🗽23」─3─カラカウア国王は、日本皇室との姻戚関係と日本国家との同盟を希望した。1871年~No.91No.92No.93 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 アメリカの侵略に対抗する為のハワイと日本の攻守同盟計画案。
   ・   ・   ・   
 日本・ハワイなどの海洋国家群による太平洋島嶼連合案。
   ・   ・   ・      
 天皇制度国家日本は、清国とロシア帝国を利用して日本を滅ぼそうと陰謀を巡らす属国意識の強い朝鮮王家を軽蔑したが、アメリカの侵略から祖国を守ろうと必死に抗っている独立心の強いハワイ王家に親近感を抱き同情していた。
 軍国日本は、自由な外国貿易の観点からすれば、陰険で閉鎖的な朝鮮王国より陽気で開放的なハワイ王国との関係強化を望んでいた。
 日本にとって、ハワイ王国は同じ純粋な島国であったが、イギリスは半大陸国半島国である為に同じではない。
   ・   ・   ・   
 トクヴィルアメリカにはほかの国よりもクレイジーな人が多い」(『アメリカのデモクラシー』)
   ・   ・   ・   
 1871年 ハワイ王国は、日本と通商条約を結び、日本から労働力として日本人移民を受け入れかわりに、島の一部を領有する案を持ちかけた。
 欧州諸国も、ハワイ王国を独立国家と承認して条約を結んでいた。
 ハワイにおける移民数は、日本人がダントツに多く、アメリカ人の数倍であった。
 アメリカ人移民は、日本がハワイを保護国にする恐れがあると警戒した。
 1872年12月 カメハメハ5世(42歳)が死亡して、由緒あるカメハメハ王家の直系は途絶えた。
   ・   ・   ・   
 世界史的常識では、王家の正統は男系のみで受け継がれるもので、国王が女系に代わればその王家は別の王家とされた。
 国際常識は、王統・皇統は男系にあって、女系には存在しない。 
   ・   ・   ・   
 1873年 グラント大統領(任期1869〜1877年)は、ハワイの軍事的価値を調査をウィリアム・ベルクナップ陸軍長官に命じた。
 アメリカ軍調査団は、2ヶ月にわたって精密な調査を行い、真珠湾は軍港として有望であるとの報告書を提出した。
 1月8日 ハワイ国民に人気のあったルナリロ王子は、議会に於ける国王選出選挙で新国王に選ばれた。
 新たなハワイ国王が、神聖な血筋ではなく、俗世的政治の選挙で即位した為に権威は低下した。
 議会の権力が、国王の権威よりも上位にある事が、国民に見せ付けた。
 議会を支配しているのは、アメリカ人移民と親米派ハワイ人であった。
 議会は、自由と民主主義の為に、ハワイ王朝を倒す陰謀を巡らせていた。
 ルナリロ国王は、ハワイの発展の為にアメリカとの貿易関係の促進と、財政の立て直しの為に国防軍の解体の検討に入った。
 アメリカは、ハワイの経済と政治を支配する為に平和的互恵条約締結に前向きに対応した。
 駐日アメリカ大使は、国務長官に、日本がハワイを併合する意思を表明したときどうすればよいかを問い合わせた。
   ・   ・   ・   
 1874年 高級官僚である宣教師の子供達は、イギリス寄りのエマ王女を排除してアメリカ寄りのカラカウア王子に期待を寄せていた。
 宣教師の子供達の政治力は、王位を左右できるほどに絶大となxつていた。
 宣教師の子供達とプランテーション経営者らは、アメリカとの関係を強化させる為に、カラカウア国王のアメリカ訪問を実現させるべく根回しをした。
 2月3日 ルナリロ国王(41歳)は、治世僅か1年で後継者を決めずに急死した。
 ハワイ議会は、再び憲法に従ってカラカウアを新国王に選出した。
 ハワイ人の一部は、故カメハメハ4世の王妃であった親英派のエンマを国王に擁立する亊を希望して暴動を起こした。
 カラカウア国王は、先王が軍隊を解散させていた為に、非常手段として暴動鎮圧をアメリカに依頼した。
 エンマ元王妃は、国内が分裂して混乱する事は亡国になるとして、カラカウアが新たな国王となる事を支持した。
 アメリカは、治安を維持した亊によって政治的発言力を強めた。
 自国の問題を自力で解決せず、他国の力に頼る国は早晩消滅する運命である。
 2月12日 カラカウアは、国王に即位し、二日後に弟のウィリアム・ピット・レレイオホク王子を後継者に指名した。
 11月 カラカウア国王は、アメリカとの友好関係を築くべくワシントンを訪問した。アメリカへの砂糖輸出を拡大して経済発展を促進させるべく、互恵条約締結の為の交渉を始めた。
 アメリカの砂糖業界は、安いハワイ産砂糖が大量に輸入される亊には死活問題であるとして、流入防止の高関税を政府に要求した。
 そして、砂糖市場の独占支配の為にハワイの併合を画策し始め、「ハワイの奴隷制度」と悪辣な捏造報道を行い反ハワイ王国運動を煽った。 
   ・   ・   ・   
 1875年1月30日 ハワイ(布哇)王国は、アメリカへの粗糖輸出を増やす為に、米布互恵条約を結んだ。
 アメリカ議会は、リンカーン政権以来の保護関税政策を支持し、輸入製品の関税を引き下げる条約には反対していた。
 一部の保護関税論者は、ハワイ産粗糖を無関税にするという米布互恵条約締結に猛反対していた。
 3月18日 グラント大統領は、アメリカの国益を理由にして反対する議会を説得し、米布互恵条約を批准させた。
 ハワイ王国は、精製前のハワイ産粗糖を関税なしでアメリカに輸出できる権利を獲得し、ひき替えに国内の港湾その他をアメリカ以外に相談なく譲渡・貸与しない事を誓った。
 アメリカは、国内の砂糖業界の輸入反対を押さえ込む交換条件として、パール・ハーバーを含む全ての港湾をアメリカ以外に貸与もしくは譲渡しないとの確約を得た。
 ハワイ側は、アメリカのハワイ併合という野望を阻止するために外交戦を展開していた。
 アメリカ人経営者は、利用可能な土地を全て所得し、大規模サトウキビ農園とした。
   ・   ・   ・   
 アメリカ議会は、シャーマン上院議員が提出した「正貨兌換再開法」を可決した。
 アメリカ金融・経済は、ウォール街の大手金融家によって支配される事となった。
 それは、ロンドンのロスチャイルド家とつながりのあるモルガン家と、スタンダード石油のロックフェラー家であった。
 さらに、メロン、ハリマン、カーネギー、ヴァンダービルト、デュポン、グッケンハイム、アスター、リーマン、ウォーバーグ、バルーク、など約60家が、富裕層としてアメリカの富の大半を手に入れていた。
 残りのわずかな富を、90%以上の国民が分け合った。下層民の不平不満を解消する為に、「アメリカンドリーム」という幻想を流布させた。
 反感を買わない為に、わずかな金をYMCAなどの慈善団体に寄附し、ボランティア活動などに積極的に関わった。支配階層によって、世論調査は改竄され、国民世論は操作された。
 上流階級の利益を上げ富を集める為に、大統領や政治家を政治献金と選挙票で操った。
 10月16日 ミリアム・リケリケ王女とスコッランド出身のアーチボールト・クレゴーン戸の間に、ヴィクトリア・カイウラニ王女が生まれた。
   ・   ・   ・   
 1876年 フランスは、スエズ運河建設を完成させた。
 陸軍大臣シャーマンは、北米先住民インディアンとの戦いの為にインディアン掃討軍を編成した。
 アメリカ陸軍は、宗教的人種差別から、徹底したインディアンの殲滅作戦を実行した。
 キリスト教会は、白人によって、悲惨な生活に追い込まれているインディアンを「人」として救うべく、敬虔な宣教師を送り込み民族宗教を捨てさせる様に改宗を熱烈に薦めた。
 その結果、インディアンの民族宗教は消滅して行った。
 6月25日 第7騎兵隊連隊長カスター中佐は、モンタナ州リトル・ビッグホーン川流域でインディアンの大部隊に囲まれて戦死した。インディアン側の呼称では、「グリージーグラス川の戦い」という。
 アメリカのフロンティア・スピリットは、インディアンの住む聖なる大地に入り込み、インディアンを銃器を使って追い出して人が住める土地にする事である。当然、抵抗すれば容赦なく虐殺した。
 数十万人のインディアンが虐殺され、数百万人のインディアンが不毛な居住区に追い込まれた。
 インディアン居住区に、金が出ると追い出されてさらに奥地に追い立てられた。そこに石油が出ると、さらに僻地に追い込まれた。
   ・   ・   ・   
 1877年 カラカウア国王は、次期国王レレイオホク王子が急死した為に、妹のリディア王女を王位継承者に指名した。
 リディア王女は、公称はリリウオカラーニ王女で、愛称としてリリューと呼ばれた。
 夫は、アメリカ人のジョン・ドミニスであった。
 ハワイ王家が女系となれば、その王統はアメリカ系となった。
 カラカウニ国王は、寛大にも、王女と結婚した外国人が忠誠を誓えば要職に就けて政治に参与させた。
 バーニス王女は、アメリカ人のチャールズ・ビショップと結婚していた。
   ・   ・   ・   
 1879年5月 フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスは、パリで開催された両洋間運河研究国際会議でパナマ運河の可能性を力説した。
 会議は、「パナマのリモン湾とパナマ湾を結ぶ海面式運河をパナマ地峡に建設する事を実現可能である」という見解を、賛成多数で採択した。
 レセップスは、コロンビア政府からパナマ運河建設の権利をえ、アメリカに建設事業への支援を要請した。
 ヘイズ大統領もエヴァーツ国務長官は、パナマ運河建設には興味があったが支援要請には拒否した。
   ・   ・   ・   
 1880年3月 パナマ運河会社が設立し、建設が始まった。
 難工事と資金難から、88年12月に建設が中止され、翌89年2月4日に万策尽きて会社は破産を宣告した。レセップスは、収賄事件で逮捕された。
 これが、第三共和政を揺るがす大事件に発展したパナマ事件である。 
 レセップスの提案に共鳴していたフィリップ・ビュノー・ヴァリラは、資金難を解消する為に、ロシア帝国のアレクサンドル2世に建設の権利を売る交渉を行っていた。
 アレキサンドル2世は、フランスのロスチャイルドの支援を受けてベリア鉄道の建設中であったが、中南米への進出の足掛かりになるとして交渉にを興味を示していた。
 だが、1881年に暗殺されて権利売却計画は中断された。
 アメリカは、パナマ運河建設権利を取得する為に策略を巡らしていた。
   ・   ・   ・   
 1881年 第一次ボーア戦争(〜84年) ロスチャイルド財閥の資金援助を受けたデビス社のセシル・ローズは、全世界のダイヤモンドを独占すると共に、南アフリカの鉄道や電信業を支配した。
 セシル・ローズ「私は昨日ロンドンのイースト・エンド(労働者街)に行き、失業者達のある集会を覗いてみた。そして、そこで幾つかの野蛮な演説を聴き─演説と言っても、実は、パンを、パンを!という絶え間ない叫びにすぎなかったが─家に帰る道すがら、その場の光景についてよく考えてみたとき、私は以前に増して帝国主義の重要さを確信した。……私の心からの理想は社会問題の解決である。即ち、連合王国の4,000万の住民を血生臭い内乱から救う為には、我々植民地政策者は、過剰人口の収容、工業や鉱山で生産される商品の新しい販売領域の獲得の為に、新しい土地を領有しなければならない。私のつねづね言ってきた事だが、帝国という胃の腑の問題である。諸君が内乱を欲しないならば、諸君は帝国主義者にならなければならない」
 矢内原忠雄「19世紀から20世紀にかけての人口激増は、資本主義的生産の大発展の需要によりて喚起したものではあるが、しかしながら激増せる人口を資本主義社会が支持する為には、各国間の帝国主義的競争が深刻化せられざるを得なかった。1914年に勃発せし世界大戦は、独占資本主義国の資本蓄積の為の闘争であるが、これを人口の上より見れば、資本主義国が資本蓄積によりて増加せしねるたる人口を自らの資本主義的に維持する必要上の戦争であったといえる。大戦勃発の直前において各国特にドイツの人口が未曾有に激増していた事を以て全然偶然視する事は出来ない」
 「一国における資本の蓄積はその対極として無産階級への人口集中を生ぜしめる。……資本過剰は人口過剰である。……帝国主義的戦争は国内資本増殖に基づくものであるが、その対極より見れば国内人口支持難に基ずくものと称しえる」
   ・   ・   ・   
 カラカウア国王は、アメリカとの関係を強化することでハワイ王国を守ろうとしていた。
 ウィリアム・グリーン外務大臣は、ハワイ王国の存続には国際社会からの支援が重要であるとして、カラカウア国王の世界歴訪計画を立てた。
 「今回の国王の世界歴訪の目的は、各国の移民情報を集め、ハワイ王国の人口減少を補う移民を探す事にある。ハワイ王国の土地は豊かである。中でも砂糖と米が最も利益を生む作物である」
 太平洋でアメリカに対抗する為に、大国の清国ではなく新興国の日本を頼るべきであると分析した。
 アメリカ国内では、アイルランドアメリカ人を中心とした人種差別主義者が反中国人暴動を起こし、社会問題化していた。
 非白人移民規制派は、1882年5月にチャイニーズ排斥法を成立させ、中国人単純労働者の新たな入国を禁止した。
 在米中国人労働者の内で帰国を希望しない者や、新たに海外に働きに出ようとする中国人貧困層は、ハワイへの移住を望んでいた。
 ハワイ王国は、駐香港領事に対し、家族ぐるみの移住は許可するが、独身男女の移住は不許可と指示した。
 1月15日 グリーン外相は、東京の駐日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに、国王の日本訪問の意向を伝えた。
 カラカウア国王は、経費を節約する為に随行員を、侍従チャールズ・ジャッド、国務長官兼移民局長官ウィリアム・アームストロングと友人の三人だけに制限した。
 1月20日 ハワイ王国カラカウア王は、世界歴訪の旅に出た。
 最初の訪問先はアメリカで、二番目が日本で会った。
 3月4日 カラカウア国王一行が乗船するオーシャニック号が、横浜港に入港した。
 日本政府は、新政府として最初に迎える国家元首であるとして、カラカウア国王に非礼がない様に盛大に歓迎した。
 3月5日 カラカウア国王一行は、特別列車で東京に向かった。
 カラカウア国王(44)は、単身参内し、明治天皇(28)に拝謁して外務卿井上馨の通訳で密意を告げた。
 「(西洋列強の圧力で苦しみ)アジア諸国の連盟を起こさんとすれば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん」(『明治天皇紀』第5)
 ハワイは、砂糖農園における労働力不足を補う為に日本人の移民を要請した。
 3月10日 カラカウア国王は、宿舎となっている浜離宮の延遼館を忍んで抜けだし、明治天皇と極秘に会見し、西洋の侵略に対抗する為にアジア諸国が連盟を結成して団結するべきであると訴えた。
 そして山階宮定麿(後の小松宮・15歳)を、カイウラニ王女(5歳)の婿に迎えたいと申し込んだ。
 カイウラニ王女は、リケリケ王女とスコットランド出身のアーチボールド・S・クレゴールの娘であった。
 後日。日本側は政略結婚の提案を丁重に謝絶した。
 アメリカは、日本がハワイを領国にする事を警戒し、日本が乗り出す前にハワイを併合するべく急いだ。
 ハワイ国王カラカウアは、日本の皇室と姻戚関係を結んで、アメリカの侵略から国土と国民そして民族固有の歴史と文化と宗教を守ろうとした。だが、日本政府はアメリカとの関係を悪化させるとして拒否した。
 明治天皇も、情において忍びなかったが、ハワイ王国よりもアメリカとの関係を優先した。
 日本に見放されたハワイ王国は、消滅して、アメリカの一部となった。
 日本から貧しい日本人が、生活の場を切り開く為にアメリカ領となったハワイへ移住した。
 ハワイ王国は、儒教国家の中国や朝鮮ではなく、天皇制度国家の日本に頼ろうとした。
 カラカウア王「さようなら、日本よ・・・・うるわしき日本よ。できればここにずっと住んで、心やさしき親切な人々の住むこの国の移り変わりを見届けたい気がする。かなわぬことではあるが。アロハ・ヌイ」(『旅行日記』日本滞在は1881年3月4日から3月22日まで)
 アメリカ人地主は、中国人に次いで日本人を安価な労働者として雇い、奴隷的な重労働を強要した。
 白人は、支配階級として有色人種を差別し、当然の権利として下層階級から搾取を行った。
 カラカウア国王の不在中に、ホノルルで天然痘が大流行して、多くのハワイ人が犠牲となった。
 数十万にいたハワイ人は、繰り返し起きた疫病の大流行で10分の1に大激減したといわれている。
 アームストロング同行記(1904年出版)「国王は我々付き添いの者に何の断りもなく、皇帝の侍従に連れられて延遼館を抜けだした。お付きの我々に対して、ひどいエチケットに反する行為だった。なぜ秘密の行動をとったのかまったく理解に苦しむ。国王は普段は我々に満腔の信頼を置いていたのだ。……しかも国王は皇帝に彼のお忍びの行動を秘密にしてくれるように頼んでいる。……
 国王はポリネシア人らしい間抜けなおつむで、日本の皇室との婚姻を通じた関係を構築しようと考えたのだ。おそらく彼の脳裏には、ぼんやりとではあるが、近い将来、ハワイ王室はアメリカに飲み込まれてしまうとの恐怖があったのだろう。日本のプリンスとハワイ王女が結婚するような事があれば、日本は当然にアメリカのハワイ併合に反対する、と考えたのは良いのだが、侍従や私がそれに反対するのは解っている。だから一人で隠密に行動したわけだ。
 もしこの事が実現したら、ハワイは日本の植民地になっただろう。西洋列強にとって実に不愉快きわまりない事態になるところであった」
 ハワイは北太平洋海域の主導権をめぐる重要な拠点であった為に、アメリカは日本が海軍力を付ける前に手に入れようとしていた。
 3月13日 ロシアで。ユダヤ人革命家が参加する人民の意志党は、共産主義革命を起こす為に親ユダヤ派のロシア皇帝アレキサンドル2世を爆弾テロで暗殺した。
 ロシア人民は、敬愛する皇帝を暗殺したユダヤ人テロリストを憎み、ロシアやウクライナの各地で報復的なポグロムをおこなった。
 ロシア、ポーランドルーマニアなどで数千人のユダヤ人が虐殺され、数百万人の貧困階層のユダヤ教徒ユダヤ人が西欧へと逃亡した。
 西欧諸国の路上に教養なきユダヤ人が溢れ、ユダヤ人貧困者が下町を占領するや、ユダヤ人問題が深刻化した。右翼や保守派の中に、新たな反ユダヤ主義が台頭した。 
 アメリカのユダヤ人会は、政治的発言力を強化する為に、投票権適齢期にある約200万人のユダヤ人をアメリカに移住させ再教育した。
 人種差別主義の右翼は、ユダヤ人入植者に敵意を向けて犯罪事件が多発した。だが、警察はユダヤ人の被害報告を無視した。
 近代におけるユダヤ人のパレスチナ移住は、帝政ロシアにおける大規模なポグロムが切っ掛けで始まった。
 世に言う、第一次アリヤ(聖地へ上るとして、『移民』を意味する)ある。
 ロンドンのエドモン・ド・ロスチャイルドが、ロシア系ユダヤ人の入植に必要な資金10万ポンドを援助した。
 世界中のユダヤ人から農業移民に対する支援として、170万ポンドが寄せられた。
 ユダヤ人難民を支援するのは同胞のユダヤ人しかなく、その意味でも真の民族主義を持っているのはユダヤ人だけである。
 3月16日 カラカウア国王は、東京を離れて神戸に向かった。
 4月27日 皇帝派ロシア人は、ウクライナエリザベートグラードにあるユダヤ人住居を襲撃し、同様の焼き討ちが全土で起きた。
 世界史的常識として。国家元首が襲撃され殺害されたら、その国民は、テロを行った民族に対して見境のない報復を行い、その暴力が激化して虐殺が起きた。
 国家元首への襲撃は、それだけ重罪なのである。
 ロシア領内のユダヤ人の多くが、ユダヤ人虐待から逃れる様にアメリカへと移住したが、アメリカでも人種差別で迫害を受けていた。
 10月29日 カラカウア国王は、世界歴訪の旅から帰国した。
   ・   ・   ・   
 アメリカに移住したユダヤ
 1881年〜89年   20万4,000人中ロシア系6万8,000人。
 1890年〜98年   36万7,000人中ロシア系7万6,000人。
 1899年〜1902年 21万4,000人中ロシア系6万4,000人。
 1903年〜07年   61万5,000人中ロシア系7万8,000人。



   ・   ・   ・