- 作者:星川 淳
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
カント「人間は原因から始めることはできない。必ず結果から遡らなければならない」 ・ ・ ・
サー・ボイル・ロシュ「我々の為に祖先が何をなしたか」
ジョン・クィンシー・アダムス「汝の祖先を思い、汝の子孫を思え」
リンカーン「私の祖先がどんな人だったかまったく知らない。しかし私が知りたいのは祖先ではなく、祖父の孫がどんな人間になるかという事である」
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「インディアンの子は、インディアンである!
シラミの子は、所詮、シラミにしかなれない!」
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マタイ伝24章27節「神はこの世の終わりにあたって、その福音を西に伝えようと思っておられる。福音はかって東から昇り、これまではその光によって東方を照らしていたが、この世の後半期ともなれば西の方へ傾き、沈む前にはこの西方の部分をも輝かしい光で照らしたもうのである」
イギリスでの清教徒革命に失敗したピューリタン達は、聖書の導きにしたあってアメリカに移住し、文明を未開に伝え広げるという明白な使命を果たすべく西に向かった。
未開の新天地に、絶対神の王国を創るという宗教的使命感がフロンティア精神である。
そこには、民族宗教と土着文化を以て生きている先住民への配慮は存在しない。
アメリカは、その建国から宗教性の強い国家であり、聖書を通じてキリスト教とユダヤ教には寛容であるが、イスラム教やその他の宗教は敵と認識して非寛容に排除した。
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サンサルバドル島に上陸したコロンブスは、スペインの女王に先住民インディオに関する報告書を送った。
コロンブス「彼ら(インディオ)は大変従順で、平和を愛する民族です。世界中にここよりすばらしい国はないと、両陛下に誓って申し上げます。彼らは礼儀正しく、賞賛に値する態度です」
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自由と民主主義という人工的理念国家・アメリカ
メイフラワー号の誓約。
独立宣言。
ゲティスバーグの演説。「神の御名のもとの、皆の衆の、皆の衆による、皆の衆のための政治」
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天から与えられた『明白なる使命』、それを『神聖な権利』で実行した。そして、アメリカ人の領土は拡大し、非アメリカ人の土地は消滅した。
フレデリック・J・ターナー「空き地がある。空き地は後退し、アメリカ人の定住地が西に広がる。これがアメリカの発展という事だ。……拡張はアメリカ人に共通する気質である」
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19世紀前半 アメリカの政財界と政治経済学者らは、アメリカのあり方や進むべき方向に付いて激論をあわし、大きく二派は別れていた。
イギリスに対抗する国力を持つ為に中央集権の強い連邦政府を目指す連邦派(後の共和党)と、連邦政府の権限を弱め州政府に多くの権限を与え自由で緩やかな政治的集合体を目指す民主共和党(後の民主党)であった。
初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンが、連邦派を指導していた。別名フェデラリスト党と呼ばれたが、ハミルトンの死後に、党名をホイッグ党に改称した。
第三代大統領トマス・ジェファーソンが、民主共和党を設立した。
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ナポレオン「歴史とは、暗黙の了解の上にできあがった嘘の集積である」
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1800年代 アメリカは、開拓精神で、国土を東海岸から中央部へ、そして西海岸へと拡大した。ヨーロッパの失業者や犯罪者などの食いつめ者は、「土地を開発する能力のある者が、絶対神からその使命を果たすべく送り込まれた」として、異教徒原住民の土地を奪い、抵抗する者は皆殺しにした。キリスト教会は、町の中心地の一等地に教会を建てて、キリスト教に関係しない原住民の歴史や文化を容赦なく破壊した。
1800年 ワシントンが首都となる。
DCとは、「コロンビア特別区」の略。
コロンビアとは、クリストファー・コロンブスに由来している。
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ヘーゲル(1770〜1831)「黒人は道徳感情がまったく希薄で、むしろ全然ないといってよく、両親が子どもを売ったり、反対に子どもが両親を売ったりする。」(『歴史哲学講義』)
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1801(〜1809)年 第3代大統領トマス・ジェファソンは、奴隷少女を犯して何人もの子供を孕ませた。
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E・ルトワック「アメリカの対中政策は、典型的な『アングロ・サクソン』式のものである。それは最初にナポレオンに対して使われたものだ。
当時、イギリスの人口1,000万人に対して、フランスは3,000万人。フランスにはヨーロッパ中のあらゆる若者が集まっており、人口は5,000万人程度とも言われていた。人口比でみれば、イギリスはフランスに対して5分の1の数的劣勢と言える。現在の中国に対するアメリカの数よりも劣勢だ。
そこでイギリスは何をしたか。2つのやり方があった。
1つは『大陸式』。若者を入隊させて鍛え上げ、強力な陸軍を作り上げて大戦争を行うというものだ。しかしイギリスはこれをせず、もう1つの手法を用いた。誰でもいいからフランスに対抗する勢力を集める、というものだ。重要なのは、国の大小ではなく、『誰でも』という部分だ。
ワーテルローの戦いを見ればわかるように、双方の戦力を比べてみると、ナポレオン側の7万人超に対して、イギリス側は2万人弱。その他の小国が補完してようやく対抗できる状態であった。
ドイツやポルトガル、スペインなどの小規模な部隊があり、ナッサウ(19世紀のドイツに存在し、ナッサウ家が統治していた領邦国家)などは兵を3,000しか出せない。
……
ナポレオンに対抗したイギリスに話を戻そう。なぜあの時、イギリスの外交が成功したのかといえば、みんながナポレオンを恐れたからだ。ここにカギがある。
……
歴史を振り返ると、大国は常に勝ててきたわけではない。ヨーロッパに行くと驚かされるのが、ベルギーやルクセンブルク、さらにはリヒテンシュタインのような小国が残っていることだ。彼らが生き残って、彼らを呑み込もうとした帝国が消滅した。この不思議は、同盟関係が存在したからだ」
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1803年 ナポレオンは、戦費を賄う為に、フランス領ルイジアナをアメリカに1,500万ドルで売約した。
フランスのカルノー陸軍大臣は、フランス軍兵士を性病から守る為に、遠征するフランス軍に売春婦達による娘子軍を随行させた。
遠征するフランス軍兵士は、同数の売春婦を連れて各地を転戦していた。
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1804年 ナポレオンはフランス皇帝に即位して、第1帝政が始まる。
フランスは、皇帝派、共和派、国王派の3派に分裂し、イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、スペインの影響を受けヨーロッパ戦争の時代に突入した。
ナポレオン戦争の犠牲者は約400万人。
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1805年10月21日 イギリス艦隊は、スペインのトラファルガー岬沖でフランス艦隊を撃破し、ナポレオン皇帝のイギリス本土上陸計画を粉砕した。
12月2日 アウステルリッツの戦い。フランス軍は、オーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外でロシア・オーストリア連合軍を撃破した。
フランス軍 7万3,000人。戦死1,305人。負傷6,940人。捕虜573人。
オーストリア・ロシア連合軍 8万4,500。戦死1万5,000人。捕虜2万人。
フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加した事から三帝会戦とも呼ばれる。
12月26日 オーストリアは、プレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服して第三次対仏大同盟は崩壊した。
神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。
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フランスの革命的教育改革。
ナポレオンは、今すぐ役に立つ実学を重視する学校改革を行い、大学から神学部を排除し文学など教養学部を縮小し、工学・軍事学などの理系と経済学などの実学を教える事とした。
フランスは、実学の文系と理系を優先して教養の文系を軽視した為に、長期的国家戦略を見失って国力を弱め、文化的にも過去からの教養の蓄積という体系知を失い輝きを失った。
二流国に過ぎなかったドイツが、教育改革として理系と文系をバランス良く取り入れて速に大陸帝国に成長した。
シュライエルマッハー「知は体系知でなければ意味がない」
フランスは、1870〜71年の普仏戦争で大敗北して、フランクフルト条約でアルザス・ロレーヌの大半を割譲し、賠償金50億フランを支払った。
ナポレオン三世は、戦争責任として退位してイギリスに亡命し、ボナパルチスム第2次帝制は崩壊して第三共和制が発足した。
71年1月 プロイセン国王ウィルヘルム1世が、ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一を宣言してドイツ帝国が誕生した。
明治政府は、近代教育の新設にあたって、文系軽視理系偏重のフランス共和国ではなく理系と文系の均衡が取れたドイツ帝国を手本として、ドイツから多くの優秀な学者を高額で招聘した。
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1806年 ブエノシアイレスがイギリス領に。
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1807年 イギリスは、巨万の富を生んでいた奴隷貿易を禁止した。
デンマーク艦隊引き渡し請求事件。中立国デンマーク王国は、イギリスに次ぐ強力な艦隊を持っていた。
ナポレオンは、大陸における反対勢力を駆逐した後に、中立を無視してデンマークに侵攻する計画を抱いていた。
世界史の常識として、大国のエゴの前では中立など無きに等しく、国防の為の軍隊を持たない国は生きる資格はなかった。
大陸に於いて、中立などは無意味であった。
11月 イギリス海軍は、フランスがデンマーク王国を攻略してデンマーク艦隊を手に入れる事は、自国の大きな脅威になると判断した。
イギリスは、デンマーク王国がフランスに占領される前に、デンマーク艦隊の引き渡しを要求した。
デンマーク王国は、中立国でありフランスの支配を受けていないし影響下にもないとして、自主独立国家としての権利から引き渡し要求を拒否した。
イギリスは、艦隊をデンマークに派遣し、コペンハーゲン市内を砲撃して屈服させ、港に碇泊していた全てのデンマーク艦隊を拿捕してイギリスへ曳航させた。
国際法上。大国イギリスの将来の脅威を取り除くという自衛権解釈を正当ともなし、小国デンマーク王国の自衛権を無視した。
大国の自衛権は、小国の自衛権より優先された。
に備えるという自衛権に基づき、これを自衛権に基づく措置であると主張した。
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1808年 ナポレオンは、スペイン国王となった兄のジュセフを助ける為にスペインを侵攻した。
スペイン人は、猛反発してナポレオン軍兵士30人を惨殺した。
ナポレオンは、報復として罪のないスペイン人1万人を虐殺した。
スペインは、ナポレオンを英雄ではなく極悪な圧制者と嫌った。
1810年 中南米のスペイン領植民地で独立運動が盛んになる。
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ディビッド・フィスク「黒人達は奴隷で有る無しに関わらず拉致され、奴隷として売られました。卑怯な行為は、連邦議会が奴隷の輸入を禁じた1808年以降、大幅に増加しました。奴隷を外国から買えなくなったのはよい事ですが、不幸な副作用をもたらしたのです。奴隷労働者の供給が減ると、奴隷価値が高騰し、黒人を誘拐し奴隷市場に運ぶ犯罪者達は、大きな利益を手にするようになりました」
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