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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022年3月23日10:55 MicrosoftNews 乗りものニュース「対馬海峡を行ったり来たり ロシア海軍の情報収集艦が日本海を往復 防衛省
潜水艦以上に秘密の塊といえる船が対馬沖を航行
防衛省・統合幕僚監部は、2022年3月20日(日)午前2時頃、長崎県対馬の東北東約40kmの海域において、南西進するロシア海軍のヴィシニャ級情報収集艦を確認したと発表しました。
同艦は対馬海峡を南下したのち、対馬の南西約70kmの海域において反転、今度は対馬海峡を北上する形で日本海へ向けて航行したとのこと。
【ロ情報収集艦の動き&海自の多用途支援艦ほか】
© 乗りものニュース 提供 ロシア海軍のヴィシニャ級情報収集艦(画像:統合幕僚監部)。
これに対し海上自衛隊は、長崎県の佐世保基地を母港とする佐世保警備隊所属の多用途支援艦「あまくさ」や、神奈川県の厚木基地に所在する第4航空群所属のP-1哨戒機によって、所要の情報収集や警戒監視を行ったそうです。」
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3月22日23:21 産経新聞「ロシア情報収集艦が対馬海峡往復
© 産経新聞 海上自衛隊が確認したロシア海軍「ヴィシニャ級情報収集艦」(防衛省提供)
防衛省は22日、ロシア海軍の情報収集艦が20日に対馬海峡を南下して東シナ海へ抜けた後、反転して再び同海峡を北上して日本海へ戻るのを確認したと発表した。
海上自衛隊は20日午前2時ごろ、長崎・対馬の東北東約40キロの海域でロシア海軍の「ヴィシニャ級情報収集艦」が南西へ進み、対馬海峡を南下するのを確認。対馬の南西約70キロの海域で反転し、再び対馬海峡を北上して日本海へ向けて航行した。海自多用途支援艦「あまくさ」(佐世保)と哨戒機P1(厚木)が警戒監視を行った。」
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日本の近代化は、ロシアの武力侵略による恐怖から始まった。
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田沼意次の蝦夷地・北方領土開発計画と対ロシア交易計画。
2017-09-17
☭5」─1─田沼意次と蝦夷地・北方領土探索隊。立原翠軒の国難警告。アメリカ・イギリス・ロシアの北太平洋航路探検競争。1738年~No.11No.12No.13・ @ ④
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文化露寇事件。
2018-06-12
☭6」─1─文化露寇事件。徳川幕府はロシアの侵略から日本を守る為に東北諸藩に出兵を命じた。1807年~No.14No.15No.16・ @ ⑤
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徳川幕府は東北諸藩に北方領土と蝦夷地の防衛出兵(約4,000人)を命じた。
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徳川幕府の対露防衛戦略。
2021-01-27
☭7」─1─幕末動乱の原因は徳川幕府と倒幕派の対露防衛戦略体制選択の内戦であった。~No.17No.18No.19・ ⑥
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ロシアの侵略に対する水戸学・尊皇攘夷。
2018-02-01
☭8」─1─バルチック艦隊を撃滅した海洋戦略思想は水戸学の『新論』にあった。幕府海軍。本土決戦思想。~No.20No.21No.22・ ⑦
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対馬事件と討幕。
2017-09-22
☭9」─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.23No.24No.25・ @ ⑧
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徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土・南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土・南樺太に送って防衛任務に当たった。
尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連・共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義・共産主義のイデオロギー侵略が原因であった。
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弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
それが、天皇の国家元首としての統治権であった。
欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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