🛲10」─3─フランスの植民地ベトナム。東遊運動。餓死者200万人。ベトナム戦争と旧日本軍兵士。~No.86No.87No.88 * 

   ・   ・   ・   
 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 独立派ベトナム人は、祖国をフランスの植民地支配から独立させる為に日本軍に協力していた。
 日本軍と独立派ベトナムは、アジアを白人キリスト教徒に対して共同戦線を敷いた。
 植民地支配に苦しむアジア人にとって、軍国日本は救いの神であった。
 日本軍は、独立派にとって解放軍であったが、植民地派にとって侵略者である。
 日本軍の仏印侵攻を侵略で、軍国日本は多大なる被害を与えたと主張する日本人は、白人キリスト教国の植民地支配を正当行為と容認する植民地主義者である。
   ・   ・   ・   
 アジア人にとって、軍国日本は白人キリスト教国による植民地支配から解放してくれる光であった。
   ・   ・   ・   
 2018年4月号 正論「折節の記  高山正之
 英国は阿片戦争に勝つと阿片をどんどん送り込んで暴利を上げた。米国のラッセル商社のウォーレン・デラノは犯罪組織、紅幇と渡りをつけて売り上げを伸ばした。フランクリン・ルーズベルトの祖父に当たる人物だ。
 それを羨ましく思ったフランスは阿片の売り捌き場所にベトナムを選んだ。それで清に戦争を吹っ掛け、1885年、天津条約で保護国化に成功すると、ベトナムの主要都市にまず刑務所を建設し、本国から刑務所の数だけギロチン台を送り込んだ。
 そのうえで町村ごとに阿片の専売店レジ・オピオムを置いて家族ごとに阿片を割り当てて販売した。その25年後に阿片禁止のハーグ条約が締結されたが、植民地についてはその適用を留保ができた。さらに10年後に国際連盟が成立、その規約22条に『いまだ自立できない植民地の人々の福祉、発展を促すことは文明国の神聖な使命だ』とある。
 フランスはその福祉発展のための財源として人頭税、阿片専売に加えて新たに結婚税、出産税、葬式税、移動税が設けられた。
 中でも葬式税は意味があった。仏女性ジャーナリスト、アンドレイ・ビオリスの『インドシナSOS』には地方都市ビンで過酷な課税に人々が立って抗議デモを展開した顛末を紹介されている。
 数百人のデモに仏軍は即座に爆撃機デボアチンを飛ばし、デモ隊に向けて機銃掃射を浴びせた。
 『死んだも葬式税が入るから殺すことに躊躇(ためら)いはなかった』と。
 黄色い人種だとここまでやるかと驚いたものだが、先日、全斗煥大統領時代の光州事件について韓国国防軍が『40機のヘリが出動し丸腰の市民に無差別の銃撃を加えた虐殺だった』と発表した。
 全羅道は差別されているとはいえ同じ韓国人だ。それで仏植民地軍も裸足で逃げ出す虐殺をする」
   ・   ・   ・   
 1906年 ヴェトナム革命家の潘佩珠(ファンボイチョウ)は、ベトナム独立を志して、グエン朝の末裔のクオン・デ侯を擁立すべく日本に密航し、大隈重信犬養毅大川周明頭山満浅羽佐喜太郎らと交流した。
 「この時に当たって東風一陣、人をしてきわめて爽快のおもいをあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順、遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私達の耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は実に私達の頭脳に、一新世界を開かしめたものということが出来ます。……前に遼東、旅順の砲声がなかったならば、わが国民はついにまた大フランス国以外如何なる世界があるかを知らなかったのであります」
 潘佩珠は、日本精神・大和魂を学ぶ為に東遊(ドンズー)運動を始めた。
 日本に学ぶ為に、ベトナム人青年達を日本に留学生させた。
 ベトナムでは、潘佩珠の呼びかけに応じて、福沢諭吉慶応義塾を手本にした東京義塾が作られ、愛国的進歩的青年が育成された。
   ・   ・   ・   
 独立派ベトナム人は、フランスの植民地から独立する為に、日清戦争で清国(中国)を破り、日露戦争ロシア帝国(白人)に勝利した日本に期待していた。
 祖国独立の「正義の戦争」に勝つ為に、日本軍の軍事支援を求めた。
 日本は白人の圧政から救い出してくれるだと、過剰な期待を寄せた。
 だが。日本は、ハワイ王国同様に、アジア人達の期待を裏切って支援要請を断った。
 西洋礼賛派日本人達は、白人植民地で圧政に苦しみアジア人を未開の野蛮人と軽蔑し、無教養であるから支配されて当然であるとして見下していた。
   ・   ・   ・   
 1940年9月 軍属の西川は、特務機関「山根機関」の山根道一機関長の命令で、サイゴンにある日本の有力商社「大南公司」に入社し、独立派安南人を支援した。
   ・   ・   ・  
 仏印政庁は、ベトナムの反仏抵抗運動を弾圧し、独立派ベトナム人を逮捕して地獄の様なサイゴン監獄に送り込んでいた。
 フランス人刑吏は、ベトナム人を人間と見なさず残忍な拷問で痛めつけ、そのまま殺された独立派闘士もいた。 
   ・   ・   ・  
 9月23日 日本軍の北部仏印進駐。
 日本軍は、抵抗するフランス軍を苦もなく撃退した。
 フランス人の支配下で苦しんでいたベトナム人は、白人に抵抗しても叶わないと絶望していたが、非白人の日本軍がいとも簡単にフランス軍を撃退した事に狂喜し勇気を得た。
 民族主義者陳中立は、日本陸軍諜報機関の協力を得て、フランス軍か没収した鹵獲武器を貰い受け、東遊運動に共鳴するベトナム人を集めて叛乱軍を組織した。
 叛乱軍は、ハノイに向けて進軍して最大2,000人に膨れ上がったが、フランス軍の反撃にあって撃破された。
 日本軍は、中立を守って解放軍を支援しなかった。
 これ以降も、ベトナム人独立派と日本陸軍諜報機関は協力関係を保っていた。
 アメリカ軍諜報機関は、日本軍に対抗する為にベトナム人共産主義勢力を支援した。
 フランスは、民族の独立を求めるベトナム人を反逆者として逮捕し、地獄のような拷問にかけ、ギロチン刑で首を切断した。
   ・   ・   ・   
 白人キリスト教諸国の植民地では、数多くの非白人非キリスト教徒が酷たらしい処刑方法で惨殺されていた。
 民族主義者は、処刑されても、民族の独立の為に命を捨てて戦っていた。
   ・   ・   ・   
 11月 井出諦一郎「農民は飢餓線上を彷徨しており、その生活費は1日2フラン15セントから1フラン20セントで、手から口への境涯だから何か事があれば直ぐに高利貸しの世話になり、生涯うだつは挙がらない。ジョセフ・F・ワーレン氏のマンダリンロードの旅行記によると『月夜ならば激昂の漏れようというあばら屋に住む百姓は2300万人中の90%』だということであり、その多数の農民達はフランス人4万6,000名中1万1,000名が兵隊、文官4千700名、残りが産業関係者と女子供という少数者によってこんな有様に搾取されているのである」
 フランス植民地インドシナベトナムカンボジアラオス)では、現地人は召使いとして人権はなく、搾取され貧困生活を強いられていた。
   ・   ・   ・   
 1941年当時、アジアに於けるナショナリストの独立派は、1割に過ぎない。
 白人植民地支配で利益を得ていた地元民は、4割あった。
 5割の地元民は、白人植民地からの独立には関心がなく、誰が支配者になろうとも興味が無かった。
 誰もが、白人キリスト教徒支配は永遠に続き、それをキリスト教絶対神が望んでおられる正しい世界秩序だと信じられていた。
 軍国日本の戦争は、国際法違反とともに絶対神の御心に叛く戦争犯罪とさた。
 現代の日本人は、永遠に時効無き戦争犯罪者として、アジア人に与えた犯罪行為に対して謝罪と賠償をする責任があるとされている。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトは、日本軍との戦争にベトナム人を利用するべく、中国系の社会主義指導者ホー・チ・ミンを支援していた。
 「終戦後にフランスがラオスベトナムカンボジアを再び植民地にする事を認めない」と約束したが、それは嘘であった。
   ・   ・   ・   
 1944年8月25日 連合軍は、パリを解放し、パリのドイツ軍は降伏した。
 ド・ゴールフランス共和国臨時政府が帰国し、ヴィシー政権は崩壊した。
 8月26日 ド・ゴールは、シャンゼリゼ通りで凱旋パレードを行う。
 10月23日 フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。
 ペタン元帥らは反逆者として逮捕され、ヴィシー政府は崩壊した。
   ・   ・   ・   
 1944年5月 台風は、ベトナム北部を襲い、農作物に甚大なる被害を与えた。
 10月から年末まで、気温が下がって凶作が発生して深刻な食糧不足に陥った。
 1944年末〜45年 ハノイ一帯で旱魃が起き、夥しいベトナム人が餓死したと言われている。
 ハノイ歴史博物館「日本軍は北部仏印後、フランスと共同支配して搾取し、200万人を餓死させた」
 東南アジア諸国の歴史教科書は、日本軍を凶悪な侵略者とし、白人民地支配よりも残虐行為を行い数百万人を虐殺したと教えている。
 日本軍は、飢餓に苦しむベトナム人達の救済にあった。
 同盟通信小山特派員「日本軍陣地で炊き出しがあった」「雑貨屋の日本人女将がお握りを振る舞った。戦後、仏人の店がみな焼かれたがこの店は襲われなかった」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 1945年ベトナム飢饉(1945ねんベトナムききん)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。
 経緯
 天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。
 死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万とされている。
 原因
 飢饉の原因ははっきりとは判明していない。様々な要因が複合的に関連したとされている。一大米作地帯であったトンキン湾デルタ地帯の1944年の収穫量が水害により激減したこと、連合国軍の戦略爆撃によって南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因として上げられる。また1944年の冬は記録的な厳寒になったことも死者を増やす原因となった。
 日本の軍政は戦局の悪化に気を取られ有効な対策を取ろうとしなかった。フランス政庁は日本軍からの指示があったとして過分な収穫米を強制的に徴収した。これは日本軍への反感を強めるのが目的で、集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もある。
 影響]
 ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えかけた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼[要出典]は失われ、ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった。
 1945年8月15日の終戦時直後に日本軍が仏印処理により樹立させたベトナム帝国はヴェトミンにより打倒された。
   ・   ・   ・   
 1945年 フィリピンの第14方面軍司令官、山下奉文大将。戦力25万人。戦死・戦病死21万7,000人。
 1月9日 連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将。第6軍(17万5,000人)は、ルソン島リンガエン湾への上陸を開始した。戦死8,310人。
戦傷2万9,560人。
 第14軍団所属の第1騎兵師団と第37歩兵師団はマニラを攻略するべく南下した。
 2月3日 アメリカ軍は、マニラに突入した。
 マニラ守備隊。日本海軍1万人。日本陸軍4,300人。戦死者1万2,000人。
 アメリカ軍3万5,000人。フィリピン人ゲリラ3,000人。戦死者1,010人。戦傷者5,565人。 
 マニラの大虐殺。マニラ市内には約70万人の市民が残り、その多くが抗日ゲリラとして日本軍を攻撃していた。
 日本軍は、戦闘が終了するまでに民間人10万人を虐殺したといわれている。
 3月3日 アメリカ軍は、マニラを占領して戦闘終結を宣言した。
アメリカ軍のフィリピン進攻は、南シナ海周辺地域に衝撃を与え、対岸の中立地帯インドシナを動揺させた。
   ・   ・   ・  
 日本軍支配下の東南アジアで。日本軍の敗色が見え始めるや、各地で地元民は連合軍に味方して蜂起し、ゲリラ活動として敗走する日本軍を襲撃した。
 本国からの補給が断たれた日本軍守備隊は、空腹に耐えきれず、地元民の家を家捜しして食糧などを現地調達した。
 地元民は、銃剣を突きつけて食べ物を奪っていく日本軍に憎み、日本人を嫌って抗日ゲリラを組織して連合軍に味方した。。
 敗走する日本軍は、連合軍の大軍の猛攻をを受けつつ、地元住民の抗日ゲリラとも熾烈な戦闘を行っていた。
 さらに。日本軍内には、多数の朝鮮人の兵士や軍属がいた。
   ・   ・   ・   
 3月 仏印政庁は、親ドイツ派ヴィシー政権が崩壊した今、連合軍に味方して参戦するか、依然として中立を保って参戦しないのか、その動向が注目された。
 仏印に駐屯していた日本軍(3万人)は、仏印政庁が連合国に味方し、仏印軍5万人が連合軍の上陸で敵に回って攻撃して来ること事を警戒した。
 日本軍の諜報機関である「安機関」は、インドシナ防衛の為に、連合軍上陸前に仏印軍を無力化するべく行動を開始した。
 共産主義者ホー・チ・ミンが率いるベトミン(越南独立同盟)は、反日反仏として、アメリカやファシスト中国から武器弾薬の支援を受けて対日ゲリラ戦を仕掛けていた。
 日本軍は、飢餓民救済の為にフランスのベトナム支配を終わらせる事が先決であるとして、フランスが連合国に参加した事を理由にして明号作戦を実行した。
 仏印政庁の統治権を停止し、フランス軍部隊を武装解除して監獄に収容した。
 監獄に収監されていたベトナム人政治犯を釈放し、日本軍の軍政に協力させた。
 日本軍は、仏印政庁が備蓄していた食糧を飢餓民の為に放出し、餓死の拡大を食い止めた。
 農民出身の日本人兵士は、高度な灌漑用水による日本式農法をベトナム人農民に教えた。
 伝統的農法にこだわる朝鮮人農民とは違ってベトナム人農民は、収穫量が増えると知るや日本式農法を取り入れた。
 昔のベトナム人は、東南アジアの中でも親日的であった。
 ただし、華人や華僑の中には根っからの反日派がいた。
 玉砕によって敗走に次ぐ敗走を続ける日本軍は、連合国軍に味方して日本軍を攻撃するビルマやタイなどの反日勢力を恐れ、ベトナム人民の離反を避ける懐柔策を実行した。
 同盟通信記者小山房二回顧「ジアラム空港の日本軍部は、宿営地前に大釜を出してお粥を配った。ハノイの雑貨店マゾワイエでは仏人経営者の日本人夫人が店先で炊き出しをした」
 マゾワイエは、ベトナム人の襲撃を受けなかったと言われている。
 ベトナム人は、中国人や朝鮮人とは違って、日本人同様に義理堅く受けた恩は感謝して守った。
 3月9日 第38軍司令官土橋勇逸中将は、明号作戦を発動して、ジャン・ドグー総督等政庁幹部を逮捕し、事前の約束に従ってベトナムカンボジアラオスの国王等の独立を認めた。。
 日本軍は、各地でエメー中将率いる仏印軍に攻撃を加え、5月15日迄に仏印を制圧した。
 3月11日 ベトナム。阮王朝のバオ・ダイ(保大)帝は、フエ王宮で、フランスとの保護条約を破棄して独立を宣言し、越南帝国を樹立した。
 カンボジアノロドム・シアヌーク国王は3月13日に、ラオスシーサワーンウォン国王は4月8日に、フランスからの独立を宣言した。
 インドシナ半島は、フランスの植民地支配から解放された。
 土橋勇逸「三国が不完全ながら独立した事は、仏印処理がもたらした大きな産物であり、これにより遠からず三国が完全な独立を獲得する土台となった事は、日本としての一つの功績である事は疑わない」
 インドシナの民衆は、過酷な植民地支配で苦しめられてきた怨念を爆発させ、各地で、フランス人の邸宅や商店を襲い、植民地支配に協力して財を成していた混血児や華僑・華人を襲撃し、略奪、暴行、放火、殺人を行った。
 日本軍は、連合軍の進攻に備える為に、暴動を鎮圧して秩序を回復し、民衆を味方に付けるべく華僑・華人らが植民地支配で蓄えていた厖大な隠匿物資を没収して貧困層に放出した。
 軍国日本が侵略戦争で行った戦争犯罪とは、植民地化で塗炭の苦しみにあったインドシナ民衆にではなく、植民地支配に協力して暴利を貪っていた混血児及び華僑・華人等であった。
 日本軍は、防衛陣地建設が急務で占領地での軍政を敷くゆとりはなかった為に、植民地支配の象徴であった人頭税を廃止し、独立した三ヵ国の支援・指導に留めた。
 三ヵ国の民衆は、黒い瞳と同じ肌を持ち米食を主食とするアジア人として信頼し、白人と戦う日本軍を尊敬し、日本人の協力を得て独立と建国の大集会を開いていた。
 ホー・チ・ミン率いるベトミンは、軍国日本による独立を認めず、各地で日本軍に対するゲリラ戦を続けていた。
   ・   ・   ・   
 8月15日 軍国日本は、国際連合国軍に降伏した。
 8月23日 バオ・ダイ帝は、後ろ盾の日本軍が消滅した為に退位して連合軍の軍門に降り、フランス軍が来るまで、北緯16度線を挟んで南部をイギリス軍が、北部を中国国民党軍が管理するとの声明を出した。
 カンボジアラオスも、フランスの報復を恐れて独立を取り下げて、フランスの植民地に復帰する事を表明した。
 日本軍によって被害を蒙った混血児や華僑・華人は、日本軍に協力した独立派への報復として暴行や強姦を行い、見せしめとして処刑した。
 多くの民衆は、植民地支配の復活として彼等の横暴を受け入れた。
   ・   ・   ・   
 9月2日 ホー・チ・ミンは、ソ連の支援を受けて北部でベトナム民主共和国の独立を宣言した。
 「日本とフランスの二重の軛のもと……200万人以上の同胞が餓死した」
 ベトナム人は、日本軍の軍政とフランス植民地支配が終わり民族の独立がなったと喜び、各都市で市民による行進が行われていた。
 興奮した群衆がを埋め尽くしている最中、サイゴンのカチナ大通りで、フランス人のトリコワール神父がキリスト教会の前で射殺された。
 キリスト教世界では、如何なる理由あっても神父・牧師を殺害する事は戦争を意味した。
 ベトナム人は、フランスによる恐怖の植民地支配に対する憎悪から暴徒と化して、フランス人に襲い掛かって4人を嬲り殺しにしその他多くに負傷を負わせ、フランス人商店を襲撃して商品を略奪した。
 9月6日 イギリス軍は、サイゴンに上陸するや、ベトナム人暴徒からフランス人を救出し、日本軍によって監獄に閉じ込められていたフランス軍兵士を解放して武器を渡した。
 9月11日 中国国民党軍は、ハノイに進駐した。
 中国共産党は、国民党を混乱させる為にホー・チ・ミンを支援した。
 武装放棄した旧日本軍は、連合軍の設けた捕虜収容所に収容された。
 アジアの解放を大義と信じていた一部の日本軍将兵は、ベトナムの独立の為に戦うことを決意してベトミン軍に参加した。
 ボー・グエンザップ将軍「抗日を旗印にしたが、日本が降伏するとホーは『日本人と戦うな。彼等を保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイ士官学校で軍事指導もしてくれた」
 クアンガイ陸軍中学は、46年6月1日にグエン・ソン将軍を校長として指揮官を養成する士官学校として設立された。
 日本軍脱走将兵は教官として、日本陸軍の戦略・戦術を教え、ジャングルに於けるゲリラ戦を指導した。
 ベトミン軍は、日本陸軍教育で最強のゲリラ部隊となり、フランス軍を苦しめ、後にアメリカ軍を撃退した。
 10月5日 フランス軍先遣部隊がサイゴンに到着し、11月までの間に第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。
 フランス人がインドシナの支配者として舞い戻り、フランス軍が各地に駐屯した。
 フランス軍兵士は、同胞をベトナム人暴徒から救い出し、治安を回復して植民地支配を再開する為にベトナム人を虐殺した。
 フランス人は、白人至上主義で人種差別が強く、ベトナム人を人権を持った人間ではなく野蛮な獣として扱い、従わない者は容赦なく殺した。
 絶対神の愛されない異教徒ベトナム人を殺しても、後悔はしないし、反省もしないし、謝罪もしなかった。
 絶対神に愛さ恩寵を受けるのは白人と改宗者の非白人であり、非キリスト教徒の非白人はその資格は無いとされた。
 キリスト教の「隣人愛」に基ずく「博愛」の対象は、絶対神と「信仰の契約」を持つ者だけに限定されていた。
 東南アジア連合軍最高司令部調査団「街頭に出た彼らは、狂ったようにベトナム人を殺し廻った」
 ベトナム各地で、植民地支配を再開しようとするフランス人と独立を求めるベトナム人との間で流血事件が多発して混乱を極めていた。
 降伏投降せず逃亡した旧日本軍将兵達は、ベトナム人独立派に協力し、ゲリラ戦などの軍事指導を行っていた。
 戦争が終わっても、「アジアの解放」を信じる日本人はベトナム人の為の人柱となる事を覚悟して、祖国に帰り家族の下に戻る希望を捨てた。
 大和魂・日本精神を持つ日本人は、弱く虐げられたベトナム人の権利を獲得する為に命を捧げた。
 昔の日本人は、「何か大事なもモノ」の為ならば、命を捨て、死ぬ覚悟を持っていた。
 神出鬼没の地下トンネル要塞は、硫黄島などで日本軍が行ったゲリラ戦法であった。
 一切の教育が禁止され、武器の使用方法を知らなかったベトナム人を、短期間で反植民地の武装抵抗集団に変貌させたのは日本陸軍であった。
 連合国軍とフランス軍は、日本式軍事教練を受けたベトナム人独立派ゲリラの襲撃を防ぐ事が出来ず、被害を拡大させていた。
 東南アジアの連合軍最高司令官マウントバッテン卿は、、捕虜収容所の旧日本軍に武装させベトナム人暴徒の鎮圧を命じた。
 フランス軍は、ベトナム人ゲリラからフランス人居留区を守る為に日本人兵士を歩哨に立たされ、ベトナム人ゲリラの襲撃によって日本軍兵士が銃撃戦を始めれば、直ぐさま応戦体制がとれるようにした。
 だが。日本人兵士はベトナム人ゲリラの襲撃を見逃し、ベトナム人ゲリラも日本人兵士を殺さず足下を通り過ぎた。
 日本人兵士が歩哨に立つフランス人居留区は、ベトナム人ゲリラに襲撃され多くのフランス人が殺害された。
 マウントバッテン卿の終戦処理報告書「日本兵は、ベトナム人に逃げるよう促すだけであった」
 「現場では、日本軍の歩哨が空を見上げて突っ立っていた」
 共産主義勢力以外の反仏勢力は、日本人には手を出さなかった。
 当時の東南アジア人にとって、日本軍は白人植民地支配から解放してくれる味方であった。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍の戦略戦術を日本軍人から学んだベトナム人は、フランス軍を追い出し、大量の物量と共に攻めてきたアメリカ軍・韓国軍を撃退して、白人キリスト教植民地支配から独立した。
 それは、正義の為の戦争であった。
   ・   ・   ・   
 ポーゲン・ギャップ(北ベトナム軍将軍)「ゲリラは魚で人民は水。アメリカ軍に追われた場合には水の中に逃げ込めばよい」
 アメリカは、アジア地域は共産主義に侵略されつつあるという「ドミノ理論」を持ち出し、ベトナム紛争介入を共産主義からアジアを救う戦争であると正当化した。
   ・   ・   ・   
 1964年 トンキン湾事件
 アメリカは、ベトナム戦争に参戦する切っ掛けにするべくでっち上げた嘘であった。
 アメリカ国防総省は、アメリカに不都合となる公文書を機密扱いとしたが、廃棄せず残していた。
   ・   ・   ・   
 日本の政府や官僚は、自分に不利になる機密文書・公文書は闇から闇へと焼却処分にして消し去る。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍、韓国軍、南ベトナム政府軍が戦ったベトコンとは、植民地支配に抵抗する独立派やキリスト教に反発する仏教徒であった。
 北ベトナムベトナム共産党は、ベトナム統一を掲げ、ベトコンを支援する為に共産党員や北ベトナム軍を送り込んでいた。
 旧日本軍脱走兵士らは、ベトナム独立の為にベトコンにジャングル戦と手掘りの地下陣地戦法を教え、アメリカ軍・韓国軍・南ベトナム政府軍と戦った。
   ・   ・   ・   
 ベトナム戦争の犠牲者は、アメリカ軍兵士約5万8,000人で、南北ベトナム人約130万人。
   ・   ・   ・   
 独立したベトナム共産主義の正義で、民族主義者や宗教関係者など反共産主義者を大量に処刑し、共産党政権を樹立した。
 華僑や華人らは、共産党政権による弾圧を逃れる為に、老朽化した船で海に逃げた。
 運のよい者達は外国船に助けられ、運の悪い者達は船と共に海の藻屑となった。
 共産党政権下は、地獄のような恐怖が支配していた。
 それは、中国でも、北朝鮮でも、カンボジアでも、同様であった。
 その中でも、中国共産党政権下が最も酷かった。
   ・   ・   ・   
 ベトナムの高校の歴史教科書「日仏の搾取的な政策が我々を困窮させた。その結果、200万人が餓死した」
 ベトナムは、反日教育を行った。   
   ・   ・   ・   
 現代の「日本人=極悪人」という認識とは全く正反対の日本人観が、1945年まで存在していた。
 そして。昔の日本人ほどに現代日本人を信頼せず、昔の日本人とは違う現代日本人から何かを学ぼうという意識は少ない。
 現代日本人は、相手の事を無視して「個」の自分の事しか考えないだけ、自己満足的に自惚れるほど、東南アジアの人々に好感を持たれてはいない。
 現代日本が、国際的に凋落しているのは自業自得である。 
   ・   ・   ・   
 平和憲法を持つ現代日本は、正義の戦争であろうと、自衛の戦争であろうと、全ての戦争を人殺しであるとして猛反対している。
 現代日本は、武器を捨て、非暴力無抵抗を訴えている。


   ・   ・   ・