🛳18」─1・B─旧日本陸軍の軍事顧問団「白団」は中国共産党軍の侵略から台湾を救った。1945年~1969年。~No.112No.113No.114 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 恩義を利益で天秤にかける現実主義の中国人に、相手に善かれと思って配慮して行った事に対して感謝の言葉を期待してはならない。
 中国人は、心の底から感謝の言葉を述べる事はない。
 日本人と中国人の考え方は、正反対に近いほど異なる。 
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 昭和9年12月 親英米派の安藤利吉は、英国大使館付駐在武官の任務を終えて帰国し、陸軍参謀総長上原勇作に『英国在勤最終報告書』を提出して、日本が採用すべきは「英米との提携」であると意見具申した。
 「私は日米英の世界平和の為の提携を最も緊要適切と信じる者であります」
 「強国相手に国の全能力を挙げて行う近代戦は残忍酷薄、一旦負ければ国家としても民族としても永遠に旧態の回復を予想し得ない様な深刻な打撃を免れ得ない」
 「戦は勝手も国家的民族的に大損失を免れ得ない。万一負けでもしたらならば再起絶望と覚悟せねばならぬ。故に戦争は極力避けねばならぬ」
 1945年5月31日 台北大空襲。
 6月23日 沖縄陥落。
 8月15日 台湾総督兼第10方面軍司令官・安藤利吉大将は、台湾軍に対して「承詔必謹(しょうしょうひつきん)、ここに戦いを収める」と訓令し、一般市民には「軽挙妄動せずに冷静沈着に生業に励め」との論告を出した。
 8月22日 台湾人の名望家らは、安藤総督を訪ね、台湾はこのまま国家として独立したい旨を伝え、日本軍が所有する武器を「必要な時に提供して欲しい」と申し込んだ。
 だが。安藤総督は、独立運動の為に武器を供与して欲しいという申し込みを拒否し、台湾人の主体的独立運動であっても連合軍は日本軍の策謀と勘ぐって認めるわけはなく、台湾が戦場となり台湾人が弾圧される恐れがあるから中止すべきであると諭し、それでも独立運動を行うというのなら日本軍が討伐すると言い切った。
 「皆さんの衷情はよく分かるが、世界の大局を見て独立運動は止める事をお勧めしたい」
 ポツダム宣言で、台湾が中国に返還される事が決まっていたい以上、連合国は台湾の独立を認めず、中国軍は武力を用いて鎮圧したであろう。
 そして、GHQによる日本占領統治にも悪影響が出て、ソ連が要求した北海道東半分割譲と蒋介石が求めた沖縄と九州の一部が中国領となったかもしれない。
 天皇を中心とした国體と日本国土を守る為には、台湾の独立を許す事はできなかった。
 10月25日 台北市西部の繁華街、西門町にある台北公会堂(現・中山堂)で、日本軍の降伏式が行われた。
 中華民国台湾行政長官公署の署長・陳儀は、安藤利吉が署名・捺印した調印文書を台湾軍参謀長・諫山春樹中将から受け取るや日本側代表団に退場を命じた。
 降伏式は、5分で終わった。
 これ以降、安藤利吉は台湾地区日本官兵善後連絡部長として、日本軍の武装解除と約40万人の日本人の引き揚げ業務の責任者となった。
 1946年1月 アメリカ軍は、安藤利吉を戦犯指定した旨を公表した。
 容疑は、台湾を空爆しに来た爆撃機を撃墜し、降下した搭乗員14名を捕らえて銃殺した事件での、台湾軍の最高責任者としての罪であった。
 4月12日 台湾警備総司令部は、日本人第一次帰還者の引き揚げが一段落するのを見計らって、アメリカ軍の要請に従って安藤利吉を逮捕した。
 4月15日 安藤利吉被告は、アメリカ軍が開廷した上海の特別法廷で裁かれる為に、上海市北東部の提藍橋監獄の独房に収監された。
 4月19日夜 安藤利吉被告は、妻・栄子、士官学校同期の親友・岡村寧次、部下宛の遺言を書き終えて、青酸カリを飲んで自決した。  ・   ・   ・    ・   ・   ・     
 1945年8月19日 ソ連軍は、内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に侵攻してきた。
 ソ連軍は、白旗を揚げ両手を挙げ武器解除しても、自分が欲しいモノを手に入れるまでは戦闘を続行した。
 よって。日本が降伏を受け容れた8月15日は終戦記念日でも停戦記念日でもなく、依然として戦闘続行中で目の前にいる日本人を殺し回っていた。
 そして、一般の非戦闘員も虐殺されていた。
 世界の戦争に於いて、白旗を掲げ、両手を挙げ、武器を手放しても、戦闘が終わった事にはならない。
 そrを、ロシア兵が実証して見せた。
 それを理解できなかった日本軍は、世界規模の戦争をする資格がなかった。
 駐蒙軍司令官根本博陸軍中将は、蒙古聯合自治政府内の張家口付近で生活していた日本人居留民約4万人を守るべく、終戦詔勅を無視して戦い、3日3晩ソ連軍と八路軍の攻撃を撃退した。
 日本軍の活躍によって、内蒙古にいた日本人居留民は満州のような悲惨な状況に陥る事なく、全員がロシア兵や中国人暴徒に襲われる事なく天津に辿り着いた。
 ロシア人兵士や中国人暴徒に捕まれば、女子供に関係なく虐殺され、女性は強姦されて惨殺された。
 日本人居留民は、引き揚げ船に乗船するまで日本軍や政府関係者の支援を受け、無事に帰国した。
 日本軍は、本気で戦えば重装備のソ連軍を撃退し退ける事が出来た。
 中国共産党八路軍は、日本軍から見れば馬賊か匪賊の低レベルの武装集団で有り、戦えば負ける事は絶対になかった。
 中国共産党も、戦力差を知っていただけに、日本軍との戦闘を避けて逃げ回っていた。
 八路軍とは、その程度のだらしない素人に近い武装集団であった。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社に祀られた。
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 1946年 アメリカ国民は、ファシストとの戦争に勝利するや戦場の我が子の早期帰国を望み、新たな戦場に若者達を送り出して戦死させる事には反対であった。
 アメリカは、占領したヨーロッパと日本に駐留軍を派遣したが、それ以外の地域から軍隊を撤兵させ、諸地域での内戦に介入する意思がない事を示した。
 中国は抗日戦が勝利で終わり日本軍が撤退すると、毛沢東中国共産党軍と蒋介石の国民党軍(ファシスト中国)の内戦状態が再燃した。
 国民党軍の総兵力430万人に対して、中国共産党軍は数十万人に過ぎなかった。
 中国の歴史の大半が、中国人同士の殺し合いである。
 中国の歴史とは、戦争と虐殺の歴史である。
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 1947年2月28日 2・28事件。白色テロ。国民党政府は、外省人支配に対する不満を抱く台湾人を弾圧した。
 3万人から5万人が虐殺された。
 8月 国民党軍は、中国共産党の本拠地延安に大攻勢を行ったが大敗を喫し、戦局は逆転して、国民党軍は劣勢に追い遣られた。
 中国人民は、人民を虐げ私腹を肥やす腐敗堕落した国民党ではなく、人民を保護する清廉潔白な中国共産党を支持した。
 ソ連は、中国、朝鮮、日本を含むアジア全体を共産主義化する為に中国共産党を軍事支援した。
 アメリカの国際戦略は欧州重視アジア軽視で、西欧は如何なる犠牲を払っても守るが、中国は中国人民の自主判断に委ねるとして軍事支援を止めた。
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 1949年 国民党政府は、台湾全土に戒厳令を施行した。
 1月 中国共産党軍は、前年の9月からの三大戦役で国民党軍を撃破し、北京、南京、上海などの主要都市を占領し、敵対勢力を虐殺した。
 国民党軍は、精鋭部隊47万人を失い壊滅状態となり、中国共産党軍の大攻勢で敗走を続けた。
 中国共産党ファシズム戦争とは、軍国主義の日本ではなくファシスト中国の国民党との戦いの事である。
 中国共産党軍の勝利に貢献したのは、ソ連軍ではなく満州に残っていた旧日本軍であった。
 旧日本軍が中国共産党軍に協力したのは、日本人避難民を人質に取られていたからである。
 通化では、中国共産党軍によって女子供を中心とした3,000人の日本人避難民が虐殺されていた。
 中国共産党軍は、空軍を持っていなかった為に、捕虜となっていた旧日本陸軍航空部隊に中国人パイロット養成を命じた。
 中国共産党軍空軍は、旧日本陸軍航空部隊の指導で編成され、国民党軍空軍を圧倒して制空権を独占して内戦を勝利に導いた。
 蒋介石も、ナチス・ドイツの軍事顧問団やソ連の義勇部隊を利用しても日本軍に勝てなかったという個人的な苦い経験を持っていただけに、日本陸軍の実力を知っていた。
 蒋介石は、敗戦の責任を取って総裁職を辞任した。
 国民党は、大敗北が決定的となった為に台湾への移動を決定し、民族・個人の財産を台湾に輸送するように命じた。
 北京の故宮紫禁城)にあった明・清両王朝時代の古書・美術工芸品の中でも最も貴重品を、台湾に運んだ。
 軍国日本は、中国の民族的歴史的芸術品を略奪するどころか、中国国内で大事に保護していた。
 元駐蒙軍総司令官根本博陸軍中将は、日本軍兵士45万人と日本人避難民4万人が無事に帰国できた事の対して、蒋介石への恩義から国民党軍に協力するべく私財を売却して渡航費用を工面した。
 元上海の貿易商・明石元長と東亜修好会からの要請もあって、大陸への密航を急いだ。
 明石元長は、元台湾総督の明石元次郎の長男で、台湾を中国共産党の侵略から守る為に根本の密航を手助けした。
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 4月 蒋介石は、残存兵力を集めて大反攻作戦を計画し、旧日本陸軍の協力を得るべく曹士澂(そうしちょう)少将を極秘に東京へ派遣した。
 曹士徴は、中国残留中の旧支那派遣軍総司令官岡村寧次大将が帰国するまで世話していた関係を頼って岡村を訪ね、大反攻作戦を打つ開け旧日本陸軍の支援を依頼した。
 「岡村さん、このままではアジアは共産主義の脅威にさらされてしまう。日中友好の為にも、是非あなたに国民党軍の再建をお願いしたい」
 岡村は、蒋介石が「恨みに報いるには徳を以てする」という寛大な戦後処理で100万人の旧日本軍部隊と日本人避難民が無事に帰国できた恩義に報いる為に、中国共産党軍への反攻作戦への協力要請を快諾した。
 「蒋介石総統に恩返しをしたいから、必ず優秀な将校を組織して台湾へ送り、国民政府を支持する」
 アメリカ軍の占領下にあった日本から海外への渡航は、特別な理由かGHQの許可がない限り認められておらず、まして旧軍人の渡航は不可能であった。
 GHQ内のマルクス主義者の保護を受けた日本共産党は、旧日本軍人の中から個人的に国民党に協力する者がいる事を知り、監視を強化していた。
 4月29日 日本右翼の学生組織「海外同胞引揚救護学生同盟」の同盟員38名は、中国の共産主義化を食い止めるべく義勇兵として飛行機で台湾に飛び立った。
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 6月 学生同盟員40名と中島飛行機の技術者8名は、国民党軍に加わる為に第2陣として台湾に赴いた。
 6月26日 根本博と通訳の吉村是二は、明石元長が調達した釣り船で宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航した。
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 7月10日 根本は、台湾の基隆に到着するが密航者に間違えられて逮捕・投獄された。
 国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)は、根本投獄の報告を受けるや直ちに釈放し、8月1日に身柄を台北に移して北投温泉で静養させた。
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 8月5日 アメリカは、内戦に敗北し滅亡間近の国民党政府を見かぎり軍事支援打ち切りを正式に表明した。
 8月18日 国民党軍は、上海を失い、大陸での拠点は厦門だけになっていた。
 中国共産党軍が、厦門を攻略すれば、その勢いで台湾に上陸してくる事は明らかであった。
 蒋介石は、アメリカからの軍事支援がなくなった為に、旧日本陸軍勢力からの支援に頼るしかなかった。
 根本は、台湾から厦門に渡った。
 日本陸軍士官学校出身の上海方面軍司令官湯?伯将軍が、根本を出迎えた。
 蒋介石は、最後の拠点である厦門を死守する為に根本に中国名「林保源」を名乗らせ、湯恩伯の第5軍管区司令官顧問として中将に任命した。
 林保源中将こと根本博は、前線を視察して厦門を守る事は不可能と判断し、対岸の金門島を要塞化して中国共産党軍を迎え撃つ防衛計画を立案した。
 国民党首脳陣は、大陸最後の拠点を捨て金門島に退く作戦は敗北主義であるとして猛反対した。
 蒋介石は、根本を信頼し厦門放棄・金門島要塞化案を支持し、第5軍の指揮権を委ねて、湯将軍を参謀長にするように依頼した。
 この後、根本は防衛戦の直接指導に当たった。
 8月24日 横浜港に入港した中国船「海烈号」から、5億円にのぼる禁制品が発見された。
 取り調べの結果。三上卓元海軍中尉(5・15事件の中心人物)や阪田誠盛旧関東軍嘱託らが、極秘に進めている日本再建計画の資金を調達する為の密輸事件である事が判明した。
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 9月10日 岡村寧次は、東京高輪の旅館に陸軍大学校出身の元高級将校らを集めて、国民党軍の将校達16名と密会した。
 「今や赤魔共産主義が中国大陸を風靡しようとしている。両国同志は反共アジア防衛の為に決起する」という趣旨で、中華民国日本人軍事顧問団結成を決めた。
 岡村寧次「東亜振興の為にはさしあたり中国の強化繁栄を期待するしかない。没落した日本がこの際協力できる道としては、ただ技術と経験だけであろう」(1945年8月16日日記)
 岡村寧次は蒋介石と秘密の盟約を結び、参謀であった小笠原清元陸軍中佐と極秘裏に旧軍関係者への勧誘工作を開始した。
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 10月1日 毛沢東は、全体主義一党独裁体制としての中華人民共和国国家の樹立を宣言した。
 中国共産党軍は、国民党軍が撃破して厦門を占領した。
 根本博(林保源)は、厦門の次は金門島として、日本陸軍塹壕戦準備を急がせた。
 国民党軍司令部は、厦門の奪還に固執していたが、根本博(林保源)の合理的な作戦に同意するしか亡かった。
 中国共産党は、レーニンの国際共産主義革命輸出を真似て、インドネシアなど東南アジアへの中国共産党式人民革命の輸出を始めた。
 その為に、東南アジアで共産主義者と保守派による死闘が繰り広げられ、多くに犠牲者が出た。
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 日本人軍事顧問団「白団」(パイダン)の結成。
 国民政府代表が曹士澂、団長が富田直亮(元第23軍参謀・少将)、保証人が岡村寧次、募兵の選考は、澄田賚四郎(元第1軍司令官・中将)が責任者で、十川次郎(元第5軍司令官・中将)、及川古四郎(元海軍大将・海軍大学校校長)と岡村の部下小笠原清(元支那派遣軍参謀、中佐、)らが協力しました。
 初期の参加者は、旧陸海軍人25人であった。
 白団の名称は、団長の富田直亮が曹士澂から中国名「白鴻亮」を貰い、白将軍の名をとって名付けた。
 富田直亮元陸軍少将は、アメリカ留学歴もある国際派の英才であった。
 副団長の山本親雄元海軍少将は、航空戦の専門家で、山本五十六真珠湾を航空機で攻撃する着想を与えたと言われているほどの逸材であった。
 旧日本軍高級将校達は、中国・台湾が中国共産党の手に落ちる事は日本生存の危機、国體護持の危機、天皇制度継承の危機など、戦前にあった共産主義に対する危機感から参加した。
 明治以来。日本の国防戦略の要は3つあり、1つはロシア・ソ連の北からの侵略に対処する事、2つに朝鮮半島から侵略してくる清国・中国とロシア・ソ連に対処する事、3つ目が日本の生存に欠かせない海外資源を日本に安全に運び込む為の海上輸送路としての台湾と沖縄の確保であった。
 国際的広い視野と優れた戦略軍略を持つ知恵者であれば、沖縄と台湾を手に入れ領土としなければ日本は滅亡する事が分かっていた。
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 10月24日 人民解放軍中国共産党軍)約3万人は、台湾を攻略するべく金門島に侵攻した。
 根本博(林保源)は、日本陸軍島嶼防衛戦術に従って金門島守備隊約8,000人を指揮し、上陸直後の人民解放軍を攻撃せず洞窟陣地の正面へと誘導した。
 上陸地点を予想していた根本博(林保源)は、人民解放軍が上陸作戦に使ったジャンク船団を全て焼き払った。
 根本博(林保源)の作戦は、厳島の合戦で毛利元就が勝利した戦法を参考にしていた。
 ジャンク船を焼く事は、敵の退路を断つ事であり、新たな敵を上陸させない為でもあった。
 戦闘は、日本軍の作戦で進められていた。
 中国は、大陸国家として大陸での戦争は得意であったが、島嶼海上での戦闘には慣れていなかった。
 人民解放軍は、上陸しても反撃がない事に安心して島内まで進撃して野営したが、夜が明けるやそれが旧日本陸軍の巧妙な罠である事に気付いたが、時は既に遅かった。
 洞窟陣地の守備隊は、罠に掛かった人民解放軍に対して集中砲火を浴びせた。
 人民解放軍は、抵抗する為に北西端にある古寧頭村に逃げ込こんだ。
 根本博(林保源)は、一般の村人を救出する為に、湯恩拍将軍に「古寧頭の背後に侵入した戦車は、すぐに後退させて古寧頭から北方海岸への敵の退路を開く」よう作戦を具申した。
 国民党軍司令部は、勝利の為には古寧頭村の住人を犠牲にするのも仕方がないと判断していただけに、一般住民を助けようとする日本軍の伝統に驚いたが、根本博(林保源)の作戦を受け入れた。
 古寧頭に逃げ込んでいた人民解放軍は、根本博(林保源)の作戦に誘き出されて、海岸線に向けて敗走した。 
 中国軍は、一般住民の命より勝利を優先していた。
 日本軍は、極力、一般市民に犠牲が出ないように戦闘を行っていた。
 10月26日午後3時 国民党軍は、根本博(林保源)の作戦に従い、海岸に集結した人民解放軍に対して総攻撃を開始した。
 午後10時 人民解放軍は、袋のネズミとなってもよく抵抗したが、力尽きてついに降伏した。
 人民解放軍の犠牲、死傷者1万4,000人、捕虜6,000人。 
 人民解放軍には海軍がなかった為に、再上陸作戦を実行するだけの舟艇を持っていなかったし、間もなく開始される朝鮮戦争の為に台湾攻略は無期延期となった。
 10月30日 湯恩伯将軍は、林保源(根本博)将軍らと共に台北に凱旋した。 
 根本博は、旧日本軍が金門島攻防戦に関与していた事が知られる事は、台湾にしも日本にしても好ましくないと考え「くれぐれも自分の事は秘密にして全ての記録から抹消しておいて欲しい」と依頼して帰国した。
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 11月 団長の富田直亮(陸軍少将、中国名:白鴻亮)と団員の荒竹国光、杉田俊三の3名は、GHQ情報部員を名乗り飛行機を利用し香港経由で台湾へ渡った。
 先遣隊17名は、中国人になりすまして貨物船の船底に潜り込み、密かに横浜を出港して台湾に向かった。
 日本の治安当局もアメリカ軍も、旧日本軍軍人一団が台湾へ密航している事を知りながら見逃した。
 先遣隊は、無事に台湾に上陸し、蒋介石に会い岡村寧次からの書簡を渡した。
 「白団派遣は、今後の軍事工作の第一歩にすぎず、自分の最終構想は、日本で元軍人を結集して反共義勇軍を組織して大陸奪還の戦いに参加する事です」
 曹士澂将軍は、反日感情の強い国民党軍の反発を恐れて、旧日本軍軍人である事を誤魔化す為に全員の名前を『三国志』から選んで与えた。
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 12月10 蒋介石は、中央政府機構を台湾に移転して、台北市中華民国の臨時首都と定め、中華民国を存続させた。
 白団の使命は、大陸に於ける戦闘指揮から国民党軍の立て直しと台湾防衛に変更された。
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 1950(〜52)年 円山軍官訓練団。
 白団は、敗残兵で統制を失った国民党軍再建の為に、軍律軍紀遵守、兵士教育、軍事教練、作戦立案、実戦指揮、補給兵站など前線から後方まで他方面での日本軍式軍事教育を徹底して行った。
富田直亮「(国民党軍)司令部の作戦室は極めて貧弱で、さらに敵情の情報が余りに不十分で幼稚な内容」
 抗日戦線を戦ってきた大半の国民党軍人は、敵であった旧日本軍将校に頭を下げて教えを受ける事は中国人としての「面子」を傷付けると猛反発した。
 蒋介石は、大陸に上陸して中国共産党軍を破り、中国共産党を殲滅するには旧日本軍の軍事協力を得るしかないと強調して説得に努めた。
 蒋介石「(日本には)努力し、苦労に耐える精神や、勤勉、倹約の生活習慣など、我が国と共通するものがある。その為、我々は日本人の教官を招く事にした」
 「日本人教官はなんの打算もなく、中華民国を救う為に台湾に来ている。西洋人の作戦は豊富な物量を前提としており国情に合致せず、技術重視で精神を軽んじるので駄目である」
 台湾防衛には、欧米式の膨大な軍需物資を投入する大規模な戦略作戦ではなく、日本式の少軍需物資で粘り強く戦い続ける戦術作戦が適しているとされた。
 何時人民解放軍の侵攻があるか分からない為に、国民党軍将兵に、日本精神、武士道精神、大和魂靖国精神など日本軍精神を叩き込む事が急務でった。
 国民党も中華民国政府も国民党軍も、蒋介石の決定として従った。
 蒋介石は、富田直亮団長を軍師としてその意見・献策を無条件に受け入れた。
 富田直亮は、日本人軍事教官増員の許可を得て、翌年には人員を76名に増やした。
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 1950年1月号 雑誌『真相』は、「海烈号事件の背後を洗う――義勇軍編成の国際的陰謀」と題して特集を組んだ。
 海烈号事件は、三上や阪田などの右翼・軍国主義者だけではなく、中国から帰還した岡村寧次ら軍人達が国民党軍の「大陸反攻」に義勇軍を派遣しようという計画が絡んでいると報道した。
 台湾の中華民国が、旧日本軍人を義勇兵として募兵しているという噂が流れた。
 毎日新聞は、「あばかれた海烈号事件――5億円の密輸企む」という記事を掲載した。
 各新聞も、「海烈号事件」と「台湾募兵問題」を旧軍部と右翼・軍国主義者らによる再軍備の陰謀計画と報道した。
 共産党の細川嘉六議員は、参議院本会議で、政府に対して旧軍人らによる台湾派遣を追求した。
 吉田茂首相は、調査の結果として、少数の日本人が日本人募兵運動に応じて台湾に渡った事は間違いないだろうが、旧軍人による日本人義勇軍が組織的に編成された事実は発見できなかったと、答弁した。
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 1950年6月25日(〜53年7月) 朝鮮戦争
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 『人民日報』は、「国際義勇軍が日本で組織され、台湾に派遣される陰謀計画が進行中である」と報じた。
 中国共産党は、日本の左翼・左派系報道機関を利用して反戦平和の世論操作を行い、日本国内を混乱させ連合軍・米軍の補給基地を機能不全に込もうとしていた。
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 蒋介石は、「1年準備、2年反攻、3年掃蕩、5年成功」という大陸反攻作戦を掲げ、白団の軍事訓練による台湾軍の強化を期待した。
 岡村寧次や澄田賚四郎は、白団の能力向上をはかる為にさらなに優れた旧軍人に対して積極的にリクルートを行った。
 日本人義勇軍編成には、根本博、右翼の児玉誉士夫、元第1軍参謀長の山岡道武らが加わっていた。
 岡村寧次や澄田賚四郎らは、戦犯として訴追される所を、蒋介石の要請で戦犯名簿から外されていた。
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 日本の右翼・軍国主義者は、孫文辛亥革命など中国の近代化をカネ・ヒト・モノなど他方面で支援していた。
 孫文辛亥革命は、日本の右翼や軍国主義者の全面協力がなければ成功しなかった。
 日本と中国の不幸は、孫文が日本との協力関係を諦めてソ連に軍事・財政支援を要請し、敵対勢力であった中国共産党と手を組んだ事である。
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 1952(〜65)年 石牌実践学社。
 アメリカは、国民党軍が日本陸軍教育で日本式戦略戦術を採用して再編される事は好ましくないとして、蒋介石に対して白団の解散を命じた。
 蒋介石は、「アメリカのやり方は金持ちの戦い方だ。金があるときはいいが、貧乏人には向かない」として拒否した。
 円山軍官訓練団を、円山から石牌に移転して石牌実践学社に格上げして、白団の人員を増やし日本陸海軍大学校なみの高級幕僚育成機関とした。
 そして、「石牌実践学校出身でなければ師団長以上に昇進できない」という不文律を設けた。
 アメリカは、危機感を感じて正規のアメリカ人軍事顧問団を派遣した。 
 蒋介石は、国民党軍に、アメリカ軍事顧問団ではなく白団に指示に従い、旧日本軍軍人を見習えと訓示を出した。
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 岡村と及川ら設立した冨士倶楽部は、国民党軍に役立つ戦史・戦略・戦術についての資料収集を行う図書館であり、白団を支援する軍事研究所であった。
 富士倶楽部の中心人物は、服部卓四郎(元中将・陸軍参謀本部作戦課長)と西浦進(元支那派遣軍総司令部参謀)であった。
 警察予備隊(後の自衛隊)に所属する元軍人は、部外秘の教科書や種々の軍事機密資料を集めて密かに富士倶楽部に渡した。
 冨士倶楽部は、約10年間の間に軍事図書7,000以上と研究資料5,000点以上を台湾に送った。
 白団と国民党軍は、日本から送られてきた軍事情報をもとにして、金門島から対岸の福建省に反攻上陸する綿密な計画を立て、図上訓練を繰り返していた。
 GHQ参謀第2部(G2)は、東西冷戦下で、中国共産党などの共産主義勢力の攻勢から日本と朝鮮を守る為には再軍備が急務として、白団を支援した。
 アメリカは、台湾はアジアに於ける重要な「反共の砦」として多大の軍事支援を与えたが、朝鮮戦争ベトナム内戦に加えて新たな戦争を起こす事を嫌い、国民党軍と白団による大陸反攻計画を阻止した。
 アメリカ軍事顧問団は、国民党軍への指揮監督を強化し日本人軍事顧問団「白団」の影響力を低下させる為に、国民党軍幹部候補生の軍事教育をアメリカで行う事にした。
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 沖縄米軍基地問題は、アメリカ軍の台湾防衛と対アジア戦略の重要な要であった。
 アメリカは、尖閣諸島を沖縄の一部であり、日本領と認めていた。
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 1954年9月 人民解放軍は、朝鮮戦争が休戦協定成立で一段落した所で台湾への攻勢を強め、金門島の国民党軍に対して砲撃を再開した。
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 1955年1月 人民解放軍は、一江山島を攻撃して占領した。
 2月8日から11日 国民党軍は、アメリカ海軍護衛のもとで大陳島撤退作戦を実施して浙江省大陳島の拠点を放棄した。
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 1958年8月 中国共産党政府は、金門島を攻略すべく総攻撃を命じた。
 人民解放軍は、前回の失敗を教訓として、攻略部隊を上陸させる前に金門島の要塞・軍事施設への激しい空爆と砲撃を行った。
 1日に約5万7,000発の砲弾が金門島に撃ち込まれ、島の要塞や軍事施設の殆どが破壊された。
 白団によって鍛え上げられていた金門島守備隊は、激しい空爆・砲撃の中でも崩壊敗走する事なく踏みとどまり反撃し、圧倒的な人民解放軍の上陸を阻み、金門地区を守り抜いた。
 日本軍人にとって激しい空爆と砲撃による金門島攻防戦は、日米戦争で太平洋の島嶼攻防戦で経験した事である。
 9月11日 山本親雄(中国名:帥本源)が育てた国民党軍航空部隊は、人民解放軍航空部隊との空中戦に勝利して制空権を確保し、兵站の主要拠点である廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。
 アメリカ世論で、少兵力でありながら人民解放軍の大攻勢を凌いで奮戦する台湾を救うべきという声が大きくなった。
 アメリカ政府は、中国共産党政府と中華民国政府の内戦に介入する事に躊躇したが、台湾救援を求める世論に動かされた。
 カウボーイ根性のアメリカ人は、戦えるのに戦おうとしない卑怯者を軽蔑して見捨てたが、戦えない弱い者や非力でも武器を持った戦う者は助けたいという衝動に駆られた。
 アメリカは、台湾の支持を表明し、中国共産党政府に対して「これ以上中国が攻撃を続けるなら戦術核兵器を使用する」と核兵器使用をほのめかして恫喝した。
 アイゼンハワー大統領は、「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、アメリカ軍に台湾への軍事援助を命じた。
 10月6日 中国共産党政府は、アメリカとの全面戦争を避け為に、「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間後に一方的休戦を宣言した。
 中国共産党は、「力こそ正義」「銃口から人民革命が生まれる」という伝統的「力」信奉から、弱い相手や妥協してくる相手には容赦なく高飛車に恫喝、脅迫、威嚇を行うが、強い相手や抵抗して屈しない相手には宥和的に接した。
 毛沢東は、アメリカの恫喝に怯えて、我々も核兵器を持たなければならないとして、極秘で核兵器開発を命じた。
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 日本国内では、反戦反核運動が盛り上がっていた。
 左翼・左派は、アメリカなどの西側陣営が持つ核兵器は資本家の悪魔の兵器と猛反対したが、ソ連の東側陣営が持つ核兵器は人民の正義の兵器として黙認した。
 反戦平和団体反核運動は、政治的な運動であって純粋な市民運動ではなかった。
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 日本陸軍が立案した、島嶼防衛戦の成功例は金門島攻防戦であり、密林に於ける地下要塞ゲリラ戦の成功例がベトナム内戦である。
 ソ連軍と中国共産党軍は、敗走する日本陸軍部隊を追撃して背後から襲って撃破したが、正面から正規軍と戦って勝利した事はない。
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 1959年9月 石橋湛山元総理大臣は、私人として北京を訪問して周恩来首相と会談し、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を提案した。
 周恩来は、四ヶ国平和同盟案に同意し、今後は台湾に対して武力行使をしないと約束した。
 世に言う、石橋・周共同声明である。
 中国共産党は、今はこれ以上の武力行使は好ましくないという政治的判断であって、平和共存路線を採用して武力統一を放棄したわけではなかった。
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 日本に於ける60年安保闘争
 中国共産党ソ連は、多数の工作員を日本国内に潜入させ、反天皇反日反米の日本人運動家に活動資金を与えていた。
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 1962年 蒋介石は、毛沢東大躍進政策失敗で国力が疲弊しているこの時が大陸反攻の好機と捉え、大陸侵攻計画(国光計画)に着手した。
 アメリカは、全面戦争に発展する事を恐れて、国光計画に反対した。
 蒋介石は、アメリカから軍事支援が得られないとして国光計画を断念した。
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 1965(〜1968)年 石牌実戦学校は再編され陸軍指揮参謀大学となった。
 中国共産党政府は、石橋・周共同声明を自分に都合よく曲解し、両岸間での陸上戦闘を避けながら台湾側への威圧を続けた。
 東引海戦。
 東山海戦。
 中国にとって、「約束は一時の方便」にすぎなかった。
 特に、中国共産党は結党いらい約束を守った例しはなく、法律は遵守するものではなく自分に都合が良いように解釈し運用する道具と考えていた。
 12月31日 日本人軍事顧問団「白団」は、使命を終えたとして解散して多くの団員が日本に帰国した。
 帰国した団員の内23名は、自衛隊の枢要な地位に就いた。
 団長の富田直亮ら5名は残留して、陸軍指揮参謀大学における軍事教育訓練の見直しを行い、台湾の防衛に貢献した。
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 1966年5月24日 根本博、死去。
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 富田直亮らが引退する1969年までの20年間で、日本人軍事教官は最終的に83名に達し、国民党軍将校約2万人が日本陸軍式軍事教育を受けた。
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 1972年 蒋介石は、台湾人白鴻亮として働いてくれた富田直亮の功績を称えて中華民国軍上将(大将)の称号を与えた。
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 1975年 蒋介石、死去。
 1976年 毛沢東、死去。
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 1979年 富田直亮は、台湾で死去し、本人の希望で遺骨は祖国日本と愛した台湾に分けて葬った。
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 台湾の中華民国は、抗日戦争で日本軍を撃退して勝利した事を正統性とする立場から、旧日本軍人の軍事協力を受け国民党軍を近代的軍隊に再建し、台湾を中国共産党軍から守った事を明らかにする事は出来ず、白団の貢献を隠蔽し、日本人軍事教官の報酬を求めない態度に感謝をせず、歴史の闇に封印した。
 国民党軍首脳部は、政治的配慮とは別に、祖国を守る軍人の立場で日本人軍事教官に対して「その功績は永遠に消せない」と称えた。
 日本に日本軍が復活する事を最も恐れたのが、中国共産党ソ連(ロシア)であった。
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 1984年 李登輝は、蒋経国蒋介石の子)総裁に抜擢されて副総裁となり、88年から国民党主席に就任した。
 1996年 李登輝は、台湾独立と日本との関係改善を掲げて、初の国民選挙で初代民選総統に選ばれた。
 2000年 李登輝は、総統職を退任したが、中国共産党政府に対抗するべく日台関係の親密の為に精力的に活動している。
 政府与党の自民党や野党内の親中国派政治家や外務省のチャイナスクールは、中国の巨大市場で利益を得る為には中国共産党政府との信頼関係を深めるべきだとして、中国共産党に配慮して台湾を切り捨てる事を主張している。
 現代日本の政治家や官僚は、救いがたいほどに劣化している。
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 2004年 中華民国政府は、日本人軍事顧問団「白団」の存在を公式に認めた。
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 2015年 中国共産党政府も、中華民国も、抗日戦勝利70周年記念式典を盛大に執り行った。
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 中国共産党政府は、台湾はもちろん尖閣諸島や沖縄さらには沖ノ鳥島までも自国の領土とするべく暗躍している。
 日本国内には、中国共産党の意向に添って活動している反天皇反日的日本人が存在する。
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 駐蒙軍司令官根本博中将は、8月15日の終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を救うべく戦っていた。
 「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」
 日本軍守備隊は、日本人避難民約4万人をソ連軍や八路軍中国共産党軍)から守る為に、3日3晩戦い続け、白兵戦を繰り広げ、多く犠牲者を出して撃退した。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社の祭神として祀られた。
 日本国内では、靖国神社を否定し廃絶を求める反天皇反日的日本人がいる。
 もし日本軍守備隊が中央の命令に従って武装放棄し無抵抗になれば、日本人避難民はロシア人兵士や八路軍兵士の襲撃を受け大半が虐殺されていた。
 日本人女性は、強姦され、殺害されるか人身売買された。
 それが、大陸に於ける敗残者の末路である。
 日本人避難民(女子供)が中国人やロシア人に虐殺されたのは、軍国日本が犯罪的侵略戦争を起こし、非人道的植民地支配した為だから我慢すべきでると主張する日本人がいる。
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 非暴力無抵抗とは、その悲惨な運命を無条件で享受する事である。
 中国共産党は、ソ連以上に大虐殺を繰り返し、今もチベットウイグル・モンゴルなどで虐殺を続けている。
 そして、天安門事件である。

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