本軍や政府関係者の支援を受け、無事に帰国した。
 日本軍は、本気で戦えば重装備のソ連軍を撃退し退ける事が出来た。
 中国共産党八路軍は、日本軍から見れば馬賊か匪賊の低レベルの武装集団で有り、戦えば負ける事は絶対になかった。
 中国共産党も、戦力差を知っていただけに、日本軍との戦闘を避けて逃げ回っていた。
 八路軍とは、その程度のだらしない素人に近い武装集団であった。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社に祀られた。
   ・   ・   ・   
 1946年 アメリカ国民は、ファシストとの戦争に勝利するや戦場の我が子の早期帰国を望み、新たな戦場に若者達を送り出して戦死させる事には反対であった。
 アメリカは、占領したヨーロッパと日本に駐留軍を派遣したが、それ以外の地域から軍隊を撤兵させ、諸地域での内戦に介入する意思がない事を示した。
 中国は抗日戦が勝利で終わり日本軍が撤退すると、毛沢東中国共産党軍と蒋介石の国民党軍(ファシスト中国)の内戦状態が再燃した。
 国民党軍の総兵力430万人に対して、中国共産党軍は数十万人に過ぎなかった。
 中国の歴史の大半が、中国人同士の殺し合いである。
 中国の歴史とは、戦争と虐殺の歴史である。
   ・   ・   ・   
 1947年2月28日 2・28事件。白色テロ。国民党政府は、外省人支配に対する不満を抱く台湾人を弾圧した。
 3万人から5万人が虐殺された。
 8月 国民党軍は、中国共産党の本拠地延安に大攻勢を行ったが大敗を喫し、戦局は逆転して、国民党軍は劣勢に追い遣られた。
 中国人民は、人民を虐げ私腹を肥やす腐敗堕落した国民党ではなく、人民を保護する清廉潔白な中国共産党を支持した。
 ソ連は、中国、朝鮮、日本を含むアジア全体を共産主義化する為に中国共産党を軍事支援した。
 アメリカの国際戦略は欧州重視アジア軽視で、西欧は如何なる犠牲を払っても守るが、中国は中国人民の自主判断に委ねるとして軍事支援を止めた。
   ・   ・   ・   
 1949年 国民党政府は、台湾全土に戒厳令を施行した。
 1月 中国共産党軍は、前年の9月からの三大戦役で国民党軍を撃破し、北京、南京、上海などの主要都市を占領し、敵対勢力を虐殺した。
 国民党軍は、精鋭部隊47万人を失い壊滅状態となり、中国共産党軍の大攻勢で敗走を続けた。
 中国共産党ファシズム戦争とは、軍国主義の日本ではなくファシスト中国の国民党との戦いの事である。
 中国共産党軍の勝利に貢献したのは、ソ連軍ではなく満州に残っていた旧日本軍であった。
 旧日本軍が中国共産党軍に協力したのは、日本人避難民を人質に取られていたからである。
 通化では、中国共産党軍によって女子供を中心とした3,000人の日本人避難民が虐殺されていた。
 中国共産党軍は、空軍を持っていなかった為に、捕虜となっていた旧日本陸軍航空部隊に中国人パイロット養成を命じた。
 中国共産党軍空軍は、旧日本陸軍航空部隊の指導で編成され、国民党軍空軍を圧倒して制空権を独占して内戦を勝利に導いた。
 蒋介石も、ナチス・ドイツの軍事顧問団やソ連の義勇部隊を利用しても日本軍に勝てなかったという個人的な苦い経験を持っていただけに、日本陸軍の実力を知っていた。
 蒋介石は、敗戦の責任を取って総裁職を辞任した。
 国民党は、大敗北が決定的となった為に台湾への移動を決定し、民族・個人の財産を台湾に輸送するように命じた。
 北京の故宮紫禁城)にあった明・清両王朝時代の古書・美術工芸品の中でも最も貴重品を、台湾に運んだ。
 軍国日本は、中国の民族的歴史的芸術品を略奪するどころか、中国国内で大事に保護していた。
 元駐蒙軍総司令官根本博陸軍中将は、日本軍兵士45万人と日本人避難民4万人が無事に帰国できた事の対して、蒋介石への恩義から国民党軍に協力するべく私財を売却して渡航費用を工面した。
 元上海の貿易商・明石元長と東亜修好会からの要請もあって、大陸への密航を急いだ。
 明石元長は、元台湾総督の明石元次郎の長男で、台湾を中国共産党の侵略から守る為に根本の密航を手助けした。
   ・   ・   ・   
 4月 蒋介石は、残存兵力を集めて大反攻作戦を計画し、旧日本陸軍の協力を得るべく曹士澂(そうしちょう)少将を極秘に東京へ派遣した。
 曹士徴は、中国残留中の旧支那派遣軍総司令官岡村寧次大将が帰国するまで世話していた関係を頼って岡村を訪ね、大反攻作戦を打つ開け旧日本陸軍の支援を依頼した。
 「岡村さん、このままではアジアは共産主義の脅威にさらされてしまう。日中友好の為にも、是非あなたに国民党軍の再建をお願いしたい」
 岡村は、蒋介石が「恨みに報いるには徳を以てする」という寛大な戦後処理で100万人の旧日本軍部隊と日本人避難民が無事に帰国できた恩義に報いる為に、中国共産党軍への反攻作戦への協力要請を快諾した。
 「蒋介石総統に恩返しをしたいから、必ず優秀な将校を組織して台湾へ送り、国民政府を支持する」
 アメリカ軍の占領下にあった日本から海外への渡航は、特別な理由かGHQの許可がない限り認められておらず、まして旧軍人の渡航は不可能であった。
 GHQ内のマルクス主義者の保護を受けた日本共産党は、旧日本軍人の中から個人的に国民党に協力する者がいる事を知り、監視を強化していた。
 4月29日 日本右翼の学生組織「海外同胞引揚救護学生同盟」の同盟員38名は、中国の共産主義化を食い止めるべく義勇兵として飛行機で台湾に飛び立った。
   ・   ・   ・   
 6月 学生同盟員40名と中島飛行機の技術者8名は、国民党軍に加わる為に第2陣として台湾に赴いた。
 6月26日 根本博と通訳の吉村是二は、明石元長が調達した釣り船で宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航した。
   ・   ・   ・   
 7月10日 根本は、台湾の基隆に到着するが密航者に間違えられて逮捕・投獄された。
 国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)は、根本投獄の報告を受けるや直ちに釈放し、8月1日に身柄を台北に移して北投温泉で静養させた。
   ・   ・   ・   
 8月5日 アメリカは、内戦に敗北し滅亡間近の国民党政府を見かぎり軍事支援打ち切りを正式に表明した。
 8月18日 国民党軍は、上海を失い、大陸での拠点は厦門だけになっていた。
 中国共産党軍が、厦門を攻略すれば、その勢いで台湾に上陸してくる事は明らかであった。
 蒋介石は、アメリカからの軍事支援がなくなった為に、旧日本陸軍勢力からの支援に頼るしかなかった。
 根本は、台湾から厦門に渡った。
 日本陸軍士官学校出身の上海方面軍司令官湯?伯将軍が、根本を出迎えた。
 蒋介石は、最後の拠点である厦門を死守する為に根本に中国名「林保源」を名乗らせ、湯恩伯の第5軍管区司令官顧問として中将に任命した。
 林保源中将こと根本博は、前線を視察して厦門を守る事は不可能と判断し、対岸の金門島を要塞化して中国共産党軍を迎え撃つ防衛計画を立案した。
 国民党首脳陣は、大陸最後の拠点を捨て金門島に退く作戦は敗北主義であるとして猛反対した。
 蒋介石は、根本を信頼し厦門放棄・金門島要塞化案を支持し、第5軍の指揮権を委ねて、湯将軍を参謀長にするように依頼した。
 この後、根本は防衛戦の直接指導に当たった。
 8月24日 横浜港に入港した中国船「海烈号」から、5億円にのぼる禁制品が発見された。
 取り調べの結果。三上卓元海軍中尉(5・15事件の中心人物)や阪田誠盛旧関東軍嘱託らが、極秘に進めている日本再建計画の資金を調達する為の密輸事件である事が判明した。
   ・   ・   ・   
 9月10日 岡村寧次は、東京高輪の旅館に陸軍大学校出身の元高級将校らを集めて、国民党軍の将校達16名と密会した。
 「今や赤魔共産主義が中国大陸を風靡しようとしている。両国同志は反共アジア防衛の為に決起する」という趣旨で、中華民国日本人軍事顧問団結成を決めた。
 岡村寧次「東亜振興の為にはさしあたり中国の強化繁栄を期待するしかない。没落した日本がこの際協力できる道としては、ただ技術と経験だけであろう」(1945年8月16日日記)
 岡村寧次は蒋介石と秘密の盟約を結び、参謀であった小笠原清元陸軍中佐と極秘裏に旧軍関係者への勧誘工作を開始した。
   ・   ・   ・   
 10月1日 毛沢東は、全体主義一党独裁体制としての中華人民共和国国家の樹立を宣言した。
 中国共産党軍は、国民党軍が撃破して厦門を占領した。
 根本博(林保源)は、厦門の次は金門島として、日本陸軍塹壕戦準備を急がせた。
 国民党軍司令部は、厦門の奪還に固執していたが、根本博(林保源)の合理的な作戦に同意するしか亡かった。
 中国共産党は、レーニンの国際共産主義革命輸出を真似て、インドネシアなど東南アジアへの中国共産党式人民革命の輸出を始めた。
 その為に、東南アジアで共産主義者と保守派による死闘が繰り広げられ、多くに犠牲者が出た。
   ・   ・   ・   
 日本人軍事顧問団「白団」(パイダン)の結成。
 国民政府代表が曹士澂、団長が富田直亮(元第23軍参謀・少将)、保証人が岡村寧次、募兵の選考は、澄田賚四郎(元第1軍司令官・中将)が責任者で、十川次郎(元第5軍司令官・中将)、及川古四郎(元海軍大将・海軍大学校校長)と岡村の部下小笠原清(元支那派遣軍参謀、中佐、)らが協力しました。
 初期の参加者は、旧陸海軍人25人であった。
 白団の名称は、団長の富田直亮が曹士澂から中国名「白鴻亮」を貰い、白将軍の名をとって名付けた。
 富田直亮元陸軍少将は、アメリカ留学歴もある国際派の英才であった。
 副団長の山本親雄元海軍少将は、航空戦の専門家で、山本五十六真珠湾を航空機で攻撃する着想を与えたと言われているほどの逸材であった。
 旧日本軍高級将校達は、中国・台湾が中国共産党の手に落ちる事は日本生存の危機、国體護持の危機、天皇制度継承の危機など、戦前にあった共産主義に対する危機感から参加した。
 明治以来。日本の国防戦略の要は3つあり、1つはロシア・ソ連の北からの侵略に対処する事、2つに朝鮮半島から侵略してくる清国・中国とロシア・ソ連に対処する事、3つ目が日本の生存に欠かせない海外資源を日本に安全に運び込む為の海上輸送路としての台湾と沖縄の確保であった。
 国際的広い視野と優れた戦略軍略を持つ知恵者であれば、沖縄と台湾を手に入れ領土としなければ日本は滅亡する事が分かっていた。
   ・   ・   ・   
 10月24日 人民解放軍中国共産党軍)約3万人は、台湾を攻略するべく金門島に侵攻した。
 根本博(林保源)は、日本陸軍島嶼防衛戦術に従って金門島守備隊約8,000人を指揮し、上陸直後の人民解放軍を攻撃せず洞窟陣地の正面へと誘導した。
 上陸地点を予想していた根本博(林保源)は、人民解放軍が上陸作戦に使ったジャンク船団を全て焼き払った。
 根本博(林保源)の作戦は、厳島の合戦で毛利元就が勝利した戦法を参考にしていた。
 ジャンク船を焼く事は、敵の退路を断つ事であり、新たな敵を上陸させない為でもあった。
 戦闘は、日本軍の作戦で進められていた。
 中国は、大陸国家として大陸での戦争は得意であったが、島嶼海上での戦闘には慣れていなかった。
 人民解放軍は、上陸しても反撃がない事に安心して島内まで進撃して野営したが、夜が明けるやそれが旧日本陸軍の巧妙な罠である事に気付いたが、時は既に遅かった。
 洞窟陣地の守備隊は、罠に掛かった人民解放軍に対して集中砲火を浴びせた。
 人民解放軍は、抵抗する為に北西端にある古寧頭村に逃げ込こんだ。
 根本博(林保源)は、一般の村人を救出する為に、湯恩拍将軍に「古寧頭の背後に侵入した戦車は、すぐに後退させて古寧頭から北方海岸への敵の退路を開く」よう作戦を具申した。
 国民党軍司令部は、勝利の為には古寧頭村の住人を犠牲にするのも仕方がないと判断していただけに、一般住民を助けようとする日本軍の伝統に驚いたが、根本博(林保源)の作戦を受け入れた。
 古寧頭に逃げ込んでいた人民解放軍は、根本博(林保源)の作戦に誘き出されて、海岸線に向けて敗走した。 
 中国軍は、一般住民の命より勝利を優先していた。
 日本軍は、極力、一般市民に犠牲が出ないように戦闘を行っていた。
 10月26日午後3時 国民党軍は、根本博(林保源)の作戦に従い、海岸に集結した人民解放軍に対して総攻撃を開始した。
 午後10時 人民解放軍は、袋のネズミとなってもよく抵抗したが、力尽きてついに降伏した。
 人民解放軍の犠牲、死傷者1万4,000人、捕虜6,000人。 
 人民解放軍には海軍がなかった為に、再上陸作戦を実行するだけの舟艇を持っていなかったし、間もなく開始される朝鮮戦争の為に台湾攻略は無期延期となった。
 10月30日 湯恩伯将軍は、林保源(根本博)将軍らと共に台北に凱旋した。 
 根本博は、旧日本軍が金門島攻防戦に関与していた事が知られる事は、台湾にしも日本にしても好ましくないと考え「くれぐれも自分の事は秘密にして全ての記録から抹消しておいて欲しい」と依頼して帰国した。
   ・   ・   ・   
 11月 団長の富田直亮(陸軍少将、中国名:白鴻亮)と団員の荒竹国光、杉田俊三の3名は、GHQ情報部員を名乗り飛行機を利用し香港経由で台湾へ渡った。
 先遣隊17名は、中国人になりすまして貨物船の船底に潜り込み、密かに横浜を出港して台湾に向かった。
 日本の治安当局もアメリカ軍も、旧日本軍軍人一団が台湾へ密航している事を知りながら見逃した。
 先遣隊は、無事に台湾に上陸し、蒋介石に会い岡村寧次からの書簡を渡した。
 「白団派遣は、今後の軍事工作の第一歩にすぎず、自分の最終構想は、日本で元軍人を結集して反共義勇軍を組織して大陸奪還の戦いに参加する事です」
 曹士澂将軍は、反日感情の強い国民党軍の反発を恐れて、旧日本軍軍人である事を誤魔化す為に全員の名前を『三国志』から選んで与えた。
   ・   ・   ・   
 12月10 蒋介石は、中央政府機構を台湾に移転して、台北市中華民国の臨時首都と定め、中華民国を存続させた。
 白団の使命は、大陸に於ける戦闘指揮から国民党軍の立て直しと台湾防衛に変更された。
    ・   ・   ・   
 1950(〜52)年 円山軍官訓練団。
 白団は、敗残兵で統制を失った国民党軍再建の為に、軍律軍紀遵守、兵士教育、軍事教練、作戦立案、実戦指揮、補給兵站など前線から後方まで他方面での日本軍式軍事教育を徹底して行った。
富田直亮「(国民党軍)司令部の作戦室は極めて貧弱で、さらに敵情の情報が余りに不十分で幼稚な内容」
 抗日戦線を戦ってきた大半の国民党軍人は、敵であった旧日本軍将校に頭を下げて教えを受ける事は中国人としての「面子」を傷付けると猛反発した。
 蒋介石は、大陸に上陸して中国共産党軍を破り、中国共産党を殲滅するには旧日本軍の軍事協力を得るしかないと強調して説得に努めた。
 蒋介石「(日本には)努力し、苦労に耐える精神や、勤勉、倹約の生活習慣など、我が国と共通するものがある。その為、我々は日本人の教官を招く事にした」
 「日本人教官はなんの打算もなく、中華民国を救う為に台湾に来ている。西洋人の作戦は豊富な物量を前提としており国情に合致せず、技術重視で精神を軽んじるので駄目である」
 台湾防衛には、欧米式の膨大な軍需物資を投入する大規模な戦略作戦ではなく、日本式の少軍需物資で粘り強く戦い続ける戦術作戦が適しているとされた。
 何時人民解放軍の侵攻があるか分からない為に、国民党軍将兵に、日本精神、武士道精神、大和魂靖国精神など日本軍精神を叩き込む事が急務でった。
 国民党も中華民国政府も国民党軍も、蒋介石の決定として従った。
 蒋介石は、富田直亮団長を軍師としてその意見・献策を無条件に受け入れた。
 富田直亮は、日本人軍事教官増員の許可を得て、翌年には人員を76名に増やした。
   ・   ・   ・   
 1950年1月号 雑誌『真相』は、「海烈号事件の背後を洗う――義勇軍編成の国際的陰謀」と題して特集を組んだ。
 海烈号事件は、三上や阪田などの右翼・軍国主義者だけではなく、中国から帰還した岡村寧次ら軍人達が国民党軍の「大陸反攻」に義勇軍を派遣しようという計画が絡んでいると報道した。
 台湾の中華民国が、旧日本軍人を義勇兵として募兵しているという噂が流れた。
 毎日新聞は、「あばかれた海烈号事件――5億円の密輸企む」という記事を掲載した。
 各新聞も、「海烈号事件」と「台湾募兵問題」を旧軍部と右翼・軍国主義者らによる再軍備の陰謀計画と報道した。
 共産党の細川嘉六議員は、参議院本会議で、政府に対して旧軍人らによる台湾派遣を追求した。
 吉田茂首相は、調査の結果として、少数の日本人が日本人募兵運動に応じて台湾に渡った事は間違いないだろうが、旧軍人による日本人義勇軍が組織的に編成された事実は発見できなかったと、答弁した。
   ・   ・   ・   
 1950年6月25日(〜53年7月) 朝鮮戦争
   ・   ・   ・   
 『人民日報』は、「国際義勇軍が日本で組織され、台湾に派遣される陰謀計画が進行中である」と報じた。
 中国共産党は、日本の左翼・左派系報道機関を利用して反戦平和の世論操作を行い、日本国内を混乱させ連合軍・米軍の補給基地を機能不全に込もうとしていた。
   ・   ・   ・   
 蒋介石は、「1年準備、2年反攻、3年掃蕩、5年成功」という大陸反攻作戦を掲げ、白団の軍事訓練による台湾軍の強化を期待した。
 岡村寧次や澄田賚四郎は、白団の能力向上をはかる為にさらなに優れた旧軍人に対して積極的にリクルートを行った。
 日本人義勇軍編成には、根本博、右翼の児玉誉士夫、元第1軍参謀長の山岡道武らが加わっていた。
 岡村寧次や澄田賚四郎らは、戦犯として訴追される所を、蒋介石の要請で戦犯名簿から外されていた。
   ・    ・   ・   
 日本の右翼・軍国主義者は、孫文辛亥革命など中国の近代化をカネ・ヒト・モノなど他方面で支援していた。
 孫文辛亥革命は、日本の右翼や軍国主義者の全面協力がなければ成功しなかった。
 日本と中国の不幸は、孫文が日本との協力関係を諦めてソ連に軍事・財政支援を要請し、敵対勢力であった中国共産党と手を組んだ事である。
   ・   ・   ・   
 1952(〜65)年 石牌実践学社。
 アメリカは、国民党軍が日本陸軍教育で日本式戦略戦術を採用して再編される事は好ましくないとして、蒋介石に対して白団の解散を命じた。
 蒋介石は、「アメリカのやり方は金持ちの戦い方だ。金があるときはいいが、貧乏人には向かない」として拒否した。
 円山軍官訓練団を、円山から石牌に移転して石牌実践学社に格上げして、白団の人員を増やし日本陸海軍大学校なみの高級幕僚育成機関とした。
 そして、「石牌実践学校出身でなければ師団長以上に昇進できない」という不文律を設けた。
 アメリカは、危機感を感じて正規のアメリカ人軍事顧問団を派遣した。 
 蒋介石は、国民党軍に、アメリカ軍事顧問団ではなく白団に指示に従い、旧日本軍軍人を見習えと訓示を出した。
   ・   ・   ・   
 岡村と及川ら設立した冨士倶楽部は、国民党軍に役立つ戦史・戦略・戦術についての資料収集を行う図書館であり、白団を支援する軍事研究所であった。
 富士倶楽部の中心人物は、服部卓四郎(元中将・陸軍参謀本部作戦課長)と西浦進(元支那派遣軍総司令部参謀)であった。
 警察予備隊(後の自衛隊)に所属する元軍人は、部外秘の教科書や種々の軍事機密資料を集めて密かに富士倶楽部に渡した。
 冨士倶楽部は、約10年間の間に軍事図書7,000以上と研究資料5,000点以上を台湾に送った。
 白団と国民党軍は、日本から送られてきた軍事情報をもとにして、金門島から対岸の福建省に反攻上陸する綿密な計画を立て、図上訓練を繰り返していた。
 GHQ参謀第2部(G2)は、東西冷戦下で、中国共産党などの共産主義勢力の攻勢から日本と朝鮮を守る為には再軍備が急務として、白団を支援した。
 アメリカは、台湾はアジアに於ける重要な「反共の砦」として多大の軍事支援を与えたが、朝鮮戦争ベトナム内戦に加えて新たな戦争を起こす事を嫌い、国民党軍と白団による大陸反攻計画を阻止した。
 アメリカ軍事顧問団は、国民党軍への指揮監督を強化し日本人軍事顧問団「白団」の影響力を低下させる為に、国民党軍幹部候補生の軍事教育をアメリカで行う事にした。
   ・   ・   ・  
 沖縄米軍基地問題は、アメリカ軍の台湾防衛と対アジア戦略の重要な要であった。
 アメリカは、尖閣諸島を沖縄の一部であり、日本領と認めていた。
   ・   ・   ・   
 1954年9月 人民解放軍は、朝鮮戦争が休戦協定成立で一段落した所で台湾への攻勢を強め、金門島の国民党軍に対して砲撃を再開した。
   ・   ・   ・   
 1955年1月 人民解放軍は、一江山島を攻撃して占領した。
 2月8日から11日 国民党軍は、アメリカ海軍護衛のもとで大陳島撤退作戦を実施して浙江省大陳島の拠点を放棄した。
   ・   ・   ・   
 1958年8月 中国共産党政府は、金門島を攻略すべく総攻撃を命じた。
 人民解放軍は、前回の失敗を教訓として、攻略部隊を上陸させる前に金門島の要塞・軍事施設への激しい空爆と砲撃を行った。
 1日に約5万7,000発の砲弾が金門島に撃ち込まれ、島の要塞や軍事施設の殆どが破壊された。
 白団によって鍛え上げられていた金門島守備隊は、激しい空爆・砲撃の中でも崩壊敗走する事なく踏みとどまり反撃し、圧倒的な人民解放軍の上陸を阻み、金門地区を守り抜いた。
 日本軍人にとって激しい空爆と砲撃による金門島攻防戦は、日米戦争で太平洋の島嶼攻防戦で経験した事である。
 9月11日 山本親雄(中国名:帥本源)が育てた国民党軍航空部隊は、人民解放軍航空部隊との空中戦に勝利して制空権を確保し、兵站の主要拠点である廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。
 アメリカ世論で、少兵力でありながら人民解放軍の大攻勢を凌いで奮戦する台湾を救うべきという声が大きくなった。
 アメリカ政府は、中国共産党政府と中華民国政府の内戦に介入する事に躊躇したが、台湾救援を求める世論に動かされた。
 カウボーイ根性のアメリカ人は、戦えるのに戦おうとしない卑怯者を軽蔑して見捨てたが、戦えない弱い者や非力でも武器を持った戦う者は助けたいという衝動に駆られた。
 アメリカは、台湾の支持を表明し、中国共産党政府に対して「これ以上中国が攻撃を続けるなら戦術核兵器を使用する」と核兵器使用をほのめかして恫喝した。
 アイゼンハワー大統領は、「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、アメリカ軍に台湾への軍事援助を命じた。
 10月6日 中国共産党政府は、アメリカとの全面戦争を避け為に、「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間後に一方的休戦を宣言した。
 中国共産党は、「力こそ正義」「銃口から人民革命が生まれる」という伝統的「力」信奉から、弱い相手や妥協してくる相手には容赦なく高飛車に恫喝、脅迫、威嚇を行うが、強い相手や抵抗して屈しない相手には宥和的に接した。
 毛沢東は、アメリカの恫喝に怯えて、我々も核兵器を持たなければならないとして、極秘で核兵器開発を命じた。
   ・   ・   ・   
 日本国内では、反戦反核運動が盛り上がっていた。
 左翼・左派は、アメリカなどの西側陣営が持つ核兵器は資本家の悪魔の兵器と猛反対したが、ソ連の東側陣営が持つ核兵器は人民の正義の兵器として黙認した。
 反戦平和団体反核運動は、政治的な運動であって純粋な市民運動ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍が立案した、島嶼防衛戦の成功例は金門島攻防戦であり、密林に於ける地下要塞ゲリラ戦の成功例がベトナム内戦である。
 ソ連軍と中国共産党軍は、敗走する日本陸軍部隊を追撃して背後から襲って撃破したが、正面から正規軍と戦って勝利した事はない。
   ・   ・   ・   
 1959年9月 石橋湛山元総理大臣は、私人として北京を訪問して周恩来首相と会談し、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を提案した。
 周恩来は、四ヶ国平和同盟案に同意し、今後は台湾に対して武力行使をしないと約束した。
 世に言う、石橋・周共同声明である。
 中国共産党は、今はこれ以上の武力行使は好ましくないという政治的判断であって、平和共存路線を採用して武力統一を放棄したわけではなかった。
   ・    ・   ・   
 日本に於ける60年安保闘争
 中国共産党ソ連は、多数の工作員を日本国内に潜入させ、反天皇反日反米の日本人運動家に活動資金を与えていた。
   ・    ・   ・   
 1962年 蒋介石は、毛沢東大躍進政策失敗で国力が疲弊しているこの時が大陸反攻の好機と捉え、大陸侵攻計画(国光計画)に着手した。
 アメリカは、全面戦争に発展する事を恐れて、国光計画に反対した。
 蒋介石は、アメリカから軍事支援が得られないとして国光計画を断念した。
   ・   ・   ・   
 1965(〜1968)年 石牌実戦学校は再編され陸軍指揮参謀大学となった。
 中国共産党政府は、石橋・周共同声明を自分に都合よく曲解し、両岸間での陸上戦闘を避けながら台湾側への威圧を続けた。
 東引海戦。
 東山海戦。
 中国にとって、「約束は一時の方便」にすぎなかった。
 特に、中国共産党は結党いらい約束を守った例しはなく、法律は遵守するものではなく自分に都合が良いように解釈し運用する道具と考えていた。
 12月31日 日本人軍事顧問団「白団」は、使命を終えたとして解散して多くの団員が日本に帰国した。
 帰国した団員の内23名は、自衛隊の枢要な地位に就いた。
 団長の富田直亮ら5名は残留して、陸軍指揮参謀大学における軍事教育訓練の見直しを行い、台湾の防衛に貢献した。
   ・   ・   ・   
 1966年5月24日 根本博、死去。
   ・   ・   ・   
 富田直亮らが引退する1969年までの20年間で、日本人軍事教官は最終的に83名に達し、国民党軍将校約2万人が日本陸軍式軍事教育を受けた。
   ・   ・   ・   
 1972年 蒋介石は、台湾人白鴻亮として働いてくれた富田直亮の功績を称えて中華民国軍上将(大将)の称号を与えた。
   ・   ・   ・   
 1975年 蒋介石、死去。
 1976年 毛沢東、死去。
   ・   ・   ・   
 1979年 富田直亮は、台湾で死去し、本人の希望で遺骨は祖国日本と愛した台湾に分けて葬った。
   ・   ・   ・   
 台湾の中華民国は、抗日戦争で日本軍を撃退して勝利した事を正統性とする立場から、旧日本軍人の軍事協力を受け国民党軍を近代的軍隊に再建し、台湾を中国共産党軍から守った事を明らかにする事は出来ず、白団の貢献を隠蔽し、日本人軍事教官の報酬を求めない態度に感謝をせず、歴史の闇に封印した。
 国民党軍首脳部は、政治的配慮とは別に、祖国を守る軍人の立場で日本人軍事教官に対して「その功績は永遠に消せない」と称えた。
 日本に日本軍が復活する事を最も恐れたのが、中国共産党ソ連(ロシア)であった。
   ・   ・   ・   
 1984年 李登輝は、蒋経国蒋介石の子)総裁に抜擢されて副総裁となり、88年から国民党主席に就任した。
 1996年 李登輝は、台湾独立と日本との関係改善を掲げて、初の国民選挙で初代民選総統に選ばれた。
 2000年 李登輝は、総統職を退任したが、中国共産党政府に対抗するべく日台関係の親密の為に精力的に活動している。
 政府与党の自民党や野党内の親中国派政治家や外務省のチャイナスクールは、中国の巨大市場で利益を得る為には中国共産党政府との信頼関係を深めるべきだとして、中国共産党に配慮して台湾を切り捨てる事を主張している。
 現代日本の政治家や官僚は、救いがたいほどに劣化している。
   ・   ・   ・   
 2004年 中華民国政府は、日本人軍事顧問団「白団」の存在を公式に認めた。
   ・   ・   ・   
 2015年 中国共産党政府も、中華民国も、抗日戦勝利70周年記念式典を盛大に執り行った。
   ・   ・   ・   
 中国共産党政府は、台湾はもちろん尖閣諸島や沖縄さらには沖ノ鳥島までも自国の領土とするべく暗躍している。
 日本国内には、中国共産党の意向に添って活動している反天皇反日的日本人が存在する。
   ・   ・   ・   ・    
 駐蒙軍司令官根本博中将は、8月15日の終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を救うべく戦っていた。
 「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」
 日本軍守備隊は、日本人避難民約4万人をソ連軍や八路軍中国共産党軍)から守る為に、3日3晩戦い続け、白兵戦を繰り広げ、多く犠牲者を出して撃退した。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社の祭神として祀られた。
 日本国内では、靖国神社を否定し廃絶を求める反天皇反日的日本人がいる。
 もし日本軍守備隊が中央の命令に従って武装放棄し無抵抗になれば、日本人避難民はロシア人兵士や八路軍兵士の襲撃を受け大半が虐殺されていた。
 日本人女性は、強姦され、殺害されるか人身売買された。
 それが、大陸に於ける敗残者の末路である。
 日本人避難民(女子供)が中国人やロシア人に虐殺されたのは、軍国日本が犯罪的侵略戦争を起こし、非人道的植民地支配した為だから我慢すべきでると主張する日本人がいる。
   ・   ・   ・   
 非暴力無抵抗とは、その悲惨な運命を無条件で享受する事である。
 中国共産党は、ソ連以上に大虐殺を繰り返し、今もチベットウイグル・モンゴルなどで虐殺を続けている。
 そして、天安門事件である。

   ・   ・   ・   

[asin:B00KGWB5XS:detail]

🐖65」─1─中国共産党のTPP参加検討は、アジア盟主をめぐる米中攻防での対米牽制である。~No.303No.304No.304 ㉟

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の親中国派・媚中派、反米派・反安保派は、アメリカへの依存を辞める為に、中国共産党政府のTPP参加を切望している。
 日本産業界は、消費の衰退が進む日本国内を諦め、中国の内需を支え始めた中流階級約14億人の爆買い(大量消費)に縋り付こうとしている。
   ・   ・   ・   
 2020年11月20日23:30 産経新聞「習主席「TPP参加を検討」 意欲表明は初
 オンラインで開かれたAPEC首脳会議の関連会合で演説する中国の習近平国家主席=19日、北京(新華社=共同)
 【シンガポール=森浩、北京=三塚聖平】日本や米国、中国など21の国・地域が参加するアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が20日夜、テレビ会議方式で開催された。中国国営新華社通信によると、習近平国家主席は首脳会議での演説で、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)について「積極的に参加を検討する」と表明した。
 習氏がTPPへの参加意欲を示したのは初めてとみられる。米大統領選で勝利を確実にしたバイデン前副大統領がTPPへの態度を明確にする前に先手を打ち、自由貿易を擁護する開放的姿勢をアピールした。
 習氏は、中国が日本や韓国などとともに協定に署名した「地域的な包括的経済連携(RCEP)」を「歓迎する」とも述べた。
 トランプ米政権がTPPを離脱するなど「自国第一」の路線を邁進(まいしん)し、世界では新型コロナウイルス禍による経済低迷で保護主義的な動きが広がる。今回の首脳会議では、自由貿易の重要性を掲げてきたAPECが3年ぶりの首脳宣言を採択できるかが焦点だ。
 首脳会議には菅義偉(よしひで)首相やトランプ米大統領も出席。トランプ氏は大統領選での敗北が確実になって以降、ほとんど公務を入れておらず、初の国際会議への参加となる。
 APEC首脳会議は2018年、米中対立を背景に首脳宣言を取りまとめられず、19年は議長国チリの政情不安で会議そのものが開催されなかった。APECの存在感が低下しているとの指摘も出ている。
 今回の首脳会議では、自由貿易のさらなる推進や経済関係の深化、「コロナ後」の経済回復に向けた協力体制の構築などが主な議題となる。議長国マレーシアは首脳宣言の採択を目指しているが、会議のかじ取りは容易でない。
   ・   ・   ・   
 11月21日01:28 産経新聞「中国「TPPに意欲」 米の包囲網切り崩しへ先手
 テレビ会議方式で行われたAPEC首脳会議で、画面に映し出される参加21の国・地域首脳=20日、マレーシア・クアラルンプール(ロイター)
 【北京=三塚聖平】中国の習近平国家主席環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加意欲を表明することで、米国の機先を制して攻勢に出た。米大統領選で勝利を確実にしたバイデン前副大統領が政権を握っても対中政策の軟化は見込みにくく、中国としては米国が進める「対中包囲網」の切り崩しが喫緊の課題だ。米国の外交戦略の方向性が定まらない中で、中国は「TPP」という対米牽制(けんせい)の新たなカードを手に入れようとしている。
 中国はこれまでTPPについて「前向きで開放的な態度を取っている」(李克強首相)と述べるにとどめており、今回の習氏の発言で大きく踏み込んだ。このタイミングでの表明が、政権移行期で混乱する米国を意識したのは明白だ。
 トランプ米政権は、中国製通信機器の排除を各国に求めるなど対中包囲網の形成を呼びかけてきた。こうした対中強硬姿勢はバイデン氏が大統領になっても大きくは変わらないという見方が中国国内でも根強い上、「自由で開かれたインド太平洋」の旗印の下で日米豪印が連携を強めるという動きもある。
 そうした中で、世界2位の経済規模を武器に自国の影響が及ぶ経済圏を広げ、対中包囲網を切り崩す思惑がうかがわれる。15日には日中韓などが参加する地域的な包括的経済連携(RCEP)交渉が妥結して15カ国が署名したが、北京の日本人エコノミストは「中国にとりRCEP妥結は、世界や地域で孤立していないとアピールする効果があった」と指摘する。習氏は19日に行われたAPEC首脳会議の関連会合での演説で「多国間や2国間の投資・貿易協力に積極的に参加する」と経済連携交渉を加速させる方針を示している。
 実際に中国がTPPに参加するハードルは高い。TPPは、RCEPよりも関税撤廃率やルール作りで高い水準にあり、参加には国有企業改革などが求められるからだ。ただ、参加にまでたどり着けないとしても、TPPから離脱した米国を横目に開放的な姿勢を戦略的にアピールすることにつながるのは間違いない。」
   ・   ・   ・   
 11月21日11:39 産経新聞尖閣周辺に中国船 76日連続
 手前から南小島、北小島、魚釣島=沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影) 
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で21日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは76日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
   ・   ・   ・   
 11月21日20:44 MicrosoftNews 時事通信「アジア盟主めぐり米中攻防=習主席、「TPP検討」と対米けん制―APEC
 【ワシントン、北京時事】20日閉幕したアジア太平洋経済協力会議(APEC)では、中国の習近平国家主席が域内貿易の主導権を握る決意を表明した。米国が離脱した環太平洋連携協定(TPP)への参加を「積極的に検討している」とし、貿易や先端技術で中国排除に動くトランプ大統領をけん制。中国の動向は、来年のTPP議長国である日本だけでなく、バイデン次期米政権の通商戦略を左右する。
 「アジア太平洋地域の経済協力は政治ゲームではない」。習主席は貿易戦争を仕掛けたトランプ氏を暗に批判し、TPP参加を通じて貿易・投資ルールづくりを主導する姿勢を示した。TPPを抜けた米国がアジアで存在感を低下させる中、その空白を突いた形だ。米大統領選で勝利を確実にしたバイデン前副大統領がTPP復帰に向けた態度を決める前に、布石を打つ狙いもある。
 トランプ氏にとって大統領選後で初の国際会議となった。敗北が確実になっても中国への厳しい制裁を緩めるそぶりは全く見せないが、世界最大の市場を抱える米国が保護主義に傾いた代償は大きい。世界で現行の高関税や規制が続くと、世界経済の損失は2025年までに最大1000兆円に達するとの試算もある。
 一方、中国のTPP参加に向けたハードルは高い。15日に日中韓など15カ国が合意した地域的な包括的経済連携(RCEP)に比べ、貿易自由化水準は相当高く、中国が改革を拒む国有企業への補助金、労働や環境分野でも対応を迫られる。それでも開放姿勢をアピールしたのは、米国主導で広がる「中国包囲網」を切り崩すためとみられる。
 米国離脱後にTPP11カ国の合意をけん引した日本。菅義偉首相はAPEC関連会合で「アジア太平洋自由貿易圏の実現を目指す」と述べ、米国の復帰に期待をにじませた。TPPは元来、オバマ前米政権が中国に対抗する枠組みに位置付けていた。その中国を受け入れるのかどうか。日本はTPP議長国として、米中両大国のはざまで難しい立ち回りを迫られる。」
   ・   ・   ・   
 11月22日05:00 産経新聞「【主張】中国のTPP検討 習氏が送る秋波に乗れぬ
 中国の習近平国家主席アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加を「積極的に検討する」と表明した。
 米国が離脱したTPPへの参加意欲を示すことで、先に署名した地域的な包括的経済連携(RCEP)と合わせて、自由貿易の推進役を標榜(ひょうぼう)する思惑があるのだろう。
 米中対立が激化する中、政権交代期の米国の機先を制して、アジア太平洋地域における影響力を高めようとする戦略的な発言だと受け止めるべきである。
 そうでなくともTPPは、RCEPよりも高水準の関税撤廃や共通ルールが明記されている。一党独裁の政治経済体制をも揺るがしかねないTPPの規律を、中国が本気で受け入れようとしているのかは疑わしい。習氏が送る秋波に安易に乗るわけにはいかない。
 TPPには本来、中国に対抗して公正で自由な広域経済圏を構築する狙いがある。このことを今一度、想起する必要がある。
 例えばTPPには、外国企業よりも国有企業を優遇することなどを禁じる規定がある。これは、国有企業を通じて経済を管理する中国の国家資本主義の根幹にかかわるものだ。
RCEPでデジタル分野のルール作りが進展したといっても、中国を念頭に置いたTPP3原則の一つ、コンピューターソフトの設計図にあたる「ソースコード」の開示を外資に求めることを禁じる規定は盛り込まれなかった。
 中国がTPP参加に向けて乗り越えるべきハードルは極めて高いのが現実である。同じくTPP参加に意欲的な英国や台湾などと同列に扱うことはできない。
 米国が抜けたTPPを11カ国で発効させるための交渉を主導した日本は、他の加盟国が中国の経済力に引き寄せられて前のめりに対応することがないよう警戒を強めるべきである。もちろん、習主席の参加意欲を軽々に歓迎することなどあってはならない。
 問題は米国である。大統領選で勝利を確実にした民主党のバイデン前副大統領には、早急にTPPに復帰する方針を明言してほしい。対応が遅れると、その分、この地域での中国の存在感が高まろう。これを避けるためにも、日本政府はバイデン氏に復帰を強く促していくべきである。」
   ・   ・   ・   
 11月23日 産経新聞「TPPの準備姿勢強調 中国「各国と連絡取る」
 オンライン形式で開かれたAPEC首脳会議で演説する中国の習近平国家主席=20日、北京(新華社=共同)
 中国外務省は23日、習近平国家主席が参加に意欲を示した環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関し、メンバーの拡大が議論される段階になれば「参加各国と連絡を取るつもりだ」と表明した。加盟交渉に向けて準備を進める姿勢を強調した。国際経済分野の担当官が海外メディアの取材に答えた。
 担当官は、現時点で参加への具体的な日程が定まっているわけではなく「関心を示したところだ」と説明。一方で、TPPをめぐる次の段階では「メンバーの拡大が議題になるだろう」と期待感を示した。
 習氏は20日のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、TPPへの参加意欲を初めて表明した。中国は日本などとともに「地域的な包括的経済連携(RCEP)」にも署名した。対立する米国を念頭に、自由貿易を擁護する姿勢をアピールしている。(共同)」
   ・   ・   ・   

💠6」─7─APEC首脳会議。トランプ氏と習近平国家主席。〜No.35No.36No.37 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年11月20日10:53 産経新聞尖閣周辺に中国船 75日連続
 尖閣諸島を含む東シナ海上空=沖縄・尖閣諸島鈴木健児撮影)
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で20日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは75日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
   ・   ・   ・   
 11月20日20:58 産経新聞「トランプ氏、中国の影響力拡大にクギ APEC首脳会議
 トランプ米大統領(AP=共同)
 【ワシントン=黒瀬悦成】トランプ米大統領は20日、2017年の大統領就任後2度目の出席となるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、「米国第一主義」および「自国第一主義」に基づく経済外交路線が結果的に各国の繁栄につながるとする持論を改めて訴えていくとみられる。
 トランプ氏はこの4年間、各国に「公正で互恵的」な貿易関係を求め、各国の対米貿易黒字の縮小に向けて制裁関税などで圧力をかけてきた。
 トランプ氏は大統領選で敗北が確実になって以降、選挙結果の逆転に向けた取り組みに精力を集中させ、目下の政策的な懸案には関与していないとされる。
 そうした中でトランプ氏がAPECへの出席を決めたのは、インド太平洋地域で中国が影響力を拡大させ、米国が日本などと進めてきた「自由で開かれたインド太平洋構想」が中国に押し戻される事態を懸念したためとみられる。
 APEC首脳会議には中国の習近平国家主席も出席を予定している。
 また、日中など15カ国は15日に「地域的な包括的経済連携(RCEP)」に署名するなど、地域における中国の影響力拡大を懸念する声も強まっている。
 トランプ氏は、17年のベトナム・ダナンでのAPEC首脳会議と同様、中国による不公正な貿易慣行を強く非難した上で、中国によるハイテク覇権や知的所有権の侵害の阻止に向け、各国に連携強化を求める可能性がある。」
   ・   ・   ・   
 11月20日21:12 産経新聞習近平氏、開放的姿勢アピールで対米牽制 APEC首脳会議
 オンラインで開かれたAPEC首脳会議の関連会合で演説する中国の習近平国家主席=19日、北京(新華社=共同)
 【北京=三塚聖平】アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議を舞台に、中国は「トランプ後」をにらんで対米牽制(けんせい)を強めている。米大統領選で勝利を確実にしたバイデン前副大統領が政権を握っても対中政策の軟化が見込みにくい状況下で、世界で自国の影響が及ぶ経済圏を広げることにより「対中包囲網」を切り崩すことを狙う。
 「中国はデカップリング(切り離し)を行ったり、排他的な小さなグループをつくったりしない」
 習近平国家主席は19日、オンライン形式で行われたAPEC首脳会議の関連会合で演説した。演説では「一国主義や保護主義が蔓延(まんえん)する中で、中国の対外開放は歩みを止めなかった」とも強調しており、名指しはしていないものの米国が念頭にあるのは明らかだ。
 トランプ米政権が保護主義的な傾向を強めてきたのを受け、中国は自由貿易の擁護姿勢をアピールする。15日には日中韓などが参加する地域的な包括的経済連携(RCEP)交渉が妥結して15カ国が署名したが、習氏は「多国間や2国間の投資・貿易協力に積極的に参加する」と経済連携交渉を加速させる方針を示す。
 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)についても、中国商務省の高峰(こう・ほう)報道官が19日の記者会見で「中国は積極的で開放的な姿勢だ」と発言。実際の参加には国有企業改革が必要などハードルが高いものの、TPPから離脱した米国を意識して開放的な姿勢を戦略的にアピールしている。」
   ・   ・   ・   

🐖56」─2─中国共産党のメディア戦争。アフリカで進む放送局支配。~No.273No.274No.275 ㉖

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 勝敗の鍵は5Gの主導権である。
   ・   ・   ・   
 2020年11月20日 産経WEST「【エンタメよもやま話】中国が仕掛けるメディア戦争、アフリカで進む放送局支配
 中国共産党の5中総会で演説する習近平党総書記。中国による“海外メディア懐柔戦略”は激しさを増している=北京(新華社=共同)
 米大統領選でジョー・バイデン前副大統領(民主党)が当選を確実にしました。これによって最も注目されるのが今後の米国の対中政策です。
 激しい対中批判を繰り返し、対中貿易戦争でも報復措置で対抗し続けてきたドナルド・トランプ大統領に対し、バイデン氏が中国にどういった姿勢で臨むのかが世界の最大の関心事です。今の中国に少しでも甘い顔を見せると、米といえども一気につけ込まれて大変なことになるのは明白です。
 なぜか。習近平国家主席率いる中国共産党は、世界の国々を“親中派”に取り込もうと画策。ここ数年、各国の主要メディアや記者を金で抱き込み、世界を中国に都合のいいニュースであふれさせるという壮大かつ恐ろしい計画を着々と進めているというのです。
   ◇     ◇
 この問題が世界に知られるようになったのは2年前。2018年12月7日付の英紙ガーディアン(電子版)の記事でした。今回は、この記事の驚くべき内容を中心にご紹介したいと思います。
 まずは、中国が巨大経済圏構想「一帯一路」の重要拠点と認識しているアフリカでの出来事です。中国国営中央テレビ(CCTV)が2012年、ケニアにアフリカの拠点局「CCTVアフリカ」を開設してから約4年後。ナイジェリア(西アフリカ)の調査報道記者、ダヨ・アイエタン氏のもとに1本の電話がかかってきました。アイエタン氏は10年に当地で独立、非営利の報道機関を設立し、何者にもおもねらない質の高い活動を展開。16年には中国の実業家によるナイジェリアの森林の不法伐採を暴露しました。
 そんなアイエタン氏にかかってきた電話というのは、CCTVの新しいケニアのオフィスで働かないかという誘いでした。給与は少なくとも、今の2倍は出すといいます。アイエタン氏は高給に加え、今より安定した仕事内容という2つの誘惑に負けそうになりましたが、報道機関を立ち上げたばかりだったので、結局、その申し出を断りました。
 CCTVといえば、中国における主要なプロパガンダ(宣伝)機関の代表格です。そのCCTVが海外メディアへの影響力を強める戦略に踏み切るにあたり、最初のテストケースに選んだのがアフリカでした。
 きっかけは、チベット問題をめぐり、世界各地で聖火リレーへの抗議活動が勃発(ぼっぱつ)した08年の北京五輪でした。この出来事に憤慨した中国当局は、翌09年、世界のメディアに対する存在感や影響力を強める計画に66億ドル(約7000億円)をつぎ込むと発表。その最初の取り組みが「CCTVアフリカ」で、アイエタン氏のような中国にとって邪魔な記者を金で抱き込もうと奔走したのでした。
 「CCTVアフリカ」は当地の記者たちに、世界中の視聴者に、西洋の価値観にとらわれない「アフリカのニュースを報じる」ための立派な給与とチャンスを与えると約束しました。
 ケニアの主要テレビ局の一つ「KTN」から引き抜かれたケニアの記者、ベアトリス・マーシャル氏はガーディアン紙(電子版)に「われわれの視点でニュースを報じることができるのがうれしい」と話しました。
 しかし「CCTVアフリカ」の報道を研究した英ウエストミンスター大学のヴィヴィアン・マーシュ客員研究員は、マーシャル氏の主張に懐疑的です。なぜなら、14年に西アフリカで発生したエボラ出血熱に関する報道を分析したところ、記事の17%がなぜか中国に言及しているうえ、医師の派遣や医療援助の準備などに関し、中国の役割が強調されていることに気づいたからです。
 マーシュ氏はガーディアン紙に「彼らは前向きな報道に努めていましたが、中国の描写は慈愛に満ちた守護者のようで、ジャーナリズムの信頼性に欠けていると思いました」と述べました。ガーディアン紙は<こうしたニュースの真の目的は、アフリカの話ではなく、中国の力や寛大さ、そして中国が世界の出来事の中心にいると強調することである>と報じています。
 そしてCCTVはアフリカで行ったメディア戦略を世界に拡大するため、16年に国際放送部門を分離し、新たに「中国グローバルテレビネットワーク(CGTN)」の放送を始めました。英語だけでなく、スペイン語、フランス語、アラビア語、ロシア語のチャンネルも運営する力の入れようです。
 そんなCGTNは、ルワンダやガーナを含む多くのアフリカ諸国では、何千もの農村に無料で放送されるなどますます影響力を強めています。なぜ無料かというと、中国の有料テレビ運営会社、スタータイムズが協力しているからです。スタータイムズの最も安いプランでは、中国とアフリカのチャンネルは普通に視聴できますが、BBCやアルジャジーラを見るには追加コストが必要なため、加入者のほとんどは見ていません。
 こうして中国は、アフリカで自国のプロパガンダ(宣伝)を日々、放送し続けています。アフリカの有料テレビの加入者2400万人のうち、既に半数近くの約1000万人がその影響下にあるとみられ、業界アナリストは、その数字はさらに増えるとみています。
 加えて、アフリカの放送局は、スタータイムズがアフリカのいくつかのメディア市場で地元企業の追い出し工作を展開していることに懸念を示しています。スタータイムズはアフリカの一部地域でアナログからデジタルテレビへの切り替え業務を担っているほか、テレビ衛星を打ち上げるなど圧倒的な力でアフリカの放送局を裏から支配下に置こうとしているのです。
 前述のガーディアン紙はこう明言します。<「中国人民解放軍政治工作条例」が改定された2003年以降、いわゆる「メディア戦争(Media Warfare)」は北京(中国政府)の軍事戦略の一部となっている。その目的は、外国政府が中国共産党に有利な政策を行うよう、海外の世論に影響を与えることである>
 こうした中国の戦略は、欧米でも積極的に展開されています。(岡田敏一)
  ◇  
 【プロフィル】岡田敏一(おかだ・としかず) 1988年入社。社会部、経済部、京都総局、ロサンゼルス支局長、東京文化部、編集企画室SANKEI EXPRESS(サンケイエクスプレス)担当を経て大阪文化部編集委員。ロック音楽とハリウッド映画の専門家、産経ニュース( https://www.sankei.com/ )で【芸能考察】【エンタメよもやま話】など連載中。京都市在住。
  ◇  
 ■毎週、日本を含む世界のエンターテインメントの面白情報などをご紹介します。ご意見、ご要望、応援、苦情は toshikazu.okada@sankei.co.jp までどうぞ。」
   ・   ・   ・