🐉7」─1─清国軍の虐殺。太平天国の乱。白蓮教の乱。捻軍の乱。回教の乱。屠城、万人抗、三光作戦。~No.20 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国史とは、大虐殺と強奪と強姦を奨励する記録である。
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 中国の歴史は、朝鮮の歴史と同じであるが、日本の歴史と油と水の如くは正反対である。
 日本の歴史には、中国の歴史や朝鮮の歴史のような大虐殺は一件も存在しない。
 日本民族と中国民族(漢族)・朝鮮民族とは、理解できる所は限りなく少ない。
 日本の歴史における真実は、中国及び朝鮮の歴史においては捏造・歪曲である。
 中国及び朝鮮の歴史における記述は、日本の歴史では捏造・歪曲である。
 日本の歴史と中国及び朝鮮の歴史における価値観が正反対の為に、共通性はなく、交わる点もない。
 イギリス・フランス・ドイツ3カ国の例は、日本・中国・朝鮮3カ国にはまったく以て当てはまらない。
 ドイツとフランスの和解を、日本と中国・朝鮮との和解の前例とする事は完全に無意味である。
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 中国人の身の毛が立つ妄想が、日本軍が南京市民を殺戮したという架空の南京事件を生み出した。
 反日的日本人グループは、日本を滅ぼしたいほどに憎い為に、日本人の名誉を貶める為に南京虐殺を国内外で騒いで広めた。
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 中国人は、歴史を教訓として学び、教訓通りに生きようとする。
 ゆえに、自分に素直に貪欲に生きようとする。
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 台湾人は、大陸の漢族とは違う。
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 1644年 清国軍は、北京城を占領して明国を滅ぼした。
 1645年 清国軍は、揚州城(揚州十日記)に続いて南京城を占領し、さらに嘉定城(嘉定屠城紀略)、江陰城(江陰城守記)を占領した。
 清国軍兵士は、占領した土地で、勝者の当然の権利として虐殺、強姦、略奪を行った。
 嘉定城では、10日間で80万人以上が虐殺された。
 中国は広大な大地で、人口が多い為に、一地方で100万人以上を惨殺しても、他から同じくらいの人間を強制移住させればすむ事である。
 よって、人の命の値段は虫けらよりも安く、重みも鴻毛よりも軽く、食用家畜を殺すように喜んで殺した。
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 中国の城塞都市は、陥落すると例外なく殺戮と強姦される為に、城壁を高く堅牢にし、堀を広く深くして守りを固めていた。
 朝鮮の都市は、中国の都市を倣って建設されていた。
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 白蓮教の乱、1796〜1804年。
 総人口は、1791年の3億435万人が1801年に2億9,750万人に減った。
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 阿片戦争、1840〜1842年。
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 捻軍の乱、1853〜1866年。
 1852年に発生した華北の飢饉が引き金となった。
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 回教の乱、雲南省のパンゼーの乱 1856〜1873年、陝西省甘粛省のドンガン人(中国系ムスリム)の蜂起 1862〜1873年。
 漢人と回民の両方が報復として虐殺を繰り返し、戦乱を恐れて多くの住人が逃亡した。
 1861年当時の人口は、甘粛省で1,945万9,000人、で1,394万人であった。
 1880年には、甘粛省では495万5,000万人、陝西省では772万人に激減した。
 陝西省の回教は70〜80万人いたが10年後にはおよそ9万人まで減少した。
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 太平天国の叛乱とは、1851〜1864年に起きたキリスト教徒の叛乱である。
 中国の人口は、1851年には4億3,216万人であったが、大虐殺によって1861年には2億6,689万人に激減した。
 中国の大地は、何処を掘っても夥しい数の人骨が出てくる。
 中国は、大虐殺の国である。 
 万人抗は、珍しい事ではない。
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 1879年 清朝の役人である李圭は、キリスト教徒による太平天国の乱(長髪賊の乱)で体験した悲惨な出来事をまとめて『思痛記』を書き上げた。
 「美しい女は、路傍の近くに連れ込まれて淫を迫られた。必至に拒んで惨たらしい死に方をするのが10の6,7であった」
 「長柄の槍で争って突き刺されるか、鉄砲で撃たれるかして、100の1人も助からなかった。水はそのため真っ赤になった」
 「女の死体が一つ仰向けになって転がっていた。全身に魚の鱗のような傷を受け、局部に矢が一本突き刺さっていた」
 「刀が振り下ろされる事に一人又一人と死にゆき、頃刻にして数十の命が畢(おわ)った。地はそのため赤くなった」
 「河べりには見渡す限り夥しい死体が流れ寄っていた」
 「河べりに大きな木が100本ばかりあったが、その木の下にはみなそれぞれ一つか二つずつ死体があった。木の根本に搦手に縛りつけられ、肢体は黒焦げになって満足なところは一つもなかった。それらの木にしても、枝も葉もなかった。多分賊や官軍らは人を捕まえて財物をせびり、聞かなかったために、人を木に縛って火を放ったものである」
 「(賊の頭目の一人汪は)婦人と女の子を家に送り返してやるといった。嘘とは知らないものだから婦人は非常に喜び、娘を先に立てて歩かせ、自分はその後に続いた。汪は刀を引っ下げて付いて行ったが、数十歩も歩いたか歩かぬに、いきなり後から婦人の頸部をめがけて、『えい』とばかりに斬り付けた。婦人はぶっ倒れて『命だけは』と哀願した。が、またもや一刀、首はコロリと落ちた。汪はその首を女の子の肩に乗せて、背負って帰れといった。女の子は力及ばず、地に倒れた。汪はこれを抱き起こし、刀を振り上げて女の子の顋門(さいもん)めがけて力まかせに斬り付けると、立ち所に死んだ」
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 太平天国軍は、占領した地域で従わない者に対して陰惨な猟奇的手段で虐殺した。
 金壇城陥落。「入城した。新しい死骸、古い死骸が大路小路を埋め尽くしていて、恐ろしく汚かった。城濠はもとから狭くもあったが、そのために流れが止まった。赤い膏(あぶら)白い膏が水面に盛り上がって、泡が盆よりも大きかった。それというのが、住民達は城が陥ちたら必ず惨殺されることを予期して、選んで自ら果てた者もあったが、城の陥落する前に、官軍中の悪い奴らの姦淫強奪にあい、抵抗して従わなかったために殺された者あった」
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 中国の歴史は、虐殺と略奪そして強姦の歴史である。
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 異民族が入れ替わり立ち替わり中国国土を侵略して王朝を樹立し、前の王朝を滅ぼし、全てを否定して殺戮を繰り返していた。
 自分のみが生き残って儲ける為に、他人の生き死になど関心がなく、他人を蹴落とした。
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 万人抗。撫順炭鉱は、世界有数の露天掘りでガス爆発事故は起きなかった。
 終戦時には、日本人従業員1万3,000人と中国人労働者10万人以上が働いていた。
 南満州鉄道は、生産量維持の為に安全と保安に努め、年間の日本人と中国人の殉職者は約200人と報告されていた。
 戦時中。関東軍の主力部隊は南方に引き抜かれ、残り兵力はソ連外モンゴルとの国境地帯に配置され、満州国軍や警察隊が満州全体の治安を維持していた。
 撫順炭鉱などでは、地元住民との親睦を兼ねて、毎年、市民参加の合同供養祭を開いていた。



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