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2023年1月2日 MicrosoftStartニュース Forbes JAPAN「深刻な干ばつが西ローマ帝国滅亡につながる「蛮族の侵略」に引き金に
David Bressan
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ユーラシア大陸を西へと移動したフン族は農耕と牧畜を行きつ戻りつしていたが、ローマ帝国のドナウ川辺境地域での深刻な干ばつに直面して暴力的な略奪者になったとする研究が発表された。
深刻な干ばつが西ローマ帝国滅亡につながる「蛮族の侵略」に引き金に
© Forbes JAPAN 提供
論文著者である英ケンブリッジ大学考古学部のスザンネ・ハーケンベック准教授と同大学地理学部のウルフ・ビュントゲン教授は木の年輪に基づく新しい水文気候の復元と、考古学および歴史的証拠を評価した結果、この結論に至った。
4世紀から5世紀にかけてのフン族の東ヨーロッパと中央ヨーロッパへの侵入は「蛮族」のいわゆる「大移動」を引き起こし、ローマ帝国の崩壊につながった最初の危機と長い間見なされてきた。しかしフン族がどこからやってきて、実際に西ローマ帝国末期の地方にどのような影響を与えたのかは不明だった。
ビュントゲンとその同僚らによって木の年輪から復元された新しい気候データは、過去2000年間の年毎の気候の変化に関する情報を提供している。それによると、ハンガリーは4世紀と5世紀に異常なほど乾燥した夏を経験した。ハーケンベックとビュントゲンは気候の変動、特に420年から450年にかけての干ばつが東ヨーロッパのドナウ川とティサ川の氾濫原よりも広範に作物の収穫と動物の餌となる牧草地を減少させたのではないかと指摘する。
「木の年輪のデータは気候条件を人間の活動に年単位でリンクさせるすばらしい機会を与えてくれる。年輪の生化学的シグナルに記録された干ばつの時期が、この地域の略奪の激化と一致していることがわかった」とビュントゲンは説明した。
ハーケンべックらが行った、この地域で出土した骨格の最近の同位体分析によると、フン族の人々は移住したり農耕と牧畜で食を賄うことによって気候ストレスに対応したことが示唆されている。
「資源不足があまりにも深刻になると、定住していた人々は移動を余儀なくされ、生存するための手段を多様化し、農耕と遊牧を行きつ戻りつした可能性がある。これらは気候が厳しくなった際の保険のような重要な戦略だったのかもしれない」とハーケンべックは述べた。
しかしこの研究は、一部のフン族が社会的・政治的組織を劇的に変化させ、暴力的な略奪者になったとも論じている。
フン族のローマ辺境への攻撃は、430年代後半にアッティラが王になった後に激化した。フン族は黄金の支払いを、そして最終的にはドナウ川沿いのローマ帝国の領土をますます要求するようになった。451年にフン族はガリア地方(現在のフランス)に攻め入り、その1年後には北イタリアにも侵攻した。
これまでフン族は「黄金への際限なき渇望」に駆られた凶暴な蛮族とみなされてきた。しかしこの研究が指摘するように、これらの出来事を記録した史料は主にローマ人のエリートによって書かれ、記述した民族や出来事について彼らはほとんど直に体験していなかった。
「史料によると、ローマ帝国とフン族の外交は極めて複雑だった」とハーケンベックは話した。「当初は互恵的な取り決めで、これによりフン族のエリートは膨大な量の黄金を手に入れることができた。この協力体制は440年代に崩壊し、フン族はローマの土地を定期的に襲うようになり、ますます黄金を要求した」という。
現在の出来事の年代測定が正しければ447年、451年、452年の最も破壊的なフン族の侵略は、カルパチア盆地の夏が極めて乾燥した年と一致すると研究は指摘している。
ハーケンベックは「気候による経済的な混乱を受けて、アッティラや他の高職の者は戦争集団を維持し、エリート間の忠誠心を保つためにローマ帝国の地方から黄金を奪うことを必要としたのかもしれない。元々馬に乗って遊牧していた者たちは略奪者になったようだ」と述べた。
この研究は、フン族が422年、442年、447年にトラキア地方とイリュリクム地方を攻撃した理由の1つは黄金ではなく、食料と家畜を得るためだったと示唆しているが、これを確認するには具体的な証拠が必要であることを認めている。著者らはまた、アッティラがドナウ川沿いの「移動に5日間かかる」ほどの土地を要求したのは、そうした土地が干ばつときに良い放牧地を提供できたからだとも指摘している。
「この歴史上の例は、人々が気候ストレスに対して複雑かつ予測不可能な方法で対応し、短期的な解決策が長期的には否定的な結果をもたらすことを示している」とハーケンベックは結論づけている。
中央ヨーロッパにフン族が現れてからわずか数十年後の450年代までにフン族は姿を消した。アッティラ自身は453年に死んだ。度重なる侵略は政治的危機と弱い支配者の時代を経て、ローマ帝国の中央政府をさらに弱体化させた。476年、ゲルマン人の蛮族王オドアセルがイタリアで西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させた。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はその後数世紀にわたって存続したが、完全に復活することはなかった。
この研究は、学術誌『Journal of Roman Archaeology』に「4~5世紀のヨーロッパ中央・東部へのフン族の侵入における干ばつの役割」というタイトルで掲載された。
(forbes.com 原文)
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