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2021年9月25日 YAHOO!JAPANニュース ナショナル ジオグラフィック日本版「帝国滅亡から500年、アステカ人とは何者だったのか?
15世紀から16世紀にかけて繁栄したメソアメリカ文明の国家アステカ。その都テノチティトランの遺跡は、メキシコの首都メキシコシティーの地下にある。近代的な建築物に囲まれた「テンプロ・マヨール(大神殿)」遺跡の調査が進み、アステカの都市とその住民の姿が次々と明らかになっている。
スペインによるアステカ征服は1521年のこと。これまで、ヨーロッパ人による記録の多くは征服者であるエルナン・コルテスを主役にしていたが、近年は、征服された側であるアステカ人の記録が注目されるようになってきている。そこには、メソアメリカの都市国家間の同盟が、いかにして急速に力をつけ、失われたかという、複雑で魅力的な物語が展開されている。
テノチティトランの大神殿跡「テンプロ・マヨール」の、羽毛のある蛇の像。ここは雨の神トラロックと戦争の神ウィツィロポチトリを祀った巨大な神殿群だった。(PHOTOGRAPH BY KENNETH GARRETT)
テノチティトランの大神殿跡「テンプロ・マヨール」の、羽毛のある蛇の像。ここは雨の神トラロックと戦争の神ウィツィロポチトリを祀った巨大な神殿群だった。(PHOTOGRAPH BY KENNETH GARRETT)
メキシコシティーにあるトラテロルコの神殿。トラテロルコはテノチティトランの隣に建設された、別の都市国家だ。スペイン人がこの地域を支配するようになると、神殿を解体し、その石を使ってサンティアゴ教会を建設した。(PHOTOGRAPH BY CAVAN/ALAMY/ACI)
カラフルな年代記
「アステカ」という呼称は、ドイツの科学者で探検家でもあったアレクサンダー・フォン・フンボルトによって19世紀初頭に作られた造語であり、アステカの人々は自分たちを「メシカ(Mexica)」と呼んでいた。
メシカが都を築くべき場所を示すためにウチワサボテンに舞い降りたワシ。(PHOTOGRAPH BY BODLEIAN LIBRARY, OXFORD, ENGLAND)
メシカが都を築くべき場所を示すためにウチワサボテンに舞い降りたワシ。(PHOTOGRAPH BY BODLEIAN LIBRARY, OXFORD, ENGLAND)
アステカ時代のメソアメリカに関する私たちの知識の多くは、メシカ自身が残した記録と、1519年以降にスペイン人が作った記録によるものだ。現在のメキシコからコスタリカまでの地域にあたるメソアメリカには、アステカ以外の文化や都市国家も数多く存在していたが、アステカについては、豊富な資料が残っているおかげで、より具体的なことがわかっている。メシカの人々は記録の中で、自分たちは権力を持つことを宿命づけられた民族であり、数々の困難を乗り越えて広大な帝国を支配するに至ったとしている。
メシカの人々は、自分たちの祖先、行い、信仰、習慣などを絵文書(コデックス)に記録していた。
その多くはスペインの侵攻の際に失われたが、5つは残った。これらはスペイン人によって略奪されてヨーロッパに送られ、現在はいくつかの博物館に所蔵されている。
テノチティトランの陥落後、絵文書の制作は再開された。なかには、スペインの人々がメソアメリカの人々をよりよく理解し、植民地支配に役立てるために作られたものもある。特に有名なのは、スペイン王でもあった神聖ローマ皇帝カール5世のために1542年に制作された「メンドサ絵文書」だ。絵文書にはスペイン語の解説も添えられており、第1部にはテノチティトランの歴代のトラトアニ(統治者)と、それぞれが征服した都市について記され、第2部には彼らが受け取った貢ぎ物が記されている。
ギャラリー:帝国滅亡から500年、アステカ人とは何者だったのか? 写真11点(写真クリックでギャラリーページへ)
英国オックスフォード大学のボドリアン図書館に所蔵されている「メンドサ絵文書」。写真はテノチティトランの第6代統治者アシャヤカトル(在位1469〜1481年)に関するページで、37の都市を征服したとされている。(PHOTOGRAPH BY BODLEIAN LIBRARY OXFORD/DAGLI ORTI/AURIMAGES)
英国オックスフォード大学のボドリアン図書館に所蔵されている「メンドサ絵文書」。写真はテノチティトランの第6代統治者アシャヤカトル(在位1469〜1481年)に関するページで、37の都市を征服したとされている。(PHOTOGRAPH BY BODLEIAN LIBRARY OXFORD/DAGLI ORTI/AURIMAGES)
「メンドサ絵文書」には、1502年から1520年にかけてテノチティトランを支配したモクテスマ2世が、支配下に置いていた400の都市から受け取った貢ぎ物の詳細も記されている。絵文書では、都市名はピクトグラムで示され、その隣にはモクテスマへの貢ぎ物が描かれている。絵の上にはスペイン語の翻訳が添えられている。(PHOTOGRAPH BY BODLEIAN LIBRARY OXFORD/DAGLI ORTI/AURIMAGES)
アステカの都市国家は、貢ぎ物のほか交易によっても潤っていた。アステカの中心を成していたテノチティトラン、テスココ、トラコパンの三国同盟に関する知見の多くは、テノチティトランの貢ぎ物の絵文書から得られたものだ。
テスココとトラコパンに関するこの種の記録は見つかっていなため、全体像はまだ明らかではないものの、15万人から30万人と言われるテノチティトランの住民の暮らしがどのように支えられていたかを知る上で、絵文書は興味深い資料だ。食料、原料、布地は都市の近郊で調達され、金、天然ゴムの樹脂、カカオ、貴重な羽毛などの贅沢品は広大な帝国の遠く離れた場所から運ばれていた。
次ページ:帝国の拡大と崩壊の背景
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