🛲11」─2─フランスの植民地カンボジアとラオス。アンコール王朝.シアヌーク殿下。ポル・ポトの200万人虐殺。~No.96* 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世にも恐ろしい共産主義
 中国共産党は、アジア各地に住んでいる中国系住人(華僑・華人)に対して忠誠の証を示す事を求めた。
 カンボジアでは、中国系住人が反中国派住民とベトナム人を虐殺した。
 インドネシアでは、反中国派住民を虐殺した。
 アジアに於ける重大な虐殺を行ったのは、日本軍ではなく、中国共産党であった。
 中国共産党と反天皇反日的日本人は、日本を時効なき戦争犯罪者に仕立て上げる為に、中国共産党の命令で虐殺を行った中国系住民の非人道的行為を日本軍に擦り付けた。
 中国系住民は、国際報道機関や日本のマスコミを利用して日本を告発している。
 アジア各地で民族浄化の大虐殺の主犯は、日本軍ではなく中国共産党である。
 中国共産党は、アジア各地に住み着いている中国系住民を手足の如く使っている。
 反天皇反日的日本人は、アジア各地に反日勢力を広め強化するべく親日派潰しを積極的に行っている。
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 9世紀から15世紀まで。アンコール王朝は、高度な文明を持っていた。
 1181年 カンボジアは、民族・部族の他に宗教、文化、言語で数多くの王国が乱立して戦いが絶えなかった。
 クメール族アンコール王朝のジャヤバルマン7世は、諸王国に対し対立を超え平和に暮らす事を訴えて一つの王国にまとめ上げた。
 首都アンコールワットは、100万人の人口を誇る大都市で、農業と交易で豊かに繁栄していた。
 外国交易として、隣国ベトナムで海のシルクロードを通じて中国・インド・アラブとつながっていた。
 国内交易として、アンコールワットを中心として街道を東西南北に十字に伸ばし、各地とつながっていた。
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 東南アジアの諸国・諸地域は、琉球を経て奥州平泉の藤原氏に交易船を派遣し、奥州平泉を通じて蝦夷樺太満州・千島列島の物産を輸入していた。
 奥州藤原氏の金が、アジアの南北交易を支えていた。
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 カンボジアは、親日派であった。
 独立派カンボジア人は、昭和天皇を偉大な君主として尊敬し、日本軍を味方として歓迎した。
 戦後。日本はアメリカの保護国となり支配された為に、カンボジア親日派を封印した。
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 日本国憲法平和憲法)は、自主独立国家が持っている外交と軍事をアメリカに依存していた。
 日本国憲法に於ける主権は、日本国民ではなくアメリカにあった。
 誰の為に憲法で日本政府を縛っているのかと言えば、日本国民ではなくアメリカの為である。
 第九条は、日本国民ではなくアメリカの為に存在する。
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 カンボジア
 1863年 フランスは、カンボジア王国保護国とした。
 1887年 カンボジアは形式的に王制体制を維持していたが、実質的にはフランスの植民地としてフランス領インドシナ仏印)の一部に組み込まれた。
 カンボジア人はベトナム人同様に、フランスの圧政に苦しめられた。
 1940年5月 ドイツ軍は、パリに入場した。
 7月1日 ペタン元帥は、ヴィシーえお新たな首都と定め、ナチス・ドイツの軍門に降った。
 9月 日本軍は北部仏印に進駐した。
 11月 タイ・仏印国境紛争。タイ王国は、失地回復を掲げて仏印を侵略した。
 松岡洋右外相は、地域の平和の為に仲介し、翌年5月9日の平和条約(東京条約)締結で国境画定させて紛争を収束させた。
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 1941年7月 日本軍は、南部仏印に進駐した。
 独立派カンボジア人は、日本軍を歓迎した。
 11月 仏印政庁は、植民地支配下を強化する為に、ノロドム・シハヌークシアヌーク)王子(18)を国王に即位させた。
 日本軍は、南部仏印に進駐したが、仏印における施政権をフランスから奪う事はせず、自主性を尊重した。
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 1944年8月 連合軍は、パリを解放した。
 ヴィシー政権は崩壊した。
 ド・ゴール将軍は、新生フランスを宣言し、連合軍の一員として参戦すると宣言した。
 仏印政庁は、新生フランスに忠誠を誓った。
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 1945年 北ベトナムで飢餓が発生し、200万人近い餓死者が出ていた。
 3月12日 日本軍は、明号作戦を発動して、ベトナムに次いでカンボジアに駐留しているフランス軍武装解除した。
 シアヌーク国王は、フランス支配が消滅した事を機に、カンボジア王国の独立を宣言した。
 日本軍は、カンボジア人を戦争に協力させる為に、カンボジア王国の独立を容認した。
 カンボジア人は、日本軍を白人支配からの解放者として熱烈歓迎した。
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 1946年8月 シハヌーク国王は、軍国日本が降伏し、日本軍の軍事支援が得られなくなった為に、やむなくフランスの再支配を制限付きで受け入れた。
 1947年 シハヌーク国王は、粘り強く独立運動を続け、独自の憲法を公布した。
 1949年 フランスは、ベトナムの独立紛争鎮圧に専念する為に、フランス連合内での独立を認めたが、フランス支配を維持する為に治安維持の名目で警察・軍隊権を与えなかった。
 シハヌーク国王は、完全な独立を求めて離宮に籠もった。
 フランスは、各地で続発する反仏デモや暴動を鎮圧するべく軍隊を派遣した。
 カンボジア国民は、日本軍に武装解除させられたフランス軍を以前ほど恐れず、独立運動を激化させた。
 1953年11月 シハヌーク国王は、完全独立を果たす為に、フランス、アメリカ、タイを回って世界世論に訴えた。
 フランスは、カンボジア人の反仏暴動が激しくなった為に、カンボジアを植民地として保持する事は不可能と判断して独立を認め、警察権・軍事権を引き渡した。
 自主独立国家・カンボジア王国の誕生である。
 カンボジア国民は、独立運動を指揮したシハヌーク国王を「独立の父」と尊敬した。
 アジア諸国は、韓国・朝鮮とは違い、国家及び民族の独立を血を流して勝ち取った。
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 1955年 シハヌーク国王は、アジア・アフリカ会議バンドン会議、バンドン、インドネシア)で非同盟・中立外交政策を表明した。
 シハヌーク国王は、王位を父ノロドム・スラマリットに禅譲し、自由な立場に立って国家建設に取り掛かった。
 シハヌーク殿下は、政治団体サンクム・リアハ・ニヨムを組織し総裁となり、総選挙で全議席を獲得し、首相兼外相に就任した。
 1956年 カンボジア王国は、独自路線を貫く為に、東南アジア条約機構への加盟を拒否した。
 1960年 シハヌーク首相は、父スラマリット王が逝去するや王位を空席とし、新設した国家元首に就任して国政を指導した。
 カンボジアは、アメリカの西側陣営にもソ連の東側陣営にも組みせず、第三世界の一員としての独自路線をとるべく中国やユーゴスラビアに接近していた。
 1965年5月 国家元首シハヌークは、北ベトナムへの爆撃を理由にしてアメリカとの断交を宣言した。
 ベトナム戦争により国内は不安定となったが、アメリカの経済制裁があっても報復攻撃はなく、経済的には豊かではなかったが安定した農産物生産で飢餓は発生しなかった。
 1967年4月 政府はバタンバン州サムロートで余剰米強制買い付けた為に、反対する農民と地元政府の間で衝突が起こった。
 北ベトナム政権とベトコンは、1965年頃からカンボジアの余剰米を政府値より安く買い上げた。 
 地元共産主義勢力は、反米反政府のビラを撒き暴動を煽動した。
 カンボジア軍は、サムロート周辺の暴動を数ヶ月かけて鎮圧した。
 国内での、右派と左派の衝突が頻発し治安が悪化した。
 1968年 アメリカ空軍は、カンボジア全域を空爆し、1年半の間で数十万人の農民を殺害し、200万人の国内難民を出した。
 国民は、アメリカ空軍による被害が広がるや、反政府政策の現政権への不満を募らせた。
 国内各地で、反政府活動が激化した。
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 1969年 アメリカ軍による北ベトナム空爆が始まるや、カンボジア内戦が勃発した。
 シハヌーク殿下の本音は、日本との関係改善による国家の発展を希望したが、日本がアメリカの属国的立場に甘んじ、戦前のような「アジアの希望の光」では無いと事に失望感を抱いていた。
 軍国日本によって国民に独立気運を与えてくれた感謝と昭和天皇への敬意を込めて、北朝鮮で軍国日本礼賛の『ポコールの薔薇』という戦争映画を製作した。
 北朝鮮は、韓国とは違って、日本軍と戦って独立したという「正統性の自信」から親日映画の撮影に全面協力した。
 金日成は、昭和天皇と軍国日本を讃える劇映画を鑑賞して「素晴らしい作品」と絶讃した。
 戦前の、「弱兵でも、自主独立の為ならば、臆する事なく全滅覚悟で強敵に戦いを仕掛ける」という敢闘精神の大和魂・日本精神は、東南アジアの人々に受け継がれていた。
 最後まで諦めず「断じて行えば鬼神も之を避ける」という、日本軍人魂はアジアの解放に貢献した。
 白人キリスト教列強に戦いを挑んだ、軍国日本はアジアの光であった。
 平和憲法下で、自主防衛の軍事力を放棄してアメリカンの属国となっている戦後日本には期待はしていなかった。
 アジアなどの有色人種社会で日本が尊敬されるのは、平和憲法を持った戦後日本ではなく、玉砕や特攻で最後の最後まで戦い抜いた戦前の軍国日本であった。
 世界常識として、死を覚悟して戦う者は勇気ある人間として尊敬され、命を大事にして戦わない者は臆病者として軽蔑され一人前と認められない。
 サムライや忍者が憧れの的であるのは、死を恐れないその生き様にある。
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 1970年3月 首相兼国防相ロン・ノル将軍は、シアヌーク殿下が外遊中で不在を機に軍事クーデターを起こした。
 シハヌーク殿下を国家元首から解任し、シハヌーク派を追放した。
 シハヌーク殿下は、中国へ脱出し、北京でカンプチア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけた。
 4月 アメリカ軍と南ベトナム軍は、カンボジア国内のホーチミン・ルートを粉砕する為にカンボジアに侵攻した。
 10月9日 ロン・ノル将軍は大統領に就任して、王制を廃止しカンボジア王国は滅亡させ、クメール共和国の樹立を宣言した。
 アメリカは、ベトナム戦争本格介入の為に、ロン・ノル政権が親米路線を採用する事を条件に承認し財政援助を行った。
 ロン・ノル政権は、反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。
 ベトナム系住民約50万人中20万人が、ベトナムに強制帰還された。
 シハヌーク殿下は、カンプチア王国民族連合政府を樹立し、かつて敵対していた毛沢東主義ポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリら共産主義勢力「クメール・ルージュ」と共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出していた。
 10月 クメール・ルージュは、カンボジア共産主義国家とする為に、シハヌーク殿下を指導者として内戦を始めた。
 1971年1月 アメリカは、ロン・ノル政権支援の為に南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。
 10月 ロン・ノル大統領は、アメリカの支援を受けて軍事独裁体制を宣言した。
 1972年3月 新憲法を公布した。
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 1973年3月29日 アメリカ軍はベトナムから完全撤退し、ベトナム独立戦争は終了した。
 ベトナム戦争終結に貢献したアメリカ代表キッシンジャー北ベトナム代表レ・ドクトにノーベル平和賞の授与が決まったが、レ・ドクトは受賞を断った。
 北ベトナム軍とベトコンは、ベトナムを統一する為に南ベトナム政府を攻撃していた。
 ロン・ノル大統領は、アメリカ軍の強力な後ろ盾を失った。
 カンボジア内戦アメリカ軍・南ベトナム軍の介入で、農村インフラは破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受けていた。
 69年には、総耕作面積249万ヘクタールで米23万トンを輸出する農業大国であった。
 74年には、総耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2,000トンの米を輸入する飢餓国家に転落していた。
 アメリカは、食糧援助を行ったが、政府が支配する地域への配給はできたが、反政府支配地への援助ができず大規模な飢餓が起きていた。
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 1975年4月 北ベトナム軍とベトコンは、サイゴンを占領し、南ベトナムを完全制圧した。
 解放されたベトナム人は、植民地支配に協力していた上流階級ベトナム人と経済を支配して不当な利益を得て財を成していた華僑(約120万人)を襲った。
 ベトナム人は、永年の恨みから華僑を弾圧し、不当に得た財産を暴力的に奪った。
 華僑は、人種差別の儒教価値観でベトナム人を下等人間として軽蔑し、永年生活してきたベトナムに愛着を持っていなかった為に、特権を持って金儲けができないないと分かるやボートピープルとなってベトナムを脱出した。
 4月17日 クメール・ルージュポル・ポト書記長は、クメール共和国を打倒して、原始共産体制の民主カンプチアを樹立した。
 ロン・ノル大統領は、国外に脱出しハワイへ亡命した。
 ポル・ポト政権は、極端な毛沢東思想による農本主義政策を実行したが全て失敗し、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで総人口800万人中200万人以上を死者させた。
 食糧増産の為に、都市住民を強制的に農村へ移住させたが、不慣れな農作業で結果的に失敗して食糧危機を一層増大・深刻化させた。
 農作物を作るという事は、そう簡単ではないと言う事であった。
 共産主義国家は、共産主義による失政を誤魔化す為に、暴力と死の恐怖政治を行って人民に圧政を敷き、共産主義大義の為に大量虐殺を行った。
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 1976年 中国共産党は、ベトナムの華僑を救うべくカンボジアのクメール民族主義クメール・ルージュ)を掲げるポル=ポト派を軍事支援して、ベトナムに圧力を加えた。
 ポル=ポト派は、民主カンボジアを樹立し、キリング・フィールドとして王族や政府高官から資産家や知識人まで約200万人を虐殺した。
 虐殺対象者は、中国共産党の意向に従って反共産主義の華僑とベトナム人が大半であった。
 中国共産党の対ベトナム戦略は、遠交近攻策として、ポル=ポト政権のカンボジアと共同してベトナムに懲罰戦争を仕掛ける事であった。
 ポル=ポト政権は、計画性のない政敵弾圧に明け暮れて、国家再建と対ベトナム戦争準備どころではなかった。
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 1978年 ベトナムは、中国共産党の機先を制する為に、虐殺を繰り返して混乱しているカンボジアに侵攻して、囚われていたベトナムカンボジア人を解放した。
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 1979年 ベトナムは、古代・漢王朝時代から中華帝国に侵略され祖国を守る為に戦争を繰り返してた関係から反中国で、フランスに対する独立戦争を始めるや中国共産党とは縁を切ってソ連からの直接援助を受けた。
 2月 中越戦争華国鋒は、ベトナムへの懲罰として60万人の中国軍にベトナム侵略を命じた。
 旧式の武器しか持たない中国軍は、ソ連からの軍事支援とアメリカ軍から獲得した武器を装備していた少数精兵のベトナム軍によって撃退された。
 カンボジアを占領したベトナム軍は、ポル=ポト派を攻撃し華僑を弾圧した。
 カンボジアの華僑は、フランス占領下ではフランス人に協力し、日本軍占領下では日本軍に協力し、ポル=ポト政権下ではクメール・ルージュに協力し、その時々の支配者に取り入り、その商才で金儲けをしていた。
 東南アジアの人民にとって、華僑は憎むべき相手であった。
 華僑は、寄生していた植民地支配がなくなった為に中国共産党の庇護を受けるべく、稼いだ金の一部を党幹部に賄賂として送った。
 ベトナムが中国と対立したのは、イデオロギーではなく民族主義として対立し、永年渡る中国の侵略に対する祖国防衛の抵抗であった。
 中国は、古代から周辺諸国・地域への侵略を繰り返し、領土、属国、植民地の何れかを行い、領土とする場合は漢族化を推し進めた。
 漢族化の為には、民族浄化として非漢族大虐殺を当然の権利として実施した。
 歴史的に、中国周辺諸国にはハッキリとした「正しい戦争」が存在していた。
 訒小平は、中国軍の近代化をする課程で軍隊を私兵化して権力を掌握し、中国共産党の実力者に上り詰めた。
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 反訒小平派は、訒小平暗殺を幾度も実行したが全て失敗した。
 昔から中国は、権力者に対する暗殺事件や追放謀議が絶えず、歴代王朝の皇帝達は天寿を全うできず若くして逝去し、政府高官の多くも任期半ばでその地位を追放され処刑される事が多多あった。
 本人の処刑は、家族や一族にも及び女子供まで数百人から数千人が処刑された。
 一寸も気を許す事が出来ないというのが、中華世界の現実である。
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 2015年8月9日 産経ニュース「【メガプレミアム】「歴史を直視しろ」はこっちのセリフ 中国とポル・ポトの関係は…大量虐殺に加担した史実を隠すな
 何枚もの顔写真が貼り付けられているツールスレン虐殺博物館。共産主義政権の犠牲者だ(ロイター)
 「歴史を直視しろ」。中国の習近平政権は戦後70年を意識し、しきりに日本を牽制(けんせい)する発言を繰り返している。それならば、中国の歴史も直視しよう。1970年代、数百万人ものカンボジア国民を虐殺したポル・ポト政権を“熱烈”支援していたのはどこだったのか。「一度も謝罪しない」で開き直る中国の態度に憤るカンボジアの人々の声を米紙が伝えている。
 中国なくして殺戮なし
 「中国こそ自らの歴史への直視を迫られている」
 米紙ニューヨーク・タイムズが掲げた見出しの記事は、首都プノンペンにある悪名高き「ツールスレン・ジェノサイド(虐殺)博物館」の場面から始まる。
 同博物館はかつて高校だったが、ポル・ポトが実権を握ったクメール・ルージュカンボジア共産党)支配の「民主カンプチア」時代、「S21政治犯収容所」となり、約2万人が収容されたとされる。生き残ったのはたったの8人。反対する者、疑わしき者は粛清、抹殺する共産主義の恐怖政治を象徴する場所だ。
 そこで案内役を務める男性が必ず見学者に聞く質問がある。「この中に中国人はいませんか」と。その理由を聞いた同紙の記者に男性はこう答えている。
 「ポル・ポトの大量殺戮(さつりく)を可能にしたのは、中国のせいだと説明すると彼らはすぐに怒り出すんだ。真実ではない。今は友好国だ。過去は水に流そう、なんて言い出す」
 カンボジア国民にとっては到底、水に流せる問題ではないだろう。同国の悪夢ともいわれるクメール・ルージュが中国のサポートなしでは成り立たなかったことは史実として認識されている。米コーネル大学で中国とアジア太平洋地域の研究を担うアンドリュー・メーサ氏は「中国の支援がなければ、クメール・ルージュは1週間と持たなかっただろう」と断じている。
 カンボジアとは“蜜月”
 クメール・ルージュカンボジアを支配したのは1975年4月〜79年12月。指導者のポル・ポトは「階級のない完全な共産主義社会」を目指し、一切の国民の財産を没収。「反乱の恐れがある」として特に知識層を敵視し、殺戮の限りを尽くしたホロコーストの時代だ。犠牲者の正確な数字はいまだ不明だが、同紙は約170万人と伝えるなど、200万人前後が虐殺されたという。英映画「キリング・フィールド」を思い出す人もいるだろう。
 その“狂産”カンボジアに肩入れしていたのが、毛沢東(76年死亡)であり、●(=登におおざと)小平の中国だった。
 両国の関係を著書「戦友」(Brother in Arms)に集大成したメーサ氏は「当時、カンボジアへの外国援助の90%は中国が担っていた」と語る。食料や建設資材から戦車、航空機、火器まで送り込み、殺戮の最中でも、中国人エンジニアや軍事顧問はクメール・ルージュ共産党員を訓練していたという。同国中部には“蜜月”ぶりを象徴する軍用滑走路が残っている。
 大量殺戮への中国の関与を認めるべきだという批判に対し、2010年、当時の駐カンボジア中国大使が「われわれは食料と農具を送っただけだ」と突っぱねるなど、責任逃れの抗弁を繰り返している。
 しかし、ベトナムクメール・ルージュを追討した直後の1979年2月、●(=登におおざと)小平は“懲罰”だとして中越戦争を仕掛けた。また、山間部に逃亡したクメール・ルージュ残党を中国は支援し続け、ポル・ポトが中国を訪れたり、幹部に中国籍のパスポートを発給していたりしていたのも忘れたのだろうか。
 歴史教科書では無視
 中国政府の歴史健忘症は実際、驚くほど進行しているという。
 同紙によると、中国の高校生向け主要歴史教科書には、クメール・ルージュ中越戦争に関する記述は全くといっていいほどない。ベトナムとの間で戦争があったことすら知らない若者も少なくなく、共産党の歴史操作は成功していると指摘する。
 「中国政府は非難されそうなことは無視し、都合の良い歴史をプロパガンダにして強調している」と語り、共産党の恣意(しい)的な歴史認識をあぶり出そうとしている中国人歴史家もいる。
 記事では、中越戦争に参加した多くの元兵士が現在、恩給も十分に与えられずに困窮状態になるなど、中国政府から無視されている実態にも言及している。
 その一方で、朝鮮戦争については、北朝鮮が仕掛けたという国際社会で共通認識になっている事実を教科書では全く記述せず、「自国の安全と朝鮮救済のためやむなく参戦し、国際的地位を高めた」と自画自賛しているというから、厚顔無恥も極まれりだ。
 共産中国建国直後の大躍進政策文化大革命で、一体どれだけの血が流れたのだろう。そして天安門事件や今も続くチベット人ウイグル人への弾圧…。
 李克強首相は3月、「一国の指導者は先人の業績を継承するだけではなく、その罪による責任も負わなければならない」と述べた。安倍晋三首相が今年夏に出す戦後70年談話を意識した発言だが、そっくりそのまま返したい。
 「中国は史実を認めないし、謝罪もしない」。カンボジア国民の声を聴けば、いびつな中国共産党歴史認識にまともにつきあう必要はないことがわかる。(2015年4月27日掲載)」
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 中国人は、砂ではなく砂鉄である。
 砂鉄を吸い寄せる磁石は、権力であり、金であった。
 磁気が強力であればあるほど、大量の砂鉄を引き寄せた。
 磁気の範囲は国内はおろか国外まで拡がり、華僑・華人など海外で生活する中国人にも影響を及ぼす。
 アメリカに移住した日本人は、祖国・日本を捨ててアメリカに忠誠を誓い、アメリカ軍兵士としてアメリカの為に戦争に参加した。
 中国人は、日本人とは違い、祖国・中国の為に行動した。
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 中国共産党政府は、外貨を稼ぐ為に各国に紛争を起こし武器を輸出する死の商人であり、共産主義を広める革命扇動家であった。
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 12月22日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 支那マネー
 ベトナム戦争が大方の予想を裏切ってベトナム勝利に傾きだしたころの話。
 カンボジア人イエン・サリが北京に呼ばれた。彼には陳某の名もある。華僑の隠れ息子だった。
 呼ばれた理由はベトナムのことだった。この国は最近ソ連とくっつき、本家筋の毛沢東政権をないがしろにしてきた。米軍がベトナムから撤退した今、ベトナムをこのままソ連衛星国にさせたのでは支那のメンツが潰れる。
 ついてはカンボジア支那勢力を作り、背後からベトナムを攻めろ。前からは支那がやる。
 范雎(はんしょ)の言う遠交近攻策だ。イエン・サリは国に戻るとポル・ポトと組んでクメール・ルージュを結成した。支那から武器がどしどし運び込まれた。
 彼らはまず東部に入植していたベトナム人農民を虐殺した。メコンの支流は殺されたベトナム人の死体で埋められた。
 ベトナム人は頭がいい。だから都市で医者や教員をやっていた。イエン・サリは次に都市人間をまとめて農村に下放した。
 そこでベトナム人を選別し、片端から殺した。下放された中にはベトナム人以上に優雅にやっていた華僑もいたが、それを除外したら毛沢東がバッグにいることがバレてしまう。
 『革命のためだ。彼らもやってしまえ』と毛はイエン・サリに言った。
 それで処刑場はプノンペン郊外の華僑墓地チュンエクが選ばれ、華僑とベトナム人がここで何万人と殺され、埋められた。
 カンボジアはキリング・フィールドと化したが、そこは頭のいいベトナム人たちだ。ポル・ポト派が攻勢に出る前にベトナム軍が先に先制攻撃をかまして彼らを蹴散らしてしまった。
 遠交近攻が失敗して頭にきた訒小平ベトナム人を懲らしめるために人民解放軍を出した。華夷秩序を守らせねばならない。
 これが世に言う中越紛争だが、結果は支那軍の歴史的な惨敗に終わった。
 因みに漢民族政権は日本を含めた外国勢力と幾度か戦ってきたが、一度も勝ったためしがない。
 追われたイエン・サリらは山に籠り、支那が供与する武器で辻強盗をして食いつないだが、結局、降伏し国際法廷に立たされた。
 立って驚いた。国際法廷事務局にミシェル・リー(李志英)がいた。彼女はポル・ポト派の虐殺をどこが支援したか、なぜ大量の支那製対人地雷があるのかも含め、すべての審問から『支那』を消し去ってしまった。
 同じころ、香港でSARSが大流行した。原因はウイルスを含む糞尿が高層マンションの下水管の穴から空に舞っていたためだ。
 しかし衛生署長マーガレット・チャン(陳馮富珍)は最後までぼけたまま。大流行を許してしまった。
 その3年後、世界保健機構(WHO)事務局長に支那の推薦で彼女が選ばれた。推薦理由が『SARS撲滅に功あり』。歴史の事実もあっさり書き直された。
 WHOでもきっと何かやらかすと思われた。案の定、ただの弱毒性インフルエンザを『スペイン風邪以上に危険』と彼女が認定、フェーズ6のパンデミック指定を発表した。結果はカラ騒ぎ。英製薬会社が大儲けし、チャンも豊かになった。
 先月、国際刑事警察機構(ICPO)総裁選があって孟宏偉が選ばれた。彼は習近平が目下、力瘤を入れる裸官狩りの先頭に立ってきた男だ。
 今後は警視庁辺りに裸官狩りの手伝い命令が来そうで、ダライ・ラマも国際手配され、北京で死刑にされる可能性が出てきている。
 でもなぜ、ここぞというとき関係国際機関の長に支那人がなっているのか。なぜ北京の思い通りにコトが進んでいくのか。
 支那人が13億人いるからでは答えにはならない。
 例えば支那は国連分担金を控えめにし、浮かした分、あちこちを賄(まいない)で籠絡してきた。南京大虐殺の嘘を記録遺産に登録したユネスコのボコヴァがいい例だ。
 世の中、支那マネーが支配する。…」
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 2017年6月12日 産経ニュース「【世界に称賛される自衛隊カンボジア紙幣に描かれた「日の丸」 この感謝の気持ちをどれだけの日本人が知っているのか 井上和彦 カンボジアでの自衛隊PKO活動=1992年。同国の紙幣500リエル(右上)には、日の丸などが描かれている
 「(南スーダンの)首都ジュバでは(自衛隊のPKO=国連平和維持活動=派遣部隊とともに)カンボジアの部隊も活動しています。その若い女性隊員があるとき、自衛隊員に、こう話しかけてきたそうであります。『日本が、私たちにしてくれたことを、今こうして、南スーダンの人たちに返せることを誇りに思う。そして、アフリカのPKOに参加できるまでになったカンボジアの姿を、日本人に知ってもらえて、うれしい』と。20年余り前、日本の自衛隊が、カンボジアの大地に植えた『平和の苗』は、今、大きな実を結び、遠く離れたアフリカの大地で、次なる『平和の苗』を育もうとしています」(夕刊フジ
 安倍晋三首相は2016年度自衛隊記念日観閲式の訓示で、5月末で任務を終えた南スーダンPKOのエピソードを披露し、聴衆を感動させた。
 1992年6月、「国際平和協力法」(PKO法)が成立した。同年9月には、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に、陸上自衛隊の施設大隊と停戦監視要員が、戦乱から立ち直って民主選挙を控えたカンボジアへ派遣された。
 日本PKOの幕開けとなった派遣部隊は、第1次、第2次隊を合わせて約1200人。約1年間の任務期間中に、長く続いた内戦で破壊された道路や橋梁(きょうりょう)を修理するなどして、カンボジアの復興に貢献した。修理した道路は約100キロ、補修した橋梁は約40に上った。
 ところが、日本国内では、このPKO派遣について、まるで自衛隊が対外戦争に派遣されるかのような異常な反対論もあった。派遣部隊が携行する武器をめぐっても、非現実的で無責任な議論が起こり、結果、小銃と拳銃という軽装備で任務を遂行せねばならなかった。
 だが、実際はどうだったか。
 筆者は、あれから25年後のタケオを訪れた。
 かつての自衛隊の宿営地は、いまはサッカー場として整備されており、そこには平和に暮らす村人の生活があった。
 当時、情報職の職員だったサオ・サリ氏は次のように言う。
 「自衛隊がやってきたときは本当にうれしかった。道路や橋をつくり、修復してくれたし、村の人々とも温かい交流があった。当時は、近くに(大虐殺を行った)ポル・ポト派兵士がいて危険だったが、自衛隊が守ってくれたので人々は明るく生活できたし、夜も安心して眠れた。われわれは、自衛隊に感謝し、その恩を忘れません」
 自衛隊は地元の人々を守るために派遣されたのではなかったが、地元の人々は自衛隊を大歓迎した。PKO派遣を“日本の侵略行為の兆候”などとは捉えなかったのである。
 カンボジア国際平和協力業務では、UNTACに自衛隊だけでなく、警察官75人、選挙要員として国家・地方公務員18人、民間人23人が参加した。まさに国を挙げての支援だったのだ。
 実はカンボジアの紙幣500リエルの裏側には、日本のODA(政府開発援助)でメコン川に架けられた「絆橋」「つばさ橋」とともに、「日の丸」が描かれている。
 カンボジア復興のために、日本政府が行ってきた誠実な支援に対するカンボジアの感謝の気持ちが、紙幣にまで現れていることを、果たして、どれほどの日本人が知っているだろうか。
 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒業。専門は、軍事安全保障・外交問題近現代史。「軍事漫談家」の異名も持つ。産経新聞「正論」欄執筆メンバー、国家基本問題研究所企画委員などを務める。第17回「正論新風賞」受賞。主な著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『東日本大震災 自衛隊かく闘えり』(双葉社)、『撃墜王は生きている!』(小学館)など多数。」
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