💥3」─1─反ユダヤ主義者は、ホロコースト生還者を虐殺した。第一次中東戦争。難民条約。ベトナム戦争。キング牧師。1948年~No.5No.6No.7 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 マザー・テレサ
 「思考に気を付けなさい、それは何時か言葉になるから。
  言葉に気を付けなさい、それは何時か行動になるから。
  行動に気を付けなさい、それは何時か習慣になるから。
  習慣に気を付けなさい、それは何時か性格になるから。
  性格に気を付けなさい、それは何時か運命になるから。」
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 ユダヤ人は、欧米諸国の支援を受けてパレスチナユダヤ人国家を建国し、先祖代々パレスチナに住んでいた10万人以上のパレスチナ人は土地を追われた。
 故郷を追われたパレスチナ人達は、隣国のレバノンに逃げ込み各地に難民キャンプを建た。
 失地回復を目指すパレスチナ人達は、話し合いによる平和的解決は不可能と判断するや、武力による奪還をめざして世界中のアラブ同胞から軍資金を得て武装し、レバノン・難民キャンプを対イスラエル軍事拠点として使った。
 レバノンキリスト教徒は、難民キャンプを基地として隣国イスラエルと戦争を始めたパレスチナ武装勢力に反感を抱いき、パレスチナ人難民の長期滞在は定住につながるとして猛反対した。
 他国の難民が逃げて込んできた国では、当座は同情されて受け入れられるが、長期化すると地元住民との間で言語・文化・風習・習慣などの違いから軋轢が生じて排斥運動が起きた。
 イスラエルは、パレスチナ武装勢力に打撃を加える為にレバノンの難民キャンプを攻撃した。
 レバノン国内は、他国人であるパレスチナ人とユダヤ人の戦争に巻き込まれ、パレスチナ人を助けようとするイスラム教徒とパレスチナ人を快く思わないキリスト教徒で分裂し、政情不安定に陥った。
 カレン(2016年当時のレバノン社会問題省)「これらのキャンプも最初はテントだったが、やがて家になった。今でも『キャンプ』と呼んではいるが、実態はもうキャンプとはいえない」
 「48年にパレスチナ難民を受け入れたとき、レバノンは建国から5年の若い国だった。レバノン内戦はパレスチナ人の流入という悲劇の遺産でもあった」
 「レバノンは世界で最も人口密集の高い国の1つであり、これ以上の人口増加に対処できないという心配もある。同時に、国に同化しないコミュニティーの存在に対する感情的な反発もある」
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 1948年 トルーマンは、大統領再選が危ぶまれたが、選挙権取得適齢期のユダヤ人を大量に移民させて大統領選挙で勝利した。
 だが、人種差別や貧富格差は解消される事なく、リンチは絶えず殺人や強姦などもなくなる事はなかった。
 これが、アメリカ型民主主義による多数決である。
 5月14日 第一次中東戦争
 午後4時 イスラエルの初代首相D・ベルグリオンは、イギリスからの独立宣言を読み上げ、 念願としてきたユダヤ人の主権国家の建国を発表した。世界中に離散している全てのユダヤ人に、門戸を開放する事を約束した。
 約5時間後 アラブ諸国は、イスラエルに侵攻した。
 イスラエルは、防戦の劣勢に立たされていた。
 5月28日 国連安全保障理事会は、停戦交渉を始めるべく調整官を中東に派遣した。
 アラブ側は、世界各国から締め出されたユダヤ人難民のパレスチナ移住を即時中止する様に求めた。 穏健派は、ホロコーストから生き残ったユダヤ人難民の少数を移民させる事には理解を示していた。
 イスラエルは、移民は国内法の管理事項であり、国家主権に属する国内問題であるとして拒否した。
 国連は、両民族の摩擦を避けるべく、「軍人及び兵役年齢に達した者の移住を禁止する」というイギリス提案を土台にして4週間の停戦決議を採択した。
 イスラエルは、停戦期間を利用して、欧米諸国で兵役に就いていたユダヤ人を即戦力として入国させ、アメリカの兵器庫に溢れている余剰の武器弾薬を輸入した。全ての代金は、ユダヤ系国際金融資本が肩代わりした。
 停戦期間が終了するや、イスラエル軍は以前に比べて優勢となり、アラブ軍は油断していた為に劣勢に追い込まれた。
 7月18日 二度目の停戦に入った。
 イスラエルは、さらに多くのユダヤ人移民を受け入れて、約100万人を突破した。
 11月 イスラエルは、軍事力強化の為に、若者を優先して老人や病弱な者(ハード・コア)の移住を後回しにした。 アメリカとの関係を深める為に、共産主義者反戦平和主義者の入植を厳しく制限した。
 国際難民機関(IRO)は、マッカーサーに対して、上海の白系ロシア人とロシア系ユダヤ人約8,000人を日本本土か沖縄に行き先が決まるまで一時的に収容する様に要請した。
 GHQは、日本国内で餓死者を出している食糧事情を説明し、日本の構造改革と対共産主義対策で多忙であるとして、少数の難民を受け入れても数千人は無理であると返答した。
 マッカーサーは、ユダヤ人を嫌がるフィリピン政府に約6,000人を4ヶ月の期限で押し付けた。 中国内戦が激化して、中国共産党軍が上海に近づいていた。
 国際難民機関は、中国共産党軍が外国人を虐殺する恐れがあるとして、中近東情勢を悪化させる事がわかっていても、やむを得ず貧しく病弱なユダヤ人難民をイスラエル強制移住させる事を決断した。
 ジョイントは、ユダヤ人難民を中国共産党軍の魔の手から救うべく、分裂していたユダヤ人諸団体を一本化させた。
 エジプトは、上海のユダヤ人難民をパレスチナに入国させない為にスエズ運河の使用を禁止した。
 ユダヤ人難民船は、やむなく南アフリカ経由でパレスチナに向かった。
 イスラエルは、中国からのユダヤ人難民を安全に入国させる為に、49年2月24日にエジプトと停戦協定を調印した。
 上海のユダヤ人難民は、中国共産党軍の魔の手から逃れてパレスチナに上陸した。
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 1949年4月23日 中国共産党軍(人民解放軍)は、南京を占領し、5月27日には上海を制圧した。
 国民政府は、政府機関を広東に移してから台湾に脱出した。
 上海租界は、大混乱していた。 
 欧米諸国は、自国民を中国共産党軍から救うべく脱出に全力を上げ、ユダヤ人難民の安全には関心がなかった。
 上海などの実業家らは、蒋介石国共内戦で敗れて台湾に逃げるや、中国共産党政府の支配を嫌って香港に脱出した。
 上海系財閥が、経済活動の場を香港にに移した事によって、香港の本当の繁栄が始まった。
 6月 上海にユダヤ連合委員会(CJC)が設立され、上海ジョイントの業務を引き継ぎ、中国共産党との交渉に当たり、海外移住を希望するユダヤ人難民の支援を行った。
 10月28日 イスラエルは、何処の国も引き取りを拒否するハード・コア(老人や病人や貧困者)約3,000人の入国を許可した。
 同時に、満州華北親日ユダヤ人2,000人以上の受け入れも同意した。
 昭和天皇は、親ユダヤ派として、明治時代に受けた恩義を生涯忘れず、ユダヤ人への同情と親近感を持ち続けていた。
 日本の右翼・右派の人種差別主義者は、昭和天皇の親ユダヤ姿勢を無視して反ユダヤ主義をがなり立て、戦後になっても戦前と変わらずユダヤ人の世界征服陰謀を声高に訴えていた。
 ユダヤ人社会で、親日派は少数派で、反天皇反日派は多数派であった。
 無国籍ユダヤ人は、イスラエル国籍を取得する事で、地球上の如何なる国に行っても保護を受けられ「自由と権利」が認められ、犯罪者扱いはされなくなった。
 無国籍者は、犯罪者とされ保護の対象外とされていた。
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 1950年6月25日 朝鮮戦争勃発。
 北朝鮮軍は、韓国政府の支配下である南部朝鮮半島を侵略し、従わない者を反革命分子として虐殺した。
 韓国軍は、激しく抵抗した。
 韓国・朝鮮人は、同じ民族でありながらお互いに殺し合ってい、半島全体が地獄と化した。
 そこには、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」は存在しなかった。
 マッカーサーは、日本軍が戦った相手は、アメリカやイギリスではなく朝鮮に迫り来る共産主義勢力であった事を認識した。
 対日政策を180度大転換し、日本は共産主義の脅威から自己防衛するべきであるとして再軍備を命じた。
 日本国内の反戦平和市民団体は、軍国主義天皇ファシズムの復活につながるとして、平和憲法を盾に再軍備に猛反対した。
 彼らは、周辺諸国を平和を愛する諸国民と信じ、周辺諸国民の公平と信義を頼りにして国家の安全と国民の生存を保持しようと訴えた。
 11月3日 IROは、「イスラエルはIROと結んだ協定に基づいて、ユダヤ人のハード・コア5,200人を受け入れる事になった。このうち、3,900人は組織的なケアを必要とする。この最後のグループはIROの船アンナ・サレン号で11月4日ナポリ到着の予定である」と発表した。
 11月9日 ジョイントは、「46年3月1日以来、1万6,000人のユダヤ人が上海を脱出させた」と発表した。
 太平洋戦争中。上海ジョイントは、日本政府と軍部の協力を得て、アメリカなどから約50万ドルの送金を受けていた。
 12月17日 アメリカは、中国共産党政府への経済制裁として在米中国資産を凍結した。
 アメリカの経済制裁で、上海に於けるユダヤ人難民移送事業は困難となった。
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 1951年 国連は、ホロコーストからユダヤ人難民を救えなかった事を悔悟し難民の権利や難民の保護を義務義務付ける「難民条約(難民の地位に関する条約)」を採択した。
 148ヶ国が、同条約に加盟している。
 12月31日 IRO上海事務所は閉鎖された。
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 1955年12月5日 モンゴメリー・バス・ボイコット事件。
 アラバマ州。黒人達は、人種差別によるローザ・パークス事件に抗議してバス。・ボイコット運動を起こし、市営バス事業を経営危機に追い込んだ。
 1年後、アラバマ州はバスに関する人種差別は違法と認めた。
 1956年7月1日 CJCは、残留していた約200人のユダヤ人難民へのビザ発給の目途が付くや、移住関連事務を香港に移した。
 1957年 リトルロック高校事件アーカンソー州リトルロック・セントラル高校で騒動が起きた。
 州知事は、州兵を送って黒人高校生の登校を妨害した。
 アイゼンハワー大統領は、第101空挺師団を送って黒人高校生の登校を護衛し、州兵を州知事の管理下から外し連邦軍化する大統領令を出した。
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 1956年 ハンガリー事件。
 「赤旗」1968年8月27日付け「(1956年のハンガリー事件とは)日本共産党は断固として、このソ連軍の国際的援助に対して連帯の意思を表明しました」
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 1961年3月 中国政府は、CJCに対して全業務を中国救済会(CRS)に委ねて活動を停止して国外に出る事を命じた。
 少数のユダヤ人は、中国に残留する事を希望した。
 中国に於けるユダヤ人の歴史は、幕を引いた。
 儒教価値観による人種差別主義者は、中国から日本人と共にユダヤ人が生活していた痕跡を破壊した。
 中国にあるのは、継承と再生ではなく、破壊のみであった。
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 1960(〜75)年 アメリカ軍は、ベトナム戦争において、第二次世界大戦で連合軍を勝利に導いた優秀な参謀達が立案した作戦で敗北した。
 世界常識による合理的な思考と国際的に合意した戦争ルールに基づいた戦争であれば、圧倒的な大兵力と厖大な軍需物資を持った者が勝利した。
 アメリカ軍は、最新のゲーム理論的発想によるエスカレート戦略で、敵の軍事施設や産業中枢を空爆して破壊し、戦略要地を陸上部隊で占領して、戦争の主導権を握って戦闘をコントロールし続ければ勝利すると考えた。
 世界最高の頭脳集団は、合理的な思考で立案した作戦に絶大なる自信を持っていただけに、現地からの不都合な報告は見抜きもせず、予測不能な感情で動く人間が作り出す状況変化を一切考慮せず初期の戦略に固執した。
 エスカレーション的に敵の犠牲を増やせば、無駄な戦争と自覚して講和条約の交渉テーブルに着き、お互いが利益を分かち合う所で折り合いがつくと確信していた。
 アメリカの費用対効果に基づく戦略は、非情に効率的で合理的な非の打ち所のない美しい完璧な戦略であった。
 北ベトナムは、アメリカ軍とは違って、絶対に負けられない戦争として総力戦を仕掛け、アメリカが考えていた戦争ルールに従う気はなかった。
 北ベトナム軍とベトコンは、アメリカ軍が想定した行動とは違う行動を取り、アメリカ軍が予想しなかった地点に出没してゲリラ戦を仕掛けた。
 アメリカの量と質による完璧な合理的戦略は、北ベトナムの状況に応じて変化させてくる戦略の前に敗北した。
 アメリカの戦略は、強者の驕りとして思考も行動も硬直化して動きが鈍く、大兵力と豊富な物資で広範囲を支配しようとして、明らかに失敗する事が分かっていても方針を修正できなかった。
 ベトナムの戦略は、弱小の弱者は必死の闘争心を頼みとして状況に合わせて柔軟にそして敏速に行動し、乏しい兵力と僅かの物資を一点に集中させて忍耐強く機会を窺って一つ一つの小さな勝利を積み上げた。
 アメリカは、政治的軍事的経済的に巨大化して挑戦者はもういないと過信し、その過信で理想的な戦略を建てて失敗した。
 アメリカの戦略目的は、ドミノ理論で、アジア圏の共産主義化を防ぎ、北ベトナムの後世から南ベトナムの独裁体制政権を守る事であった。
 ベトナムの戦略目標は、フランスやアメリカなどの外国勢力を追い出し、南北ベトナムを統一し、ベトナム人の国を建国する事であった。
 ベトナム人は、ベトナム人だけの国家の為に如何なる犠牲をも厭わなかった。
 ベトナム戦争とは、ベトナム人にとって、祖国を外国人から取り戻すという「正しい戦争」であり「正義の戦争」であった。
 韓国軍は、アメリカ軍に協力し、南ベトナム独裁政権を守る為に戦った。
 チャーチル「戦略がどれほど美しくとも、ときには結果を直視しなければならない」
 百獣の王ライオンは、どんな小型の動物を狩る時は全力を出し手を抜かず、容赦なく仕留めて食らいつく。
 弱肉強食という自然の掟では、狩る相手に同情し、仕留める相手に配慮した時、如何なる強者も飢えて死ぬ。
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 1961年 ジョン・F・ケネディは、アメリカ大統領に就任した。
 「我々に好意を持つ者であれ、敵意を持つ者であれ、全ての国をして次の事を知らしめよ。我々は世界に於ける自由の確保とその勝利の為には、如何なる代償も支払い、如何なる負担も厭わず、如何なる困難にも進んで直面し、如何なる友人も助け、如何なる敵とも戦う、と言う事を」
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 1962〜65年 教皇ヨハネス23世は、ヴァチカン第二回公会議で「ノストラ・エターテ(我らの態度)─キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度に関する宣言」を発表した。
 ローマ・カトリック教会は、絶対神の教えを正す為に、過去のキリスト教会が行った閉鎖的排他的そして攻撃的布教活動の非を認め、世界の平和と人類の幸福な未来の為にユダヤ教イスラム教との和解を宣言した。
 だが。日本のキリスト教会と韓国教会の一部は、ユダヤ人への迫害の非を受け入れたが、天皇の神性と神社への参拝を拒絶した。
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 1962年2月 FBIは、キング牧師アメリカの秩序を乱す危険人物として監視を強化した。
 フーバーFBI長官は、ロバート・ケネディー司法長官に、公民権運動家キング牧師の顧問弁護士スタンレー・レヴィソンは共産党員の秘密工作員と報告した。
 ロバート・ケネディー司法長官は、キング牧師の盗聴許可を与えた。
 FBIは、キング牧師を要注意人物として私生活まで監視を強化し、聖人として崇められているキング牧師の乱れた私生活を赤裸々に暴いた。
 1963年28日 自由への行進。ワシントンで、公民権法案を望む約25万人の大行進。
 マーティン・ルーサー・キング「私には夢がある。何時の日かジョージアの赤土の丘の上で、かっての奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルに着くという夢である」
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 1963年 イランのパーレビ国王は、祖国を近代国家にする為に、白色革命として日本の近代化政策を手本として、「西の日本」を目指した。
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 1964年7月 ジョンソン大統領は、公民権法を制定し、人種や肌の色、性別、出身、宗教による差別を禁止した。
 8月 ノーベル賞委員会は、キング牧師の「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせた非暴力抵抗運動の業績」を認めて平和賞を授与すると発表した。
 1965年1月 ジョンソン大統領は、偉大な社会政策(Great Society Policy)を発表したが、ベトナム戦争による軍事支出の増加に伴い福祉政策の拡充は困難となり,これらの政策構想の多くは挫折を余儀なくされた。
 「未婚の母は無条件で生活保護を受ける」という貧困対策を打ち出した為に、生活保護目当てで結婚せず、補助金に頼り続ける女性を数多く生み出し、とくに黒人社会において家族を崩壊させた。
 8月 カリフォルニア州のスラム街ワッソで、白人ハイウェイ・パトロールは蛇行運転している黒人を逮捕した。
 貧困階級の黒人達は、白人への敵意と貧富の格差による社会不満を爆発させて大暴動を起こし、各地で略奪を行った。
 州政府は、治安を回復する為に実力で暴動の鎮圧を行った。
 6日間で、死者34人、逮捕者4,000人以上。
 若い黒人達は、希望した職業に就けず、安い給料で重労働を強いられ、白人優先社会で突然解雇される、といった人種差別に憤りを募らせ過激な運動に暴走していた。
 非暴力を主張するキング牧師は、人種差別に苦しむ黒人達の支持を失っていった。
 アメリカは人種の坩堝として人種間の壁は撤廃する事ができず、経営者として白人と労働者といての黒人などの有色人種の対立は時として流血事件を起こしていた。
 1968年4月3日 キング牧師は、テネシー州メンフィスで起きた黒人労働者のストを支援する為に現地に入り、メイソンテンプル記念大聖堂で演説を行った。
 同夜 キング牧師は、宿泊していたモーテルのバルコニーで貧しいアイルランドアメリカ人ジェームズ・アール・レイに狙撃され、病院に搬送されたが1時間後の翌4日に死亡した。
 4月4日 全米の黒人は、マーチン・ルーサー・キング牧師の死に激怒して各地で抗議運動を起こした。
 ワシントンやシカゴなどの大都市では、黒人達は暴徒化して略奪と放火を行って一時無法地帯と化した。
 州政府は、武装した州兵を出動させて暴徒を鎮圧した。
 ニューズウィーク誌4月15日号「キングの殉死は、黒人から最も強力な代弁者を奪い、白人から黒人社会への最も有効な架け橋を奪っただけではない。大勢の黒人にとって、キングの暗殺は彼の非暴力主義に対し下された審判であり、報復的な暴力を正当化するものと受け止められた」
 1969年 アメリカ政府は、黒人による公民権運動を沈静化さるべく雇用機会均等委員会を新設し、黒人の雇用差別の改善に動いた。
 だが人種差別意識は解消されず、今もって黒人による白人への不満による暴動が絶えない。





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