☭40』─1─現代日本は「三船殉難事件」に冷淡であり関心がない。~No.78No.79 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は歴史力がなく、自分に都合が良い歴史や自分が信じたい歴史以外は、如何に真実の歴史であっても抹消している。
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 何故、現・ロシアが戦争終結日を9月2日にこだわるのかと言えば、国際法無視の非人道的虐殺行為という戦争犯罪を隠す為である。
 戦争犯罪は、北方領土4島の犯罪的不当占領だけではない。
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 日本国内で終戦日を8月15日から「9月2日」に定めようとしている日本人がいるが、その真意は「ソ連軍・ロシア人共産主義者による虐殺の隠蔽」に協力しているのである。
 戦争終結日を「9月2日」とする事は、犯罪者であるロシア人共産主義者の非人道的戦争犯罪を消し去る事になる。
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 2015年12月号 歴史街道ソ連潜水艦が襲った、女性、子供、老人満載の疎開船3隻の悲劇  相原秀起
 日ソ中立条約を破り、樺太の国境線からソ連軍が本格的な侵攻を開始したのは8月11日であった。
 一方、ウラジオストクから2隻の潜水艦が出撃、任務は『8月23日午後8時より敵軍艦の掃討と、敵軍艦出現の報告』であった。しかし潜水艦は22日未明より、緊急疎開船3隻を容赦なく襲う。
 3隻の緊急疎開船とソ連潜水艦
 昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎えても、日本領南樺太の占領を目論見むソ連軍は進撃を止めず、日本軍守備隊との間で戦闘が続いていた。日ソ中立条約を破り、北緯50度の日ソ国境からソ連が本格的な侵攻を始めたのは同11日。9日から攻撃を始めた満州の戦況を2日間確認してから、戦車を戦闘に南下を始めた。ソ連軍が上陸した西海岸の炭鉱地帯の塔路(とうろ)や恵須取(えすとる)の周辺では、逃げ切れないと悲観して一家心中を図ったり、豊原(ユジノサハリンスク)までの鉄道が通じる東海岸の内路(ないろ)までの避難の途中、歩けない幼児や老人を捨てたり、谷底に突き落となど数々の悲劇が起きた。
 樺太庁は、米軍上陸時に備えてひそかに策定していた住民疎開計画を転用し、児童や女性、高齢者の北海道への緊急疎開を13日から始めた。日本軍守備隊が頑強に抵抗して時間を稼ぐ間に、多くの邦人が避難。北海道稚内(わっかない)の対岸に位置し、南樺太の玄関口だった大泊(おおどまり、コルサコフ)を目指した。同港は疎開船を待つ避難民であふれた。20日になってソ連軍は、西海岸の真岡(ホルムスク)に上陸。さらに大泊へ侵攻してくる可能性が強かった。
 このため、疎開船となった逓信省海底線敷設船『小笠原丸』(1,397トン)は予定を前倒し、20日午後11時45分、鈴なりの避難民約1,500人を乗せて大泊港を出港した。その中には後に昭和の大横綱大鵬(たいほう)となる納谷幸喜ときょうだい、母キヨが乗り込んでいた。幸喜は5歳だった。一家は小樽まで乗船する予定だったが、キヨの船酔いがひどく稚内で下船。この偶然が大鵬の運命を変えた。
 海軍の特設砲艦『第二新興丸』(2,500トン)も翌21日午前9時、約3,600人を乗せて大泊港の桟橋を離岸。その2時間後に東洋海運所有の『泰東丸』(880トン)も780人が乗り込み、同港を離れた。
 一方、ソ連共産党書記長のスターリン終戦翌日の16日、米大統領トルーマンに対して、ヤルタ会談での合意事項に加え、『留萌(るもい)──釧路以北の北海道北部をソ連軍への降伏地域に含めるように』と要求。仮に認められれば、北海道全域の占領も窺う構えだった。
 ヨーロッパの戦後処理をめぐり、米ソ対立は次第に鮮明となり、ソ連にとっては対米戦略上、極東の橋頭堡となりうる北海道の軍事、政治的な価値は図り知れなかった。
 ソ連軍は北海道占領の第一歩となる留萌上陸作戦を、同24日未明に予定していた。作戦支援のため、同19日正午前、ウラジオストクソ連太平洋艦隊潜水艦部隊に所属する潜水艦L12とL19に緊急の出撃命令が下された。ともに『レニネッツ級』と呼ばれた当時の主力潜水艦で、排水量1,124トン(浮上時)、魚雷発射菅6門を装備していた。同艦隊には78隻の潜水艦があったが、L12は千島列島や北海道周辺で偵察の実績があり、L19は魚雷発射訓練で部隊一の成績を上げていた。『最優秀』とされたL12のツェルガンツェフ、L19のコノニェンコの両艦長の胸には、歴史的な北海道上陸作戦の先陣を切る高揚感が漲(みなぎ)っていたろう。両艦は19日午後7時10分、基地の岸壁を離れた。
 筆者が入手したソ連太平洋艦隊の機密文書によると、指令は次のようなものだった。
 『8月23日午後8時(日本時間)までは、留萌港北方の航路と港を偵察、午後8時からは敵軍艦の掃討と、敵軍艦出現の報告』
 つまり上陸作戦前日の23日午後8時以降は、日本の軍艦を見つけ次第攻撃せよ、という内容だった。ソ連軍は日本軍が抵抗を続ける樺太への逆上陸作戦も恐れていた。
 女性、子供、老人に情け容赦なく
 2隻は21日午後2時半ごろ留萌沖に到達し、海中に潜(ひそ)んだ。L12は留萌港周辺や灯台の偵察を行い、ウラジオの艦隊本部に報告した。L19も22日午前2時すぎ、『敵(日本)は偵察態勢にはなく、機雷も見当たらない』と無線連絡を入れた。同時刻、小笠原丸など疎開船3船が小樽を目指して留萌沖を通過しつつあった。
 L12が『敵輸送船』の航海灯を発見したのは22日午前3時59分。小笠原丸(避難民の約半数は稚内で下船、702人が乗船)で、航海灯の点灯は米軍の指示だった。
 発見からわずか3分後、艦長のツェルガンツェフは魚雷攻撃を命じた。本来の『攻撃開始時刻』より1日以上も前で、しかも小笠原丸輸送船ではなく緊急疎開船だった。放たれた6本の魚雷のうち、一本が船腹に突き刺さった。1分半後、小笠原丸は留萌管内増毛町別苅沖で沈没した。浮上したL12は助けを求める人々に情け容赦ない機銃掃射でこたえ、641人が死んだ。
 L12の攻撃に触発されるように、同日午前5時半ごろ、L19が第二新興丸を魚雷攻撃、一本が機関室隣の船倉に命中した。甲板には片腕を吹き飛ばされた男性や手足を失った子ども、顔半分が無残になくなり、血の海の中で息絶えた若い女性もいた。L19は浮上し、艦載砲でとどめを刺そうとした。第二新興丸は船首と船尾に計二門の12センチ旋回砲と14丁の機銃を装備しており、激しく交戦が始まった。L19は海中に消え、第二新興丸はよろめくように留萌港にたどり着いた。死者・行方不明者約400人。
 L19は約5時間後、今度は泰東丸を襲撃した。泰東丸の乗務員は白旗代わりに白いシーツを必死に振ったが、浮上したL19は容赦なく艦載砲を浴びせて撃沈。667人が犠牲となった。コノニェンコは22日午後10時半、艦隊本部に『輸送船(泰東丸)撃沈。一隻(第二新興丸)が損傷を負い、留萌港へ』と報告した。
 同じ22日、北海道北部占領の要求を米大統領トルーマンに拒否されたスターリンは、同作戦の中止を決定。樺太占守島の日本軍守備隊の抵抗で作戦の準備が遅れたことも影響したとみられる。この時点で、2隻とは別にL11、L18の2隻の潜水艦が、それぞれ60人の海兵隊員と大砲を載せてウラジオから留萌へ向かっていた。2隻は上陸部隊本体に先立ち、留萌周辺に上陸してゲリラ戦を展開、日本軍を混乱させる目的だった。北海道上陸作戦は、実施の一歩手前まで進められていた。仮に作戦が行われていれば、北海道は沖縄のような凄惨な地上戦の舞台となり、日本が朝鮮半島のような『分断国家』となる恐れも十分にあった。3船の悲劇はさらなる大きな悲劇の序章となったかもしれない。
 同艦隊本部は作戦の中止を受けて、22日午後11時58分、北海道や樺太沖に展開する各潜水艦に、『日本の輸送船を沈めないように』と命令したが、小笠原丸と泰東丸はすでに撃沈され、第二新興丸も大破し、死者・行方不明者計1,708人という歴史に残る悲惨な事件は一部始終を終えていた。
 歪められ、誇張された『英雄』
 L19は樺太アニワ湾への転戦を命じられ、留萌沖を離れて北上するが、23日午後の北海道礼文島沖からの連絡を最後に消息を絶った。宗谷海峡で沈没したとみられる。同海峡に敷設した日本軍の機雷に触れて沈没したとも、低気圧の暴風によって転覆した説などがあるが、真相はいまも不明のままだ。
 ウラジオの太平洋艦隊本部前には、同時代の潜水艦C56が潜水艦博物館として一般公開され、艦隊の歴代艦艇や艦長らの写真が展示されている。この中にL19艦長コノニェンコ少佐と長女ガリーナの写真があった。留萌に出撃する1ヶ月前の1945年7月撮影。L19は第二次世界大戦ソ連太平洋艦隊が失った唯一の大型艦艇で、いまでも少佐は日本軍との戦闘で戦死した『英雄』である。
 L21は、8月27日まで留萌沖に潜み、その後、ウラジオへ帰投した。太平洋艦隊のユマシェフ司令官らがL21を出迎え、『戦果』をたたえた。潜水艦博物館には、L21が帰港した際の写真もあった。ツェルガンツェフは誇らしげに笑み、武勲の勲章とスターリン最高司令官の表彰状が授与された。
 2隻が出撃したウラジオのウリッス湾基地は、数年前までロシア太平洋艦隊潜水艦部隊が使用し、埠頭にはL19の艦橋を模した慰霊碑が建てられていた。碑の裏には『日本の軍国主義者と戦った英雄へ』と刻まれていた。同湾資料室に保管されていたコノニェンコの経歴には『帝国主義日本との戦争で、L19は北海道留萌沖で戦闘態勢を取り、敵の軍事機械と兵士、乗務員を乗せた8,000トンの輸送船を撃沈、1万8,000トンの別の輸送船を大破させた』とあった。長い冷戦の過程で、英雄化が進み、事実が歪められ、誇張されていた。
 筆者は2004年に3船遭難事件を現地で取材した際、ロシア太平洋艦隊に取材を申し込んだが許されなかった。事件の真相を追った筆者の北海道新聞の連載記事は、ロシア語訳されて、ウラジオの地元紙ウラジオストク新聞に全文掲載されたが、同艦隊の反応はなかった。いまさら『英雄』の真実を突きつけられても当惑するしかなかったのどろう。
 3船遭難事件はもちろん、50万人以上の日本の将兵をシベリアに連行し、多数の犠牲者を出したシベリア抑留、千島列島や北方領土の歴史的な経緯を知るロシア人はいまも非常に少ない。日本とロシアの間には歴史認識の深い断層が横たわっている」
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 WEB歴史海道
 三船殉難事件〜忘れてはならない終戦後の悲劇
 今日は何の日 昭和20年8月22日
 小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸。三船殉難事件
 昭和20年(1945)8月22日、すなわち日本が連合国軍に対して降伏を表明した8月15日から一週間後、三船殉難事件が発生しました。日本人としては忘れてはならない事件です。
 この日、北海道留萌沖で、樺太からの引揚者(老幼婦女子中心)を乗せた3隻の引揚船が、ソ連の潜水艦に攻撃され、2隻が沈没し、1,708人以上もの人々が犠牲となりました。8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ伝達、翌日には各軍へ停戦命令の布告と武装解除を行ないました。これを受けて連合国のアメリカ、イギリスは即座に戦闘行為を停止しましたが、それをまったく無視したのが、8月9日に不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連です。十数万もの大軍で満洲に雪崩れ込んだ上、武器を持たない一般人相手に殺戮、暴行、略奪の限りを尽くしたことはよく知られます。
 ソ連軍は同時に、北方の樺太、北千島にも攻め込みました。ソ連の狙いは軍事的混乱の中で北海道にまで侵攻し、これを我が物として連合国に認めさせることであったとされます。まさに火事場泥棒的な行為というより他ありません。この状況に日本政府は、樺太の港に船を集め、人々の引揚げを促しました。数万の人々が港に押し寄せる中、大津敏男樺太庁長官の判断で、高齢者・女性・子供を優先することにし、大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の3隻の引揚船に分乗させ樺太を脱出、北海道を目指します。
 まず小笠原丸(1,400t)には約1,500人が乗船し、大泊から稚内に到達しました。そこで約半数が下船し、約700人を乗せて小樽に向かう途中、8月22日の午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を受けて、撃沈されます。乗員乗客638名が死亡、生存者は僅か62名でした。なお浮上した潜水艦は、無抵抗の人々に銃撃を加えています。
 続いて午前5時13分頃、大泊から約3,600人を乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸(2,700t)が、留萌北西沖に差し掛かったところ、突然に魚雷攻撃を受けました。同船は回避を試みますが、右舷に一発命中します。その直後、二隻の潜水艦が浮上し、銃撃を加えてきました。しかし第二号新興丸は単なる輸送船ではなく、12cm単装砲2門、25mm機銃を連装4基、単装6基を備えた特設砲艦でした。攻撃を加えてくる潜水艦に対し、民間人の協力を得て反撃します。第二号新興丸の攻撃により、潜水艦一隻が被弾し、潜航したものの大量の油が海面に浮いたといわれます。反撃と、通報によって飛来した日本軍の水上偵察機の掩護もあって、潜水艦はそれ以上の攻撃はせず、第二号新興丸は留萌港にたどり着くことができました。 しかし、第二号新興丸の犠牲者数は死者・行方不明者は400余人とされ、遺体が確認できただけで298人であったともいわれます。
 そして午前9時52分頃、約780人を乗せて大泊から小樽に向かっていた泰東丸(880t)が、留萌小平町沖西方25Kmの海上で、浮上した潜水艦の砲撃を受けました。 一発被弾すると、泰東丸の船員たちは白いシーツを掲げ、潜水艦から見えるように大きく振ります。「降伏」を意味する白旗でした。ところが潜水艦は、これを全く無視して砲撃を続けました。武装していない貨物船の泰東丸は、なす術もなく標的とされます。 やがて泰東丸は10数発を被弾して、船体が大きく傾き、船内は血まみれの死体や重傷者が折り重なりました。重傷を負っていない者は海に飛び込み、脱出を図ります。やがて泰東丸は左舷を下に海中に没しました。667名が死亡したとされます。
 事態を知った沿岸の漁師たちは「こんなことが許されてたまるか」と、潜水艦の攻撃を受ける恐れがあるにもかかわらず、海に船を出して救助にあたり、遺体を回収して弔いました。これらの事件を引き起こした潜水艦は、公には「国籍不明」とされています。しかし、米英軍が戦闘を停止している中、この海域で作戦活動をしていたのが、ソ連海軍第一潜水艦隊所属のL-19とL-12であったことが、ソ連の記録から判明しています。しかもウラジオストクに帰還したL-12のコノネンコ艦長は、ソ連で英雄扱いを受けました。一方、L-19は行方不明・未帰還となっており、第二号新興丸の攻撃で損傷したことが原因である可能性もあります。停戦意思を通達している国の船舶に対しての一方的な攻撃・撃沈、また白旗提示を行なった船舶への攻撃は、国際法及び戦時国際法に明らかに違反する行為です。しかし、ロシア政府はいまだにこの事実を認めようとはしません。
 終戦後、1,708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、まず日本人として記憶に留めるべきことです。そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。 犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が学ぶべきことは多いと感じます。
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 2020年11月号 正論「『三船殉難事件』を告発する
 埋もれたソ連戦争犯罪
 早坂隆
 埋もれた悲劇
 膨大な昭和史の堆積の中に『三船殉難事件』と呼ばれる痛恨の惨劇が存在することをご存じだろうか。
 『三船』とは小笠原丸、第2号新興丸、泰東丸という3隻の引き揚げ船を表している。この事件は後世に語り継ぐべき極めて重大な史実であるにもかかわず、現在の知名度は残念ながら低い。そこで本稿では史実として同事件の実態に迫った上で、その問題点について告発したい。
 事件は樺太から始まる。
 戦前、樺太は北緯50度の国境線を隔てて、北半分がソ連領、南半分が日本領と定められていた。これは日露戦争に締結されたポーツマス条約の決定によるものである。
 南樺太に住む日本人は約40万人にもおよび、その中心都市である豊原には近代的な街並みが広がっていた。産業としては石炭業や製紙業が盛んであった。
 そんな南樺太は、昭和20年に入っても大規模な空襲に見舞われることなく、食糧や物資は内地の都市部より豊富であった。
 そんな状況が一変するのは、8月9日が日ソ中立条約を一方的に破棄し、11日に南樺太の占領作戦を実行に移してからである。樺太の南北を隔てる国境線付近では、激しい地上戦が勃発。しかし、日本軍守備隊の必死の応戦により、ソ連軍の侵攻はかなり食い止められた。交戦状態のまま、15日の終戦を迎えた。
 ところが、樺太における戦争は終わらなかった。日本周辺のアメリカ軍は主だった戦闘行為を停止したが、ソ連軍は侵攻の手を止めなかったのである。翌16日以降、ソ連軍による南樺太各地への空襲が始まり、新たな上陸軍が次々と投入された。進攻するソ連軍の兵士たちは各地で殺戮、略奪、強姦などを繰り返した。
 20日には『真岡郵便通信事件』が起きている。ソ連軍の侵入を許した真岡町において、同町の郵便局に勤める10名の女性電話交換手が自決を図り、9名が死亡した集団自決事件である。彼女たちはソ連兵による凌辱よりも死を選んだのだった。彼女たちは最期、本土に向けて、
 『皆さんこれが最後です。さようなら、さよなら』
 とのメッセージを言われている。
 樺太は血に染められた。女性や子どもを含む多くの民間人が、不条理な暴力の犠牲となった。ソ連の最高指導者であるスターリンは、南樺太を占領した上で北海道まで侵攻するつもりであった。スターリンは釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する構想を有していたのである。
 悲劇1『小笠原丸』の事例
 ソ連軍の侵攻を受けて南樺太では、すでに終戦前の8月13日に南部の大泊(おおどまり)港から北海道への疎開船を出航させていた。しかし、戦争終結後もソ連軍による攻撃が続いたために、日本側はさらなる引き揚げ船の運航に迫られた。そんな中、樺太庁長官である大津敏男は、高齢者や女性、子どもを優先して引揚げさせる決断を下した。
 大泊港樺太各地から着の身着のままの状態で避難してきた人々であふれ返った。引き揚げ船は休む間もなく、北海道最北端の稚内との間を往復した。
 ……
 20日の午後11時45分頃、引き揚げ船の一隻である『小笠原丸』が大泊港を出港。
 ……
 なんと潜水艦が浮上して、海面に姿を現したのである。
 そしてその黒々とした潜水艦は、あろうことか漂流する人々に対して銃撃を加えたのであった。無抵抗の民間人に対する無差別攻撃だった。
 当時は『国籍不明の潜水艦からの攻撃』とされた。しかし、今ではその正体が『ソ連軍の潜水艦』であったことが判明している。
 〈戦争は終わったのでは?〉
 痛切な疑念や無念の渦の中で、多くの人々が命を散らした。
 結局、小笠原丸で発生した犠牲者の数は、600人以上に及んだとされる。
 これが『三船殉難事件』の始まりだった。
 悲劇2『第2号新興丸』の事例
 ……
 しかしまもなく、2隻(3隻という説も有)の潜水艦が海上に浮上。第2号新興丸を追尾しながら、激しく銃撃を加えてきた。この機銃掃射により、甲板上にいた人々は次々となぎ倒された。
 ……
 このような攻撃に対し、単装砲や機銃を備えた特設砲艦である第2号新興丸は、船体を傾けつつも反撃を開始。……
 この反撃の結果、1隻の潜水艦の正面に大きな水柱が上がった。
 ……
 それでも、その直後にそれら潜水艦が再び海中に潜行したのは事実であった。
 ……
 この第2号新興丸では、約400名もの人々が犠牲になったとされる。
 悲劇3『泰東丸』の事例
 ……
 船長の貫井慶二は、すぐにエンジンの停止を機関室に命令。さらに、白いシーツやテーブルクロスを『白旗』として掲げ、船として戦う気がないことを明確に示した。
 ……
 白旗を提示した船舶への攻撃は、国際法で禁じられている。しかも、戦争自体はすでに終結しているはずであった。
 しかしながら、潜水艦からの砲撃は継続された。そしてついに、1発の砲弾が泰東丸の船腹に直撃。船体は大きな衝撃に包まれ、破壊されたボイラーから蒸気が一挙に吹き上がった。
 その後、延べ十数発もの砲弾や機銃掃射が泰東丸に打ち込まれた。全く無抵抗の船への攻撃は一向に終わらなかった。貫井船長は『全員退船』の命を発したが、甲板は人々の血潮で紅く染まった。乗客たちは意を決して海に飛び込んだ。潜水艦はやがて姿を消した。
 ……
 その後、漂流する生存者を救出したのは、たまたま近くを通りかかった機雷敷設艇『石埼』だった。石埼の乗組員たちは、一人でも多くの人命を助けようと懸命の救助活動にあたった。
 泰東丸における犠牲者の数は、667名とされている。
 ……
 約1,700人もの犠牲者
 以上が留萌沖で起きた『三船殉難事件』という『大量虐殺事件』の実態である。
 このような事件の発生を知った地元の漁師たちの中には、
 『こんなことが許されてたまるか』
 と船を出して、漂流者の救助にあたった者たちもいた。自身が攻撃される危険も考えられたが、
 〈放っておけない〉
 との思いからの決断だった。漁師たちは遺体の回収も行ったが、その中には、我が子を抱きかかえながら死後硬直を起こしている母親の姿もあったという。
 これら3船の殉難事件により、実に約1,700人もの人々が犠牲となった。
 改めて記すが、これは終戦後の話であり、しかも船はいずれも民間人を乗せた引き揚げ船であった。
 事件発生の報は、札幌の第五方面軍司令部に伝えられた。当時の第5方面軍司令官は、樋口希一郎中将である。
 樋口と言えば、昭和13年に満州で多くのユダヤ難民を救出した『オトポール事件』や、終戦後のソ連軍の侵攻を食い止めて北海道を分割統治から救った『占守島(しゅむしゅとう)の戦い』で知られた名将である。占守島における最終的な停戦が成立した後、樋口は引き揚げ船に起きた惨状を知ったのだった。
 樋口はすぐに事件の詳細に関する徹底的な調査を命令。さらに大本営に事件の発生を伝え、連合軍側を通じてソ連に『戦闘停止』を求めるよう要請した。樋口からの要請を受けた大本営は、フィリピンのマッカーサー司令部に状況を伝えた。しかし、フィリピンからの返答はなかった。
 潜水艦の正体
 戦後の日本社会において、この事件の存在が十分に継承されることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。
 昭和37年、留萌市の海を見渡す丘の上に『樺太引揚三船殉難者慰霊之碑』が建立されたが、これは地元の人々や引き揚げ団体の募金活動によって建てられたものである。
 昭和42年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、ずさんな作業と言わざるを得ない内容だった。
 昭和49年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が捜索にあたったが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54年を最後に厚生省はこの計画を断念した。
 その後に独自の捜索を続けたのは、樺太からの引き揚げ者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。
 昭和56年には、地元の漁師が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き上げられていない。
 総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き上げ作業、ソ連への講義など、いずれも不十分と言わざるを得ない。歴代政府は、ソ連への抗議どころか、潜水艦を『国籍不明』と位置付け、曖昧な姿勢を取り続けてきた。
 しかし、平成4年には秦郁彦植大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものであったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクソ連海軍所属の『L-12』ならびに『L-19』であると確認されたのである。
 国会における政府答弁
 平成30年3月29日、第196回国会において、この『三船殉難事件』に関する質問主意書立憲民主党逢坂誠二氏により提出された(質問第186号)。質問の『一』は、以下の通りである。
 〈本事件について、これまでソ連政府およびロシア政府に事実の照会を行ったことはあるのか。あるとすれば、どのレベルの担当者間で、あるいは、どの程度の回数であるのか。政府の見解如何〉
 これに対する政府の答弁は、次のようなものであった。
 〈外交上の個別のやり取りの詳細について明らかにすることは、相手国との信頼関係を損ねるおそれがあるから、お答えすることは差し控えたい〉
 いわゆる『ゼロ回答』である。また、質問『四』では、こう問われている。
 〈本事件は、ソ連太平洋艦隊所属の潜水艦による攻撃であるとの理解でよいか。政府の見解如何〉
 この質問は事件の核心を整理するために必要な内容であったが、政府の答弁は同じく煮え切らないものだった。
 〈お尋ねについては、事実関係を直接確認する手段がないことから、お答えすることは困難である〉
 質問書の最後である『六』にはこうある。
 〈本事件の関係者は高齢化しており、残された時間は少ない。安倍総理は5月にプーチン大統領と会談するのであれば、ロシア政府に本事件についての事実の照会を行い、あるいは謝罪を求め、その回答を得るべきではないか。政府の見解如何〉
 政府の答弁書は以下の通り。
 〈お尋ねの会談の詳細については、現在調査中であり、その内容について予断をもってお答えすることは差し控えたい〉
 外交上の交渉内容に関してそのすべてを公表できないのは当然のことであるとしても、総じて政府の答弁は言葉を濁した消極的なものであり、国民の納得の得られる内容とは到底言えない。それどころか、政府の対応はロシア側に正式な謝罪を求めることを避けているように映る。実際、ロシア側からの謝罪などは一切得られていない。
 しかし、『三船殉難事件』という史実は、国際法違反の大量虐殺事件に相当する重大な事案であって、決して看過できるような案件ではない。これだけの規模の事件をこのまま放置しておいて本当に良いのだろうか。遺族会は今もロシア政府に対して『事実を認めた上での謝罪』を求めている。
 ロシアは近年、『対日勝利』を強調する歴史認識を国内外に広めようとしている。ロシア国防省は本年、新たなウェブサイトを立ち上げ、日本軍を『蛮行』という表現を使って断罪。旧ソ連軍を『解放軍』と表し、対日参戦を正当化した。
 抑留や北方領土の問題も含め、日本はソ連が犯した国際法違反に対してあまり甘すぎる。ロシアはそれに乗じて歴史を自国に都合よく書き換えている。
 だが、戦後75年という長い年月が流れたとしても、日本は国家における当然の権利といて、反論すべき点は反論し、事実に基ずいた上でソ連の犯罪行為を厳しく追及していく必要があるのでないだろうか。
 ちなみち、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で『英雄』とされ、今にいたっている。」
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 政治家・官僚そしてメディア・報道機関などの高学歴出身知的エリートは、ソ連軍・ロシア人共産主義者によって虐殺された日本人(大半が女性や子供)の犠牲者に対して冷淡である。
 保守派・リベラル派・革新派に関係なく、発言と行動は裏腹で、いざとなれば彼らは自分の利益の為なら国家も国民も見捨てる危険性がある。
   ・   ・   ・   
 中国・朝鮮・ソ連(ロシア)は、血に飢えた非人間的火事場泥棒であった。
 日本人共産主義者は、反戦平和主義を標榜し、日本を共産主義国家に大改造する為に、昭和天皇を惨殺し男系天皇制度を打倒し血筋を正統とする天皇家・皇室を消滅さるべく3カ国に協力し、日本軍と戦い、日本人を助けず殺して生き抜いた。
 共産主義者は、血を好み、殺戮を楽しんでいた。
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 人類の歴史では、勝者で大虐殺を行った者は英雄とされた。
 大陸史では、戦勝国には敗者への生殺与奪の権と敗戦国に対する戦争終結の選択権を認めている。
 世界史において、敗戦国には一切の権利はないとされ、敗者が白旗を掲げ降伏することを示しても認められないこともあった。
 歴史の教訓では、武器を取って戦わず話し合いで助かろうとする弱者には生きる資格はなかった。
 こうした事例は、ソ連中国共産党などの共産主義陣営に多く見られた。
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 国連は、ソ連を拒否権を持った常任理事国議席を与えた。
 ロシアは、アメリカが認めたヤルタ会議を正当根拠として日本領北方領土4島を暴力でで強奪し、武力で不法占拠を続けている。
 アメリカはもちろん世界で、日本に同情し味方をしてくれる国は1カ国も存在せず、逆に中国共産党政府や韓国・北朝鮮はロシアに協力している。
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 シベリア出兵時。日本人軍国主義者は、赤軍に殺されかけたロシア人避難学童達を助け、無償でヨーロッパ・ロシア領まで輸送船で送り届けていた。
 尼港事件。ロシア人パルチザン朝鮮人独立派・中国人暴徒は、ニコライエフスク港で、ロシア人住民数千人と日本軍守備隊及び日本人居留民約700人を虐殺した。
 日本陸軍は、赤軍に殺されかけたポーランド人戦争孤児やユダヤ人達を自己犠牲で助けた。
 ロシア人が日本人非戦闘員(女性や子供)を助けられたという美談は一つもない。
 ロシア人は、ロシア人避難学童を助けた日本人軍国主義者に感謝の一言もない。
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 現代日本歴史教育は、日本人は可哀想な被害者ではなく血に飢えた残虐な加害者であった事を強調するべく、非人道的戦争犯罪者という烙印を昭和天皇A級戦犯達・軍部・陸軍に押し付ける為に自己犠牲で行った歴史的人道貢献をもみ消している。
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 現代日本人権派反戦平和団体は、樺太の悲劇は、置き去りにされ捨てられた朝鮮人出稼ぎ労働者として、ロシア人共産主義者によつて虐殺された日本人非戦闘員(女性や子供)を切り捨てた。
 つまり、虐殺された罪な規日本人非戦闘員(女性や子供)は侵略者である軍国主義者の片割れであると唾棄した。
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 ソ連軍は、アメリカの対日戦参戦要請を受けて、国際法を無視し、日ソ中立条約を破棄して進撃を開始したが、南樺太や千島列島・占守島で少数の日本軍守備隊の猛反撃を受けて甚大な被害を出し、計画通りの快進撃ができなかった。
 アメリカは、ヤルタ会議で、ソ連に日本領土である北海道の半分、北方領土4島、南樺太、千島列島を武力で強奪し暴力的に領有する事を認めた。
 ソ連軍は、ドイツ軍に勝てても日本軍に勝った事がない。
 ロシアの抱えるルサンチマンは、日本軍に勝てなかったという負い目である。
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 ソ連海軍潜水艦は、戦時国際法を無視して、樺太からの引揚者を乗せた民間輸送船を潜水艦が撃沈し、漂流している女性や子供をアザラシの様に射殺した。
 満州南樺太などで、多くの逃げ惑う日本人避難民(女性や子供)達がロシア人共産主義者によって虐殺された。
 共産主義者は、至る所で虐殺を行っていた。
 アメリカなど連合国(国連)も、ソ連戦勝国特権事項として、ロシア人共産主義者による日本人の女性や子供に対する虐殺行為は非人道的犯罪とは認めなかった。
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慟哭の海峡

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