☭55』─1─レフチェンコ事件。1979年。~No.107No.108  

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 スタニスラフ・アレクサンドロヴィチ・レフチェンコ(ロシア語: Станислав Александрович Левченко、1941年7月28日 - )は、1979年にソ連からアメリカ合衆国へ亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)少佐である。1989年にアメリカ国籍を取得。
 レフチェンコ事件
 「レフチェンコ事件」を参照
 1982年12月にはアメリカ議会などで、KGBによる日本のスパイ組織網に関する証言を行い、さらにKGBの日本人協力者およそ200人の名前を供述した。協力者リストには、自由民主党石田博英労働大臣や日本社会党勝間田清一委員長などの政治家、テレビ朝日専務の三浦甲子二、産経新聞編集局長の山根卓二などジャーナリスト、外交官、内閣調査室など情報機関員の名前が記載されていた。
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 山根 卓二(やまね たくじ、1928年1月5日 - 2008年9月5日)は日本の新聞記者。産経新聞の編集局次長を経て常務取締役編集局長に就任した。
 略歴
 島根県松江市生まれ、東京都出身。旧制松江中学校から東京陸軍幼年学校を卒業。終戦時は陸軍士官学校の2年生であった。東京大学文学部を卒業後、1953年に産経新聞社に入社(同期に俵孝太郎)。1982年には同社の常務取締役東京本社編集局長に就任。しかし、レフチェンコ証言によりソビエト連邦KGBのスパイである疑いが濃厚になり、引責辞任した。
 辞任後は罪には問われず。西友の顧問、日本衛星放送(WOWOW)取締役などを歴任し、テレビ埼玉の社長を6年務めたあと会長に就任した。2008年9月5日、肺炎のため東京都三鷹市の病院にて死去した。80歳没。
 レフチェンコ事件
 「周恩来の遺書」記事
 山根は東京本社編集局次長時代の1976年1月23日付サンケイ新聞中華人民共和国周恩来元首相が遺書を残し、その中で毛沢東が死ぬ直前に中華人民共和国の指導部内で深刻な対立があったことを示唆した、との署名記事を書いた。この記事の中でニュースソースは『ある筋としか書けないのだが』としていた。
 レフチェンコ証言
 1979年10月、KGBの少佐として日本で工作活動をしていたスタニスラフ・レフチェンコが日本のアメリカ大使館に亡命申請をし、即座に認められ米国本国へ亡命した。その後、米国ではレフチェンコを議会に招喚し秘密聴聞会を行った。1982年7月14日、レフチェンコは米国下院の秘密聴聞会で日本のジャーナリストを操っていたと証言。さらに「大手新聞社の工作員1人はオーナーがきわめて信頼を寄せる人物であり、ソ連がこの新聞を通じて自国に有利な政治状況を作るのにその工作員を利用した。」とし、「彼(工作員)は『周恩来が遺書を残している』という記事を書いたが、これこそ1970年代にソ連が捏造したものの中で最も成功したケースであった。」と上記山根が書いた「今日のレポート」を指し示しながら証言した。
 スクープ
 このレフチェンコ証言を当時毎日新聞の特派員であった古森義久が1982年12月2日にスクープとして報道した。一週間後に公開された当該聴聞会の議事録では山根の書いた「今日のレポート」が添付され、ねつ造(FORGERY)のスタンプが押されたものだった。1987年、古森は当の産経新聞に引き抜かれ、ロンドン特派員を経て、ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員に抜擢されている。
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