☭32」─1─レフチェンコ事件。1979年。~No.111 

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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 1954年(昭和29)に起きた日本を舞台とするスパイ事件。同年1月24日、元駐日ソ連代表部の二等書記官ユーリー・A・ラストボロフが失踪(しっそう)、同元代表部は彼がアメリカ情報機関に抑留されたと発表した。ラストボロフは自主的にアメリカ当局に保護を求めたものであり、1月26日には米軍用機で不法出国していた。アメリカのこの措置は日本の主権を侵すものであったが、外務省はこれを不問に付し、亡命の事実も否定し続けていた。8月14日になって、日米両国で、ラストボロフはソ連内務省所属陸軍中佐として日本に派遣され、日本人エージェントを使ってスパイ活動をしていたこと、またアメリカに亡命したことが公表され、外務省事務官3名がスパイ活動に関係したとして逮捕された。取調べ中に1名が自殺、残りの2名は国家公務員法第100条(秘密を守る義務)違反などで起訴された。1名は60年11月最高裁で有罪確定(懲役6か月、罰金100万円)、1名は65年3月東京高裁で無罪が確定した。講和発効後まもない時期の、不透明な部分の多い事件であった。[荒 敬]
 『田中二郎他編『戦後政治裁判史録2』(1980・第一法規出版)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ユーリー・ラストヴォロフ(ロシア語: Юрий Александрович Растворов、1921年7月11日 - 2004年1月19日)は、ソ連の職業的諜報員、軍人、チェキスト。中佐。

 ラストヴォロフ事件
 1950年、ラストヴォロフは、東京に戻り、二等書記官として麻布の駐日大使館に赴任した。日本では、主として在日米軍に関する情報の収集に従事し、アメリカ軍人が出入りするバー、レストラン、テニス・クラブに通った。目的は、アメリカ人協力者を得る事であったとされるが、このテニスクラブ入りが、皮肉にも、ラストボロフがアメリカ人に接近していると言う疑念を本国に抱かせ、後の亡命の一因になったと言われる。(三宅正樹『スターリンの対日情報工作』参照)
 1953年3月5日、ヨシフ・スターリンが死去した。間もなく、内務相のラヴレンチー・ベリヤが逮捕され、国家保安機関内で粛清が始まるとの噂が流れた。
 1954年1月、大使館内の高官による会議が開かれ、ラストヴォロフのモスクワ召還が決定された。彼は、同年1月25日発の横浜-ナホトカ便で帰国するはずだった。
 帰国前日の1月24日、工作中に知り合った英語教師(アメリカの防諜員)メリー・ジョーンズ(後の妻)と接触し、CIAの代表部に引き渡された。ラストヴォロフは、飛行機で東京から沖縄に、その後グアムの米軍基地に移された。
 事件発覚後、西側のマスコミは、この事件をセンセーショナルに報道した。また、日本側の報道でも、1954年8月14日付『朝日新聞』が、外務省と公安調査庁の共同発表を「ラストボロフ事件の真相」という見出しをつけて掲載している。各種報道によると、ラストヴォロフ自身は、36人の日本人エージェントを有していたと証言したとされる。まもなくエージェントの1人、元関東軍航空参謀少佐志位正二が自首した。志位はソ連抑留中にスパイになることを強要されて帰国し、主として日本の再軍備についてラストボロフに報告、月一回、計30回にわたって約50万円を受け取ったといわれている。8月14日、外務省欧米局第5課事務官・日暮信則、国際協力局第1課事務官・庄司宏が国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反の容疑で逮捕され、8月19日、外務省経済局経済2課事務官・高毛礼茂(暗号名・エコノミスト)が同容疑で逮捕された。日暮信則は、事件の取調中、4階の窓から飛び降りて自殺した。高毛礼茂は懲役8月、罰金100万円の判決を受けたが、庄司宏は証拠不十分で無罪判決を受けた。
 同年、ソ連の軍事裁判所は、欠席裁判でラストヴォロフに死刑を言い渡した。同僚のワシーリー・ソコロフは、諜報部を解雇され、ソ連共産党から除籍された。
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