🐉12」─3─「反日」から誕生した中国共産党の"歴史"。~No.45No.46 ⑨ 

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 中国共産党は、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを支援していた。
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 2023年10月20日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ中国は「台湾は自分のモノ」と主張するのか…「反日」から誕生した中国共産党の"歴史"
 一党支配体制を敷く中国共産党とは、どんな組織なのか。ジャーナリストの池上彰さんは「第一次世界大戦後の対日運動から誕生し、当時の党員は都市部のインテリら約50人だった。彼らは『日本の侵略から中国の人民を解放した』を大義に掲げている」という――。
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 ※本稿は、池上彰『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
山東半島を獲得した日本への抗議運動
 現代の中国を率いる中国共産党が創設されたのは1921年。誕生してから100年が経っています。反日運動の中から生まれました。
 きっかけは1919年5月4日です。当時の中国は帝国主義諸国の侵略を受け、山東半島はドイツが占有していました。そのドイツが第一次世界大戦で敗北したことから、中国の多くの国民が、山東半島が返還されると期待していました。
 ところがヴェルサイユ条約(第一次世界大戦講和条約)で山東半島はドイツから日本に引き渡されます。これに怒った中国の若者たちが街頭に出て抗議を繰り広げました。これが「五・四運動」です。この運動の盛り上がりの中から中国共産党が産声を上げるのです。
■世界最初のコミンテルン支部だった
 これより2年前の1917年、ロシア革命が起きると、当時の社会民主労働党(その後、ソ連共産党に)は、世界革命を計画します。世界を共産主義化してこそ、ロシアの共産主義も安泰になるという発想です。
 この計画にもとづき、モスクワにコミンテルン(共産主義インターナショナル)が設立され、世界各地に支部を建設する方針を立てます。
 五・四運動で若者の反日運動が盛り上がる中国にコミンテルン本部から2人のメンバーが上海に派遣され、1921年7月、コミンテルン中国支部が結成されました。これが中国共産党の創設です。つまり中国共産党は、コミンテルン中国支部でもあったのです。世界で最初の支部でした。
 ちなみに翌年、世界で2番目となる支部が日本に設立されます。日本共産党の誕生です。
毛沢東を指導者のように描く「歴史の偽造」
 中国共産党の第一回党大会は、上海の中心部にほど近い住宅街で開かれました。当時の党員は約50人。そのうちの代表12人(13人という説もある)が集まりました。
 この頃の中国共産党は、大学教授など都市部のインテリが中心でした。「労働者と農民の党」ではなかったのです。
 第一回党大会が開催されたこの場所は、現在は記念館となっていて、当時の党大会の様子を再現した蝋人形が展示されています。ただし、ここで最初の歴史の偽造が行われています。毛沢東が中心に立ち、まるで指導者のように描かれているからです。
 実際には、この頃の毛沢東は、湖南省の代表にすぎませんでした。毛沢東が頭角を現すのは、国民党軍の弾圧を受けて逃げ回る「長征(ちょうせい)」の過程でした。
 できたばかりの中国共産党は、コミンテルンの命令を忠実に実行する党でした。なにせロシアには革命を成功した実績があったからです。コミンテルンは、ロシア革命方式の武装蜂起を指示します。労働者が都市で武装蜂起して革命を成功させろというものでした。中国の事情などお構いなしでした。
武装蜂起はことごとく失敗、ゲリラ闘争へ
 当時の中国の国民の多くは農民で、労働者は都市部の一握りの存在に過ぎませんでした。労働者の間で支持を獲得しても全国への党勢拡大にはつながりません。都市部で武装蜂起しても影響力は限られ、武装闘争はことごとく失敗します。
 この路線に見切りをつけ、わずかな部隊を率いて山岳地帯に逃げ込んだのが、毛沢東でした。毛沢東湖南省江西省の境界地帯にある井岡山に「革命根拠地」を築きます。
 当時、ここは「土匪(どひ)」(山賊)の支配地域でした。毛沢東はここに部隊を駐留させ、山賊のメンバーも共産党の軍事組織に組み込みます。ここを拠点にゲリラ闘争を繰り広げ、やがて腐敗した国民党軍を打ち破っていくのです。
 しかし、このとき既に毛沢東の指揮に従わない兵士2000人が処刑されています。命令に従わなければ容赦なく処刑する。これが、この党の伝統だったのです。
■苦難の行軍を経て「毛沢東中国共産党」誕生
 その後、毛沢東は戦線を拡大するため山岳地帯を降りて新たな根拠地を築きますが、国民党軍の攻撃を受けて逃走を始めます。これを中国の公式の歴史では「長征」と呼びますが、要は家族を引き連れての逃避行でした。実に1万2000キロを移動しています。
 この過程で大勢の仲間を失いますが、毛沢東共産党の主導権を握り、1943年5月、中国共産党中央委員会主席に就任します。「毛沢東中国共産党」が誕生したのです。
 この長征は「苦難の行軍」とも呼ばれます。中国は、国家建設に当たり、困難に直面するたびに「苦難の行軍を忘れるな」をスローガンにするのです。
 ちなみに、中国の宇宙開発のロケットには「長征」の名前がつけられています。
■対日戦争では戦力を温存し、内戦で勝利
 1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると、共産党は国民党と協力して日本と戦うことになりました。「国共合作」です。
 ところが実際には、共産党軍は日本軍との戦闘を避け、国民党軍に任せて自分たちの戦力を温存する戦略を取りました。当時、日本軍と正面から戦って戦果を上げた共産党軍の将校は毛沢東から叱責(しっせき)を受ける始末でした。
 1945年8月、日本が降伏すると、国共内戦が復活しますが、国民党軍は日本軍との度重なる戦闘で、すっかり疲弊していました。
 一方、共産党軍はソ連軍からの武器の支援を受けて、内戦を優位に進め、1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言しました。
 中国共産党は、「我々が中国人民を日本の圧政から解放した」と宣伝していますが、実相は異なるのです。「中国共産党の栄光の歴史」という歴史の偽造が行われているのですが、「日本の侵略から中国の人民を解放した」というのが中国共産党大義です。中国が、しばしば反日の態度を示すのは、そもそも共産党の創設以来の歴史があるからです。
■なぜアメリカが台湾に接近すると激怒するのか
 アメリカ議会の下院議長が台湾の総統と会うと中国が激怒して台湾を包囲する形で軍事演習を実施する。2022年に民主党ペロシ下院議長が台湾を訪問したときも、2023年に台湾の蔡英文総統がアメリカに立ち寄り、共和党マッカーシー下院議長と会ったときにも、中国は同じ対応を示しました。これは、どういうことでしょうか。
 まずはアメリカと中国の関係です。第二次世界大戦後、国際連合が発足したときの「中国」とは中華民国つまり台湾でした。しかし、中華民国が統治できているのは台湾だけ。中国大陸には中華人民共和国が成立しているのですから、中華民国が中国を代表しているというのには無理がありました。
 アメリカは戦後、台湾と国交を結んでいましたが、やはり人口の多い大陸が経済面でも魅力的です。そこで1972年、当時のニクソン大統領が中国を訪問し、国交正常化に向けて話し合いを続けることで合意します。これにもとづき、実際に正式な国交が結ばれたのは、カーター大統領の時代の1979年でした。
■まだ台湾に「解放すべき人民」が残っている
 これにより、アメリカは台湾と断交します。しかし、当時のアメリカ議会では「台湾を見捨てるべきではない」との声が強く、議会が、通称「台湾関係法」を成立させます。この法律は、「台湾人民の安全または社会、経済の制度に危害を与えるいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗しうる合衆国の能力を維持」し、「大統領と議会は憲法の定める手続きに従い、(中略)とるべき適切な行動」をすることを定めています(「日中関係資料集」)。
 要は「アメリカはいざというときは台湾を防衛するよ」という意味なのですが、表現は曖昧です。もし台湾が中国から軍事攻撃を受けたとき、アメリカは本当に台湾を守ってくれるのだろうか。これが台湾の人たちの懸念です。
 そこでアメリカ議会を代表する形で下院議長が、民主党であっても共和党であっても、それぞれ蔡英文総統に会い、「アメリカは必ず台湾を守る」と約束したというわけです。ちなみにアメリカ議会の下院議長は、副大統領に次ぎ、大統領継承順位2位、実質ナンバー3の力を持っています。
 これは中国にとって「台湾という国内問題にアメリカが口を挟む内政干渉だ」となります。中国の軍隊は「人民解放軍」という名称です。中国大陸の人民は「解放」したが、まだ「解放」すべき「人民」が台湾に存在しているというわけです。
■あと一歩のところで「祖国統一」中断
 第二次世界大戦後、中国共産党は国民党との間で内戦を繰り広げ、多大な犠牲を出しながらも国民党軍を台湾に追い詰めました。さらに台湾に攻め込むために、台湾の対岸に人民解放軍を集結させます。
 「さあ、あと一歩で祖国統一の偉業を成し遂げられる」となったところで、朝鮮戦争が勃発。中国は、北朝鮮を支援するため、台湾侵攻は一時棚上げ。人民解放軍朝鮮半島に送りました。
 当時の台湾は国民党の一党独裁でした。独裁者の蒋介石が統治していました。蒋介石は、「いずれ大陸に反攻して中華民国を復活させよう」という野望を抱き、「中国は一つ」と主張していました。「中国は一つ」という点では中国共産党と同じだったのです。
民進党の「台湾独立」を認めない背景
 しかし、蒋介石が死去すると、野党の存在が認められ、民主化を進めた李登輝総統の時代に民進党(民主進歩党)が大きく成長しました。遂には政権を獲得します。民進党は、もともとの主張が「台湾独立」でした。もし台湾が独立してしまったら、中国共産党の悲願は潰えます。それゆえ中国は民進党蔡英文総統の政府に厳しく当たっているのです。
 さらに中国にはチベット自治区や新疆(しんきょう)ウイグル自治区など、独立をうかがう民族もいます。彼らを勢いづかせないためにも台湾独立はありえないというわけです。

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 池上 彰(いけがみ・あきら)
 ジャーナリスト
 1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、NHK入局。報道記者として事件、災害、教育問題を担当し、94年から「週刊こどもニュース」で活躍。2005年からフリーになり、テレビ出演や書籍執筆など幅広く活躍。現在、名城大学教授・東京工業大学特命教授など。6大学で教える。『池上彰のやさしい経済学』『池上彰の18歳からの教養講座』『これが日本の正体! 池上彰への42の質問』『新聞は考える武器になる  池上流新聞の読み方』『池上彰のこれからの小学生に必要な教養』など著書多数。

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