🔯39」─3─十字軍の失敗では東方貿易が活発化しヨーロッパ都市が発展しました。~No.139No.140No.141 ⑱ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 人類のルールは、宗教・哲学・思想で如何に粉飾しようとも生物生存競争の原則である「強者必勝、弱者必滅」で成り立っている。
 そして、弱者には強者から逃げるか強者の奴隷になるかの二者択一しかない。
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 キリスト教は、最初は弱者として強者の奴隷となったが、後に力を付けて強者をのみ込んで強者となった。
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 現代日本がもし歴史的現実の世界で生きようとすれば、数年とも持たずに皆殺しに遭って滅亡する。
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 現代の日本人は国際力や歴史力などの総合力がない為に、英語や中国語などの外国語会話を学んでも、歴史、政治・軍事、文化・風習・習慣、宗教、思想・哲学・イデオロギーなど深部まで理解する事ができない。
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 宗教が、教団・教会・組織を形成して排他的宗教権威を振りかざし、政治・経済・軍事と結びつくと地上は神聖な地獄となる。
 それは、反宗教無神論マルクス主義共産主義)も同じである。
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 宗教的白人至上主義。
 絶対神は自らに似せて白人を創られ、白人を愛し祝福し恩寵・恵を与え奇跡をあらわした。
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 十字軍の戦いは、キリスト教勢力にいてもイスラム教勢力にしても正しい戦争・正義の戦争・聖戦であった。
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 「インノケンティウス3世は1215年、ラテラン公会議で『教皇は太陽、皇帝は月』と演説しています。月が太陽の光を受けて輝くが如く、皇帝などの世俗君主は教皇の威光の輝きを受けて存在しているとして、教会権力の優越を示したのです。」
 絶対神は、全知全能にして全てを声を発し思いのままに創った創造主で、信仰を契約する者に対してのみ奇跡や恩寵や癒しを施す。
 イエス・キリストは、太陽や月の上に存在する神の子として、信仰を誓う者を導く救世主である。
 中世ヨーロッパとは、キリスト教会が絶対神の御名、信仰、福音、十戒などの戒めで統治する神聖不可侵の「神の王国」であった。
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 2020年9月号 歴史街道「10分でわかる『十字軍の200年史』
 教皇、諸侯、それぞれの目的から〝聖戦〟の舞台裏まで
 11世紀から13世紀にかけて、『十字軍』が繰り返し聖地イェルサレムへ派遣された。
 それは200年という長きにわたった断続的に行われ、目的も、戦う相手も変わるなど、複雑な様相を呈した。十字軍はヨーロッパの歴史に、どんな影響を与えたのか。
 宇山卓栄
 遠征は『聖なる戦い』ではなかった!?
 十字軍は、教会勢力の政治的な思惑によって、形成されていきました。
 当時、キリスト教は西の総本山と東の総本山に分かれ、同じキリスト教でも宗派が異なり、対立していました。西側はローマ教会のカトリックで、東側はビザンツ帝国におけるコンスタンティノープル教会の東方正教会ギリシア正教)です。1054年、ローマ教会とコンスタンティノープル教会はお互いに破門し合い、対立を深めていきました。
 当時、ビザンツ帝国イスラム教勢力のセルジューク朝に侵攻され、危機的な状況に陥(おちい)っていました。ビザンツ帝国は背は腹に代えられぬと西側に助けを求め、これに応(こた)える形で、西側のローマ教皇が十字軍を派遣するのです。ローマ教皇ビザンツ帝国を助けることで、東西に分離した教会を再統合し、ローマ教会の主導権を回復しようと考えていました。
 聖地イェルサレムイスラム教徒に占領されましたが、同地はイエスが処刑された場所で、キリスト教徒にとおって重要な意味を持ちます。聖地イェルサレムイスラム教徒から奪還することが、十字軍の目的として掲げられました。
 イェルサレムは一方で、イスラム教徒にとっても重要な聖地です。メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地で、預言者ムハンマドが天馬に乗って昇天(しょうてん)したとされる場所に、『岩のドーム』と呼ばれる神殿が建っています。
 主導権の回復意外に、ローマ教皇には別の狙いもありました。
 絶大な力を持つローマ教皇を頂点とするカトリック教会は、ヨーロッパ各地の教区における行政権や徴税権を握り、政治を牛耳(ぎゅうじ)っていました。カトリック教会はこの十字軍によってさらに、軍事力を有している諸侯たちをも管理下に置き、政治的権限を拡大するため、ローマ教皇のウルバヌス2世が聖地奪還を提唱しました。
 諸侯とは、日本でいうところの地方の豪族や藩主のような存在で、広大な領地を持ち、貧者を雇い入れるなどして、自らの軍隊を持っていた。
 11世紀、イタリア商人たちはレヴァントン貿易(東方貿易)と呼ばれるイスラム商人との遠隔地交易で香辛料・宝石・絹織物などの奢侈(しゃし)品を扱い、莫大な富を得ていました。
 地代を収入源にしていた諸侯たちは、こうした経済発展の恩恵を被(こうむる)ることはなく、一攫千金を夢見て十字軍に協力します。
 この時代において、十字軍に参加したフランス王やイギリス王、またドイツ(当時は神聖ローマ帝国)皇帝などはその実力において、諸侯たちと大差ありませんでした。王や皇帝は国を統一しておらず、群雄割拠の一勢力として、諸侯たちと並び立っていたに過ぎません。
 一攫千金を目論む王や皇帝を含む諸侯たちの勢力を、十字軍の旗のもとに集結させて、東方に遠征させることで、自らの権限を強化するとともに、支配領域を拡大する、これが十字軍が始められる際の構図でした。イスラム教徒に奪われた聖地イェルサレムの奪還は、単なる名目として掲げられていたに過ぎません。
 では、参加した兵士たちにはどのような思惑があったのか。
 『東方に行けば儲かる』、人々はこのような期待を抱いて、十字軍に参加したと思われます。中世を彩(いろど)る十字軍とイスラム教勢力の戦いは、信仰心に燃える両者の『聖なる戦い』というよりはむしろ、世俗的な利益に翻弄されたものでした。
 イタリア商人たちの成功は、ヨーロッパ人にとっての羨望(せんぼう)の的(まと)となっていました。レヴァント貿易の発展とともに、ヨーロッパ経済は躍進しましたが、貧富の格差も拡がりました。一般の人々は経済発展の恩恵をほとんど被ることがなく、不満が鬱積していたのです。
 当時、三圃制(さんぽせい)農業(耕地を3分して一つを休閑{きゅうかん}とし、異なる作物で輪作{りんさく}する)の普及などで、農業生産力の向上が見られ、人口も増加しました。
 しかし、全ての人々に肥沃(ひよく)な地が行き渡ったわけではなく、持たざる者たちは新天地を求め、積極的に十字軍の東方遠征に加わりました。そうした背景もあって十字軍は実際には、ならず者たちの集まりで、強奪や狼藉の限りを尽くしたことで知られています。
 教皇使節アデマールの見事な働き
 諸侯勢力や彼らの配下になっていた兵士たちをまとめ上げるには、単に、聖地奪還という十字軍の理想を掲げるだけでは不充分でした。十字軍に参加することで、現世利益を得ることができるという確証を与えなければなりません。
 教皇ウルバヌス2世はカリスマ性のある人物で、1095年、フランス中部の都市クレルモンで開催された公会議において、大演説を行ない、人々を熱狂させました。
 『あなた方がいま住んでいる土地は決して広くはなく、豊かでもない。そのため、人々がいがみ合い、争っているではないか。乳と蜜(みつ)の流れる国カナンへ向かえ。そこは神があなた方に与えたもう地である』と呼び掛けます。すると人々は、『神の御心のままに!』と叫んだといいます。
 『カナン』とはイェルサレムを含むパレスティナ地方一帯の古代名で、イスラム勢力が支配しています。
 ウルバヌス2世は持たざる者たちに、豊かな東方へ遠征し、そこで富を享受(きょうじゅ)せよと教えたのです。彼らは、東方と取引をしていた富裕なイタリア人商人たちの成功を見ていたので、東方に行けば、自分たちも豊かになれると信じました。
 しかし、現世利益で諸侯や兵士たちを繫ぎ止めらとしても、出身や身分も考え方も異なる彼らを、簡単にまとめることはできません。いったい誰が彼らを指揮するかが問題になりました。ウルバヌス2世は、司教のアデマール・ド・モンティユを教皇使節に任命し、十字軍の事実上の指揮官にします。
 アデマールは極めて有能な人物で、二代前の教皇グレゴリウス7世の教会改革を支持し、彼のために働くことで出世を遂げた人物です。クレルモン演説の以前から、教皇とともに諸侯たちを訪ねて回り、十字軍に参加するように説得し、事前調整をしていました。こうした彼の調整能力が買われたのです。
 十字軍の遠征先では案の定(じょう)、諸侯や兵士たちが内輪もめを繰り返しました。アデマールが常に彼らの利害を調整しながら、仲を取り持ち、まとめていました。
 諸侯らの部隊がイスラム軍に包囲されて苦境に陥った時には、常にアデマールは自らが兵を率いて救援に駆け付けたので、諸侯から信頼されていました。また、兵糧が不足すると自ら断食して見せるなどして、兵士を鼓舞しました。
 ……
 8ヵ月続いたアンティオキア攻囲戦は苦闘の末、十字軍がイスラム軍に勝利し、イェルサレムの攻略への足場を確保しました。
 しかし、その直後の1098年8月、アデマールは病没します。彼の死後、諸侯たちの内輪もめが再燃しました。それでも、十字軍は何とかイェルサレムに向けて行軍します。
 そして、イェルサレム攻囲戦。ここで、ある兵士が『アデマールの霊が現れ「城壁をよく見て回れ」と自分に告げられた』と言います。偵察兵に城壁をよく探らせるとその弱点を発見し、城壁を突破することができました。恐らく、これはアデマールが死の直前に授けた策であったろうと思われます。
 商人たちに担がれたリーダー
 十字軍は勝利しましたが、諸侯の内輪もめは止まりませんでした。そのため、彼らが占領したエリアは一つにまとまらず、諸侯たちによって分割統治されます。
 ……
 1144年、エデッサ伯国イスラム勢力により攻撃されます。そこで、フランス王やドイツ王らが第2回の十字軍を率いて遠征します。しかし、彼らはイスラム軍に敗れ、あえなく撤退しました。
 十字軍とイスラム軍との死闘とは反対に、ヨーロッパとイスラム地域の経済的な交流はますます強まり、両者の交易が空前の好景気をもたらします。
 エジプト・シリアはアラブ系、イラン系、トルコ系、アフリカ系などの様々な人種が行き交い、活気に溢れました。商人たちは、商取引をスムーズに行うための法体系の整備、貨幣やマーケットの統一などを求め、イスラムをまとめることのできる強いリーダーを欲するようになります。
 リーダーとして担がれたのはサラディン(サラーフ・アッディーン)。クルド人というアラブ系の武装少数民族出身の人物です。クルド人は古来、戦闘のプロで、屈強な兵士の集団として知られ、特にサラディンはその中でも天才的な戦略家でした。
 商人たちの期待に応えて、バラバラだったエジプト・シリアを統一したサラディンは、1169年、アイユーブ朝を建国します。アイユーブ朝はカイロを首都として、地中海交易を保護し、それによってもたらされる利益を財源として、発展しました。
 統一を果たしたサラディンは、シリアに進出していた十字軍勢力と戦います。1187年以降、十字軍勢力が占領していたシリアの沿岸部都市を、次々と攻略していきます。
 信仰のためか、経済のためか
 イスラムキリスト教のヨーロッパ圏と貿易取引をしながら、シリアのキリスト教勢力と戦っています。これは一見、矛盾しているように見えますが、実は、同じイスラムの中でも、商人たちとサラディンのような政治指導者は考え方が異なっていたのです。
 商人達はキリスト教徒との交易を続けることが最優先であり、彼らがシリア地方の聖地を侵略しているとはいえ、彼らとの取引が途絶えることは避けなければなりませんでした。
 しかし、サラディンにとって、キリスト教徒は不倶戴天の敵です。異教徒の侵略を許し、そのことにより、弱い指導者のイメージが先行すれば、求心力を失い、政権の崩壊に繋がります。
 エジプトとシリアの統一を実現するため、イスラム商人は強い指導者サラディンを支援しました。しかし、統一後、更(さら)なる戦いを求め、十字軍と本格対決しようとしたサラディンに対して、イスラム商人は反発するようになります。
 サラディンに反撃するため、第3回目の十字軍の派遣が1189年、決定されました。この十字軍には、ドイツ皇帝やフランス王が加わっていましたが、実質的な指導者はイギリス王のリチャード1世でした。ドイツ皇帝は遠征の途中で陣没し、フランス王は途中で帰国しています。
 リチャード1世は勇猛で戦(いくさ)上手でした。サラディンリチャード1世との戦いに、のめり込んでいきました。ヨーロッパと取引していたイスラム商人にとって、十字軍との全面戦争は取引の破談を意味します。
 イスラム商人たちはサラディンの対決姿勢に付いて行けず、彼への財政支援を打ち切ります。困窮したサラディン軍の士気が下がりはじめます。
 ……
 サラディン軍は敗退し、シリア沿岸のほとんどを十字軍が領有することを認める和平条約を、1192年に結びました。これにより、キリスト教巡礼者のイェルサレム入城が許可されました(同地を奪還したわけではない)。失意のサラディンは和平の翌年、死去します。
 勝利したリチャード1世は『信仰を貫いた聖騎士』と讃(たた)えられますが、サラディンとの和平交渉の席上で、リチャードは自分の妹を、サラディンの弟で名将のアル・アーディルに嫁(とつ)がせる提案をしています。そして、アル・アーディルがキリスト教徒に改宗すればよいと発言し、サラディンたちに呆(あき)れられたと伝えられます。
 リチャードにとって、信仰というものは政治的な都合で、簡単に変えられることができるものだったようです。
 『聖地奪還』の目的が変わった第4回遠征
 十字軍の成功で、教皇の権威も高まりました。教皇インノケンティウス3世はさらに成果を上げるべく、1202年、第4回十字軍を派遣します。
 フランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯たちが、この十字軍に参加しました。この十字軍はイスラム勢力と戦うことなく、コンスタンティノープルを占領します。
 コンスタンティノープルビザンツ帝国東ローマ帝国)の首都で、100万の人口を誇り、東西交易で繁栄していた都市でした。
 元々、十字軍はイスラム勢力に苦しめられていたビザンツ帝国から、援軍派遣の要請を受けて組織されたものでしたが、教皇や諸侯たちは弱体化するビザンツ帝国を隙(すき)あらば征服してやろうという野心を、潜在的に有していました。
 第3回十字軍でも、リチャード1世ビザンツ帝国領のキプロス島を占領しています。ビザンツ帝国を助けるというのは建前に過ぎません。
 第4回十字軍に協力していたヴェネツィア商人たちが有していた艦隊は、最初からコンスタンティノープル攻略を想定して、攻城兵器を準備していました。
 ヴェネツィア商人たちは十字軍の軍団輸送を請け負っており、十字軍がその運賃を払えなかったため、ヴェネツィア商人の要求に応じて、仕方なくコンスタンティノープルを攻めたと一般的には解説されてますが、最初からそれが狙いだったのです。
 当然、教皇インノケンティウス3世も、事前にこうした狙いを理解していたと考えられます。彼にとって、東西教会の統一は達成すべき使命でした。
 十字軍がコンスタンティノープルを占領したことに対して、インノケンティウス3世は激怒して十字軍を破門した、とされますが、これは正確ではありません。教皇が十字軍を破門した本当の理由は、彼らがザダル(現在のクロアチア港湾都市)を攻略したからです。
 この都市はハンガリー王の支配下にありました。ハンガリー王は教皇に忠実なカトリック君主であったにもかかわず、十字軍は教皇の意に逆らい、ザダルを占領したため、教皇の怒りを買ったのです。
 その後、十字軍がコンスタンティノープルを占領した時、インノケンティウス3世は念願の東西教会統一を達成できたと喜び、十字軍の破門を解き、祝福しています。彼らが新たに建国したラテン帝国も承認しています。
 インノケンティウス3世が十字軍のコンスタンティノープル占領に激怒して破門したというのは当時、建前で使われた方便であり、実態ではありませんでした。
 こうした方便は教皇への非難をかわす目的でも使われたと考えられます。占領時、十字軍は強奪、強姦、虐殺、破壊、放火などのあらゆる蛮行を行っていました。ビザンツ帝国の歴史家は、異教徒のイスラム教徒でさえこんな蛮行はしなかったと非難しました。
 さらに、その後、教皇は再び、破門しています。これは彼らがビザンツ帝国勢力の反乱鎮圧に手こずり、イスラム教徒との戦いになかなか向かわなず、教皇の怒りを買ったからです。
 いずれにしても、東西教会が統一され、教皇の権威は高まりました。
 インノケンティウス3世は1215年、ラテラン公会議で『教皇は太陽、皇帝は月』と演説しています。月が太陽の光を受けて輝くが如く、皇帝などの世俗君主は教皇の威光の輝きを受けて存在しているとして、教会権力の優越を示したのです。
 十字軍の失敗が時代を動かした
 教皇は宗教世界の指導者とされますが、この時代、世俗世界をも支配し、皇帝や王、諸侯を屈服させ、十字軍をはじめとする軍隊をコントロールしました。
 神が絶対であった中世において、神の威光を背景にした聖職者の判断が尊重され、信用されました。あらゆる分野において、聖職者が認めたもののみが正当性を持ち、それを中心として物事が回りました。
 人間の叡智よりも神の叡智が優先され、神学上の解釈は法をはじめ、政治制度、商習慣など、あらゆる分野に大きな影響を与えました。
 例えば、ある一つの民事上の争いを裁くにあたり、聖書には、どう書かれているかを参考にして、法解釈をしていくといった具合です。つまり、聖職者や神学者は法を司(つかさど)る裁判官でもあつたのです。
 一方、王や皇帝などの国家の君主は、名ばかりのものでしかありませんでした。国家の存在やその意識が希薄で、中央集権的な国家は生まれず、代わりにキリスト教が国家や民族を超えて、連帯への意識の中核となっていました。
 教皇は強大な権力を持ち、ヨーロッパの隅々にまで息のかかった聖職者を送り込み、教皇連合体を形成していました。こうした宗教連合体制の中で、中世の都市が育ちました。
 教会は都市の行政権や徴税権を握り、行政機能や秩序維持の中心的な役割を担います。そのため、教会を中心に取り囲むようにして、都市が形成されました。ヨーロッパでは、どのような小さな街にも教会があります。今日(こんにち)でも、教区が行政の単位として使われています。
 十字軍の遠征は、ヨーロッパ世界にイスラム・東方への接触の機会を豊富に与え、都市の更なる発展にも寄与しました。
 しかし、その後の十字軍は失敗が続き、それとともに、教皇の権威も失墜していきます。
 十字軍の建国したラテン帝国は約半世紀の間、コンスタンティノープルを支配しましたが、旧ビザンツ帝国の勢力が盛り返し、1261年、ビザンツ帝国が復活します。結局、東西教会の統一は長く続きませんでした。
 その後も、十字軍は第7回まで派遣されますが、成果を上げることができていません。
 十字軍は結局、失敗に終わり、イェルサレム問題や中東和平問題など、今日に繋がる諸課題の遠因(えんいん)となります。一方、経済的には、東方貿易が活発化し、ヴェネツィアなどの北イタリアの諸都市をはじめ、ヨーロッパ都市が発展しました。
 14世紀になると、教皇の力が失われ、代わって、人間世界(俗権)の代表者である王が力を持ちはじめます。また、それまで、教皇に付き従っていた各地の諸侯や都市商業勢力も、教皇から離れていきます。
 教皇を頂点とする神や教会の時代であった中世が終わり、人間の時代である近世ルネッサンスが幕を開けることになるのです。」
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 日本民族心神話、高天原神話、天孫降臨神話では、太陽は最高神の女性神天照大神である。
 天皇の正統性とは、天照大神からの万世一系の血統・血筋・皇統の男系父系相続にあり、女系母系にはない。
 女系母系にあるのは、神聖不可侵の血筋的正統性ではなく変更可能な非血筋の便宜的正当性だけである。
 現代の日本は昔の日本とは違い、血筋に対する考え方や想いが違い、愛おしさや愛着は薄れてきている。
 日本天皇の統治は、日本民族が住む日本列島の中だけで、朝鮮半島や中国大陸に及ばなかった。
 それが、八紘一宇である。
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 儒教は天・天帝とは、宇宙の万物を支配する唯一の絶対上帝としたが神・創り主とはしていない。
 天帝は、漢族中国人や蛮族異民族に関係なく人の中で最も徳に優れた者を我が子として正統な中華皇帝と認め、人が住む地上の全ての統治権を与えた。
 それ故に、中華皇帝は天子と呼ばれた。
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 1095年 教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で十字軍を提唱し、翌年に第1回十字軍が組織された。
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 源頼朝は、1185年に鎌倉幕府を開き、1192年に征夷大将軍に任命される。
 1221年 承久の乱。  
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 1115年 満州女真(じょしん)族完顔(わんやん)部の首長・阿骨打(アクダ)は女真族を統一して、契丹族遼王朝を滅ぼし、満州内モンゴルを征服して金王朝を建国した。
 1127年 金軍は、中国を侵攻して宋軍を破り華北を占領した。
 宋の王族(漢族系中国人)は、江南(揚子江流域)に逃れ南宋王朝を再興し、都を臨安(杭州)に定め、金に対抗する為に隣国の倭国=日本との交易を盛んに行った。
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 朝鮮半島には、仏教国の高麗王朝(936年~1392年)が存在していた。
 1019年 刀伊の入寇。大陸の女真人海賊が、高麗人を語って筑前壱岐対馬を襲撃し、殺戮・強奪・日本人強制連行を行った。
 日本朝廷は、高麗からの国交開設要請を拒絶した。
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 キリスト教会は、絶対神への信仰を契約し洗礼を受けてキリシタンは助けたが、洗礼を拒否した異教徒イスラムは殺した。
 イスラム教勢力も、イスラムに改宗すれば助け、改宗しない異教徒は殺した。
 キリスト教勢力とイスラム教勢力が熾烈な殺し合いをしている時、第3勢力であったユダヤ教徒ユダヤ人達は中立を保ち両陣営に税金・軍資金を納め智慧と度胸と行動で地中海交易を続けて荒稼ぎしていた。
 国際商人にとって、戦争の方が平和よりも数十倍も儲けていた。
 戦争は金になった。
 キリスト教イスラム教は、信仰の為に戦争を続けた。
 ユダヤ教は、信仰の為に金儲けを続けた。
 ユダヤ人の智慧とはそういう事である。
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 世界の富はビザンツ帝国に集中していた。
 中世ヨーロッパにおける貧富の格差は歴然で、西欧・北欧・東欧は貧しく、イスラム教の中近東との交易を行ってい南欧はわりかし裕福であった。
 人類・人間は、儲かるか儲からないか、金になるか金にならないか、の、欲得で行動する。
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 十字軍での熱烈にして敬虔なキリスト教徒は、絶対神への信仰と教会への忠誠を誓う聖騎士団の少数派で、多数派は個人の欲得で動く世俗集団であった。
 各地の王侯貴族・諸侯の信仰心は、俗的打算を伴った政治的で、利益の為となれば捨てる可能性があった。
 ローマ・カトリック教会バチカン)は、キリスト教の神聖な絶対的宗教権威を揺らぎないものする為に、民衆に「原罪意識」を刷り込み救済・奇跡・恩寵を受ける為のさらなる信仰心を求め、王侯貴族・諸侯に対してキリスト教会の影響力を強めようとした。
 ローマ教皇は、東西に分裂したキリスト教世界の再統一を目指した。
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  476年 西ローマ帝国滅亡。
 7世紀初め 預言者マホメットムハンマド)がイスラム教を広めた。
 711年 イスラム勢力は、ヨーロッパを侵略してイベリア半島南部を占領した。
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 世界は日本と違って、古い事に価値を置かない。
 新しいモノにこそが時代の最先端として価値がある、である。
 つまり、人類史・世界史・大陸史において「日本天皇家は世界最古の王家である」は無意味で、単なる愚か者の戯言にすぎなかった。
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 11世紀~13世紀 十字軍は、キリスト教世界のイスラム教世界への反撃。
 ローマ・カトリック教会は、絶対神の信仰で政治・社会・経済・軍事を支配する完全無欠の宗教帝国を築こうとした。
 キリスト教陣営もイスラム教陣営も、捕らえた異教徒の敵兵士を奴隷として売り、それぞれの家族は奴隷となった身内を大金を出して買い戻した。
 十字軍が、失敗する事で中世ヨーロッパの終焉が始まった。
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 13世紀以降 異端審問・宗教裁判。キリスト教に改宗したと偽る隠れユダヤ教徒ユダヤ人とローマ・カトリック教会が公認する唯一の教義に異を唱える異端派に対する弾圧。
 異端者は、生きたまま公開で焼き殺した。
 絶対神の敵・異教徒に対する敵意より、絶対神への裏切り・異端者への憎悪の方が激しかった。
 13世紀~18世紀 魔女狩りキリスト教に関係しない古代ヨーロッパの土着神信仰や精霊などの民間伝承を信じる女性を魔女とし、男性は悪魔の使いとして、見付け次第、生きたまま焼き殺した。
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 14世紀~16世紀 ペストの大流行とイスラム教勢力圏からキリスト教以前の古代ギリシア・ローマの知識が大量に流入する事で、イタリアを中心にルネッサンスが始まり、やがて全ヨーロッパに広まった。
 人間中心の近世ルネッサンス
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 14世紀 モンゴル持ち込んだ中国産ペスト(黒死病)が全ヨーロッパに蔓延し、総人口の3分の1近くが死亡した。
 キリスト教会の存在意義を脅かされる深刻な事態に追い込まれた。
 絶対神への敬虔な信仰を持てば、ペストに罹らず、感染しても奇跡が起き癒され健康になると説いたが、現実は、ペストは敬虔な僧侶も熱心な信者も感染すれば多くが死に絶対神も信仰も無力であった。
 その意味において、宗教が感染症蔓延を助長した。
 宗教・信仰は、疫病に負けたのである。
 キリスト教会は、信仰の信頼を回復し信者を繫ぎ止める為に敵をつくった、信仰を妨げる罪深き悪人にイエス・キリストを死に追いやったユダヤ人を当て、ユダヤ人が毒を撒いたと告発し、ユダヤ人弾圧を正当化した。
 不寛容な宗教的狂気の始まり、それが反ユダヤ主義であった。
 キリスト教会は、隣人愛の信仰から、ユダヤ人がユダヤ教を捨ててキリスト教の洗礼を受ければ罪は許され救われるとした。
 ユダヤ人達は、反ユダヤからのがれる為に、ヨーロッパ人風に創氏改名し、キリスト教に改宗し、キリスト教会の保護を受けた。
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 15世紀~17世紀 大航海時代。スペインやポルトガルの隠れユダヤ教徒ユダヤ人や改宗ユダヤ人は反ユダヤ主義に染まったヨーロッパから逃げるように海に乗り出した。
 植民地獲得競争の始まり。
 極貧の中世ヨーロッパは、植民地の金銀財宝を強奪して富を蓄え、急速に進歩・発展を遂げ始めた。
 進歩・発展の原動力は、敵を打ち破り富を強奪してくる軍事力、海外で強奪した富を安全に輸送する海軍力であった。
 つまり、戦争は進歩・発展を、平和は滅亡をもたらした。
 15世紀~19世紀 アフリカ黒人の奴隷貿易
 15世紀末 ローマ・カトリック教会による免罪符販売。
 スペイン王国は、イベリア半島からイスラム教勢力を駆逐して統一した。
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 中世キリスト教会は、異教徒の王・日本天皇を殺して文明なき野蛮な日本国を滅ぼし、聖王が統治するキリスト教王国に生まれ変わらせる事を神聖な使命としていた。
 日本人奴隷売買。
 バチカンは、スペインとポルトガルに日本を植民地化する事を認めた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による、日本人奴隷交易が始まる。
 日本人奴隷は、隣人愛の信仰に目覚め、改宗してキリシタンとなれば自由の身となれた。
 祖先を切り捨て改宗し自由の身分を手に入れるか、祖先に義理たてして異教徒のまま奴隷を続けるか、であった。
 日本人の間で急速にキリシタンが急増した。
 日本で、キリスト教は禁教となり、キリシタン弾圧が始まった。
 キリシタン弾圧で、信仰より命を優先するキリシタンの多くは棄教したが、信仰を貫くキリシタンは棄教を拒否し殉教を選び処刑された。
 日本民族にとっての宗教や信仰とは、普段着のように自由に着替えられる身軽なものであった。
 日本民族無宗教とは、変幻自在・融通無碍で、相対的の多元、多種多様であった。
 キリスト教会が実現しようとした世界の平和と個人の幸福と死後の天国はキリシタンの為の理想であって、日本のパラダイスではなかった。
 それ故に、豊臣秀吉徳川家康徳川幕府キリスト教邪教として日本から排除した。
 が、豊臣秀吉徳川家康徳川幕府は石見産銀と日本製武器の輸出で西洋の政治・経済・軍事に関与し、輸出品は後に日本産工芸品や浮世絵・絵画などの日本文化に変わって西洋文化に「日本好み」を生み出し影響を与えた。
 歴史力のない現代日本人には、ダイナミックな歴史の流れ・動きは理解できない。
 明治維新は、西洋列強の軍事侵略から日本国を守る為ではなく、キリスト教の宗教侵略から日本天皇を守る為に始まった。
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 16世紀 キリスト教会内の宗教改革。正統派カトリック教会と異端派プロテスタントによる不毛にして残虐で陰惨な宗教戦争が始まった。
 絶対に譲れない教義を持つ宗教は、話し合いによる妥協は不可能であるとして諦め、武力による正邪の決着を目指した。
 勝てば正しい教え・教義として残り、敗れれば正しくない教え・教義として根絶させられた。
 これ以降の、宗教問題の解決は暴力的に死をもたらす事で行われた。
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 1648年 ウエストファリア条約によって三十年戦争終結し、万国公法(国際法)が成立した。
 ヨーロッパの戦争の原因は、宗教から政治・経済(領土)に変わり、そしてイデオロギーに発展していく。
 新たな時代の幕開けであった。
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