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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年2月20日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「中国共産党とよく似た米国民主党、政治・経済的に共倒れとなるか?
人類の文明は「私利私欲」のおかげ
原始共産制という言葉をしばしば耳にする。
農耕が始まる前の狩猟採集社会では、基本的に「富の蓄積」が出来なかったと考えられている。木の実などはある程度備蓄できたかもしれないが、獲物の肉はすぐに消費しないと腐ってしまう。大航海時代に香辛料が珍重されたのも、有効な保存方法が無く腐りかけた肉を食べなければならなかった当時の人々にとって、「臭い消し」として有用であったことが理由の一つにあげられる。フルーツなども、長期の保存は困難だ。
【写真】韓国化する米大統領選、なりふり構わぬ反トランプ勢力
また、(定住せず移動式の)簡易な住宅(や家具など)は、財産としての価値をほとんど持たない。だから、原始共産制では、「私有」という概念がほぼ存在せず、「すべてのものがみんな(部族)のもの」と考えていたであろうことは想像に難くない。「私有」の意味が存在しなかったともいえる。
したがって、1月20日公開「IT・インターネットは人類を不幸にするのか~『24時間化』が生活を圧迫する、『つながらない権利』が重要」冒頭「農耕の始まりが人類の不幸の始まり?」で述べた農耕が始まったことにより、貧富の差が広がったのは間違いがない。
そして、狩猟採集文化では1日数時間程度の労働でよかったものが、農耕が始まってから特権階級を除く庶民が、1日の大部分を労働に費やさなければならない「ブラック労働」の時代へと移り変わった。
だから、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが、原始共産制を賛美し、現代社会に「同じような楽園」を構築しようとした気持ちは理解できる。彼らは純粋に「市民のため」と思っていたに違いない。
だが、残念なことに、人類は「禁断の果実を食べる前のアダムとイブ」のように純真無垢な存在ではない。ある意味で「私利私欲」の塊である。逆に言えば、「私利私欲の追求」の結果、文明・社会が発達したのである。
共産主義が行き詰まって資本主義を導入
ソ連を始めとした共産圏で一時期盛んにおこなわれた「計画経済」が大失敗した原因の一つも、人間が「私利私欲」の塊であるという点にある(市場原理を無視した)。例えば、チェ・ゲバラや、マハトマ・ガンジー、ネルソン・マンデラ、キング牧師のような崇高な人間でなければ、自らを犠牲にして「世の中のため」に身を粉にして働いたりはしない。また、政府から割り当てられたものにも満足しないのだ。
人間を動かすにはニンジン(インセンティブ)が必ず必要になるということである。
それを理解しない(無視する)共産主義者は、毛沢東、ヨシフ・スターリン、ポル・ポト、さらには北朝鮮の金王朝などのように、「インセンティブ」ではなく、「恐怖と暴力」で国民を支配しようとする。
そのような毛沢東の恐怖政治の後始末をした上に、共産主義中国を改革・解放という「インセンティブ」によって「大繁栄」させたのが、2019年1月9日公開「客家・鄧小平の遺産を失った中国共産党の『悲しき運命』を読む」で触れた鄧小平である。
この記事を書いてから5年以上が経つ。悲しいことに「毛沢東型共産主義」に回帰しようとする習近平はその間悪手を繰り返し、昨年8月31日公開「中国は崩壊か? それとも『失われる50年』か? いずれにせよ日本のバブル崩壊以上の惨劇が待っている」のように、鄧小平の遺産を無駄遣いしている。
「一党独裁優先」の習近平
だが、習近平はそれにも関わらず「毛沢東型・共産主義路線」の推進を強力に推し進めている。
なぜかと言えば、(毛沢東型)共産主義者にとって、国民が豊かになって「自由な知識や正しい判断力」を持つことは危険だからである。
共産主義では「意識の高い共産党員」が「意識の低い一般大衆」を「導く」のが建前だ。だが、「平等」を唱えながら、「共産党員は偉い」という差別主義かつ、共産党(の幹部)による独裁が横行していることはよく知られている。
だから「文化大革命」では、知識人を下放して知的活動を行わないようにした。また、ポル・ポト政権下では、知識人とされる教師など数百万人が虐殺されたことはよく知られている。
そのため、一般市民が豊かになり充分な知識を持つことは彼らにとっての脅威だ。「なぜ共産党員が威張っているの!?」という疑問を持つことになるからである。
つまり、鄧小平が始めた改革・解放が成功するということは、「共産党一党独裁」との大きな矛盾を生むことになる。
かといって、一党独裁を優先して経済が衰退する一方では、国民の不満も高まる。現在、習近平政権は「正念場」にあるといえよう。
資本主義国家の「共産主義的独裁」
1991年のソ連邦崩壊は「共産主義・独裁主義」の敗北であり、「資本主義・民主主義」の勝利であるとされた。だが、本当にそうであろうか?
確かに共産主義中国は、1989年のベルリンの壁崩壊や1991年のソ連邦崩壊を徹底的に研究し、他山の石とした。そして、(改革・開放を含む)資本主義的施策を始め欧米流をかなり取り込んだのである。そのおかげで、(少なくとも今のところ)共産主義中国は崩壊していない。
だが、ソ連邦崩壊後、「共産主義的・全体主義思想」は欧州を始めとする様々な国々に、胞子のように飛び散り広がった。
わかりやすいところでは、2022年1月6日公開「ドイツは3度目の『敗戦』? メルケル16年の莫大な負の遺産」、2020年9月21日公開「メルケル独裁16年間のつけ、中国がこけたらドイツもこけるのか?」などで述べたドイツである。
ドイツに限らず欧州において、過去おおよそ30年間、「共産主義的・全体主義」によく似た「人権・環境全体主義」が広がってきたのは、2月14日公開「欧州『農民一揆』は『21世紀のフランス革命』へ、米国テキサス州国境問題は『第2次南北戦争』へと向かうのか」で述べた通りである。
共産主義は「平等」を大義名分に(意識の高い)共産党員が(意識の低い)一般国民を虐げ搾取する仕組みといえる。同様に、環境・人権全体主義においても(意識の高い)人権・環境全体主義者が、(意識の低い)一般国民を虐げ搾取する。
そのような「全体主義」に敢然と立ち向かっているのが、前記「欧州『農民一揆』は『21世紀のフランス革命』へ、米国テキサス州国境問題は『第2次南北戦争』へと向かうのか」で述べた欧州の農民一揆である。
新聞やテレビなどのオールドメディアは、農民一揆を無視したり極右と結びつけようとしたりして必死だ。しかし、そのようなメディアを含む欧州の支配層(政権)が「人権・環境全体主義」という極めて共産主義に似た勢力に牛耳られているのは明らかといえよう。したがって、民主主義を求める国民が「レジスタンス活動」を行うのも当然である。
全体主義の米国民主党
米国民主党は、民主共和党の派閥を前身として1830年代に成立したとされる。
それに対して、共和党は奴隷制反対などを掲げ、ホイッグ党や自由土地党を吸収するような形で1854年に結成された。
奴隷制度を支持する民主党に対して、1860年の大統領選挙で奴隷制拡大反対を掲げて共和党のエイブラハム・リンカーンが選出された。しかし、悲しくもリンカーン大統領は暗殺され、(奴隷制度を推進する)民主党の副大統領であったアンドリュー・ジョンソンが後任となったことで奴隷解放は大きく後退した。
また、民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領が「日本を苛め抜き手を出させた(真珠湾攻撃)こと」は有名だ。さらに、彼はドイツやイタリアを始めとする敵国人の中で、「非白人」の日本人だけ財産を没収し、強制収容所に送り込んだ人種差別主義者である。しかも、東京を始めとする各地で、赤ん坊やお年寄りを含む一般市民を、絨毯爆撃で焼き殺すという「ゲルニカ」以上の残虐行為を行った。
後任の民主党大統領であるハリー・トルーマンも、広島・長崎の原爆投下で(非白人の)日本人の大量虐殺を行っている。
近年においても、1998年の民主党のビル・クリントン大統領による「ジャパン・パッシング」が行われた。これは訪中したにも関わらず、同盟国である日本に立ち寄らず帰国した事件だ。「一党独裁」の中国共産党と、米国民主党の息がぴったり合っていることを示していると言える。
民主党一党独裁を目指しているのか?
このように、創設以来中国共産党を連想させる全体主義政党であった米国民主党だ。しかし、前記のようにソ連邦崩以後共産主義の胞子が世界に飛び散ったせいか、より全体主義的傾向が強まっている。
元々、民主党ではバーニー・サンダースのような「極左」が大きな勢力となっているが、(共産主義的)「人権・環境全体主義」はさらに大きな勢力だ。
彼らは「意識の高い人間」が「意識の低い人間」を「支配する」という共通思想を持っている。
つまり米国民主党も、「意識の高い民主党員」が「意識の低い国民」を「導く」という組織なのだ。
だから(全体主義者たちから見て)「意識の低い国民」の絶大な支持を集めるドナルド・トランプには我慢がならない。中国共産党が、他の政党を(事実上)根絶しているのと同じように、「民主党以外の政党を根絶」しようとしているのでは無いかと思える。
つまり、1月25日公開「韓国化する米大統領選、トランプ支持が高まって、なりふり構わぬ「反トランプ勢力」で述べたように、「選挙に絶対勝つ」=「中国共産党方式」を目指しているのではないかということだ。
もちろん、そうなったら日本にとっての悲劇である。
「もしトラ」などと言う言葉を使って「トランプリスク」が喧伝されるが、これまで民主党が行ってきたことを考えれば、民主党政権が継続するリスクの方が日本にとって脅威だ。
しかも、民主党の大統領候補は、ロイター 2月9日「バイデン氏、機密文書持ち出しで訴追回避 記憶力低下の指摘も」の「記憶力の弱いかわいそうなお年寄り」である。
彼が核ミサイルのボタンを持っているという「もし核」リスクの方がはるかに重大だといえよう。
大原 浩(国際投資アナリスト)
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世界史の窓
封じ込め政策
1947年、アメリカがトルーマン=ドクトリンで明らかにした冷戦期の対ソ連東欧圏基本政策。その勢力の押さえ込みを図ったもので冷戦を固定化させた。
もともと「封じ込め政策」とは、アメリカの外交官のケナンがXの筆名で発表した論文で提唱したもので、トルーマン大統領が採用し、冷戦期のアメリカの外交政策とされたものであった。その意味は、ソ連邦の勢力拡大による世界の共産主義化を恐れ、それを防止するために、ソ連=共産圏諸国に対して政治、経済、軍事などあらゆる面で封じ込めるべきであるという外交基本政策である。
アメリカの冷戦基本戦略
トルーマン大統領は、1947年3月のトルーマン=ドクトリンで封じ込め政策を掲げ、同年7月のマーシャル=プランで西側諸国に対する経済支援を打ち出し、49年の北大西洋条約機構(NATO)の構築などを進めたが、これら一連のアメリカ主導の政策を封じ込め政策と言っている。ラテンアメリカ諸国との間に、は47年にリオ協定を締結し、翌48年に米州機構(OAS)を発足させたのも封じ込め政策の一環であった。
マーシャル=プランによりヨーロッパ諸国に対する経済援助という介入は、特に東ヨーロッパ諸国に深刻な対立を持ち込むこととなり、反発した共産党がチェコスロヴァキアのクーデターで政権を樹立、それに危機感を持った西欧諸国が西ヨーロッパ連合を結成し、ヨーロッパにおける東西冷戦体制は固定化されることとなった。
一方、アジアにおいては中国での国共内戦でアメリカの支援した蔣介石が敗れ、共産党が政権を獲得して1949年10月1日に中華人民共和国が成立するという激変が起こった。翌1950年6月、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、東アジアの共産化の危機ととらえたアメリカは国連軍という形式をとって出兵し、それに対して中国軍が参戦して激戦となった。
朝鮮戦争中の1953年1月、トルーマンに代わって共和党のアイゼンハウアーが大統領に就任、1月27日、国務長官ダレスはテレビで演説し、より積極的な対共産圏に対する反撃を加えようと「巻き返し政策」をとることを表明した。それは封じ込め政策を一歩進めて、アメリカが攻勢に出ようというものであった。
しかし、一方のソ連では1953年3月5日のスターリンの死去を転機に共産党指導部が集団指導体制に移行したことによって平和共存の時期へと推移することとなり、53年に朝鮮戦争も休戦協定が成立する。
Episode アメリカ外交の方向を決めたミスターX
アメリカの雑誌『フォーリンアフェアーズ』1947年6月号に掲載された、匿名Xの論文「ソヴィエトの行動の源泉」は、「われわれが、現に見ているソヴィエト権力に固有な政治的性格は、イデオロギーと環境とによって産み出されたものである。」と述べ、イデオロギーはマルクス=レーニン主義であり、その要点はプロレタリア革命による資本主義の死滅というものである、そして環境から産み出されたものがスターリンの独裁体制-秘密警察による抑圧体制-であるととらえた。そして「これらの事情からみてアメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込め(containment)でなければならない」と結論づけた。この論調は大きな反響を呼び、トルーマン大統領の「封じ込め政策」として実行された。このミスターXは、ジョージ=ケナンという国務省政策企画委員長を務める外交官だった。ケナンは戦前から外交官としてソ連・モスクワで勤務していた。この論文で脚光を浴びて1952年に駐ソ連大使として赴任したが、ソ連政府は”好ましからざる人物”であるとしてアグレマン(大使として承認すること)を撤回した。<ケナン『アメリカ外交50年』初版1951 岩波現代文庫2000 p.177>
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世界の窓
マッカーシー/マッカーシズム/赤狩り
1950年代のアメリカの共産主義あるいはその同調者に対する取り締まり運動。1950年から共和党員マッカーシーによって推進され、「赤狩り」があらゆる社会で猛威をふるった。1954年、議会でマッカーシー非難決議が可決され終息した。
Senator Joseph R. McCarthy, ca. 1954
マッカーシー 1954
・冷戦期のアメリカの1950年代初め、朝鮮戦争の時期のアメリカで、共和党の上院議員マッカーシー Joseph R. McCarthy によって行われた、反共産主義にもとづく政治活動、およびそれによって多数の政治家、役人、学者、言論人、芸術家、映画人などが親共産主義者として告発された動きのことを言う。政府内部ではニューディール時代からの民主党系の自由主義的な国務省のスタッフがその対象とされ、さらに陸軍やマスコミ、学者や言論人にその告発が及んでいった。
マッカーシーは、1950年2月20日、上院で演説を行い、国務省に共産主義者がいると警告を発した。そこから本格化した、執拗な共産主義者の摘発は、「赤狩り」と言われ、トルーマンもそれを黙認、「マッカーシー旋風」が吹き荒れて国民の不安を駆り立てた。追及の手は最初は国務省でニューディール政策を推進したスタッフに向けられ、彼らはソ連シンパであるとして排除され、さらにマーシャル前国務長官にも及んだ。マーシャルは朝鮮戦争で原爆の使用を主張したマッカーサーの解任をトルーマン大統領に進言したことが、共産勢力に利することになったとして右派から攻撃されていた。その告発は、政府内だけでなくその周辺にも及び、国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン=ラティモア(蔣介石の政治顧問だったこともある)や、原子爆弾の開発に携わった物理学者オッペンハイマー(水素爆弾開発には反対していた)などの学者などもヤリ玉に挙げられた。
告発はその時点での活動ではなく、過去において社会主義や共産主義を容認するような行動や発言をしたことを問題にされたので、現職の官僚や学者も安閑とはしていられなかった。また、共和党・民主党の双方の議員の中にもマッカーシーの活動を支援する動きが生まれ、またマスコミの多くもセンセーショナルに取り上げたので、“赤狩り”の風潮は全米に広がった。1920年代から活動していたアメリカ共産党は、1954年に非合法化され、実質的な活動を停止した。
マッカーシズムは次の共和党アイゼンハウアー大統領の時期にも続いたが、1953年7月に朝鮮休戦協定が成立し、共産主義への脅威が後退するにつれて、マッカーシーの強引なやり方は徐々に反発を受けるようになり、1954年12月に上院がマッカーシー非難決議を可決し、ようやく沈静化した。かつてはその僚友として反共産主義の運動で活躍していた副大統領ニクソンも、そのころはマッカーシーの摘発は行き過ぎており、根拠がないとして離れていた。しかし、その後もアメリカでは共産主義を自由主義社会にとって危険な思想として排除しようという動きは永く続き、特にニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプという共和党政権に共通する傾向となっている。
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アメリカ民主党、アメリカ・キリスト教会、アメリカ保守派、白人至上人種差別主義者、アメリカ軍は、親中国反日から中国を選択し日本を切り捨て、日中戦争では中国共産党やファシスト中国(国民党)を軍事支援し、中華人民共和国(中国共産党政権)樹立に蔭で協力して、反天皇反日同盟として米中両国で日本を封じ込めようとした。
それが、歴史的事実である。
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日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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ウィキペディア
アメリカ合衆国共産党(英語: Communist Party of the United States of America、CPUSA)は、アメリカ合衆国の政党。共産主義とマルクス・レーニン主義を掲げ、1919年から1950年代後半にかけては同国で最も有力な左翼組織のひとつだった。
概要
1919年にアメリカ社会党から分離した、アメリカ共産党と共産主義労働党が1920年代初頭に合同して成立。最初、党名は「Workers (Communist) Party」だったが1929年に現行の「Communist Party of the United States of America」へ改名する。当局の弾圧もあって1920年代は停滞したが、1929年の世界恐慌を期に勢力を拡大し、1930年代に最盛期を迎えた。1933年にドイツで国家社会主義ドイツ労働者党が政権に就いた後、コミンテルンの人民戦線戦術を採用してリベラル勢力と「反ファッショ戦線」を構築したが、ソ連追従政党だったため、1939年の独ソ不可侵条約締結で「反ファッショ戦線」と手を切った。
歴史
このほかアメリカ共産党は第二次エチオピア戦争や日中戦争に対する反対運動を起こし、政府に対して戦争物資の対日出荷停止を要求した。
しかし、1939年の独ソ不可侵条約をうけ、同党が反ファッショ戦線を事実上放棄したことが、共同関係にあったリベラルや一部の宗教者に取り返しのつかない幻滅感を与えてしまった。戦後のアメリカ・リベラルの反共主義の根拠はこの事件にあるといっても過言ではない。その後ドイツがソ連に侵攻し、独ソ協定が破棄されたことで同党は再び反ファッショ戦線に復帰するが、もはや共同関係がもどることはなかった。
戦時下では第二次世界大戦を反ファシズム戦争であるとみなしてルーズベルト政権に積極的に協力し、ストライキなどのサボタージュ的行動にも抑制的になり、アメリカ陸軍大尉のアレクサンダー・シュアやハイマン・ベートヒャーら数人の党員はアメリカ軍から勲章を授与されている。書記長アール・ブラウダーは愛国心から党のアメリカ同化路線を追求し、急進的、革命的路線は後退。そして1943年にはコミンテルン解散に合わせ、もはや党は必要ないとして、アメリカ共産党は解党した。残党は「アメリカ共産主義者協会」に改組された。
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レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党・日本共産党など極東アジアの共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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アメリカ共産党は、日米戦争を起こす為にフランクリン・ルーズベルトをけしかけた。
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昭和7(1932)年1月8日 桜田門事件。上海系朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。
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1月28日(~5月) 第一次上海事変勃発。
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5月 ソ連・コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し「32年テーゼ=日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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スターリン「日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンはスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者・マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党・共産主義者にも同様の文言を送った。
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32年テーゼ
1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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スターリンは、アメリカ共産党に対して、アメリカを日米戦争に誘導する為に親中国反日派フランクリン・ルーズベルト民主党政権の対日強硬策に賛成し協力するように指示した。
アメリカ軍は、第二次上海事変後に正規軍をボランティア部隊として派兵し、蔭で日中戦争に参戦した。
ソ連軍は、スペイン内戦を参考にして、正規軍を国際的共産主義義勇軍として派兵し日中戦争に参戦した。
ドイツ軍は、第二回南京事件後に軍事顧問団を中国から帰還させ、軍事支援していた日中戦争から撤退した。
日本軍は、見えない所で抗日中国軍に派兵されたドイツ軍、アメリカ軍、ソ連軍の正規軍と戦っていた。
軍国日本の外交戦の敗北は、宣戦布告しなかった事である。
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好書好日 2023.06.24
「アメリカ知識人の共産党」/「理念の国がきしむとき」 国家像と揺らぎ 根源から問う 朝日新聞書評から
評者: 三牧聖子 / 朝⽇新聞掲載:2023年06月24日
アメリカ知識人の共産党 理念の国の自画像
著者:中山 俊宏
出版社:勁草書房
ジャンル:社会思想・政治思想
ISBN: 9784326303281
発売⽇: 2023/05/01
サイズ: 22cm/306,41p
第二次世界大戦以前、共産主義はアメリカでも多くの知識人を魅了したが、戦後は「異物」として排除された。反共リベラル、ニューレフト、新保守主義者の、自由社会の根幹を問う論争を…
理念の国がきしむとき オバマ・トランプ・バイデンとアメリカ
著者:中山 俊宏
出版社:千倉書房
ジャンル:政治・行政
ISBN: 9784805112854
発売⽇: 2023/04/07
サイズ: 19cm/430p
巨大な理念の国と最前線で切り結んだ、気鋭のアメリカ政治学者・中山俊宏。オバマからバイデンまで、3人の大統領の下で激しく変貌するアメリカと対峙し、2022年に急逝した彼の思…
「アメリカ知識人の共産党」/「理念の国がきしむとき」 [著]中山俊宏
基本的価値及び戦略的利益を共有する同盟国。外務省HPによる日米関係の説明だ。今日、公的な場で日米関係が言及される際、必ず掲げられる「価値の共有」。だが私たちは「共有」を自明視できるほど、米国的な価値を理解しているだろうか。そもそも米国的な価値とは何か。
米国にとってすら、自国が体現する理念や価値は自明ではなく、絶えず論争になってきた。
『アメリカ知識人の共産党』は、戦後米国で「異物」として排除された共産党をめぐる論争の分析を通じ、そうした「理念国家」の本質に迫る。米国共産党の党員は全盛期でも8・5万人ほどだったが、実態とは不釣り合いな論争を巻き起こし、知識人のアイデンティティーや自国理解に深く刻まれた。著者はここに「理念国家」の宿命を見いだす。下部構造決定論によって米国の建国の理念を相対化し、体制の事実上の転覆を訴える共産党は、「理念国家」という自画像を根本から揺さぶる存在だった。米国にあって共産党は一左翼政党を超えた存在であり、共産党をめぐる論争は、共産主義はなぜ米国に根付かなかったのか、むしろ反共主義という不寛容こそ米国的な理念に背馳(はいち)していないか、そもそも米国の理念とは何かといった根源的な問いを孕(はら)みながら展開された。
中山氏は日米同盟に代わる「プランB」はないと言い切り、同盟コミット派を自認していたが、重要な存在だからこそ、米国が抱える本質的な不安定さ、関係構築の困難さから目を逸(そ)らさなかった。オバマ・トランプ・バイデン時代を分析した『理念の国がきしむとき』は、そうした知的誠実さに裏付けられた渾身(こんしん)の論集だ。
米国が「理念国家」を自認するとき、そこには、国益の追求に汲々(きゅうきゅう)とする他国と違い、普遍的な理念を追求する、といった肯定的なニュアンスがある。しかし本書が炙(あぶ)り出すのは、「理念国家」であるがゆえの弱さや脆(もろ)さだ。多様な人々をまとめるために常に理念を語り、確認し続けなければならない「理念国家」であることは、国内に際限のない理念闘争を生み、対外的には言行不一致を生み出してきた。「米国第一」を掲げ、国益追求を赤裸々に肯定するトランプ大統領の誕生が象徴するように、昨今は「理念国家」の看板を公式に下ろそうという世論も強まる。
こうした米国と協働するには、日本はますます構想力が求められると生前中山氏は述べていた。氏の不在は痛恨だが、「米国とは何か」を問い続けたその知的格闘は今後も長く米国と私たちの未来を照らすはずだ。
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なかやま・としひろ(1967~2022) 津田塾大准教授、青山学院大教授、慶応大学教授などを歴任。著書に『介入するアメリカ』『アメリカン・イデオロギー』、共著に『オバマ・アメリカ・世界』など。
三牧聖子(みまきせいこ)
同志社大学准教授(国際政治)
1981年生まれ。高崎経済大学准教授などを経て現職。著書に『戦争違法化運動の時代 「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』、共著に『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』など。2023年4月より書評委員。
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日本の超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達には、マルクス主義やレーニン信奉者が多数存在する。
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世界史の窓
共産党
主としてマルクス主義を標榜し、資本主義の打倒、労働者階級(プロレタリア)の解放と理想社会としての共産主義社会の実現をめざす政党。1848年のマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』を源流とし、レーニンの指導するロシアのボリシェヴィキが1918年に共産党と称して以来、各国で結成された。1919年、国際共産主義運動の指導機関としてコミンテルンが組織されると、20年代に入り、世界各国、地域でコミンテルン支部としての共産党が結成されていった。第二次世界大戦後になるとソ連共産党主導に対する反発から独自の方針をとる共産党が出現し、中ソ対立などで共産党の対立が深まるとともに、ヨーロッパの共産党が議会制民主主義政党へと転換するなど、大きく変質している。
共産主義政党と言っても、国によって、あるいは成立過程の違いによってその名称には異なっている。一般にマルクス主義を発展させた共産主義(Communism)の実現をめざす政党が共産党と名のるケースが多いが、その名称には「社会主義」や「労働」あるいは「労働者」「労農」などをつける場合も多い。また、社会主義・社会民主主義政党との違いにも注意する必要がある。各国の共産党のなかで重要な動きをまとめると次のようになる。
共産党の結成
1917年の十月革命(十一月革命)で権力を握ったレーニンの主導するボリシェヴィキは、世界で最初の共産主義を目指す政権を樹立した。1918年3月6日にロシア社会民主労働党の多数派であるボリシェヴィキがロシア共産党に改称したのが共産党の始まりで、同年末にドイツ共産党など各国に共産党が生まれた。その理念は1848年のマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に源流がある。実質的な出発点は、レーニンがボリシェヴィキを組織した1903年とされている。
レーニンとコミンテルン
レーニンのボリシェヴィズムは共産党を大衆政党ではなく共産主義革命の最前線となる革命家集団と位置づけたので厳しい統制と民主集中制がとられた。ついで1919年3月2日にレーニンの指導で設立されたコミンテルンは世界共産党ともいわれ、国境を越えた国際共産主義運動を展開し、各国共産党はコミンテルン支部の性格も持っていた。
1922年に正式にソ連邦が発足、ロシア共産党はソ連共産党となった。しかし、ソ連共産党は1924年のレーニンの死後、世界革命論を主張するトロツキーを失脚させ、一国社会主義論をとるスターリンが権力を握った(1928年)。スターリンは一国社会主義の路線によりソ連の社会主義建設に向けて、工業化と農村の集団化を強行する過程で次第に独裁色を強めた。レーニン、トロツキーに見られた国際共産主義運動は変質し、各国共産党はコミンテルンを通じてソ連共産党に従属する傾向が強まった。スターリンに敵対した多くの共産党員は「粛清」された。
ヨーロッパ・アメリカの共産党
ドイツ共産党は第一次世界大戦中の1916年にドイツ社会民主党が戦争協力方針に転換したことに反対したローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらによって結成されたスパルタクス団を母体として、大戦終結後の1918年12月末に結成され、翌1919年1月にドイツ革命の渦中で蜂起を試みたが弾圧され、弱体化した。ヴァイマル共和国の中で勢力を挽回したが、ソ連共産党の強い影響を受けるようになり、社会民主主義をとなえる社会民主党とは革命路線の違いから対立した。世界恐慌によってドイツ経済が困窮におちいったことを背景に共産党は急速に勢力を強めたが、一方で反共産主義を掲げるナチスが資本家や保守的な層の支持を受けて台頭した。
フランス共産党は1920年12月、フランス社会党がコミンテルン加盟問題で分裂し、多数派が共産党を結成、第3インターナショナル(コミンテルン)・フランス支部として活動した。1930年代には反ファシズム統一戦線を結成、ファシズムの台頭と戦った。
イタリア共産党は1921年、イタリア社会党が第3インターナショナル加盟を巡って分裂し、左派が結成した。翌年、ファシスト党のムッソリーニ政権が成立、共産党は非合法とされ地下活動に入った。
なお、イギリスでもイギリス共産党が結成(1920年)されたが、労働組合は労働党(マルクス主義政党ではない。議会政治の中で労働者の地位向上を目指す穏健派)ににぎられていて大きな勢力にならなかった。
またアメリカでもロシア革命の影響を受けて1919年にアメリカ社会党から親ボリシェヴィキ派が分裂してアメリカ共産党を結成し、コミンテルンに加盟して活動し、世界恐慌期に貧農や都市の下層労働者の中に支持者を得たが大衆的な組織となる前に弾圧を受けた。 → アメリカの政党政治
アジアの共産党
アジアの共産主義運動はコミンテルンの指導を受けて組織された。最初の共産党は1920年5月結成のインドネシア共産党で、同年10月にはタシケントでインド共産党(インド国内では25年から活動)が生まれた。翌1921年7月に中国共産党が陳独秀を中心に上海で発足した。日本共産党は1922年に堺利彦、山川均らによって結成されたがただちに非合法とされ、すぐに地下に潜った。1925年には普通選挙法が制定され、それによって行われた選挙で共産党系の無産政党が進出すると、治安維持法による弾圧が強化され、1928年の3・15事件で多くの地下の共産党員が逮捕された。これによって戦前の日本の共産党活動は実質的に抑えこまれた。
フランス植民地であったインドシナでは1930年2月にホーチミンが中心となってインドシナ共産党が結成され、後に1951年からベトナム労働党と改称し、ベトナム戦争後の1976年にベトナム共産党となって現在に至っている。
第二次世界大戦とコミンテルン運動
1929年、世界恐慌が起こり、労働者の経済状態が悪化したことに伴い、ドイツ共産党を始めフランス共産党やイタリア共産党がそれぞれ勢力を伸ばすと、資本家や保守的大衆は共産党を危険視して、その対極にあるファシズムを擁護したため、その台頭がもたらされた。
1933年にはドイツでヒトラーのナチスが政権を奪取し、ドイツ共産党は非合法とされてしまった。1935年にはコミンテルン第7回大会は人民戦線戦術に転換し、社会主義勢力やブルジョワ自由主義政党との連帯を打ち出し、ヨーロッパではフランスやスペインに人民戦線内閣が生まれ、共産党も協力する態勢をとった。しかし、1936年から始まったスペイン戦争では人民戦線内部で共産党とアナーキスト派、トロツキー派などの対立があり、フランコ軍に敗れる結果となった。
中国での中国共産党と国民党の国共合作(第1次)が、1927年の蔣介石による上海クーデタで崩壊したが、1931年の満州事変からはじまった日本軍の侵略に対して次第にその復活を求める声が強まり、1937年の日中戦争勃発に伴い国共合作(第2次)が成立した。
独ソ不可侵条約の衝撃 しかし、1939年、ソ連共産党のスターリンがヒトラーとの間に独ソ不可侵条約を締結したことは、共産党がまったく世界観の違うファシズムと手を結んだことで、各国の共産党に強い衝撃を与え、支持者にも失望をもたらし、統一戦線は混乱、共産党と人民戦線派が国民的支持を拡大する大きな障害となった。
コミンテルンの解散 ヒトラー・ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、スターリン・ソ連も東からポーランドに侵攻、分割に動いた。しかり独ソの提携は長くは続かなかった。ヒトラーはフランス制圧に成功したもののイギリス侵攻に失敗し、目標をバルカン半島など東方に転じると、ソ連との関係は破綻し、1941年6月、独ソ不可侵条約は破棄されて独ソ戦が始まる。そのためソ連は英米との提携に転じ、1942年1月、連合国に加わり、1943年6月には米英に協力する姿勢を明らかにするためコミンテルンの解散に踏み切った。
戦後の共産党
第二次世界大戦後は、ドイツ支配から解放される際にソ連の力が大きかった東ヨーロッパ諸国では共産党政権が次々と誕生し、ソ連はコミンフォルムを結成したそれを統制しようとした。また東ヨーロッパ諸国は、ソ連がマーシャル=プランに対抗して設けたコメコンに加わり、いずれもソ連共産党の指導を受け入れる立場となり、コメコンでの経済的結びつきを強めて東ヨーロッパ社会主義圏を形成、さらに1955年にはワルシャワ条約機構が組織されて東西冷戦時代の東側陣営を構成することとなった。
共産党一党支配を実現した諸国は資本主義社会に対抗して東側世界を形成し、その中でソ連共産党は官僚的機構が巨大化するとともに、スターリンに対する個人崇拝という本来の共産主義とは違った面が強くなっていった。なお、共産党は東ドイツでは社会主義統一党、ポーランドでは統一労働者党、ブルガリア、ルーマニアでは労働者党、アルバニアでは労働党などと称した。東欧の中にあってユーゴスラヴィア共産党はソ連と対立したコミンフォルムから除名され、独自の社会主義路線を構築した。
アメリカでは、戦後の冷戦期の特に1950年代に、共産主義を危険視するマッカーシズムの嵐が起こり、自由な言論活動が厳しく弾圧される中でアメリカ共産党は衰退を余儀なくされた。
中華人民共和国の成立
中国共産党は国共合作のもと八路軍などの独自の軍隊で日本軍と戦い、1945年に日中戦争が終わると国民党との国共内戦(第2次)が再開され、激しい内戦が続いた。朝鮮では1945年に抗日戦で指導権を確立した金日成によって朝鮮労働党が結成された。またアジア各地では日本軍の撤退に伴いインドシナ共産党やインドネシア共産党が独立運動の主体となり、ベトナムやインドネシアが独立した。
1949年、中国共産党が国共内戦で勝利して、中華人民共和国を建設し、ソ連にならぶ共産主義の大国が出現したことは、戦後世界の大きな衝撃として迎えられた。しかしその反面、既存の共産党に対してはソ連共産党の圧力が強まり、次第に各国の共産党の連帯は薄れ、それぞれの地域事情から独自の行動をとる共産党も現れた。
スターリン批判の衝撃
ソ連のフルシチョフ政権が、1956年からスターリン批判が開始すると、東欧の中にもソ連共産党から距離を置くものが現れたが、それに対してソ連共産党はチェコ事件に見られるような軍事介入をこない、同時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)を強調して指導権維持を図った。
ソ連指導部によるスターリン批判は各国の共産党に大きな衝撃を与えた。忠実にスターリン路線に従属していた共産党員が、今度は排除されることになりその動揺は下部に及んだ。さらに続いたハンガリー事件、チェコ事件によって共産主義と民主主義は矛盾するものと捉えられるようになり、各国での共産党員の離党が相次いだ。この事態に困惑した共産党の中には、共産党の名称を変更するものも現れた。70年代の西欧の共産党の中に起こった、議会政治との妥協を図るイタリア共産党などのユーロ=コミュミズムの路線はその現れであり、もはやかつてのようなソ連を指導者とするインターナショナルな共産主義運動はまったく崩壊し、運動は多様化した。
中ソ対立とソ連の解体
スターリン批判はまた、中ソの共産党の決裂をも生み出した。毛沢東はスターリン批判に同調せず、フルシチョフ路線と決別し、共産党同士の中ソ対立(中ソ論争)が始まった。この中ソ論争に見られる共産主義運動の混迷の中から、中国共産党の毛沢東は個人崇拝を強めるとともに権力の奪還を狙い、文化大革命という混乱を生み出した。ソ連共産党はブレジネフのもとで官僚的体質が硬直化をもたらし、経済の停滞が顕著となっていった。20世紀末にはソ連共産党のゴルバチョフ政権がペレストロイカによって硬直した体制の転換を図ると、東欧社会主義国も一斉に民主化を開始し東欧革命の激変となった。その動きはついにソ連の解体に行き着き、さらにソ連共産党の解党へとつながった。またソ連の消滅に伴う冷戦終結によって、西側各国にも議会政治の中で党勢を伸ばしてきた共産党はいずれも後退を余儀なくされた。現在、共産党として一党独裁の政権を維持しているのは中国共産党、朝鮮労働党、ベトナム共産党、キューバ共産党のみである。
ユーロコミュニズム
西ヨーロッパ各国の共産党のなかに、ソ連型の教条化、官僚制化した共産主義を脱却して、党内民主化を進め、複数政党制と議会制民主主義を認めようとするユーロコミュニズムという動きがでてきた。1973年、イタリア共産党書記長ベルリングェルは「歴史的妥協」と称してカトリック勢力(キリスト教民主党)との提携を打ち出し、さらに1975年にはスペイン共産党書記長カリリョと政策転換で合意し、77年にはフランス共産党もそれに加わった。社会民主主義とは一線を画し、階級政党としての使命を否定はしていないが、暴力革命や一党独裁制の主張はみられなくなった。イタリア共産党は91年に党名を「左翼民主党」に改めた。
中国共産党の変質
中国共産党は2021年に結党100周年を迎えた。しかし文化大革命の大混乱を経て、1980年代には鄧小平政権による改革開放政策を導入、さらに天安門事件(第2次)で民主化を抑え込んでからは社会主義市場経済を掲げるようになった。依然としてマルクス主義を掲げているものの、党はプロレタリアートを代表する階級政党という性格をすでに捨て去っており、共産党という党名からその本質はずれてしまっている。北朝鮮の朝鮮労働党もマルクス・レーニン主義を謳っているものの事実上、金王朝化しており、個人崇拝の党(労働党自身はそうは言わないが)となっている。ベトナム共産党(1976年にベトナム労働党から改称)も政権は維持しているが、ドイモイといわれる改革開放に転換している。
インドネシア共産党の浮沈
アジアで最も激しく変動したのはインドネシア共産党であった。アジアで最初に結党された共産党であり、戦前の独立を目指す蜂起を指導し、戦後もオランダからの完全独立を主張して弾圧され壊滅的打撃を被ったが、戦後は民族主義の要求を取り入れて大衆化し、300万以上の党員を擁するアジア最大の共産主義政党となった。当時、政治的基盤を持たなかったスカルノは共産党勢力の抱き込みを図り、国民党とイスラーム教勢力との三者の協力体制であるナサコムをつくりあげ、共産党もそれに応えて体制を支えて与党化するまでになった。しかし、スカルノの指導力の衰えとともに国内の反共勢力である軍部、イスラーム勢力が有力となると1965年9月30日の九・三〇事件で壊滅させられた。この事件は軍をおさえたスハルト将軍によって共産党のクーデタ未遂事件と断定され、共産党員に対する大規模な弾圧が行われ、党は壊滅した。スハルト政権の下では共産党は非合法とされ、現在もその状態が続いている。マレーシアやシンガポール、韓国などの開発独裁国家でも同様に共産党は壊滅させられたか、非合法団体に追いやられている。
日本の共産党
日本共産党は1922年、コミンテルン日本支部として発足したがただちに非合法化された。党員は無産政党に加わって活動し、1928年の第1回普通選挙では無産政党から8人の当選者を出したが、同年の3・15事件で治安維持法違反を理由とした大弾圧を受けた。翌年の4・16事件で再び弾圧されてほぼ壊滅した。戦後に公然活動を再開したが平和的に革命に移行するか、武装闘争を行うかなどの路線対立、ソ連(コミンフォルム)の干渉、中国共産党政権の成立、朝鮮戦争の勃発に伴うアメリカの対日政策の転換といった激しい情勢の中で、1950年、GHQによる公職追放(レッドパージ)の対象とされ、党も分裂して危機的状況となった。1955年に武装闘争方針を放棄、合法活動に集中し、自主独立路線を採るとの転換を行った。その後、反安保、反基地闘争を続けながら文化大革命を機に中国共産党との協力関係を断ち、独自路線を強めている。現在はマルクス主義(科学的社会主義)は堅持しているものの、議会制民主主義と多党制を容認、選挙で単独の多数派形成を目指していたが、2015年の平和安全法制(戦争法)の成立を危機と捉えて野党共闘を模索し、2021年には初めて立憲民主党などと政策協定を結んで大きな転換をとげた。
参考 社会主義・共産主義・社会民主主義
社会主義と共産主義の違いは明確な線引きは難しいものの、一般的に、前者は資本主義を克服して労働者の解放を目指す段階であり、政策的には自由競争ではなく計画経済による平等な社会を実現することであり、後者はその次の段階で階級や国家による搾取のない理想社会をめざす思想と言うことができる。社会主義政党と共産主義政党の違いは、源流がマルクス主義にあることは同じであるが、歴史的には、ロシア革命でレーニンが掲げたボリシェヴィズムから生じた政党が共産党であり、従って両者の線引きは暴力革命を認めるかどうかの違いではっきりしていた。しかし現在は暴力革命を肯定することはほぼないので、線引きは曖昧になっている。
各国で社会党を名乗る政党(例えばフランス社会党)はほぼ社会主義政党であり、現実社会の問題を資本主義の矛盾と捉え、資本による労働者の搾取をなくすことめざすが、その手段としては暴力革命は否定し、議会制民主主義のもと段階的に改良を実現しようという政党である。その中でも温度差があり、比較的資本側に妥協的で議会制民主主義を重視するのが社会民主主義の潮流といえるだろう。かつては改良主義とか修正主義と言われて否定的にとらえられたため、社会党と共産党は歴史的に相容れないとされていたが、現在は違いは無くなっており、むしろ共産党という名称を継承している場合でも、社会民主主義に転じているケースが多く、日本のように老舗の社会党がふるわなくなっている傾向がある。
イギリスの労働党はマルクス主義政党ではないので注意しよう。労働者の福祉、自由競争の制限(企業公営化)、などを政策の柱に置き、社会民主主義に近い。またドイツの社会民主党は発足時はマルクス主義政党であったが途中で決別し、現在は社会民主主義を標榜している。両者とも保守政党と選挙を通じて競争し、ときどき政権を担当している。かつては社会民主主義は、共産主義からブルジョワの思想であるとして否定され、激しく対立していたが、第一次世界大戦後のファシズムや軍国主義の台頭に対抗するため、人民戦線戦術で協調するようになってから、その違いは薄れている。
なお、政党の中に〇〇革命党や急進〇〇党などを名のるものは、共産主義政党ではないかと思ってしまう場合があるが、多くは共産党とは違うので注意しよう。ロシアで言えば社会革命党、中国の孫文の中華革命党はいずれも共産主義政党ではない。またフランスのクレマンソーの急進社会党は社会主義政党ではなく、急進的な共和主義を掲げていた。いうまでもなく、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は社会主義や労働者という言葉を入れているが、社会主義に見せかけた反共産主義政党である。このように政党名はその名称に惑わされず、どのような主張で、どのように活動したかを押さえておく必要がある。
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