🐉6」─1─ファシスト中国。複数の政権が乱立して内戦が続き、馬賊や匪賊が跋扈する無法地帯として、到る所で虐殺が行われていた。~No.17No.No.18No.19 @ ⑤ 

中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか

中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか

  • 作者:石 平
  • 発売日: 2007/11/13
  • メディア: ハードカバー
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国は、弱った相手を襲い骨の髄まで容赦なく食い尽くすハイエナの群れである。
 汚物・汚水・汚濁に塗れた不衛生な世界であり、人の命をゴミの様に捨て去る悲惨な生き地獄である。
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 中国共産党は、中国を地獄と化し、中国に大虐殺をもたらした。
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 人間不信の中国では、武器を持って自分を守る為に敵を殺さなければ、自分が殺される。
 抵抗しない者は、生きる資格がなく、殺されても文句は言えなかった。
 殺すか、殺されるか、それが古代中国からの不変の原則である。
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 歴史的に見て、日本の安定と発展は中国・朝鮮と友好関係を遮断し、国交を断絶していた時期のみであった。
 日本の平和は、中国・朝鮮からなる東アジア共同体を拒絶した事によって得られたものである。
 明治期までの日本人は、漢学に対する造詣が深かった為に、日本一国の平和を守るべく中国との国交を再開しても深入りはしなかった。
 朝鮮のみは、日本を侵略しようとする外敵に内通する信義なき国と見なし、日本の安全を守る為に併合して支配した。
 欧米文化至上主義の現代日本は、漢学の素養が絶無なだけに、架空に近い時代劇には興味があっても、事実に即した歴史を理解する能力は乏しい。
 日本人が好きなのは、時代劇であって、歴史劇ではない。
 その意味において、日本人は自国の国史(神の裔・万世一系男系天皇史)に愛着を持っていない。
 欧米偏愛主義者は、国史を文明なき未開人の歴史として毛嫌いしている。彼等は、自分を欧米人に擬え、欧米人の真似をする為に、欧米の歴史には異常なまでの興味を示している。
 高校の歴史では、国際人の育成を目的として世界史を必修とし、日本史は選択とされている。
 その日本史さえ、国際主義の嫌日的日本人によって歪曲され改竄されている。
 アジア主義反日的日本人は、日本を貶める為に歴史的事実を無視し、中国や朝鮮を虚構的に粉飾して美化している。
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 トマス・ホッブス「(自然状態)絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」「自分達全てを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人による戦争状態にある」『リヴァイアサン
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*、正統派儒教による人災地獄。
 曹操「我、人に背くとも、人、我に背かせじ」
 劉知幾(唐の歴史家)「人の悪行は世の戒めとなり、善行は後世の範たるべきであるのに、死後ただちにその名が知れ渡らないのなら、それは誰の罪であろうか。それは史家の責任である」(『史通』)
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 中国には、軍事力を伴わない約束は守らないし、死の厳罰を伴わないルールも守らない。
 中国社会は、盗賊や山賊が正義を振り回す『水滸伝』の世界である。
 中国人は、平気で嘘をつき、人を騙し、奪う。
 中国民族には、公共心も公徳心もなく、衛生観念がないだけに社会環境も自然環境も破壊し、住環境は汚れきって人が住む所ではなくなった。
 そこには、日本神道的な「汚れを水に流す」という衛生観念は全くない。
 中国と朝鮮は、うり二つである。
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 東洋史とは、中華文明史の事で、中国中心史と中国周辺史の複合史である。
 日本史は、単独の日本文明史として、中国周辺史ではない。
 中国中心史は、王朝の建国と膨張(侵略・略奪・強奪)と滅亡の歴史である。
 日本中心史は、地域東洋史ではなく、広域アジア史の一部である。
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 東アジア世界を軍事力で支配した中国(中華)文明とは、正統派儒教で「人」を信仰(人間中心主義)して、人の幸福の為に自然を破壊し資源を略奪する事で富栄えた搾取型世界文明である。
 そこには、日本文明の神道的「神」信仰も相互補完の共生による森と共に生きる植林思想もない。
 中国の歴代王朝は、一君独裁体制のもとで、周辺諸国への侵略・膨張を続ける間は繁栄した。平和を望んで侵略・膨張を止めた時から衰退し、貧富の格差による内部の不満が爆発して滅亡した。
 中国は、他者を滅ぼし躍動し続けるかぎり安定した発展が維持できた。
 「静」的守備型の日本社会とは、正反対の「動」的攻撃型社会である。
 数千年に渡り自然を破壊してきた為に、毎年どこかで天災が起きて甚大な被害を出していた。
 排他的自己中心の民族性から、自分一人のみが生き残る事を最優先とした。貧しい被災者の救済を考えなかった為に、天災は人災となって数多くの犠牲者を出した。
 「何時の時代でも。被災者を救済して人気を博す者は、将来かならず反逆者となり謀叛や反乱を起こす危険があるとして、殺された」
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 中国皇帝一人のみを守る正統派儒教は、貧しい者の救済を使命とする仏教やキリスト教そしてイスラム教などの宗教勢力を社会悪の権化として迫害した。特に、仏教は古くから貧しい人々の間に広まり、皇帝より仏を信じ仏に救いを求めるよう説いた事で反体制派宗教であるとされて大弾圧された。
 中国思想には、人を中心とする上下関係の「仁」「義」「礼」はあっても、貧しい者や身分低い者を分け隔てなく接するという「慈悲」と「平等」「公平」の公理はない。ましてや、他人を思いやる神仏中心の「情」「理」は皆無であった。
 つまり、「宗教は人を惑わして社会を混乱させ、神や仏は人を騙して社会を破壊する元凶である」と否定されたのである。
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 極東アジアにおいては、自分一人に富と幸福をもたらす神は大事にされたが、利益をもたらさない神は無能な神として切り捨てた。自分だけではなく、他人に利益をもたらし幸福にし、社会全体を助け平安をもたらす神は有害な神として唾棄した。
 そして、「生命執着願望」という「生愛」信仰から、他人を殺し、どんな汚い事をしても自分だけは生き残ろうとした。
 彼らには、他人に迷惑をかけても自責の念はない。
 そこには、人としての「良心」は存在しない。
 日本の神と極東アジアの神は、正反対の異質な神である。
 だが、現代日本の神は極東アジアの神と同質といってもいいような神となりつつある。
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 殷周時代の青銅器文化と春秋戦国時代の鉄器の精製と製品化の為に、大量の樹木を伐採した。
 戦乱に次ぐ戦乱で、各地に大城塞都市を建設する為に大量の木材を必要とした。
 秦漢時代の大土木工事と兵器生産で多くの材木を消費した。
 華北地方を覆っていた広大な森林は、燃料として消え、砂漠化が進んだ。
 中国人の消費は、計画性もなく貪欲であった。
 自然破壊によって天変地異が起きやすくなり、洪水、旱魃 、害虫、疫病が頻発し、いつ終息するともわからない内戦で耕作地は荒廃して、労働力不足から食糧生産が減少し、毎年数百万人が餓死していた。
 異民族の侵略者はもちろん同じ中国民族の征服者であっても、勝利者は占領地で反乱の芽を摘む為に無慈悲な大虐殺と略奪を当然の権利として行った。大虐殺と略奪を平然と行う冷酷な支配者には恐怖し、生きる為には仕方がないと諦めて無条件に従った。
 「面子」を重んずる中国人は、他人と平等に扱われるの事を侮辱と判断し、他人以上の待遇を得られなければ内戦を引き起こした。
 大陸国中国の3000年の歴史とは、こうした天災と戦乱による悲惨な怨念史である。
 一度も異民族に侵略された事も無く、異民族の大虐殺も略奪も受けた事のない、島国日本では理解出来ない事である。
 当然、両者には相互理解などできるわけがないし、共通の歴史観などは幻想である。
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 清朝時代(1616〜1912年)の自然災害は、総計1,121回あったといわれ、そのたびに夥しい下層階級の貧困者が犠牲となった。
 中国の崩壊は、避けようのない宿命で有り、貧しい者の屍体が山野を埋め尽くす。
 中国の大地の至る所に、夥しい数の人骨が埋まっている。
 それが、まぎれもなき中国の歴史である。
 後年。中国共産党政府は、発掘された人骨は、全て狂暴な日本軍に殺害された被害者であると認定した。
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 古代中国の基本戦略は、「柔らかい土は掘り、堅い土は避ける」である。
 軟弱な相手は、容赦なく責め立て、奪えるモノは全て奪い、気が済むまで殺し尽くし、殺し疲れて生き残った者は奴隷として連行して売り飛ばした。
 古代中国は、周辺地域に死と恐怖を押し付けて繁栄していた。
 中国史には、華夷秩序による大虐殺を繰り返す戦乱の時代はあっても、博愛精神による人道的助け合いの平和な時代はない。
 東アジアの悲劇は、清国・中国が領土を拡大する侵略戦争と富を略奪する虐殺を止めた時から始まった。
 第6代皇帝乾隆帝(1735〜95年)が、東トルキスタン(新疆)・チベット・北部ベトナム・台湾を領土とし、李氏朝鮮・南部ベトナム・タイ・カンボジア・ビルマ等を朝貢させ、膨張的対外戦争を止めてから衰退が始まった。
 自然災害で甚大なる被害を受け、疫病が蔓延し、餓死者が続出した。
 北京の官僚は、公然と賄賂を要求し、国庫に納める金税金を平然と横領し、儒教社会は腐敗堕落していた。
 地方役人は、上司への賄賂として送る金を捻出する為に重税を課した。貧困ゆえに納税を渋る農民から税をむしり取る為に、秘密結社の協力を得て暴力を振るって奪った。
 地主は、納税の為に農地を売る農民から小銭で買い込んだ。
 貧富の格差が広がるにつれて社会秩序が崩壊し、貧民による暴動が各地で続発した。
 貧民は、資産を持つ地主や資産家を襲い、家人を虐殺し、略奪を繰り返した。
 貧富の格差が、社会公序を崩壊させ、暴動と略奪と殺人を引き起こしていた。
 資産家は、私有財産を守る為に私兵を雇って武装し、より多くの私兵を集める為に秘密結社と結託して資産を増やした。
 仏教系宗教秘密結社は、中国に理想的仏教国家を建設する為に、貧民を組織して反乱を起こした。
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 1874年 日本は、台湾に漂着した琉球漁民54名が現地人に猟奇的に惨殺された事について、清国に抗議した。
 清国は、台湾は「化外の地」で我が国とは関係ないとして謝罪を拒否し、制裁を科すなら自由にしろと突き放した。
 日本は、駐日アメリカ公使デロングの助言に従って台湾に出兵した。
 アメリカは、日本と清国を戦わせて琉球を手に入れようとしていた。
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 1876(明治9)〜78年 華北の大旱魃。犠牲者は、900万人〜1,300万人。
 被災者は、自分一人が生き残る為に、食糧を持っている相手を襲って奪った。それが、知人であっても、家族であっても、容赦しなかった。被害は、地方の貧困階級に特に多かった。
 宣教師は、生き地獄と化した被災地の惨状を世界に伝えた。
 宣教師は、孤児や身売りされそうになった子供を引き取り、洗礼を与え、敬虔なキリスト教徒に育てる為に修道院に預けた。
 被災民は、子供を売って食糧としようとしたが当てが外れた為に、八つ当たり的に、宣教師に子供を攫ったとして騒ぎ出した。
 心ある中国人は、子供を攫ったキリスト教会と宣教師を憎み、後の義和団事件キリスト教会を破壊し宣教師を惨殺した。
 隣国の日本は、被災者救済の為に国内で多額の義捐金を集め、食糧などの支援物資とともに中国に送った。
 日本政府は、森有礼を天津領事館に派遣して救済業務所を設置し、天津周辺に避難してきた7万人以上の被災者の救護に当たった。
 当時の権力者は、下級武士出身の大久保利通内務卿であった。官僚主体の専制政治を行ったとして、国民の間では人気が無かった。
 一部の右翼的新聞社は、貴重な財源を、他国の救済に使わず税を納めている自国の貧民救済に使うべきであると猛反対した。
 大久保内務卿は、明治天皇の大御心・御稜威は中国人被災民の救済にあるとして、強権を発動して反政府系新聞を弾圧した。1878年に、反政府派によって暗殺された。
 『申報』(1877年2月28日)「飢民苦状 天津県では、被災民は去冬より以来、その困苦の状況はまことに筆舌に尽くしがたい。最も悲惨なものは、子女を売る事である」
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 権力者が短期間で交代し、法律や規則もそのつど変更され、価値があるとされた紙幣は紙屑となった。
 中国人は、目まぐるしく変わる不安定な社会で生きていた為に、自分以外は誰も信じていなかったし、生きる為には嘘もつくし、手に入るモノは全て奪っていった。
 中国人は、日本人とは別世界に生きていただけに、日本人とは正反対の思考と行動を取る。
 中国人は、ユダヤ人や朝鮮人に近く、日本人とは遠い。
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 中国軍は、勝つためならば、如何なる手段も躊躇なく行う。その為に、幾千万人の自国民が犠牲になろうとも「必要悪」と割り切った。
 内戦状態に突入した中国は複数の政権が乱立し、中国を代表する正統政府が存在しなかった。
 日本の悲劇は、どの政権と交渉すれば良いのか戸惑った事である。
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 1916年 袁世凱大統領は、皇帝になろうとして果たせず、死亡した。
 配下の有力将軍達は、北京政府の主導権を握る為に内部対立を激化させた。
 東京で右翼や一般有志から援助を受けていた孫文ら改革派は、人民革命を成就させるべく帰国した。
 一部の日本人右翼は、孫文らを助ける為に中国に渡って革命闘争に参加した。
 孫文を支援したのは、上海に拠点を置く犯罪組織の秘密結社や国外の華僑と日本人右翼であった。
 日本政府は、中国の安定の為に、孫文ではなく北京の将軍達を支援した。
 日本軍部は、中国は広すぎる為に幾つかの勢力に分裂させ、連合させて安定化を図った。その中に、孫文の革命派も含まれていた。
 欧米列国も、孫文ではなく北京政府を正統政府として承認していた。
 孫文の革命は、日本があって成功し、若し日本の右翼と軍部の支援がなければ太平天国の乱のように潰えた可能性がある。
 北洋軍閥の分派…安徽派。直隷派。 奉天派。 山西派。 西北派(国民軍)。
 その他の地方軍閥 ……雲南派。 旧広西派。 新広西派。 馬家軍。 広東派。 東北軍。 新疆派。
 1917年8月1日 直隷派の馮国璋が代理大総統に就任し、安徽派の段祺瑞は国務総理兼陸軍総長に任命された。
 9月 孫文は、反北洋軍閥勢力を糾合して広東軍政府を組織し、中華民国からの独立を宣言した。
 中国に二つの政府が成立し、新たな内戦が始まった。
 日本は、地政学的な影響で中国の内戦に巻き込まれていった。
 日本の悲劇は、中国の内戦に引き込まれた事であった。
 段祺瑞は、北京政府を正統政府にするべく、孫文が制定した臨時約法を破棄して武力征伐する事を主張した。
 馮国璋は、内戦を避ける為に平和的解決を主張した。
 1819年 段祺瑞は、新国会(安福国会)で多数派工作を行い、気心の知れた徐世昌を大総統に選任し、馮国璋を大総統の地位から引きずり下ろした。
 安徽派と直隷派の対立はここで表面化した。
 12月 失脚した馮国璋は、失意の内に病死した。
 曹?と呉佩孚が、直隷派を継承し、水面下で反段祺瑞運動を続けた。
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 魯迅(本名、周樹人)は、日本に留学し、日本人と支那人を「対比」させる事で史上初めて支那人を発見した。
 支那人の民族性は「人が人を食う人間性」にあると認識した。
 そして、弱者を差別して徹底的に痛め受け、侮辱された弱者は自分を慰める為に「精神的防衛法」という哀れな行為を行って、精神・心の崩壊を食い止めていると。
 魯迅は、日本人を知る事で支那人を再認識した。
 1918年 『狂人日記
 1919年 『孔乙己(コンイーティ)』 
 1921年 『阿Q正伝』 
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 1920年 華北五省の大旱魃陝西省での大地震。犠牲者は、不明。
 軍閥は内戦を優先して、被災民救済を放棄した。
 中国の悲劇は、人間不信と他人の命を虫けらの如くあしらう中国人の自業自得であって、日本の責任ではない。 
 4月 直隷派は、奉天派と「反段祺瑞連盟」を結成し、安徽派討伐の準備を整えた。
 7月 11省連盟と8省連盟との直皖戦争(20年7月政変)。
 7月14日(〜19日) 安直戦争の勃発。北京政府の主導権を巡って、安徽派の段祺瑞と直隷派の曹?が戦い、安徽軍は大敗して段祺瑞の政権は崩壊し安徽派は事実上消滅した。
 7月23日 直隷派・奉天派の両派は、北京に入京り連合政権を樹立した。
 安徽派の徐樹錚は、日本に亡命した。
 教養無き軍隊上がりの直隷派は腐敗し、中央政界に進出を果たし奉天派との間で分配金を巡って諍いを始めた。
 軍閥の兵士は、兵匪と恐れられるほど匪賊と変わらず、軍紀・軍律のない無法者集団であった。
 占領地は法律ではなく暴力で支配され、占領軍の兵士による虐殺、略奪、強姦は日常茶飯事として起きていた。
 民衆を守るべき地元役人は、占領軍に媚び諂い、阿諛迎合し、特権を得る為に軍閥に賄賂を送り、住民に重税を課して悪政のかぎりを尽くしていた。
 役人は、官匪として嫌悪されていた。
 人民は、兵匪と官匪による被害がいつ自分に降ってくるか分からず恐怖に恐れおののきながら生活をし、被害を受けている者を見てもとばっちりを受ける事を恐れて助けず、むしろ被害者の財産の一部でも手に入るとみるや加害者に味方した。
 今や、人民自ら匪賊と化していた。
 中国は、実力・能力のみで生きる、弱肉強食の非情な世界となっていった。
 中国における混乱と内戦の被害を受けたのが、隣国日本であった。
 アメリカは、中国の非人道的現状を無視し、アメリカの理想と中国への幻想から、中国における日本の行動を制限する為にワシントン体制を日本に押し付けた。
 華北から満州にかけての混乱と内戦は、32年の満州国建国で一応は終熄した。 
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 1922年 奉天派の張作霖は、直隷派の曹?、呉佩孚に対抗する為に旧安徽派の段祺瑞や孫文の広東軍政府と同盟を組んだ。
 4月28日(〜5月5日) 第一次奉直戦争。
 奉天軍は、直隷軍の攻撃を受けて全軍崩壊した。
 孫文は、北伐をやめて広州に引き返した。
 6月 張作霖は、東北保安総司令を自任し、自治を宣言した。
 外国の宣教師は、内戦を終結させるべく調停を行い停戦させた。
 中国は、三つの政府に分裂した。
 直隷派は、勝利の勢いで中国の武力統一に乗り出した、新たな内戦を始めた。
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 1924年9月 江浙戦争。直隷派江蘇系の斉燮元と安徽派浙江系の盧永祥が衝突した。
 9月15日(〜11月3日) 第二次奉直戦争。張作霖は、江浙戦争に呼応し15万人の大軍を結集し、二方面から直隷派の地盤である山海関、赤峰、承徳へ進攻した。
 直隷派呉佩孚は、20万人の軍隊で応戦した。
 中国の儒教は教養無き人間の命を虫けら以下と考えていた為に、中国の戦争は人民の生命財産など一切考慮せず行われ、一般民間人を大量に巻き込み甚大なる被害を出していた。
 直隷派将軍馮玉祥は、呉佩孚とは仲が悪かった為く、張作霖や段祺瑞と密約を結んだ。
 10月23日 北京政変。首都革命。馮玉祥は、孫岳と組んで首都北京でクーデターを起こし、奉天派に寝返った。
 北京を占領するや曹?を監禁し、旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を追い出して、国民軍を宣言した。
 また、孫文の北上を求め、孫文を主持政事に、段祺瑞を主持軍事にしようとした。
 呉佩孚は、軍隊の一部を率いて北京に向い、北京を奪還し馮玉祥軍を討つ為に浙江と江蘇の直系の軍隊を急ぎ北上せた。
 奉天派軍は、万里の長城を突破して直隷軍の退路を断った。
 安徽派軍は、南方の直隷軍が援軍として北上する事を阻んだ。
 呉佩孚軍は、張作霖軍と馮玉祥軍の攻撃を受け、華北にいた主力部隊を失った。
 段祺瑞は、張作霖や馮玉祥を牽制する道具として呉佩孚を残す為に、速やかに塘沽から去る事を求めた。
 11月3日 呉佩孚は、残存部隊を率いて南方に逃亡し、長江流域を拠点とする一地方軍閥となった。
 張作霖、馮玉祥、山西省軍閥閻錫山などは、曹家花園で天津会議を開き、中華民国執政府と国会に取って代わる善後会議の成立を決定し、段祺瑞を総統と総理の職を統べる中華民国臨時執政に推薦した。
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 各軍閥は、欧米列国の財政支援を受けながらも、戦費調達の為に大地主や資本家らと結託して農民や労働者に数年先までの重税を課した。そして、上海や香港さらには東南アジアでの、アヘンの密売と女性や子供の人身売買で暴利を得ていた。
 軍閥戦争や匪賊・盗賊の横行で、社会秩序は崩壊していた。
 中国人は、生きる為にあらん限りの知恵を絞り、他人と助け合いあい・分け合うのではなく、他人を蹴落として如何により多くの物を奪うかをうかがった。彼等は、その為に『三国志』や『孫子』など多くの書籍を謀略の手引きとして読み、盗賊団の『水滸伝』を最も愛読した。
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 1925年3月12日 孫文は、北京に入ったが病没した。
 奉天派の張作霖は、北京を支配して政権を手に入れたが、その支配地は華北と華中の一部であり、西部や河南の軍閥は独立して命令に従わなかった。
 日本陸軍は、中国経略の手駒とするべく愛新覚羅溥儀を保護した。
 愛新覚羅溥儀は、満州族の生地である満州満州族の帝国を再建する事を切望した。
 革命派は、南京、上海、武漢など揚子江流域で支持を広め北伐の機会をうかがった。
 革命派も主導権を巡る内部抗争が絶えず、蒋介石汪兆銘とその他、そして中国共産党と四分五裂と入り乱れていた。
 中国共産党内も、有力者事に派閥を作って反目していた。
 北京軍閥政府内も一枚岩ではなく、張作霖派と反張作霖派で権力争いを繰り返していた。
 中国では、大小の戦闘が絶える事がなく、匪賊や海賊が各地を荒らし回っていた。
 中国は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
 中国全体の混乱と内戦は、36年の西安事件で一致して抗日戦を行う事で治まった。
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 1926年 国民党は、ソ連から大量の武器弾薬をロスチャイルド系サッスーン財閥から莫大な軍資金を得て北伐を開始した。
 反日ユダヤ人国際金融資本は、ファシスト中国を支援していた。
 西安攻城戦では、一般人を含む10万人以上を餓死させた。入城後は、3っ日間、強奪、殺人、強姦の自由を与えた。中国人兵士は、城内で好き放題に振る舞った。その犠牲者は、数十万人に達した。
 中国共産党は、各地でイギリスと日本に対する暴動を起こし、多くの外人を殺害した。
 参謀本部松井石根A級戦犯)第二部長は、日本人居留民保護の為に、イギリス軍との共同歩調を希望した。幣原喜重郎外相は、非暴力・無抵抗主義から、日本人居留民の安全確保は中国当局に任せて、内政不干渉政策のもと、イギリス軍との共同歩調に反対した。
 松井石根は、陸軍内きっての中国通で、アジアの平和の為に日中友好を切望していた。
 イギリスは、日本がイギリス人居留民を人身御供にして、中国市場での経済的利潤を独占しようとしていると分析した。
 アメリ国務省は、政治的な日本との友好よりも、経済的な中国よりの政策を採用した。
キリスト教会も、中国での布教活動に力を入れた。  
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 ロジュ・マルタン・デュガール「世界の運命を暴力によって蹂躙させないたった一つの方法は、自分自身、あらゆる暴力を肯定しない事にある」(『チボー家の人々』)
 古代ローマ人「恐怖は、私の心から、あらゆる思慮分別を追い払ってしまう」
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 1927年1月 幣原喜重郎外相は、議会で、中国の主権及び領土保全を尊重するとの外交方針を説明した。
 日本政府は、中国な反日暴動で日本人居留民が暴行され強姦され虐殺されても、ひたすら隠忍自重し、堪えに堪えて、中国との友好を第一義とした。
 日本国家は、国民に対して、中国人に何をされても非暴力無抵抗主義で我慢して耐えること求めた。
 中国人は、自己防御的に刃向かわない弱者を軽蔑し、狂喜して半殺しにした。
 3月24日 第一回南京事件。非暴力・無抵抗に徹した日本人居留民と日本軍兵士は、中国暴徒の襲撃にあって、多くの被害者を出した。 
 外務省記録「死者。日本人1人。イギリス人2人。アメリカ人1人。イタリア人1人。フランス人1人。デンマーク人1人」
 アメリカとイギリスは、集団的自衛権を発動して連合軍を組織し、自国民保護の為に報復攻撃を加えて、中国人多数を見境なく殺害した。
 日本政府は、非暴力・無抵抗主義から連合軍に参加する事を拒否し、中国政府に話し合いで日本人居留民保護を約束させた。
 日本軍は、外務省の「外交の大権」を尊重して現地部隊に独断専行を厳しく禁じた。
 中国政府は、口では日本人居留民保護を約束したが、実際は抗日派暴徒を煽り支援して日本人居留民を襲撃させていた。
 ラマルチーヌ「如何なる犠牲においても 平和を」
 中国共産党が組織した排日運動は、上海や漢口や広州など各都市でも発生した。
 中国人暴徒は、中国人官憲の取り締まりが見せ掛けと知るや、抵抗しない日本人居留民を襲撃し、暴行を加え、略奪し、強姦し、殺害した。
 日本への挑発的暴動は、中国全土に拡大していった。
 日本政府は、内政不干渉の方針から幾人被害を受けようとも、冷静な行動を取るとして軍事行動を控え、中国政府の約束に期待した。
 そして、アメリカやイギリスとの報復的共同出兵を拒否した。
 日本は国策として、個別的自衛権に徹して集団的自衛権を放棄した。
 アレクサンドロス大王「運のなさを悔やむ方を選びたい」
 キケロ「最も正しい戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」
 反日暴動を仕掛けていたのは、ソ連中国共産党であった。
 その手先が、日本共産党反日朝鮮人であった。
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 中国政府は、日本との約束を守る気はなかったし、誠意ある行動もとる気もなかった。それどころか、抗日運動を煽り、そして支援していた。
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 日本国民は、自国民の生命財産を守ろうと政党内閣に絶望し、賄賂を取り豪遊する政党政治家を軽蔑した。
 日本議会は、国民の期待を裏切り、国民の支持を失っていった。
   ・   ・   ・   
 国家は、国民を守る事という責任を、中国との友好の為に捨てた。
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 田中義一は、首相になり、外相を兼務して、中国人の日本人排斥運動から日本人居留民を保護する為に、山東出兵を命じた。
 これが、悪名高い「田中メモランダム」である。
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 日本軍部は、日本人居留民の被害が拡大しても、見殺しにする様に動こうとしない政党政府に不満を抱き、大陸での日本人保護の為に統帥権を強化して暴走を開始した。
 日本は、軍国主義国家となり、個別的自衛権を発動した。 
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 国際社会は、日本人居留民が虐殺されている事を知りながら無視し、軍国日本を侵略戦争を行う犯罪国家として非難した。
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 中国共産党は、ソ連の指示で日本への挑発行為を激化させていた。
 日本人共産主義者も、ソ連の命令で中国共産党の策略に協力していた。
 毛沢東「権力は、銃口から生まれる」
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 華中で大洪水。被災者900万人以上。餓死及び病死300万〜600万人。
 災害が発生するや、その後、かならず餓死や病死が続出した。
 中国にはコレラ赤痢、腸チフス、パラチフス結核マラリアなどの致死的伝染性病原菌が数多く存在し、災害が起きるやインフルエンザや風邪などのウイルス性感染症とともに感染地域を拡大させて多数の犠牲者を出した。
 伝統的略奪型社会ゆえに、日本の様な病的な衛生観念はなく、強者の支配者には弱者の被災者を助ける気はさらさらなかった。
 災害が発生するや、中国は細菌兵器を使用した如く地獄の様な惨憺たる惨状になった。
 侵略した日本軍は、抗日中国軍への攻撃よりも、猛威を振るう風土病への防疫対策を急いだ。
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 1911〜28年の間に、大きな戦乱だけで140回あった。
 動員された兵力は延べ1,800万人で、大半が匪賊で正規兵ではなかった。
 兵士は、給料のかわりに、戦場で略奪と虐殺を行った。
 貧困に苦しむ人民から、兵士は兵匪として毛嫌いした。
 中国は、古代から匪賊の国であった。 
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 A級戦犯松岡洋右は、国際連盟総会で、法秩序のない中国の陰惨な内戦状態を説明し、日本は自国民を保護する為に自衛行動を取らざるえない事を訴えても、無視された。
 国際社会は、日本の集団的及び個別的な自衛権を否定していた。
 軍国日本には、自国民を武力で守る権利が否定されていた。



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