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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国共産党やソ連にいた日本人の共産主義者やマルクス主義者達は、ロシア人・中国人・朝鮮人らに虐殺される日本人を軍国主義者、ファシスト、天皇主義者、戦争犯罪者として見捨てた。
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2014年12月4日 西日本新聞「【引き揚げの苦難】迫る死線「あなたがいたから生きた」
朝鮮からの復員兵を満載して博多港に接岸する旧日本軍の上陸用舟艇(1945年10月18日)。岸壁に帰国を待つ朝鮮人たちが見える=写真集「福岡100年」(西日本新聞社刊)より
戦争は終わったのに、平和は訪れなかった。戦時中、日本はアジア・太平洋地域に支配地を拡大。それとともに多くの日本人が海外で生活した。1945年の終戦時、その数は軍人、民間人合わせて700万人近く。終戦直前にソ連軍が侵攻した旧満州(中国東北部)や樺太(現サハリン)では、戦闘の犠牲になったり、逃避行の中、感染症や飢餓に見舞われたりして、多くの命が奪われた。国や地域によって状況は異なるが、それぞれに引き揚げの苦難があった。命懸けで祖国に戻った人々。その証言からは、戦争が引き起こす悲劇の実像が伝わってくる。
松下 矩子さん(75)の証言
皆殺しになるから、とにかく逃げようって。真夏に、ありったけの服を着せられ、ありあわせでぶかぶかの長靴を履いて歩きました。ものすごく暑くて、泥水が入って足が痛かった。
〈終戦時、6歳。ソ連との国境地帯。中国黒竜江省ハルビン市に近い方正(ほうせい)県に母、幼い2人の弟といた。旧満州に入植した開拓団向け学校の教員だった父は1週間前にあった青壮年層の根こそぎ動員で不在。8月9日にソ連軍が参戦すると、日本軍は撤退し、女性、子ども、高齢者だけが残された〉
昼間は見つからないようにコーリャン畑に隠れ、夜歩いて気配がすると伏せるんです。心臓の音が相手に聞こえないかとハラハラしました。ソ連兵が銃剣を地面に突き刺して通った後には、仲間のために悲鳴を上げるのを我慢して亡くなった人の遺体がありました。
赤ん坊が泣きだしたことがあります。「黙らせろ」と声がして、やがて長い髪の女の人が隠れ場所からふらふらと離れていきました。「どうしたの」と聞くと、母は言いました。「気が狂ったの。おっぱいを押し付けて死なせちゃったの」
〈凄惨(せいさん)な独ソ戦を戦ったソ連兵が転戦し、略奪、強姦(ごうかん)が横行。女性には自殺用の手りゅう弾、青酸カリが配られた。中国人の襲撃もあり、絶望した人々の集団自決、親子心中が相次いだ。旧満州では約25万人が死亡し、民間人の犠牲は広島原爆や沖縄戦より多いとされる〉
歩いていく道のそばに、力尽き、うじが湧いたおばあちゃんや、親に置いていかれてぼうぜんとした子どもがいました。何も感じられず、黙って歩き続けました。
〈行く手を阻まれて引き返し、短くなった列は半月後、方正県に戻った。人々は自宅を出て、隔離病棟跡で暮らした。厳しい冬に暖も取れず、飢えに加え、はしかが流行した〉
きょうだい3人とも寝込みました。ある朝起きると、水を含ませた脱脂綿を末の弟の口に付けるようにと、母が手渡しました。末期の水はすぐに上の弟にも付けてあげました。
なけなしの服でくるんだ弟たちを埋葬に行った母は戻ってくると言いました。「凍った土が掘れずに置いてくるしかなかった。何としても日本に帰るのよ。あなたが生きて帰らないならお母さんも死ぬから」
〈日本人の子どもを売るために、中国人がさらいにきた。わが子をお金や食料と交換する親もいた。周りの子どもがいなくなった〉
さらわれそうになったとき、母は中国人の服をつかんで離しませんでした。根負けした相手は、母子一緒にお金持ちの家に連れていき、しばらく過ごしました。私を跡継ぎの嫁にしようとしていたらしいのです。あの時、母が手を離していたら私はここにいません。
〈1946年夏、解放された母娘は、中国・葫蘆島(ころとう)を経て長崎県の佐世保港に引き揚げた後、父の古里・福岡県築上町に向かった〉
「ここまで頑張ったから死んじゃだめよ。着いたら好きな卵をいっぱい食べさせてあげる」。繰り返された母の励ましでした。栄養失調で私は歩けなくなっていました。たどり着いたのは真っ赤な彼岸花が咲き誇る町。10月28日、それは弟たちの命日でした。今も赤い花は好きになれません。
〈47年、シベリア抑留から父も帰国。その父の希望で教員になった〉
平和教育は、いつも原爆、沖縄がテーマ。確かに本土の人たちも大変だったでしょうけれど、被害体験が強調されていないかなと思う。旧満州では土地を奪い、住民を牛馬のように使っていました。敗戦で日本人が略奪に遭う光景に、仕返しされるのも仕方ないと子供心に思っていました。
校内放送で生徒に戦争の話をすることになったとき、校長先生には反対されましたが、体験を語りました。教室に戻ると子どもたちが泣きながら「本当の話?」と聞いてくれました。そして「先生も泣きよったやろう」って。
〈寝たきりの母を自宅介護でみとった〉
介護しながら母と話しました。現地に置いていかれたり、お金と交換されたりした子どもたち。その親の気持ちを母は思いやっていました。「決して鬼みたいな気持ちじゃない。飢え死にするよりは、と思ったのよ」。そして何度も言いました。「あなたがいなかったら私は生きてなかった」
〈庭に旧満州から持ち帰った食用ホオズキが毎年生える〉
大変な中、どこに隠してたんでしょう。母は「戦争に負けたから甘いものなんてないでしょう」って、私のために持って帰ったのです。ここでは黄色く熟さないけれど、甘酸っぱい味がします。
(福岡県築上町)
旧満州
1931年に始まった満州事変によって日本が占領した中国東北部をいう。日本は32年、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政としたかいらい国家の満州国を建設。溥儀は帝政移行後に皇帝となった。日本政府は全国の貧しい農村から移住者を募り、「満蒙(まんもう)開拓団」として27万人の開拓移民を送り込んだ。45年8月9日にソ連軍が侵攻した際には、多くの民間人が犠牲になった。さらに日本兵や民間人がシベリアなどに抑留されたほか、親とはぐれるなどして現地に取り残された子どもたちが残留孤児となるなど、戦後に多くの問題を残した。
=2014/12/04付 西日本新聞朝刊=」
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2017年8月15日 産経新聞「73回目の夏に語る「満州引き揚げ」 略奪や虐殺、いまだ止まらぬ涙 群馬
□4歳の妹が途上で病死 下仁田の佐藤和江さん(81)
15日、日本は終戦から72年を迎える。長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた下仁田町の佐藤和江さん(81)が73回目の夏を前に、あまり公にしてこなかった体験を語った。
◇押し寄せる朝鮮人
昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子(だいりっし)で玉音放送を聞いた。
「日本が負けるなんて」
2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒(こんぼう)やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった。
日本人一行が身を寄せた大栗子の施設には満州国皇帝、溥儀もいた。佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった。新京駅で南満州鉄道自慢の特急列車「あじあ号」に乗り込むときの光景を、佐藤さんは鮮明に覚えている。
「8月上旬、父から『夕方に新京をたつ』と連絡があり大急ぎで荷物をまとめ新京駅へ行くと、大勢の人でごった返していて『乗せてくれ』と頼んでいた。動き出す車窓から残された日本人を見て、子供ながらに心が痛んだ。あの人たちはどうなったのかなって」
佐藤さんが長年、満州での体験について口を閉ざしてきたのも、このときの後ろめたさからだった。
◇女をさらうソ連兵
あじあ号で大栗子まで来たものの線路が破壊されて先に進めず、終戦を迎えた。あとは歩くしかない。同胞と関東軍司令部のあった通化を目指した。6人だった佐藤さん一家は父がリュックの上に当時4歳の弟を背負い、母が3歳の妹を背負って7歳の弟の手を引いた。佐藤さんはリュックを背に、父の手を握った。
途中、満州国の紋章をつけた朱塗りの車や馬車の装飾品を戦利品のように積んで通り過ぎるソ連軍に遭遇した。宮内府職員は泣きながら見送った。長い行程、重さに耐えかね荷を捨てる人も相次いだが、周囲には常に現地人が取り巻き、全部持ち去っていった。
日本人のいた宿舎に落ち着いた際は連日、ソ連兵が空砲を鳴らして女性をさらいに来た。若い女性は男装のうえ地下に隠れ、大柄だった佐藤さんの顔を母は真っ黒に汚した。徒歩や無蓋列車で動く道中、亡くなった3歳の男児を離さない母親がいた。死臭が漂い説得して埋葬したが、母親は狂ったように泣き続けた。
◇通化事件で父も拘束
ようやく通化に着くと、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍との市街戦が起きていて、室内にいても飛び交う銃弾の「ヒュン」という音が聞こえた。身を縮めて過ごしていた21年2月、通化事件が発生し、父が八路軍に連れ去られた。
通化を占領した中国共産党の横暴に対する日本人の蜂起、そして鎮圧、その後拘束された日本人らへの虐殺事件。16歳以上の男性は拘束され、佐藤さんの父は民家にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、騒ぐ者は容赦なく銃弾を浴びた。父は3日後に解放されたが、防空壕(ぼうくうごう)に収容された人々は窒息死した。遺体の服は中国人に持ち去られ、カチカチの遺体は川に山積にされた。犠牲者の総数は2千人とも3千人ともいわれる。
そんな中、妹が病死する。突然、発熱し父が必死に探した日本の薬を飲ませたが、1時間後に息をひきとった。21年5月24日午後9時、まだ4歳だった。
「小学2年の弟と一緒に土葬しに行き、日本に引き揚げるときに遺体を掘り返し、燃やして残った遺骨を持って帰ってきました。遺骨は本当に小さかった」
◇もっと大変な人々も
ようやく大陸を後にするのは同年10月。葫盧(ころ)島(現・中国遼寧省南西部)から長崎の佐世保へ。貨物船で約2週間、見えてきたのはソ連兵に狙われることもなく、ナタを持った朝鮮人や中国人に追われることもない日本人だけの国だった。
「貨物船からポンポン船に移って見えた日本の山、海は本当にきれいだった。こんないい国はないです」
9歳まで過ごした満州は水洗トイレなども完備された先進的な大地だった。
「良い思いもしたけど、とても怖い思いもした」
今も外国に行くと夜、外出することができない。ただ戦中の日本は各地で大空襲があり、広島と長崎には原爆が投下された。満州でも混乱の中、男たちをシベリアなどに奪われ、命からがら逃げてきた満蒙開拓団や残留孤児たちもいる。
「その人たちは、もっともっと大変だったんです」
毎年8月になると、6日と9日、そして15日はテレビの前にくぎ付けになる。
「夫には、また泣いているとからかわれる」と言いつつ、涙が止まらない。
◇広さ日本の3倍 民間邦人155万人生活
満州国は旧日本陸軍の関東軍による満州事変から半年後の昭和7(1932)年3月、建国された。現在の日本の約3倍に当たる広大な地に新しい国を作るという壮大な試みで、順調な経済発展を遂げ、中国人や朝鮮人らをひきつけるフロンティアともなった。
しかし20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦布告し満州などに侵攻、日本が敗れ13年5カ月で消滅した。終戦当時、満州在住の民間邦人は推定約155万人。うち引き揚げたのは127万人で、軍民合わせて約24万5000人が命を落とした。
戦後ソ連に強制連行された日本の将兵らは、約60万人。強制労働を課され、1割近い6万人以上が栄養失調や重労働により、極寒の地で死亡した。満蒙開拓団の総数は約27万人。多くがソ満国境に近い辺地にいた上、情報伝達も遅れたためソ連軍や匪賊に襲われた。伝染病や集団自決などを含め約8万人が亡くなった。」
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【終戦時、満洲日本人人口・犠牲者】 (96・5、中国帰国者問題同友会)
☆[死亡者] 総数20万名に達すると推定 (厚生省-『続々・引揚と援護の記録』[S38]-P268)
(日ソ戦闘期間中-軍人軍属2万6千名以上、邦人3万名以上。 終戦後-軍人軍属、邦人約14万名)
(国境の戦闘-軍人・軍属約2万5千、邦人約1万。 各地の混乱、疫病、食糧難-軍人軍属・邦人17~8万)
[行方不明] 3万余名も大部分死亡か (厚生省-『同』-P187~189)
(「戦闘直前から終戦1、2年後までの期間中に消息を絶った3万余名のいわゆる状況不明者」 の大部分が、今日においては死亡につながる ものと考えざるをえない・・・』
[国際結婚者・孤児=<消息のある者>] 約2.100名(S30・7調)
☆ 終戦前後 死亡者= 24万5千人 (日ソ戦闘間 6万、終戦後 18万5千) (厚生省-『引揚と援護30年』[S52]ーP197)
☆在満洲・関東州邦人=155万人 昭20・6以降関東軍召集=15万人 『援護30年』-P89
[註、所謂根こそぎ動員、しかし6月以前から逐次召集されていた]
◇在満日本人数=166万人('44・9,含関東州、除軍人・軍属・家族) 145万人('46・5,同)
死亡者数= 17万4022人 (終戦~'49)、 ['50年以降死亡者、行方不明 約3万] 『満洲国史・上』-P784
◇満洲国・関東州人口=1.662.234人 『満蒙終戦史』-P441
満洲国=1.433.324人(除軍人、軍属、家族。含開拓団) ['44・9,満洲国政府調査]
関東州= 228.910人 ['45・6,関東局調査]
開拓団=196.739人-['45・5,満州国国勢調査、]、 満洲国・関東州人口=1.549.700人 ['45・8・9,日ソ開戦時推定]
死亡者=180.694人 ('45~'49) (長春市-27.669、 奉天市-30.443、 哈爾浜市-15.157、
奉天省-12.353、 旅大地区-16.036 ) 死亡・行方不明=約3万人('50~)
◇終戦時 在満邦人=155万人 [外務省]-『満洲開拓史』-P436
内開拓団=在籍者27万(17%) =内応召者4万七千、実在22万3千(14%)
死亡者= 17万6千人 内開拓団= 8万(45%) =内戦死・自決 1万1520
☆引揚開始時 人口('46・5)=136万1千人 (日本人救済総会調査) 『満洲国史・上』-P810
(大連地区-275千、国府地区-808、中共地区-277、<内訳・北満国境-172、老爺嶺以西-36、通化方面-18、本渓湖西側-51>)
<資料>
『引揚と援護』-引揚援護廳、昭25。 『引揚と援護30年の歩み』-厚生省援護局、昭52。 『満蒙終戦史』-満蒙同胞援護会、昭37。
『満洲開拓史』-刊行会、昭和41。 『満洲国史・(上・下)』-満蒙同胞援護会、昭45。 『満ソ殉難記』-満ソ殉難慰霊顕彰会、昭55。
◎第二次世界大戦総被害
☆ 第二次世界大戦死亡者(含 日中戦争) (厚生省-『引揚と援護30年』 [昭52]-P31
1)総計 約 310万人 (内 軍人軍属、準軍属 約 230万、 外地一般邦人 約 30万、 戦災 約 50万)
(内 満洲 245.400、 北朝鮮 34.600 = 軍人軍属、一般邦人)
◎ 沖縄県被害 (死亡) (沖縄県生活福祉部援護課-昭54)
住民 94.000
軍人軍属 94.136
合計 188.136
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引揚者とは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が大東亜戦争(太平洋戦争および日中戦争)で連合国に降伏したことを受け、日本の外地・占領地または内地のソ連軍被占領地に居住ないし移住していた民間の日本人のうち、日本の本土(内地)へ帰還(引き揚げ)した者を指す。「引揚者」に該当する者の範囲は引揚者給付金等支給法(第2条第1項)や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(第2条第1項)によって規定され、「引揚者」に認定された者はこれら法律に基づく給付行政の対象とされた。
敗戦時点で海外に在住する日本人は軍人・民間人の総計で660万人以上に上り、引揚げした日本人は1946年末までに500万人にのぼった。だが、残留日本人の詳細な数や実態については現在も不明である。
ソ連軍占領下地域
1945年(昭和20年)8月9日から樺太、満州、朝鮮半島へのソ連侵攻がはじまり、1945年8月15日のポツダム宣言受諾により日本軍が武装解除した終戦の日以後もソ連軍は進攻を続けた。
樺太
樺太侵攻においては8月22日に樺太からの引揚船小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸などを国籍不明の潜水艦が攻撃し沈没、1700名以上が死亡した三船殉難事件が発生した。国籍不明の潜水艦はのちにソ連軍のL-19であることが発覚した。なおソ連軍の潜水艦L-19も原因不明だが沈没している。
満州、朝鮮北部
祖国(内地)を目前に斃れた引揚者の葬儀
満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。日本から多数の入植者が送られていた満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面、治安の著しい悪化等から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる。
朝鮮半島の北緯38度線以北にいた日本人は、引揚事業の費用負担をソ連のどの省が負うのか責任の先送りの間に栄養失調や飢えや病気で約5万人以上が死亡した。また、20万人が自力で北緯38度線を越え釜山経由で日本へ帰国した。
日本人住民への略奪・強姦・虐殺行為
「麻山事件」、「小山克事件」、「葛根廟事件」、「牡丹江事件」、「敦化事件」、および「乙女の碑」も参照
ソ連軍占領下の地域では、ソ連兵や中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍や朝鮮保安隊、および暴徒化した現地住民の朝鮮人による日本人住民への暴虐行為や拉致があった。
米田建三は、婦女子の強姦は有史以来、戦争には付き物とされるも、先の大戦での満州・朝鮮における日本人婦女子の強姦は度を越して凄まじいものであった。朝鮮人・朝鮮保安隊のレイプは残虐を極め、強姦・婦人の要求は「報い」として甘受できる被害とはとうてい言えるものではなく、ベルリン等ドイツ全土では200万人のドイツ女性がレイプされたと推定されるが、朝鮮人、朝鮮人の保安隊に犯される様はベルリン同様と述べている。
ソ連兵は規律が緩く、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為をおこなったと言われており、強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている。夫の前でソ連兵にレイプされ、青酸カリで自殺した婦人もいた[6]。興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」とわめき、女性を発見すると暴行した。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った[6]。 また一部の満蒙開拓団では、未婚女性らを性接待係としてソ連兵に差し出すことで、ソ連への庇護を求めた。
また、中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで1946年2月3日の通化事件のような事件が起きた。引揚列車に乗車後、乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた。
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズによる自伝的小説『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』でも被害が記載されている(韓国では発売禁止)
シベリア抑留
ソ連占領地からの引き揚げの遅れは、ソ連が日本人捕虜をシベリア開発に利用しようとしていたこと、満州地区が国共内戦で政情不安定だったということ、などが影響したと見られている。関東軍の軍人とともに民間人の一部もシベリア抑留の対象となり、強制労働に従事させられた。
在満朝鮮人の引揚げ
1945年6月時点で在満朝鮮人人口は2,163,115人とされ、また実際には230万人いたともいわれる。終戦後、在満朝鮮人は引き揚げを開始し、1946年まで714,842人が、1947年までには80万人以上が朝鮮へ帰還した。
終戦前に引揚げた朝鮮人もおり、その引揚げの理由について国民党の袁常恩は「ある韓僑(朝鮮人)は一貫して悪い行為をして国人(中国人)の報復を恐れ、ある韓僑は資産がかなりあって治安の未回復を心配し、ことに祖国の光復を憧憬」したためと述べている[12]。
土匪による襲撃
満州の土匪は1945年11月に国民党軍が同地へ進出して以降、1946年5月にソ連軍が撤収するまで「朝鮮人は日本鬼子の共犯」として虐殺を行った。
1945年8月22日、大連付近の村では日本人とともに朝鮮人も襲撃され、1945年11月には汪清県羅子溝でも朝鮮人が虐殺された。
国共内戦
国共内戦が再開すると1946年、長春を占領した中国共産党東北局および朝鮮人部隊(東北民主連軍吉遼軍区第一旅団第一団、兵力2000)と国民党軍が戦闘、中共軍は撤退すると、1946年5月23日に長春で朝鮮人兵士らが虐殺された。
1946年5月にソ連軍が撤収を開始すると、東安(現黒竜江省密山市)の郭興典土匪部隊は5月14日、東鮮、東明、東興の朝鮮人村を殲滅させ、5月26日には東安城で「朝鮮人の種を無くす」といいながら数百人の朝鮮人が大量虐殺された。北満州の牡丹江の朝鮮人村オハリムでは朝鮮人は「二等公民」として全滅させられた。5月28日には吉林省で国民党軍が「高麗人は皆共産党で八路軍」であるとして朝鮮人に強制労働を強いたり婦女暴行を行った。
1946年12月に中共軍の周保中は「延辺朝鮮民族問題」という演説で「中国人は三等国民だったから、解放当時、一般的に報復心理が存在した」と述べた。
残留朝鮮人
中国共産党は1946年から1948年にかけて在満朝鮮人を満州に定着させるために帰農運動を展開し、土地配分などを行い、残留した朝鮮人も多く、また朝鮮人日本兵として出征していた子の帰還を待つため残留した朝鮮人もいた。1951年時点で中国朝鮮族は1,068,839人となった。
在満台湾人
また、満州国政府には多くの台湾人が官吏として採用されていたため(新京市長は台湾人)彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本では殆ど語られていない。
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引き揚げ(ひきあげ)とは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が第二次世界大戦で連合国に降伏したことを受け、日本の外地 や日本軍占領地または内地のソ連軍被占領地 に生活基盤を有する一般(民間)日本人が日本の本土(内地)へ戻されたことをいう[1][注釈 4]。引き揚げの対象となった者は引き揚げ者と呼ばれ、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされた。
台湾など比較的順調に進んだ地域もあれば、侵攻してきたソ連軍や現地軍民による襲撃や抑留、飢餓などで犠牲者が出た地域もある。中華民国支援のため不安定要因たりえる日本人の本国送還をアメリカ合衆国が重視するなど、各勢力の思惑が影響した。
各地からの引き揚げ
満州からの引き揚げ
1945.11.9塘沽(タンクー)からの引揚者達
「葫芦島在留日本人大送還」も参照
満州に取り残された日本人約105万人の送還は、ソ連軍が一貫して無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで、何の動きも見られなかった。一方、米国は、中国大陸に兵士から民間人まで多くの日本人が残留していることが、国共対立が顕在化していた中国社会の不安定要素となることを懸念していた。ソ連軍が撤退し国府軍が中国東北部に進駐を開始するや、米軍の輸送用船舶を貸与して日本人送還を実行に移していった。
早くも同年5月には錦州地区の日本人引き揚げが始まり、夏には旧新京の日本人を含めて本格化し、年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引き揚げていった。満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
サハリン島南部(南樺太)からの引き揚げ
1945年8月当時、北緯50度以南のサハリン島南部に住んでいた日本人は約40万人だった[18]。1946年2月2日のソ連最高会議幹部会令により、1945年9月20日に遡り、南樺太と千島の土地・施設機関の国有化が決定され、翌1947年2月25日にソビエト連邦最高会議は、南樺太のソ連領編入を正式決定した。ソ連の占領下で生活することになった日本人は、技術者を中心として多くがそのまま職場に留まった。
ただ密航船による脱出が後を絶たず、宗谷海峡封鎖から公式引揚が開始されるまでに住民の4分の1近くにあたる約2万4000人が北海道へ逃れて行った。ソ連は、技術者か非技術者を問わず在留日本人の送還には全く興味を示さなかった反面、在留日本人に対して、ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え、実生活面では大きな違いはほとんどなかった。樺太は、戦前より米の生産ができず、内地からの移入に頼っていたが、ソ連領編入により日本と切り離され、米の移入が途絶えてしまった。
その解決策として、ソ連は旧満州から大豆、北朝鮮から米を移入し、日本人への配給に充てる一方、北朝鮮から、漁業、林業、土木従事者等の朝鮮人労働者も送られるようになった。日本の敗戦からほどなくして、ソ連が占領した、旧満州・北朝鮮・サハリンでは一つの経済圏が早くも生まれていた。米国が、占領地や植民地に在留する日本人を本国へ送り返すことにこだわったが、ソ連は逆に日本人の送還に無関心であった。
しかし、サハリンや千島に取り残された日本人は引き揚げを望み、日本政府もGHQに対して引揚促進を働きかけた。結局旧満州地区からの引き揚げが開始された1946年春以降、サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で協議されるようになる。11月27日には『引揚に関する米ソ暫定協定』、12月19日には『在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定』が締結され、サハリンと千島地区からの引き揚げが開始し、1949年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げた。
しかし、朝鮮人の家族のいた人やソ連に足止めされた熟練労働者ら少なくとも約1500人がサハリンに留まった(京都大学地域研究総合情報センター中山大将助教による)。
1956年の日ソ国交回復により、日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国したのをはじめ、1976年までに日本人約140人、その家族300人が個別に帰国した。それでもなおサハリンに残留する日本人にとり、東西冷戦の影響のため、祖国は遠いものであった。1965年から「サハリン墓参」が始まり、既に日本に帰国したかつての「島民」がサハリンを訪ねて来るようになった。
サハリン残留者にとって離散した肉親の消息を知りうる貴重な機会になった。しかし、両者が墓地等で会うことは黙認されたが、ソ連の警察に監視下にあり、墓参団に託された肉親からの小包や手紙は徹底して調べられた[18]。1986年に改革政策ペレストロイカが開始され1991年のソビエト連邦の崩壊までの一連のソ連の変化により、日ソの厚い壁が崩された。1988年にサハリンの外国人立ち入り禁止区域が解除された。1989年に「樺太同胞一時帰国促進の会」が発足し、同会が国に働きかけた結果、1990年には300人を目標に残留日本人の一時帰国事業も始まり、離散家族の再会が実現した。
この事業により1992年までに371人が帰国した。同会は、「サハリン残留者全員の希望がかなうまで続けて欲しい」との要望をうけ、「日本サハリン同胞交流協会」に衣替えした。延べ3126人が一時帰国し、303人が永住帰国した。一時帰国事業は2015年現在も続いている。
北緯38度以南の朝鮮からの引き揚げ
米軍は、朝鮮半島から全ての日本人を本国へ送還する方針を立てていたが、まず、優先されたのは軍人の復員であった。連合軍が何より軍人の復員を重視し、ポツダム宣言では、日本軍の即時武装解除と早期本国帰還が条件として挙げられていたが、民間人については何も触れられていなかった。朝鮮半島では、降伏文書調印以後、第17方面軍に所属する部隊の武装解除も進んでいったが、米軍の進駐が緩慢だったために、全ての部隊の武装解除と復員が完了したのは、10月に入ってからであった。
そして、この直後から在朝日本人民間人の引き揚げ計画が始まった。10月3日にアーノルド軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表したことを機に、民間人の引き揚げが本格化する。北朝鮮から脱出してくる日本人を除いて、1946年春までに40万人にものぼる南朝鮮にいた民間人のほとんどが朝鮮半島から日本へ引き揚げて行った。その一方で、日本からは多くの朝鮮人が故郷へ向け帰還していった。そして、この間に、8月24日に朝鮮人徴用工を乗せた「浮島丸」が下北半島から朝鮮へ向かう途中、舞鶴港で爆沈して日本人船員25人を含む549人が犠牲となった。
10月14日には、朝鮮半島からの日本人を乗せた「珠(たま)丸」が壱岐勝本沖で爆沈し、545人以上が犠牲となった。この二つの海難事故は、日本の海難事故史上「洞爺丸事故」(1954年、死者・行方不明者1155人)に次ぐ規模の海難事故である。」
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