🐉12」─1─中国にはナショナリズムがない。中国共産党の死と暴力の恐怖体制下では姿形も存在しない。~No.41No.42No.43 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年8号 WiLL「本当の儒教、教えます
 中国人には、なぜ国家意識『ナショナリズム』がないのか 加地伸行
 日本人がフシギに思う中国と中国人のナゾの源泉は儒教にある。警世の碩学がその核心を解き明かす──
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 皇帝の命(いのち)の科挙官僚
 老生、呆けた老人ゆえ、近ごろの世間のことよく分からぬ。昔の記憶のままにぶつぶつと繰(く)り言(ごと)の日々。
 その折、なんと、白人のケント・ギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社+α新書)がベストセラー、この半年で数十万部とのこと。
 老生、腰を抜かした。同じ出版社の講談社から刊行の拙著『論語訳注』は刊行13年目で9万3,000部、『漢文法基礎』は同じく6年目で6万部。負けた。
 ということで、同著を読んでみた。大筋は、中国・韓国ともに、家族を基礎とするので、家族のため、家族の利益第一となり、言動は私的になる。その私的行動は、公の場では、あってはならないのに、政府高官となっても、平気で公を私している。そのため、汚職が横行し・・・とあれこれ、
 なるほど、韓国はされ措(お)き、著者が中国のことをどのように研究、いや勉強したのかは知らないが、一応の話にはなっている。日本人でも困難な漢字漢文学習を白人がよくぞ勉強した。その点は三重まる。今風に言えば、花まる、か。よろしい。よくできました。
 さりながら、老生のような漢文屋──近ごろ老生は、伝統芸能保持者(漢文)とも名乗っておるが──の世界では、いますこし踏みこんだ解釈が必要。それを小声で詠(えい)じてみん。
 
 人類は、諸動物と同じく、基本は家族同居である。その人類が進化し、生活地であった森林から平原に出てきたとき、狩猟というそれまでの生活手段に、新手段が加わった。農耕である。この農耕は、人間生活に革命をもたらした。
 すなわち、狩猟では弓矢の巧みさという個人能力が基準であったのに対して、農耕は集団の協力を第一とするようになった。
 こうして長い生活を経て、狩猟民族から、個人の能力や責任を重んじる個人主義が、また、農耕民族から、集団の行動を重んじる家族主義が登場し、それぞれなりに発展した。個人主義・家族主義両者に上下の関係、明白な新旧の関係はない。
 ただ、産業革命を起こしたヨーロッパ諸国に個人主義国家が多かったため、近代ヨーロッパの工業に圧倒された家族主義農業国は、そういう工業を生み出した個人主義を家族主義よりも進歩した優秀な思想と勘違いした。
 日本はその典型。その結果、明治以降、家族主義よりも個人主義が優れているという潮流となって今日に至っている。壮大な誤解の大河である。
 さてその家族主義と中国との関係、それに関わる儒教について基本のステッチをしよう。
 家族主義──あえて言えば一族主義。その家族は大家族であり、それを族長(御本家)が束ねている。ひっくるめて言えば、大豪族。大きな一族。
 中国は古代、この大豪族がたくさんいた。もちろん、たがいに権益を争って戦争が多かった。しかしやがてそれを統一して王朝が建てられた。周王朝である。西暦前1050年ころのこと。
 この周王の下に、大豪族が諸国として存在した。その各リーダーがいわゆる諸侯(日本流に言えば大名)。第一図がその関係。

 第一図
 周王{諸侯
    諸侯
    ・・・
    ・・・
    ・・・

 この図の{ 記号は、王との関係が絶対的なものではないことを表わす。すなわち、諸侯の上で比較的に大きなものが周王となっただけのこと。だから、周王朝の後半では、実力として王家を上回る国が次々と現われ、王に対して敬意を払わなくなったのみならず、諸侯それぞれがみずから王と名乗るようになり、周王は小さくなって過ごしていた。それが中国のいわゆる戦国時代。
 それら新諸王が争いに争った末、秦が勝ち残って秦王朝(初代が始皇帝)が成立した。周王朝とどこが違うかといえば、第二図の三角形。 

 第三図
 皇帝△大豪族
    大豪族
    ・・・
    ・・・
    ・・・

 中央集権化し、全国の大豪族との間に皇帝の命に従う国家官僚を置いたのである。それが三角形の意味。 
 しかし、この秦王朝は強権発動し過ぎたため崩壊したが、後を継いだ漢王朝ならびにそれ以降の王朝は、修正を加えつつも、この中央集権制官僚機構を維持してゆく。その大特徴は、皇帝と大豪族とをつなぐ三角形の官僚制。
 しかし、肝腎の官僚は人材不足。そこでやむをえず、大豪族から人材を推薦してもらい、それらの人材を使った。となると、その官僚群も己の出身母体の権益のことが頭にあり、いろいろあらざるをえなかった。また、大豪族の相互の利害は一致しないので、紛争が絶えず、王朝は何度も交代する。もっとも基本的には豪族間の争いであったので、大豪族自体もしだいに消耗し縮小し、小豪族へと変化してゆく。
 すると相対的に皇帝の力が強くなってゆき、皇帝は豪族からの推薦官僚ではなく、自前の官僚を持とうとした。そこで生まれたのが、隋・唐王朝時代に始まる試験合格官僚、いわゆる科挙官僚であった。この科挙官僚は、第三図が示すように、三角形内を異動するので、皇帝に対して絶対忠誠を誓う。
 
 第三図
 皇帝 科挙官僚△地方
         地方
         ・・・ 
         ・・・
         ・・・

 さらに言えば、皇帝と科挙官僚との精神的関係は、主君と臣下と、すなわち君・臣の関係だけに終わらなかったのである。あえて言えば、君臣関係は、基本的には労働契約である。雇用・被雇用の関係すなわち給与が核となっている。いわば、底に物的関係が存在する。
 ところが、もう一つの関係があった。すなわち師弟の関係。
 それは、こういう意味である。科挙試験の受験者は、階段を順次合格してゆき、最終階段として事実上合格となったあと、最終試験に臨む。全員を一堂に集め、なんと皇帝みずからが出座し、試験問題を出す。その問題に対して答案を書く。
 この最終試験に合格すると、晴れて科挙官僚となるが、同時に、形ばかりではあるものの、ともあれ最終試験を出題し採点(実際は部下が採点)した皇帝と、受験者との間に〈師弟〉という、精神的につながる熱い関係が生まれることになるのである。
 師弟──なんと麗(うる)わしいことばよ。昔は、恩師のために身を捧げる弟子がいた。『三尺退(さが)って師の影を踏まず』──今どき、そんな殊勝な弟子がおるかね。
 約45年前、日本国中に吹き荒れた大学紛争のとき、学生運動のリーダーらは、〈恩師〉を『てめぇ』呼ばわりし、大学解体と叫び、学園は荒れに荒れた。あの大学紛争に由(よ)って、日本の大学から〈師弟〉の麗しい関係は消えていってしまった。残念なことよのう、この呆け老人、眼に涙。
 因(ちな)みに、先日、46年も逃亡生活をして捕らえられた大坂某は、大学紛争の残党。その一生とは何だったのであろうか。
 国家意識(ナショナリズム)のない中国人
 閑話休題(さて)、皇帝と科挙最終試験合格者との間で結ばれた師弟の関係は人間的関係として強固であり、科挙官僚は、皇帝に対して熱い忠誠を胸に誓う。それこそ皇帝命(いのち)である。
 この新科挙官僚は、任官してまもなく小地方の長官として赴任する。その赴任先には吏という世襲制の役人がいる。官は試験合格者、キャリア、吏は世襲者、ノンキャリアである。
 吏について説明しておこう。代々世襲で、徴税担当とか、河川建設担当とか、警察担当とか、教育担当とか・・・いろいろと実務を仕切る役人である。だから、その長として赴任した官は、吏の管理監督をするのが役目で、実務は吏が行う。官は、赴任後、数年も経てば転任するので、実務に手を出さない。
 ただし、官は、前記の三角形図の中で昇進してゆくので、参謀役を含む自前の部下を持つこととなる。この子飼いの彼らを幕僚と言う。この幕僚は試験合格者ではないが、試験合格者の官に生涯付き従うことによって、思いきった建言やすぐれた政治的手腕を見せることが可能であった。
 そこで官と吏との倫理感(『観』でもいい)について触れよう。
 官は、家族間、一族間において、もちろん〈孝〉第一であるが、そこだけに留まらず、皇帝への〈絶対忠誠〉があった。すなわち、忠・孝2つの倫理感があった。どちらが上というわけではない。
 一方、吏は、皇帝ならびにその下にある科挙官僚世界の三角関係とは、まったく縁がない。赴任してきた官は、数年滞在のお客さんみたいなもので、はいはいと口先だけ従っておけばいい。吏の関心の100%は、役目として関わる己の住む地域内のことだけ。
 この一般社会での最高の倫理は〈孝〉であって、〈忠〉などはどこにもない。
 ここが肝腎なところ。あの広大な中国大陸の社会において、民衆と直接に関わっている吏たちの倫理は、すなわち民衆の倫理を反映したものである。その一般民衆にとって、皇帝は無限に遠い人であり、まったく関係がない。と言いきってもよいぐらいである。その感覚からすれば、忠の意識などない。
 この忠は、血縁外の人間関係において生きていたものであるから、辛うじて〈公益〉と関わる。しかし、中国人一般には、そういう感覚が生まれることなく現代に至っている。
 一方、孝は、家族関係が以前とほとんど変わらないまま今日に至っており、生きている。近ごろは若干の変動があるにしても。
 さて、忠の延長上に、前近代性を帯びてはいるものの、国家意識が生まれる。日本がそうであった。江戸時代の封建制下、当然に科挙官僚はいなかったが、多数の武家官僚がいた。この武家官僚の主君(藩主)への〈忠〉意識が、明治以降、国家意識へと転形していったことは言うまでもない。
 しかし、中国には、日本の武家官僚に比べれば、遙かに少数の科挙官僚しかおらず、また彼らは超エリートであるので民衆と関わりがなく、彼らの忠は全国民的国家意識を生み出す力とはならなかった。
 その結果、日本では明治維新以後、国家意識を持つ日本人が圧倒的に多く増えたのに比べ、中国では、最後の王朝となった清王朝を倒した後、国家意識を持った中国人を形成することができず、今日に至っている。なぜか。今もその政治構造に失敗しているからである。
 中国の現況は、旧皇帝を頂点とする前近代的な中央集権国家に似てきた。第四図がそれ。

 第四図
 習近平 共産党官僚△一般人

 かつての中国、すなわち第三図と比較されよ。三角形内のエリート官僚は、現在、すべて共産党内官僚によって占められている。しかし彼らは科挙試験のような厳正にして公平な試験を経ていない。その頂点に習近平が鎮座している。
 しかも、この共産党政府ならびに党官僚の存在は憲法が保障しており安全である。すなわち社会主義政権以外は認めないことが明記されているからである。
 だから、いわば中国共産党王朝であり、科挙官僚の地位には、無試験の共産党官僚のみが就ける。すると、共産党官僚は、科挙官僚と同じく、三角形の頂点の御意向のみが重要となる。その忠誠は、国家に対してではなくて、党中央(皇帝)に対する小さな忠誠にすぎない。それは国家に対する忠誠、ナショナリズムではない。
 もちろん、第四図内に見える一般人は、三角形以上のこと、すなわち国家意識などはない。家族意識はある。
 つまり、中国人には、昔も今もナショナリズムなどはない。過去、異民族の王朝(モンゴル人の元王朝満州人の清王朝など)があっても、〈別に〉という気分だったのがその典型。
 中国共産党政府自体がそうなのである。その好例は、香港。香港は、アヘン戦争で勝利したイギリスが清王朝から強奪した植民地であった。
 とすれば、共産党政府樹立後、ただちに香港を奪還すべきなのに、まったく放置していた。そしてイギリス香港租借期間満了をもって返還。おかしいではないか。真のナショナリズムがあの国にはないということの証(あかし)である。まして他国のナショナリズムなど理解できない。現在、南シナ海に進出し、フィリピン領を平気で侵略している。
 前引のケント・ギルバート著書では、盛んに中国のエゴを家族主義ならびにそれを支える儒教を原因としている。その意見、一部当たっているところもあるが、中国の社会構造が、中国共産党政権成立後も、依然として官と吏との二重構造となって今に至っているという観点から見ると、分かりやすい。
 どの国においても、またいつの時代でも、家族が家族のためにというエゴイズムは存在する。それは普遍的と言っていい。とすれば、その特徴がどこにあるのか、その原因は何か、という観点が必要である。
 中国におけるそれは、歴史的な社会構造から見なければ、分らない。そうした社会構造を心得た上で、その次にその社会構造を形成してきた儒教とは、いったいどういうものなのか、というふうに見てゆくのが妥当であろう。
 性急に、ただ儒教をなにがなんでもくっつけるだけでは、説得力が弱いのみならず、的確でない。
 老生、呆けた漢文屋であるが、お役に立つならば、いつかまたこの続きを語り申そう。
 もっとも、この後、完全に呆けることもあろう。『明日ありと思ふ心の仇桜(あだざくら)、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは』──呆け老人も忙しいのう」
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 日本は武士官僚社会であり、中華は儒教科挙官僚社会である。
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 日本民族日本人のナショナリズムの核は、万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 日本天皇が廃立され天皇家・皇室が廃絶れば、日本からナショナリズムが消滅し、日本民族日本人も死滅する。
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 日本天皇・皇室を護ってきたのは、正真正銘の部落民である非人・エタ・乞食の様な賤民や山の民・川の民・海の民などの被差別民達であった。
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 同根の儒教を統治に利用しても、日本と中華(中国・朝鮮)とは異なる。
 日本は天皇を、中華は皇帝を、そして朝鮮は国王を戴いていた。
 日本天皇は、女性神天照大神の血筋を正統とした。
 中華皇帝は、天帝の命を受けた姓の異なる天子(天の子)を正統とした。
 朝鮮国王は、中華皇帝の承認を正統とした。
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 日本天皇と中華皇帝は主体性を持つ自律・自立した能動的君主であったが、朝鮮国王は主体性を放棄した他律しの受動的君主であった。
 故に、日本天皇は日本を中心とし、中華皇帝は中国を中心として、独自の道を自己決定で選ぶ事ができた。
 だが、朝鮮国王は朝鮮を中心とできず、中華皇帝の意向を無視して、自分勝手に朝鮮の道を決定して行動ができなかった。
 中華皇帝は、天子として紅い色と龍を用い、皇・帝・勅の文字を使用した。
 朝鮮国王は、臣下として黄い色と鳳凰の使用を中華皇帝から許可されてが、自分を指す文字として皇・帝・勅などは使用できなかった。
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 朝鮮国王は、その余りにも惨めな境遇を自己満足的に慰める為に小中華主義を作り出して、哀れにも中華皇帝と同等を主張し独自の道を歩む日本天皇に嫉妬して罵声を浴びせ貶めて喜んでいた。
 故に、日本と朝鮮とは幾ら話し合った所で分かり合う事は不可能であった。
 現代の韓国ですら、朝鮮国王より格上の日本天皇を、意図的に格下の日本国王(日王)と蔑称で呼び捨てにしている。
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 世界の王侯貴族の称号において、日本天皇日本国皇帝である。
 日本天皇の国際的地位は、正統的由緒正しさからイギリス国王やローマ教皇と同等であり、ある意味、アメリカ大統領やロシア大統領そして中国共産党国家主席よりも上席である。
 それ故に、共産主義者や反天皇反日的日本人達は、人民革命で、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとしている。
 そうした日本民族日本人ではない日本国民日本人の急増で、日本天皇の存続の危機が見えない所で広がりつつある。
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 現代日本には、明治まで存在していた、日本天皇・皇室を守護した部落民である非人・エタ・乞食などの賤民や山の民・川の民・海の民など差別される貧困層は存在しない。
 昔の部落民・被差別民と現代の部落民・被差別民は、日本天皇・皇室との心的精神的絆の深い面で全く異なる人々である。
 熱狂的な天皇支持者は、昔の部落民・被差別民、社会から毛嫌いされ差別を受けていた下層民達であった。
 大災害や戦後の社会崩壊的だ混乱の中で暴力的共産主義革命や神聖キリスト教革命が起きなかったのは、最下層の貧困者が多数派として天皇擁護派であったからである。
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 日本儒教と中華儒教は異なる。
 儒教は、教条的原理主義ではなく、排他的でもなく、不寛容でもなく、閉鎖的でもなかった。
 孔子(名は丘、字は仲尼)が儒教の祖ではあるが、それ以降の時代や王朝に現れた孟子朱子王陽明など数多くの優れた後継者、国内の老子道教など他の学派や外来の仏教、キリスト教イスラム教、ヒンズー教などの影響を受けて新たな解釈が加わって変化した。
 日本人の儒教解釈は、論語など数冊の古典を浅読みして字面から道徳的なものを摘まみ食いするもので、四書五経を深読みし熟慮・思索して思想の深淵を極めるものではなかった。
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 中華皇帝と朝鮮国王は、中華儒教易姓革命による王朝交代で勃興と滅亡を繰り返していた。
 新中華皇帝は、滅ぼした別姓の前中華皇帝の一族と忠誠を誓う臣下を家族諸共に根絶やしにした。
 日本天皇は、日本神道・日本仏教・日本儒教・諸学に護られた万世一系男系天皇(直系長子相続)で不滅であった。
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 中国仏教には、王朝打倒の革命思想が含まれていた。
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 日本は、仏教や儒教など渡来の思想や宗教を、日本神道と自然環境・風土で根底から組み立て直して有害な毒素を完全排除して受け入れ、国土に定着させた。
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 中華世界は、剣を用いて、徳を失った古い王朝を消滅させ、動乱の中から大虐殺と大流血で新たな徳のある王朝を樹立する世界であった。
 日本世界は、神聖不可侵の日本天皇が徳で支配し、日本神道・日本仏教・日本儒教で死と血を穢れとして嫌う世界であった。
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 死と血を穢れとして怖れおののく日本の常識は、世界の非常識である。



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