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アウグストゥス
(Augustus)(羅: Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。
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紀元前43年11月 オクタビアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治の成立。
アントニウスは、自分に反対するキケロなど元老院議員約300人と騎士身分約2,000人を虐殺し、財産を没収した。
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紀元前33年 オクタヴィアヌスは、アグリッパと戦乱を鎮めた後のローマの在り方について協議した。
永遠の平和の為に、内戦の原因である権力者による武断政治を終わらせ、個人の利益より公の利益を優先する統治機構の建設を目指す事にした。
内戦が終わった後に軍団を縮小させ、退役兵士や無産市民を各地のインフラ整備の建設要員として再雇用して地方に定着させる。
ローマ人入植地では共存共生を大原則として、異化政策でローマ人を征服者として新たな階級社会を作るのではなく、同化政策で地元住民と雑婚させ混血児を増やして無条件でローマ市民権を与えて公平に扱った。
首都ローマの拡張ではなく、人口過密を解消する為の地方活性であった。
ローマ経済を発展させる為に必要なのが、ローマ基準による、安定した交通・物流と信用できる金融・貨幣である。
ヨーロッパの都市文化の原型は、この時、作られた。
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紀元前31年 アクタヴィアヌスとアグリッパは、アントニウスをアクティウムの海戦で破った。
オクタビアヌスは、ヤヌス神殿の扉を閉じ、100年近く続いた内戦の時代が終了した事を宣言した。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)の始まりである。
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欧州は、中華に比べて戦争は少なかった。
西洋人は、中華人に比べて虐殺も少なかった。
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オクタビアヌスは、内戦で50万人に膨れ上がった軍隊を17万人に減らした。
退役兵は、交通要所や戦略要地とされる何もない原野に新都市を築く建設労働者として送り込まれた。
イタリア・ローマで膨れ上がったローマ市民の人口を減らす為に、退役兵の建設労働者は建設した都市の住人として定住させた。
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2016年3月17日号 週刊新潮「世界史を創ったビジネスモデル 野口悠紀雄
ローマ帝国は自治都市の連合体だった
……
地表の景観がかわった
植民地都市の建設は、アウグストゥスを継いだ皇帝によって推進された。かつて村落だった土地は、新しい都市に姿を変えていった。
ロストフツェフ『ローマ帝国社会経済史』(東洋経済新報社)にれば、アウグストゥスによって始められた属州の都市化は、クラウディウス(前10年ー54年)の下で急速に前進した。地表の景観は一変した。
ウェスパシアヌス(9年ー79年)は、新しい都市を建設し、帝国全域、特に北イタリア、ヒスパニアの土着の町に都市の権利を付与した。
同じ政策は、トラヤヌス(53年ー117年)とハドリアヌス(76年ー138年)によって推し進められた。トラヤヌスが影響力を行使できたのは、彼の軍事的勝利のみによったのではない。その大きな部分は、彼がルーマニアとブルガリアの都市化に最初に着手し、これらの地方をギリシャとローマの文明に向けて解放したことによると、ロストフツェフは言う。カエサルと1世紀の皇帝たちが北イタリア、ガリア、ライン、ブリタンニア、ヒスパニアなどに対して行ったことを、トラヤヌスとその後継者たち、とくにハドリアヌスは、ドナウ地方の東部地域に対して行ったのである。
アフリカにおける都市化は、アウグストゥスの時代以来、休むことなく進行した。これらの街の住人の大部分は原住民だったが、一部はローマの退役兵の植民都市であった。
ロストフツェフによれば、それは帝国全体を文明生活のより高い水準に引き上げるための、皇帝たちの意図的な政策であった。彼らは自分たちの権力を支える基盤を拡大するために、この過程を熱心に推し進めた。なぜなら、彼らの権力が依拠していたのは、帝国の文明化された部分、すなわち都市住民だったからである。ローマ帝国は、その支配者の意識的な努力によって、徐々に都市国家の集合体へと変えられていったのだ。
われわれが無意識のうちに(あるいは映画などに影響されて)イメージしているローマ属州の姿は、貧しい農村地帯で、そこにローマの軍団が駐屯しているというものだろう。しかし、実際にはそうではなく、ローマ市よりも生活環境がよい都市の連合体だったのである。
ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』(ちくま学芸文庫)で、マルセイユ。アルル、ニーム、ボルドー、リヨンなどのガリア諸都市の状況は、今日より勝っていたかもしれぬとさえ言っている。
ヨーロッパには魅力的な地方都市が多数あるが、その基盤は、この時代に築かれたのだ。
しかし、ハドリアヌス以降、都市化の進行は完全に止まってしまったわけではないものの、都市の創建は稀になっていった。
自治権を持っていたから発展した
16世紀の海洋国家による大航海の場合にも、空間的なフロンティアが拡大された。それは、南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸の征服にまで発展した。しかし、これとローマ帝国の拡大は、本質的に違う。
スペインは、インカ帝国を滅ぼして南米を制覇した。アメリカの西部開拓やオーストラリア大陸の開拓も、原住民の大虐殺を伴っていた。しかし、ローマの場合には、原住民を抹殺したのではなく、彼らとの共同社会を作ったのだ。
ローマへの特別の奉仕・忠誠の報酬として、あるいは、反対派武将への敵対の功に応じて、属州の住民にローマ市民権が与えられていった。この政策はカエサルによって始められた者だが、アウグストゥスもそれを引き継いだ。
さらに、補充軍兵が25年の兵役を終えて除隊するとき、ローマ市民権が与えられた。この政策によって、2世紀半ばまでに200万人以上の新市民が生まれた。これら新市民の妻子を介して、新定住地の多くの住民がローマ市民を近親に持つにいたり、また、将来のローマ市民権獲得の可能性がローマ支配共同体に対する近親館を育てたと、弓削達『ローマ帝国の国家と社会』(岩波書店)は述べている。
ローマ帝国における都市は、ほとんど完全な自治を享受していた。帝国の官僚機構が地方の事柄に介入することは、極めて稀であった。このために、ローマ帝国は、広大な領域をごく少数の官僚機構で支配することができたのだ。ローマ帝国は、自治を行なう諸都市の連合と、その上にはめ込まれた絶対的な君主制との混合物だったのである。
ところで、日本の高度成長期にも、山が切り開かれてニュータウンが建設された。道路の舗装や下水道の整備が進められ、劣悪だった社会資本インフラは飛躍的に改善された。そして、新幹線や高速道路など、それまで存在しなかった社会資本が登場した。これらは、日本人に高揚感を与えるものであった。
しかし、日本の地方都市は、排他的であり、地域外から移住者を迎えて成長したわけではなかった。排他的である半面で、財政的には国に依存した。日本の地方都市に決定的に欠けていたのは、財政的な地方分権と地方自治である。このために、地方都市の多くは、ローマ植民地都市のように発展するのではなく、個性を失って、衰退していったのだ」
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紀元前28年 ローマ市民総人口406万3,000人。
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紀元前27年 元老院は、オクタビアヌス(35)に「アウグストゥス(尊敬すべき人)」の称号を与えた。
初代ローマ皇帝の誕生である。
アウグストゥスは、これまでの寛容主義にもとず軍事的領土拡大モデルを、話し合い的領土拡大モデルに転換した。
財政難と労働不足を補う為に、ローマ軍50万人を20万人に縮小させ、最終的に約17万人まで減らした。
解雇した元兵士達を、ガリアなどの属州に建設した都市に入植させ、領地を与えた。
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ローマ帝国の経済的繁栄は、アウグストゥスが行ったローマ市民の商業活動(殖産と消費)を奨励と属州間での通商拡大というビジネスモデルであった。
武力で領土を拡大し、占領地を属州として支配し、属州民から搾取したからからではなかった。
アウグストゥスは、海軍力で海上輸送を陸軍力で陸上輸送の安全を確保し、軍用舗装道路を商業用に解放した。
帝国内での経済活動を促進させる為に、通貨や度量などを統一するなどの諸改革を行った。
属州の自然環境や気候風土に合った生産品で、少数の富裕層だけが購入する高価な奢侈品ではなく大勢の中級消費者が生活に欠かせない必要品を生産するようにさせた。
最大の消費地であるローマ市の市民は、商人と軍人が大半で自給も生産もできなかった為に、属州から集めた高価な奢侈品を中国やインドなど東方に輸出して利益を得た。
ローマを豊かにし文化を花開かせたのは、帝国内での搾取・収奪的自給自足経済ではなく、特産及び加工で生産した奢侈品を帝国外に輸出する交易であった。
アウグストゥスは、帝国として交易できる通商圏の拡大を行ったが、経済活動は帝国が独占し官僚が監理・監督するのではなく、個人の自由に委せた。
長持ちする国家にする為には軍事国家から平和国家に変更する必要があり、同時の是れまでのビジネスモデルは無効となり、不要な軍備を縮小する必要があった。
ローマの兵制は、市民の義務としての徴兵制から、前104年の執政官ガイウス・マリウスの改革で志願制に換えた。
海上輸送確保の海軍力は欠かせなかったが、だからといって全地中海を支配するだけの大艦隊は必要なかった。
陸軍力による版図拡大には限度があり、支配地や属州を維持する軍団の兵士を大量に雇用する財政にも限りがある。
不必要な軍団を整理して溢れ出た退役兵士を、属州に土地を与えて領主として定住させ、その見返りとして特産品・奢侈品の生産と国境警備と治安維持の任務を与えた。
領土の拡大がなくなるや与える土地がなくなるや、退役兵士には給付を行った。
辺境(ローカル)の属州は、域内交易として、特産品や奢侈品を中心(グローバル)のローマに売り、価値ある品物や値打ちのある芸術品を購入していた。
交易による利益が増える事によって、特産品や奢侈品の差別化が図られ、辺境に於ける地域間の分業が進み、帝国内は均一な豊かさと文化度を生み出した。
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西暦14年 ローマ市民の総人口493万7,000人。