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ロシア(ロシア人・ロシア正教)は、宗教的白人至上主義の人種差別主義でユダヤ人など非白人非キリスト教徒異民族を「神の御名」によって大虐殺していた。
ロシア人から見れば、日本人は虐殺しても罪に問われる事がない野蛮人・未開人であった。
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弱小国日本は、ロシアの軍事侵略とキリスト教会の宗教侵略から天皇・国・民族と歴史・文化・伝統そして宗教・言語を大軍大艦隊の武力で守る為に近代的軍国主義政策を採用した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)「ポグロム」の解説
ポグロム
погром/pogrom ロシア語
集団的な略奪、虐殺、破壊行為をさす語で、一般にユダヤ人に対する集団暴力事件をいう。民衆の反ユダヤ感情は近代に入ってもヨーロッパの東西を問わず根強いものがあったが、帝政ロシアでは官憲当局自体が反ユダヤ感情の現れを抑止しないばかりか積極的に利用し、使嗾(しそう)すらしたので、その種の事件は激烈、過酷な形をとった。とくに、皇帝アレクサンドル2世暗殺(1881)の衝撃を直接の契機とする1881~84年の事件と、民衆運動の高揚、第一次ロシア革命(1905)を背景とする1903~06年の事件が、大規模なものとして知られている。また、十月革命後の内戦期に反革命勢力が引き起こしたこともある。ポグロムは中世以来の宗教的偏見を土台とし、激化する階級対立のなかでユダヤ人がスケープゴートとされた悲劇であるが、アメリカへのユダヤ移民の顕著な増大、近代シオニズムの成立など、ユダヤ人社会に及ぼした影響も大きい。
[原 暉之]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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イスラエルの起源 ロシア・ユダヤ人が作った国
講談社選書メチエ
イスラエルノキゲンロシアユダヤジンガツクッタクニ
著:鶴見 太郎
「イスラエル」は、どんな国でしょうか? 中東でよく戦争をしている、小国だが強大な軍事力をもっている、と思う人もいるでしょう。一方、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』(1993年)を思い出しながら、長らく迫害されてきたユダヤ人がナチスによるホロコーストの末、ついに作り上げた国と考える人もいるかもしれません。
迫害されてきたかわいそうなユダヤ人が念願かなって作った国、しかしアラブ人(パレスチナ人)を迫害している攻撃的な国――このような対極的なイメージは、いかにして生まれてきたのか。本書は、この謎に迫ります。
ホロコーストがイスラエル建国の大きな後押しになったことは間違いないとしても、そのことはイスラエルの軍事的な志向性を説明しません。さらに歴史を遡ると、19世紀後半からユダヤ人が変化していったこと、それが「国家」による自衛を求める動きにつながっていったことが明らかになります。そこで重要な役割を演じたのが、ロシア人でした。
その具体的な動きを追っていくために、本書はまずロシアのリベラリストに注目します。民族の自由を訴え、それゆえユダヤ人の同化にも反対したマクシム・ヴィナヴェル(1862-1926年)の活動を追っていくとき、パレスチナにユダヤ人国家を作ることを目指すシオニズムに共鳴したユダヤ人の中にも同じ主張をもつ者がいたことが分かります。その典型は、ダニエル・パスマニク(1869-1930年)に見られるものです。
ところが、1880年代にロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への迫害が始まると、ユダヤ人的側面とロシア人的側面を共存させていたロシアのユダヤ人たちは、徐々にユダヤ的側面に特化していきます。そのときユダヤ人たちがもったのが、ロシアの近代化に寄与してきたユダヤ人は「西洋的」だが、ロシアはそれに対立する「東洋的」な性格を持ち続けている、という認識でした。「東洋的」なロシアによって「西洋的」なユダヤ人が苦境に陥ったとき、「西洋的」な国家はユダヤ人を助けない──その経験は、やがてイスラエルが建国され、アラブ人の暴動が起きたとき、同じ構図をユダヤ人の中に想起させるのです。
『ロシア・シオニズムの想像力』で高い評価を受けた気鋭の研究者が巨大な問いに挑む渾身の論考。現代世界を読み解く手がかりが、ここにあります。
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ホロコースト百科事典
ポグロムというロシア語は、「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味を持っています。 歴史的にこの言葉は、ロシア帝国のユダヤ人以外の市民が地元のユダヤ人に対して行う暴力的な攻撃を意味します。 ポグロムと分類される最初の事件は、1821年のオデッサにおけるユダヤ人に対する暴動でした。1881年から1884年にかけて、アレクサンドル2世の暗殺に続き、ウクライナとロシア南部で広範囲に行われた反ユダヤ暴動によって、「ポグロム」という用語が一般的に使用されるようになりました。 ホロコースト時代のドイツと東欧では、ロシア帝国時代のように、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が伝統的な宗教的反ユダヤ主義を強化しました。 これはポグロムの口実となりました。
ポグロムの実行者は、ときには政府や警察に奨励されながら、地元で組織を編成しました。 彼らはユダヤ人に対して、強姦や殺害、所有物の略奪などを行いました。 内戦とそれに続く1917年のボルシェビキ革命中、ウクライナ国家主義者、ポーランド当局者、赤軍兵士などはすべて、ベラルーシ西部とポーランドのガルシア地域(現在の西ウクライナ)でポグロム的な暴力行為に加担し、1918年から1920年にかけて何千人ものユダヤ人が殺害されました。
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ウィキペディア
ポグロム(погром、パグローム)とは、ロシア語で「破滅」、「破壊」を意味する言葉である。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。
歴史的にこの語は、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為と、同様な出来事について使われる。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的な暴力と殺戮を伴っている。
概要
13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュラフタ(ポーランド貴族)およびポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。
1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルティン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。
17世紀ウクライナ・コサックのフメリニツキーの乱で起こったポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。
1795年の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア共和国が完全に消滅してその東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったポーランドやリトアニアのユダヤ人はハプスブルク家に庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人には裏切り行為と受け取られた。
1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ文化圏の全域に大規模な反ユダヤ暴動が広まった(ヘプヘプ・ポグロム)。1821年(以降1905年まで複数回)、ロシアのオデッサで勃発した(オデッサ・ポグロム)。
19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシア各地で反ユダヤ主義のポグロム(en、1881年-1884年)が起きた。このポグロムは数年にわたって続き、主にユダヤ系の町人、商人などの下層民が被害にあった。後にはロシア帝国をはじめ各国でユダヤ人殺戮のポグロムが盛んに行われた。
1905年、ロシアのエカテリノスラフにおけるポグロムで犠牲になったユダヤ人の子供たち
帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになった。1903年から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなりシオニズム運動を招くことになった。第二次世界大戦でもポーランド東北部の村落を中心にユダヤ人がソ連および赤軍と密通しているとの疑いを掛けられ、時にはポーランド人やウクライナ人などナチス・ドイツ支配下に置かれた民族によってポグロムが起こされている。その代表的なものにイェドヴァブネ事件が挙げられ、数百人のユダヤ教徒の村人たちが近隣のキリスト教徒に殺された。ユダヤ教徒の住民の一部は実際にソ連側と密通していたとされているが、罪のない住民も同様の疑いを掛けられて巻き添えとなった。
このような暴動を起こす人物は「理性をなくした、へべれけに酔っ払った農民」だという者もいるが、実際には計画的、組織的に徹底して行われた。
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