🔯62」─1─ビクトリア女王。イギリスは、インドを植民地とし、ムガール皇帝をビルマに幽閉して殺し、インド人皇室を消滅させた。1830年~No.229No.230No.231 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 西洋の王侯貴族は、ノブレス・オブリージュ(地位或る者には高貴な義務を伴う)から男子は軍人になる為に入隊し、指揮官として戦場に立ち、全ての責任を引き受けた。
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 イギリスは、近代文明の先進国として成文憲法(リトゥン・コンスティチューション)を未だに持っていない。
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 イギリス王国の国歌『女王(国王)陛下万歳』または『神よ女王(国王)を護り賜え』
  1
 おお神よ我らが慈悲深き女王(国王)を守りたまへ
 我らが気高き女王(国王)よとこしへにあれ、
 神よ女王(国王)を守りたまへ:
 君に勝利を
 幸福を栄光をたまはせ
 御世の長からむことを:
 神よ女王(国王)を守りたまへ
  2
 おお主よ、神よ、立ち上がられよ 
 汝と君の敵を消散せしめたまへ
 打ち砕きたまへ
 彼らが策を惑はしたまへ
 彼らが騙し手を挫きたまへ
 我らが望みは汝の上に!
 神よ我等を救いたまへ
  3
 汝が選り抜ける進物の
 君に喜びと注がれむことを;
 御世の長からむことを:
 我らが法を守りたまひ
 絶えず理想を与へたまへ
 声無きも声高きも謳ひぬ(歌ふ心で歌ふ声で)
 神よ女王(国王)を守りたまへ
  4
 神の御慈悲は
 この御土のみでなく
 そのくまなきに知らるる!
 主はこの御国に、この広き世界の
 全て人間は一つ兄弟たり、
 一つ家族たることを知らしめす
  5
 闇に潜みし敵より
 暗殺者の魔の手より
 神よ女王(国王)を守りたまへ
 君が上に汝が腕を広げ
 ブリテンが為に防がむ
 我らが母(父)にして君にして友
 神よ女王(国王)を守りたまへ
  6
 主はウェイド元帥をして
 その強き祐けにより
 勝利をもたらしめむ
 乱を制しめむ
 轟々たる濁流の如くして
 反逆せしスコットランド人を破らしめむ
 神よ女王(国王)を守りたまへ
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 女系は王朝の断絶を意味する。
 それが、人類史・世界史・大陸史の事実である。
 女系でも王朝が存続できると信じる者には、全ての歴史が理解できない。
 つまりは、歴史を語る資格はない。
 地球上に於いて、古今東西で女系の皇帝あいは国王は存在しない。
 もし、女系の皇帝や国王が即位したという者がいたら、そうした悪意に満ちた作り話を語る詐欺師の言葉は信用しない方が良い。
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 トーマス・カーライルは、産業革命によって貧富の格差が広がり、貧困階級の低賃金労働者がさらに酷い生活に追い込まれているロンドンの荒廃ぶりを嘆いた。
 「それは恐らく人間生活の中でも、最も野蛮な地方においてさえ見られなかったほどのひどい光景である」
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 ビクトリア女王、在位1837ー1901年。
 ハノーヴァー朝の国王は、代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていた。
 ハノーファー王国は、女性の統治を認められていなかった為に、ビクトリア女王ハノーファー王位継承を叔父エルンスト・アウグストに譲った。
 ビクトリア王女は、1837年に18歳で即位し、1840年に母方の従弟に当たるザクセンコーブルク=ゴータ公子 アルバートと結婚した。
 ビクトリア女王の子供達は、ヨーロッパ諸王家に嫁いだ。
 ビクトリアは、 ドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇后となる。
 アルバートエドワードは、エドワード7世に即位する。
 リスは、 ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の大公妃となり、その娘はロシア皇帝ニコライ2世に嫁いだ。
 アルフレッドは、 ザクセンコーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵となる。
 ヘレナは、 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人である。
 ルイーズは、アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人である。
 アーサーは、 コノート公爵となる。
 レオポルドは、 オールバニ公爵となり、ヴァルデック・ビルモント公女を娶る。
 ベアトリスは、バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ公妃となり、その娘はスペイン国王に嫁いだ。
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 ビクトリア女王の血筋が、西洋の由緒ある王室や貴族を支配し、同時にイギリス王位継承権を外国人に与えた。
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 国を率いる貴族の子弟は、「勇敢と楽天的」で育てよ。
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 ビクトリア朝の妥協。
 ロゲンドルフ「チェスタトンの見る所、ビクトリア時代は二つの強力な力、相対立する力の妥協の上に成り立っていた。……この二つの力とは宗教と合理主義─より厳密に言えばキリスト教と、フランス革命に到ってクライマックスに達したところの、かの18世紀の合理思想の二つである」
 イギリスは、裕福な金持ちを貴族として体制の一員として取り込んだ。
 そして、ユダヤ人資本家がイギリスの貴族となった。
 イギリス王国は、祖先からの意向と自分と子孫への配慮という保守主義を基盤とした「縦の民主主義」と、現在を生きる国民の自由と権利を求める進歩主義を基盤とした「横の民主主義」を、伝統として王朝を断絶させず王権を守っている。
 其の源泉は、アングロ・サクソンのゲルマン精神にある。
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 1803年 オーストリアに移住したイギリス人は、タスマニア島で先住民のタスマニア人と出会う。
 1830年 ブラックライン作戦。イギリスは、純朴で人に親切なタスマニア人(3,000人〜4,000人)の絶滅計画を実行した。
 イギリスの流刑地であるオーストラリアでは、白人至上の白豪主義から、20世紀半ばまでに先住民アボリジニは虐殺された。
 生き残ったのは、600万人中30万人といわれている。
 白人キリスト教徒は、さらに動物狩りのレジャーとして虐殺を繰り返して6万7,000人に激減させた。
 1901年 移民制限法。
 オーストラリアは、白人の移民を歓迎したが、ユダヤ人難民や有色人種難民の受け入れを拒絶した。
 第二次大戦中に、オーストラリア軍に降伏した日本軍兵士の多くは虐待され餓死に追い込まれた。 白人は、非白人を人権を持った人間とは認めなかった。
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 1840年 ロンドン・シティーは、国際金融センターの地位を不動にする為に、カリフォルニアとオーストラリアで発見された大量の金を獲得した。
 アヘン戦争(〜42年)。イギリスは、大陸のウィーン体制から離脱する事で独自の植民地拡大政策を推し進めた。
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 1846年 ピウス9世は、「暗黒の結社であり、教会と神の的であり、王国の安全を脅かす敵である」という反フリーメイソンの教書を7回にわたって発し、カトリック教徒に反フリーメイソン運動を呼びかけた。
 国家も、王侯貴族も、企業家らも、資本主義による近代化の為にバチカンの指示を無視した。
 政治も経済も、宗教によって左右される時代は終焉していた。
 5月 イギリス議会は、国外の安い農産物を消費者に供給する事を目的として穀物法を廃止した。
 イギリスは、自国経済の発展と世界の富の独占の為に、「自由貿易」を大義として全世界に対して国境を開放する事を要求した。
 都市の消費者は、国内の農業を保護する為に、農産物の価格低下と安い外国産に輸入制限をしていた同法が廃止された事を、歓迎した。
 貿易商社は、国外の安い農産物を大量に買い込んで、イギリスの海運業者を利用して国内に持ち込んだ。
 イギリス国内の食糧価格は暴落して、農家経済は打撃を蒙った。同時に、イギリスに農産物を輸出していたアイルランドなどはその煽りを受けて、農業を中心の経済は不況に追い遣られた。貴族や地主は、食糧価格を下げる為に、賃金の安い植民地人を大量に雇用して移住させた。
 その結果、さらに農産物価格は低下して、中小の自営農家は破産して廃業に追い込まれた。
 貴族や地主らは、農業を放棄した農家から二束三文で農地を購入し、さらに多くの植民地人を農業労働者として移民させた。農村を捨てた農民は、仕事を求めて都市に殺到した。
 資本家も、安い労働力を得る為に植民地人の輸入を加速させた為に、イギリス人労働者は苛酷な労働を強いられた。
 こうして、イギリス農業は崩壊を免れたが、イギリス農家は保護されることなく破産した。
 さらに、悲惨な状況に追い込まれたのはアイルランドであった。
 世界有数の穀物地帯として食糧を輸出する事で経済を支えていが、イギリスの貿易商社から食糧を購入する輸入国に転落した。
 農村部の現状は、目を覆いたくなるほどの惨状となり、大量の餓死者を出した。
 自由貿易で利益を得たのは、貿易商社と投資銀行であった。
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 1848年 イギリス議会でのパーマストン卿の演説。「永遠の同盟は存在しないし、永遠の敵も存在しない。
 永遠なのは我々の利益で有り、その利益を追求する事が我々の責務である。イギリスには、友達はいない。利益あるのみだ」
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 1850〜54年 アイルランドは、イギリスの恐怖統治で、150万人以上が飢え死にした。多くのアイルランド人が、極貧と飢えから逃れる為に北アメリカに移住した。
 同じキリスト教徒であるプロテスタントのイギリス人とカトリックアイルランド人は、同じ絶対神への信仰を守る為に殺し合った。  
 宗教的殺し合いは、悲惨であり、容赦なく皆殺しにした。
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 バーナード・ショウ「イギリス人は、生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っている。……彼の欲しい物の持ち主を征服する事が、彼の道徳的宗教的義務であるという燃えるような確信が、どういうわけか、彼の心に生じてくる。……新しい市場が欲しくなると、先づ宣教師を送り出して土人に平和の福音を教えさせる。彼─イギリス人のことです─はキリスト教防衛の為に武器を執って立つ。キリスト教の為に戦い征服する」
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 ウォルター・バジョット「君主は威厳を持った地位に座っているが、その効用は測り知れないものがある。現在イギリスにおいて、女王が存在しなければ、政府は瓦解し、消滅するであろう」
「国民は党派を作って対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である。そしてこの為に敵意を持たれない、神聖さを穢されたりする事がなく、神秘性を保つ事が出来るのである。またこの為に君主は、相争う党派を融合させる事ができ、教養が不足している為にまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となる事がで出来るのである」(『英国憲法』1867年)
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 1873年 新興工業国のドイツ帝国は、金融や国際貿易で国外投資を優先するイギリス型自由主義的政策を避け、保護主義的経済政策を採用して農業及び工業生産の拡大を図る為に保護育成した。
 イギリス経済が停滞していたのに比べて、ドイツ経済の発展は目覚ましく、両国の差はと縮まりつつあった。
 イギリスは、物流の要である海運と鉄道で世界経済を支配してきたが、ドイツはそれに挑戦した。
 ドイツの商用船舶保有は、1870年時点でイギリス、アメリカ、フランス、ノルウェーに次いで第五位であったが、1914年には第二位まで保有数を増やした。
 その結果、イギリスの海運業の独占が揺らぎ、さらにイギリス植民地の市場も脅威に晒された。
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 1874年 女王事件。イギリス公使ハリー・パークスは、星亨横浜税関長と、「クイーン」の訳語で激しく対立した。
 パークス公使は、大国の維持から、「天皇=皇帝」に対抗する為に「女皇(女皇帝)」をごり押しした。
 星亨は、「女帝」はあっても「女皇」なる称号は、世界的に存在した事はないとして「女王」でよいとして拒否した。
 この結果。称号上において、日本天皇はドイツ皇帝やロシア皇帝オスマン・トルコ皇帝と同格とされ、王位のイギリス国王は格下とされた。
 イギリスの民族主義者は、称号問題から、自国の上の称号を地上から全て抹殺する為に陰謀をめぐらした。
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 1877年 キリスト教徒のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねると宣言した。インド帝国が成立し、ムガール朝は滅亡した。
 イギリス王家は、皇帝の称号を手に入れた。
 イギリスは、インドを直轄地とムガール皇帝を裏切った550以上の藩王国に分割した。
 ムガール帝国最後の皇帝バハードル・シャーは、ビルマに死ぬまで幽閉され、悲惨な生涯を送った。
 キリスト教会は、異教徒を容赦しなかった。
 欧米列強は、自国の主君を裏切り、祖国を植民地として差し出した者には褒美を与え、そして特権を認め、富を保証した。
 裏切り者は、上流階級の一員になる為にキリスト教徒に改宗し、娘を支配者に差し出して、支配者としての地位保全を図った。
 欧米列強は、裏切り者の協力を得て、地球上に植民地を拡大した。
 キリスト教会は、民族宗教に奪われていた絶対神の土地を奪い返した。
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 1877年 イギリスは、インドを植民地化し人口が増えて対世界GDPは9%から20%に増加したが、広大な植民地を維持する為の経費が膨らんで、イギリス人のGDPは逆に激減した。
 国家は豊かになった反面、イギリス人は貧しくなった。
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 イギリスは、インド人に対して、白人の命令に従わず逆らうとどんな目にあうかを知らしめる為に残虐行為を行った。
 そして。反白人として団結させない為に、民族・宗教・文化・地域などので差別を作り細分化して対立を煽った。
 最大の分割統治政策が、言語と文字の不統一であった。
 公用語と公用文字を英語と定めたが、各州では異なる言語と文字の使用を奨励した。
 それが、「地方の文化を重んずる」政策である。
 民族言語を否定して西洋語を公用語として普及させる事が、民族固有の文化や宗教や価値観の破壊につながる。
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 植民地支配の言語政策は、同化と異化の二通りがあった。
 異化政策とは、宗主国の言葉を話す事を禁止すると共に、統一言語を持つ事も禁止し、地域事の部族言語のみを話す事。
 東南アジアの植民地で実施された。
 同化政策は、民族言語を一切禁止して宗主国の言葉のみを強要した。
 宗主国の言語を話さない者は、真面な職業につく事を禁止されて下層民として貧困に追いやられた。
 中南米やアフリカの植民地で実施された。
 民族言語を禁止して外国語を公用語とする事は、その言語の国の属国になる事を意味した。
 歴史的に見て、母国語を捨てて外国語を受け入れた国で経済発展した国はなく、民族の伝統文化を失った国が多い。
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 イギリスは、総人口4億人以上のインドを1,200人の文官で植民地支配し、友好的なシーク教徒を手足の様に使た。
 多くのインド人は、イギリスに協力したシーク教徒を裏切り者として憎み、テロを行った。
 南アジア最大の文明国家インドは、多人種・多民族・多言語・多宗教・多文化の国家であった。
 インド人が一致団結して分離独立運動を起こさない為に、分裂政策を採用し、伝統的カースト制度と民族及び宗教対立を利用して対立と憎悪を植え付けた。
 イギリスに協力する者は特権階級とし、イギリス支配に反対する者は貧困階級に落とした。
 公用語を英語としたが、特権階級のみに話す事と読み書き許可したが、貧困階級には話す事は認めても読み書きは認めなかった。
 統一された共通言語を作らず、一定の収入のない貧困層には教育は不要として学校に通わせず、言語も親が話す言葉のみとした。
 イギリスの植民地支配によって、アジアでも有数の最貧国家となった。
 犯罪の多発で治安は悪化し、法秩序は崩壊し、貧困階級は地獄の様な悲惨な生活を強いられ続けた。
 アジア各地の独立派は、白人キリスト教諸国の植民地からの独立の為に、欧米列強の圧力に屈する事なく独自の道と自己主張を行う天皇制度国家日本に、アジアの解放を期待した。
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 イギリスは、分割統治として、アーリア系シンハリ人のスリランカにドラビダ系タミール人を入植させて対立を煽った。
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 英語は、優れた言語としてではなく、植民地支配の為に広がった。
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 1882年 イギリス海軍のフィッシャー男爵は、船舶の燃料を石炭から石油に転嫁すれば海の優位は維持できるとの講演を行った。
 イギリス軍は、スエズ運河会社内の自国利権の確保を理由にしてエジプトを占領した。
 イギリスは、インドへの航路を保全する為にエジプトに軍隊を常駐させ、エジプトの政治体制を破壊して占領政府を運営した。
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 1884年 ドイツは、イギリスの領土欲を食い止める為に、フランスとの共同歩調を取る事を確認した。
 フランスのアノトー外相は、サハラ砂漠を東西につなぐサハラ横断鉄道計画を立て、それを基軸にしてアフリカ植民地開発構想を実行しようとしていた。
 両国の蜜月関係を破壊するように起きたのが、ドレフェス事件であっいた。
 同事件は、捏造とされた。その結果、欧州列強関係は変化した。
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 1892年 ロシアの大蔵大臣ヴィッテ伯爵は、農業国家ロシアの近代化、工業化には鉄道網の整備が不可欠との判断から、フランスの資金支援を受けてシベリア鉄道建設を推進した。
 イギリス嫌いのフランス外務大臣アトリーは、植民地支配の再構築とアジアへの道の確保から鉄道計画に協力した。
 アノトー外相は、94年に起きたドレフェス事件に巻き込まれる形で、98年に辞職させられた。
 カーゾン侯爵「どの列強であれ、ペルシャ湾の港をロシアに譲歩する事は、大英帝国に対する意図的な侮辱であり、現状維持を行儀悪くかき乱す行為であり、国際的な戦争挑発行為であるとみなすべきだ」
 イギリスは、植民地インドに近接する海域への他の列強の影響力を排除する為に、ペルシャ湾岸のブシールとバンダルアバスに領事館を置き、艦艇をペルシャ湾に駐留させた。
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 1894年 フランスのベルタン男爵は、第一回の近代的オリンピック大会をアテネで開催する為に、ギリシャ国王ゲオルギオス1世に謁見し説明して賛同を得た。
 ゲオルギオス1世は、デンマーク王家の家系であった。
 コンスタンチノス王太子の后であるゾフィー王太子妃は、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリ(愛称、ヴィッキー)の3女である。
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 1897年 世界最大の軍需産業であるロスチャイルド系ヴィッカース社は、ネイヴィル・コンストラクション&アーマメンツ社とマキシム・ノルデンフェルト社の二社を買収して、世界の武器市場を支配し、侵略戦争を起こす事で莫大な利益を得た。
 ドイツ国防軍のティルピッツ元帥は、造船技術の発展と軍艦の老朽化により、軍艦建造計画を発表した。
 帝国議会は、翌98年に海軍強化を承認した。1900年には、建造数を二倍にするという第二次計画が承認された。
 ビスマルク「ドイツ・イギリス関係を良好にするには、ドイツが経済成長を自粛する方法しかない。だが、それは無理というものだ」
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 1898年 イギリスは、スエズ運河とエジプトの軍事支配を既成事実化する為に、サハラ砂漠を東進してきたフランス軍遠征軍をナイル川のファショダで阻止した。
 両国は、睨み合って対峙した。
 フランス側は、戦争を回避する為に、エジプトにおけるイギリスの優先権を認めて撤兵した。
 イギリスは、フランスを反ドイツの陣営に取り込む為に、ドイツとの領有権問題となっているアルザス・ロレーヌ地方の領有を支援する事を約束した。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、鉄道建設交渉の為にオスマン・トルコ帝国を訪問し、交渉の推進を要請した。
 ペルシャ湾への野心のない事の保障と建設への資金的参加を要請する為にイギリスを訪れ、ヴィクトリア女王と会談した。
 翌99年 ドイツ帝国は、中東市場での自国製品の販売拡大と石油の安定供給の為に、ベルリンとバクダードを結ぶ鉄道計画に合意した。
 鉄道は、バクダードからクウェートまで延長されれば、ヨーロッパとインドを結ぶ最短の交通手段が完成する事になる。
 ドイツは、自国の金融力だけでは資金不足な為に、イギリスの協力を求めた。
 だが、イギリスはその申し込みを拒否した。
 イギリスは、インドの富とエジプト・地中海の利権が脅かされ、大陸に新たな経済ブロックの出現になるとして対抗策を講じた。
 トルコ戦争やブルガリア戦争など、バルカン半島全域で戦争や紛争が多発した。
 R・G・D・ラファン「地図を眺めれば、ベルリンからバクダードまで諸国が鎖につながって並んでいる事が分かる。ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国ブルガリア、トルコ。小さな領土の切れ目が一ヵ所でもあれば、進路を遮断し、鎖の両端がつながるのを阻止する事ができた。その小さな切れ目がセルビアだった。セルビアは小国であるが、ドイツと重要な港の間に毅然と立ちはだかる、東の門扉だった。……実にセルビアは、我々の東部の財産を守る最前線だった。もしセルビアが砕かれ、ベルリンーバクダード系統に引き込まれれば、我々の広大ながらも脆弱な帝国は、間もなく東進するドイツの猛襲に晒されるだろう」
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 1899年 ボーア戦争セシル・ローズとアルフレッド・ミルナーは、南アフリカの金とダイヤモンドを独占する為に、ロンドンのロスチャイルドからの資金提供を得てオランダ系ボーア人に戦争を仕掛けた。
 イギリス軍は、3年近く苦戦し、多くの犠牲を払ってながらも勝利した。
 2万5,000人のボーア人と2万4,000人を強制収容所に送り込んで殺害した。
 沈まない帝国といわれたイギリスの凋落は、この時から始まった。
イングランド銀行は、南アフリカで生産された金塊を獲得し、世界の貨幣用金の大半を獲得して、世界の金価格を設定した。
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 1901年 クウェート沖に碇泊していたイギリス軍艦は、ドイツが勧めているベルリン=バクダード鉄道計画を妨害する為に、トルコ政府に対してクウェートをイギリスの保護領にすると伝えた。
 トルコは、海軍力が弱かった為に、抗議はしたもののイギリスの占領を排除できなかった。
 他国に占領された自国領は、話し合いによる外交交渉では取り返す事は出来ない。
 自国領を守るには、強力な軍事力のみであった。
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 1902年1月 イギリスは、アジアにおけるロシア帝国の影響力が増大する事を警戒し、日本と日英同盟協約を締結した。
 イギリスは、北清事変における日本軍の紳士的な行動に感銘を受け、日本を国際社会に参加させる為に対等関係で協定を結んだわけではない。
 イギリスの外交は、日本外交の様に単純ではなく、老獪である。
 イギリスは、国益の為に日本を使い捨てのチェスの駒とした。
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 1905年 ロシア帝国では、日本に敗北するや、イギリス依存なき経済計画を推進していたヴィッテ蔵相が辞任した。
 そして、イギリスとの関係修復を決定し、アフガニスタンペルシャにおける権利をイギリスに譲る事にした。
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 1906年 イギリスの地政学は、ヨーロッパ大陸で政治・経済・軍事においてイギリスの存在を脅かす様な大国を出現させない事であり、海の優位権を脅かす様な海運国家をつくらない事であった。
 世界制覇を維持する為には、勢力の均衡を保つ事が肝要とされた。
 イギリスの伝統的外交は、ヨーロッパ世界を分裂させ、諸国の対立を煽る為に、弱い国家を支援して競争相手になる強い国家に対抗させる事であった。
 故に、戦争は、政治の一手段として必要悪とされた。
 イギリスは、ドイツ海軍の増強に危機感を抱き、既存の戦艦の常識を打ち破る最新式の戦艦としてドレッドノートを進水させた。
 ドイツは、対抗して、1909年にナッサウ戦艦を推進させた。
 両国による、新たな戦艦開発・造船競争が始まった。
 ルウェリン・ウッドウォード「ドイツは、他の列強と同様に、思うままに巨大な船団を築く事が出来た。問題は、有用性と現実的な計算だった。ドイツの艦隊は、海軍国として優位を保ちたいイギリスによって、挑戦以外の何ものでもなかった」(1951年 オックスフォード大学での講演) 
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 1907年 クェートの族長ムバラク・アル・サバーハは、土地の一部をイギリスに売り渡した。
 イギリスは、僅かな金貨で永代借地権を手にし、該当地域での石油開発は政府と契約する者以外は認めないとした。
 地質調査の結果、クウェートを含むメソポタミア地域(今日のイラク)には石油資源が埋蔵されている事が知られていた。
 イギリスは、石油の埋蔵が予想される地域を手に入れるべく、石油資源に興味がない地元民に金かを与えて購入し、占領地を拡大していった。
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 1912年 第一次バルカン戦争。セルビアブルガリアギリシャの諸国は、独立する為にイギリスの支援を受けて、オスマン・トルコ帝国に宣戦布告した。オスマン・トルコ帝国は、戦争に敗れて領土を失った。
 ドイツ銀行は、バグダードからクェートへの鉄道延長交渉に当たり、線路と並行する両側幅20キロ内の石油及び鉱物資源を優先的に利用できる施設権をバグダード鉄道会社に与えるよう求めた。
 ドイツは、石油供給をアメリカのスタンダード石油に依存していた。国防及び経済の為に、外国依存から自国資本による安定供給に転換しようとしていた。
 ドイツ帝国議会は、国有企業設立法案の成立の為に審議を開始してが、14年8月の戦争勃発で自然消滅した。
 12年当時の石油生産は、アメリカが65%以上、ロシアのバクーが19%、メキシコが5%であった。
 イギリスのアングロ・ペルシャ石油会社は、実績がなかったが、ペルシャ湾を支配する事で石油市場に確固たる地位を確保しようとした。
 その為にも、ドイツの石油陸上輸送計画であるバグダード連結鉄道を潰す必要があった。
 7月 イギリスのアスキス内閣は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルの石油艦隊計画を採用し、王立石油・石油エンジン委員会を設立した。イギリスは、石油戦略を優先課題とした。
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 1914年 第一次世界大戦。イギリス首相ロイド・ジュージ「王家がドイツに出自があるからとはいえ、敵国の地名を名乗っているのは如何なものか」
 イギリス国王ジョージ5世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、従兄弟同士であった。
 ロシア皇帝ニコライ2世(愛称、ニッキー)の后でるアリックス皇后は、ヴィクトリア女王の次女アリスの4女である。
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世(愛称、ウィリー)は、ヴィクトリア女王の長女ゾフィーとフリードリヒ3世の子供。
 第一次世界大戦中。ドイツは、国家としてイギリス・ロシアと戦争をしていたが、国家元首同士は姻戚関係から密かに連絡を取り合っていた。
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 欧米列強による地球上の植民地面積は、1800年に35%だったのが1914年には84.4%に達した。
 世界は、白人キリスト教徒のモノであった。
 アジア地区での完全なる独立国家は、日本とタイなど数カ国しかなく、中国は軍閥による内戦で混乱して統一政府がなかった。
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 1947年11月20日 イギリス国王ジョージ6世の第1王女エリザベスは、グリュックスブルク家のフィリップ王子と結婚した。
 エリザベス2世の王配として殿下の称号を名乗るが、共同君主・共同統治者ではない。
 グリュックスブルク家は、ギリシャデンマークノルウェーの王家である。
 エディンバラ公爵フィリップは、ギリシャ王国の第2代国王ゲオルギオス1世の四男アンドレオス王子とバッテンベルク家出身のアリスの長男として生まれた。
 ギリシャ王子とデンマーク王子の称号を持ち、イギリスのヴィクトリア女王の玄孫として連合王国王位継承権も持っていた。
 エリザベス2世と結婚し、ギリシャ王子・デンマーク王子の称号を捨てて、エディンバラ公爵の爵位を得た。
 姉は4名いて、全てドイツ人と結婚した。
 長姉マルガリタは、 ホーエンローエ=ランゲンブルク侯妃となる。
 次姉セオドラは、バーデン辺境伯夫人となる。
 三姉セシリアは、ヘッセン大公世子夫人となる。
 四姉ソフィアは、ヘッセン=カッセル公子夫人、ハノーファー王子妃となる。
 母方の叔母ルイーズは、スウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃である。
 叔父は2名いて、2代目のミルフォード=ヘイヴン侯ジョージ・ルイスとルイス・マウントバッテン卿は母方の叔父である。  
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 イギリス王家には、イギリス人の血が流れていない。
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 ドイツのサウナは混浴で、男も女も裸で浴室に入る。
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 2015年12月3日号 週刊新潮藤原正彦管見妄語
 マグナカルタVS十七条憲法 
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 イギリスには今も成文憲法がなく、マグナカルタなど歴史的な議院決議や国際条約、重要な判例基本的人権といった普遍的価値、などに則って実務を進めている。
 近代憲法の誕生はフランスとアメリカで、前者は民衆による大革命、後者はイギリスからの分離独立、という体制の大転換による成文憲法が必要となった。また仏米はともに論理的であることが大好きな国だ。アメリカは言葉も習慣も文化も違う人々おるつぼで、共通のものは論理だけだから、自然と論理一辺倒の国となった。ヨーロッパ大陸の人々、とりわけフランス人は論理が好きだ。一方のイギリス人は論理より地に足をつけた議論を好む。抽象的で論理的な議論はフランス人のもの、
距離を置いている。だから哲学においてもヨーロッパ大陸で盛んだった形而上学がイギリスでは育たなかった。自ら経験した事実に頼るというのがベーコン以来のイギリス哲学の主流だった。アメリカのある哲学者は、大陸の合理論とイギリスの経験論を比べ、『諸原理によって進む硬い心と、諸事実によって進む柔らかい心の違い』と評した。憲法を軸に進むフランスと、判例、慣習、良識などを参考にしながら進むイギリスとの差もここから来ているだろう。我が国はイギリスと同様に血で血を洗う革命を経ていないし、日本人はイギリス人以上に論理に全てを託さない国だ。だから形而上学も育たなかった。成文憲法なしで時代の変化に対応しながら進むというイギリス流は日本の国柄に合っていそうだ。古いもの好きのイギリスが1215年のマグナカルタを掲げるのなら、我が国は『和をもって貴しとなす』の17条憲法(604年)を掲げればよい」


 
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