🐉13」─1─長春包囲戦と12万人の餓死。中国共産党と大虐殺。~No.47No.48No.49 * ⑩ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国共産党軍は12万人以上の兵士や一般市民を餓死させた。
 残留していた日本人難民の被害。
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 日本の戦争と中国の戦争は、本質的に違う為に、その被害も規模も異なる。
 日本軍は、曖昧で不徹底であった為に、中国軍の様な強靱的行動がとれなかった。
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 中国大陸は、日本列島と違って苛酷であった。
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 中国では、人の命には価値がなかった。
 特に、敵と見なした相手は虫けらのように酷たらしく殺した。
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 中国人の真の姿は、『資治通鑑』に書かれている。
 中国人は、何時代でも歴史を手本として『資治通鑑』に書かれている通りの残虐行為を再現し、各地で虐殺を繰り返していた。
 毛沢東中国共産党も例外ではなく、むしろ忠実に残虐行為を実行していた。
 気の弱い日本人では、『資治通鑑』を読む事ができないし、そもそも、その思想や価値観を理解する能力がない。
 つまりは、日本人は中国人より劣っているという事である。
 日本人は、『資治通鑑』が読めない以上、中国人ほど優秀でも有能でも、特別な存在でもない。
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 大昔。気弱な日本民族は、中国人の残酷さに恐怖して中国を逃げ出した。
 だが。現代日本は、中国化し、中国人の様に生きようとしている。
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 毛沢東「敵が進めば退却し、敵が止まれば撹乱し、敵が疲れれば攻撃し、敵が退却すれば追撃する」
 中国共産党軍は、民族特有の残虐な「力の信奉者」として、日本軍の空白地帯に入り込んで勢力を拡大した。
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 毛沢東「民族の恨みを忘れるな」
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 陰険か共産主義は、ファシズム以上に、横暴な中国人を洗脳して凶悪な殺人鬼に変えた。
 凶暴な中国人が作った組織が、中国共産党である。
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 アメリカは、共産主義勢力と戦っていた軍国日本を滅ぼす事によって、アジアの共産主義化を許した。
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 1945年 ソ連軍は、降伏した日本軍や満州国軍を武装解除しながら南下して支配地を拡大した。
 各地で。一部のソ連軍兵士による、日本人避難民への暴行や強姦や殺人が起きていた。
 ソ連に亡命していた日本人共産主義者は、目の前で起きている事実を知っていた。
 共産主義者にとって、日本人満州開拓団は天皇の忠良なる臣民であり、中国人や朝鮮人の農地を奪った憎き人民の敵であった為に、同情しなかったし、助ける気もなかった。
 ソ連軍は、戦時国際法を無視して、投降した日本軍将兵をシベリアの強制収容所に送って奴隷的重労働を課し、最低限の食事を与えて衰弱死するに任せた。
 60万人以上の内6万人以上が、極寒の不毛なシベリアの原野で死亡した。
 国際赤十字は、戦勝国の行う行為の為に見て見ぬ振りをした。
 共産主義者は、日本を共産主義化する為に、反天皇の洗脳教育を行った。
 日本共産党は、洗脳によって反天皇革命闘士となった旧日本人将兵の早期帰国をソ連に要請した。
 帰国した彼等は、反宗教無神論者及び天皇制度廃止論者として、反戦平和市民団体を組織して反米反日活動を活発化させた。
 ソ連共産主義者は、シベリア抑留に伴う非人道的行為を認めなかったし、反省もしないし、謝罪も賠償も行わなかった。
 それが、「力を正義」とする大陸中心の国際常識である。
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 日本が降伏して日本軍が消滅すると、一般市民が多く巻き添えを食う国共内戦が激化して、国民党も中国共産党も敵対すると見なした人民を虐殺していた。
 中国とは、同じ人民同士が虐殺を繰り返す非情な世界であった。
 中国人気質は、そうした寸暇も油断できない、酷薄な世界で生き延びる中で培われてきた。
 気が弱い日本人では、中国人を理解できないのは当たり前であり、分かり合える事は不可能である。
 日本人は夢想的な性善説的生き方を理想とし、中国人は現実的な性悪説的生き方を貫いている。
 つまり。日本人は直ぐに心の底から他人を信用仕切るが、中国人は決して他人を信用せず徹底的に疑う。
 同じ人間であるから日本人と中国人は打ち解け合えると公言する日本人がいたら、真に受けない方が身の安全である。
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 日本人避難民は、中国人暴徒やロシア人兵士に虐殺された。
 女性は強姦されて惨殺され、子供も容赦なく殺された。
 ソ連軍戦車は、日本人避難民を虐殺する事は勝者の当然な権利として、女子供を生きたまま轢き殺し、日本を侵略した。
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 民国34(1948)年 蒋介石は、国民党軍を旧満洲国首都新京に進駐させ、都市名を長春と改称して、第60軍および新第7軍の総勢10万人を配置した。
 長春市民は50万人以上で、その中に約3,000人の日本人居留民がいた。
 満州国の崩壊と満鉄の消滅で、鉄道による物流網はマヒしていた。
 さらに。法秩序の崩壊で、治安は悪化し、馬賊や盗賊が横行して無法地帯となっていた。
 国民党軍は、長春への食糧や医薬品などの生活物資を空輸していた。
 毛沢東は、日本が満州に築いた重産業施設を確保するべく、林彪長春攻略を命じた。
 中国内戦に於いて、長春攻防戦は遼瀋戦役の一部であった。
 5月 林彪は、力攻めでは甚大な被害を出すとして兵糧攻め作戦を命じ、最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。
 中国共産党軍には、国民党軍と互角に戦うだけの兵力がなく、むしろ劣勢であった。
 5月23日 中国共産党軍は、長春を包囲し、兵糧攻めを徹底する為に飛行場を占領して、空輸を遮断した。
 中国共産党軍占領地域と国民党政府軍占領地域との狭間には、チャーズ関門と呼ばれた鉄条網で区切られた緩衝地帯があった。
 中国共産党は、満州国の国民として日本軍に協力していた長春(新京)市民の思想改造を諦め、手っ取り早い解放手段として餓死させる事にした。
 中国共産党軍は、飢餓から逃れる為に市外に脱出しようとする市民達をチャーズ関門で追い返し、手持ちの食糧を早く食い潰させる為に市内に追い込んだ。
 包囲の間。中国共産党軍は、スパイなどで役に立つ人間の出入りを許し、それ以外の人間の出入りを禁止した。
 食糧などを運び込もうとする者は、理由の如何に関わらず即座に銃殺した。
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 6月 蒋介石は、面子に拘り、将兵や市民が全滅しようとも現地部隊の降伏を許可しなかった。
 そのくだらない中国人の面子によって、生き地獄が発生した。
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 国民党軍の鄭洞国は、市内の食糧不足に備えて、全市民に3ヶ月分の食糧以外は全て拠出する様に命じた。
 国民党軍兵士は、容赦なく食糧や物資を取り上げて、抵抗する者には制裁を加えた。
 国民党ば、長春市民を同じ中国人である前に旧満州国国民であり、日本軍に協力した売国奴の一味と見下していた。
 一般市民は、食糧を強奪される事に反発して暴動を起こすが、国民党軍によって鎮圧された。
 国民党軍は、部隊配備が中国共産党軍に漏れる事を恐れて、逃亡しようとする市民をスパイ容疑で捕らえ、見せしめとして銃殺し、市民が長春防衛線から出る事を禁じた。
 一般市民は、残された僅かな食糧を食いつないだ。
 足りなくなった者は、余裕の或る者を襲って食べ物を奪った。
 食べ物をめぐる犯罪事件が多発し、多くの死者を出した。
 女子供や老人など弱い者は、栄養失調で病気となり、餓死や病死した。
 国民党軍は、戦闘を優先して、市政府が要請する市民への食糧配給を拒否した。
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 中国には、軍国日本とは違って、兵士と市民が共に戦うという意志が希薄であった。
 ゆえに、日本は集団として全会一致が基本であり、中国は個人が尊重されて意見の相違が基本である。
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 儒教価値観では、祖先を崇拝する為に男子は如何なる手段を使っても生き残る使命があった。
 父親など成人男子を生かす為に、女や子供は真っ先に犠牲にされた。
 日本では、子供を助ける為に食べ物を与えて親あ痩せ細り、女性を助ける為に男は犠牲となった。
 中国は、子供が痩せ細って親が太り、女性は男の犠牲となった。
 日本は集団として神道的に生き、中国と朝鮮は個人として儒教的に生きていた。
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 7月下旬 蒋介石は、長春攻防戦の惨状が外国メディアに漏れる事を恐れて、人道的措置として鄭洞国に市民を長春から逃がすよう指示し、国民党軍に長春の救出を命じた。
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 8月1日 鄭洞国は、長春防衛の為の食糧節約策として、多くの市民達を長春から追放しする様に脱出させ、市内へのUターンを認めなかった。
 中国共産党軍は、包囲網を通過させるにあたって国民党軍兵士が混じっていないか詳しく調べていた。
 しかし。難民の数が増えて捌き切れなくなるや、多くの難民を中間地域に放置して閉じ込めた。
 飢餓で衰弱していた難民10万人以上は、建物もろくにない収容地帯に放り出され、食料や水も配られず野晒にされ、寒さ病気で餓死したといわれる。
 飢餓地獄から逃げ出す為にチャーズ関門に入った市民は、廻りを埋め尽くす死体に驚くまもなく先着していた市民達に襲われ、身包みを剥がされた。
 食べ物がない為に、少しでも生き長らえる為には腐った死体の屍肉を食べ、次に訪れる市民を皆で襲った。
 チャーズ関門内は、地獄の様相を呈し、死体の上に死体が積まれて山となっていた。
 長春市民達は、国民党軍と中国共産党軍によって虐殺された。
 チャーズ関門は地獄絵となり、一般市民は脱出を諦めて長春市内に立て籠もった。
 食糧の供給が立たれた為に、市内で飢餓が広がった。
 8月中旬 中国共産党軍は、飢餓民を餓死するに任せて放置しては今後の内戦に悪影響を及ぼすとして、一部の特殊技術を持った者のみをチャーズ関門から救出した。
 だが、技術を持たない者や能力のない者はお荷物であるとし、物は無用な人間として見殺しにした。。
 中国共産党軍難民処理委員会は、約15万人の飢餓民を地獄から救った。
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 中国は、実力至上主義や能力万能主義で、無能力者は生きる資格はないと見殺しにした。
 気弱な日本人では、想像できない酷薄な生き方である。
 朝鮮人は、弱者よりも強者に憧れるゆえに、ひ弱な日本人と違って中国人に近い。
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 8月後半 中国共産党軍は、さらに包囲網を縮めて追い込み、食糧不足となった市内での餓死者が急増した。
 鄭洞国は、軍人としての面子から、どれだけの餓死者の山を築こうとも降伏を拒否した。
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 中国人は、全てを犠牲にしても面子を大事にする。
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 日本では。大将は、部下や庶民を助ける為に、屈辱に耐えて降伏し、全責任を取って切腹して果てた。
 中国では。大将は、屈辱に耐えきれず、名誉を守る為に、幾千万の部下や人民を犠牲にしても生き残ころうとした。
 中国人の面子とは、自分のみの利得感情にすぎない。
 他人が眼中にないだけに、他人がどれだけ死のうがどうなろうとも、自分に関係しなければ無関心である。
 ゆえに、中国人気質は「砂」に例えられる。
 中国のナショナリズムも、こうした中国人特有の面子が基底にある。
 世界のナショナリズムと中国のナショナリズムは、本質的に異なる。
 単純思考の日本人は、その違いが理解できない。
 日本の死生観では、身内はもとより、赤の他人の死でも自分の事の様に悲しみ、声を殺して涙を流す。
 中国の死生観では、身内の死は大声で泣き転げ回るって身悶えするが、赤の他人の死には冷淡である。
 だが。自分の利益に得になると分かるや、見境なく泣き喚き、半狂乱となって暴れ回っておこぼれにありついた。
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 9月 長春市内に餓死者が溢れるや、飢えた人々は、死人はおろか生きた人間を殺して肉を奪って食べた。
 商魂逞しい中国人は、犬・猫の肉はおろか、人肉をも売って儲けた。
 中国人は、飽くなき欲望のままに生きる為に、何事にも動じない強靱な精神力を持っていた。
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 大陸の人間は、生きる事に異常なまでに執念を燃やし、生き延びる為なら如何なる手段をも講じて、正当防衛として当然の権利の様に他人を殺した。
 無常観で生きる日本人は、他人を犠牲にする事を嫌って運命・定めとして受け入れ、淡泊となって直ぐに諦め、生きる事に絶望してアッサリと死んだ。
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 10月 鄭洞国は、包囲突破を試みるが失敗した。
 10月17日 中国共産党軍は、福満ダムを爆破して長春への送電を切断した。
 長春に冷たい北風が吹き始めたが、暖を取る薪は食糧の煮炊きで使った為に不足し始めていた。
 10月中旬 中国共産党軍は、かっての日本軍同様に錦州を攻略して、旧満州支配下に置いた。
 国民党軍は、学ぶ事をしないせいか同じ過ちを犯して、長春篭城軍の救出は絶望的となった。
 10月19日 鄭洞国は、錦州陥落の情報を得るや、これ以上の籠城は無意味として中国共産党軍に投降した。
 中国共産党軍は、長春に入城して、150日に及ぶ包囲戦は終了した。
 市内の到る所に餓死者や病死者の山が築かれ、数多くの餓死寸前の市民が生気なく彷徨い、市内は死臭漂う生き地獄となっていた。
 他人の死に慣れきっている中国人にとっては、見慣れた光景にすぎずで、何らの感慨も感じなかった。
 有り触れた地獄の様な光景に恐怖していては、非人間的苛酷な中国社会では生き残れなかった。
 難民処理委員会は、市内にいた約17万人の一般市民を保護した。
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 中国共産党内には、亡命していた日本人共産主義者が帰国せずに残っていた。
 当然。日本人共産主義者は、この傷ましい餓死者を出した長春籠城戦を知っていた。
 彼等は、歴史の生き証人として全ての事を知っていた。
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 同じ様な光景が、現代の北朝鮮にある。
 共産主義体制の北朝鮮では、共産党幹部や軍高級将校ら特権階級は贅沢をして肥満しているが、人民は飢えて痩せ細っている。
 人民は奴隷の様な境遇で、何時終わるとも分からない共産主義体制下で、「暴力と死」という恐怖と共に生きている。
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 約3,000人の日本人居留民からも多くの餓死者を出したが、実数は不明である。
 中国人にとって、憎き侵略者であった日本人居留民の生死など関心がなかった。
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 鄭洞国らは、毛沢東個人の命令で中国人民解放軍のポストが与えられた。
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 長春市民12万人以上が餓死したが、国民党も共産党も共に責任は相手にあると擦り合っている。
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 同様の屠城作戦は、国共内戦中において長春市以外の全国各地でも実施され、多くの住民が虐殺された。
 中国人は、同じ中国人を虫けらの様に踏みつけて虐殺した。
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 何時の時代でも。中国の公式数値は、発表する者の意図で如何様にでも改竄され水増しされる為に、正確な数値は不明である。
 政治的なモノになればなるほど、その数値は嘘に近い。
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 何時の時代でも。中国の指導者にとって、人民とは殺しても殺しても湧いてくる働き蟻であり、虫けらの様にあしらって踏みつぶしても痛痒を感じなかった。
 それが。真の正統派儒教である。
 未だかって、儒教による王道楽土の平和な社会が出現した事がない。
 もし有ったとしても、4000年の歴史の中でほんの短期間に過ぎず、マッチの灯火の様に点いても一瞬で消えっていた。
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 昔の万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の日本は、複雑を複雑として正確に理解できただけに、面子に拘る中国を嫌い、商売をしても人間と親しく近づこうとはしなかった。
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 日本の兵糧攻めと中国の兵糧攻めとは、本質から異なる。
 中国の兵糧攻めは、人口が多い為に敵の根絶やしが目的であった。
 敵を皆殺しにして土地を奪い、忠誠を誓う人間を入植させる。
 日本の兵糧攻めは、人口が少ない為に敵を殺さないのが目的として、敵の領主・城主・大将一人を自害させて、多くの敵兵や領民を助けた。
 中国では、敵の将軍に才能があり優秀であれば、数十万人・数百万人の敵兵や領民を幾ら虐殺しても彼一人だけを助けた。
 人口が腐るほどいるいる中国では、数百万人・数千万人の無能で役立たずな小人・庶民などより、今いる一人の有能な役に立ち聖人君主が大事にされた。
 中国では、助けられた将軍は、家臣や領民が皆殺しにあっても、自分の才覚を認めてくれて自分一人を恩情で助けられた事に感激し、敵の君主に忠誠を誓い忠勤に励んだ。
 日本では、大名や領主・城主は、有能であればあるほど刀折れ矢尽きて戦えなくなったら降伏し、家臣や領民の命を救う為に潔く自害した。
 日本の家臣や領民は、自分の大名や領主・城主が最後には自分達を助ける為に降伏して自害する事を知っていたがゆえに、忠誠を誓って、逃げる事なく踏ん張って最後の最後まで戦った。
 人口が極端に少ない日本では、天才的な一人より平凡な数万人・数十万人を大事にし、数十人数百人の秀才を育てた。
 日本の忠誠と中国の忠誠とは、本質で異なる。
 同時に。国に対する思いも、日本人と中国人とは正反対に異なる。
 それゆえに、中国は儒教を必要としたが、日本は儒教を必要としなかった。
 儒教が優れた教えであれは、中国の歴史は世界一素晴らしい歴史であり、中国人は平和で満ち足りた一生を送ったはずである。
 中国には、実生活で儒教的な所は一つもなく、あるのは実を伴わない教養としての言葉の上に過ぎない。
 中国の歴史は大虐殺の歴史であったが、日本の歴史には皆無に近いほど虐殺が少ない。
 中国の歴史や常識で日本を説明しようとする知識人・専門家は、信用すべきではない。
 中国に於いては、人の命は虫けら以下で、何ら価値を認めなかった。
 日本では、一寸の虫にも五分の魂とし、人の命は更に尊いとしていた。
 日本と中国は、水と油の如く異なる。
 朝鮮は、歴史的事実として中国に近かった。
 ゆえに。朝鮮は、日本と本質で異なる。
 日本と中国は意味を異にしながらも戦ったが、朝鮮は戦わず助け合わず我先に蜘蛛の子を散らす如く逃げた。
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 中国の常識では、武器を持って戦わない者は殺される事を承知して抵抗しないと見なされている。
 中国の歴史では、勝者・強者は、抵抗しない者を弱者・敗者と見下して重税を課して搾取し、生きる資格さえ求めず嗜虐的に惨殺した。
 中国の儒教は、勝者・強者の徳を称える為に存在していた。
 勝者・強者を君主とし、敗者・弱者を小人と区別し、小人とは百姓や町人などの庶民の事である。
 庶民とは、武器を持って戦う者ではなく、無抵抗な者の事である。
 勝者・強者は、ある時は漢族であり、ある時は異民族である。
 庶民にとって、勝者・強者が漢族であれ異民族であれ関係く、誰が暴力で勝ち残ろうとも気にはしなかった。
 事実。漢族の勝者・強者は、漢王朝以降では宋王朝明王朝しかなく、あとは異民族の征服王朝である。
 中国のナショナリズムとは、そうした社会で生まれた。
 中国の勝者・強者は、抵抗しない者を楽しんで虐殺していた。
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 2016年1月12日 産経ニュース「【満州化物語(14)】なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実
 新京にあった満州国陸軍軍官学校本部(「同徳台第七期生史」から)
 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。
 前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は、約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪えるだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。
 「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍の方。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。
 そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。
 新京にあった満州国陸軍軍官学校本部(「同徳台第七期生史」から)
 ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。
 満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。
 今さらヨソの戦争に
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
 西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。
 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」
 新京にあった満州国陸軍軍官学校本部(「同徳台第七期生史」から)
 支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。
 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」
 最初の冬を越せずに
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。
 零下40度、50度にも下がる酷寒の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20年〜21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。
 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。
 新京にあった満州国陸軍軍官学校本部(「同徳台第七期生史」から)
 「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」
 前年の冬に旧制中学などを出て満州へ来たばかりの7期生の体はまだ子供並みといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理と見たのか、小池ら7期生は掘った石炭を有蓋(ゆうがい)貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとて辛い重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大みそか。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。
 母を思い逝った友
 それは「悲劇」の序章に過ぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になりきっていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢が止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。
 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」
 新京にあった満州国陸軍軍官学校本部(「同徳台第七期生史」から)
 小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」
 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。
 「おかあさん…」
 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。
 ブカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。
 一方、新京の最前線にいる西川は連れて来られた「部下」を見て驚く。彼らもまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回に書く。=敬称略、隔週掲載。(文化部編集委員 喜多由浩)
   ◇
 満州国
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。」
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 1月17日 産経ニュース【満州化物語(15)】終戦翌年、中国の内戦に…「満蒙開拓義勇軍」の日本人少年が駆り出された背景とは?
 新京にあった満州国陸軍軍官学校(「同徳台第七期生史」から)
 終戦から約8カ月が過ぎた和21(1946)年4月、満州国の首都だった新京(現中国・長春)をめぐる中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)の攻防戦が始まった。
 日本人の引き揚げはまだ始まっておらず、新京の知人宅に身を寄せていた満州国陸軍軍官学校7期生で、17歳の西川順芳(のぶよし)(87)は中国人同期生に引っ張り出され、国民党軍の少尉(小隊長格)になることを余儀なくされてしまう。
 西川は、自分の小隊の兵士として連れてこられた約60人の素性を知って驚いた。彼らも満蒙開拓青少年義勇軍=〈文末別項参照〉=の日本人少年だったからである。つまり、指揮官(西川)も兵士も「全員が日本人」だったわけだ。
 少年らは15、16歳。東北や北関東の農家の次男坊、三男坊が多かった。満蒙開拓団に加わるため、大望を抱いて渡満して間もなく終戦となり、ソ連軍(当時)侵攻後に国境付近から命からがら逃げてきたらしい。
 「僕(17歳)よりも年下で体も顔もあどけなく、本当の子供だったね。軍服などなく、開拓団の作業服みたいな格好そのまま。ただ、軍事訓練も受けていたから小銃の扱い方ぐらいは知っていたんです」
 なぜ中国の内戦に、開拓義勇軍の日本人少年までが駆りだされたのか?
 西川への参加要請は当時、国民党軍の主力が依然、南方にいて兵力、特に指揮官が不足していたからだ。西川は「重慶から来た少尉」という触れ込みで日本語の使用を禁じられ、中国語で指揮を行うことを命じられる。同様に国民党軍に加わった日本人の国軍・軍官学校出身者は複数いたが、先輩のひとりが日本人勧誘の“仕掛け人”だったことに気付く。
 新京にあった満州国陸軍軍官学校(「同徳台第七期生史」から)
 「少佐クラスの元満州国憲兵(日本人)で中国語はペラペラ、かねて満州国軍の満系将校とのつながりも強かった。私や義勇軍の少年を引っ張ってきたのは彼のアイデアでした。少年たちは食べ物にも事欠く避難生活だったから、この“仕事”に飛びついたんでしょう。軍隊に入れば飢えることはありませんから」
 敵方部隊にも日本人兵
 西川と開拓義勇軍の少年約60人による日本人部隊には旧日本軍の三八式小銃と1人80発の弾が支給され、新京駅近くの最前線の守備に就かされた。
 21年4月10日、夜明け前。突然、向かい側のビルの屋上から、西川らが土嚢を積んだ陣地に向けて擲弾筒(てきだんとう)が発射された。数発が着弾し、轟音を立てて炸裂したのを目の当たりにした少年たちは脅えたように震えている。まだ10代半ば、実戦経験などない。
 周囲が明るくなったころ、駅方面から別の轟音が聞こえてきた。その光景を見て西川は腰を抜かす。戦車1両と、黄色っぽい八路軍の軍服を来た20人ほどの兵隊が見えたからだ。
 「八路軍には戦車などない、と思っていたからね。よく見ると、それは日本軍の軽戦車だった。おそらく途中で鹵獲(ろかく)したのでしょう。(八路軍には)戦車を動かせる人間もいないから、操縦する日本兵ごと奪ったのだと思います」
 指揮官の西川とて、1年半ほど前に満州に来たばかりの17歳の少年である。戦車の登場に中国人のふりも忘れて、思わず日本語で絶叫していた。
 「解散だ! 逃げろ!」
 義勇軍の少年60人は、戦車を見て、くもの子を散らすように逃げた。それっきり消息はわからない。
 新京にあった満州国陸軍軍官学校(「同徳台第七期生史」から)
 同じ日、内地では女性に参政権が与えられて初めての総選挙が行われている。復興の槌音(つちおと)が高らかに響いていたころに満州ではまだ、日本人が中国の内戦を戦わされていたのだ。
 「最年少」の収容者
 そのころ、軍官学校の同期生のほとんどがシベリアの収容所へと送られ、地獄の底のような苛酷な環境で重労働を課せられていた。最初の冬(昭和20年〜21年)を越せずにバタバタと死んでいったことは、前回も書いた通りである。
 茨木治人(はると)(89)は約80人の同期生とともに、バイカル湖に近い、イルクーツクの収容所へ送られ、鉄道建設工事に就かされた。「(同期生は)まだ17、18歳でしょ。回りを見渡してもそんな年代はいない、収容者の中でも一番幼いわけです。体力がなくて栄養失調になり、下痢が止まらなかった。同期生が一緒におり、励まし合えることはせめてもの救いでしたね」
 茨木は旧制浜松一中の出身。赤い夕日と広大な大地に憧れ、母親の反対を押し切って満州へ来たが、わずか8カ月で終戦。そのままシベリアへ抑留されてしまう。約370人同期生のうち、抑留で非業の死を遂げたのは80人以上。皆まだ10代の少年だった。
 戦後、茨木はシベリアでの遺骨収集に参加。今も語り部として祖国への帰還を果たせなかった同期生の無念を伝え続けている。
 軍再興の「夢物語」
 新京における「国・共の内戦」はあっけなく終わった。2方面から入城してきた八路軍はたった2晩で新京を制圧。国民党軍に加わった日本人将校の中には戦死者も出た。
 彼らの中には、国民党軍と手を取り合い、満州に残っていた国軍や軍官学校出身の日本人を集めて、もう一度、軍を再興しようという「夢物語」を描いていた者までいたという。
 新京にあった満州国陸軍軍官学校(「同徳台第七期生史」から)
 17歳の「国民党軍少尉」西川は、八路軍の追っ手を気にしながら、急いで「中国人」から「日本人」へ戻らねばならなかった。
 「申し訳なかったが、日本人居住区の住宅で“強盗”を働いた。拳銃を突き付けて背広と靴を要求。僕は軍服のままだったから相手は国民党軍の敗残将校だと勘違いしたでしょうね」
 背広姿に着替えた西川は公園の池につかって隠れながら何とか八路軍をやり過ごす。「国民党軍少尉」はたった3週間で終わり、手元には支度金の1千元(米半年分)がそっくり残っていた。=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
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 満蒙開拓青少年義勇軍
 満州経営の先兵となるべく内地から移住した10代半ば−後半の若者で構成され、昭和13年から20年までに約8万7千人が参加した。多くはソ満国境付近の辺境に入植した開拓団に入って、農業や警備に従事した。末期には「戦時要員」として関東軍や勤労挺身隊にも派遣された。ソ連軍との戦闘や自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人。満州全体の邦人死亡率(1割強)に比べても高い。」
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