☭22」─5・D─ソ連侵攻78年、忘れられる樺太地上戦。「沖縄が唯一」は誤解。~No.76 ⑱ 

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 リベラル左派とエセ保守は、樺太地上戦と日本人(主に女性や子供)虐殺を歴史から抹消している。
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 2023年8月10日 YAHOO!JAPANニュース 北海道新聞旧ソ連侵攻78年 忘れられる樺太地上戦 「沖縄が唯一」誤解なお 高齢化の元住民「悲惨な史実伝えて」
 旧ソ連の対日参戦を巡る主な動き
 第2次世界大戦末期の旧ソ連による対日参戦から9日で78年が過ぎた。侵攻したソ連軍の攻撃で当時、日本領だった南樺太(現ロシア・サハリン南部)では、数千人もの住民が犠牲となった。だが松野博一官房長官が6月の記者会見で沖縄を「唯一の地上戦があった地域」と述べるなど、不正確な理解は今も続く。高齢化で数少なくなった当事者たちは「悲惨な歴史が忘れられてはいけない」と訴える。
 松野博一官房長官
 「商店街が燃え、跡形もなくなった」。樺太(現ロシア・サハリン)からの戦後引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟(2021年解散)の元会長で、豊原(現ユジノサハリンスク)出身の西本美嗣さん(86)=札幌市西区=は78年前の光景を鮮明に覚えている。
 旧ソ連は1945年(昭和20年)8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を無視して対日参戦した。旧満州(現中国東北地方)や千島列島へ侵攻し、樺太では北緯50度の国境線を越え、南樺太へ南下した。
 日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を発表してから1週間後の8月22日、当時8歳だった西本さんは3機のソ連軍機を目撃した。「偵察機かな」。直後に爆発音がとどろいた。ソ連軍の侵攻で、各地から緊急疎開した人たちが押し寄せていた豊原駅周辺に爆弾が落とされた。
 豊原空襲では100人以上が死亡。南樺太各地で日ソ両軍の交戦が繰り広げられ、住民の集団自決が相次いだ。正確な犠牲者数は今も不明だが、南樺太からの緊急疎開船3隻が留萌沖合でソ連軍の潜水艦に攻撃され、約1700人が死亡した「三船遭難事件」を含めれば5千人を超えるとの見方もある。
 だが、日本領だった南樺太で戦闘があったにもかかわらず、国内の地上戦について沖縄を「唯一」とする見解は戦後長く語られてきた。沖縄戦を説明するパンフレットなどのほか、国会質疑でも同様の表現が繰り返されてきた。
 旧民主党政権時代の10年5月、衆院沖縄北方問題特別委員会で、同党の山岡達丸氏(現立憲民主党)が、沖縄を国内唯一の地上戦とする表現は不適切だと指摘。前原誠司沖縄北方担当相(当時)が「多くの尊い命が失われたという意味においては樺太戦も同様」と述べ、政府は11日後、「沖縄本島、その周辺のみで地上戦が行われたとする認識は必ずしも正確ではない」との答弁書閣議決定した。
 この政府見解は現在も引き継がれているが、国会議事録によると、その後も閣僚や複数の与野党の議員が国会の質疑で少なくとも20回、沖縄が「唯一の地上戦」と発言。安倍晋三元首相(当時)も複数回の答弁で言及している。
 松野氏は6月22日の記者会見で「唯一の地上戦」として沖縄を挙げ、同日午後の会見で発言を訂正。「手元に資料がなく、正確性を欠く表現となってしまった」と釈明した。第2次大戦を巡っては、硫黄島(東京都小笠原村)や北千島の占守島(シュムシュ島)でも、上陸してきた米軍やソ連軍との戦闘で日本軍人らに犠牲者が出ている。
 西本さんは昨年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻のニュースを見るたび、故郷を追われた自身の記憶と重なりつらくなるという。戦後80年まで、あと2年。樺太侵攻がいまだ認知されていない現状に危機感を募らせ、「戦争の史実を伝える努力をしてこなかった政治の責任が大きい」と強調した。
■体験聞けるのはあと10年 どう継承 富田武・成蹊大名誉教授
 富田武・成蹊大名誉教授
 旧ソ連による南樺太侵攻などについて、成蹊大の富田武名誉教授(日ソ関係史)に聞いた。
 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約南樺太と千島列島を放棄した。一方、米軍施政下にあった沖縄では本土復帰運動が盛んになった。これが本土を巻き込む運動へと発展する中、沖縄戦が米軍基地問題と合わせて人々の間で語られてきた。沖縄戦に比べて南樺太侵攻が戦後ほとんど知られてこなかったのは、こうした背景の違いが一因と思われる。
 戦後の平和教育でも、教科書で南樺太に関する記述はごくわずかだ。原爆が投下された広島や長崎、そして沖縄のように、若い世代が修学旅行の一環で現地を訪れ、平和を学ぶ機会もなかった。国会議員も戦争を知らない世代に交代しており、平和教育を十分に受けてきたとは言いがたい。
 戦争を体験した当事者は、どんどん人数が減り今後10年が体験を聞ける最後の機会になるだろう。先の戦争の歴史を正しく理解するために、国や政治家だけでなく、私たちも記憶をどう継承していくか真剣に考える時が来ている。
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