☭9」─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.23No.24No.25 * ⑧ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 白人の中でもロシア人ほど信用できない人間はいない。
 ロシア人は、強盗・追いはぎ・泥棒に似て信用できない。
 ロシア人は、不法な手段で手に入れた土地は決して手放さない。
 もし取り返そうとすれば、戦争を起こしてでも奪った土地を守った。
 ロシア人には、真面な話し合いは通用しない。
 ロシア人は、恩義があっても答える意志は持っていないどころか、仇で返してくる。
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 小国日本には、植民地にならない為に軍国主義化しか選択肢がなかった。
 日本の軍国主義化は、犯罪とされた。
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 ロシア帝国は、キリスト教の神聖な使命で、周辺諸国を侵略し併呑して版図を広げた。
 日本は、ロシア帝国の侵略の脅威に脅え、国土防衛の為に武力を強化して軍国主義化した。
 軍国主義国家日本は、世界から犯罪国と糾弾され、侵略国家として滅ぼされた。
 後年。昭和天皇は、軍国主義のシンボルとされ、凶悪な犯罪者とされた。
 靖国神社は、侵略戦争を美化するものとして廃棄が求められている。
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 ロシア帝国は、宗教的人種差別主義から、非白人非キリスト教徒日本人を薄汚い野蛮人「黄色いサル」と軽蔑していた。
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 明治維新の序章。
 吉田松陰ら「心と志」ある靖国神に祀られた勤王の志士・尊皇派日本人達は、国家存亡の危機として発狂した如く武力を用いて立ち上がった。
 民族主義者は、国難に直面して狂人となった。
 反天皇反日日本人は、吉田松陰靖国神社)を侵略戦争を主張した極悪人として糾弾している。
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 サムライ日本人は、外国語を話せなかったが、交渉能力はあった。
 現代日本の国際派日本人は、流暢に外国語を話すが、交渉能力はない。
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 サムライや庶民は、日本を軍国主義化して軍事力を付けて戦争を覚悟為なければ、キリスト教徒白人諸国に侵略され、植民地になり、奴隷にされると恐怖した。
 現代日本は、反戦平和の立場から、如何なる理由だあったとしても日本の軍国主義化を「悪」と完全否定している。
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 1854年 吉田松陰靖国神社)は、ロシア帝国の侵略から神国日本と天皇・皇室を守る為に、朝鮮を征服して朝貢国とし、満州・台湾・インド・カムチャッカを占領せよと主張した。
 天皇に忠誠を誓う高杉晋作靖国神社)や久坂玄瑞靖国神社)らは、神国日本をキリスト列強の植民地としない為に、日本人を白人キリスト教徒の奴隷としない為に、吉田松陰の海外侵出策を聞いた。
 靖国神社には、外敵の侵略から神国日本を守る為に死んだ多くの勤皇の志士を祭神として祀られている。
 自己犠牲で死んだ坂本龍馬中岡慎太郎武市半平太らサムライや百姓町人の尊皇派も、護国の神として靖国神社に祀られている。
 国際社会から、愛国心に基ずく宗教心は軍国主義として完全否定された。
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 1855(安政2)年 島津斉彬は、日本の軍事力を強化する為に、朝鮮を領有し、福州を軍事占領する計画を立てていた。
 そして、欧米列強の植民地とならない為に、アヘン戦争で衰退した清国の内政改革に協力して両国が提携すべきであると話した。
 1月 ロシア軍艦ディアナ号の難破。日本人漁民は、嵐の中、命の危険を顧みず500人のロシア人水兵を救助し保護した。
 2月7日 下田条約。日露和親条約川路聖謨(祖父は庶民)と筒井政憲は、プチャーチン提督と日露和親条約(下田条約)を締結した。
 両国は、国境を択捉島とウルップ島の間に画定した。
 択捉島国後島歯舞諸島色丹島北方領土は、正式に日本の領土となった。
 北方領土はこの時をもって日本の正式な領土となり、そこに住むアイヌ人は日本人となった。
 プチャーチン「将来の紛争を避けるための細心を行った結果、択捉が日本の領土である事が証明された」
 江戸幕府は、友好の証として、ロシア全権プチャーチン提督らを帰国させる為に、見様見真似で小型の西洋風帆船を建造して提供した。
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 ニコライ2世の希望は、日本との交易を求め、領土拡大ではなく経済関係を優先した。
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 1856年 アロー号事件
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 1857年 橋本左内靖国神社)は、南からの侵略から神国日本を守る為には、北の強敵であるロシア帝国と 同盟し、朝鮮・支那満州・インドを征服して軍事力を付けるべきと主張した。
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 勤皇の志士の多くは、神国日本が生き残る為に朝鮮の占領を考えていた。
 江戸幕府は、徳川家康以来の祖法に従って、朝鮮との友好関係を望んでいた。
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 1858年 ロシア軍は、満州の以北にある黒竜江省を軍事占領し、アイグン条約を締結して領土とした。
 ロシア帝国は、圧倒的な軍事力で侵略し、周辺諸国を衛星国とし、諸地域を領土とした。
 幕府は、西洋による侵略戦争と植民地支配の実態を知り、何時かは軍隊とキリスト教を用いて日本に迫り来る事を予想していた。
 地位の低い下級武士はもちろん身分卑しい百姓・町人の間でも、アヘン戦争アロー号事件などの侵略戦争の顛末書が行き渡り、彼等はむさぼる様に書籍を読み恐怖した。
 サムライや町人は、清国の二の舞にならない様に、西洋との戦争を覚悟為た。
 それが、神の裔・天皇中心とした国體を外敵から守ろうとする尊皇攘夷運動となった。
 幕府や大名達は、外国との戦争を回避する為の外交方策を思案した。
 これが、日本の鎖国の実態である。
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 1859年 横浜で、尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃してた。
 2016年11月5日 産経ニュース「「攘夷」犠牲のロシア人よ安らかに あす10年ぶり慰霊祭 神奈川
 この墓の前で慰霊祭が行われる=4日、横浜市中区
 幕末に攘夷派の武士により横浜で襲撃され、犠牲となったロシア艦隊の乗組員2人の慰霊祭が6日、横浜外国人墓地横浜市中区)で10年ぶりに行われる。主催するNPO法人「県ユーラシア協会」の田中豊造理事長(65)は「埋もれた歴史に光を当て、草の根からの日露友好を深めたい」と話している。
 安政6(1859)年、横浜港が開港すると、ロシア帝国東シベリア総督のニコライ・ムラビヨフが樺太など日露間の国境策定の交渉のため江戸と横浜に来航。同年夏、ロシア海軍少尉と水兵の2人が1人のコックを連れて、横浜港から食料品を買うために上陸したところを攘夷派の武士に襲撃され、コックを除く2人が死亡した。
 幕末に発生した初めての外国人殺傷事件で、横浜外国人墓地に最初に葬られたのも、この2人だった。
 2人の慰霊祭は、横浜港開港150周年を3年後に控えた平成18年11月に行われ、これをきっかけに22年に墓誌が在日ロシア大使館によって横浜外国人墓地に建立。関東大震災で倒壊していたロシア人の墓碑10基も再建された。
 前回慰霊祭から10年が経過したことを受け、県ユーラシア協会が今回の慰霊祭を企画した。
 田中理事長は「(安倍晋三首相とプーチン大統領による)日露首脳会談も来月、予定されており、今後、両国で友好関係が深まればいいと思う。慰霊祭も、その一つのきっかけにしたい」としている。
 慰霊祭で祈りをささげる横浜ハリストス正教会の水野宏司祭(53)も「2人が非業の死を遂げ、横浜に葬られたことは単なる一事件ではなく、むしろ日露交流が前進していくうえでの重要な礎だったとも言える。将来の日露交流の益々の発展を祈ってやみません」とコメントした。
 慰霊祭は6日午後2時から3時半まで、横浜外国人墓地22区のロシア軍人墓所(元町門そば)で行われる。献金300円。参列者は、1時45分に横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅6番口に集合する。問い合わせは県ユーラシア協会(電)045・201・3714まで。
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【用語解説】幕末のロシア人襲撃事件
 安政6(1859)年の夏、ロシア海軍少尉、ロマン・モフェトと水兵のイワン・ソコロフの2人が横浜で襲撃、殺害された事件。その後、水戸藩内外の尊皇攘夷派「天狗(てんぐ)党」による犯行であることが判明した。」
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 1860年3月 桜田門外の変大老井伊直弼は、水戸藩薩摩藩の脱藩浪士らによって暗殺された。
 国際金融資本は、幕府が世界の金銀交換比率に無知なのを付け込んで、日本に著しい不利なレートを押し付けた。
 キリスト教徒金融家は、銀貨を日本に持ち込んで金貨に替え、その差益で莫大な利益を手にした。
 世界の資産は、ユダヤ系国際金融資本の手に集められた。
 日本の金価値が下落して、貧困層の生活を直撃した。
 各地の百姓は、貨幣価値の下落に伴い米価の高騰で生活苦に陥ったとして一揆を起こしていた。
 天皇への忠誠心が強い下級武士や庶民の尊皇派は、不当貿易で暴利を貪る外人への敵意を剥き出しにして、攘夷運動に奔った。
 国際武器商人は、日本で大動乱が始まると見越して大量の武器を売りさばき、その収益の一部をキリスト教会による日本での布教活動資金とする為に寄附した。
 河井継之助「天下の形勢は、早晩大変動を免がれざるべしと存ぜられ候。即今外国の形勢は、戦国時代とも申すべきか、ベートルを出し候オロシアなどは、殊の外の勢威と承り候」
 新潟の小藩・長岡藩家老河井継之助は、アメリカを追い出してもロシアが南下して攻めてくると予測していた。
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 ロシアは、奪った土地は決して返還しなかった。
 日本は、ロシアに侵略されようとしていた。
 ロシアは、日本を植民地化しようとしていた。
 日本は、ロシアから日本を守る為に戦争を決意した。
 時代は、キリスト教列強諸国が地球を植民地として分け合い、白人キリスト教徒が非白人非キリスト教徒を奴隷として使役しようとしていた帝国主義時代であった。
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 幕府は、外国との戦争を避けて平和的に事件を収拾しようとした。
 軍国主義者は、外国の侵略から武力で祖国を守るべきだと主張して、暴発した。
 軍国主義者は、好戦派として、外国の侵略に対して戦争を望んだ。
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対馬事件
 平和的な対話ではなく、強力な軍事力のみが正義とされた実力至上主義の時代である。
 1860年 露清北京条約。ロシア帝国は、ウスリー江以東の沿海州を武力で強奪した。極東アジア侵略への足掛かりとして、日本海沿岸に要塞軍港ウラジオストック(意味、東方を支配せよ)を建設した。
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 1861(文久1)年 南北戦争。犠牲者、約62万人。
 ロシア海軍の太平洋艦隊司令官リハチョーフ大佐は、日本海をロシアの庭とし、艦隊の航行を自由にする為に対馬海峡を支配すべきだと提案した。
 リハチョーフ司令官は、日本領対馬を軍事占領するべく軍艦ポサドニック号を派遣した。
 ロシア政府は、中央アジアでイギリスとの対立を深めている今、日本との関係を悪化させる事は好ましくないとしてリハチョーフの提案を却下した。
 海軍大臣ニコラエヴィチ大公は、今後のアジア戦略の上から、イギリスの出方を確かめる目的で日本領対馬への艦隊派遣を許可した。
 リハチョーフ司令官は、対馬を軍事占領するべくポサドニック号を派遣した。
 世界的軍事大国ロシア帝国は、日本を欧州並みの対等国家と認めてはいなかった。
 ロシア人も、キリスト教価値観による宗教的人種差別主義から、非白人の日本人を非文明圏の薄汚い「黄色いサル」と馬鹿にし差別していた。
 ロシア側の意図は、極東に根拠地を獲得して不凍港を確保し、対馬を植民地として南海航路の安全を図る事であった。真の狙いは、日本が本格的に開発の手を加えていない蝦夷地・北海道を、アイヌ人の土地であるとして領有化する事であった。
 日本の敵は、イギリスやフランスやドイツではなく、隣国の超軍事大国ロシア帝国であった。
 当時の日本人が恐れていた白人種の侵略とは、ロシア帝国の侵略である。
 サムライ日本人が、日本を植民地にし、日本人を奴隷にしようとしていると警戒したのも、ロシア帝国であった。
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 2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊した。
 ロシアは、軍事力を使って日本領対馬を自国領にしようとしていた。
 軍事力を伴わない話し合いだけの平和解決は、無意味であった。
 外交交渉は、軍事力があってこそまとまる。
 軍事力を否定した平和的な話し合いで外交交渉が解決できる考える者は、無知無能な一般常識なバカである。
 対馬藩主宗義和は、不法行為であるとして、重臣を急派し速やかに退去する様に抗議した。
 ビリリョフ艦長は、船が難破して航行に耐えられないので、修理の為に来航したと詭弁を弄し、修理工場の設営資材と食料などの補充と遊女を要求した。
 欧米列強が、植民地拡大に使用する砲艦外交である。
 相手の軍事力に恐怖して譲歩すれば、外圧に弱いとみなされ、脅迫や恫喝や威嚇が繰り返されて、最後には全てを失って亡国となる。
 3月 ロシア海軍水兵は、芋崎(いもざき)に無断で上陸し、船体修理を名目に工場や兵舎などを建設した。
 対馬藩は、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避け話し合いで解決しようという穏健派で藩論が分裂し、藩内は混乱した。
 藩主は、対馬藩の軍事力では、ポサドニック号を排除できない事を自覚していただけに、要求された米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。全藩士に事態の深刻を自覚させて軽挙を戒め、沿岸に砲台を築造して攘夷派を納得させた。
 ビリリョフ艦長は、軍事力を見せつけ、退去要求を拒否した。対馬藩の攘夷派が暴発して攻撃してくれば、それを口実に武力を持って対馬を軍事占領する計画であった。
 日本人を未開人として軽蔑するロシア水兵は、上陸して島民を襲い、婦女を追いかけ回して乱暴を働き、武力抵抗を誘う為に挑発を繰り返した。
 激昂した島民は、対馬藩の手ぬるい対応に失望し、自力で自分達を守る為に乱暴狼藉を働くロシア水兵との間で紛争が起こしていた。
 宗氏の所領である筑前田代の代官は、本領でのロシア人水兵による横暴を聞き知るや、ロシア人水兵から領民を救い、ロシアから領土を守る為に、わずかな手兵を率いて対馬に渡った。
ビリリョフ艦長は、芋崎の永久租借を認めさせる為に、藩主との面会を要求した。対馬藩との間で租借契約を結び、これを既成事実として幕府に日本領内での租借を承認させようとした。
 日本が外圧に屈して租借地を認めれば、他の列強も好きな土地を自由に軍事占領して植民地とする事が可能があった。
 対馬藩は、軍事力を背景として圧力をかけてくるロシア側の対応に苦慮し、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
 島民は、永年に渡って朝鮮に侵略され虐殺と拉致を受けた苦しい歴史を持ち、「応永の外寇」では強制的に朝鮮人にさせられた経験を持つだけに恐怖した。
 3月28日 第121代孝明天皇は、年号を文久改元した。
 4月12日 ロシア人水兵は、ボートに乗って大船越の水門を通過しようとした。対馬藩の警備兵は制止するや、ロシア人水兵は警備兵を銃殺し、郷士2名を捕虜として軍艦に連行した。
 拉致された日本人の内1名は、敵に捕まったという恥辱から舌を噛み切って自殺した。
 これ以前から、サムライは俘虜になる事は死ぬ事以上の恥として自害していた。
 翌日には、100名以上の水兵が大船越を強襲して、略奪を行い、婦女暴行を行った。
 ロシア側は、日本への挑発行為を繰り返し、各地の番所を襲撃して、武器を強奪し、数人の婦女子を強姦目的で拉致した。軍艦に拉致された日本人女性のその後は、不明である。 長崎奉行・岡部長常は、対馬藩からの報告を受けるや、事態の深刻さを理解して、直ぐさまビリリョフ艦長に対して不法行為を詰問する書を送った。
 対応を誤れば、両国の戦争に発展する恐れがある為に、対馬藩に対し自重を促した。
 佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に、詳しい実情を調査さた。
 各藩の重臣長崎奉行所に集まって、情報を基にして事態の収拾を図る為の協議を行うが、事の重大さは現場ではどうにもならないとして、幕府の対応策を待つ事になった。
 長崎奉行所は、刻々と入ってくる情報を重視し、注意深く事態の推移を見守った。
 西国諸藩は、外国軍の侵略から日本を守るべく、長崎の武器商人から大量の武器弾薬を購入し、軍備の強化を急いだ。
 尊王意識が強い下級武士や町人や神官は、朝廷内の尊王攘夷派公家と共謀して、公武合体派公家らを排除し、開国容認の幕府に攘夷決行を要求する様に孝明天皇に働きかけた。
 孝明天皇は、強硬な攘夷派であると同時に公武合体派でもあった。
 老中・安藤信正(小藩の藩主)は、箱館奉行・村垣範正(下級旗本)に箱館駐在のロシア総領事ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を強い口調で要求させると同時に、外国奉行小栗忠順(下級旗本)を対馬に急派した。
 幕府は、如何に優れていようとも、石高の高い大藩の藩主を政治に参加させ、権力を与える事は戦乱の元になるとして禁止していた。
 名門ではあるが、石高の低い小藩の藩主を老中や若年寄などに任じて集団で重責を負わせた。
 身分は低いが才能の有る者は異例の抜擢をして、権限を制限しながらも現場の重要な役職に付けた。もし、失敗すればトカゲの尻尾のように責任を押し付けて切腹させた。
 江戸幕府が、260年間、戦乱も暴動もなく平穏無事に過ごせたのは、世界の非常識という発想の転換にあった。
 日本型集団支配体制が盤石だったのは、日本一の石高を持つ徳川家が武力を持って、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を虜として京都御所に軟禁していたからである。
 5月 幕府は、長崎から江戸へ向かうイギリス公使オールコックに対して、警備上の問題から海路での移動を勧めた。オールコックは、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅した。 5月10日 小栗は、ビリリョフ艦長との会談に入った。
 日本側は、ロシア人水兵の無断上陸は条約違反であり、乱暴狼藉は犯罪行為であるとして強く抗議した。
 ロシア側は、傲慢にも日本側が求めた謝罪要求を無視し、威圧するように贈品謝礼を口実にして藩主との謁見を強く要請した。
 軍事力を伴わない外交交渉は、愚か者の戯言と馬鹿にされ、如何に話し合いを続けても成果は得られず、失う所の方が多かった。
 幕府には、他国の侵略から、国土と国民を守る海軍力を持っていなかった。
 小栗は、ロシア側の強大な軍事力を背景にして日本を見下す強硬姿勢に容易ならざる気配を感じて、やむなく謁見を認めた。
 5月20日 ロシア帝国側は、日本を英仏の侵略から保護する見返りとして、対馬に要塞軍港の割譲を要求して譲らなかった。
 小栗は、ロシア側の意図が対馬の植民地化である事がわかった以上、今後の対応の為に幕閣と協議するべく江戸に戻った。
 江戸に戻った小栗は、対馬を直轄領とする事、今後は万国公法に則った形式で外交交渉を行う事、国際世論にロシアの非を訴えて同情を得る事などを提言した。
 老中・安藤は、国内で激昂する攘夷派への配慮から、時間をかけて穏便に交渉を進めようとする慎重論の小栗の意見を退けた。
 幕府の権威は、井伊大老殺害の桜田門外の変以来、凋落傾向にある為に、尊王攘夷派を鎮める為にも強硬な姿勢を見せる必要があった。
 小栗は、交渉の場から外され、7月には外国奉行の任を解かれた。
 5月26日 対馬藩は、交渉が行き詰まった為に、ロシア海軍水兵の犯罪行為を不問にして、藩主との謁見に同意した。
 ビリリョフ艦長は、ポサドニック号を府内に回航して、武装した水兵を従えて上陸し、士官数名と共に藩主宗義和を表敬訪問した。
 平穏無事に長期間碇泊し、船体の修理が出来る事に対しての恩を謝して、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じてた。
 そして、芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献と外国からの侵略に対する警備協力などを提案した。
 対馬藩は、ロシア側の最終目的が対馬全島の領土化である事がわかっていた為に、幕府に直接交渉して欲しいと即答を避けた。
 沿道警備にあたった藩士らは、巨大な軍事力を見せつけて横暴を極めるロシア人への敵意を露わにして殺気だったが、主君の主命に従って屈辱に耐え隠忍自重した。
 5月27日 オールコック公使は、無事に、イギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。
 尊王攘夷派の志士は、対馬におけるロシア軍艦の不法行為とロシア人水兵の犯罪行為に激怒し、このまま外国人を放置しては神州日本が穢され、万世一系男系天皇(直系長子相続)の玉体が危ないとして憤激した。
 5月28日 水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が、イギリス公使オールコックらを殺害する為に、品川東禅寺の仮公使館を襲撃した。
 7月9日 オールコック公使とイギリス海軍中将ホープは、窮地に立たされた幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案した。
 老中・安藤信正は、再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。自国の国益を守るだけの海軍力を持たないだけに、イギリスの提案を好意と受け止めてイギリスに軍事介入を依頼した。
 攘夷派は、本気で自国を自力で守ろうとしない幕府の弱腰に激怒し、キリスト教諸国の侵略に対抗すべきであると主張した。
 オールコック公使は、軍事力を強化して自国の国益を守ろうとしない幕府の無能ぶりを見て、ロシア帝国よりも先に対馬を租借させるべくであると本国政府に提案した。
 フランスは、イギリスの意図を察知して、対馬海峡の有利な通行権を確保するべく幕府に好意的な姿勢をみせはじめた。
 7月23日 ホープ中将は、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動し、ロシア軍艦の退去を迫った。
 8月15日 ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスが本腰で介入した事に形勢不利と判断し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派してビリリョフ艦長を説得した。ポサドニック号は、イギリス軍艦との戦闘が両国の戦争に発展する事を警戒して対馬から退去した。
 だが、ロシア帝国対馬海峡を占有する意思が消滅したわけではない以上、日本領対馬がロシア領になる恐れが消えたわけではなかった。
 軍事力を持たない外交は無意味であり、軍事力を否定した正論の外交は滅亡しかもたらさなかった。
 ゴールドバーグ「外交とは、最も汚い事を、最も美しくなすという事である」
 ヘンリー・ウォット「外交官とは、嘘をつく為に海外に派遣される正直な人間である」
 9月 老中・安藤信正は、外国奉行・野々山兼寛らを対馬に派遣して、ロシア人が建設した兵舎などを破壊してその材料は長崎奉行所に保管させた。
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 1862年1月 老中・安藤信正は、江戸城坂下門外で、水戸藩脱藩浪士に襲撃されて負傷し、失脚した。
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 外国を見聞して来た幕府内の改革派は、欧米列強の侵略から日本を守る為には、諸藩・諸大名によるの地方分権的連合体ではなく徳川家を中心とした中央統一政体を造り、強力な海防が必要性であると訴えた。
 能力ではなく家柄のみで幕閣となっていた守旧派は、諸外国と外交交渉を重ねるにつれて世界情勢の知識が豊富となり、祖法では欧米列強の奴隷にされる事を自覚して幕府の改革に同意した。
 旧態依然の体制で利益を得ていた既得権層も、中国やインドの様に自分の利益のみで欧米列強とつながる事は、皇室を中心とした国體・国柄の消滅につながるとして、不承不承ならも変革を受け入れた。
 幕府は、東洋的な感覚が時代遅れになっている事を痛感し、新たな時代に対応するべく西洋の知識が豊富な改革派の意見を聞きながら舵を切り始めた。
 幕府の改革派は、西洋に自ら出向いて実地検分し、西洋諸政府との外交交渉にのぞみ、肌身で厳しい国際情勢の洗礼を受けてきた現実重視の実務家であった。
 だが。欧米列強の帝国主義侵略は、脆弱な日本を怒濤の如く襲い、幕府の緩やかな変革を許さなかった。
 尊皇攘夷派や勤皇の志士は、目の前に迫った西洋の東洋侵略という激流に対し、戦争を避けた話し合いによる解決という弱腰の対応と、即事国防力強化という軍事優先策をとらない幕府に激怒して爆発した。
 「おもてなし」の精神を美徳として育んできた内向的な鎖国時代の日本人は、礼節を蔑ろにし、信義を踏みにじり、道理を無視して、武力をちらつかせた恫喝や脅迫や威嚇といった砲艦外交を行う外国を蕃国として打ち払おうとした。
 自分の事よりも相手の事を神経質的に気を遣う気の弱い日本人は、中国や朝鮮の様に自分の価値観に囚われて、単細胞的に、異文化の外国人が嫌いなわけでもなく、珍しい物品を多く持って来る異国との交易を拒絶したいわけではなかった。
 相手の事、日本の事を、理解せず、配慮もせず、がなり立てながら土足で家に上がり込んで、家人の迷惑も顧みず我が家の如く振る舞い、自分の物のように家具調度をかき回し、断りもなく自分の物の様に使って破損させ、清潔に掃き清めた場所を汚し散らかし、穏やかな静寂を破壊し台無しにする、自分だけ良ければ他人の事など気にしないという「和」を乱す理不尽な行為が我慢ならなかったのである。
 弱小国日本は、島国という狭苦しい閉鎖された空間であっただけに、何時までも、いがみ合って内輪揉めをし、議論ばかりして何も決められず先送りし、責任回避で事なかれ的に行動を起こす、目を逸らして無関心で済まされる国情にはなかった。
 だが。独断専横の独裁的英雄・指導者が育たない生ぬるさから、その決断を行う為には何時も時間がかかっていた。
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 日本人の気質は、自然災害多発地帯という人智では如何とも解決できない理不尽な暴力地帯で、大陸の他国に逃げ出せない島国で生きる中で培われてきた。
 日本が島国として、海が防波堤として他国の侵略を拒んだという事は、海は日本人を受島国に閉じ込めた事を意味する。
 何故なら。軍艦は、何時の時代でも国家の威信をかけて建造されて最新鋭で頑丈な軍船である。それに比べて、民間船などは足下にも及ばない。
 軍船が攻めてこられない海は、民間船の航行を拒絶する海である。
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 日本の尊皇攘夷と中国や朝鮮の尊皇攘夷とは、本質から違う。
 その違いゆえに。日本は、近代化し、軍事力を強化して、欧米列強に植民地にされず、白人キリスト教徒の奴隷となら、国際情勢を上手く利用して独力で自主独立を守り通した。
 清国は、軍閥による内戦で衰退し、欧米列強の蚕食されて滅亡した。
 朝鮮は、さらに惨めに、宗主国・清国(中国)から見捨て、日本に合邦され消滅した。
 国家の命運は自国民が決める事であり、衰退滅亡は他国ではなく自国に責任がある。
 近代に於ける中国と朝鮮の悲惨な責任は、日本ではなく、それを許した中国人と朝鮮人の責任である。
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 ドイツの歴史的責任とは、国家と特定民族・ユダヤ人との問題である。
 日本の歴史的責任とは、国家と国家の問題である。
 ドイツの問題は民族問題であり、日本の問題は国家間問題である。
 歴史的事実として、人種・民族問題は深刻な問題であるが、国家間問題はそれ程の問題ではない。
 世界史に於いて、侵略して征服した或いは侵略され征服された問題は、人類史の必然でり、その事を取り上げたら人間の歴史そのものが成り立たなくなる。
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 日本は、国家の独立と民族の安全の為に、「一身の独立なくして、一国の独立なし」(福沢諭吉)の信念で、一国のみという孤独な状況にもめげずに、武器を持って死に物狂いで戦い続けた。
 朝鮮は、生きる事を最優先として「独立自尊」(福沢諭吉)という自尊心を捨て、武器を持って戦わず、大国の軍事力に依存して生き延びようとしただけである。
 中国は、「夷を以て夷を制す」として、本気で日本と戦わず、他国の軍隊が介入するのを待ちながら逃げ回っただけである。
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 尊皇派や勤皇の志士は、西洋の侵略に対抗する為に神の裔・天皇を中心に据えた中央集権政府を樹立しようとした。
 世界から侵略戦争を行った戦争犯罪国家と告発される、日本型軍国主義国家の誕生である。
 軍国主義に基ずく殖産興業と富国強兵の両政策が、日本が生き残れる唯一の道であった。
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 日本は、弱肉強食の容赦なき非情な外交交渉を繰り返す事で、如何なる国も自国の国益を拡大する為に、理不尽な要求を武力を背景として強引に押し付けてくる事を痛感した。
 幕末の動乱は、こうして起きていった。
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 ヨーロッパの大地は、同じキリスト教を信仰していながら殺し合い、戦乱による流血が絶えない大地となっていた。
 西洋史の大半は、戦争史であり、平和史はほんの僅かな年数でしかかない。
 西洋のキリスト教文明は、中国・朝鮮の儒教文明同様に、弱肉強食の戦争文明である。
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 1866年 普墺戦争

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