🔯45」─1─なぜ宗教を信じる人たちは「攻撃」を始めるのか。無神論者が危険視されるわけ。~No.160 

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 日本がイスラム教、ユダヤ教キリスト教など多くの世界宗教から危険視・敵視され攻撃・宗教テロを受けるのには、正当な理由がある。
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 2023年12月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ宗教を信じる人たちは「攻撃」を始めるのか…人類が「神」というやっかいな概念を持ち出す科学的な理由
 なぜヒトは「神」を信じるのか。進化生物学者長谷川眞理子さんは「ヒトが持つ脳の働きが宗教を生み出した。宗教的信条を同じくする人々の結束は、人類が文明を発展させる上で重要な要素だった」という。ロビン・ダンバー『宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)より、巻末に収録された長谷川さんの解説「ヒトの進化と宗教の起源」を紹介する――。(第2回/全2回)
 【写真】進化生物学者リチャード・ドーキンス氏。著書に『利己的な遺伝子』『神は妄想である』などがある
■日本人の不思議な宗教観
 あなたは何かの宗教を信じていますか? この質問は、日本人にとっては、結構やっかいなものだろう。仏教だと言う人は多いだろうが、では、仏教を信じているとはどういう意味か、とさらに聞かれると、あまり明確には答えられない。日本中にあまた仏教の寺はあるものの、人々の毎日の生活に深く根ざしているわけでもないらしく、葬式仏教などと半ば軽蔑して呼ばれることさえある。
 日本という文化は、強烈に一つの宗教でまとまっているわけではなく、宗教的信念が政治的信念と結び付いて、社会の分断を引き起こしている、ということもないようだ。この状況は、日本以外の世界ではかなり異なる。米国は顕著にそうだが、欧州も、アラブ世界も、アフリカも、アジアも、だいたいはそうなのだ。だから、宗教とは何か、なぜこんなものが出てくるのか、についての考察が必要なのである。
■ヒトが「友人関係」を築ける上限は150人
 著者のロビン・ダンバーは、もともとサルの仲間の社会行動を研究する霊長類学者であったのだが、その後、ヒトという生物(つまり私たち自身)が持っているヒトに固有の性質、すなわちヒトの本性は何であり、なぜこのように進化したのかを研究する、進化心理学者に脱皮した。「脱皮した」という言い方をしたのは、サルの仲間の研究をしている霊長類学者のすべてが、ヒトに対するこのような問題意識を持つに至るわけではないし、ましてや、その解明に大きな貢献をできるような問題設定を思いつくこともないからだ。ダンバーはそれを果たせたと思う。
 ダンバーは、霊長類が、哺乳類の中でも特別に社会性を発達させた動物だという認識から出発し、では、ヒトという生物において、この社会性はどのように進化してきたのかを研究してきた。その成果の一つが、ヒトが真に親密性を感じて暮らすことができる集団のサイズには上限があり、それはおよそ150人である、という結果である。これは、世の中で「ダンバー数」という名前で知られるようになった。
■人類史における「150人」という数字の意味
 ダンバーは、もともと、脳の新皮質の大きさから、その動物が処理出来る社会情報の限界を計算し、ヒトの場合は150人だという数字を導き出した。それは、仮説に基づく予測であったが、現実にさまざまな人間集団の営みを調べると、確かに150人という数字には意味があるようなのだ。人類の進化史の90%以上において、人類は狩猟採集生活をしていた。この暮らし方では、15人くらいまでの小さなバンドで日常的に生活し、バンドが寄り集まって部族を形成してきた。その最大サイズは、およそ150人なのである。
 もちろん、現代の私たちは、150人を優に超える人数の人々を知り、それらの人々と交流し、自治体や国家の規模も何百万を超えるものさえある。それでも、私たちが、相手の顔を思い浮かべ、その人と自分との関係やその人と一緒にした経験を思い浮かべ、その人の性格やら友達関係やらを思い浮かべるということを、さほどの認知的負荷を感じずにできるのは、150人ぐらいが限度ではないだろうか? あとは、単に知っているだけ、名刺交換しただけか。
■ヒトが持つ脳の働きが宗教を生み出した
 さて、そこで宗教である。150人というダンバー数の考察と宗教の進化心理学は、どんな関係があるのか? 人類は、およそ1万年前に農耕・牧畜を始め、定住生活を始めた。そこから都市が形成され、文明が生まれた。つまり、150人以上の数の人々が集まって暮らすようになったのだ。
 脳の自然な認識の限界を超えた数である。それを可能にしたものの一つが、宗教的信条を同じくする人々の結束であったのではないか。身近にすぐ思い浮かべて、経験を共有したことがあるような人々のサークルを超えて、「同じ私たち」という感覚を想起させ、一緒に共同作業にいそしむようにさせる、それを可能にした重要な要素が宗教だったのではないか。
 では、なぜ宗教というものが出てきたのか、なぜそれは広まるのか? それは、こんな大きな文明世界が出現する前から、ヒトが持っていた脳の働きに起因する。ヒトという生物は、自己と他者を認識し、自分の心が自分の状態を作り出していることを認識するとともに、他者も他者自身の心を持っており、それによって行動を決めることを知っている。そして、自分と他者とを脳の中でシミュレーションすることによって、自分に起こったことではなく、他者に起こったことを、まるで自分に起こったことであるかのように、他者に共感することができる。
■最新研究が明らかにした「トランス状態」の役割
 また、ヒトは、このような想像とシミュレーションを働かせることにより、あまり原因がよくわからないことが起こった場合に、何か、自分たちとは異なる能力を持った存在がいて、それらの存在がそんなことを起こしているのではないか、と想像することができる。そして、それを他者に伝え、他者もそれに同意することができる。ヒトは、確かに、こんな高度な認知機能を有している。それが脳の中のどんな場所にあって、具体的に何をしているのか、現在では、そんなことも徐々に解明されているのだ。
 宗教の根源には、「現象を因果関係によって説明する」ということと、「何か、自分たち人間とは異なる能力のある何かが存在する」という考えとが結び付いている。現象を因果関係によって説明するのは、脳の前頭葉の働きだろうが、自分たちとは異なる能力のある何かが存在する、という感覚はどこから来るのだろう?
 それには、トランス状態というものが大きな役割を果たしている。踊り続ける、歌い続ける、ということをすると、脳内のエンドルフィンなどの伝達物質の分泌が変化し、「奇妙な精神状態」になるのだ。このメカニズムも、最近では、かなり明確に明らかにされている。みんなで歌って、みんなで同じ動作で踊ると、何か心に変化が起こるのは、みんなわかるでしょう? それを極限まで続けると、また次に段階になるのだ。
■なぜ人類の大部分が宗教を信仰しているのか
 ところで、私自身は、このような「みんなで同じ動作をする、同じ歌を歌う」などといった、同調的な行動が大嫌いな性格である。そんなことは絶対にしたくない。だから、中学でも高校でも、体育の時間にマスゲームのようなものをやらされるのが、心底嫌いだった。そして、私自身は、未知の現象に対する宗教的な説明は受け付けないし、占いも信じない。
 その意味では、有名な進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが、「宗教というものはただの妄想であり、人類に対して、何らよいことなどもたらしていない」というキャンペーンを張っていることに対して共感を感じるし、おおいに応援したいと思うのである。
 では、ダンバーはどうか? 彼自身は、自分の宗教に対する態度を明確には表明しない。ドーキンスの言うように、宗教は悪いことばかりもたらしてきたのは事実かもしれないと認めてもいる。しかし、それにもかかわらず、人類の大部分が宗教を信仰しているのは事実であり、なぜこんなにも多くの人々が宗教を信じるのか、それを冷静に進化的に分析しよう、というのが彼の態度だ。それは私にも理解できるし、重要な分析だと思うので、本書は大変に興味深く拝読した。
■カルト集団の発生とダンバー数「150人」
 ヒトには、宗教を生じさせる脳内の基盤がある。しかし、それは、宗教を生み出すことが主眼で進化してきたのではない。物事の因果関係を推論すること、物事の原因として他者の心を想定すること、そのような解釈を、他者と共有すること、などが人類の進化史上、重要だったから進化した脳の基盤だ。それが集まると、宗教というものがおのずと創発してしまうのだろう。
 そして、一度そういうものが出現すると、今度は、それが新たな意味を持ち始める。それは大きな集団をまとめる力にもなり、思いを同じくしない「他者」を攻撃する理由にもなる。宗教的集団は、大きくなると「組織」になり、政治・経済と結び付いて、さらに話がややこしくなる。
 最後に、宗教的集団はなぜ内部に多数のカルト集団を発生させ、分裂と抗争を繰り返すことになるのか、に関する問題も考察されている。そこにも、150人というダンバー数が影を落としている。カリスマ的な教祖はなぜ発生するのか、そうしてできた新しいカルトのうち、長続きするものと消えていくものがあるのはなぜか、そのあたりの考察も秀逸である。まだまだ、研究する課題は多いと感じさせる。
無神論者の筆者が無性に祈りたくなった理由
 個人的な経験の話を一つ。2000年代の初め、私は、カンボジアを訪ねてポル・ポト政権時代に大量虐殺が行われた跡を見学したことがある。何百と積み上げられた犠牲者の頭蓋骨、捕虜たちが閉じこめられていた収容所とそのベッド、踏みしめる土の間に、今でも垣間見られる犠牲者の衣服の切れっ端。一日中、そんな光景を見たあと、私は、無性にどこかのお寺でお祈りしたくなった。
 日本の仏教とは違う、カンボジアのお寺である。それでも何でもいい。ともかくも、聖なる場所で、裸足でぺたんとすわって、どうしようもない現実の中で命を奪われた多くの人々の霊のために祈りたかった。この無神論者の権化のような私が、である。それは、頭で認識できる事態の悲惨さに対し、それを認識している私が何もできないという無力さの実感がなさせたものだった。こんな理不尽なことが起こったという事実の認識に対し、私自身の心の平安を得るには、何か、超自然の力に祈るしかすべがなかったのだ。
 おそらく、古代より、人々はこんな感情を抱いていたに違いないと、そのときに思った。世界の現状はあまりに理不尽で、なぜそうなったかが理解できたとしても、自分ではどうすることもできない。共感の感情を得てしまったヒトは、それでは心の平安を得られないのである。認識と納得、理解することと心の平安を保つこととの違いを実感した瞬間であった。
 宗教と人間の生活のあり方は、かくも複雑なのである。本書は、その両方を進化的ないきさつから説明しようと、真に大きな考察を展開しようと試みる大作である。

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 ロビン・ダンバー(ろびん・だんばー)
 オックスフォード大学 名誉教授
 人類学者、進化心理学者。霊長類行動の世界的権威。イギリス霊長類学会会長、オックスフォード大学認知・進化人類学研究所所長を歴任後、現在、英国学士院、王立人類学協会特別会員。世界最高峰の科学者だけが選ばれるフィンランド科学・文学アカデミー外国人会員でもある。1994年にオスマンヒル勲章を受賞、2015年には人類学における最高の栄誉で「人類学のノーベル賞」と称されるトマス・ハクスリー記念賞を受賞。人間にとって安定的な集団サイズの上限である「ダンバー数」を導き出したことで世界的に評価される。著書に『ことばの起源』『なぜ私たちは友だちをつくるのか』(以上、青土社)、『友達の数は何人?』『人類進化の謎を解き明かす』(以上、インターシフト)などがある。

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 長谷川 眞理子(はせがわ・まりこ)
 進化生物学者総合研究大学院大学名誉教授
 総合研究大学院大学学長を退任後、現在、日本芸術文化振興会理事長。日本動物行動学会会長、日本進化学会会長、日本人間行動進化学会会長を歴任。著書に『進化とは何だろうか』『私が進化生物学者になった理由』(以上、岩波書店)、『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社)、『クジャクの雄はなぜ美しい? 増補改訂版』(紀伊國屋書店)、『人間の由来(上・下)』(訳、講談社)、『進化的人間考』『ヒトの原点を考える』(以上、東京大学出版会)などがある。

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 9月28日 YAHOO!JAPANニュース PRESIDENT Online「なぜ欧米人は「日本人の多くは無神論者」に驚くのか…無神論者が世界中のどの宗教より危険視される理由
 「ためらいなく殺人や虐待を行う危険人物」というイメージ
 日本には特定の宗教への信仰を持たない「無神論者」が多い。だが、欧米ではこの言葉は極度に否定的なイメージでとらえられている。北海道大学大学院の岡本亮輔教授は「信仰を重視する欧米では、無神論者は反社会的でためらいなく殺人や虐待を行う危険人物とみなされる。日本とは言葉の意味がまったく異なってしまう」という――。
 「神は実在するか?」というアンケート写真=iStock.com/yurii_zym※写真はイメージです
 日本は世界トップクラスの無神論国家
 「あなたは神や仏の実在を信じていますか?」
 家の宗派や好みの寺社を尋ねているのではない。「この宇宙のどこかに神や仏と名指される実体が存在する」と信じているかを訊いているのだ。このとき、あなた自身はどのように答えるだろうか。
 実は、この質問は日本の宗教の特徴を考える上で重要な意味を持つ。ここでは無神論者に対するイメージを手がかりに考えてみよう。
 国際的には、日本は世界トップクラスの無神論国家とされる。さまざまな調査があるが、だいたい1位は中国で、日本はチェコスウェーデンと2位争いをしている。ラグビーでいえばティア1から外れることはない。2017年の調査では、日本の無神論者の割合は87%で世界2位だ。1位の中国(91%)とは僅差であり、3位のスウェーデン(78%)、4位のチェコ(76%)に10%前後の差をつけている。
 あなたの実感としてはいかがだろうか。中国では国策として宗教が規制されるし、チェコは旧共産圏だ。スウェーデンが含まれる北欧は、キリスト教会の衰退が世界一激しい地域である。日本はこうした国々と同じような宗教状況にあるのだろうか。
「信仰・実践・所属」の3要素から現代宗教をとらえる
 実際のところ、初詣となれば、全国で数千万人が正月に寺社を訪れる。葬儀といえば、相変わらず仏式が圧倒的な人気だ。2010年代以降は、パワースポットめぐりとして寺社参拝がより身近になった。お彼岸に墓参りをする人も多いだろう。結婚式の挙式の形態では人前式が神道式を上回るが、最も多いのは教会式(キリスト教式)で全体の6〜7割を占める。ちなみに、日本のキリスト教徒の割合は1%程度で超少数派である。無神論的というより、宗教混淆的といったほうが正確ではないだろうか。
 筆者は、現代宗教をとらえるには宗教を信仰・実践・所属の3要素に分解する視点が有効だと考えている。宗教は世界中に無数にある。天理教カトリックゾロアスター教も宗教と呼ばれるが、内実は大きく異なる。カーリングラグビーも同じスポーツに分類されるが、両者が根本的に異なるのと同じだ。スポーツというカテゴリーには、フィジカル重視、芸術性重視、技巧重視などさまざまな競技が含まれる。それと同じように、宗教というカテゴリーにも、信仰重視、実践重視、所属重視のものがある(『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』参照)。
 日本の宗教文化では圧倒的に信仰よりも実践重視
 この枠組みからいえば、日本の仏教や神道は圧倒的に実践重視だ。初詣や受験前の参拝客で、祭神に関わる由緒や教学に通じる人はほとんどいない。自分の家が代々曹洞宗寺院の檀家だんかだとして、『正法眼蔵』やそのエッセンスをまとめた『修証義』に日常的に親しんでいる人がどれほどいるだろうか。恐らく『修証義』の名前も知らない人が多いはずだ。
 これが日本の宗教文化の大きな特徴である。教義や教典のような信仰要素は、一般の信者にとってそれほど重要ではない。信じていなくても初詣や葬儀を実践する。あるいは、信仰と実践がリンクしていないといってもよい。だから結婚式だけは教会でも矛盾を感じない。信仰よりも実践が重視される傾向が強いのだ。つまり、信者(believer)という言葉が、そもそも日本の宗教文化に当てはまりにくいのである。
 だからこそ、日本は無神論者率ランキングで最上位グループに入る。こうした調査では「信仰を持っているかどうか」、つまり神仏のような超越的存在の実在を信じ、それをめぐる信念を持っているかどうかを尋ねる。信仰の有無を訊かれれば、多くの日本人は否定するしかない。しかし地獄や浄土の存在を確信していなくても先祖供養は続けるし、幽霊の実在を信じていなくても事故物件は避けるし、なんなら動物の供養もするのである。
 上野動物園の動物慰霊碑筆者撮影上野動物園の動物慰霊碑。最初は1931年に建立され、当初は実際に動物たちを碑の周りに埋葬していた。
 キリスト教の神は遺伝子まで操作する
 したがって、無神論者という言葉は、信仰重視の宗教にふさわしい概念である。神がこの世界に実体を持って存在するか否かを焦点とする言葉だ。キリスト教の言葉といえる。キリスト教には絶対の教典がある。言うまでもなく、聖書だ。キリスト教にもさまざまな宗派があり、相対的に実践重視のグループもある。しかし、聖書なしのキリスト教というのは考えにくい。聖書は神の言葉を記した書物であり、信者が内面化すべき信仰の源泉となる。
 キリスト教の神は世界に介入する全能神である。例えば次の2つの文章はアメリカの牧師リック・ウォレンの著書『人生を導く5つの目的 自分らしく生きるための42章』(パーパスドリブンジャパン/2015年)からの引用だ。世界で3000万部以上売り上げたというベストセラーである。
 神は、目的をもってあなたを造られました。ですから、あなたがいつ生まれ、どのくらい生きるのかについても決めておられるのです。神は、誕生と臨終の正確な日時を含めて、あなたの人生の日々を前もって計画されました。
 あなたの両親は、神の意図された「あなた」を組み立てるのにふさわしい遺伝的特質、すなわち神の意図されたDNAを持っていたということなのです。
 神の実在を否定する無神論者は危険人物とみなされる
 すさまじい全能ぶりであり、介入ぶりだ。あなたが事故や不治の病で死ぬのも神の意志である。あなたがどのような性格や外見や運動能力を持っているのかも神が決定する。日本の「お天道様に顔向けできない」「ご先祖様が見守ってくれる」といった漠然とした感覚とは大きく異なる。キリスト教の神は遺伝子まで操作するのだ。当然、実在していなくてはならない。
 だからこそ、無神論者という言葉が持つニュアンスも異なる。神仏の実在にこだわらない日本では、無神論者だとカミングアウトしてもほとんど波紋を起こさない。問い詰められればだいたいの人がそうであるし、それをわざわざ言うのは何か特別な事情でもあるのかと勘繰られる程度だ。
 しかし、キリスト教の文脈では異なる。無神論者は神の実在を否定する。つまり、この世界の全ては偶然であり、誰かが生まれて死ぬことに意味はなく、倫理道徳は幻想であり、善も悪も相対的なものでしかないと信じているのだと思われる。したがって、無神論者は反社会的であり、ためらいなく殺人や虐待を行う危険人物とみなされるのだ。
無神論者当人すら無神論者に負のイメージを抱いている
 もちろん、そんなわけはない。しかし、無神論者に対するまなざしは大変冷たい。アメリカでは、さまざまな宗教の信者と無神論者に対する感情温度が調査されている。感情温度とは、対象への親近感を最も冷たい0度から最も温かい100度までの温度で示したものだ。要するに、温かい気持ちを抱いているか、冷たい気持ちを抱いているかである。
 ユダヤ教徒カトリック教徒、主流派プロテスタント教徒といったマジョリティの宗教信者に対する気持ちは平均して温かく、60度を超える。仏教徒(57度)やヒンドゥー教徒(55度)がそれに続く。一方、無神論者はイスラム教徒と同じ49度で最下位だ。
 知人友人にその宗教の信者がいれば、親近感は多少増す。イスラム教徒の場合、知り合いにいれば53度に上昇するが、無神論者の場合、知り合いにいても51度だ。さらに、知り合いがいないと38度まで低下し、単独最下位なのである。
 要するに、「無神論者は不道徳で何をしでかすかわからない」という偏見があるのだ。連続殺人や動物虐待といった凶悪犯罪の犯人は直感的に無神論者だと思われてしまう。13カ国を対象とした調査があるが、宗教の影響力が強い国(UAEやインド)、宗教が規制される国(中国など)、宗教離れが進む国(オランダなど)の大半に、こうした偏見があることが分かっている(Gervais, W., Xygalatas, D., McKay, R. et al. “Global Evidence of Extreme Intuitive Moral Prejudice against Atheists”, Nature Human Behavior, 1, 2017.)。
 さらにすごいことに、この調査によれば、自分自身が無神論者である回答者でさえ、無神論者に同様の偏見を抱いているという。神を否定し、聖書のような倫理道徳の指針を持たない無神論者は何をしでかすかわからない――そうした負のイメージは根強く広がっているのである。
 「宗教信者よりもはるかにまともで賢い」新無神論者の反撃
 信仰を重視しない日本の宗教文化では「無神論者」はそこまで強い意味を持たないし、実際、日常的に使う言葉ではない。一方、キリスト教の文脈でも滅多に使われる言葉ではないが、それはあまりに否定的なイメージが強いからだ。無神論者は善悪の観念や共感能力を持たないサイコパスのように想像される。
 しかし、こうした状況を変えようとする動きもある。「無神論者にも倫理道徳はあるし、なんなら宗教信者よりもはるかにまともだ。無神論者こそが賢く、世界を正しく認識している」。そう主張し始めたのが、新無神論者と呼ばれる人々だ。そのリーダーがリチャード・ドーキンス(1941年〜)である。オックスフォード大学で長年教鞭をとった進化生物学者だ。彼の著書『神は妄想である 宗教との決別』(早川書房/2007年)は世界的ベストセラーになった。
 「神はサンタクロースやユニコーンと同じ」
 内容はタイトル通りである。神など古代人の妄想であり、現代人は宗教を捨てるべきだとドーキンスは主張する。
 岡本亮輔『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』(講談社選書メチエ)岡本亮輔『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』(講談社選書メチエ
彼に言わせれば、キリスト教の神も、サンタクロースやユニコーンや妖精と同じく、とても実在するようには思われない。全能の神がこの世界の全てを司る。そんな途方もない主張をしたいなら、途方もないエビデンスを出せ。証明する責任は信じる者にある。証拠がないなら、神が実在するかのように話すのはやめるべきだし、神の言葉を記した聖書も人間が作った古文書だと認めるべきだというのである。
 ドーキンスにすれば、そもそも「無神論者」という言葉が気に食わない。まともな大人であれば、サンタクロースもユニコーンも妖精も実在するとは思わない。だが、そうした人々をいちいち無サンタクロース論者、無ユニコーン論者、無妖精論者とは言わない。なぜ神についてだけ、無神論者という言葉があるのか。この言葉が、そもそも神の実在を前提にしているというのである。
 「宗教は尊い」というイメージを守ってきたのは誰か
さらにドーキンスたちが批判するのが、本当は神を信じていないのに信じているかのように振る舞う人々だ。自分自身は神の存在を感じられない。だが、信仰を持つのは良いことであると信じ、神の実在を確信する人を尊敬する人々のことを、新無神論者のひとりである科学哲学者ダニエル・デネットは「信仰の信仰者」と呼ぶ(『解明される宗教 進化論的アプローチ』青土社/2010年)。彼らこそが実は宗教信者のマジョリティであり、彼らが「宗教は尊く、無神論者は危ない」というイメージを守ってきたというのである。
 日本では、そもそも神の実在をめぐる論争が成立しにくい。「スサノオ阿弥陀が実在するエビデンスを出せ」と言っても、あまり反響はないだろう。「般若心経は非科学的だから読むのをやめるべきだ」と言っても「非科学的なのは当然だ」と受け流される(むしろ「般若心経と量子力学は同じ真理を語っていた」と言ったほうがインパクトがあるはずだ)。信仰を中心とした宗教文化とそうでない文化では、無神論者が持つ意味も大きく異なるのである。
 岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
 北海道大学大学院 教授
 1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)など。近刊に『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)、『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』(講談社選書メチエ)ほか。
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