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関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ソ連軍・ロシア人共産主義者は戦勝国の権利として、逃げ惑う日本人難民(女性や子供)を虐殺し、北方領土4島を強奪した。
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キリスト教系朝鮮人テロリストは、日本人共産主義テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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ウィキペディア
上敷香事件とは、1945年8月18日(もしくは17日)に南樺太の敷香郡敷香町上敷香 (ポロナイスク市管区レオニードヴォ)で起こったとされる朝鮮人虐殺事件のこと。上敷香虐殺事件、上敷香警察署虐殺事件とも。
事件の経緯
1945年8月17日あるいは8月16日、上敷香で19人の朝鮮人が「ソ連のスパイの疑いがある」という理由で警察署に連行され、うち18人が翌8月18日(あるいは8月17日)警察署内で射殺された。警察署の便所の汲み取り口から必死に逃げだした日本名中田という朝鮮人が、これを証言した。
ただし、上敷香には、8月16日に義勇戦闘隊も含めた総員避難命令が出され、翌17日朝には日本軍のトラックによって残留していた全住民が南の敷香へと移されている。住民の避難後、約2500戸からなる上敷香市街には火が放たれ、さらにソ連軍機20機の空襲があって全焼している。
その後
1991年8月、虐殺事件被害者の遺族によって、日本政府を相手取って損害賠償請求の提訴がなされたが、1995年7月27日、東京地方裁判所は時効を理由に訴えを棄却した。
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瑞穂事件とは、1945年8月20日から8月23日にかけて南樺太の真岡郡清水村瑞穂 (ホルムスク市管区パジャルスコエ)で起こった朝鮮人虐殺事件のこと。戦後、ソ連により捜査が行われ、殺害に関与した日本人が有罪判決を受けた。瑞穂虐殺事件、瑞穂村虐殺事件ともいう。
事件の経緯
1945年8月11日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太への侵攻を開始した(樺太の戦い)。敷香町北部では国境を越えてきたソ連軍と日本軍(大日本帝国軍のこと。以降も同様)との戦闘が、日本(大日本帝国のこと。以降も同様)のポツダム宣言受諾後の8月15日以降も続いていた。
ロシアに残る資料によると、日本人たちは、呼び出した一人の朝鮮人をまず惨殺し、さらに朝鮮人を皆殺しにする計画を立て、翌日、三人を殺害し、ますます凶暴になって、朝鮮人が住む住居を襲った。日本人の細川博が後のソ連軍の裁判で行った証言記録によると、逃げて出てきた朝鮮人をサーベルでたたき切り、仲間とともに女子供も同じように殺した。こうして朝鮮人27人が虐殺された。
崔吉城の論文によれば、この事件は以下のように進展した。南樺太の日本軍はソ連のスパイに対処するために、樺太少数民族(ウィルタ・ニヴフ・アイヌ)を利用して諜報活動を行っていたが、スパイに朝鮮人を起用することは少なかった。この状況はソ連領であった北樺太でも同様で、ソ連は朝鮮人が日本人と見分けがつきにくく、日本のスパイであるという疑念を払うことができなかった。1937年になると、ソ連は沿海州と北樺太の朝鮮人を中央アジアに強制移住させた(高麗人)。 この地域では日本人と朝鮮人は混在して生活しており、朝鮮人は日本人農家の小作人や村の土木事業などを請け負う労働者として働いていた。瑞穂村の日本人は身の危険から隣家の朝鮮人たちを抹殺することを決意した。8月20日から8月23日にわたって27人の朝鮮人が惨殺された。
また、崔吉城は事件の背景として、樺太に入植した日本人が拳銃などを所持し、準武装していたことを挙げている。清水村瑞穂では在郷軍人会と青年会が日本人だけで組織されており、その会員は全員武器を所持して武装化していたことが原因であるとしている。
林えいだいによると、瑞穂事件では、事件後ソ連側の捜査が行われ、ウラジオストクで軍事裁判が行われた。捜査記録の他、エ・エム・グドユーフ主法鑑査官の検証報告や、日本人被告人の法廷陳述などを証拠として、7名に死刑判決が下された。
また林は、ガポニエンコ・コンスタンチン・エロフェエビッチが、1987年シベリア・ホムスクのKGBで、検事調書・死体発掘写真・死体鑑定書・判決文などを入手し、ソ連共産党機関紙『コミュニスト』に5回にわたって連載記事を書いたとしている。
研究
ロシアのノンフィクション作家コンスタンチン・ガポネンコ、日本のノンフィクション作家林えいだい、韓国の社会人類学者崔吉城、日本人ジャーナリスト片山通夫らによる研究がある。
『運命の22日間〜千島・樺太はこうして占領された〜』
2011年12月8日にNHK BSプレミアムが放映した『運命の22日間〜千島・樺太はこうして占領された〜』の中で、栗山昭二が瑞穂事件の元被告としてインタビューに応えた。ガポネンコの著書『樺太・瑞穂村の悲劇』では栗山について「その後の消息については、データなし」と記載されていたが、が崔吉城がその番組担当者に資料を提供し、TVのインタビューに出演した栗山の写真を北海道大学名誉教授井上紘一に送ってから、彼が「よかった!」、「生きておられたのだ!」との感慨をもった、という。
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日本人とって朝鮮人は、安心できる知人ではなく、信用できる友・友人もはなく、頼れる親友でもなく、武器を預けて命を預けられる戦友でもなく、油断し隙を見せると寝首を掻きに忍び寄る恐ろしい隣人であった。
反日派朝鮮人にとって日本の敵は味方で、味方が勝つ為に日本軍の軍事機密情報を知らせていた。
敵に情報を流している朝鮮人スパイは、至る所に潜伏していた。
日本国内に200万人以上の朝鮮人が住んでいた。
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朝鮮は、日清戦争でも、日露戦争でも、シベリア出兵でも、劣勢の日本軍が大軍と苦戦している後方で義兵戦争を仕掛けていた。
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2021年3月19日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「ソ連兵に命乞いしてくれた父 「終わりか」恐怖、鮮明に
© 朝日新聞社 日本統治時代の上敷香。軍隊が置かれていてにぎやかだったという=全国樺太連盟北海道事務所提供
南樺太(現ロシア・サハリン)からの引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟の北海道事務所長、森川利一(としいち)さん(91)は終戦後、旧ソ連の占領下の樺太で、命を奪われそうになる恐怖を体験した一人だ。連盟は3月末に解散するが、記憶は今も鮮やかな像を描き出す。
1945年8月、15歳の旧制中学3年生だった森川さんと父母の一家3人が暮らしていたのは、南樺太北部の上敷香(かみしすか、レオニードボ)。木材関係の仕事の傍ら、農業で軍に野菜などを納めていた父は兵役を免れていた。8月9日に旧ソ連軍の侵攻を受け、緊急疎開するように声がかかったのは17日だった、と記憶している。
母を先に送り出すと、父と2人で疎開船が出る大泊(コルサコフ)を目指した。多くの人が同じように南へと歩いていた。
道すがら、凄惨(せいさん)な現場に立ち会った。夜が更け、寝泊まりをさせてもらおうと空き家を訪ねた。この時期、樺太全域で一斉に疎開が始まり、空き家があちこちにあった。友人の父子と4人で入った家で休んでいると、2階に上がった友人が「森川、だめだ、ここは」と顔色を変えて降りてきた。白装束の夫婦が刺し合って自害している、と説明された。
■手には自動小銃を…
知取(しりとる、マカロフ)という町で足止めされ、海を望む高台の高等女学校で過ごした。ある朝、ソ連の戦車隊が来た。学校前の坂道に数台が山のほうを向いて止まっていた。
西側の海を見ると、北から南へと漁船が通った。脱出を図る日本人の船だろう。戦車のうち何両かが主砲をぐるっと回転させて、後ろに向けて砲撃した。手前で爆発し、狙われたと気づいて沖へ急ぐ船に、今度は照準を合わせたようだった。ズドーンと激しい音がして水しぶきが上がった。しぶきが消えた後には影も形もなくなっていた。
結局、知取から引き返すようソ連軍に命じられ、北へ向かう列車に乗った。上敷香では下ろされず、国境付近で橋の修復を10日ほどさせられた後、解放された。上敷香は9月半ばに街ごと焼かれたため、郊外の畑のそばにもう1軒あった家で父と生活を再開した。
そこへ自動小銃を持った若いソ連兵2人が突然現れたのは、夕飯の支度をしていた時だった。父を土間に座らせ、1人は見張りをした。もう1人は、立ったままの森川さんの胸に銃口を突きつけた。「チャスイ、ダワイ」。腕時計をよこせ、ということらしいと、手首を示す動作でわかった。母に託していたので、持っていない、と手を振って伝えた。隠していると思ったのか、安全装置をガチャガチャとさせながら、さらに強く銃口を押しつけてくる。
金品を略奪に来たソ連兵に殺された人の話をあちこちで聞いていた。自分も終わりか、と思ったら頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。その時、父がとっさに土間に手をついて土下座した。家にあるものは全部持っていっていいから、息子の命は助けてくれ、と泣きながら懇願した。彼らもわかってくれたのか、毛布などを少しだけ持って帰っていった。
森川さん父子はその後、豊原(ユジノサハリンスク)や真岡(ホルムスク)などに移り住みながら同じ造材会社で働き、48年7月に函館に引き揚げた。しばらくして母と再会を果たし、札幌で親子3人の生活に戻ることができた。母は76歳、父は80歳で旅立った。
あの時、父が顔面蒼白(そうはく)だったことを覚えているが、父に言わせれば自分も真っ青だったという。森川さんは「父は多くを語る人ではなかったが、助けてくれたあのときのことはいまだに忘れられない」と振り返った。(片山健志)」
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敷香町(しすかちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照の事。現在、この地域にはロシア連邦がサハリン州ポロナイスク市を設置している。ただし、敷香町とポロナイスク市の領域は一致しない。現状については、「ポロナイスク」の項目を参照。
概要
南樺太北部の中心都市の一つ。支庁所在地であった。
敷香の読み方については、しすか、しきかなど様々な説がある。近年までNHKラジオ第2放送の気象通報ではしすかと呼ばれていた。内務省の告示ではしくかとされている。
「敷香」をアイヌは、シシカ(Siska)と呼んだが、一説に樺太アイヌ語で「シシ・トゥカリ(sis-tukari)」(山の手前、北海道アイヌ語では「シリ・トゥカリ(sir-tukari)」)であると言う。ニブフ語ではシッカ(S'ikka)であり、アイヌ語もしくはニブフ語の地名を和人が使うようになった。
日本の領有下においては、国境に面する事から軍事上重要な地域とみなされており、第二次世界大戦の前後には上敷香を中心とする町内各地に陸軍部隊が駐屯していた。また、上敷香には海軍の飛行場も存在していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月には、南樺太へソビエト連邦軍が侵攻し、日本陸軍部隊との間で激しい戦いが行われ、敷香町も戦渦に巻き込まれた(樺太の戦い)。敷香には日本軍の第88師団の戦闘指揮所が置かれ、参謀の一部が進出してきて戦闘と避難の指示にあたった。古屯など北部の国境付近で激しい戦闘が続くなか、上敷香は8月17日に緊急疎開命令が出され、全住民は日本軍のトラックによって輸送されて、市街地には火が放たれた。その後、ソ連軍機20機による空襲も続き、2500戸の上敷香市街は全焼した。敷香からも8月13日以降に鉄道と日本軍のトラックによる避難が始まっていたが、各地から流入する避難民も多く、町内は混み合った。国境地帯で抵抗していた日本軍が停戦命令で武装解除されたことから、20日には敷香にも総引揚が発令され、残った民間人は助役らに率いられて徒歩で知取町方面へ避難を開始した。日本軍は内路川や知取川の橋などを破壊してソ連軍を阻止する計画であったが、避難民にも害が及ぶために破壊も戦闘も断念している。敷香市街は日本軍自身によって焼き払われ、大部分が焼失したとされるが、この火災は住民が避難する際の混乱による失火が原因であるとする引き揚げ者の証言もある。樺太の戦いによる敷香住民の死者は、厚生省資料によると約70人とされている。
地理
敷香支庁管内の最北に位置する町村の一つであり、また当時は日本最北の町であった。町の北端は当時の国境(北緯50度線)である。樺太の中心都市・豊原市からは鉄道で7時間近くかかった。
町内には多来加地方を中心にウィルタやニヴフ等の先住民族が多く居住しており、オタス(オタスの杜)には樺太で唯一の先住民族のための学校が設置されていた。
幌内低地にはツンドラ地帯が広がり、幌内川が流れる。幌内川は、その源流を北緯50度以北の北樺太に発し多来加湾に注ぐ大河で、その全長は320km。当時は日本唯一の国際河川とも呼ばれていた。幌内川河口の東には、幌内低地東部の大部分を占める多来加湖が広がっている。面積180km²で、当時は国内第三位の広さを持つ湖沼であった。
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樺太の戦いは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、日本の内地であった樺太南部で、日本とソビエト連邦(ソ連)の間で行われた戦闘である。
概要
1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。
8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。
当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、緊急疎開船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。
戦闘経過
全般状況
日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁・恵須取支庁)と南地区(豊原支庁・真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた。
8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。
日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。8月10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった。師団は、8月15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移った。しかし、8月16日に塔路上陸作戦が始まると、同日午後、第5方面軍司令部はソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断、第88師団に対して自衛戦闘を継続してソ連軍の転進を阻止し、特に北海道への侵攻拠点に使われるおそれがある南樺太南部を死守するよう命令した。
国境地帯への侵攻
国境の北地区守備を担当する歩兵第125連隊は、8月9日の時点では主力は内路・上敷香にあり、第2大隊だけが古屯でソ連軍に備えていた。開戦と同時に、連隊長の小林大佐は、国境付近の分哨や住民の後退と道路破壊を命じ、連隊主力を率いて北上した。ソ連軍が砲撃を行うだけで進撃に着手しなかったため、10日には古屯北西の八方山へ布陣を終えることができた。住民誘導や道路破壊作業は、上敷香に進出した師団参謀の指導で、特設警備隊や地区特設警備隊を中心に進められた。
日本の国境警察隊。陸軍部隊とともにソ連軍を迎撃した。
ソ連軍の中央軍道方面からの侵攻は、8月11日午前5時頃に始まった。最前線の半田集落は歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名程度の守備兵力ながら、戦車と航空機に支援されたソ連軍先遣隊を丸一昼夜阻止した後、8月12日にほぼ全滅した。この玉砕は付近の日本軍に士気高揚をもたらし、他方、ソ連軍には野戦築城レベルの半田に要塞[注 2]があったかのように記録させるほど衝撃を与えた。8月12日昼には、武意加からツンドラ地帯を強行突破したソ連軍第179狙撃連隊が古屯に進出しはじめたが、訓練用の木銃と銃剣で武装した輜重兵第88連隊第2大隊や憲兵の突撃で足止めされている[25]。なお、第5方面軍が9日に発した積極攻撃禁止命令は、この頃に歩兵第125連隊へと届き、以後の戦術を制約していった。
8月13日、ソ連軍第1梯団は、日本の歩兵第125連隊に対し、軍道上の梯団主力と迂回した第179狙撃連隊による包囲攻撃を開始した。日本軍の速射砲などではソ連戦車を撃破できず、軍道上の師走陣地守備隊は大損害を受けて撤退したが、激しい抵抗に驚いたソ連第1梯団主力も数百m前進しただけで防御態勢に移行した。古屯の兵舎周辺では、日本の歩兵第125連隊第1大隊とソ連軍第179狙撃連隊との激戦が続いたが、8月16日夕刻までに日本側は大隊長小林貞治少佐、岩貝大隊副官が戦死し、撤退に追い込まれた。8月16日にソ連軍主力も火砲213門等を投じた総攻撃を再開し、古屯までの軍道を開通させたが、主陣地である八方山は陥とせなかった。8月17日から18日頃、日本の歩兵第125連隊本部に師団からの停戦命令が届き、自衛戦闘に移行した。8月18日、連隊長の小林大佐は軍使を派遣して、降伏に応じた。歩兵第125連隊は、8月19日10時に武装解除して戦闘を終えた。
北地区の日本側指揮は、歩兵第125連隊降伏後、上敷香にいた第88師団参謀らが実質的に引き継いでいる。中央軍道方面での戦闘の間に、8月17日朝には上敷香の住民避難が終わり、その市街地は放火とソ連軍機20機の空襲で全焼している。敷香も8月20日に放棄され、総引き揚げとなった。内路鉄橋や知取川鉄橋爆破による防衛線構築が検討されたが、避難民が残っていることから断念された。#全般状況で既述のように、前進してきた日本側の師団長・師団参謀長らとソ連側の交渉の結果、22日に停戦合意が成立した。
また、中央軍道とは別に、8月12日に西海岸の西柵丹村安別にもソ連軍の侵攻があったが、歩兵第125連隊の安別派遣隊(1個中隊)などが住民の支援を受けて対抗した。安別派遣隊は、8月20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、他隊の人員を吸収して約500人で南下した。名好町北部に至って部隊を解散し、私服に着替えて自由行動をとり、一部は北海道の第5方面軍司令部への報告に成功している。
北地区の戦闘で日本軍の受けた損害は、戦死568名であった。そのほとんどは古屯周辺の戦闘で生じた。他方、ソ連側の損害は不明であるが、日本軍の推定では戦死1千名と戦車破壊数十両となっている。
なお、日本海軍の敷香基地部隊は飛行場周辺で対空戦闘を行っていたが、8月14日夕刻、陸軍とは連絡を取らずに独断で大泊基地への撤退を決めた。北東空司令部の制止も無視して通信設備を破壊し、翌8月15日早朝に高角砲台などを爆破して大泊基地へと自動車で撤退した。当初は大泊を守備する構想だったが、移動中にポツダム宣言受諾を知って戦闘を放棄し、大泊基地部隊とともに海防艦「占守」へ優先的に搭乗して北海道へ引き揚げた。ただし、豊原海軍武官府は同行せずに残留し、民間人の保護にあたっている。
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