☭22」─5・C─ソ連の侵略によって終戦の日から激烈化した“日本人避難計画”。~No.76  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ロシアが終戦記念日を8月15日から9月3日に変更しようとするのは、北方領土4島強奪と日本人難民(主に女性や子供)大虐殺を正当化しようとしているからである。
 それを知りながら賛成し協力する日本人がいる。
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 リベラル左派やエセ保守が学校現場でおこなっている歴史教育では、十万人の沖縄県民が戦場で戦闘に巻き込まれて死んだ悲劇の沖縄戦を教えても、数十万人の難民が戦闘が終わった戦場の後方で虐殺された悲惨な北方戦を教えない。
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 北方戦は、江戸時代後期からの長い歴史があった。
 北方戦の戦場は、北海道、北方領土4島・千島列島、南樺太で、ソ連は侵略者・侵略軍の戦争犯罪者であった。
 正統保守による尊皇攘夷の真の敵は、日本に対する、軍事侵略のロシア、イデオロギー侵略のソ連・国際共産主義勢力、宗教侵略の中世キリスト教であった。
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 2023年8月14日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「ソ連の侵攻、手渡される青酸カリ、定員の4倍を乗せて沈没も辞さず…終戦の日「から」激烈化した“日本人避難計画”
 鼠入 昌史
 〈 北の大地の“最果てのターミナル”「稚内」には何がある? 〉から続く
 日本最北端の町・稚内は、国境の町でもある。もちろん国境線を挟んで直接他国と接しているわけではない。ただ、宗谷海峡の向こうには、ロシア・サハリンがある。稚内の空が澄み渡る時期は秋口のほんのわずかな間だが、その頃には海の先にくっきりとサハリンが見える。稚内の町を歩いても、そこかしこにロシア語の案内標識が見られ、そこからも国境の町であることが感じられる。
 といっても、稚内がいまのように国境の町になったのは戦後になってからだ。それ以前、サハリンは樺太と呼ばれ、その南半分は日本の領土であった。
 江戸時代末期、1855年日露和親条約が結ばれたときには樺太を巡る国境線は決定されず、1867年からは樺太全土が日露両国による雑居地となる。わかりやすくいえば、日本人もロシア人もどちらも暮らす、両国の共同統治のバリエーションのひとつといっていい。
 そして1875年には樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太はいったん全島がまとめてロシア領になった。
 © 文春オンライン
 ロシア領だった「樺太」が日本になったのは…
 それから30年ばかりは樺太はロシア領、つまり稚内は国境の町となっていた。状況が変わったのは日露戦争だ。戦後のポーツマス条約によって、樺太の北緯50度以南が日本領になり、以後日本は南樺太樺太庁を置いて、樺太の統治を進めていくことになる。
 1922年には稚内に鉄道が到達するのだが、実は南樺太の鉄道はそれよりも早く開かれた。たとえば、南樺太の玄関口であった大泊(現在のコルサコフ)と最大都市の豊原(現在のユジノサハリンスク)の間の鉄道(樺太東線)は1906年に完成している。この樺太東線を中心に新規開業や延伸を繰り返し、戦前には樺太庁鉄道(のち樺太鉄道局)の路線は南樺太全域、682.6kmにまで広がっている。
 そんな新天地・南樺太と本土の連絡は、もちろん航路しかない。最初は小樽と大泊を結ぶ航路がほとんどだったが、稚内まで線路が延びたことで、1923年に稚泊連絡船が開業する。青函連絡船などと同じタイプの、すなわち鉄道連絡船稚内まで鉄道でやってきて、そのまま船に乗り継いで樺太に渡り、大泊からはまた樺太東線に乗り継ぐ……というルートが確立されたわけだ。
 連絡船を阻んだ冬季の流氷
 稚泊連絡船開設当初は1隻の船を用い、夏は2日に1往復、冬は1か月に6往復というダイヤが組まれていた。
 ただ、需要の増加や冬季の流氷への対応が求められるようになり、最終的には流氷を砕きながら進む砕氷船を導入。宗谷丸・亜庭丸の2隻体制で毎日運航も実現させている。稚内から大泊までの所要時間は約8時間。稚内港や大泊港の整備も進み、1923年には年間約7万人だった旅客数も1929年には約14万人にまで増えている。
 また、日本領になってすぐの1906年には1万2000人ほどだった南樺太の人口は、1944年には40万人を超えた。石炭産業や林業南樺太の主たる産業で、夢を抱いて新天地を目指す人々が絶えることなく稚泊連絡船で海を渡った時代だったのである。ちなみに、かの宮沢賢治も稚泊連絡船就航直後の1923年夏に南樺太を訪れている。
 1945年、“平和の島”に起こったこと
 1941年には太平洋戦争がはじまるが、それからもしばらくは稚泊連絡船や南樺太に大きな変化はなかった。南樺太ソ連と国境を接しているものの、日ソ中立条約があったために国境線を越えてソ連軍が侵攻してくることはないというのが大きかったのだろう。
 それでも、1942年秋以降、米軍がアリューシャン列島奪還作戦を進めるようになると、宗谷海峡付近にも米軍の潜水艦がたびたび現れるようになる。連絡船が運航休止を余儀なくされたこともいくどとなくあったという。1943年のアッツ島玉砕、キスカ島撤退などと戦局が展開すると米潜水艦の出没頻度も高まり、同年夏からは稚泊連絡船の運航時刻が軍事機密扱いになっている。
 このように危機感の高まりはあったものの、1945年に入っても南樺太には空襲もなく、いわば本土とはまったく違う“平和の島”としての印象を抱く人も少なくなかったようだ。それは何より日ソ中立条約という安全弁があったからだ。1945年4月にはソ連によって日ソ中立条約が破棄されるが、日本側はソ連が参戦するとは思ってもおらず、樺太における防衛体制も対アメリカ軍が中心になっていた。
 しかし、さすがに1945年の夏が近づくと状況は厳しくなってくる。米軍の本土上陸の公算も高まり、南樺太でも米軍上陸への備えが求められるようになる。また、制海権を喪失したことで米艦艇・潜水艦の宗谷海峡への出没頻度も増し、稚泊連絡船もたびたび沈没の危険にさらされる。
 1945年7月18日、大泊から稚内に向けて航行中の稚泊連絡船宗谷丸が敵潜水艦の魚雷攻撃に遭い、8本もの魚雷を発射されるもジグザク航行でかろうじてかわした、というできごともあった。そのとき、宗谷丸には約600人の乗客が乗っていたという。
 ただ、いずれにしてもたびたびの運航休止はあったものの、敵潜水艦の間隙を縫う形で、稚泊連絡船は運航を続けていたのである。
 始まった南樺太からの緊急輸送。逃げる人々を最後まで支えた“計画”
 そうしていよいよ大戦も最末期の1945年8月8日。南樺太と国境を接していたソ連が、いよいよ対日宣戦を布告する。そして翌8月9日にはソ連軍が侵攻を開始。南樺太でも、国境線に近い古屯からソ連軍との戦闘がはじまった。こうした中で行われたのが、南樺太の人々の引き揚げ、緊急疎開輸送である。
 実は、ソ連軍の侵攻以前から、樺太庁や軍部では非常時の住民輸送計画を検討していた。対ソ連ではなく対米を意識してのものだったようだが、実態としてはどちらも変わらない。その計画は、南樺太が戦場になるまでに老人や子ども、女性を北海道方面に疎開させるというものだ。
 実際にソ連侵攻がはじまり、この計画をまさに実行に移すことになる。樺太庁や陸軍第88師団が中心になって緊急疎開の方針が決定。僻遠地や戦地を優先し、15日間で16万人を北海道へ。南樺太内の鉄道をフル活用するのはもちろん、稚泊連絡船の宗谷丸を中心に周辺の船を貨物船・軍用船問わずに集結させての決死の疎開輸送計画であった。
 その第1便は8月13日。稚泊連絡船の宗谷丸が、大泊から稚内に向けて出港した。しかし、宗谷丸の定員790人に対し、乗客は700人にも満たなかった。その大半は樺太庁や88師団関係者の家族ばかり。まだ南樺太全体が戦場になっていたわけではなく緊張感が低かったこと、緊急疎開の方針が徹底されていなかったことが背景にあったようだ。
 また、まだ終戦前であり、いくら女性や子どもといった非戦闘員とはいえ、家を捨てて樺太を去ることに対して非国民とみる向きも少なからずあったという。そうした事情から、緊急疎開も序盤はまだまだ規模が小さかった。
 終戦の日“以降”に熾烈を極めていく輸送。すし詰めの疎開者たちの中には青酸カリを飲むように渡されたものも…
 とはいえ、ソ連の侵攻が拡大するとともに避難する人々は増えてゆく。8月15日に終戦を迎えると命を賭して樺太に残り、ソ連と戦う理由はない。
 民間の義勇団は解散となり、樺太庁の行政機関や軍などの一部を除いて、ほとんどの人が先を争って北海道を目指すようになる。つまり、本格的な樺太からの緊急疎開輸送は終戦の15日を境に本格化したというわけだ。ここからの疎開輸送はまさに熾烈を極めてゆく。
 樺太の鉄道は貨物輸送が中心で、お客を乗せる客車の類いは限られていた。そこで有蓋・無蓋とわず貨車を連結し、その中に疎開者をすし詰めにして運ぶことになった。大泊などに避難民を降ろすと、すぐに折り返してまた新たな避難民を乗せてまた走る、ダイヤも何もないようなピストン輸送だ。
 ほうほうのていで北海道・稚内にたどり着いても、そこから先のあてはない
 それでも列車に乗りきれず、徒歩や馬車、トラックで港を目指す人も列を成す。しかし、大泊をはじめとする船が出る港もそれほどの避難民を捌ききることができず、船を待つ人々で桟橋は埋め尽くされ、周辺の倉庫や空き家で空腹に耐えながら夜を明かす。
 ようやく船に乗れた人も、中には青酸カリを渡されていざというときにはそれを飲むように指示されたケースもあったようだ。
 稚泊連絡船宗谷丸をはじめとする船舶も、途中からは定員を遥かに上回る避難民を乗せている。もちろん客室には詰め込むだけ詰め込み、海軍の軍用船などにはマストの周りに至るまで鈴なりに。
 万が一のことがあっても樺太庁が責任を持つと、各船の船長を説得したことで実現した定員オーバー輸送だったというが、過積載で沈没してしまえば責任もへったくれもない。それに、宗谷海峡の航海は敵潜水艦からの攻撃の危険がある。まさしく苛烈を極める、決死の疎開輸送であった。
 ほうほうのていで北海道・稚内にたどり着いても、そこから先のあてはない。稚内の人々は旗を振って暖かく出迎え、食事などの世話もしたという。かつて稚内から新天地を目指して海を渡った人々が、命がけで逃げてくる。稚内の街中にも、たくさんの避難民が滞留して身動きの取れないありさまになった。稚内に上陸した人は、17日には5500人、18日には1万3000人に及んでいる。
 稚内にたどり着いた人々も、鉄道で運ばれた。どの町に向かうのかを聞く余裕などなく、とにかく列車に押し込んでは旭川・札幌方面に向けてひた走る。旭川で降ろすだけ降ろし、さらに札幌方面に向かいたい人が多ければそのまま札幌、札幌に着いても函館方面の人が多ければそのまま走る……という、その場の判断で大量の避難民を運んでいった。臨機応変といえば聞こえはいいが、とにかく誰もが必死だったのだろう。
 出港した最後の船。乗りきれなかった人々があふれ、涙を流して…
 反対に、稚内方面に向かう列車は緊急物資以外は乗せないことでスピードを上げ、一刻も早い稚内への到着を目指した。稚内からの列車も出発時間は決めず。避難民がいっぱいに乗ったらすぐに発車させるという、規則正しい鉄道の世界ではおよそ考えられない輸送態勢。こちらでも樺太同様に、客車ばかりでなく貨車にも人を詰め込んだという。かくのごとく、ほとんど避難民のためだけに最北端の列車は走り続けたのだ。
 すでにこのときには戦争は終わっていた。終戦直前に参戦したソ連軍との戦闘は散発的に続いており、樺太もそうした土地のひとつだった。8月15日を過ぎて、戦場になったかつての夢の新天地から逃げる人々と、その土地をまだ守ろうとする人々の、最後の戦いである。
 樺太において、ソ連との停戦協定は8月22日になってようやく締結される。それをもって、ソ連軍は輸送禁止を命令する。つまり、停戦協定以後は稚泊連絡船をはじめとする緊急疎開輸送も禁止、というわけだ。ただ、ソ連の「24日18時までは定期船の航行だけは認める」という言葉を信じ、23日の夜10時に宗谷丸ほか3隻が最後の輸送を行っている。宗谷丸の最後の航海には定員の4倍以上、3600人もの避難民が乗った。
 大泊の桟橋には最後の船に乗りきれなかった人々があふれ、涙を流して「早く迎えに来てくれ」と叫んだという。この最後の宗谷丸が稚内について、樺太からの引き揚げ緊急疎開輸送は幕を閉じる。そして同時に稚泊連絡船も1923年以来の歴史に終止符を打ったのである。
 「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
 この緊急疎開輸送で南樺太から避難した人は、大泊から約6万7600人、本斗など他の港から避難した人を含めれば、10万人近くが引き揚げたとされる。ただ、それでも樺太には30万人近くが取り残された。いったんは引き揚げたものの、縁もゆかりもなく、満足な食事もない北海道で暮らすよりはとまた樺太へと密航していった人もいたという。そうした人々はしばらくソ連の行政下に置かれたのち、1946年12月から本格的にはじまった戦後の引き揚げを待つことになった。
 また、緊急疎開輸送の最中では、稚内を経由して小樽方面に航行中の小笠原丸など3隻がソ連の潜水艦の攻撃を受けて留萌沖で沈没し、1700人以上が命を落とした。戦場となった樺太では、9人の女性電話交換手が避難せずに職場に留まり、最後は青酸カリを飲んで自決するという悲劇もあった(真岡郵便電信局事件)。そのほかにも、語られないような悲劇は枚挙にいとまがないだろう。
 稚内市街地の西の山。稚内公園として整備されているその山の中腹には、氷雪の門と名付けられた碑が置かれている。1963年、稚内樺太関係者によって建立されたもので、樺太でなくなった日本人のための慰霊碑である。
 中央には女性の像があり、それを挟むように両側には高さ8mの門が立つ。その間の遠く向こうには、南樺太、サハリンのしまなみがうっすらと浮かぶ。傍らには、真岡郵便電信局事件で命を落とした9人の女性の碑もある。
 彼女たちが最後に残したとされる、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉が刻まれている。最北端の町・稚内や、そこに通じる鉄道は、こうした歴史を胸に含み、いまも歴史を刻んでいるのである。
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