🎄52」─3・C─ヒトラーのホロコーストを正当化した「ダーウィンの呪い」。~No.175 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 人類史上、大量虐殺者とは、ロシア共産党スターリンナチス・ドイツ国家社会主義)のヒトラー中国共産党毛沢東の3人であり、彼らの共通はマルクス主義イデオロギーである。
 3人の虐殺者にとって、日本民族とは虫ケラのような生きる価値のない下等な劣等人種にすぎなかった。
 日本にとってスターリンヒトラー毛沢東は敵であり、思想弾圧として人民共産主義暴力革命を目指すマルクス主義原理主義者を大量検挙したが死刑にはしなかった。
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 マルクス主義は、科学至上主義と反宗教無神論である。
 過激派マルクス主義は、人民の大義を達成する為ならば命の尊厳を無価値として切り捨てていた。
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 2024年3月21日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ヒトラーによる残虐行為の正当化に利用された「ダーウィンの呪い」…「悪夢のような惨劇」はなぜ起こったのか
 ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。
 【写真】意外と知らないダーウィンが言った「進化」の本当の意味
 一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。
 発売からたちまち4刷となった、話題の『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。
 本記事では、ヒトラーナチスの思想がどのように形成されていったのか、そして、そこに「進化論」を曲解した優生学がどのような影響を及ぼしたのかをくわしくみていく。
 ※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。
 ヒトラーの専属医師が遺した言葉
 ドイツ人医師カール・ブラントは、人類の輝かしい進歩を信じていたという。だが1948年、死刑宣告を受けたブラントは、絞首台の前に立っていた。
 アドルフ・ヒトラーの専属医師でもあったブラントは、第二次世界大戦中、強制収容所に収容されていた数千人の人々を強制的に不妊化し、科学の名目で恐るべき医学実験を行うなど、数多の残虐行為を行い、終戦後、その罪を問われたのである。ブラントは、北欧系白人を進化的に向上させるとして、20万人以上の身体・精神障碍者を組織的に殺害したT4作戦の推進者でもあった。
 悪魔の所業としか形容しようのない犯罪行為の報いを受けるのは当然、弁解の余地なし、のはずだったが、ブラントは絞首台を前にして演説を始めた。
 「ありとあらゆる人体実験を主導してきた国が、その実験方法を真似ただけの他国を非難し、罰せるのか。それに安楽死でさえ! ドイツを見よ、その苦境は操られ、わざと引き延ばされてきた。人類の歴史上、広島と長崎の罪を永遠に背負わねばならない国が、誇張された道徳を隠れ蓑に自らを隠そうとするのは当然で、驚きではない。法を捻じ曲げるな。正義は絶対そこにない! 全体を見ても個々を見ても。支配しているのは権力である。そして、この権力は犠牲者を欲している。我々はその犠牲者だ。私はその犠牲者だ」
 ブラントはすぐに絞首刑に処され、死の直前に残した不可解な主張はその真意を問われることもなく忘れ去られた。だがその意図を仄めかすものがある。ニュルンベルク国際軍事裁判で、ナチス幹部の弁護側が発した問いかけである。
 「米国の強制不妊手術プログラムが、他ならぬ最高裁判所が公認したものであるなら、ナチス・ドイツの強制不妊手術プログラムを、果たしてどれくらい悪いものだったと言えるのだろうか?」
 この問いかけは何を指しているのだろう。
 ナチスのお手本
 1927年、アメリカ合衆国最高裁判所は、国家の保護と健康のために心神耗弱者を含む不適格者の強制不妊手術を許可するヴァージニア州法に対し、合衆国憲法修正第14条の適正手続条項に違反しないとして、州法を支持する判決を下した。この裁判で判事のオリバー・ウェンデル・ホームズjrは、こう断言した。
 「我が国が無能な者で溢れかえるのを防ぐため、国家の力を蝕んでいる人々にこうした小さな犠牲を要求できないとしたら、それはおかしいだろう──関係者にはそう感じられないこともしばしばあるが。退廃的な子孫が罪を犯して処刑されるのを待つか、その無能さゆえに餓死するのを待つよりは、明らかに不適格な者の子孫が続くのを防ぐほうが、全世界にとってよいことなのだ。(中略)無能な者は3世代で十分だ」。
 この判決の結果ヴァージニア州当局は、若く貧しい女性キャリー・バックを、子を残すのに適さないとして、強制的に不妊手術を行った。
 バックは、養父母からの精神的欠陥という訴えを受けて州施設に送られたのち、医師の診断をもとに施設管理人から、「社会にとって遺伝的な脅威である」と、強制的な不妊手術の要請が出されていたのだった。シングルマザーのバックには、生後間もない娘がいたが、娘も遺伝的に不適格としてバックから引き離され、施設に収容された。
 だがのちに当時の記録から、養父母の策謀と施設管理人の偏見に加え、担当した医師が完全な誤診を犯していたことが判明している。実際のバックはまったくの健常者であり、読書好きの聡明な女性であった。また施設で育った娘は、のちに病死したが、小学生時代は学業成績もよく、優等生だったという。
 この判決を契機として、米国全土で「不適格者」への不妊手術法が正当化された。その後数十年の間に米国では推定7万人の「不適格者」に対し、不妊手術が行われた。
ヒトラーは『我が闘争』に、こう記している。
 「健康状態が悪く、重度の障碍を持つ人々を世界に生まれてこないようにするのは、かなりの程度まで可能である。私は、民族にとって価値がない、あるいは有害な子孫を産む可能性が高い人々の繁殖を防ぐために制定された、米国の州法に関心を持ち、研究してきた」
 ナチスが手本にしたのは米国だったのである。移民法を制定して人種差別政策を進める米国を、ヒトラーは称賛している。彼らのモデルは、米国国民の進化的な向上を目指す優生学運動と人種差別政策だった。米国で進められた強制不妊手術、社会的不適格者の収容、安楽死に関する議論や、人種差別政策を、忠実に移植したのである。
 この枠組みから始まった政策が、独裁政権下でエスカレートしたうえに、ユダヤ人差別と結びついた結末が、ヒトラーナチスによる600万人を超えるユダヤ人虐殺であった。
「呪い」が生み出した優生思想
 ヒトラーによる『第二の書』(Zweites Buch)は、こんな書き出しで始まる。
 「政治とは、歴史の構築である。歴史は、民衆による生存闘争の過程を示す。私がここで『生存闘争』の言葉を使うわけは、平和であれ戦争であれ、日々の糧を得るための闘いは、何千何万もの敵との果てしなき戦いであり、それは生物の存在自体が死との果てしなき闘争なのと同じだからだ。何十億もの生物が繰り広げる生存闘争と存続をかけた闘争は、厳密に一定な球体上で行われる。生存闘争を強いられるのは、生活空間が限られているためだが、この生活空間をめぐる生存闘争に、進化の基盤が存在するのである」
 ナチスの広報活動を担ったオットー・ディートリヒは、ヒトラーの思想についてこう語っている。
 「彼は生存闘争、適者生存などの原理を自然の法則と考え、それを人間社会も支配する高次の命令だと考えた。その結果、力こそ正義であり、自らの暴力的な方法は自然の法則と完全に合致していると考えた」。
 歴史家のリチャード・ワイカートは、ヒトラーナチスの人種差別政策と優生思想のかなりの部分が、ダーウィンとその後継者たちが発展させた科学としての進化学に由来したものだ、と結論づけている。
 彼らは極度に単純化し、わかりやすい形に改変したダーウィン進化論を利用して、彼らの行為を正当化したのである。さらに彼らは支配者として自然の代理人になろうと企てた。人間に対する人為選択である。彼らが「不適格」と認定した人々を、彼ら自身の手で排除したのである。
 自然界では生存闘争と適者生存で強い者が勝つ、と単純に信じていた彼らは、弱者も生き残ってしまう人間の文明社会を、そうした進化のルール──自然の法則から外れてしまったもの、と見なしていた。
 人間もその社会も自然の法則に従うべきだ、と考えた彼らは、自然の代理人として彼ら自身で手を下したのである。それが彼らの考える進化を裏付けとした優生学だった。しかし結局のところ彼らの企ては、単純化した進化と自然の法則と科学を悪用して、彼らの人種差別思想と偏見とを、正当化するものだった。
 ナチスの場合には、さらに誤った集団選択──国家や民族が選択の単位になるという考えが融合していた。この単純な集団選択は、20世紀前半の欧米社会で素朴に受け入れられていた。
 ヒトラーナチスによる悪夢のような惨劇は、魔物に取り憑かれた「進化の呪い」と「闘争の呪い」、それに残虐行為の正当化に利用された(真偽と無縁な)科学的裏付けである「ダーウィンの呪い」が、偏見や差別と一体になって引き起こしたものだと言える。
 ただし実は、進化を科学的裏付けとした優生思想は、ナチスほど暴力的なものではないにせよ、20世紀前半の欧米には広く浸透していた。これは人間の遺伝的劣化を防ぐ、あるいは進歩を実現するために、人間の遺伝子プールを人為的に操作し、選択をかけて進化させる、という恐るべき思想だった。
 科学の成果は、結実した成果そのものだけではなく、結実に至る経緯も評価しなければならないとされる。それなら、科学の惨禍も、結実した暴虐そのものだけでなく、暴虐へと至る経緯も分析しなければならないだろう。
 千葉 聡(東北大学教授)
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 2024年3月19日6:33 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「多くの人に誤解されているダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」
 ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。
 【写真】ヒトラーナチスによる残虐行為の正当化に利用された「ダーウィンの呪い」
 一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。
 発売からたちまち4刷となった、話題の『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。
 ※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。
 進化に方向性はあるのか
 日本の大学生は進化する必要がある、などと私が言おうものなら、私の学生も含めた生物学徒は鬼の首を取ったように苦情を述べるだろう。私の主張に、ではない。進化という言葉の使い方に対してである。
 生物学的な進化の意味は、遺伝する性質の世代を超えた変化である。現代のそれは発展や発達、進歩の意味ではない。生物進化は一定方向への変化を意味しない。目的も目標も、一切ないのだ。
 そのプロセスの要は、ランダムに生起した変異が自然選択のふるいにかかって起きることである。まずはダーウィンの説明から見てみよう。
 「……どんな原因で生じたどんなにわずかな変異でも、ほかの生物や周囲の自然との無限に複雑な関係の中で、その変異が何かの種の個体にとって少しでも有益であれば、その個体の生存につながる。そしてその変異がその個体の子孫に受け継がれるのが普通である。さらにその子孫も生き残る可能性が高くなる。なぜなら、どんな種でも、定期的に生まれる多くの個体のうち、ごくわずかしか生き残らないからである。この、わずかな変異でも、有用であれば保存されるという原理を、私は『自然選択』と呼んでいる。それは、人間による選択の力との関係を示すためである」
 この自然選択の作用で、より高い繁殖率や生存率を持つ変異が、次世代にほかの変異より多くの子孫を残す結果、存在比率を増やしていく。選択によるわずかな変化が蓄
積し、少しずつ漸進的に進化する。
 自然選択は、動植物の育種のために人間が行う変異の選抜──人為選択がヒントになっている。だが人為選択と異なり、自然の作用には育種家が抱くような変化の目的や目標はない。
 ダーウィンにとって、どのような変異が生じるかはランダムであり、どのような性質が有利かは環境によって変わるので、進化は条件次第でどのような方向にも進みうるものだった。つまり進化には発展や進歩のような、あらかじめ定まった方向はない。退化も進化である。
 ダーウィンは、寄生虫が自由生活者の祖先から進化し適応を遂げた結果、祖先が持っていた器官や能力を失う、つまり退化することが多いとも述べている。
 一定の方向ではなく、あらゆる方向に変化する結果、多様化が進む。現在の生物が、初期の生命と比べて複雑に見えるのは、単純なものから様々な方向への進化で多様性が高まった結果の一部を見てそう思うに過ぎない。現在の地球上に棲む生物種は、すべて共通祖先から枝分かれし、同じ進化の時間を経てきたものだ。だから、その中に祖先的な形質を残した種は存在するが、ある種が別の種の祖先ということはない。
 ダーウィンは1837年のノートにこう記している。「ある動物がほかの動物より高等である、と語るのは馬鹿げている」。また友人のジョセフ・フッカーに宛てて、こう手紙に書いている。「神よ、“進歩する傾向”というラマルクの馬鹿げた考えから、私をお守りください」。
 進化は進歩でも発展でもない、そうダーウィンは考えたのである。ではなぜ生物学以外の分野や一般社会では、進化を発展、発達、進歩の意味で使うのだろう。
 まずダーウィンの主張を整理しよう。その要点は、第1に生物の種は神が創造したものでなく、共通祖先から分化、変遷してきたものであり、常に変化する、という主張。
 第2に、生物の系統が常に変化し、枝分かれする以上、種は類型的な実体ではなく、科や属や亜種と同じく、形のギャップで恣意的に区分される変異のグループに過ぎないという主張。
 第3に、そうした変化を引き起こした主要なプロセスは自然選択である、という自然選択説の主張である。そしてこの三つに基づいて、生物の進化は何らかの目標に向かう進歩ではなく、方向性のない盲目的な変化である、という主張が導かれる。
 「マジック・ワード」エヴォリューション
 よく誤解されているが、エヴォリューション──進化(evolution)という言葉を最初に使ったのは、ダーウィンではない。それどころか現在の私たちが進化と表現している現象を、ダーウィンは最初、エヴォリューションとは呼ばなかった。
 1859年に出版した非常に長いタイトルの本(On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life──自然選択すなわち生物の闘争における有利な品種の維持による種の起源について、の意)──略称『種の起源』でダーウィンは、最後に「進化する」という動詞形で用いただけで、エヴォリューションという用語は使わず、その代わりにトランスミューテーション(transmutation)という用語を使った。
 また自らの理論を、「変化を伴う血統の理論」(theory of descent with modification)と呼んでいた。ダーウィンがアルフレッド・ラッセル・ウォレスとともに発表した、進化における自然選択の作用についての論文では、トランスミューテーションすら使わず、それを「変化」としか表現していない。
 ところが19世紀前半にはすでに、エヴォリューション──進化という言葉は、学術界で一般的に使用されていた。たとえばダーウィンがまだビーグル号で世界一周の航海
途上にあった1832年、チャールズ・ライエルは次のように記している。「最初に存在した海洋の有殻アメーバ類のうちのいくつかが徐々のエヴォリューションにより、陸
地に生息するものに改良された」。
 それはたとえば星雲のエヴォリューションのように、非生物的自然の連続的な複雑化や発達、という意味でも使われていた。また人間社会の進歩にも使われていた。歴史
家のフランシス・パルグレイブは1837年に、「立憲主義による私たちの政治形態は、エヴォリューションによって作り出された」と記している。
 進歩は光、衰退は闇
 もともとエヴォリューションとは、「展開する、繰り広げる」という意味のラテン語、evolutioに由来する語で、コンパクトに折り畳まれていたものが一方向に展開する
ような現象を表現するのに使われていた。
 それが転じて17世紀以降、個体発生を意味する語としてエヴォリューションが使われた。当時の前成説の考えでは、精子や卵の中に子供の形のひな型が入っており、次第にそれが展開するのが発生の過程だったためである。
 エヴォリューションの考え方自体は、自然主義の出発点──古代ギリシャまで遡る。
 まずはプラトンが万物にはその物をその物たらしめる不変の本質があるとする本質主義を唱えて、進化のライバルとなる不変の思想のほうが先に誕生する。だが同時にプラトンは、宇宙における秩序の発生という概念を着想した。
 さらにアリストテレスによって、無生物から植物、動物へと連続する自然観が導かれた。アリストテレスは、自然物の存在に合目的性を認めた。この秩序と連続がのちに「存在の連鎖」──植物から動物、人間へと生命の直線的な秩序を表す自然観へと発展した。これにキリスト教の時間的な変化の概念が融合し、進歩を意味する歴史観となった。アリストテレス以来の目的論を受け継ぐ、一つの目標に向けて進む進歩観である。
 進歩を光とすれば、衰退は闇である。西欧には、光が作る影のように、進歩観の裏側にそれとは正反対の世界観が張り付いていた。旧約聖書に記された堕落神話──アダムとイブから続く堕落や、大洪水を箱舟で生き延びたノアの子孫が各地へ移住した後、新しい土地で暮らすうちに堕落していく、といった衰退観である。人類は神による創造以来、堕落し衰退し続けるという世界観、さらにキリスト教の終末論は、逆に西欧の進歩への強迫観念を支えてきた。
 18世紀にはフランスのジョルジュ・ビュフォンが、「ときの流れの中で、発達と退化を経て、ほかのすべての動物を生み出した」と歴史的な種の変化の可能性を指摘して
いた。進歩と退化(堕落)を決めるのは環境の違いだと考えたビュフォンは、生命の活力を低下させる新大陸の気候は、動植物のみならず人間も退化させると説いた。
 この主張に激怒した米国建国の父、トマス・ジェファーソンは、反論のため米国の自然や動植物を称える活動に力を入れ、巨大なヘラジカの剥製をビュフォンのもとに送りつけた。
 ドイツではビュフォンの説が支持を集め、イマヌエル・カントは人種の違いを気候の違いで生じたものだと主張した。
 フランスではジャン=バティスト・ラマルクが1809年に、親が環境に応答して獲得した性質が次世代に先天的な性質となって伝わる、という考えで生物の変化を説明した。ラマルクによれば、生物は体の構造をより複雑なものへと進歩させる内的な性質を持つという。環境が大きく変化すると、生物は生き残るために変化しなければならない。
 脳を持つ動物は意識的に、それ以外の生物は無意識的に、変化した環境に適した性質を獲得しようと努力する。その結果身体に生じた変化は、子に受け継がれ、先天的な性質となって世代を超えて伝えられる。使われない性質は逆に失われる。こうした獲得形質の遺伝による目標に向けた進歩で、生物は祖先から子孫へと徐々に性質が変化していく、と考えたのである。
 これに対し、解剖学者・古生物学者のジョルジュ・キュヴィエは、天変地異による種の絶滅と入れ替わりで種構成の歴史的な変遷が起きるとする「天変地異説」を唱え、ラマルクの主張する祖先―子孫の漸進的変化を批判した。
 英国では18世紀から19世紀初めにかけて、神の摂理自然法則の形で作用し、自然の発達を通じてその摂理が実現する、と考える、進化理神論(Evolutionary deism)と呼ばれる主張が広がっていた。生物の個体発生もこうした摂理が作用する例と考えられていた。この進化理神論者の一人で、ダーウィンの祖父、エラズマス・ダーウィンも、1791年にエヴォリューションを個体発生の意味で使い、こう記している。「種子から進む動物または植物の幼体の段階的なエヴォリューション」。
 進化理神論では、最初は不明確でまとまりのない均質な状態から始まり、それが発達して、複雑でまとまりを持つ秩序ある多様性に至る、と考える。
 最終的に到達するのは、最大の幸福を実現する理想的な状態である。この進歩・発展の過程がエヴォリューションと呼ばれるようになった。成体という目標に向かって発達するのが個体発生であり、エヴォリューションなので、それを生物の歴史的な変遷に置き換え、個体発生と同じく何らかの目標に向けて発展する現象と見なせば、それはエヴォリューションとなる。
 *
 さらに【つづき】〈競争とその結果を正当化するために利用された「ダーウィンの進化論」… 19世紀の世界観が生み出した「進化の呪い」〉では、『種の起源』以前のエヴォリューションの意味や、「進化」という言葉の本来の意味と生物学での意味のちがいなどについて、くわしくみていく。

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 千葉 聡(東北大学教授)
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 2023年11月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「競争とその結果を正当化するために利用された「ダーウィンの進化論」… 19世紀の世界観が生み出した「進化の呪い」
 千葉 聡東北大学教授
 ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。
 一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。
 注目の新刊『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。
 本記事では〈意外と知らないダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」〉にひきつづき、ダーウィンが『種の起源』を書いた以前から使われていた「進化」という語の意味や、19世紀の世界観が生み出した「進化の呪い」についてくわしくみていく。
 ※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。
 『種の起源』以前のエヴォリューション
 19世紀前半には、エヴォリューションは内的な力によって生起する一定の方向に向けた時間的変化や、単純なものから複雑なものへと発達、発展する現象を広く表現する言葉として使われるようになっていた。
 1844年に匿名で出版されたロバート・チェンバースの『Vestiges of the Natural History of Creation』は、神の摂理である自然法則のもと、太陽系が形成され、既存の種から新しい種が生まれ変遷して、人間に至る、と主張した。
 ラマルクもチェンバースもエヴォリューションという語は使わなかったものの、地球上の生命の発展は、あらかじめ決められた目標に向けた首尾一貫した計画の展開であると考えていた点で一致していた。
 こうした生物の進歩的な変化の考えは、すでに19世紀前半には英国社会でかなりの程度まで受け入れられていた。ダーウィンが『種の起源』で進化の考えを提唱する以前に、エヴォリューションは、様々な現象の発展、発達、進歩や、一つの目標に向かう変化を意味する語として使用されていたのである。
 この由緒正しい意味でエヴォリューションの語を使い、宇宙の発達、生物の複雑・多様化、人間と精神の発達、社会の発展・進歩を、自然法則として統一的に説明しようとしたのが、ハーバート・スペンサーである。
 彼の著書『First Principles』が出版され、世間の評判を得るのは1862年だが、1850年代にはすでにその構想を完成させ、一部を発表している。スペンサーが生物のエヴォリューションを駆動する力として重視したのは、ラマルクの考えである獲得形質の遺伝を主とする内的な力だった。
 1864年に出版された『生物学原理』(The Principles of Biology)で、適応の要因として獲得形質の遺伝とともに、自然選択を一部だけ取り入れたが、それが適用できる性質の範囲は限られる、と考えていた。
 ダーウィンのトランスミューテーションは、このような自然界の秩序ある発展、つまりエヴォリューションを否定するものだったのである。エヴォリューションの語をダーウィンが使わなかったのは、彼が着想したトランスミューテーションが、当時広く使われていたエヴォリューションとはまったく異質なものだと認識していたからだ、と言われている。方向がどのようにも変わりうる生物の変化、目的のない変化というダーウィンの基本的な考えは、革新的なものであったのだ。
 その生命史のイメージは、単純な形から出発した生物が、あらゆる方向に枝分かれしながら無目的に変化する結果、時間の経過とともに人間を含む果てしない多様性が生まれていく、というものだった。『種の起源』の末尾は、動詞形ながら本中で唯一の、進化する、という言葉を使い、こう締めくくられている。
 「こんな壮大な生命観がある──生命は、最初一つか少数の形のものに吹き込まれた。そしてこの惑星が重力の法則に従い回転している間に、非常に単純な始まりから、最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである」
 ダーウィンは、秩序ある発展ではなく、果てしなく広がり、あらゆる方向に変わり続ける命の、あてのない旅を、目標なき「展開」の意味で進化する、と描写したのだろう。
ダーウィンの揺らぎ
 だが、ダーウィンが方向性のない進化にこだわり、進化を進歩と見る考えを常に拒否していたかというとそうでもない。ダーウィンの記述にはぶれが見られる。
 たとえば『種の起源』で、自然選択により「すべての身体的、精神的資質は完全に向かって進歩する傾向がある」と記している。また前述の結語の直前には、「こうして、自然の戦争、飢饉、死から、私たちが想像しうる最も高貴な対象、すなわち高等動物の創出が直接もたらされるのである」と書かれている。
 ダーウィンは、のちに獲得形質の遺伝の考えも大幅に取り入れ、方向性のない変化の主張も後退させていった。それに合わせるかのように、エヴォリューションという語を使用するようになった。
 歴史家のピーター・J・ボウラーは、生物学者としてのダーウィンは進化を方向性のないものと認識していたが、社会哲学者としてのダーウィンは進化を進歩の意味で説明した、と述べている。自説が社会に受け入れられるには、19世紀英国社会の進歩主義に貢献できるものでなければならない、と考えていたためだという。自然選択説という自説の核を守るため、それに付随するはずの進化の無方向性を犠牲にしたというのである。ただし、ダーウィンは部分的には進化を発達や進歩と見ていたと指摘する研究者もいる(*1)。
 いずれにせよ、方向性のない進化というダーウィンの革新的なアイデアは、ダーウィン自身がのちに封印してそれほど強く訴えなかったこともあり、当時は社会的にもあまり意識されなかった。だからダーウィン進化論が、当時の社会の進歩観に衝撃を与えたわけでも、それと対立したわけでもない。それどころか社会はそれを進歩主義の推進力に利用したし、ダーウィンもそれを利用した。
 その結果、ダーウィンのトランスミューテーションとエヴォリューションは同義となった。
 20世紀半ば以降、自然選択を中心に据えた進化の総合説が広く定着し、改めて生物進化が当初のダーウィンの主張通り、方向性のない変化の意味で理解されるようになったときには、生物学者はみなそれを本来違う意味だったはずのエヴォリューションの語で呼ぶようになっていたわけである。
 *
 (*1)例えば、体サイズのより大きな変異が自然選択に有利な環境が一定期間続けば、大型化という一方向的な変化がその期間に限り生じるので、その期間だけ抽出して、生じた変化に進歩という概念を当てはめれば、進歩と表現できる。
 19世紀の世界観が生み出した「進化の呪い」
 現在でも生物学以外の世界では、自然現象、事物、社会の発展や発達、進歩の意味を表す語として、エヴォリューション──進化が使われているが、生物学者の中にはそれを誤用だと指摘し、批判する者がいる。
 しかし歴史的な経緯を考えればそちらが本来の意味に近く、生物学での意味が異端なのである。生クリームが入っていないカルボナーラなんて偽物だとイタリアで主張するようなものである。
 天文学者エドワード・ハリソンは逆にそうした生物学者を批判し、こう述べている。「生物学者はエヴォリューションという言葉を捨てて、その言葉を、本来の(一方向への)“展開”という適切な意味で使っている天文学者に任せるべきだ」。
 ただ、逆に言えば、本来の意味、とは、19世紀の西欧社会の世界観を色濃く残す意味、とも言える。ボウラーを始め多くの歴史家は、「ダーウィニズム」は19世紀後半において、ほとんど必然的に進歩主義的な意味を持つものであり、中産階級の競争による権力獲得を正当化する思想と合流した、と指摘している。
 つまり「進歩せよ」を意味する「進化の呪い」は、生物の変遷も人間社会の発展も、それが神の摂理であれ自然法則であれ、共通の法則に従うひとくくりの進歩として捉えられた、19世紀欧米社会の世界観であると言ってよい。
 その世界観は、恐らくはギリシャ時代に端を発し、キリスト教の終末論的概念を負の推進力として強化され、啓蒙時代の英国を覆っていた、進歩史観に由来するものだ。進歩のために、自助努力を重視し競争を許す思想は、プロテスタントの労働倫理が影響したものであろう。
 「進化の呪い」は生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として存在していたものである。
 そして当初のダーウィンの意志が生物の進歩を否定するものだったにもかかわらず、社会も人も進歩すべきであるという規範と、人々の競争とその結果を正当化するために、神の摂理ダーウィンの名に置き換えて生まれたのが、「ダーウィンの呪い」──「ダーウィンの進化論によれば……」だったのである。
 神の教えに代わり、人々に教えの正しさ、規範の重要さを認めさせる「託宣」、あるいは「ブランド」とも言えるだろう。
 現代の生物学では「エヴォリューション──進化」を発生や変態はもちろん、進歩の意味では使わない。プロセスに合目的な要素を前提としないうえに、進歩には科学と峻別すべき価値観が含まれるからである。
 仮に進歩から価値を切り離せるとしても、スティーヴン・ジェイ・グールドの言葉を借りれば、「自然選択理論の必要最小限な仕組みは、局所的に変化する環境への適応についてしか語らないので、進歩の根拠を与えない」のである。
 だが、実は生物学者の間でさえ、この「生物進化は進歩ではない」という理解が広く定着するまでには、総合説の成立以降も紆余曲折の道のりがあった。
 そこで本書では進歩か否かにかかわらず、「進化」を単に遺伝する性質の世代を超えた変化の意味で使用する。ときに進歩を含意する語としてそれを用いる場合があるが、そこは歴史的な経緯を踏まえた事情ゆえと、許容していただきたい。
 *
 本記事の抜粋元『ダーウィンの呪い』ではさらに、中立的な進化が、なぜひたすら「進歩」が続くと信じられるようになったのか。ダーウィンとその理解者、そしてその志を継いだ後継者たちが、いかにしてダーウィンの「進化論」が生み出した「呪い」にかけられていったのか、が書かれています。ぜひお手にとってみてください。
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