💥6」7」─1─ナイジェリア大虐殺。チリ軍事クーデター。社会主義体制の限界。1967年~No.14No.15No.16No.17No.18No.19 @ ③

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 国際経済・国際市場が、アメリカやEU諸国など資本主義体制の自由・民主主義国家によって運営されている以上、アメリカやEU諸国との共存を拒絶しては如何なる国も生存できない。
 特に、アメリカ依存が異常なほどに高い日本ではそれがいえる。
 アメリカへの依存を断ち切り、EU諸国との交易を縮小した時、日本は生存できない。
 人口が激減し自給自足できる資源もない日本が、一国のみで自活する事はできない。
 日本と同じ地理及び社会条件の国がない以上、日本が手本とする国など地球上には存在しない。
   ・   ・   ・   
 1967年7月(〜70年1月) ナイジェリア内戦で、イボ族150万人が虐殺された。
 イボ族は、黒いユダヤ人と呼ばれるほど教育レベルが高く商才があった為に、ナイジェリアからの独立を宣言して、東部州にビアフラ共和国を樹立した。
 ナイジェリア軍13万人は、ビアフラ共和国を攻め、ビアフラ軍3万人を撃破し、イボ族を虐殺した。
 内戦の激化で、深刻な飢餓が発生して餓死者がで、栄養不足で疫病が蔓延して病死者も出た。
 虐殺は、北部州でも起きた。
   ・   ・   ・   
 1968年 チェコ事件。
 「赤旗」1968年7月20日「宮本顕治書記長定例記者会見 チェコスロバキア問題について、他党は干渉すべきでないというのが、我々の基本的態度である
   ・   ・   ・   
 1970年 チリ。サルバドール・アジェンデ博士は、南アメリカで初めての自由選挙に勝利して政権を獲得し、大統領に就任した。
 大統領候補者と投票率。。
 社会主義政党の統一戦線である人民連合のアジェンデ、36.30%。
 国民党で元大統領のホルヘ・アレサンドリ、34.98%。
 キリスト教民主党のラドミロ・トミッチ、27.84%。
 アジェンデは、首位あったが過半数には至らなかった。
 チリ憲法の規定に従い、議会の評決による決選投票が行われる事となった。
 アメリカのリチャード・ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官
 アメリカは、ドミノ理論で南米に共産主義勢力が浸透する事を恐れ、反アジェンデ派の富裕層・軍部・右翼を支援し、アジェンデ暗殺を依頼した。
 陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は、「軍は政治的に中立であるべき」という信念からアメリカの依頼を拒否した。
 10月22日 決選投票直前に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。
 陸軍のロベルト・ビオー将軍は、襲撃に関与したとして逮捕された。
 各政党は、「チリの民主主義を守れ」との結束した。
 議会の決選投票で、キリスト教民主同盟は人民連合を支持して、アジェンデが大統領に選出された。
 1971年 合法的に誕生したアジェンデ政権は、社会主義的政策を実行して、アメリカ系企業の国有化と富裕層の資産を没収した利益を全て人民に還元した。
 4月 統一地方選挙。アジェンデ与党人民連合は、人民の支持を得て得票率50%以上を獲得した。
 右翼勢力は、左翼政権を打倒する為にCIAの支援を得て幾つかの武装集団を組織して破壊活動を初めて、政情を不安定化させた。
 アジェンデ政権による性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的経済改革は、チリ経済を停滞させインフレと物不足を引き起こした。
 アメリカは経済制裁を行い、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出し、銅の国際価格を低下させた。
 チリ経済は、銅の輸出に大きく依存していた為に、銅の国際価格低下で大きな打撃をけた。
 チリ経済の混乱状態で、財政は悪化した。
 1973年3月 総選挙で、人民連合は43%を得票した。
 キリスト教民主党は、CIAと裏取引して反アジェンデに回った。
 反共産主義勢力は、キリスト教民主党が味方についたことでアジェンデの排除と武力による国家転覆が可能と判断した。
 6月29日 戦車クーデター。軍部と反共産主義勢力は、首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。
 8月 陸軍総司令官・カルロス・プラッツ将軍は、前任のシュナイダー将軍同様に「軍は政治的中立を守るべし」を信念としていたが、軍内部の反アジェンデ派に抗し切れずに辞任した。
 プラッツの後任として、アウグスト・ピノチェト将軍が新たな陸軍総司令官に就任した。
 9月11日 アウグスト・ピノチェト将軍は、CIAの全面的支援を得て軍事クーデターを起こして首都・サンティアゴを制圧した。
 軍部は、ピノチェト将軍を支持して左翼左派を弾圧した。
 アジェンデ大統領は、大統領派の兵士と共にモネダ宮殿に篭城し、最後のラジオ演説を行った後に銃撃で自殺した。
 モネダ宮殿は爆破炎上した為に、誰も遺体を確認できなかった。
 ピノチェトは、「アジェンデは自殺した」と公式に発言した。
 ピノチェト将軍は、軍事政府評議会(〜1989年)を設置して軍事独裁政治を始め、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くを検挙し、監禁、拷問、殺害した。
   ・   ・   ・   
 2016年7月号 WiLL「曽野綾子 その時、輝いていた人々
 第30回 『クーデター日和(ひより)』
 ……
 チリで政変が起きた。クーデターの結果、当時のサルバドール・アジェンデ大統領が宮殿で殺されたのである。殺されたのか、自決したのか、今でも諸説あるらしいが、私はそういうことにあまり興味がない。
 チリは珍しい、正当な選挙によって選ばれた社会主義政権の国であった。……1970年、アジェンデが大統領に選ばれた時は大変喜び、チリがこれで汚職体質から解放され、貧しい人たちにも生活の上で光がさして来るだろう、と期待していた。しかしそれがものの見事に裏切られ、社会主義体制は、末期的な乱脈に陥っている、と書いて来ていた時期だったのである。……アジェンデ大統領は殺され、モネダ宮殿は炎上している、というニュースも伝わって来た。
 ……
 私はどこででもおもしろい話を聞いていた。社会主義政権の末期的堕落がどういう形をとるかを聞くのは実におもしろいことだった。左翼なら保守政権のような社会の矛盾と醜悪さを見せつけることはないだろう、と思っていたのだが、堕落の形は信じられないほど同じだった。
 社会主義者たちは、職場では働かなくなり、政治集会とデモばかりしていた。アジェンデ政権は一番目ぼしい銅の鉱山を国営化し、アメリカ人技術者たち(テクニコス)を追放したのだ、銅の生産能力はすっかり落ちていた。さらに与党の『左翼連合(ウニダポプラール)』の党員だけが、利権をほしいままにするようぬなった。つまり輸入も滞り、貧しさに陥った社会体制の恩恵を、党員だけがフルに受ける特権を所有する権力者になっていたのである。
 ないはずのガソリンも、パンも、党員なら並ばずに買える。政府のアパートも順番待ちのはずだったが、党員ならたやすく入れた。
 市民も怒ったが、何しろバスもストをしていて動けないのだからデモでもする他はなかった。小学生までが学校にいかずにデモに参加した。
 『大臣のばーか!』とシュプレヒコールは叫ぶのだが、スペイン語になるとその語調はすばらしかった。『ミニストロ(大臣)トーント(ばか)!』となるのである。リーダーが『ミニストロ!』と叫ぶと、デモ隊が『トーント(ばか)!』と付け加える。大臣が女性だと『トーンタ!』にすればいいのだ。
 ……
 一人の親友がいたが、社会主義政権になってから、すっかり人が変わったというのである。
 『どう変わったんですか?』
 私は尋ねた。
 『頑固になりましたね。1つの見方しかできなくなりました。そして話していて同じ言葉(ウナ・ソラ・パラーブラ)を何度でも繰り返すようになりました。それが共産主義者たちの特徴だと、チリ人は発見したと思います』」
   ・   ・   ・   
 1971年12月3日(〜16日) 第三次インド・パキスタン戦争。ヘンリー・キッシンジャーは、対ソ戦略として中国との関係を強くする為に、インド軍の動向を含む機密情報を中国共産党政府に提供した。





   ・   ・   ・   

幻の帝国―南米イエズス会士の夢と挫折

幻の帝国―南米イエズス会士の夢と挫折