- 作者:開高 健 ほか
- 発売日: 2012/04/05
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ベトナム戦争は、独立戦争であり民族戦争でもあった。
民族戦争とは、ベトナム人と中国人・華人・華僑との戦争で、ベトナム人が勝利した。
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韓国軍は、ベトナム戦争で人道に対する罪である、ベトナム人に対して虐殺と強姦及び強制連行による従軍慰安婦を行っていた。
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2018年5月6日 産経ニュース「【ASEAN見聞録】ソンミ村虐殺から半世紀 ベトナム対米配慮の中…生存者が語る「あの日」
自分を救出した米軍人の遺影を持つ、ソンミ村虐殺事件の生存者ド・バさん
1955年から20年続いたベトナム戦争では、多くの市民が犠牲となった。中でも、68年に米陸軍部隊が無抵抗の住民504人を殺害した「ソンミ村虐殺事件」は、米国や日本で反戦運動が盛り上がるきっかけとなった。事件発生から50年目の今年3月16日、中部クアンガイ省ティンケ(旧ソンミ)村の虐殺現場跡に整備された記念公園では、ベトナム政府要人や元米兵ら約千人が、追悼式典を開いた。ただ、生存者たちの声はあまり伝えられなかった。背景には、南北内戦の歴史を封印し、米国との関係強化を狙う、ベトナム政府の思惑が指摘される。
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記念公園にほど近い自宅で、事件を生き残った女性、チュロン・ティ・レイさん(87)は、当日のことを淡々と話した。
早朝、「VC、VC」と叫ぶ米兵に追い立てられ、地区の住民全員が農業用水路沿いに並ばされた。VCとは、当時の北ベトナムが支援し米軍が手を焼いた、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を指す。
地区には女性や子供しかいなかったが「動く物は牛にもVCと叫んでいた」。銃で掃射され、当時6歳だった息子を抱えたまま、水が抜かれていた水路に落ちた。覆いかぶさってきた人が弾よけとなった。じっとしていた。事件を知り駆けつけてきた親類が、遺体の山の中から見つけてくれた。母、娘、もう1人の息子の3人を含む地区の102人が死亡。助かったのは、自分と抱いていた息子の2人だけだった。
今年3月16日の追悼式典にあわせ、ベトナム政府は、記念公園の拡充計画を発表した。海外から多くの人が訪れる“観光地”となっており、国際的な支持も期待できる。
一方、共産党一党支配のベトナムでは、厳しい言論統制が続く。ある地元記者は、ベトナム政府は式典当日、政府方針に沿った発言を行う者だけを取材に応じさせ、レイさんら生々しい証言をする生存者は、メディアから遠ざけられたと指摘する。
統制理由のひとつは、いたずらに市民の反米感情を招かないための配慮だ。ベトナムは米国と95年に国交を正常化し、近年は最大の輸出相手国となった。今年3月5日には、追悼公園から約150キロ離れたダナン港に、ベトナム戦争終結以来初めて米空母が寄港し、南シナ海の領有権で衝突する中国を牽制した。政府としては、経済と安保で関係強化を目指す中、「米軍の虐殺の犠牲者にも、未来志向の両国関係だけを強調してもらう必要がある」(地元記者)というわけだ。
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同じく記念公園近くに住むド・バさん(59)も、10人ほどという「ソンミ事件」の生存者だ。居間の祭壇には、祖父と父に並び、「命の恩人」である2人の元米軍人、ヒュー・トンプソン氏とローレンス・コルバーン氏の遺影も祭られていた。そのいきさつを静かに語った。
事件当日の午前5時半ごろ米兵が来て、用水路脇に並ばされた。同6時ごろ掃射が始まり、1時間ほど続いた。弾が腹部を貫通した。遺体の山の中で息を潜めていた。30分ほどすると、ヘリコプターが降り立ち、乗ってきた米兵に抱きかかえられた。死んだふりをした。だが、自分をなでる手に優しさを感じ半眼を開けた。ヘリで病院に運ばれた。この地区では、母と兄妹3人を含む約170人が死亡、生き残ったのは自分だけだった。
バさんは98年、追悼公園を訪ねてきたトンプソン氏とコルバーン氏に再会し「抱き合って涙を流した」。彼らは2回目の来訪でバさんを探し当てた。すぐに「あのときの彼らだ」と分かった。両氏はその後も2回やってきて再会を重ねたが、すでに他界した。両氏の未亡人は健在と聞いており「米国に会いに行きたい」という。
ただ、バさんは、米軍の虐殺を許したわけではない。ベトナム政府が「煙たがる」存在だ。
ソンミ事件は発生翌年に米誌報道で表面化し、米軍法会議は70年、関与した14人を起訴。指揮官だったカリー中尉だけが有罪判決を受け、74年に仮釈放された。バさんは、この米側の対応を「不公正」とし、中尉らが「VCについて経験も知識もなかった」と批判する。
事件当日、バさんと一緒に暮らしていた祖父は農作業に出ていて助かったが、終戦後の75年に地雷を踏み死亡。父親はベトコンで、69年に南ベトナム政府に捕まり収監され、終戦後に釈放されたが、暴行の後遺症で2カ月後に死亡した。戦争で全ての家族を失ったバさんは今、妻が南部ホーチミンで働き、11歳の1人息子と農業で生計を立てながら暮らしている。ベトナム政府からも米国からも、補償は受けたことはない。
ベトナム政府が米国に補償を求めない理由には、内戦に絡む全ての歴史を封印したいとの思惑もある。当時の虐殺加害者は、米国に限らない。補償問題が、旧南北ベトナムによる戦争被害者の救済要求などに発展すれば、国内の対立を呼び覚まし、党の支配体制をも揺るがしかねない。
事件から半世紀。米軍部隊では現在、規律維持のために上官が、「ソンミ事件を繰り返すな」と訓示することもあるという。一方のベトナム側は、虐殺事件を率直に「歴史の教訓」としきれない、複雑な事情を今も抱えている。(ティンケ村 吉村英輝、写真も)」
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国際社会は、ベトナム戦争時の韓国軍やアメリカ軍の虐殺は不問に付しても、日本軍の第二回南京事件は未来永劫時効なき戦争犯罪として歴史記憶遺産と認定している。
同様に、中国軍が日本人一般人に行った数多くの虐殺事件は正当防衛として罪には問うてはいない。
つまり、日本人は殺されて当然であると。
日本国内でも、中国人や朝鮮人やロシア人に虐殺された日本人一般人(女性・子供・老人)が惨殺されても見向きしない日本人が数多くいる。
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歴史の審判は、日本を有罪とし、アメリカ、ロシア、中国、韓国、朝鮮を無罪としている。
日本は、この歴史の審判による「有罪」から逃れる事ができない。
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ウィキペディア
フエ虐殺
1968年のテト攻勢では1月31日から2月24日にかけてフエで戦闘が展開され、町は多大な被害を被った。テト包囲戦の中で、およそ2,800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士によって殺害された 。
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テト攻勢は、ベトナム戦争において1968年1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍(NVA)及び南ベトナム解放民族戦線(NLF)による、南ベトナムに対する大攻勢である。
フエ事件
南ベトナム解放民族戦線は、占領した街で南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していったが、その中には文民(その多くが政府職員)や修道女も含まれていた。フエでは予め処刑者の名簿が配られており、名簿に名前がある人物は、殆どが後頭部に銃弾を撃ち込まれて射殺された。この攻撃は結局、南ベトナム解放民族戦線への恐怖を、南ベトナム国民に知らしめる役割を果たした。
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フエ事件
詳細は「フエの戦い」および「フエ事件」を参照
テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエ(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)では、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと伝えられている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2,000人以上であるとされている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と南ベトナム解放民族戦線の攻防戦が続けられていた。
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