孔子を捨てた国――現代中国残酷物語 (ASUKASHINSHA双書)
- 作者:福島香織
- 発売日: 2017/02/15
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2017年8月10日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
消された皇帝
支那の言葉は汚い。文字はもっと汚いとは支那学の泰斗、樋泉克夫元愛知大教授の指摘だ。
だから見た目の悪い漢字だらけの看板は日本では流行らない。松下電器はパナソニックに、旭光学はペンタックスになった。
日本人が仮名を創ったのはそれで漢字の羅列の見苦しさを薄められると考えたからだろう。実際、仮名書道は本当に美しい。
漢字の字面(じづら)だけでなく表現する内容も汚らしい。
『易子而食』は『隣の子と我が子を取り換えて食らう』の意味だ。
易は替えると読む。易姓革命も『天命が改まり新しい皇帝に替わる』という意味だが、内実は易子而食と大差なく汚い。
革命は治安が乱れ、飢餓が重なり、盗賊が跋扈して何百万もが餓死するか殺される状態が前提になる。
盗賊の親玉は天命を感じたといって、皇帝を称し、同類を倒していって、ついには現皇帝を殺し、もっと過酷な王朝を建てるのが形だ。
では、どれだけ民が死ねば革命になるのか。後漢が滅んで三国志の時代に入ると人口は10分の1に減ったと言われる。
南北戦争で米国人は4年間で60万も殺した。同じように歯止めを知らない支那人だ。劉備、孫権らが親子2代にわたって殺し合えば数百万人の民が殺されたとしてもおかしくはない。
このときは黄巾の乱が引き金だったが、それから1000年後の元末には紅巾の乱が登場する。
同じように天下は麻のように乱れ、飢餓で何百万もが死んでいた。革命の機は熟した。白蓮教徒やその他盗賊が皇帝レースに加わって最後は朱元璋が抜け出して明朝を建てた。
しかし民の苦しみはなお続く。禿(はげ)の朱元璋は『禿』の字を書いただけで処刑した。3代目の永楽帝はもっと残忍で、彼の正統性を認めない学者がいれば、眷属も知り合いもみな殺した。
そんな酷い皇帝でも何百万の民が死ぬ飢餓が伴わない限り革命は起きない。
ただ、うまくしたものでそんな時は外国勢がやってくる。悪い明を倒したのは満州族で、民は北京に入る彼らを歓声で迎えている。
そういえば蒋介石軍を追う日本軍兵士に支那の民が土下座して歓迎する写真が朝日新聞(3月29日付)に載っていた。
民の心情は明末のときと同じだったのだろう。
しかし日本軍は間もなく去った。代わりに蒋より残忍な毛沢東が天下を握った。この王朝は出だしから血塗れる政治をやった。
まず朝鮮戦争に参戦し帰順した国民政府軍130万人を消耗し尽くした。
国内ではレーニンと同じに地主を毎日吊るし、反革命分子狩りもやって271万人を殺した。
そして英国を追い越し米国に迫る『超英追米』をカ掲げて大躍進政策を初める。
コメを密植して収穫を倍にしろとか愚かなことをやらせ4,000万人を飢餓地獄に落とし、現代に易子而食を再現した。
その10年後には文化大革命があって、劉少奇以下2,000万が殺された。
これだけ死なせれば革命には十分だ。人心も倦んでいた。なのに何も起きなかった。
易姓革命の本場らしくもないように見えるが、実はこのとき、裏で無数の革命が進行していたことを神奈川大の小林一美名誉教授が明らかにした。
この先生は支那の各省史を渉猟(しょうりょう)し、例えば山東省では共産党政権成立から30年間に217人が皇帝を名乗り出て、それぞれが朱元璋と同じに手兵を率いて蜂起していた。
彼らは勢力を伸ばしたものの、どの皇帝も捕まって手兵ごと殺された。
安徽省でも同時期に80人の皇帝が出た。何年間か頑張った者もいたが、そろって潰された。それが外部に知られなかったのは鉄壁の検閲のせいだった。
大躍進のときも文革のときも民は天命が改まったのをちゃんと覚知(かくち)していたのだ。それで合計で何百人もの皇帝が出現した。
ただ中共はあまりにしたたかだった。それでも世界のため、習近平を倒す革命を諦めないでほしい」
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中華儒教とは、体制思想であると同時に反逆の革命思想である。
中華儒教は、替わる事のない万世一系の天皇制度は天命・天道に反するとして認めてはいない。
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朝鮮人は中国世界で生きていけるが、日本民族日本人は中国世界では生きられない。
朝鮮人は、中国世界から移り住んで子孫である。
日本民族日本人は、中国世界や朝鮮半島から逃げだしてきた子孫である。
ゆえに、日本民族日本人と中国人・朝鮮人とは、根本的に異なる。
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「唇亡びて歯寒し」は、日本と中国・朝鮮の間には当てはならない。
歴史的事実として、中国・朝鮮が滅んだところで日本には実害は少ない。
日本と中国・朝鮮との間に、切手も切れないような紐帯関係も存在しない。
日本が歴史で学んだ事は、中国と朝鮮は敬して遠ざけ決して交わらない事であった。
歴史の教訓とは、「疎遠」である。
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清国の支配する中国の人口は、1644年頃で約1億人であったのが、18世紀末には3億人に迫るほどに爆発的に増加した。
ヨーロッパの人口は、1600年頃に1億人に達し、1800年には2億人近くに増えていた。
日本の人口は、豊臣秀吉の天下統一時には約1,300万人で、100年後の徳川幕府中期で3,000万にふくれたが、幕末まで人口増加はなかった。
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清国は、人口爆発が原因で食料不足となって民衆が餓えると叛乱の恐れがある為に、食糧増産に力を入れた。
都市で溢れた貧困層を、地方の未開地に強制移住させて農地に開墾させ、外国のトウモロコシやジャガイモなどの農作物を栽培させた。
外国渡来作物によって食料危機は免れたが、無計画な開拓で自然が破壊され、大洪水が頻発して各地で土壌流出が起きた。
中国の森林面積は、食糧増産目的の農耕地増加とは逆比例的に減少した。
自然破壊は、食べも確保の農業によってもたらされた。
相次ぐ天災によって、農耕用地が失われて農民は貧困化し、農産物生産量が低下して飢餓が常態化した。
中国は人口増加によって貧困化に陥り、貧しい人々は食べ物を確保できず飢餓に襲われ、その度に夥しい餓死者を出すようになった。
飢えた民衆は、生き残る為に、他人から食べ物や金目の物を奪う盗賊となった。
清朝末期。中国世界は、餓死を待つ飢えた民か生き残る為に盗賊化した民で溢れていた。
中国で生き残り成功する者は、能力と実力が他人よりも優れている者か、支配者に賄賂を送りそのコネで不正をして利益を得ようとする者である。
中国は、人口爆発に伴う食糧増産の為に開墾して農耕地を広げたが、森林を乱伐して自然環境を破壊した。
その結果、自然災害によって農作物に甚大な被害をもたらし、食料生産量が激減して深刻な飢餓が常態化して、夥しい餓死者を出した。
餓死の危険に晒された中国人貧困層は、大挙して食料のある他国に逃げだし、地元民の迷惑を顧みず、イナゴの大群のように食べられるだけの食べ物を食い潰していった。
中国の指導者は、人口の多さから幾千万人が餓死し病死しようとも気にはせず、自分に足りない物だけを得る為に豊かな地方を侵略して奪ってきた。
ゆえに。中国の歴史は、戦争と強奪の歴史と言われている。
中国は、純然たる大陸国家である。
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- 作者:石平
- 発売日: 2012/11/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)