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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本を復興させ、日本の新生を作った親日派・知日派台湾人達。
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日本の存立にとって重要な外国は、次いで台湾であって、軍事圧力を強化している中国共産党政府ではない。
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台湾人と言っても、親日派本省人・台湾人と外省人の反日派の外省人・大陸系漢族は別人である。
日本は、大陸の中国共産党政府に配慮して台湾人には冷たい。
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大陸の漢族中国人犯罪者達が、池袋に次いで夜の歌舞伎町に勢力を拡大し始めている。
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日本人には、台湾人も漢族中国人も見分けがつかないし、多数派である一般の中国人と少数派である犯罪者や中国共産党・中国軍の中国人の見分けができない。
人間観察が苦手な日本人は、面倒臭い為に糞も味噌も一緒で、中国人全員を好い人・善人として付き合っている。
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現代日本は、大陸中国との経済関係を重視し、台湾との友好関係を軽視している。
親中国派・媚中派は、中国共産党に媚びを売るように忖度し、台湾を軽蔑し冷たく遇う。
台湾軽視は、保守派の中にも存在する。
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2017年11月号 新潮45「BOOK 山村沓樹
『台湾人の歌舞伎町 新宿 もうひとつの戦後史』 稲葉慧子、青池憲司
名曲喫茶、キャバレー・・・彼らがもたらしたもの
赤裸々な欲望が渦巻き、様々な人種が群れ集う、猥雑で時に危うさを漂わせる街──。新宿・歌舞伎町については多くの著書が書かれているが、本書は、今まで書かれることのなかった視点から描かれた〝もうひとつの歌舞伎町〟である。昭和20(1945)年4月と5月の空襲で、新宿駅から歌舞伎町(当時の名称は角筈1丁目)にかけての一帯は焼き尽くされた。焼け残ったのは、『二幸』『高野』『三越』『伊勢丹』などのわずかな建物だけ。しかし、敗戦後わずか5日目に、関東尾津組が、この焼け跡に『光は新宿から』のスローガンを掲げて『新宿マーケット』を開設したことはよく知られている。それに続いて新宿駅西口に『新宿西口マーケット』が登場した。ここに集まったのが、若い台湾人留学生たちである。昭和20年には累計20万人を超えていたという彼らの一部は、戦後も日本に残り、〝解放国民〟としての特権を生かして闇市で活躍した。
パチンコ店から焼酎バー、焼き鳥バーと業態を変えながらしぶとく生き抜いた彼らは、更なる飛躍を求めて歌舞伎町に進出する。新宿西口で大規模再開発事業が進められ、立ち退きを迫られたため新天地が必要だったからである。
角筈1丁目が歌舞伎町という名称に代わったのは昭和23(1948)年4月。敗戦後、いち早く構想された復興計画で、この地に歌舞伎劇場を建てる予定だったためこの町名が選ばれた。しかし、建設制限や物資不足などで計画案は停滞し、歌舞伎座建築は見送られ、一帯はラブホテルが乱立する青線地帯と化していた。
この歌舞伎町に、昭和28(1953)年から翌年にかけて、『でんえん』と『スカラ座』の二つの名曲喫茶が開店。さらに、歌声喫茶『カチューシャ』がオープンした。いずれも台湾人の留学生兄弟がオーナーだった。
昭和31(1956)年12月、東宝の小林一三が新宿コマ劇場を建てた頃から、折からの映画ブームもあり、歌舞伎町は若者が集まる一大興行街としての地位を確立していった。そして、この街に若い台湾人たちが、次々に娯楽施設を開設していくのである。『風林会館』『クラブ・リー』『キャバレー・女王蜂』『アシベ会館』『地球会館』・・・。喫茶店も『上高地』『シオン』『ぶるんねん』などが加わった。歌舞伎町に通ったことのある人には、いずれも懐かしい店ではないだろうか。
台湾人たちは強い同胞ネットワークを持ち、『無尽』による資金調達と独自の金融組織で新事業に挑戦していった。しかし、歌舞伎町の発展を支えた一世たちも、次々と世を去り、今では彼らの証言を聞くことは難しくなっている。本書は、忘れ去られつつある彼らの足跡を、辛うじて書き留めた貴重な記録と言える」
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朝鮮人・韓国人は、反日派・敵日派として、GHQから与えられた第三国人という特権から、日本国内で殺人・強姦・強奪などの凶悪犯罪を繰り返し、東京・神戸・大阪などで暴動を起こしていた。
GHQは、神戸・大阪での朝鮮人暴動に対して戒厳令を発動して鎮圧した。
李承晩は、竹島を強奪し、日本漁船を拿捕し、日本人漁民を射殺し、強制収容所で非人道的虐待をして惨殺していた。
GHQは、日本国内の朝鮮人・韓国人合計200万人以上を即刻、朝鮮半島に帰還させるように日本政府に命じた。
日本政府も、友人でも親友でも戦友でもない朝鮮人・韓国人を喜んで帰還させるべく、アメリカ軍に輸送船の拝借を申し込んだ。
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中国人=漢族といっても、台湾人(台湾系漢族)と中国人(大陸系漢族)とは違う。
台湾人は、親日派や知日派が多い。
中国人は、反日派や敵日派が多い。
日本人は、孫文の中国国民党には
日本人は、1972年9月の日中共同声明で中華人民共和国(中国共産党政府)を唯一の正統政府と承認し台湾との友好関係を断つまでは、日本人は孫文が起こした中国国民党(ファシスト中国)に毛沢東の中国共産党よりも強い親近感を持っていた。
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親日派知日派の台湾人は、朝鮮人とは違って戦友として日本人と共に戦い、戦後は反日派朝鮮人のような殺人・強姦・強盗などの犯罪行為や暴動・騒乱を起こさなかった。
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1978年の日中平和友好条約以前に日本に誕生した旧チャイナタウンは、親日・知日派台湾人が造った中国人街であった。
2010年代以降に日本で生まれようとしている新チャイナタウンは、反日派中国共産党・中国軍とつながりのある大陸系中国人達が主体である。
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日本は、エコノミック・アニマルの本心を隠す事なく、中国大陸での金儲けの為に台湾との信義を捨てた。
更なる金儲けを求める日本人は、日本国土さえ中国資本に売っても恥じない。
そうした日本人が、1980年代を境に、2010年頃から増え始めている。
日本人は、法律や規則を遵守し、信用・信頼を重んじ、約束や契約を守るとは、嘘である。
もし信義を重んじるのなら、台湾を見捨てる事なく中国共産党政府との国交回復を拒絶してはずである。
日本人の本性とは、その程度のもので、自惚れるほど優れてはいない。
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軍国日本が戦った相手は、蒋介石のファシスト中国(中国国民党)であったが、蒋介石の後ろに隠れていたスターリンのソ連と毛沢東の中国共産党が真の敵であった。
中国共産党は、軍国日本を滅ぼせというソ連・コミンテルンの指示に従い、謀略で日中戦争を引き起こし日本の和平工作を全て潰していた。
中国共産党ほど腹黒い人間・陰険な組織は存在しない。
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焦土と化した日本の混乱期・復興期・経済成長期で、ヤミ市から商店街へそして繁華街ヘと発展させたのはヤクザや在日台湾人・在日朝鮮人達であった。
正直者で真面目な日本人は、家族を養い、家庭を取り戻す為に、世間に恥じない合法的な仕事をする事し頭になかった。
自分の意思で日本に残った台湾人や朝鮮人・韓国人達は、日本人の差別で最下層の生活を強いられてきた足枷が敗戦で外され、日本人のような家庭・家族や会社・社会というしがらみが一切ない分、己が才能・才覚で自由に活動した。
日本人は、個人的な富よりも家族や会社を優先した為に貧しく、在日台湾人や在日朝鮮人・韓国人のような野心を膨らませて富を築く事はなかった。
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当時のヤクザは、「強くを挫き・弱きを助ける」「(日本人の)世の為人の為」「素人に迷惑を賭けない、素人を巻き込まない」という任侠道の博徒であって、アメリカのマフィアの様に覚醒剤や売春を行う現代の反社会的凶悪な暴力団とは違っていた。
1995年1月17日の阪神淡路大震災頃までは、戦前の任侠道的気質が存在し、炊き出しなどで被災者を助けていた。
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