🔯61」─1─イギリスの地政学。ナポレオン戦争。ウィーン会議。イギリスの発展は軍需産業が主導力であった。1800年~No.223No.224No.225 @ 

イングランド銀行の金融政策 (世界の中央銀行)

イングランド銀行の金融政策 (世界の中央銀行)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 「光栄ある孤立」という嘘。
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 ヨハン・ホイジンガ(オランダ歴史家)「中世後期を、来たるべき時代を予告するものとしてではなく、すでに過ぎ去ったものが死滅する時季としてちらえたらどうか」
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 イギリスは、ヨーロッパで最も貧しい王国として、住み込みのメイドを置けたのは王侯貴族と一部の資産家だけであった。
 財政は絶えず赤字で、少しでも税収を得る為に家の窓まで税金をかけていた。
 イギリスが、住み込みのメイドが置けるほどに豊かになったのは、植民地を獲得してからである。
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 イギリス王国の莫大な富は、植民地支配における大虐殺と強奪で得られた。
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 イギリスは、国家安全保障として、ヨーロッパ大陸の諸国家が対立して戦争を繰り返す事を歓迎したが、一つにまとまりイギリスを侵略せるほどの大国が現れる事を警戒した。
 イギリスの基本戦略は、勢力均衡(パワーバランス)であった。
 オランダは、ヨーロッパ大陸の一国家であった為に海洋国家になりきれず、経済と軍事の大国に呑み込まれて小国となった。
 イギリスは、ヨーロッパを統合してイギリス攻略を試みようとするナポレオンを打倒する為に、戦争に介入した。
 つまり、イギリスの対ナポレオン戦争は自衛目的とした正義の戦争であった。
 ナポレオンは、大陸封鎖令を敷いてヨーロッパ諸国に対してイギリスとの交易を禁止し、イギリスの国力を減衰させようとした。
 イギリスは、海賊行為や奴隷貿易で学んだ交易術を駆使して組織的密貿易を行い、必要な品物を必要とする地域に届けるという市場原理でナポレオンの裏を掻いた。
 さらに、フランスに不満を持つポルトガルを離反させ、フランスと戦うロシア帝国と非公開貿易を続けた。
 ナポレオンは、イギリス攻略を行う前に、ポーランドやスペインとの戦争で国力を消耗し、ロシア遠征の失敗で退位に追い込まれ、セントヘレナ島へ流刑となった。
 中程度国家であるイギリス王国が、勢力均衡戦略として、大国フランス帝国を敗退させたのは、海洋国家として海の外から小国連合を形成して対抗したからである。
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 パーマストン「永遠の敵、というものはなく、また永遠の同盟国というのもない。永遠なのは国益だけだ」
 イギリスの「名誉ある孤立」「光栄ある孤立」とは、真っ赤な嘘である。
 イギリス一国の国力・軍事力では大陸諸国を屈服できないし、大陸諸国の侵略を食い止められないという事であった。
 イギリスの安全保障は、大陸諸国が反英同盟を結び団結してイギリスを侵略してくる事を防ぐ事であった。
 ただし、経済的には大陸市場に依存している為に関係を遮断するわけにはいかなかった。
 イギリスの外交は、大陸諸国が一体化させないように、各国間に損得勘定による疑心暗鬼を生みだし、敵対関係を煽り軍費を与えて紛争や戦争を誘発させた。
 フランスが強くなればドイツと手を組み、ドイツが強くなればフランスと手を組み、オランダが海洋国家を目指せば周辺諸国と組んでオランダを打ち破った。
 イギリスの狡猾な外交とは、大陸諸国の勢力図・パワーバランスを見極め、イギリスの脅威となる国を見つけ第三者的国家を利用して潰し事であった。
 島国の小国であったイギリスは、大陸諸国間の平和と発展・進歩に寄与している友好関係を狡猾な外交で潰し、戦争をさせ疲弊した所を漁夫の利として地球上の要衝を植民地として大帝国を築いた。
 イギリスは、避けられる限り大陸諸国戦争には参加しなかった。
 そして、軍艦を建造して大艦隊を編成しようとする大陸国を潰した。
 オランダ海軍は英蘭戦争で、フランス海軍はナポレオン戦争で、ロシア海軍日露戦争で、ドイツ海軍は第1次世界大戦で、イギリスの海外植民地と海上交通・輸送網に脅威となる大陸国の海軍を撃滅させた。
 第一次世界大戦で疲弊した軍需産業を立て直す為に、日本海軍とアメリカ海軍の建艦を制限するべくワシントン会議海軍軍縮条約に合意した。
 ヨーロッパを支配しているのは、パワーゲームであった。
 日本は同じ島国と言う事でイギリスを手本としたが、日本が見ていたイギリスは表面的な華やかさであって、その裏を見もしなかったし考えもしなかった。
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 スペインやポルトガルの大航海は、無主の知を占領し植民地として抱え込み、他国を寄せ付けない閉鎖型海洋国家であった。
 イギリスやオランダの海洋進出は、主権国の土地を強奪して植民地として解放し、他国にも一定の利益を獲得する権利を与える開放型海洋国家であった。
 アメリカは人工国家として市民や国民はおろか人民さえ持っていなかった為に、西洋系白人でキリスト教徒である事を最低条件として移民を受け入れ、彼らを荒れ地にフロンティアとして追い遣って領地を広げた自由型海洋国家であった。
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 1800年 イギリスは、カナダとオーストラリアを植民地化し、両植民地を結ぶ為に太平洋に進出した。
 太平洋に海底ケーブルを敷設する為に、1874年フィジー島、1889年フェニックス島、1892年エリス島をそれぞれ占拠した。
 1898年 ハワイは、アメリカに一歩先を越されて保護領化に失敗した。
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 1805年 イギリス海軍は、トラファルガー海戦でフランス海軍を撃破する事で海洋独占権を手に入れ、欧州列強が保有する全艦隊を合計した以上の大艦隊を建造して海を完全支配した。
 イギリスは、海軍では絶対優位を確保したが、陸軍では劣っていた為に大陸での戦争には不介入策とった。
 唯一の例外が1853年(〜56年)のクリミア戦争で、ロシア帝国の南下でインドへの生命線が遮断される恐れが出た為に軍事介入した。
 イギリスは、海洋に於ける後発国として、ポルトガルやオランダの植民地経営を学び、現実主義に基ずく「自由と開放」の海洋支配理論を考案した。
 特に参考にしたのが、海上権・制海権で海から陸を支配すうとい「ポルトガルの鎖」である。
 イギリスは、海上帝国になる為に、海洋を海軍力で支配して抱え込むのではなく逆に開放し、商船で海上交易を行う諸国家に対してイギリス・ルールである航海法を守れば船の安全と自由な航行を保障した。
 イギリス・ルールに参加する見返りとして、参加国の商船団護衛を肩代わりし、海洋交易で得る利益を保障した。
 イギリス・ルールは、現実重視として、目の前の揉め事を如何に解決するかに特化して分かりやすかった。
 フランスやオランダなど海軍を保有する国は、イギリス海軍に対抗できない為にイギリス・ルールを受け入れ、船長になる条件に英語を必修とした。
 英語が世界で最も広く使われる様になったのは、優秀な言語であったからではなく、教養なき海賊が文法や発音を気にせず王室海軍将校と会話できる実用本位であったからである。
 英語は、発音に癖があっても相手に意味が伝われば良いとさ、その為に文法は単純でシンプルであった。
 イギリスが世界最強であったのは、大陸的な硬直した観念で成文法を定めて行動を制限する事を避け、不文法的に最低限のルールを決めながらその場その時で柔軟な行動を許したからである。
 現地の外交官は、国家的戦争ではなく地域的紛争であれば、本国に許可を受けなくとも独断で軍隊を動かす事ができた。
 カール・シュミット「海からだけの視点にとっては、大陸とはただの海岸、『後背地域』のある沿岸でしかない。大洋から、まあ海洋的存在から見ると、陸地全体ですらもただの漂流物、海の排泄物である事になる」「一つの陸国が地球全体を包含するような世界権力を行使できるなどという考えは、陸国の世界観からすれば途方もない事であり、耐えられぬことであろう。おろが、陸から離れた海上の存在の上に打ち立てられ、世界の大洋を包含する世界支配は、そうではないのである。ヨーロッパ北西辺に位置する比較的小さな島が、陸に背を向け海に賭ける事によって世界帝国の中心となった」(1954年『陸と海と──世界史的1考察』)
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 イギリス王国は、貧しい時代のビジネスモデルは海賊による略奪と奴隷商による三角交易で富を蓄えていった。
 イギリス海軍は、海賊船や奴隷船を正規艦艇に加え海戦を繰り返す事で鍛えられ、無敵艦隊へと成長していった。
 イギリス王国は、強力な艦隊と数多くの交易船をもって海洋国家へと成長していった。
 国際社会で地位を得るには、何時までも海賊稼業にいるビジネスモデルでは評判が悪いので、新たなビジネスモデルとしてスペイン・ポルトガルの植民地経営を採用した。
 同じ様に、植民地拡大を続けるフランス王国と、北米大陸で熾烈な植民地戦争を繰り広げた。
 北アメリカ大陸のインディアン(ネイティブ)は、半強制的にフランス軍とイギリス軍に組み込まれ戦場に狩り出された。
 インディアンが殺した敵の頭の皮を?ぐ行為は、この時、白人から教えられた。
 イギリス軍は、植民地戦争に勝利して植民地を獲得し、移民を送り込む為に戦争に協力させたインディアンから土地を奪った。
 1806年11月 ナポレオンは、イギリスを孤立させる為に大陸封鎖令を発し、イギリスへの小麦輸出を遮断して兵糧攻めを仕掛けた。
 イギリス国内の地主や農業関係者は、食糧封鎖で国内穀物価格が高騰して大儲けした。
 大陸封鎖令は、失敗に終わった。
 1814年 ナポレオンは退位させられ、エルバ島に流された。 
 1815年 地主や農業関係者は、ナポレオンとの戦争に勝っても穀物輸入禁止を継続する為に、政府に圧力を加えて穀物法を成立させた。
 資本を蓄えて力を付けてきた産業資本家らは、食糧価格高騰は労働者の賃金を上げる必要が為に猛反対した。
 ディビッド・リカード(経済学者)は、反穀物法運動において、イギリスとポルトガルが同じ毛織物と葡萄酒を生産・輸出しているので、イギリスは毛織物にポルトガルは葡萄酒に特化して貿易を行う事を提案した。
 全てのモノを自分で作って自給自足する事は利益が乏しく効率が割るので、同じ様なモノを作っている相手と得意分野で特化して分業化し、そして商品を交換した方が合理的で利益が多くなる。
 イギリスは、この「比較生産費の理論」で輸入国も輸出国も共に豊かになれるとして、自由貿易のイギリスモデルとして海洋交易を行う全て国に採用する様に求めた。
 強力な海軍力で、イギリスモデルを採用した国の交易船は保護し、拒否した国の交易船は攻撃して沈め、
 イギリスは、大陸国家的に無計画な植民地拡大をせず、イギリスモデルで海上秩序を支配する為に必要最小限の拠点を植民地化した。
 つまり大陸軍に比べて大海軍の方が経費が安く、合理的で弾力な運営が可能である。
 この海洋における支配というイギリスモデルに挑戦したのが、後のドイツ帝国で、第一次世界大戦の原因となった。
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 1814〜15年 ウィーン会議。イギリス外相カスルリー子爵は、海の権利を獲得する為に、大陸の権利を譲歩する事で、オーストリアなどの同意を得た。
 戦後処理と秩序回復の為に、自由主義国民主義を抑えて絶対王制に戻ろうとした。
 イギリスは、同時に、欧州列強が世界進出が出来ない様に、諸国間が対立しそうな諸問題を提議した。
 スペインの影響力が落ちて、ラテンアメリカカリブ海諸国は相次いで独立していった。
 西洋列強は、1815年のウィーン会議から1914年の第一次世界大戦まで、海外での熾烈な植民地戦争を行っても、欧州内では外交による話し合いで問題を解決して戦争を行わず、積極的に経済関係を深め民間の人間交流を活発に行っていた。
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 1816年6月22日 イギリスは、欧州地区の金貯蔵量の大半を手に入れた、金を唯一の価格の基準とする金本位制を宣言した。
 イングランド銀行は、ロンドン・シティの国際金融資本の協力を得て、国際経済を支配する為に金融市場での金通貨の供給を操作した。
 イギリスは、海運業の優位性を確立し強固なものにする
為に、ロンドン・シティに都合の良い貿易ルールを国際基準とした。
 1820年 イギリス議会は、強力な金融業と海運業を利用して、アダム・スミスが提唱した「完全自由貿易」の原則を支持するとの宣言を行った。
 強力な海軍を建設したイギリスは、その圧倒的な軍事力を背景に、自国の製品を売り込むべく海運の脆弱な欧州諸国に「門戸開放」を要求した。
 力のない国は、自国の利益を犠牲にして、強国が主張する「公平な競争場」という市場原理を受け入れた。
 「勢力の均衡」外交から、イギリス海軍制海権を危うくする可能性のある海運国が成長してきた時、大英帝国の世界覇権を維持する為に弱い国と同盟を組んで強い国に対抗した。
 イギリスの地政学は、イギリスの生存を脅かす経済的軍事的に自給自足できる自立した大国の出現を容認しなかった。
 たとえ、軍事的ではなく平和的であろうとも、排他的ではなく協調的であっても、イギリス製品の販路を妨害し世界市場から排除しようとする競争者を許さなかった。
 1823年 アメリカは、モンロー宣言を発表し、旧大陸が新大陸に介入する事を反対すると表明した。
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 チェスタトン「イギリスの歴史に一番重要な事は、起こらなかった事件がある。つまりフランス革命の様なものがまかった事だ。イギリス貴族は金持ちと手を結び、金持ちを貴族にしてしまったので、金持ちが貧乏人を支配するという体制、つまり貴族階級による革命が成功したのだ。フランスでは叛乱者は武器を手に取ったが、イギリスでは叛乱者は芸術を手に取ったのだ」
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 キリスト教に基ずくイングランド式契約文化が、西洋が支配する世界の基準となった。
 プロテスタントの利益優先結社は、政府に有利な法律を作らせ、資本を蓄えて株式会社゠商社に発展した。




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