🔯51」─3・A─マヤ人。マヤ文明の衰退、従来説を覆す研究成果。~No.182No.183 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年9月11日 YAHOO!JAPANニュース ナショナル ジオグラフィック日本版「マヤ人とは何者だったのか? 古代文明の謎を解き明かす
 マヤ文明はなぜ衰退し、忘れ去られ、「再発見」されたのか
 メキシコ、パレンケの「碑文の神殿」で発見されたマヤ戦士の頭部像。この神殿は7世紀の君主キニチ・ハナーブ・パカルの墓で、最大かつ最も保存状態が良いマヤのピラミッドのひとつだ。(DE AGOSTINI VIA GETTY IMAGES)
 長く忘れられていた文明の痕跡は、中米ユカタン半島のあちこちに残されていた。スペイン植民地時代の修道院の地下にも、道路の下にも。その大半は草木に覆われ、ジャングルに埋もれていた。だが1830~40年代、ユカタン半島を詳細に調査した英国人と米国人の探検家はすぐに、これらの謎に満ちた遺跡が考古学上の重要な宝であることを確信した。
 【写真】マヤの壁画。戦いと勝利を祝う儀式の様子が描かれている
 発見された遺跡や工芸品は放棄されて荒廃しており、寺院やピラミッド、芸術品や文字といったそれらの役割は、当時はほとんど不明だった。それでも、米国人探検家のジョン・ロイド・スティーブンスは1841年に、これらは同一集団の人々が生み出したもののようだと書いている。
 「この人々が誰なのか、どこから来たのか、先祖は誰なのか。私には言えないし、知るすべもない」と彼は認めている。
 これらの謎の廃墟は、マヤ文明の遺跡だった。マヤ文明は代表的なメソアメリカ文明の1つで、メキシコ南部やベリーズグアテマラなどに広がっていた。この集団について、今では発見当時よりはるかに多くの事実が明らかになっている。マヤの人々は、この地方で最初に農作物を栽培し、野生動物を家畜化し、最初の都市を建設し、現代文明がもつほぼ全ての要素を生み出したり、磨きをかけたりした。
 マヤ文化の伝統や教えの一部は子孫に受け継がれてきた。だがマヤ人については、遺跡がまだ発見されていなかった数百年前と同様に、現在も多くの謎が残されている。
 マヤ人の起源
 マヤ文化の起源は明らかではないが、狩猟採集民が放浪生活を捨てて定住を始めた紀元前7000~前2000年の間と考えられている。最近の研究では、最初の定住者たちは南米からやって来た人々であり、紀元前4000年までにはトウモロコシを主食とするようになったと示唆されている。トウモロコシ栽培はマヤ文明の道筋を大きく変え、マヤ人の社会や文化は急速に発展した。
 この新しい定住者たちは、トウモロコシを栽培するだけでなく、食物として摂取しやすくする方法も編み出した。これは「ニシュタマリゼーション」と呼ばれ、乾燥トウモロコシを水に浸した後にアルカリ性溶液で処理して、柔らかく消化しやすい食材にする方法だ。マヤ人は、他にもカボチャ、キャッサバ、豆といった重要な野菜の栽培も始めた。
 マヤ文明は、屈指の影響力を持っていたとされる近隣のオルメカ文明と並行して発展し、互いにアイデアを交換していたようだ。マヤ人が宗教施設の建設に乗り出したのも、この頃と考えられている。マヤ人はやがてオルメカ人と同様に、宗教施設の周囲に都市の建設を始めた。このように農業と都市開発が発展した時期は、マヤ文明の先古典期のうち紀元前1500~前200年の間だったことが明らかになっている。
 マヤ人は社会をさらに発展させるなかで、複雑な貿易ネットワーク、高度な灌漑(かんがい)・浄水・農業技術、戦争、スポーツ、文学、複雑な暦などの基礎を築いた。暦は3種類の暦法が使用される難解なものだった。ひとつは神の儀式に用いる暦、もうひとつは人々の生活に用いる暦、そして3つめが「長期暦」と呼ばれる非常に長い周期をもつ暦だ。
 この長期暦の開始日は伝説上の人間創造の日とされ、紀元前3114年8月11日に相当する。長期暦については、周期が終わる2012年12月21日に世界が終末を迎えるといううわさが生まれた(都市伝説とマヤの言い伝えに対する昔からの誤解によるものだが、もちろん実際には、この世の終わりは訪れなかった)。
 マヤ社会の絶頂期
 マヤ文明が絶頂期に達した古典期(200~900年)には、優れた建造物も生まれた。ピラミッド形の寺院や、宮殿らしき壮麗な建築物はさらに洗練されたが、それらが実際に権力者の住居だったのか、その他の用途に使用されたのかはわかっていない。
 マヤ文明の主要な都市として、パレンケ、チチェンイツァ、ティカル、コパン、カラクムルが挙げられる。マヤ文明はひとつの社会を形成していたが、帝国ではなかった。都市国家や地方の権力者たちは、互いに平和的な共存か支配を巡る戦いかで揺れ動いた。なかにはホヤ・デ・セレン村のように、権力者による支配ではなく、共同体による統治が行われていたと考えられる場所もある。
 マヤの建築と芸術には、人々の心に深く根差した信仰が反映されている。マヤの人々は、神「クフ」(K’uh)や神聖さ「クフル」(k’uhul)への信仰を持ち、無生物を含むあらゆるものに神が存在すると考えていた。トウモロコシは、こうした信仰にも不可欠だった。マヤの神で特に重要なのが、トウモロコシの神「フン・フナフプ」だ。マヤの言い伝えでは、神々は最初に泥から、次に木から、次いでトウモロコシから人間を作ったとされている。
 マヤの人々は、さまざまな儀式を行って神を崇拝した。現代人の心をとらえる人身御供や流血を伴う儀式もあった。サッカーの原型とも言える「ピッツ」というスポーツにも宗教的な意味合いがあった。マヤの創世神話「ポポル・ウフ」でピッツを楽しんだとされる太陽の神と月の神をたたえるために、試合の敗者がいけにえとして殺害されることもあったと考えられている。
 マヤ文明の崩壊
 北部の都市の一部では繁栄が続いたが、9~10世紀には主要な都市の多くが崩壊し始めた。都市間の関係は悪化して、戦争が頻発するようになった。貿易は衰退し、死亡率も上昇した。
 マヤ文明が崩壊した原因については、さまざまな説がある。長期に及ぶ干ばつと、焼畑農法の影響で森林が破壊されたことが原因だとする説は、気候シミュレーションによる裏付けがある。住民が死亡したり、より肥沃な南方の山岳地帯に移り住んだりした結果、かつて栄えた都市の中心部は突然、さびれた放棄地と化した。チチェンイツァのような大都市が崩壊したので、マヤパンなどの都市は勢いを増したが、その他のマヤの人々は完全に都市を離れ、小さな村に住まいを移した。
 マヤ人はこうして生き延びたが、マヤ文明が衰退したため、人々は1500年代に始まったヨーロッパの植民地化に抗えなかった。1524年頃にスペインがマヤを完全に制圧したときには、マヤの主要都市の大部分はすでに放棄されていた。
 一方、新たに到着したスペインの探検家たちは、マヤ人の土地を没収し、キリスト教への改宗を強制したものの、植民地に点在する遺跡にはほとんど関心を持たなかった。
 マヤ文明の再発見
 1840年代になってようやく、マヤ人が放棄した文明の痕跡に興味を抱いた探検家や研究者によってマヤ文明は「再発見」された。弁護士で外交官の米国人ジョン・ロイド・スティーブンスと、画家で建築家の英国人フレデリック・キャザーウッドは、中米で一連の考古学探検を行い、マヤ遺跡を地図と文書に記録した。
 この地方に遺跡があることは知られていたが、ヨーロッパ人の多くは中米の先住民を未開で知性に乏しい人々と考え、こうした歴史的価値のある芸術の作者が彼らであるはずがない、と決めつけていた。スティーブンスとギャザーウッドは、このような見方が誤っていることを証明して、遺跡の価値と制作者を明らかにしたいと望んでいた。
 2人はマヤの栄光をよく理解していた一方で、発見した遺物から利益を得たいとも考えており、マヤの都市全体をそっくり購入してニューヨークの博物館に移送しようとさえした。それでも、2人の尽力によってマヤ文明は世界から注目されるようになり、その後の考古学的発見の基盤が築かれた。
 今日のマヤ考古学は隆盛をきわめ、ジャングルに埋もれていた遺跡や宗教的遺物などの多くの痕跡が、現代の発掘技術を駆使して発見されている。学者たちは、マヤ文明とその壮大な繁栄や謎めいた衰退について、さらに研究を進めている。
 マヤ人の過去を伝えるものは考古学的な遺物がすべてだが、マヤ人は現在も生きている。現代の中米には600万人以上のマヤ人の子孫が生活し、古代マヤ語から派生した30以上の言語が用いられている。また、子孫の人々は、マヤ文明の農業、宗教、土地管理に関する数々の伝統を守り続けている。これは、数世紀にわたって苦難や変化にさらされたマヤ人の文化が持つ適応力の証しと言えるだろう。
 文=ERIN BLAKEMORE/訳=稲永浩子」
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 2019年8月8日 YAHOO!JAPANニュース 「マヤ文明の衰退、従来説を覆す研究成果
 「食料難により全面戦争が勃発」説に異議
 マヤ文明で都市の破壊を伴う「総力戦」が起きたのは紀元9世紀に干ばつが連続し、食料をめぐる争いが始まってからというのが定説だった。(PHOTOGRAPH BY DEA/G. DAGLI ORTI/DE AGOSTINI/GETTY)
 マヤ文明で都市の破壊を伴う「総力戦」が起きたのは紀元9世紀に干ばつが連続し、食料をめぐる争いが始まってからというのが定説だった。(PHOTOGRAPH BY DEA/G. DAGLI ORTI/DE AGOSTINI/GETTY)
 古代マヤ文明において古典期と呼ばれる700年ほどの期間(紀元250年ごろから950年ごろまで)、戦争はある程度「儀式化」されていたというのがこれまでの定説だ。(参考記事:「知ってるようで知らないマヤ文明」)
 つまり、王族が連れ去られたり、象徴的な建造物が解体されたりすることはあっても、大規模な破壊行為が行われたり、一般人に大量の死傷者が出たりしたことはめったになかった。そして古典期の終わりになって干ばつが増え、食料が不足した結果、王国間の戦争が激化して文明が衰退に向かっていった、という説だ。
 しかし、8月5日付けの学術誌「Nature Human Behaviour」に掲載された論文で、気候の影響でマヤの農業が崩壊するより前に、兵士だけでなく一般人をも巻きこんだ激しい戦闘行為(「総力戦(total warfare)」と表現されることが多い)が起きていた証拠が示された。(参考記事:「マヤ文明の衰退は気候変動のせい?」)
 ライダー(LiDAR)という手法を用いて作成した地図。現在のグアテマラ北部にある古代マヤの都市ウィツナルの神殿を示している。近隣の都市から見つかった石碑によると、ウィツナルは紀元697年5月21日に「焼かれた」。(PHOTOGRAPH COURTESY PACUNAM/ESTRADA-BELLI)
 ライダー(LiDAR)という手法を用いて作成した地図。現在のグアテマラ北部にある古代マヤの都市ウィツナルの神殿を示している。近隣の都市から見つかった石碑によると、ウィツナルは紀元697年5月21日に「焼かれた」。(PHOTOGRAPH COURTESY PACUNAM/ESTRADA-BELLI)
 米地質調査所(USGS)の古気候学者デビッド・ウォール氏が初めて中米グアテマラ北部のラグナ・エクナーブという湖に向かったのは、2013年のことだった。古典期後期と呼ばれる時代(紀元800年〜950年)に起きた干ばつの証拠を探し、それが農業に与えた影響を突き止めるためだった。この湖は、古代マヤの都市遺跡ウィツナルがある崖の下に位置している。ウォール氏は、この湖の底にたまった堆積物を調べれば、かつてここで繁栄していた人々に何が起きたのかがわかると考えた。(参考記事:「封印されていた古代マヤの洞窟、祭礼品が多数出土」)
 湖に沈む火事の痕跡
 「切り立った地形に囲まれているので、湖には毎年約1センチのペースで堆積物がたまります。そのため、堆積物はここで起きたことを細かく映し出す鏡になるのです」とウォール氏は説明する。堆積物が急速にたまっていることから、森が伐採されて土地が開かれたことがわかる。また、堆積物からトウモロコシの花粉が見つかっており、このあたりでは主としてトウモロコシが栽培されていたこともうかがえる。しかし、ウォール氏がラグナ・エクナーブの底から見つけたもののなかでもっとも特筆すべきは、大きな炭の塊を含む厚さ3センチほどの層だった。
 「土地を開くために森を焼くことが多かったので、このあたりの湖の堆積物からは、よく炭が見つかります。しかし、湖の調査を20年間行ってきましたが、これほどの厚さの層を見たのは初めてでした」
 次ページ:「バラム・ホルは焼かれた」
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