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ド・ゴールが暗黒大陸アフリカの解放の端緒を開いた。
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政治は、国民の人気取りではないし、国民の下僕でもなく、まして国民世論の要求を忠実に実行する事ではない。
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2020年3月7日号 週刊現代「リレー読書日記
真の評価は歴史が決める。
決断の連鎖を乗り越えた、『本物のリーダー』たち
楠木建
競争戦略論という分野で仕事をしている。戦略とは決断(の連鎖)であり、決断とは選択である。リーダーの一義的な役割は決断をすることにある。
ポイントは2つ。第一に、決断が選択である以上、複数の選択肢がなければならない。『○○せざるを得ない』という言葉を軽々に使う人はリーダーの要件を欠いている。これは単に『追い込まれている』のであり、もはや戦略ではない。
第二に、真の戦略的意思決定は『良いこと』と『悪いこと』の間の選択ではない。決断は常に『良いこと』と『良いこと』、もしくは『悪いこと』と『悪いこと』のどちらを選ぶのかという問題である。ここに決断の難しさがある。
良いことと悪いことであれば、前者を選べばいいに決まっている。そんな仕事は誰でもできる。そもそも『決断』は必要ない。
無能なリーダーは『一理ある』というフレーズを連発する。しかし、『一理もないこと』など存在しない。錯綜するさまざまな『理』のどれを捨てるのか。これが決断の正体だ。それは定義からして『苦渋の決断』になる。
鹿島茂『本当は偉大だった嫌われ者リーダー論』は、政治リーダーの決断に注目する。歴史上の5人のリーダーを取り上げているが、劈頭(へきとう)のド・ゴールの章は抜群に面白い。
第二次世界大戦でナチスドイツに支配されると、ひとりロンドンに渡り亡命政府を宣言、徹底抗戦を呼びかける。戦後処理でもチャーチルやルーズベルトを相手にした交渉で粘りに粘り、自らフランス政府代表と認めさせ、ついには植民地軍を統率して『戦勝国』の将軍としてパリに凱旋──。ここまでの『救国の英雄』としてのド・ゴール像は日本でもよく知られている。
しかし、この人の凄みはその十数年後の晩年に下した一大決断あにる。
日本が『もはや戦争しかない』という戦略喪失状態で開戦に踏み切ったのは、最後通牒で突きつけられた満州からの撤退をどうしても飲めないからだった。すでに満州には巨額の投資をしており、多数の日本人が満蒙開拓団として生活し、関東軍という軍隊まで持っていた。満州放棄という選択は内戦になりかねなかった。
著者の洞察は鋭い。当時のフランスの状況はこれに似ていた。アジアの植民地からの撤退はそう難しくない。事実、ベトナムからの完全撤退は国民から歓迎された。しかし、アルジェリアには100万人近いフランス人(コロン)が入植し、経済的にも不可分の関係にあった。
決断の裏にある『覚悟』
54年にアルジェリア戦争が勃発し、事態はいよいよ混迷を深める。こうなったら植民地に顔が利くド・ゴールしかない。全権委任を条件にギリギリのタイミングで首相を引き受けたド・ゴールは、アルジェリアの総督府でコロンの大群衆を前に演説する。『君たちの言いたいことはよーくわかった』。人々は『フランスのアルジェリア』路線を信じた。
しかし、内心では民族自治路線を決意していたド・ゴールは完全独立へと一気に舵を切る。戒厳令並みの強権を振るい反乱軍を鎮圧し、132年間のアルジェリア支配に終止符を打った。
フランス国民の怒りはすさまじかったが、この決断がアフリカの民族自治の潮流を生み、泥沼の植民地問題を回避することになった。これぞ決断中の決断。『その成否は歴史しか評価できない』という覚悟がある。ド・ゴールは『決断王者』の観がある」
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真の支配者・指導者とは、国民領民の要求に従って好かれる者ではなく、暴力と死で従わせる者でもなく、国民領民に不利益を与え犠牲を強いて嫌われてもそれが正しい政策と確信を持って実行できる者である。
国民領民の人気取りの為に正しくない政策を敢えて実行する支配者・指導者は、排除すべき悪である。
自国民に犠牲を強いて勝利をもたらした偉大な指導者の代表が、自由・民主主義のフランクリン・ルーズベルトとチャーチル、そしてド・ゴールである。
その反対の最悪な指導者が、全体主義のヒトラー、スターリン、毛沢東である。
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ウィキペディア
アルジェリア戦争(英語: Algerian War, アラビア語: ثورة جزائرية; フランス語: Guerre d'Algérie)は、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(名目上は植民地ではなフランス本国の一部とされた)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内で完全なフランス市民権を付与されていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。
フランス政府では公式には戦争として認定されず、「アルジェリア事変」(évènements d'Algérie)や、「北アフリカにおける秩序維持作戦」と呼称されていたが、1999年10月になり法改正され正式にアルジェリア戦争(Guerre d'Algérie)と記される様になった。
背景
詳細は「アルジェリアの歴史#フランス領時代(1830年-1962年)」および「アルジェリア侵略」を参照
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、1881年に東隣チュニジアをオスマン帝国から確保、1912年に西隣モロッコを保護領として支配下に組み込むなど、北アフリカ支配の拠点としていた。その様子は、アルジェリア戦争初期には「セーヌ川がパリを横切るように、地中海がフランスを横切る」と称されるほどであった。
ヨーロッパ系コロン(ピエ・ノワール)と、同化によって市民権を付与されたユダヤ教徒や一部のムスリム以外の先住民は差別、抑圧されており、1945年の第二次世界大戦終結後、アジアなどから急激に広がった民族自決の流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。1952年1月に起こったフランスによるチュニジア民族運動弾圧は、植民地支配に固執するフランス人の国際的評価を下げた。また、1954年のジュネーヴ協定によってインドシナ4国(南北ベトナム含む)が正式に独立に至ったことは、フランスの全植民地・海外領土に暮らす人々を力づけるものであった。
フランスの政治的混乱
「フランス第四共和政#共和国の崩壊」も参照
フランス本国の世論もアルジェリア民族解放戦線の独立運動を支持する側とフランスの国家的威信を優先させる側に分裂する。1958年5月13日、「フランスのアルジェリア」を支持する現地軍人やコロンたちの暴動は済し崩し的にクーデターに発展し、フランス本土侵攻の脅威によって第四共和政政府は有効な解決策を出せずに危機に追い込まれ、崩壊状態となった。
政府の出馬要請により軍部を抑えることのできる人物としてシャルル・ド・ゴールが首相に就任し、9月28日に新憲法を国民投票で承認させ、10月5日第五共和政が開始された。
コロンやアルジェリア派遣フランス軍は当初、第二次大戦の英雄であるド・ゴールが強硬策をとるものと期待した。しかしド・ゴールは、フランス国内の厭戦気分の蔓延、植民地主義の終焉を告げる国際社会の趨勢、増大する戦費に耐えかねるフランス経済などを総合的に考慮し、同年9月にはアルジェリア独立を容認する姿勢を明確にするに至った。12月12日に人事刷新を図り、自らを担ぎ出したサラン将軍を閉職に追いやり、軍政を廃止して文民であるポール・ドルーヴリエ(英語版)に統治をゆだねた。また、空軍部隊司令官に自らの派閥に近いシャール空軍大将を就任させた。ただし、現地駐留軍の中核的人物であったジャック・マシュ将軍はアルジェ地区行政長官に就任させ、駐留軍の動揺を抑えた。1959年1月、ド・ゴールはフランスの大統領に就任し、直ちに非常事態権を発動した。
「バリケードの1週間」(1961年1月)
1960年、フランスは年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認し、後に「アフリカの年」と呼ばれるようになる。1月24日、アルジェではマシュ将軍の師団長更迭に端を発する暴動事件であるバリケードの1週間が発生、事態は解決したが極右活動家や過激傾向の軍人は逮捕あるいは更迭された。
このような情勢下でド・ゴールは7月に「アルジェリア平和計画」を発表した。この中で明確にされたドゴールのアルジェリア独立容認方針は、アルジェリアで戦う軍人とコロンの反発を買い、11月にはコロンらの反ド・ゴール暴動を招いた。しかし、1961年1月にフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票では、75パーセントがアルジェリアの民族自決を、つまりはド・ゴールのアルジェリア独立方針を支持した。
一方、フランスではバリケードの1週間の首謀者連に対する裁判が行なわれたが、被告人のほとんどが軽い量刑で済まされ、釈放後は多くが地下活動に転じ秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス軍やフランス官憲に対して反乱を開始した。彼らはアルジェリアはフランス固有の領土であると信じ、この戦いをヨーロッパ文明と野蛮との戦いと位置づけた。OASはアルジェリアやフランス本土で、フランス人政治家や警察官僚らを殺害するなどテロ活動を活発化させ、1961年9月にド・ゴールの暗殺を計画するが失敗した。だが、暗殺計画の発覚でコロンとOASへの支持は失墜して、フランス本国でもアルジェリア独立の支持が高まった。
1961年4月には将軍達の反乱が発生、アルジェリア駐留軍から空挺部隊が決起し、OASも参加して1958年5月の危機と同じく内戦の寸前の事態にまで陥ったが、ドゴール大統領の強硬な態度と駐留海空軍の離反、そして混乱のさなかにサハラ砂漠で実施された核爆発実験の衝撃がクーデターに止めを刺した。このときフランス国民は空挺部隊が本土を奇襲するのではと大変恐れたという。この事件以降、アルジェリア民族解放軍の軍事行動は激減し、フランス軍の平定作戦は小康状態となり軍内部の粛清と、OASとの戦いに注力した。
休戦交渉
OASのフランス軍、アルジェリア民族解放戦線、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはアルジェリア民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月、レマン湖畔・エヴィアン=レ=バンでエビアン協定を締結。アルジェリア独立が承認され、フランス軍とアルジェリア民族解放戦線の戦闘は停止する。4月のフランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み90%以上がアルジェリア独立を支持した。
一方、OASはますますテロを激化させ、アルジェリア民族解放戦線を襲撃するほか「アルジェリアをフランス統治時代以前の状態に戻してから返してやる」としてフランスがアルジェリアに建設してきた近代的インフラストラクチャーをも破壊し始めた。アルジェリア民族解放戦線も報復テロを行い、アルジェリアに留まることがエヴィアン協定で認められていた一般人のコロンらはテロの応酬による無政府状態を恐れて次々とアルジェリアからフランスへの脱出を開始した。OASにもさすがに敗北を認めるものが現れ、6月にはアルジェリア民族解放戦線と停戦に至ったが、もはやコロンの大半はアルジェリアを脱出しようとしていた。
6月28日、休戦交渉中にフランス軍はNATO抽出の2個師団を西ドイツに帰還させ、7月にアルジェリアで実施された投票では絶対多数で独立が採択され、アルジェリアの独立が決定する。初代大統領にはアルジェリア民族解放戦線の創設者であるベン・ベラが就任した。
アルジェリア民族解放戦線は以後アルジェリアを主導する政治勢力となったが、長期政権化して次第に国民の不満が高まるようになった。OASはこの戦争後もフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試みたが失敗し続け衰退した。アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万のアルジェリア人(アルキ、harki)に対してはアルジェリア民族解放戦線などによる報復が行われ、多くが殺され、また多くがフランスへ亡命することとなった。
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