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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022年8月15日17:25 MicrosoftNews 読売新聞オンライン「ソ連軍に「トウキョウ・ダモイ」と言われ…たどり着いたシベリア、命をつないだロシア語の辞書
戦争の悲惨さを訴える市田さん(岐阜県揖斐川町の自宅で)
岐阜県揖斐川町の市田靖さん(96)は太平洋戦争末期、満州(現中国東北部)でソ連軍と戦って捕らえられ、過酷な「シベリア抑留」を経験した。ロシアによるウクライナ侵略に自身の戦争体験を重ね、「人を殺し合う戦争ほど悲惨なものはない。同じことを繰り返してはいけない」と平和への思いを強くしている。(乙部修平)
市田さんの元に召集令状が届いたのは1945年2月、19歳の時だった。理工科の学生は召集されないと聞き、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大)に進学したが、戦況の悪化で兵員不足が深刻化し、陸軍砲兵として出征した。ソ連国境に近い満州の「孫呉(そんご)」という町に行くと、食料や弾薬はほぼ底を尽き、誰も口にはしないものの、敗戦の雰囲気が色濃く漂っていた。
腹をすかせながら半年ほど訓練を続けたが、同年8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して満州に攻め込むと、歩兵中心だった当時の陸軍はあっという間に包囲された。
「明日にも玉砕しよう」。手りゅう弾を二つ渡され、特攻命令を待ったが、ソ連の侵攻から6日後の15日、ラジオで昭和天皇の「玉音放送」を聞いた。泣き崩れる兵士もいたが、市田さんは「ほとんどの人は内心、ほっとしていたはずだ」と振り返る。
しかし、戦後も苦難は続いた。ソ連軍に「トウキョウ ダモイ(帰れる)」と言われ、何日も歩かされてたどり着いたのは、シベリアの炭鉱の街・ライチハ。洞窟兵舎に収容され、炭鉱での重労働を強いられた。
食料は乏しく、冬は気温が氷点下30~40度ほどになる日もあり、凍傷になったり、体力が尽きて倒れたりする人が絶えなかった。
市田さんも1年弱で倒れたが、それが結果として命をつなぐことになった。入院中、ベッドが隣だった日本人から辞書を借り、むさぼるようにロシア語を勉強した。当時はロシア語の読み書きができる日本人は珍しく、炭鉱での労働に代わり、通訳として労働量を記録する仕事を任されるようになった。
3年1か月に及んだ抑留生活を終え、無事帰国を果たした後は、地方銀行に入行し、地元の復興と発展に尽力した。定年後はシベリアに3度赴き、帰国を果たせず亡くなった日本兵の慰霊を行ってきたが、戦争中のつらい体験はほとんど語ってこなかった。
しかし、戦争を知る世代が少なくなる中、「悲惨さを語り継ぐことも大切」と、数年前からはメディアを通じ、平和への思いを発信している。
戦後77年が経過し、日本では平和が当たり前となったが、世界では今も争いが絶えない。「戦いをやめられない、人間の性(さが)が情けない。話し合いで解決する社会を築かなければならない」。市田さんは、そう言葉に力を込めた。
◆シベリア抑留=戦後、ソ連軍に投降した多くの日本兵や一部の民間人らがシベリアなどに連行され、森林伐採や炭鉱採掘、鉄道建設などの重労働を課された。中には10年以上、抑留された人もいた。厚生労働省の調査によると、少なくとも約57万5000人が抑留され、約5万5000人が飢えや寒さなどで死亡したとされる。」
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フランクリン・ルーズベルト、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、毛沢東、蒋介石、李承晩・金日成などの同時代の指導者達と国際的ユダヤ人達は、敵日反日反天皇(昭和天皇)で共通していて、そして国益あるいは党益・個人益・私益・企業益から日本との戦争を望んでいた。
四面楚歌、まわりは全て敵という状況に追い込まれていた日本には、同情し理解して助けてくれる味方は何処にもいなかった。
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ソ連・スターリンは、日露戦争の復讐として、日本を侵略占領して自国領(北方領土4島のように)にするか、日本人共産主義国家を樹立して衛星国(東欧のように)にする事を目論んでいた。
そして、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で共産主義大改造を行い、天皇を中心とする日本民族的なモノ全てを日本列島から根絶にしようとしていた。
共産主義とは、死体の山を築き、血の池を造るほど、血に飢えた残酷無比のイデオロギーであった。
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日本の戦争は、宗教・イデオロギー、専制主義・覇権主義・植民地主義・マルクス主義・共産主義に対する帝国主義の積極的自衛戦争であって、ファシズムとは無関係であった。
日本民族にとって、侵略してくる敵国の大軍という「降り掛かる火の粉」を自分一人で自力で払っただけである。
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軍国主義国日本にとって天皇・国・民族=国民、歴史・文化・宗教・言語を守る為に、対ロ戦・対ソ戦は江戸時代後期から逃れられない「必要な」戦争であり、対米戦争もアメリカによるハワイ王国併呑から避けられない「やむを得ない」戦争であった。
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日本人にとって、アメリカ人やイギリス人は信用できたが、ロシア人・中国人・朝鮮人は使用できなかった。
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日本はイデオロギーとして、欧米の自由と民主主義を採用したが、ソ連・中国共産党の共産主義は排除した。
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日本の、民族的宗教・文化は数万年前の石器時代・縄文時代からであり、民族的天皇・国家は数千年前の弥生時代・古墳時代からである。
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中世キリスト教会・イエズス会などの修道士会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として大金を稼いでいた。
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日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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日本海軍中枢部には、「アメリカに勝利する為にはソ連と手を結ぶべきである」という戦略を持った超リアルなソ連派が存在していた。
日本海軍は、アメリカからソ連への軍事支援物資を送るウラジオストク・ルート、北北太平洋航路を遮断せず、ソ連の勝利に貢献していた。
日本陸軍は、要請も抗議もしなかった。
ナチス・ドイツは、軍国日本に遮断を要請したが協力を得られず、ソ連軍の大攻勢に敗北し滅亡した。
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8月15日08:15 MicrosoftNews プレジデントオンライン「北海道と東北は共産国家になるはずだった…ロシアの「日本占領作戦」が実行されなかった間一髪の偶然
半藤 一利
© PRESIDENT Online ※写真はイメージです
1945年に敗戦した日本の処遇をめぐっては、米国、英国、中国、ロシア(旧ソ連)で分割統治する案があった。中でもロシアには、日本が降伏するタイミングで北海道に攻め入る計画があったという。なぜ実行されなかったのか。2021年に亡くなった作家・半藤一利さんの著作『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)から、一部を紹介する――。
※本稿は、半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』(角川新書)の一部を再編集したものです。
開戦直後に「戦争終結」を構想していたアメリカ
日本が太平洋戦争を決議したとき、当時の政府および軍部は、戦争終結をどのような形で行うかについてほとんど研究しないで、というよりも、万事あなたまかせで突入した。一言でいえば、ナチス・ドイツのヨーロッパでの勝利をあてにして、そのときには、孤立して戦うアメリカは戦意を失うであろうから、有利な条件で講和にもちこめばいい、という非常に手前勝手な政策しかもち合わせていなかった。
いっぽうアメリカは、もちろん、日本が開戦した当初には、さすがに戦争計画を持っていなかったが、真珠湾攻撃によって戦争が始まった直後に、すでに戦争終結までの計画を構想しはじめている。
具体的にいうと、昭和十七(一九四二)年八月、開戦の翌年に、まず東アジア政策研究委員会を作った。もちろん、ヨーロッパにおける対ドイツ戦争の終結方策も同時に別なところで考えている。こうして昭和十七年八月から、この戦争にどのようにして結末を付け、どういう形で日本を処理するかという問題を考え出し、十八年十月には極東地域委員会ができ、現実の政策文書を作成するまでになった。十九年一月には、これが戦後政策委員会に発展する。
この頃には、日本が敗北することはアメリカにとって自明の理となっていたから、占領政策をどうすべきかについて頻りに考えるようになっている。そして、十九年十二月、国務省、陸軍省、海軍省の三省が集まった調整委員会ができる。つまり、この三省調整委員会が主体となって、日本に対する戦後経営策を考え出していくのである。
ソビエトと共同で「日本占領分割案」が浮上
その裏側でもう一つの考えが先行していた。ソビエトが戦後の世界経営に乗り出してきていて、ソビエトとアメリカとの大交渉が始まっていたのである。十八年十一月のテヘラン会談で、ルーズベルトとスターリンとが会って、ソビエトとアメリカとが仲良く手をつなぎ、肩を組み合って戦後の世界政策をリードしていこうじゃないかということを決める。
もう勝利は目前である。我々は戦後の設計に掛かろうじゃないかということで、二人はご機嫌な形でテヘラン会談を終えた。このルーズベルトのご機嫌な意向が三省調整委員会に持ち込まれた。そして、日本の戦後をどうするかはソビエトも仲間として考えていこうではないかということから、三省調整委員会は、日本占領分割案というものを考え出してくるのである。
日本が降伏した後は、そのままでおさまらず、当分の間ゲリラ活動が起きるであろう、あるいは、徹底抗戦分子が至る所で反乱を起こすであろう。日本の占領はそれほど容易ではない。膨大な兵力を日本本土に送り込まなければ、日本の占領はうまくいかないのではないかと彼らは計算した。
問題はいつソビエトが対日参戦してくるか
というのも、日本軍は、敗北を承知しながら、陸地でも海上でもものすごい抵抗をして、ついには“神風特別攻撃隊”という世界の戦史にないような戦法をとって徹底抗戦をする。そういう強さに驚いて、約八十万の軍隊を日本本土に送り込まないことには、日本占領はうまくいかないだろうと予測したのである。
そのような背景から、日本分割案が出てきた。そして、話がどんどん詰められていって、日本分割案が決定するのが昭和二十年三月、まだルーズベルトは生きていた。そしてこの結論に大統領はすこぶる満悦した。
ところがそのときに、実は、その背後においていろいろな議論があったのである。ソビエトがいつ対日参戦してくるか。また、参戦してこない場合でもソビエトを交ぜるかどうか、といったような議論が沸騰して、なお委員会は揉めに揉めていたのである。
しかし、ソビエトは、一カ月前の昭和二十年二月のヤルタ会談において、ドイツの降伏後三カ月たったら対日参戦して、一気に満洲に攻め入るということを、ルーズベルト、チャーチルと諮って態度を明確にしている。そうなればまことに都合がいい。とにかく日本はそれまで頑張るだろうから、スターリンを信用し、ソビエトは参戦するという大前提の下で結果的には日本分割案が練り上げられていったのである。
樺太、千島だけでなく日本本土も奪いたい
現実に、ドイツは五月七日、降伏文書に調印した。それから三カ月後となれば、八月七日以後には、必然的にソビエトが日本に参戦してくることになる。アメリカも急ぎださざるを得ない。
そのうちにルーズベルトが亡くなった。日本を降伏させるために、無条件降伏政策の見直しの声もではじめる。そのため、ソビエトの動向をにらみながら、アメリカの政策も次第に変化してくる。
しかも、戦後の世界はソビエトとアメリカが手を組んでリードしていくのだという約束を、スターリンは常にちらつかせる。ソビエト参戦の暁には、樺太はもちろん返してもらう、それから千島も自分のものにする。この千島の条項は、千島は必ずしもソビエト領ではないから、日本から勝手にもぎ取るというような表現で、アメリカも承諾している。
つまり、ソビエトは、樺太、千島という分け前をすでにもらっていながら、さらにそのうえどうしても日本本土にソビエト軍を送り込みたいという意図を非常に強く出しはじめた。ソビエトはヨーロッパで、ドイツ降伏後、ドイツの半分、ベルリンの半分を取ったりしているが、その方式をそのまま日本に持ち込みたいと、不相応に大きな野望を抱きはじめたのである。
アメリカが作り上げた「日本分割案」の中身は…
ところが、「最後の一兵まで」を呼号する日本の情勢がどんどん悪くなって、降伏が早まりそうな形勢になってきた。そこで、ソビエトに焦りが出てきて、頻りにアメリカ政府をつつく。スターリンはトルーマン大統領に、ルーズベルトの無条件降伏政策をしっかりと守ってもらいたいということを、事あるごとに強調する。
それをアメリカが強硬な政策として掲げている間は、日本は容易に降伏できないから、戦争がどんどん延びるであろう、そうすれば、自分たちが十分な準備をととのえて対日参戦をして日本軍と戦う、それによって日本本土への進駐が容易になってくるであろうというもくろみがあったのである。
もちろん、アメリカも、頑強な日本陸海軍がそれほど早く手を上げるとは思ってはいないし、アメリカ軍の損傷をできるだけ減らしたいということで、はじめはソビエトの参戦を猛烈な勢いで督促していた。
そういう状況下で三省調整委員会が作り上げたのが、いわゆる日本分割案であった。日本を占領した後も、日本軍の抵抗およびゲリラはかなり活発に行われるであろうということで、第一局面として、日本降伏後三カ月間は、アメリカの軍隊八十五万が軍政を敷いて、日本軍の降伏が完全になるまで、日本本土をぴしっと押さえる。
アメリカ、イギリス、中国、ソビエトが各ブロックを4分割
しかしながら、アメリカはもうすでに四年も戦っているから、八十五万の兵隊をいつまでも日本に置いておくわけにはいかない。第二局面、つまり三カ月が終わった以後の九カ月間は、アメリカ、イギリス、中国、ソビエトの四カ国が日本本土に進駐し、これを統治する。
兵力数は、アメリカ軍が三十一万五千、イギリス軍が十六万五千、中国軍が十三万、ソビエト軍が二十一万、合計八十二万の軍隊が、第二局面の九カ月間、日本本土を占領する。
第二局面で日本のなおつづくかもしれないゲリラその他の反抗分子は大体治まるであろうから、その後の第三局面、占領が終了して日本が平和条約を結んで国交を回復するまでの間は、アメリカが十三万五千、イギリスが六万五千、中国が六万、ソビエトが十万、合計三十六万の軍隊を日本本土に置いておく、このように軍隊の区分を決めたのである。
その場合に、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方をアメリカ軍、中国地方と九州地方をイギリス軍、四国地方と近畿地方を中国軍──近畿地方は、アメリカ軍と中国軍が共同して押さえることになる──そして、北海道と東北地方はソビエト軍が統治する。さらに、東京は四カ国が四分割して統治するという。
こういう分割案が完成して、日本が最後まで頑張るならばこれを実施しようと正式に決めたのが、昭和二十年八月十六日。ご承知のように、日本は八月十四日にポツダム宣言の受諾を決定し、十五日に天皇陛下の放送をもって完全に戦争を終結しているから、なんと、終結の一日後にこの大分割案が完成したことになる。
ルーズベルトが長生きしたら実行されていた?
ところが、ルーズベルトの無条件降伏政策を、トルーマンは必ずしも継承しようとはしなかった。それに、天皇制の問題まで連合軍が勝手にするような強硬政策では、日本人は講和など結ばない、結べない、できるだけ緩和した条件で日本の降伏を誘うべきであると、グルー元駐日大使をはじめとする知日派の人びとがしきりにアメリカ政府に働きかけていた。
幸いなことにグルー元大使が昭和十九年末に国務次官になって、国務長官に働きかけるというようなことで、アメリカの政策が緩和の方向に向かっていく、と同時に、ヨーロッパでの東西の対立も顕著になり、米英はソビエトに対して猛烈な警戒心を抱きはじめていく。
歴史に「IF」はないが、もしルーズベルトがそのまま生きていたら、この日本分割政策が日本占領の基本政策として施行された可能性もなきにしもあらずであった。幸い、ルーズベルトの後を襲ったのが、ミズーリ州の田舎の政治家で国際情勢に疎いところのあるトルーマンであったために、側近の知恵者たちの意見をよく聞いて、無条件降伏政策の危険性を考えるようになってきたし、分割案の危険性にも思いを至すようになった。
それに、日本の占領政策としては、天皇陛下および日本の政府の機構をそのまま使ったほうがうまくいくのではないかという考え方が、アメリカ政府のなかに芽生えてきていた。それが、日本降伏後のアメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えたのである。
大議論が交わされる中、日本側は終戦を決意
しかしながら、一方には、戦後の経営は米ソが手を組んでやる、そして、日本には最後まで無条件降伏政策を押しつけるべきである、という強硬な意見がまだ多くの米政府要人の頭を占めていたことも事実である。
ワシントンでの状況をよく調べていくと、この両方の意見がやたらにぶつかり合って、大議論が展開されている。三省調整委員会の下に極東小委員会というのがあって、ここでも大議論をしている。その結果、日本をどうすべきかについての最終決定がなされないままで、戦争の最終局面を迎えていたのであった。
ところが、当然まだまだ戦うであろうと思っていた日本が戦争終結に向かいはじめた。当時七十七歳の鈴木貫太郎首相の下、米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣といった人たちを中心とする、天皇陛下の信任の厚い内閣ができていた。
さらに言えば、陸軍大臣の阿南惟幾大将も、口では徹底抗戦を言うが、実は、最後まで鈴木首相を補佐するという信念を持ってこれに協力していた。それで、反対する軍部を抑え、どうにか終戦に持ち込むことができた。八月九日に天皇陛下の第一回ご聖断による、という意想外の方法で、戦争終結という大方策が決まって、日本の降伏がこの時点でほぼ決定する。
「北海道占領に間に合わない」と焦るロシアは…
あわてたのはソビエトである。ソビエトは、八月九日、約束どおり満洲に侵入して対日参戦をしてきた。これに対して、日本政府はソビエトに宣戦布告をしようとはしなかった。日ソ中立条約が依然として有効であるからである。
こうして日本は宣戦布告せずということを決めて、一方的なソ連軍の蹂躙に任せた。つまり満洲での戦いを国際法の審判にゆだねた。これは戦争にあらず、従ってやむを得ない自衛戦であるという建前をとって、満洲の曠野で敗走がつづいたのである。
参戦したソビエトは、日本の降伏が近いということで、政治的な猛烈な働きかけに転じないわけにはいかなくなる。どう考えても、ソビエト軍は満洲を占領するのがやっとであり、いわんや北海道まで軍隊を持ってくることは時間的に不可能であるということから、アメリカとの外交折衝によって何とか日本本土に軍隊を送り込もうと、さまざまな手を使ったのである。
その具体的な例のひとつに、八月十日、日本時間の八月十一日の午前二時、モスクワで、ハリマンという当時のアメリカ駐ソ大使と、ソビエトのモロトフ外務大臣とが猛烈な激論をした事実がある。
二日しか戦っていないのに統治権は渡せない
モロトフは、「日本占領にアメリカの軍司令官とソビエトの軍司令官の二人を置こう。アメリカ軍の軍司令官にマッカーサーを選ぶならば、わが軍は極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥を選ぶ。マッカーサーとワシレフスキーの二人で、日本を二つに分割して統治しようではないか」と、強硬にハリマン大使に言う。
ハリマン大使は、満洲鉄道の計画にもかかわったアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの息子であるから、アジアのことをよく知っていたし、非常に度胸の据わった人でもあった。それに満洲でのソ連軍の国際法無視の理不尽な攻撃に不信感を抱いていた。
「とんでもない話である。わがアメリカ軍は日本を相手に四年間も戦っている。しかるに貴国はわずか二日ではないか。二日しか戦っていないソビエト軍になぜ日本の統治権の半分を渡さなければいけないのか。全く理屈に合わぬ」
と言って、これを断固としてはねつける。これに対しモロトフは、
「それはお前の勝手な意見ではないか。ワシントンに問い合わせて聞け。トルーマンはそのように言わないはずである」と言うが、ハリマンは、「トルーマン大統領に聞かなくてもわかっている。私はトルーマン大統領からすべてのことを聞いてきている。全権は私にある」
と言って突っぱねて、モロトフの攻勢を抑えた。
なおも諦めないスターリンは「北海道の分割」を提案
このとき、もしハリマンが下手にでてイエスと言ったり、あるいは、ワシントンに問い合わせたりしてもたもたしているうちにトルーマンが対日強硬派に動かされでもしていたら、どうなっていたかわからない。しかし、ハリマンは、トルーマンに知らせることもなく、自分ひとりの判断でソビエトの要求を退けた。
後に、トルーマンはそのことを聞いて、まさにハリマンは自分の思ったとおりのことをやってくれたと激賞するが、とにかくハリマンの頑張りによって、ソビエトは一旦は鉾を収めざるをえなかった。
ところが、ソビエトはなお諦めてはいなかった。日本が降伏した翌日の八月十六日、スターリンはトルーマンに対して、
「日本本土を半分にわけて軍司令官二人による統治はソビエトとしてもあまりにも過大の希望であると思うので、これは引っ込めるが、北海道を留萌と釧路を結ぶ線で二つに分けて、その北半分をソビエト軍が統治したい。
留萌と釧路の町は当然ソビエト軍のなかに入るものとする。もしこの希望が叶えられないならば、ソビエト国民の世論が承知しないだろう。テヘラン会談以来の米ソ関係がこれによって悪化することもあり得るかもしれない。それはアメリカ政府としては十分に考えていただきたい」
という強硬な書簡を寄越して、北海道の北半分の領有を求めてくる。
「崖っぷちの降伏」が図らずも日本を救った
それに対して、トルーマンは、
「もはや日本占領軍最高司令官はマッカーサーただ一人に決めてある。北海道も日本本土のうちであるから、マッカーサーの統治下にある。ソビエト軍は一人たりともその統治に加わることを得ず」という強い返事を送る。
スターリンはかんかんに怒って、
「私と私の同志は、かかる返事を受けようとは予期しなかった、これが戦後肩を組んで世界政策を推進していこうという友邦のやることであるか」
と、恨み骨髄のようなことを言うという一幕があった。日本分割のソビエトの夢はこうして潰えたのである。その代りに満洲にある日本軍兵士たちをシベリアに送るという悪魔的な政策をとることになる。
思えばまことに間一髪、日本の降伏はまさしくギリギリの崖っぷちで決せられたのであるが、それが絶好のときであったことがわかる。日本国民はだれひとり国家分割の危機など知らなかった、という事実を考えると、歴史というものが裏側にどんな秘密を隠して流れていくことか、そぞろ恐ろしくなってくる。
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8月16日5:00 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞「ソ連軍、北海道全体の占領を検討…対馬や済州島にも野心
ソ連海軍が作成した地図。北海道や対馬など占領を検討した地域には印がしてある(ロシア連邦外交政策文書館所蔵)
第2次世界大戦の日本の敗戦を機に、当時のソ連軍が北海道全島をはじめ、対馬や朝鮮半島南部の港など広範囲の占領を検討していたことが、ロシア連邦外交政策文書館がオンラインで公開している公文書に記録されていた。記載内容を、岩手大の麻田雅文准教授(東アジア国際政治史)が確認した。
北海道全島の占領を検討していたことなどを示すソ連軍の文書
確認されたのは、1945年8月16日にソ連首相のスターリンが、北海道北半分をソ連軍の占領地域とするよう米側に要求した内容の基になった草案。ソ連の赤軍参謀総長アレクセイ・アントーノフらが同日にモロトフ外務人民委員に提出したもので、「日本の主要な島々を、連合国のための占領地域に分割し、特にソ連には北海道を割り当てる」と、北海道全島占領を求める内容が記されていた。
(写真:読売新聞)
トルーマン米大統領は要求を拒否したが、麻田准教授は「北海道北半分の要求は、スターリンの欲深さを示すとされてきたが、見つかった草案ではソ連軍部が大きな野心を持ち、スターリンはそのうちの一部をアメリカ側に伝えたにすぎないことが分かった」と話す。
一方、同8月27日、海軍軍令部国際法部長ニコライ・ボロゴフが作成した文書では、「海軍としては日本の以下の地域の管理に関心を抱く」として南樺太、千島列島、北海道、朝鮮半島北部、釜山港、対馬が挙がっていた。北海道全島がソ連の占領地域となれば、宗谷海峡と津軽海峡に加え、函館、小樽、室蘭などの港を自由に利用できるとも記載されていた。
また、赤軍参謀本部特別部長ニコライ・スラヴィンが同8月29日に作成した報告書は、朝鮮半島はソ連が北緯38度から北を占領する形で連合国で二分し、個別の占領地域として対馬や済州島も含めるべきだと提言していた。
こうした点について麻田准教授は「ソ連軍部は太平洋の出入り口となる海域で、航行の自由につながる戦略的拠点は全て押さえたかった」と分析する。
ロシア政治外交史が専門の防衛省防衛研究所の花田智之主任研究官は「ソ連の対日戦後構想を理解する上で、目覚ましい発見だ」と評価している。史料は10月末に開催される日本国際政治学会で発表される予定。」
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8月15日11:12 MicrosoftNews 文春オンライン「玉音放送2日後、北海道をソ連兵9000人が奇襲した「知られざる地上戦」《元日本兵が証言》
玉音放送の2日後、ソ連が侵攻。男たちは故郷のために命をかけた――。ノンフィクション作家・早坂隆氏による「証言・ソ連を北海道から撃退せり」(「文藝春秋」2022年9月号)を一部転載します。
【画像】ソ連兵9000人に奇襲された北海道・占守島の現場
◆ ◆ ◆
第一線の交戦を知る「最後の証言者」
小田英孝さん
ロシアによるウクライナ侵攻を契機に、日本でも戦争について考える機会が増えている。「実際の戦場では何が起きているのか」「ロシア軍の実態とは?」といった疑問を感じている方は少なくないであろう。降伏に関する議論も過熱している。
こうした時こそ、歴史に教訓を求めるべきである。とりわけ日本は、対ロシア(ソ連)関係において、実は「良き教材」を有している。
それが日本の「国のかたち」を守った「占守(しゅむしゅ)島の戦い」である。この戦闘がなければ、日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていた可能性が高い。
だが、そんな重要な戦闘であったにもかかわらず、この史実はあまり知られていない。本稿では、占守島で実際に戦った元兵士の証言を軸としながら、その知られざる実態について迫っていきたい。第一線の交戦を知る「最後の証言者」による貴重な記録である。(以下、一部敬称略)
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昭和3(1928)年2月14日、小田英孝(ひでたか)は北海道足寄(あしょろ)郡陸別町に生まれた。根室商業学校を卒業した小田は、昭和18(1943)年12月、静岡県富士宮市にある難関の陸軍少年戦車兵学校に合格(5期生)。現在、94歳の小田は、笑みを浮かべながらこう語る。
「どうせ徴兵で兵隊になるのなら、自分の好きな兵科のほうが良いと思い、少年戦車兵を選びました。国や故郷、親兄弟を守りたいという気持ちは当然ありました」
昭和20(1945)年1月、同校を繰り上げ卒業した小田の派兵先が、千島列島の最北端に位置する占守島だった。日本軍はアリューシャン列島からの米軍の進攻に備え、占守島の要塞化を進めていた。
「私は北海道出身なので占守島という地名は聞いたことがありました。でも他の戦友たちは知らなかったでしょう」
小田を含む11名は列車や船を乗り継いで小樽に到着。この時、初めて出会ったのが、戦車第十一連隊の連隊長に新任されて占守島に向かう途中の池田末男大佐だった。池田は明治33(1900)年、愛知県豊橋市の生まれ。陸軍士官学校卒業後、満洲の陸軍戦車学校の校長代理などを歴任し、昭和史に「戦車隊の神様」として名を残す人物である。
「小樽に越中屋旅館という宿があるのですが、そこで初めてご挨拶しました。本当に立派な方でしたよ。厳格なところが四分、柔和なところが六分。『豪傑』という雰囲気もあるのですが、決して厳しいだけの人ではありませんでした。私のような新米の少年戦車兵にも丁重に応対してくれる。食べ物も『皆の分がないなら、俺は食べなくていい』と」
敵は「ソ連ではなくアメリカ」だったはずが…
2月、小田は幌筵(ぱらむしる)島などを経て占守島に上陸。南北約30キロ、東西約20キロの島には、約8500名の日本軍将兵が駐留した。小田は元々、独立戦車第二中隊の所属だったが、同隊は戦車第十一連隊に吸収された。戦車第十一連隊は「十一」という隊号と「士」という字をかけて、「士魂部隊」と呼ばれていた。
戦車第十一連隊は6個の戦車中隊と1個の整備中隊から成っていたが、小田は第四中隊に配属された。中隊長は伊藤力男大尉である。当時、小田は17歳。階級は伍長だった。小田は島の様子をこう振り返る。
「寒いことで有名な陸別の出身のせいか、私は正直、雪や吹雪はあってもそこまで寒いとは感じませんでした。春になるといろいろな花が咲いて、とてもきれいな島でした」
第四中隊は、島の中央部に位置する大和橋という地に駐屯した。
「島には米軍からの空爆が時々ありましたが、そんなに緊迫した雰囲気でもなかったです。たまに米軍機の撃墜に成功すると、羊羹が1人1本出ました。食事は1日3食ありましたが、『2年分の食糧で4年食いつなげ』ということだったので、正規の量の半分。6~8分づきの玄米が主食でしたが、昆布やワカメを浜から採ってきてストーブで焼いて食べたり、野草を採ったりして凌ぎました。マスの群れが川に上ってきた時は嬉しかったですね」
ソ連との戦闘についてはどの程度、想定していたのだろうか。
「上層部は知りませんが、我々はそんなことは全然考えていませんでした。敵はソ連ではなく、あくまでもアメリカ。ソ連とは中立条約がありましたからね。中隊長のお供で二度ほど島の北端の国端崎(こくたんざき)に行きましたが、そこで双眼鏡を覗くと、海峡を挟んだ対岸にソ連兵の姿が見えるんですよ。でも互いに攻撃はしない。上官からは『日本はアメリカとの停戦交渉の仲介役をソ連にお願いしているところだから、余計なことはするな』と言われていました」
この言葉通り、日本政府はアメリカとの仲介役をソ連に依頼していた。しかし、実際のソ連はすでに同年2月、アメリカ、イギリスと対日参戦に関する密約を結んでいた。ソ連は日本からの仲介依頼をはぐらかしつつ、対日参戦の準備を秘密裏に進めていたのである。ソ連は日本の敗戦時に電撃参戦して領土を奪取し、戦後の国際情勢を優位に進めようと考えていたのだった。
ソ連の奇襲が始まった
8月15日、玉音放送が流れた。
「雑音でほとんど聞き取れませんでした。ですが、その日の夕方頃、人づてに『終戦』と聞きました。負けたということでしたが、故郷の北海道は戦場にならなかったし、ホッとした部分もありました」
翌16日、伊藤中隊長から「今日1日はゆっくり休め。明日以降はいつ米軍が来ても武装解除に応じられるよう、戦車の中まできれいにするように」との指示が出された。
「自分の銃を敵に渡す時、もしその銃が汚れていたら、敵兵に『ああ、こんな軍だから負けたんだ』と思われるかもしれない。そうなったら恥でしょう。ですからきれいに磨いて渡そうと思いました」
しかし17日の夜、状況は一変した。島の北部が不意の砲撃に晒されたのである。終戦後にもかかわらず、ソ連が奇襲を開始したのだった。
18日午前1時過ぎには、ソ連軍の海軍歩兵大隊などが占守島北端の竹田浜に殺到。陸軍の狙撃連隊などがこれに続き、ソ連軍の兵力は延べ約9000人に及んだ。浜一帯は激しい地上戦の舞台と化した。
ソ連軍侵攻の報は、「北の備え」の指揮をとっていた札幌の第五方面軍司令部にもすぐに送られた。この時、第五方面軍の司令官だったのが樋口季一郎(きいちろう)中将である。樋口は満洲のハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年3月、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民に特別ビザを出すよう奔走して救出した経歴を持つ。そんな「知られざる名将」である樋口は、ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定。実は樋口は若い頃から「対ソ戦」を専門とする情報将校だった。樋口はソ連の南下政策と野望について充分に研究していたのである。樋口はこう現地に打電した。
「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」
ソ連軍の侵攻を占守島で阻止しなければならない。もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は千島列島を一気に南下し、北海道まで迫るであろう。樋口はそう分析した。
樋口の考えは当たっていた。ソ連最高指導者のスターリンは、釧路と留萌(るもい)を結んだ北海道の北半分を占領する計画を有していたのである。
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ノンフィクション作家・早坂隆氏による「 証言・ソ連を北海道から撃退せり 」の全文は、「文藝春秋」2022年9月号と「文藝春秋digital」に掲載されています。
早坂 隆/文藝春秋 2022年9月号」
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